任 劉 栖 獺 糀 掴 鴇 の 刷 論 説 行政の不作為と国家賠償責任 は じ め に 西 埜 章 の不作為﹂という︶の﹁違法性﹂についてである。違法とは、簡単にいえば、成文・不文の法令に違反することで 件が充足されなければならない。この要件の充足をめぐって最も問題となるのは、行政権の不行使︵以下、﹁行政 行政権の不行使を理由として国家賠償責任が認められるためには、行政権の行使の場合と同様に、国賠法上の要 権についても同じように問題となり得るが、紛争事例の殆どは行政権の不行使をめぐるものである。 半は、公権力の不行使を理由とするものである。公権力の不行使は、行政権についてだけではなく、立法権、司法 緻 国.公共団体の公権力の不行使によって、国民・住民が損害を被る例が少なくない。近時の著名な国賠訴訟の大 そ 1 2 あるが、不作為の場合には、果たして法令に違反しているといえるか否か、その判断は容易ではない。裁量権収縮 論は、この問題に対する一つの解答である。しかし、これに対しては批判的見解も有力である。 裁量権収縮論に立った場合でも、裁量権収縮の要件については、見解が一致しているわけではない。要件の捉え 方については、広狭様々である。これは、結局は、国賠制度のあり方や国の責任の限界についての見解の相違に基 因するものであろう。被害者救済は国賠制度の主要な目的であるが、無制限に国の責任を拡張しようとするもので ユ ない以上、裁量権収縮の要件をどのように捉えるかは、当面の緊要な課題である。本稿では、行政の不作為を理由 とする国家賠償責任について、まず基本的な問題を考察し、次いで裁量権収縮の要件を検討することにする。 ︵1︶ 雄川一郎﹁国家補償総説﹂雄川11塩野11園部編・現代行政法大系六巻三頁参照。 一 違 法 性 と 過 失 国賠法一条一項は、違法性と過失を国家賠償責任の主要な成立要件としている。行政の作為の場合だけではなく ハ て、その不作為の場合にも違法性を帯びる場合があり得ることについては、殆ど異論がないが、行政の不作為の場 合に違法性と過失がどのような関係にあるかについては、必ずしも明確にされてはいない。以下、この点について の学説・判例の動向をみておくことにしよう。 任 蜘 栖 倣 親 掴 儲 躰 微 3 一 学説の動向 学説は、この問題について積極的に取り組んでいるわけではないが、行政の作為の場合と同 様に、一応、次の二つに大別できるであろう。その一は、違法性と過失を峻別しないで一元的に構成しようとする 立場であり、その二は、両者を峻別して二元的に構成しようとする立場である。 一元的構成の代表的論者は、遠藤博也教授と村重慶一判事であろう。遠藤教授は、﹁学校事故、薬害訴訟その他 不作為的不法行為類型の近年におけるめざましい展開は、違法性と故意過失とを峻別する二元的理論構成に対して あらためて再検討を迫っている﹂﹁民事不法行為論においていわれる一元的理論構成を国家賠償責任に持ちこむご ︵2︶ とに対する障害は、あまりない﹂と説かれ、村重判事も、﹁不作為の違法は作為義務違反であるとされているが、 ︵3︶ 結局において、故意・過失も違法性の問題になる﹂と説かれている。また、これに近い立場に立たれるのは古崎慶 このような﹃作為義務︵損害防止義務︶と過失の前提となる注意義務︵損害防止義務︶﹄とは同一であるとされ、 ︵4︶ 長判事であり、﹁公務員の不作為が違法であっても、当該公務員の法的作為義務の違背が、故意又は過失に基づか ないときには、国は責任を負わない。しかし、具体的な場合、公務員に客観的に作為義務が認められる以上、当該 公務員がその義務に違背して作為に出なかったことは、とりもなおさず当該公務員の過失であると評価しなければ ならない﹂と主張されている。 ︵5︶ ︵6︶ これに対して、二元的構成の立場に立たれるのは、沢井裕教授である。沢井教授は、客観的法秩序違反としての 違法性と主観的な帰責性としての過失との区別を再認識すべきであるとされて、次のように説かれている。﹁事後 的知見︵事実審の口頭弁論終結時の知見︶を基準とした客観的外形的な規範違反判断を違法性の問題とし、事前的 知見︵行為時の知見︶における期待可能性判断︵抽象的過失論においては通常人としての行動の期待可能性︶を有 4 ︵7︶ 責性の問題とすれば、細かい論点では見解がわかれうるとしても、基本的な混乱は生じないと思われる﹂と。この 二元的構成に近い立場に立たれるのは都築弘検事であろう。﹁不法行為の行為態様が不作為なときには、違法性の 本質を法益侵害と見るのではなく、義務違反と見るべきであることから、外面的・客観的な作為義務︵製造承認等 の撤回権限等を行使すべき義務︶違反の事実が﹃違法な事実﹄といえよう。そうすると、過失とは作為義務違反の 事実を知りうべきであるのに知らなかったことになろう。このように、作為義務違反はそれが外面的、客観的性格 を有するので違法性の要件であり、過失︵作為義務違反事実の予見義務違反︶は有責性の要件となるのである﹂と ︵8︶ ︵9︶ 説かれている。 二 判例の動向 違法性と過失の関係について、裁判例は明確な区別をしていないものが多い。以下に裁判例 を一瞥しておくことにしよう。 という事件において、最高裁昭和四六年一一月三〇日判決︵民集二五巻八号=二八九頁︶は、﹁本件の前示事実関係のもとでは、 ①土地区画整理事業の施行者︵市長︶が、仮換地上にある建築物等の移転・除却を怠ったため、土地所有者に損害を与えた 岡山市長には、本件換地予定地上の建物を移転または除却して、被上告人をして右土地を使用することを可能ならしめるべき 義務があり、その義務はおそくとも昭和二六年中には履行されるべきであつたものであつて、岡山市長は、過失により右義務 を怠つた違法な不作為のため、被上告人に対し、換地予定地を使用することができないことによる損害を与えたものというべ きである﹂と判示している。 ②高知古ビニール事件において、高知地裁昭和四九年五月二三日判決︵下民集二五巻五∼八号四五九頁︶は、﹁特別清掃区 域についての汚物の収集、処分は、前記清掃法によつて市町村に課せられた法律上の義務であり、この事務を合理的範囲を逸 蜘 栖 任 責 償 と 賠 家 国 政 の 不 作 為 行 5 脱して怠つた結果、第三者に損害を与えたときは、故意、過失の認められる以上、国家賠償法一条一項により損害賠償責任を 負うものと解する﹂と判示している。 ③造成宅地擁壁崩壊事件において、大阪地裁昭和四九年四月一九日判決︵判例時報七四〇号三頁︶は、﹁宅造法の趣旨目的 に照らすと、その状態はまさにB擁壁につきその所有者らに対し同法一六条所定の改善命令を発し、行政代執行法による代執 行の措置によってでもその命令の実効を期し、危険を除去すべき場合に当るとみるのが相当であり、兵庫県知事がこれをしな かったのは著しく合理性を欠き、違法であるというべきである﹂と判示している。 ④新島漂着砲弾爆発事件において、東京地裁昭和四九年一二月一八日判決︵判例時報七六六号七六頁︶は、﹁大量かつ危険 な砲弾類を右のような場所に投棄して危険性発生の原因を作り出した当事者としての被告国は、⋮⋮これらの砲弾類を早急に 回収して、事故の発生を未然に防止すべき法律上の作為義務を負っていたものというべきである。しかるに、被告国がその後 本件事故の発生に至るまでの間右砲弾類を回収せず、これを放置していたことは、被告国の自認するところであるから、この ような被告国の不作為は、右作為義務に違反するものであって違法であり、しかも、前記認定の本件事故発生に至るまでの経 ︵10︶ 緯に鑑みると、被告国は右砲弾類の回収を解怠したことにつき過失があったものといわなければならない﹂と判示している。 ⑤千葉県野犬幼児咬死事件において、東京高裁昭和五二年=月一七日判決︵判例時報八七五号一七頁︶は、﹁知事は、結局、 条例によって認められた野犬等の捕獲、抑留ないし掃蕩の権限を適切に行使しなかったといわざるをえないのであって、ここ に作為義務違反があったものというべく、上記認定の事実によれば少なくとも過失は免れないと認められ︵る︶﹂と判示して いる。 ⑥東京スモン訴訟において、東京地裁昭和五三年八月三日判決︵判例時報八九九号四八頁︶は、﹁厚生大臣は、少なくとも 本件キノホルム製剤の⋮⋮製造・輸入につき、その承認の取消権の分量的一部としての一時停止の規制権限を行使すべき義務 6 があったものというべく、この点において厚生大臣には規制権限不行使の違法があり、かつ、以上の認定事実に照らして過失 を免れないものと認められる﹂と判示している。 ⑦福岡スモン訴訟において、福岡地裁昭和五三年=月一四日判決︵判例時報九一〇号三三頁︶は、﹁本件では、キノホル ム剤が事実上国民の服用するところとならないように、何らかの具体的な行政措置⋮⋮をとらしめるに十分な予見可能性が あったかどうか、を論じればよい。この違法性論における予見可能性を、過失論で述べた予見可能性と全く同一に考えていい かどうかは一個の問題である。というのは、過失論における予見可能性は、あるかないかの問題、即ち質的な問題であるのに 対し、違法性論におけるそれは、どの程度のものか、即ち量的な問題といえるのであり、概念上は同一線上にありながら、現 れる局面が違うからである﹂と判示している。 ⑧警察官が飲酒酩酊した者の所持するナイフを一時保管しなかったために、スナックの支配人が重傷を負わせられたという 事件において、最高裁昭和五七年一月一九日判決︵判例時報一〇三一号=七頁︶は、﹁これらの事情から合理的に判断すると、 同人に本件ナイフを携帯したまま帰宅することを許せば、帰宅途中右ナイフで他人の生命又は身体に危害を及ぼすおそれが著 しい状況にあったというべきであるから、同人に帰宅を許す以上少なくとも同法二四条の二第二項の規定により本件ナイフを 提出させて一時保管の措置をとるべき義務があったものと解するのが相当であって、前記警察官が、かかる措置をとらなかっ たことは、その職務上の義務に違背し違法であるというほかはない﹂と判示している。 ⑨クロロキン薬害訴訟において、東京地裁昭和五七年二月一日判決︵判例時報一〇四四号一九頁︶は、﹁厚生大臣は、従来 認定したとおり、昭和四〇年六月以降、クロロキン製剤のてんかん、腎疾患の適応についてその削除を命ずることなく、また エリテマトーデス、関節リウマチの適応については被告ら製薬会社に対し当該製剤の使用者に向けてク網膜症の副作用警告の 措置を講ずるよう指示せず⋮⋮、漫然と時を過ごしてきたのであって、右権限の不行使は厚生大臣の職務上の義務違反に該当 任 蜀 洒 責 償 賠 家 国 と 為 作 不 の 政 行 7 するものというべく、違法といわざるをえない。⋮⋮厚生大臣及びその補助機関は、その職務遂行上要求される注意力を用い て判断すれば、遅くとも昭和四〇年六月以降厚生大臣において⋮⋮規制措置を講ずべき職務上の義務があるとの事実を認識し 得たものと認めるのが相当である。そうすると、厚生大臣は、前叙の規制措置を講じないことがその職務上の義務に違反する ものであることを知らなかったことにつき過失の責めを免れないものといわなければならない﹂と判示している。 ⑩大東マンガン訴訟において、大阪地裁昭和五七年九月三〇日判決︵判例時報一〇五八号三頁︶は、﹁行使の場合よりも更 に慎重さが要求されるにせよ、不行使の場合においても裁量の範囲を著るしく逸脱し、著るしく合理性を欠くと言えるような 特殊な場合に、不行使を続けると不作為の違法として問責されるであろう。⋮⋮被告国の監督機関の不作為が違法となる期間 は、昭和四〇年頃から昭和四六年夏頃までである﹂と判示している。 ⑪ 福島大腿四頭筋短縮症訴訟において、福島地裁白河支部昭和五八年三月三〇日判決︵判例時報一〇七五号二八頁︶は、﹁被 告国は、本件各筋肉注射剤の製造承認をするにつき、申請者たる被告会社らに対し、その筋組織障害性に関する使用上の指示・ 警告をなすべき義務を課して製造承認をすべき義務並びに右製造承認後において、前記第五の二に述べた各最終注射年月日ま でに筋肉注射剤の筋組織障害性を公表し、被告会社らに対し右同様の指示・警告をなさせるべき義務はなかったことになり、 被告国に右の点に関して違法及び過失は認められないことが明らかである﹂と判示している。 ⑫悪質な宅地建物取引業者に対する知事の監督権限不行使を理由に損害賠償が訴求されたという事件において、京都地裁昭 しは実効性のある指示をしなかったことが、遅くとも昭和五一年一〇月一日以降は著しく合理性を欠き、原告に対する関係で 和五八年七月=日判決︵判例タイムズ五一七号一七五頁︶は、﹁被告知事が㈲誠和住研に対し免許の取消、業務の停止ない も違法とするほかないこと、及び、これについて被告知事に故意もしくは過失の存在することが明らかである﹂と判示してい る。 8 ⑬カネミ油症第一陣訴訟において、福岡高裁昭和五九年三月一六日判決︵判例時報=〇九号四四頁︶は、﹁ダーク油事件 に対応した公務員がそれぞれその義務を尽していれば、食用油による被害発生の危険性を十分予測することができ、国がこれ に基づいて直ちに食品衛生法上の規制権限を行使し、適切な措置を採っていれば、本件油症被害の拡大を、本件油症発生の経 緯、油症の特質に照らし総じて少なくとも三割は阻止することができえたものというべく、一審被告国はその義務を果たさな かった﹂と判示している。 ⑭集中豪雨による山崩れによって隣接住宅地に死傷者が生じたのは県知事が崩壊地の危険性を原告ら住民に知らせるなど適 切な権限の行使を怠ったからであるとして、崩壊地の所有者・元所有者のほか、県と市をも被告にして損害賠償が訴求された という事件︵比島山災害訴訟︶において、高知地裁昭和五九年三月一九日判決︵判例時報一一一〇号三九頁︶は、﹁右の各要 件を充足するときには、公務員について、当該権限を行使すべき義務が生ずるのであるから、その僻怠によって住民に対し法 益侵害の結果を生じさせた場合には、公権力の行使にあたる公務員が、その職務を行うについて、過失によって違法に他人に 損害を加えたものとして、地方公共団体は国家賠償法一条一項によりこれを賠償する責任がある﹂と判示している。 右の裁判例をみてみると、違法性の判断のみで過失の判断がないものと、違法性と過失の両方について判断して いるものとがある。違法性の判断のみで過失の判断のないものは、③⑧⑩⑬判決であり、一応両方について判断し ているのは、12456791 判決である。ただ、後者のグループの中にも、違法性と過失を意識的に区別し ているものと、殆ど意識していないものとの差異が認められる。大半は、﹁過失により違法に﹂とか、﹁過失によっ て怠った﹂とか、あるいはまた﹁違法及び過失﹂といったような表現でもって区別している程度であるが、中には、 意識的に項目を分けて違法性と過失を判断しているものもないではない。⑦⑨判決がそれであり、国.厚生大臣の 任 蜘 栖 責 償 賠 家 国 と 為 政 の 作 不 行 9 規制権限不行使の違法性と国・厚生大臣の過失を明確に分けて判断している。 三 学説・判例の検討 右のように、学説・判例上、一元的構成と二元的構成が対立している。民事不法行為 法における対立が、そのまま国賠法の場に移行したような状況である。しかし、単に民事不法行為法の延長線上で ︵11︶ のみ解決されるべきものではないであろう。国賠法にはそれなりの特殊性があるのである。このような視点からす れば、国賠法一条一項が違法性と故意過失を別個の責任成立要件としていることに留意すべきであり、二元的構成 の方が法文によりよく適合しているということになるであろう。ただ、問題なのは、この場合、違法性と過失をど のようにして区別すべきか、ということである。 二元的構成の立場を代表される沢井教授によれば、事後的知見︵事実審の口頭弁論終結時の知見︶を基準とした 客観的外形的な規範違反判断が違法性の問題となり、事前的知見︵行為時の知見︶における期待可能性判断︵抽象 的過失論においては通常人としての行動の期待可能性︶が有責性の問題となる。この沢井説は、混迷を極めている ︵12︶ 民事不法行為法理論の中では、比較的理解しやすい見解であるといってよい。ただ、この見解は結果不法説に立つ ものであり、この点において、行為不法説に立つ筆者の立場とは相容れないものがある。沢井教授は、﹁違法性は、 単純に﹃客観的要件﹄すなわち﹃結果不法﹄と考えるべきである。絶対権侵害 生命・身体も含めてーは、こ れを侵害してはならないという一般的規範から、当然違法となる︵違法性阻却事由がないかぎり︶。その他の法益侵 ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ へ 害は、個別的注意義務規範への違反によって違法になる⋮⋮。この義務違反の有無は、まさに﹃結果不法﹄観に照 らし、生じた結果から遡及的に、かつ客観的一般的⋮⋮に判断されなければならない。結果に照らし、﹃とるべき へ であった作為・不作為﹄の容態を考え、これを被告がとらなかったことが違法である。これは、客観的行為たる措 10 、 ︵13︶ 置︵不作為も含む︶であり、予見可能性は関係がない﹂と説かれているが、すくなくとも国賠法の領域においては 疑問を払拭できない。結果不法説では、違法性を要件としたことの意義が著しく減殺されることになるのではなか ろうか。国賠法一条一項が違法性を要件としているのは、法律による行政の原理の要請からであるが、この要請に ︵14︶ よりよく適合するのは、結果不法説ではなくて行為不法説であろう。そして、このことは、作為についてだけでは なくて不作為についても同じように妥当するものといってよい。民事不法行為法の領域においてであるが、四宮和 夫教授が、﹁不作為による﹃権利﹄侵害の場合は、結果不法論の下においても、作為義務の存在することが必要で ある。このことは、違法というものが、結果の発生によって生ずるのではなく、人のふるまいを規制する義務︵行 ︵15︶ 為義務︶に人のふるまいが違反することによって生ずるものであることを、示すものと考えられる﹂と説かれてい ることに注目すべきである。 それでは、行為不法説に立つ場合、違法性と過失はどのようにして区別されるべきであろうか。行為不法説を代 ︵16︶ 表される四宮教授によれば、﹁予見可能性と回避可能性とは違法性に、違法性認識可能性と意思形成可能性とは有 責性に、それぞれ関係する﹂ということであるが、この考え方は、若干形を変えて行政の不作為にも妥当するよう に思われる。行政の不作為については作為義務違反が違法性に関係するということについては殆ど異論がないので あり、この作為義務は、後述の裁量権収縮論によれば、予見可能性や回避可能性等の要件を充足することによって 導かれる。他方、過失については、すでに都築検事が、先に紹介したように、﹁過失とは作為義務違反の事実を知 ︵17︶ りうべきであるのに知らなかったこと︵をいう︶﹂と説かれているところである。従って、右の四宮説を国賠法の 場面に適用しても、それほど唐突ということにはならないであろう。ただ、このような区別の仕方が行為不法説に 蜘 栖 任 噸 羅 掴 荊 偽 の 政 行 11 よってこそ適切に説明できるということについては、余り意識されていないようである。 裁判例において、スモン訴訟福岡地裁判決とクロロキン薬害訴訟東京地裁判決が、項目を分けて違法性と過失を 論じていることに注目されるべきである。ただ、前者は、﹁付言するに、国家賠償請求訴訟においては、被告国に 過失による私人の権利侵害行為があれば、違法性も推定されて然るべきものと解される﹂としているから、結局、 一元的構成と大差がないものとなっている。これに対して、後者は、裁量権収縮論を採用して権限不行使の違法性 を認定した上で、﹁国家賠償法一条にいう故意又は過失とは、損害の発生についてではなく、その原因となった公 務員の作為又は不作為が当該公務員の職務上の義務に違反することについての故意又は過失を意味するものと解す べき︵である︶﹂との一般論を展開し、続いて、﹁遅くとも昭和四〇年六月以降厚生大臣において⋮⋮規制措置を講 ずべき職務上の義務があるとの事実を認識し得たものと認めるのが相当である。そうすると、厚生大臣は、前叙の 規制措置を講じないことがその職務上の義務に違反するものであることを知らなかったことにつき過失の責めを免 れないものといわなければならない﹂と述べている。これは、違法性と過失を区別している国賠法一条一項の法文 に忠実に従ったものであり、作為・不作為を問わず二元的構成を堅持しようとする態度を示すものといってよい。 もっとも、実際問題としては、不作為事例においては、違法性の判断過程と過失の判断過程とが大部分重なるとい うことにはなるであろう。後者の判決も、違法性を認定判断したのと同一の事実に基づいて、そのまま簡単に過失 を認定しているのである。 ︵18︶ ︵1︶ 村重慶一﹁公権力の不行使と国家賠償﹂民事研修二一八号六頁参照。 12 ︵2︶ 遠藤・国家補償法上巻一八八頁。 ︵3︶ 遠藤・前掲一九〇頁。 O ︵4︶ 村重﹁国家賠償訴訟﹂実務民事訴訟講座一〇巻三〇五ー三〇六頁。 ︵5︶ 古崎・国家賠償法の理論八〇頁。なお、同﹁国と自治体の責任﹂別冊NBL三号製造物責任八一頁参照。 ︵6︶ そのほか、原田尚彦教授も、違法性と有責性を特に区別されていないようである︵﹁薬害と国家賠償責任﹂ジュリスト 六六三号二八頁︶。民事不法行為法研究者による一元的構成については、淡路剛久﹁公害・環境問題と法理論︵その三︶﹂ ジュリスト八三五号一三〇∼=一二頁参照。 ︵7︶ 沢井﹁損害賠償責任の構造︵上︶﹂法律時報五三巻八号八三頁。なお、同﹁行政の複合的集積的過失と国家賠償法上の 責任ーカネミ油症事件﹂法律時報五五巻六号一五三頁参照。 ︵8︶ 都築﹁厚生大臣の権限不行使と国の責任﹂法律のひろば三五巻五号一八頁。 ︵9︶ そのほか、佐藤英善教授や石橋一晃弁護士も、違法性と過失を一応区別されているようである︵佐藤﹁カネミ油症控訴 審判決と国の責任︵下︶﹂法律時報五六巻九号五八頁、石橋﹁薬害と国の責任﹂全国公害弁護団連絡会議編・公害と国の 責任二一四∼二一五頁︶。 ︵10︶ この事件の上告審判決︵最判昭和五九年三月二三日判例時報一=二号二〇頁︶は、﹁警察官が、かかる措置をとらなかっ たことは、その職務上の義務に違背し、違法であるといわなければならない﹂と述べて、過失については触れていない。 ︵11︶ 藤田宙靖・新版行政法1︵総論︶三八七ー三八八頁参照。 ︵12︶ 沢井・前掲法律時報五三巻八号八三頁。 ︵13︶ 沢井﹁不法行為法学の混迷と展望﹂法学セミナ:二九六号九〇頁。 任 蜘 栖 責 償 賠 家 国 と 為 の 不 作 政 行 B ︵14︶ このような考え方に対して、沢井教授は、﹁国賠訴訟における事後的判断性は、生じた結果の重大性が行為規範、注意 義務の存否・程度に反映する。このことは民事責任の原則としては常識に属するが、国賠責任においては、かかる結果遡 及的判断は排斥され、内部規律的職務違反から出発して違法性を帰結する方式がとられている。法による行政の理念をし んしやくしても、かかる必然性はなく、﹃負担の公平﹄という賠償法理に従わせるべきである﹂と反論されている︵﹁規制 権限不発動と国の責任②﹂法律時報五七巻一〇号八三頁︶。 ︵15︶ 四宮・事務管理・不当利得・不法行為中巻二七九頁。 ︵16︶ 四宮・前掲二八四頁。 ︵17︶ 都築・前掲一八頁。 ︵18︶ 沢井教授は、クロロキン薬害訴訟一審判決について、﹁ここでは、特定の公務員の公法上の︵内部規律上の︶職務義務 と国民個人に対する安全確保義務が不可分的に結合され⋮⋮、前者に違反する違法有責行為でなければ後者はありえない という、硬直した考え方が伺われる﹂と評されている︵前掲法律時報五七巻一〇号八九頁︶。 二 裁量権収縮論 行政の不作為をめぐる最も重要な問題は、違法性の要件についてである。行政の不作為に基づくすべての損害に 対して責任を負うのではなく、違法と評価される場合にだけ責任を負うものである以上、どのような場合に不作為 14 が違法となるのかが明確にされなければならない。裁量権収縮論はその一つの試みであるが、この法理論に対して は批判的見解も有力である。ここでは、裁量権収縮論をめぐる学説・判例の動向を検討し、若干の私見を付加する ことにしよう。 一 学説の動向 裁量権収縮論は、ドイツにおいて、警察権の違法な不発動を理由とする国家賠償請求訴訟に ︵1︶ 関連して承認されたものであるが、戦後は規制権限発動請求権を導出するための理論として再構成された。この理 論は、我が国の国家賠償理論に導入され、現在の支配的学説となっている。その代表的論者は、原田尚彦教授であ ろう。次のように説かれている。﹁伝統的な行政法理論によると、行政権力を発動すべきか否かは、行政庁が公益 的見地から自由に判断すべき事柄であるとされ、行政権限発動の要件が具備していても、行政庁はその自由裁量に よって権限を発動しない自由をもつとされてきた。いわゆる行政便宜主義の法理である。だが、昨今では、いわゆ る裁量権収縮の理論が行政便宜主義の修正理論としてとり入れられ、具体的事情が行政権の発動を強く要請する場 合には、それとの関連において行政庁のもつ裁量の幅が狭まっていき、先に述べたω@ののような事情があるとき には、行政裁量の範囲はついに零に収縮して、行政庁はもはや不作為でとどまる自由を失うと解釈されることになっ た。裁量権収縮の理論は、行政権限不行使にかかわる国家賠償請求訴訟を認容に導く重要な機能を果たしているの である﹂と。 ︵2︶ ところが、このような裁量権収縮論に対しては、批判的見解が少なくない。その代表的論者は、下山瑛二教授と 佐藤教授であろう。下山教授は、次のように主張されている。﹁国民の生命健康に影響を及ぼしうる物質を国が規 制する場合には、国賠法一条の﹃違法﹄の要件は、国民の基本的権利たる生命健康の権利を保障する見地から、公 蜘 栖 任 獺 鶏 掴 利 鴇 の 緻 そ 15 権力行使の注意義務・損害発生防止義務の解怠の有無が判定されるべきで、業者に対する規制権限の違法性の判断 ︵裁量権の喩越濫用︶をもちこむべきではないということになる。この点が曖昧になると、違法性の判断にあたって、 国民の生命健康保持のための安全性確保が、現憲法体系の下では第一義的価値を有するという意義が捨象され、国 民の損害賠償請求権が、行政裁量権の行使上﹃著しい不合理があった場合﹄にのみ特殊例外的に認容されるという ︵3︶ カネミ油症判決のごとき論理構成となってしまうものとおもわれる。﹂同様に、佐藤教授も次のように説かれている。 ﹁﹃裁量収縮論﹄は、行政権発動の義務づけをめぐって、その意義が問われるべきものであって、ただちに国賠訴訟 への適用が許されるかは十分検討を要するところであろう。かりに、それが国賠訴訟に適用されるとしても、前掲 判決のごとく、行政庁の権限行使そのものの合法違法が問われる場合とは必ずしも同一基準では適用さるべきもの ではないと考えられるのである。⋮⋮この論法は、主観的にはともかく客観的には国民の生命・身体・健康の安全 確保を固有の法益として位置づけることへの配慮を欠き、その結果第一義的たるべき法益を第二義的・特殊例外的 ︵4︶ に考慮することになってしまう点で首肯しえない。﹂さらに、室井力教授も次のように主張されている。﹁食品衛生 行政における積極・予防行政論、抗告訴訟と国家賠償請求訴訟との法制度的区別などを理論的基礎とする後者︵批 判的学説、筆者注︶は、国家賠償法一条による救済法理としては、より市民的・合理的かつ説得的であり、前者︵裁 量収縮論︶がなおも伝統的行政法学の枠組にとらわれているのに対し、現代的な行政救済法の新しい地平を拓くも のということができよう。このことは、また、国家賠償法一条の﹃違法﹄概念や﹃公権力の行使﹄概念を抗告訴訟 におけるそれらよりゆるやかに拡大して解する学説判例の理論的正当づけのためにも確認しておいてよい。した がって、たとえば、義務づけ訴訟を肯定すると否とにかかわらず、そこでの﹃違法﹄性と国家賠償請求訴訟におけ 16 る﹃違法﹄性との範囲の相違を否めないとしたら、前述のごとく、国家賠償請求訴訟における反射的利益論の有用 性を説く場合におけると同様に、裁量収縮論者は、なんらかの基準に基づき、裁量収縮の要件について、抗告訴訟 たる義務づけ訴訟におけると異なった判断を示すことにならなければならないであろう。そうだとすると、事柄は ︵5︶ 再び制度の基本に逢着せざるをえないのである。﹂そのほか、石橋弁護士も、次のように批判されている。﹁国の不 作為による不法行為を同じく問題にする場合においても、被害が生命・健康に対する被害であるのか、それ以外の 営業損害などであるのかによって違ってこざるをえない。生命・健康に対する被害が問題になっているときには、 裁量権収縮論以前のものとして、本来的に国の裁量権が﹃収縮﹄してしまっているか、あるいは裁量の余地がなく なってしまっている場合のあることを考えなければならない。かりに、有用性︵有益性︶と安全性とのバランスが 問題になる場合であっても⋮⋮、生命・健康に対する安全性重視の立場が貫徹されていなければならない。したがっ て、被害法益の観点からいうと、薬による生命・健康に対する被害が問題になっているときには、裁量権収縮論の 適用をまつまでもなく、それ以前の問題として作為義務が肯定されるべきであり、裁量権収縮論を持ち込むべきで はない。﹂ ︵6︶ 二 判例の動向 行政の不作為責任を扱った裁判例の中には、裁量権収縮論を採用しているものとそうでない ものとがある。 O 裁量権収縮論に立つ裁判例の主要なものとしては、次のようなものがある︵国・公共団体の責任を肯定した か否かは問わない︶。 ①千葉県野犬幼児咬死事件において、東京高裁昭和五二年=月一七日判決は、﹁法令上は知事が捕獲、抑留ないし掃蕩の 蜘 洒 国 任 責 償 賠 家 と 為 作 不 の 政 行 17 権限を有しているにすぎない場合でも、損害賠償義務の前提となる作為義務との関係では、⋮⋮という場合には、その権限を 行使するか否かの裁量権は後退して、知事は結果の発生を防止するために右権限を行使すべき義務があったものとして、これ を行使しないことは作為義務違反に当ると解するのが相当である﹂と判示している。 ②東京スモン訴訟において、東京地裁昭和五三年八月三日判決は、﹁行政上の監督権の不行使を理由として、行政主体たる 国または地方公共団体が損害賠償責任を問われ得るのは、特殊例外的な場合に限るものといわなければならない。そして、こ の特殊例外的な場合がいかなる要件のもとに肯認され得るかを一般的に立言することは必ずしも容易でなく、これを一義的に 定義づけることはかえって妥当を欠くとも考えられるのであるが、おおむねは、⋮⋮場合には、規制権限を行使するか否かに ついての行政庁の裁量権は収縮・後退して、行政庁は結果発生防止のためその規制権限の行使を義務づけられ、したがってそ の不行使は作為義務違反として違法となるものと解すべきである﹂と判示している。 ③料理店でフグの肝を食べたところ中毒死したので、料理店とそれにフグの肝を販売した鮮魚商のほかに、規制権限の不行 使を理由にして国・県・市に対しても国賠請求がなされたという事件︵フグ中毒死事件︶において、神戸地裁昭和五四年二月 二七日判決︵判例タイムズ三八一号一〇一頁︶は、﹁具体的事案の下で、これらの規制権限を行使しないことが著しく合理性 を欠くと認められる場合には、当該行政庁は、規制権限を行使すべき法律上の義務を負い、これを怠るときは、その不作為は 違法なものとなり、国又は地方公共団体はその結果生じた損害を賠償すべき責任があるもの、と解するのが相当である﹂と判 示している。 ④クロロキン薬害訴訟において、東京地裁昭和五七年二月一日判決は、﹁厚生大臣には医薬品の安全性確保のため薬事法の 解釈上又は条理上本項前記二及び三の諸権限があるものと解すべきであるが、この権限を行使するかどうかは、事柄の性質上 本来は厚生大臣の自由裁量に属するものといえよう。しかし、例外として、⋮⋮ような状況にあるときは、もはや厚生大臣に 18 は右裁量の余地はなく、一義的に、前記三の規制権限の客観的に適切な行使が義務づけられるものと解すべきである﹂と判示 している。 ⑤大東マンガン訴訟において、大阪地裁昭和五七年九月三〇日判決は、﹁被告国の監督機関の長期間の多くの義務とその不 行使につき、旧法及び労働安全衛生法において監督機関に権限が与えられているが、その行使不行使は裁量事項であって、一 般的に、違法の問題は生じない。然し、行使の場合よりも更に慎重さが要求されるにせよ、不行使の場合においても裁量の範 囲を著しく逸脱し、著しく合理性を欠くと言えるような特殊な場合に、不行使を続けると不作為の違法として問責されるであ ろう﹂と判示している。 ⑥福島大腿四頭筋短縮症訴訟において、福島地裁白河支部昭和五八年三月三〇日判決は、﹁前記⋮⋮の権限をどのように行 使し、どのような場合にこれを発動するかは、本来厚生大臣の自由裁量に属するものである。しかしながら、一般に、行政庁 が権限を行使するにあたり、裁量権の限界を越え、あるいはこれを濫用して、国民の権利・自由を侵害するとき、又は、行政 庁が権限を行使しなければ、権限を与えた意義が失われるような事態にあるのに、これを行使しないときは、その権限の行使 又は不行使は、違法とされる﹂と判示している。 ⑦宅地建物取引業者に対する知事の監督権限不行使を理由とする国賠訴訟において、京都地裁昭和五八年七月=日判決は、 ﹁その裁量権限の不行使が著るしく合理性を欠くような場合、すなわち、⋮⋮ような場合に、知事がなお合理的な根拠なくし て右の権限の行使を怠るときには、そのような知事の裁量処分権限の不行使は、知事に処分権限を認めた法の趣旨を無にする ものであって、宅建業法上違法であるとしなければならない﹂と判示している。 ⑧カネミ油症第一陣訴訟において、福岡高裁昭和五九年三月一六日判決は、裁量権収縮論について原審判決︵福岡地裁小倉 支判昭和五三年三月一〇日判例時報八八一号一七頁︶を引用しているが、その原審判決は、﹁食品衛生法上の権限行使は、前 蜘 晒 任 責 償 賠 家 国 と 為 の 作 不 政 行 19 記のとおり、行政庁の自由裁量に委ねられていると解すべきであり、行政庁の自由裁量の範囲内の行為は、あくまで当、不当 の問題であって、違法の問題を生じない、しかし、自由裁量であるといっても、法の枠内の裁量であり、また公益適合性、平 等性、合目的性等の条理上の制約に従うべきものであるから、これに反して裁量権の限界の鍮越や越量権の濫用があったとき は、単に不当なだけではなく、違法な行為となるLと判示している。 ⑨比島山災害訴訟において、高知地裁昭和五九年三月一九日判決は、﹁法が公務員に裁量権を委ねた趣旨は、公務員の恣意 を許すというものではなく、具体的状況に即応した公務員の合理的な措置を期待してのことであるから、⋮⋮以上の各要件を 充足するにもかかわらず、公務員が当該権限を行使しないときは、裁量権につき著しい不合理があるものとして違法の評価を 免れないものと解するのが相当である﹂と判示している。 ⑩カネミ油症第三陣訴訟において、福岡地裁昭和六〇年二月二二日判決︵判例時報=四四号一八頁︶は、﹁行政庁の権限 不行使と国家賠償法一条一項の関係については、食品衛生法上の規制権限を含めて、原則的には、行政庁の権限不行使は、行 使同様、その自由裁量に属し、当、不当の問題にとどまり、違法の問題を生じない。しかしながら、⋮⋮の要件を満たす場合 においては、行政庁にはもはや自由裁量の余地はなく、権限を予防的に行使する法律上の義務を負うものであって、その権限 不行使は国家賠償法上の違法性を帯びるに至る﹂と判示している。 ⑪山梨大腿四頭筋短縮症訴訟において、東京地裁昭和六〇年三月二七日判決︵判例時報=四八号三頁︶は、﹁医薬品の製 造承認︵許可︶およびその取消等は、その事柄の性質上高度の専門的技術的判断を要するものであるから、そこにある程度の 裁量性があることは、これを肯認せざるを得ないものというべきである。従って、厚生大臣の右規制権限の不行使がその義務 に違背するものとして、国賠法一条一項にいう違法と評価されるのは、⋮⋮場合であって、その規制権を行使しないことが右 裁量の範囲を超え、著しく合理性を欠くと認められる場合に限られるものというべきである﹂と判示している。 20 O 裁量権収縮論に立たない裁判例としては、次のようなものがある。裁量権収縮論に立たないとはいっても、 実質的には裁量権収縮論と大差がないものといってよいが、ここでは一応、裁量権収縮に触れないで作為義務を導 いているものをいくつか挙げておくことにしよう。 ①福岡スモン訴訟において、福岡地裁昭和五三年=月一四日判決は、﹁国民の生命・健康の保全という崇高な目的を達成 すべき被告国の薬務行政において、医薬品の安全性が疑わしくなり、欠陥医薬品ではないかと思わしめる情報があるとき、そ ︵7︶ こに自由裁量性が入りこむ余地はないのであって、あるのはいかにして医薬品の安全性を確保するかである﹂と判示している。 ②新島漂着砲弾爆発事件において、最高裁昭和五九年三月;二日判決︵判例時報=一二号二〇頁︶は、﹁警察官は、人の 生命若しくは身体に危険を及ぼし、又は財産に重大な損害を及ぼす虞れのある天災、事変、危険物の爆発等危険な事態があっ て特に急を要する場合においては、その危険物の管理者その他の関係者に対し、危険防止のため通常必要と認められる措置を とることを命じ、又は自らその措置をとることができるものとされている︵警察官職務執行法四条一項参照︶。もとより、こ れは、警察の前記のような責務を達成するために警察官に与えられた権限であると解されるが、・:・:状況のもとにおいて、か かる状況を警察官が容易に知りうる場合には、警察官において右権限を適切に行使し、自ら又はこれを処分する権限・能力を 有する機関に要請するなどして積極的に砲弾類を回収するなどの措置を講じ、もって砲弾類の爆発による人身事故等の発生を 未然に防止することは、その職務上の義務でもあると解するのが相当である﹂と判示している。 三 学説・判例の検討 学説・裁判例の大勢は裁量権収縮論を採っているが、反対説も有力であるので、以下、 若干の検討を行なうことにしよう。 行政の不作為のすべてに対して損害賠償責任を負うべきものではないとすれば、国・公共団体の賠償責任を限界 岱 栖 任 づける基準が必要となる。国賠法一条は違法性を責任成立要件の一つとしており、これは作為・不作為に共通する ︵8︶ 要件であるから、右の限界設定基準は﹁違法性﹂であるといってよい。違法性は、国の責任を限界づけると同時に、 ︵9︶ 国の責任︵不作為の場合も含めて︶を根拠づけてもいるのである。従って、国の責任が生ずるためには、不作為が ︵10︶ 違法と評価されるものでなければならない。不作為が違法となるのは、作為義務に違反する場合であるから、まず 行政側に作為義務が認められなければならないということになる。学説・判例上の対立は、結局、この作為義務を どのようにして導き出すかということに端を発している。作為義務が明文で法定されている場合には、それほど問 題は生じないが、法定されていない場合には意見が分かれてくることになる。この点については民法においても ある。ただ、作為義務が法定されていない場合でも、条理︵法︶に基づいて作為義務が導出される場合があり得る であり、確かに、被害者救済に資する考え方であるといってよい。しかし、生命・身体・健康の被害が発生すれば このような批判は、もっぱら生命・身体・健康の被害の発生に着目して不作為の違法性を判断しようとするもの 直裁に作為義務違反を導き出すことができるというわけである。 問題になっているのであり、このような場合には行政側に規制権限行使について裁量の余地はないから、従って、 をめぐってなされている。すなわち、食品・薬品公害のような場合には、国民の生命・身体・健康に対する侵害が は批判的見解が少なくない。批判的見解は、主として、食品・薬品公害における行政主体の監督規制権限の不行使 裁量権収縮論は、右の作為義務を導き出すための一つの試みである。ただ、先に紹介したように、これに対して ︵11︶ 獺 糀 ということについては、学説・判例上、大体一致しているものといってよい。 同じような問題があるが、民法理論と同じように考えるべきか否かについては、若干見解が対立しているようで 掴 備 躰 徹 21 22 直ちに作為義務が導出できるとすることには、やや論理の飛躍があるように思われる。食品・薬品公害の場合であっ ても、ある程度は行政側に裁量の余地はあるのであって、作為義務の存在を肯定することができるためには、損害 結果の発生に着目するだけでは不十分なのではなかろうか。この意味において、原田教授が、﹁薬事行政等が国民 の健康や安全を守るのを本来の目的とするとしても、薬剤の許否は薬の有効性、安全性さらにはその発展性などを 比較考量して決められる問題であるから、副作用があったり、不当に用いられるおそれがあるからといって、ただ ちに無条件かつ全面的に禁止さるべきであるというのは、少々いいすぎである。そしてそうだとすると、薬事行政 にいわば絶対的な結果責任を課し、健康被害が起これば原則的に行政責任を肯定すべきだとするわけにはいかない のであって、やはり規制の可否や程度の判断は、ある範囲で行政裁量に委ねられていると解するのが、自然ではな と説かれているのは・的確な指摘というべきであろ㍉沢井教授も・﹁医薬品について副作用があっても有 い︵ 効性とのかねあいで、承認するか否かの裁量が、業者との関係のみならず︵営業自由の側面で︶、狭いとはいえ、 国民との関係においても︵健康保持の側面︶存在すると考えるべきだし、食品については、有害食品を許容する裁 量はないとはいえ︵しかし、食品添加物、防腐剤については微妙である︶、すべての食品製造・販売過程を規制す ることは不可能である以上、規制権限の行使は、営業の自由と予想被害の程度・発生確率とのかねあいで、業者と の関係のみならず、国民との関係においても、行政庁に、ある程度の裁量の余地のあることを認めざるをえず、し ︵13V たがって、国民の生命・健康保持の観点からの裁量権収縮の理論の適用が必要となる﹂と説かれている。 もっとも、批判的見解といえども、全く裁量の余地を認めないというものではないようである。すなわち、批判 的見解によれば、﹁専門技術的にみてもかかる危険性許容の判断に、一定の認容範囲の生じうることは認めねばな 償 璽 洒 任 責 賠 家 と 国 為 政 の 不 作 行 23 らない。しかし、これを仮りに裁量と称すならば、その裁量の幅は、もともと北陸スモン判決の指摘するがごとく ﹃狭い﹄ものでなければならぬといわざるをえない。それはいわゆる﹃裁量権収縮の理論﹄が唱える裁量権と義務 ︵14︶ づけの関係ではないものと考える﹂、あるいは、﹁裁量権をまったく認めないわけではなく、ただそれが個々の国民 ︵15︶ に対する安全性確保義務履行上のものであって、もともと質の異なるものであることを述べるにすぎない﹂という ことになる。しかし、たとえ質が異なるにせよ、このように行政の裁量をいくらかでも肯定するのであれば、この 場合の不作為の違法性を導き出すためには、裁量権収縮論によるのがより理論的であるといえるのではなかろうか。 裁量権収縮論に批判的な論者は、前述のように、業者に対する規制権限行使の違法性の判断︵裁量権の鍮越濫用︶ を持ち込むべきでないと主張している。確かに、これまでは、裁量権収縮という場合の﹁裁量権﹂は、業者に対す る規制権限行使についての裁量権の側面だけが問題にされているような感じを与えてきたかもしれない。しかし、 仔細に検討すれば、裁量権収縮論は、決して業者の利益だけを考慮しようとするものではない。裁量権収縮論にお ︵16︶ いても、行政庁は国民の安全性を考慮しながら裁量権を行使しなければならない、と考えられているのである。し かも、この場合の裁量権収縮の判断は、原田教授が指摘されているように、被規制者である事業者の自由と被保護 ・ ⋮ ︵17︶ 者である国民の利益との両面を十分に配慮して統一的になされるべきものである。そして、このような考え方に立 てば、むしろ、批判的見解が、名宛人に対するのと第三者に対するのとでは権限行使の﹁質﹂が異なることを強調 すること自体に、疑問が提起されるべきことになるであろう。 このように考えると、裁量権収縮論とそれに対する批判的見解には、実は、それほど大きな隔たりがあるわけで はないということになる。阿部教授が、﹁ここでは第一に、医薬品の製造承認、撤回等を自由裁量としつつ、裁量 24 濫用ないし裁量権のゼロへの収縮の論法により国の作為不作為を違法とする論理︵金沢、東京判決︶と、こうした 迂回路を通らないで直裁に国の行為の違法を導く論理︵福岡判決︶とが対立している。考え方はいかにも異なるよ うであるが、前者の論法でも生命健康に重大な危害をもたらす医薬品にかんしては裁量濫用ないし裁量のゼロへの ︵18︶ 収縮が認められるのは当然で、後者の論法とは実質的には異なるものではあるまい﹂と説かれ、原田教授が、﹁裁 量権収縮論は法的推論の道順を示す一般的な天秤であり、健康権の方は、その天秤に乗せるいわば最重要な分銅の 一つだというべきであろうか。そうした意味で、筆者は、裁量権収縮論と健康権論とは、けっして相互排斥の関係 ︵19︶ にある法理ではなく、別次元に属する論理であるとおもっている﹂と説かれていることに注目すべきであろう。裁 判例の中にも、このことを示しているものが見受けられる。山梨筋短縮症訴訟一審判決がその代表的な例であるが、 同判決は次のように述べている。﹁各薬事法がその維持、増進を目的とする公衆衛生とは、国民個々人の生命、身 体、健康という法益の集積にほかならないから、国民個々人の生命、身体、健康という法益の確保は右各薬事法が 本来保護の目的とするものというべきであり、この意味において、医薬品の安全性確保のために厚生大臣に課せら れた責務は、国民各個人に対する義務であるということができる。しかしながら、他面において、医薬品の製造承 認︵許可︶およびその取消等は、その事柄の性質上高度の専門的技術的判断を要するものであるから、そこにある 程度の裁量性があることは、これを肯認せざるを得ないものというべきである﹂と。この判決は、厚生大臣の医薬 品安全確保義務を肯定しながらも、裁量権収縮論を採用したものである。批判的見解は、食品・薬品公害訴訟にお ける国側の主張に対する批判としては適切な点が少なくないが、裁量権収縮論に対する批判としては、必ずしも正 鵠を射ているとはいえないように思われる。 蜘 栖 任 噸 糀 掴 利 鴇 の 政 行 25 裁判例の中には、前述のように、裁量権収縮論によらないで直裁的に作為義務を導出しているように見受けられ るものもないではない。それ故、例えば、新島漂着砲弾爆発事件上告審判決について、﹁本件判決は、作為義務違 反という構成をとってい︵20︶る﹂との見方があるし・福岡スモン判決について、﹁直裁に行政庁の義薇怠の存否を問 う勘﹂との見方があるのである・しかし・新島漂着砲弾爆発事件上告審判決も、﹁島民が居住している地区から さほど遠からず、かつ、海水浴場として一般公衆に利用されている海浜やその付近の海底に砲弾類が投棄されたま ま放置され、その海底にある砲弾類が毎年のように海浜に打ち上げられ、島民が砲弾類の危険性についての知識の 欠如から不用意に取り扱うことによってこれが爆発して人身事故等の発生する危険があり、しかも、このような危 険は毎年のように海浜に打ち上げられることにより継続して存在し、島民等は絶えずかかる危険に曝されているが、 島民等としてはこの危険を通常の手段では除去することができないため、これを放置するときは、島民等の生命、 身体の安全が確保されないことが相当の蓋然性をもって予測されうる状況のもとにおいて、かかる状況を警察官が 容易に知りうる場合には、警察官において右権限を適切に行使し、自ら又はこれを処分する権限・能力を有する機 関に要請するなどして積極的に砲弾類を回収するなどの措置を講じ、もって砲弾類の爆発による人身事故等の発生 を未然に防止することは、その職務上の義務でもあると解するのが相当である﹂と述べているのであり、この判示 ︵22︶ 部分からすれば、裁量権収縮論に依拠しているものと理解する余地もないわけではない。 同じことは、福岡スモン判決や群馬スモン判決︵前橋地判昭和五四年八月二一日判例時報九五〇号三〇五頁︶に ついてもいえるであろう。福岡スモン判決は、﹁確かに右のような被告国の行為が専門的、技術的判断を伴うもの という意味で自由裁量行為に属する面のあることは否定できない。しかし、国民の生命・健康の保全という崇高な 26 目的を達成すべき被告国の薬務行政において、医薬品の安全性が疑わしくなり、欠陥医薬品ではないかと思わしめ る情報があるとき、そこに自由裁量性が入り込む余地はないのであって、あるのはいかにして医薬品の安全性を確 保するかでしかない。換言すれば、医薬品の安全性を確保するために、いかなる具体的方策をとるべきかには裁量 性が入り込んでくるのは当然のこととしても、その方策を何らとらず、放置、黙認することは許されないのである。 ⋮⋮しかし、右のようにいうことは医薬品の安全性にどの程度の疑惑がでてきたときに︵即ち、予見可能性がどの 程度にまで高まったときに︶、どの程度のことをしたらいいのか︵即ち、どの程度の行為をしたら違法性がなくな るのか︶という問題を不問にしていいというのではない。本件では、昭和四五年︵一九七〇年︶九月被告国による キノホルム剤等の使用中止等の行政措置がとられるまで、被告国は何もしていないのは、被告国が自白していると ころであるから、昭和四五年九月の時点に至るまで、被告国には何もしなくてもいいだけの予見可能性しかなかっ たのか、そうでないとしたら、どの時点までその可能性を遡らせることができるか⋮⋮ということが論じられねば ならない﹂と述べているし、また、群馬スモン判決も、﹁被告国は、厚生大臣の医薬品についての製造承認等は自 由裁量行為であり、又は少くとも製造承認等には厚生大臣の裁量的判断にゆだねられている部分があると主張して いる。しかし、厚生大臣が医薬品について危険な副作用の存在を予見して製造承認等をしないことその他の対応措 置をとる場合には、国民の健康に関することなので、厚生大臣の裁量が入り込む余地はないといわなければならず、 医薬品の安全性に関する限り厚生大臣は厳格に執行することが義務付けられていると解すべきである﹂と述べてい る。一見する限りでは、裁量権収縮論に反対する立場に立脚しているように見受けられないではない。しかし、両 判決がいうように、﹁医薬品の安全性が疑わしくなり﹂、あるいは、﹁危険な副作用の存在を予見した場合﹂には、 裁量の余地がないのは当然であって、裁量権収縮論においても、裁量がゼロに収縮している場合である。従って、 右判決が裁量権収縮論と真っ向から対立しているとの見方には、やや疑問が残るところである。両判決が批判して いるのは、むしろ国の主張する自由裁量論であり、自由裁量論自体は、裁量権収縮論の不可欠の要素ではないと考 ︵2︶ 原田・行政責任と国民の権利九八ー九九頁。 ︵1︶ 原田・環境権と裁判一九六頁以下、阿部泰隆﹁義務づけ訴訟論﹂公法の理論下H二=二二頁以下参照。 えるべきであろう。 ︵23︶ 任 蜀 栖 ︵3︶ 下山﹁食品・薬品公害と国の責任﹂法律時報五〇巻五号一七頁。なお、同﹁薬害における国の責任構造﹂ジュリスト六 五月一〇日判例時報九五〇号五三頁、京都地判昭和五四年七月二日判例時報九五〇号八七頁、大阪地判昭和五四年七月三 ︵7︶ そのほか、同旨のスモン判決としては、広島地判昭和五四年二月二二日判例時報九二〇号一九頁、札幌地判昭和五四年 六号一一ー=一頁、淡路・前掲一二八頁。 現代行政法大系六巻一七一∼一七二頁、山村恒年﹁薬事行政過程における安全管理法理の論点と課題﹂判例タイムズ三七 ︵6︶ 石橋・前掲二一八頁。そのほか、同旨のものとして、三橋良士明﹁不作為にかかわる賠償責任﹂雄川11塩野回園部編. ︵5︶ 室井﹁カネミ訴訟控訴審判決について﹂ジュリスト八一六号一五頁。 照。 ︵4︶ 佐藤﹁食品・薬品公害をめぐる国の責任2﹂法律時報五一巻七号七八頁。なお、同・前掲法律時報五六巻九号五八頁参 七四号五六ー五七頁参照。 償 責 賠 家 国 と 為 作 不 の 政 行 27 28 一日判例時報九五〇号二四一頁、前橋地判昭和五四年八月二一日判例時報九五〇号三〇五頁がある︵古崎﹁スモン訴訟と 国の責任﹂判例時報九五〇号二一頁、石橋・前掲二一九∼二二〇頁参照︶。 ︵8︶ この点については、裁量権収縮論を支持するか否かにかかわらず、同じである︵例えば、下山﹁国家賠償責任に関する 理論的問題﹂法律時報五三巻八号七八頁参照︶。 ︵9︶ 行政の不作為責任の論拠として、﹁公共信託論﹂が説かれている︵下山・前掲法律時報五三巻八号七八頁︶。公共信託論 自体に異論はないが、あえてこのような考え方を持ち出さなくても説明できるように思われる︵古崎﹁国と自治体の責任﹂ 別冊NB L 製 造 物 責 任 八 一 頁 参 照 ︶ 。 ︵10︶ 民事不法行為法の領域においても、﹁不作為については、特別の前提条件が必要である。単なる不作為だけでは、その 主体や作為の内容を特定することができないし、他人の﹃権利﹄を侵害する危険性を考えることもできないからである。 不作為が作為と肩を並べるためには、不作為者が特に一定の行為︵ここでは、それは結果の発生を防止する行為である︶ をなすべき義務︵作為義務︶を負っていなければならない﹂と説かれている︵四宮・前掲二九二頁︶。 ︵11︶ 三橋.前掲一五七頁、白井皓喜﹁国の不作為と国家賠償責任﹂自治研究五四巻九号二八ー三〇頁等参照。 ︵12︶ 原田﹁裁量権収縮論﹂法学教室五四号七三頁。なお、阿部﹁薬事法の性格と薬害に対する国家賠償責任﹂判例タイムズ 三七六号五二頁参照。 ︵13︶ 沢井﹁損害賠償責任の構造︵中︶﹂法律時報五三巻九号一二二頁。 ︵14︶ 下山・前掲ジュリスト六七四号五七頁。 ︵15︶ 室 井 ・ 前 掲 一 六 頁 注 ︵ 1 0 ︶ 。 ︵16︶ 裁判例においても、例えば、フグ中毒死事件神戸地裁判決が、﹁これら規制権限の行使が、前記のとおり公衆衛生の増 任 蜘 栖 国 責 償 賠 家 と 為 の 作 不 政 行 29 進を図り国民生活の安全の確保を目的としながらも、他方、それが本来の自由であるべき個人の活動を制限することを考 慮するならば⋮⋮﹂と述べているのは、このことを意味しているものといえるであろう。 ︵17︶ 原田・前掲法学教室五四号七四頁。 ︵18︶ 阿部・前掲判例タイムズ三七六号五二頁。 ︵19︶ 原田・前掲法学教室五四号七五頁。 ︵20︶ 芝池義一﹁新島漂着砲弾爆発事故上告審判決﹂判例評論三一一号一五頁。なお、川上宏二郎﹁新島漂着砲弾爆発事件﹂ ジュリスト八三八号昭和五九年度重要判例解説三八頁参照。 ︵21︶ 室井・前掲一六頁注︵10︶。なお、古崎・前掲判例時報九五〇号二四頁、都築・前掲一六頁、佐藤.前掲法律時報五一巻 七号七五頁等参照。 ︵22︶ 原田﹁漂着砲弾爆発事故と警察の事故防止義務違反﹂民商法雑誌九二巻三号四〇〇頁参照。 ︵23︶ 兼子仁・行政法総論三二二頁参照。 三 裁量権収縮の要件 裁量権収縮論に立つとしても、裁量権収縮の要件をどのように捉えるかについては、必ずしも意見が一致してい るわけではない。裁量権収縮の要件を緩和しようというのが最近の傾向であるが、これにも一定の限界がある筈で 30 ある。 裁量権収縮論の代表的論者である原田教授によれば、﹁④人の生命、身体、財産、名誉など行政法規の保護法益 への顕著な侵害が予想され、◎こうした危険が行政側の権力の行使によって容易に阻止できると判断できる状況に あり、かつ、⑳民事裁判その他被害者の個人的努力では危険防止が十分には達成されがたいものと見込まれる事情 のあるときには、行政庁側に認められた裁量の幅は、裁量条項の適用においても、極端に収縮し、ついには行政庁 には権限を行使せずにいる自由は失われて、積極的に介入し、危険防止をはかる以外の選択はあ?凡なくな親﹂と いうことである。これらの要件は、項目別にすれば、①被害法益の対象性、②具体的危険の切迫性、③予見可能性、 ︵2︶ ④結果回避の可能性、⑤規制権限発動の期待可能性、ということになるであろう。以下、それぞれの要件について、 学説・判例の動向を考察し、若干の私見を付加することにする。 一 被害法益の対象性 被害法益の対象性とは、被害法益が生命・身体・健康に限定されるべきであるか、そ ︵3V れとも財産もそれに加えられるべきであるか、ということである。前述のように、原田教授は、生命・身体だけで はなく、財産・名誉も含まれており、古崎判事も、﹁国民の生命、身体、財産に対するさしせまった重大な危険 ︵4︶ ︵5︶ ︵6︶ 状態 ﹂ と 説 か れ て い る 。 これに対して、沢井教授は、﹁国民の生命、身体に対する具体的危険﹂と説かれ、阿部教 ︵7︶ 授も、﹁国民の生命・健康に対する危険﹂と説かれており、そこでは財産は挙げられていない。 裁判例においても、財産を挙げているものと挙げていないものがある。前者の例としては、カネミ油症第二陣訴 訟一審判決︵福岡地小倉支判昭和五七年三月二九日判例時報一〇三七号一四頁︶は、﹁国民の生命、身体、財産に 対する差し迫った危険﹂としており、比島山災害訴訟一審判決も、﹁住民の生命、身体及び財産に対する法益侵害 蜘 栖 任 獺 嬬 掴 鴇 の 刺 政 行 31 の具体的な危険﹂としている。これに対して、後者の例としては、東京スモン判決は、﹁国民の生命・身体・健康 に対する殿損という結果発生の危険﹂とし、カネミ油症第一陣訴訟一審判決及び同控訴審判決は、﹁国民の生命、 身体に対する具体的危険﹂としている。裁判例としては、後者に属するものが比較的多いといえるであろう。この ほか、裁判例の中には、被害法益の種類を具体的に挙げないで、単に﹁損害﹂あるいは﹁権利﹂とだけしかいって いないものも散見される。例えば、千葉県野犬幼児咬死事件控訴審判決は、﹁損害という結果発生の危険﹂として おり、カネミ油症第三陣訴訟一審判決も、﹁国民の権利に対する差し迫った危険﹂といっているにすぎない。なお、 宅建業者に対する知事の監督権限不行使を理由とする国賠訴訟において、京都地裁判決は、﹁取引の関係者に損害 の生ずる危険﹂といっているが、この場合は、事柄の性質上、財産的損害を指しているものと考えてよいであろう。 このように、学説・判例において、被害法益の種類として財産を挙げているものと挙げていないもの、さらに損 害あるいは権利という広い概念を使用しているものとが区別される。損害、権利という広い概念を使用している場 合には、この中に財産を含めているものと考えてよいが、生命・身体・健康だけしか挙げていない場合に財産を含 めない趣旨であるのか否かは、これだけから速断すべきではない。おそらく、行政の不作為事件としては、これま で食品・薬品公害におけるように国民の生命・身体・健康の被害が問題となる例が大半であったために、それに焦 点をあてて論じていただけであって、財産を除外する趣旨ではないであろう。通常は、生命・身体・健康の被害が 問題となるにしても、一般論としては、財産を除外する理由は乏しいように思われる。ただ、財産については、裁 量権収縮の要件は、生命・身体・健康についてとは異なり、比較的厳格に解されることにはなるであろう。カネミ 油症第三陣訴訟一審判決が、﹁食品製造には絶対的安全性が要求され、一旦事故が発生すれば大量発生の可能性が 32 存するのであるから、国民の生命、健康に関する行政庁の権限を違法とする要件を、他の被害法益に関すると同様 に、あまりに厳格に制限することは、食品工業の利潤を追求する権利以上に尊重されるべき国民の基本的権利たる 生命、身体、健康の安全が保障される権利を容易に危殆に瀕せしめるおそれなしとしないからである﹂と述べて、 生命・身体・健康とその他の被害法益︵財産等︶を区別して扱っているのは、この意味において妥当であるといっ てよい。 一一具体的危険の切迫性 この要件は、さらに、﹁危険性の程度﹂の問題と﹁切迫性の程度﹂の問題の二つに 分けて考えることができる。 危険性の程度については、学説上は一般に、抽象的危険では不十分であって、具体的危険でなければならないと 解されている。裁判例においても、この点を明言しているものが少なくない。例えば、比島山災害訴訟一審判決は、 ﹁住民の生命、身体及び財産に対する法益侵害の具体的な危険﹂を要件としているし、同じく山梨筋短縮症訴訟一 審判決も、﹁国民の生命、身体、健康に対する差し迫った具体的な危険﹂を要件としている。抽象的危険の程度では、 行政の不作為を違法と評価するには不十分であろうから、この考え方には一応賛意が表されてよいであろう。 ところが、これに対しては、裁量権収縮論に批判的な立場からではあるが、抽象的危険で足りるとの見解が主張 されている。佐藤教授は次のように説かれている。﹁われわれの過失論︵ここではその中核としての予見可能性︶ の出発点は、⋮⋮食品・薬品公害がひとたび発生すると人の生命・身体に回復困難な侵害を与えることとなること から、いかにしてこのような事故を未然に防止するかであり、そのためには、危険の発生に対する具体的予見性で は、一般に手おくれとなることが多いことから、危険のより抽象的予見の段階で予見可能性をとらえることにある。 劉 晒 任 獺 親 ⋮⋮国賠法上の予見可能性を理解する前提として、このような諸点を考慮した場合、食品・薬品公害賠償訴訟にお ける予見可能性は、抽象的危険の予見可能性をもって足りると愛るべきであるように思わ祉麗﹂と・ただ・佐藤 教授は、続けて、﹁なまの抽象的危険の予見可能性では、結局、無過失責任を強いることと変わらないこととなる ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ へ ことから、まだ危険性自体は抽象的ではあるが、﹃その発生の可能性が極めて大きい場合﹄とか﹃極めて容易に予 へ 想される場合﹄︵それを蓋然性と呼んでもよい︶といった一定のしぼりをかけた抽象的予見可能性を措定すべきで あろう﹂と説かれているから、次に述べるように、﹁切迫性﹂の要件を緩和しようとする立場と実質的にはそれほ ︵9︶ ど大きく相違するものではないといえそうである。 次に、切迫性の程度についてであるが、最近、この要件を緩和しようとする見解が有力になりつつある。阿部教 授がカネミ油症訴訟に関連して、﹁国民の生命・健康に対する危険は切迫しなくとも、その蓋然性の存在で十分で ︵10︶ 裁判例においても、例えば、フグ中毒死事件における前記神戸地裁判決は、﹁この場合の予見可能性は、単に一 件とはいえないであ無﹂と説かれているのが・その代表的な例で裁・ 性の要件に代わるものとして位置づけることができる。いずれにしても、危険の切迫性は不作為責任の不可欠の要 要件とし、危険の切迫性を要件から外すことも考えられる。そして、本件の継続的危険状況の要件は、危険の切迫 後者の配慮は余り妥当性をもたないし、また、前者の懸念に関しては、他に適切なメルクマールがあれば、これを や被規制者の権利利益への配慮などの現実的考慮によるものと考えられるが、そうであるとすれば、本件の場合、 あ︵る︶﹂と説かれ、また、芝池教授が、新島漂着砲弾爆発事件に関連して、﹁不作為責任の要件として危険の切迫 掴 性があげられるのは、前述のように、法論理的要請にもとつくものではなく、行政の任務拡大・責任拡張への懸念 の 鴇 利 政 行 33 34 般的抽象的にフグ中毒死事故発生の可能性の認識では足りないが、他方、具体的に被告田中の店における事故発生 の予見可能性までは必要ではなく、神戸市内における被告田中と同種の店での被害の発生が相当程度の蓋然性をも つて予見できれば足りると解され、本件も右要件を充足しているものと認められる﹂と述べている。また、カネミ 油症第一陣訴訟控訴審判決は、﹁その安全性を疑うべき具体的徴表が存するときは勿論、それに連なる蓋然性の高 い事象が存する場合は、行政庁はもはや自由裁量の余地はなく、規制権限を予防的に行使する法律上の義務を負う ものというべきである﹂と述べており、第三陣訴訟一審判決も、被害法益が国民の生命・身体.健康であるときは、 危険の切迫性は不要であるとしている。そのほか、自然現象による災害についてであるが、比島山災害訴訟一審判 決は、﹁少なくとも本件事案のように自然現象による災害について論ずる場合には、右にいう具体的危険の予見と は、自然現象の発生をいわば定量的に表現して、時期、場所、規模等において具体的に予知、予測することを意味 しないというべきである。⋮⋮その発生の危険が蓋然的に認められる場合には、当然自然現象の発生に対応した防 災措置が行政に要請されるものといえるから、右要件の具体的危険の予見も、このような意味での定性的予見で足 りるものと解するのが相当である﹂と判示している。 生命・身体・健康の安全性の確保という要請からすれば、この要件を緩和する方向に進むべきである。ただ、危 険の﹁切迫性﹂を﹁蓋然性﹂に置き代えた場合、先に否定した抽象的危険性に接近していくことになるから、結局、 危険性の程度は、抽象的危険と具体的危険の中間に求められるということになるであろう。この意味において、前 記佐藤説とはそれほど相違するものではない。 三 予見可能性 右のような意味での具体的危険の切迫性が存在したとして、次に、行政側でこれを予見する 蜘 栖 任 獺 糀 掴 偽 躰 徹 35 ことが可能な状況であったことが必要である。裁判例においては、例えば、東京スモン判決は、﹁行政庁において 右の危険の切迫を知りまたは容易に知り得べかりし情況﹂と述べているし、カネミ油症第二陣訴訟一審判決も、﹁行 政庁において右危険の切迫を知りまたは容易に知り得べき状況﹂と述べている。しかし、この点についても、近時、 その緩和が主張されている。阿部教授が、﹁行政がその危険を容易に知りうるという要件も、行政が権限を駆使し てよい。現代国家における行政機能の拡大と国民の行政依存度の増大に鑑みれば、﹁容易に﹂ということは、余り ︵13︶ て調査すればその危険を知りうる、ということで十分である﹂と説かれているのが、その代表的なものであるといっ ︵14︶ 強調されるべきではないであろう。しかし、他方、この予見可能性の要件を不要として、﹁結果として損害が発生 しているのだから、実は行政庁はその判断時において広い裁量の幅を持っていなかったのであり、すくなくとも国 ︵15︶ 民に損害を発生させないようにその裁量を行使しなければならなかったはずである﹂という結果論的構成を採るこ とにも疑問が残るところである。結果論的構成では、行政に不可能を強いることとなるおそれがあるからである。 この要件の緩和に関連して最近論議されているのは、国の行政機関相互間の連絡通報義務の存在である。カネミ 油症第一陣訴訟控訴審判決は、次のようにいう。﹁食品の生産流通を職務とする農林省係官が、自己の職務を独自 に執行中であっても、その過程で右のような食品の安全性を疑うような事実を探知し、食品の安全性について相当 な疑いがあれば、食品衛生業務を本来の職務としないとはいえこれを所管の厚生省等に通報し、もって権限行使に ついての端緒を提供する義務を負うものと解すべきである。けだし、複雑多様化した現代社会の仕組みの中で、自 己本来の職務の殻にとじこもり、その範囲外のこととして等閑視し、行政庁相互間の有機的連携に意を用いなくて は、食品の安全を十全に確保することは困難であり、右の程度の義務を課したとしても甚だしい負担となるもので 36 はないからで鎚﹂と・なお・新島漂着砲弾爆発事件上告審判決も、﹁かかる状況を警察官が容易に知りうる場合 には、警察官において右権限を適切に行使し、自ら又はこれを処分する権限・能力を有する機関に要請するなどし ︵17︶ て積極的に砲弾類を回収するなどの措置を講じ⋮⋮﹂と述べている。 文献においても、国の行政機関相互間の連絡通報義務を肯定するものが大部分である。右のカネミ油症控訴審判 決より以前に、すでに、阿部教授は、﹁行政機関は個々の法律によって自らに割り当てられた事務を孤立的に処理 するのみならず、関係行政機関と連絡調査協力することも本来の任務とするものである。⋮⋮そうすると、農林省 と厚生省は原料・家蓄・エサなどと食糧品の関係に関して密接な共同関係にあり、両者は必要がある範囲で常に連 ︵18︶ 絡協力し、いわば二人三脚のように一体として対処すべき義務を負うのである﹂と説かれていたとし、佐藤教授も、 ﹁本来行政組織の一部で予見したことは、有機的組織体自体の予見として理解したとしても何ら不思議はないはず である。⋮⋮国のレベルにおいても具体的連絡調整機構が存在しなくても、前述した国家行政組織法二条二項の規 ︵19︶ 定を根拠として、有機的組織体としての予見可能性を一体的にとらえることを認めてもよいように思われる﹂と主 張されていたのである。行政機構が整備され、相互間の連調整が制度化されている場合が増えているが、たとえ制 度化されていない場合であっても、行政機関相互間の連絡調整義務が条理上認められる場合が少なくないから、右 のような学説・判例の動向には賛意が表されてよいであろう。 四 結果回避の可能性 行政側で危険の存在を知り得たとしても、結果の発生を阻止し得た場合でなければな らない。結果の回避可能性がなければ、行政の不作為を非難することができないからである。結果回避の可能性の ︵20︶ 要件を権限行使の可能性と狭義の結果回避の可能性に区分する見解があるが、権限行使の可能性は結果回避の可能 蜀 栖 任 責 償 賠 家 と 国 為 作 不 の 政 行 37 性の当然の前提であるから、ここでは結果回避の可能性として捉えておけば十分であろう。 この要件については、前記の原田教授の所説をはじめとして、文献の多くにおいて、行政側の権限行使によって 結果の発生を容易に回避できたということが必要とされている。裁判例においても、例えば、東京スモン判決は、 ﹁行政庁において規制権限を行使すれば容易にその結果の発生を防止することができ︵る︶﹂と述べているし、カネ ミ油症第二陣訴訟一審判決も、﹁行政庁がたやすく危険回避に有効適切な権限をすることができる状況にあること﹂ と述べている。 しかし、ここでもまた、若干要件の緩和が必要であろう。﹁容易に﹂ということは、余り強調されるべきではない。 回避可能性の有無は、行政側の事情ではなく、社会通念によって判断されるべきである。法律・条例等で規制権限 が明示的に授権されていることは必要でないし、また、人員・予算不足も必ずしも回避不可能性に直結するもので ︵21︶ はない。具体的危険の予見可能性がありながら、人員・予算が投入されていなかったとすれば、まさにそのこと自 体が非難されるべきこととなる。 五 規制権限発動の期待可能性 裁量権収縮の最後の要件は、被害者側の努力だけでは危険の回避が困難であ るため、行政による規制権限の発動を期待するのがもっともであるという事情が存在することである。前記の原田 教授の所説においては、﹁被害者側の個人的努力では危険防止が十分には達成されがたいものと見込まれる事情の あるとき﹂となっていおり、沢井教授も、﹁国の規制措置をまたなければ、国民の生命・健康を守りえないような ︵22︶ ︵23︶ 事態においては﹂と説かれている。裁判例においても、例えば、東京スモン判決は、﹁被害者ー結果の発生を前 提iとして規制権限の行使を要請し期待することが社会的に容認され得るような場合﹂を挙げているし、カネミ 38 油症第一陣訴訟一審判決も、﹁被害者たる国民として規制権限の行使を要請し期待しうる事情にあるとき﹂を挙げ ている。しかし、中には、この要件に触れていない文献や裁判例も見受けられる。意識的に除外する趣旨であるの ︵ 2 4 ︶ ︵25︶ か否か、文面からは定かではない。 この要件の捉え方についても、厳格に保持しようとする立場と緩和しようとする立場が対立している。前者の立 場から、都築検事は、﹁国民が厚生大臣の権限行使を信頼・期待しているという状況があったという要件は、それ その要件を充足するかどうか慎重に吟味されなければならないといえよう﹂と説かれている。これに対して、後者 が可変性を有する要件であるうえ、被害者だけではなく広く国民一般の過去の時点における意識を対象とするため、 ︵26︶ の立場から、沢井教授は、次のように主張されている。﹁この要件は難問である。もし具体的ケースにおいて国民 が行政庁に規制権限の発動を期待・要請した後にはじめて行政庁の作為義務が生ずるというのでは、多くのケース では手遅れである。国民が事態を理解しないーしたがって行政規制権発動を期待しえない 段階においても、 、 、 、 、 、 ︵27︶ 行政としては国民の生命・健康を保障すべき責務にもとついて、可能な規制をなすべきことが期待される。﹂ このように、この要件をめぐって考え方の対立がみられるが、国民が危険性について一般に判断能力を欠いてい ることを考慮すれば、この要件は厳格に解されるべきではない。この要件の充足のためには、国民が現実に規制権 限の発動を期待していたという事実まで要求されるべきではなく、国民がもし具体的危険の切迫性︵蓋然性︶を知っ ていれば規制権限の発動を期待したであろうという事情が認められれば十分である。ただ、具体的危険の切迫性を 国民が知っておれば、規制権限の発動を期待するのが当然であるから、結局、この要件は殆ど重要性を有し得ない ということになる。従って、ここではむしろ、被害者側での回避可能性に重点が置かれるべきであろう。 任 蜘 晒 獺 糀 掴 政 の 利 鴇 行 39 被害者側の努力によって危険回避が可能である場合には、行政が自らその危険を造り出したのでない限り、規制 権限の発動を期待すべきではない。この意味において、フグ中毒死事件における神戸地裁判決が、﹁フグを摂取す る個人において、フグ中毒を回避する手段は容易にとり得るものであって、事実、前記のとおり本件の被害者たる 亡潤一も、フグの肝と承知で敢えてこれを食べたのであり、それを避けることにより本件被害を容易に回避するこ とができたと解することができる。この点で、医薬品や食品添加物のように、一般消費者が安全なもの有効なもの を望みながらも、その安全性有効性を選択する能力も機会もなく、行政による規制に期待せざるを得ない場合とは、 本質的に相違があるものと言わなければならない﹂と述べているのは、妥当というべきであろう。 ︵28︶ 被害者側の努力によって危険を回避できたか否かの判断をするについては、佐藤教授が指摘されているように、 被害者が﹁判断資料や判断方法を有しない国民﹂であることに留意しなければならない。食品・薬品公害をはじめ として、不作為事件の多くの場合において、被害者側が判断資料や判断方法を有し得ない状況になってきているか らである。従って、この要件もまた、緩やかに解釈されるべきであるということになるであろう。 なお、この要件が充足されて国・公共団体の責任が肯定される場合にも、過失相殺がなされることがある。例え ば、千葉県野犬幼児咬死事件控訴審判決は、﹁これらの捕獲、掃蕩は、その権限を有する知事に対して期待する以 外にないことを考えると、知事は、結局、条例によって認められた野犬等の捕獲、抑留ないし掃蕩の権限を適切に 行使しなかったといわざるをえない﹂として千葉県の責任を肯定しながらも、他方で、﹁サダ子︵被害者の母親。 筆者注︶は野犬等の危険性を認識しながら監護能力の十分でない静代︵被害者の姉、当時七才。筆者注︶と二人だ けで広海︵被害者、当時四才。筆者注︶を外出させたことになるのであって、広海を監護すべき責務を負う親権者 40 として大きな落度があったものといわざるをえず、したがって、右事情を斜酌して賠償額を相当程度減額すべく、 右の減額はサダ子の夫であり広海の父である控訴人慶司についても同様と解すべきである﹂として、八割を超える 大幅な過失相殺を行なっている。しかし、規制権限発動の期待可能性が認められるのであれば、そのこととこのよ ︵29︶ うな大幅な過失相殺とは矛盾しないであろうか。一般論として、過失相殺が必要な場合があることは否定できない が、被害者側の努力だけで危険回避が困難な場合に該当する以上は、過失相殺が五割を超えるというのは問題であ ろう。 六 要件緩和の限界 このように、被害法益の対象性を別にすれば、裁量権収縮の要件は学説・判例において 緩和化の方向に進んでいる。筆者もまた、この緩和化には基本的に賛意を表するものである。しかし、裁量権収縮 論が作為義務を導出するための法理論である以上、要件の過度の緩和化は避けられなければならない。過度の緩和 化は、行政に不可能を強いることとなり、行政の不作為に対する非難可能性を消失せしめるおそれがあるからであ る。 国賠法一条は、違法性を国賠責任の成立要件としている。国賠責任が生ずるためには、行政の不作為が違法と評 価されるものでなければならない。被害者救済がいかに国賠制度の主要目的であるにしても、この違法性の要件を 充足することなくしては、国賠法上の救済は無理である。違法性の要件が充足されない場合は、別の救済制度上の 問題になり得ても、損害賠償の問題とはなり得ないであろう。古崎判事が、﹁国家賠償責任は、あくまでも不法行 為責任であって損失補償や社会福祉上の責任ではない。したがって、損害の発生とりわけ被害者が多く損害が莫 大であることから遡って、国の無為無策を責め、直ちに損害と国の不法行為責任とを短絡させることには疑問を 蜀 洒 任 責 償 賠 国 家 と 為 政 の 作 不 行 41 ︵30> もつ﹂と説かれているのは、この限りにおいて妥当な指摘というべきである。 ︵31V 裁量権収縮要件の緩和の限界を具体的にどこに求めるかは、一つの難問である。筆者は、先に述べたような点に ︵32︶ 限界を設定すべきであると考えているが、これに対しては、緩和しすぎているとの批判が予想されるところである。 あるいは、もう少し緩和すべきであるとの批判があるかもしれない。いずれにしても、これまではもっぱら緩和化 に目が向けられてきたが、今後はその限界にも関心が寄せられなければならないであろう。 ︵1︶ 原田・行政責任と国民の権利七三頁。 ︵2︶ 阿部﹁行政の危険防止責任︵下︶﹂判例評論二三三号=二頁、同﹁行政の危険防止責その後︵一︶﹂判例評論二六九号四 頁、沢井・前掲法律時報五七巻一〇号八五∼八七頁等参照。 ︵3︶ 芝池・前掲一六頁、沢井・前掲法律時報五七巻一〇号八五頁参照。 ︵4︶ 古崎・前掲別冊NBL製造物責任八二頁。 ︵5︶ そのほか、同旨のものとして、遠藤﹁宅造法上の規制権限の不行使と国家賠償責任﹂ジュリスト五九〇号昭和四九年度 重要判例解説四二頁、田中舘照橘﹁カネミ油症控訴審判決﹂ジュリスト八三八号昭和五九年度重要判例解説四一頁。 ︵6︶ 沢井・前掲法律時報五三巻九号一二二頁。但し、同・前掲法律時報五三巻八号八八頁では、﹁国民の生命・健康.財産 への重大な侵害の具体的危険が切迫﹂となっている。 ︵7︶ 阿部・前掲判例評論二六九号五頁。 ︵8︶ 佐藤﹁食品・薬品公害をめぐる国の責任㈹﹂法律時報五一巻一〇号一一四頁。同旨、下山・前掲法律時報五三巻八号八 42 一頁。 ︵9︶ 佐藤.前掲法律時報五一巻一〇号=四ー一一五頁。なお、同﹁カネミ油症控訴審判決と国の責任︵上︶﹂法律時報五 六巻七号二五頁参照。 ︵10︶ 阿部・前掲判例評論二六九号五頁。 ︵11︶ 芝池・前掲一六頁。 ︵12︶ この点については、裁量権収縮論を支持するか否かにかかわらない。要件の緩和を主張するものとして、そのほか、室 井.前掲一五頁、佐藤.前掲法律時報五六巻七号二五頁、沢井﹁カネミ油症︵福岡・小倉第一陣訴訟︶控訴審判決の法理 と意義﹂法律時報五六巻七号=二頁参照。 ︵13︶ 阿部・前掲判例評論二六九号五頁。同旨、沢井・前掲法律時報五六巻七号=二頁、佐藤・前掲法律時報五六巻九号五九 頁。 ︵14︶ 白井・前掲二七頁参照。 ︵15︶ 磯部力﹁行政の裁量的権限の不行使と国家賠償責任﹂判例評論一九一号一七頁。 ︵16︶ 第三陣訴訟一審判決も同趣旨であり、より詳細である。 ︵17︶ 芝池・前掲一六頁参照。 ︵18︶ 阿部・前掲判例評論二六九号七ー八頁。 ︵19︶ 佐藤・前掲法律時報五一巻一号=八頁。なお、沢井・前掲法律時報五五巻六号一五六∼一五七頁参照。 ︵20︶ 芝池・前掲一五∼一六頁参照。裁判例においても、例えば、比島山災害訴訟一審判決は、﹁具体的事情のもとで、公務 員が当該権限を行使することが可能であり、かつ、その権限の行使によって法益侵害の発生を防止できること﹂を要件の 任 蜘 栖 責 償 賠 家 国 と 為 作 不 の 政 行 43 一つとして挙げている。 ︵21︶ 芝池・前掲一五頁、佐藤・前掲法律時報五一巻一〇号=六頁参照。 ︵22︶ 沢井・前掲法律時報五三巻九号一二二頁。 ︵23︶ そのほか、芝池・前掲一六頁参照。 ︵24︶ 田中舘・前掲四一頁。 ︵25︶ カネミ油症第二陣訴訟一審判決参照。 ︵26︶ 都築・前掲一七頁。 同・前掲法律時報五七巻一〇 ︵27︶ 沢井﹁カネミ油症事件第二陣訴訟第一審判決の意義と法理﹂法律時報五四巻六号五八頁、 号八七頁。なお、佐藤・前掲法律時報五六巻九号五九頁参照。 ︵28︶ 佐藤・前掲法律時報五六巻九号五九頁。 ︵29︶ 阿部・前掲判例評論二三三号一六頁参照。 ︵30︶ 古崎・前掲別冊NBL製造物責任八三頁。 ︵31︶ 例えば、古崎・前掲別冊NBL製造物責任八二∼八三頁参照。 ︵32︶ 例えば、山村・前掲一二頁参照。 44 む す び 国家賠償責任が生ずるためには、違法性の要件が充足されなければならない。違法とは、行為が成文・不文の法 令に違反することをいう。このことは、行政の作為だけではなく、不作為にも同じように妥当する。行政の不作為 に基づく損害に対して国・公共団体の賠償責任が生ずるためには、その不作為が成文・不文の法令に違反するもの でなければならない。 行政の不作為が違法となるのは、作為義務に違反した場合である。この点については、殆ど異論がない。ただ、 作為義務違反が違法となるということは、行為不法説に立脚すれば適切に説明できるが、結果不法説に立脚しても 同じように説明できるものであるか否かは、若干疑問の残るところであろう。また、作為的不法行為については結 果不法説を採りながら、不作為的不法行為については行為不法説を採るというのであれば、論旨が一貫しないので はなかろうか。 行政の不作為における違法性と過失の関係については、作為の場合と同様に、二元的に構成する見解が妥当であ る。違法性とは作為義務に違反することであり、過失とは作為義務に違反することを知り得たにもかかわらず知ら なかったことである。そして、この二元的構成は、結果不法説ではなくて、行為不法説に立脚してこそ説得力を有 し得るであろう。 行為不法説に立って不作為の違法性を作為義務違反に求めたとしても、問題は、この作為義務をどのようにして 任 蜘 栖 顧 編 偽 掴 の 利 撤 イ 45 導き出すかということである。本稿において、筆者は、裁量権収縮論を支持した。裁量権収縮論の方がより理論的 であり、具体的事件における判断基準としてもより有効であると考えたからである。裁量権収縮論は、その法理論 がまだ十分固まっていないために、これまで誤解されている面が少なくなかった。最近の裁量権収縮論は、この誤 解の解消に向けて努力している。学説・判例における裁量権収縮の要件の緩和化は、結果的には、批判的見解との 隔たりを減少させつつあるといえるであろう。ただ、要件の緩和にも限界がある筈であるから、今後はこの限界を どこに設定すべきであるかが問われなければならない。 ︵一九八五・九・二〇︶
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