報道ステーション/憲法改正/12

TV 報道検証
テレビ局:テレビ朝日
報告書
番組名:報道ステーション
放送日:2016 年 5 月 3 日
出演者:富川悠太 (メインキャスター )、小川彩佳 (サブキャスター )
ゲストコメンテーター:後藤謙次 (共同通信社元編集局長 )・木村草太 (首都大学東京教授、憲法学者 )
検証テーマ:憲法改正
報道内容要旨:
・暴走で歩行者 5 人重軽傷(神戸・三ノ宮 )
・憲法記念日それぞれの思い...
憲法記念日にあたり、改憲・護憲派が集会を行い、安倍総理や岡田民進党代表がメッセージを送ったことを報
道。両集会に参加した人のインタビューも紹介された。
・幣原・マッカーサー会談の真実...
小川キャスターの「憲法改正は参院選の大きなテーマになりそうだが、ここからは 9 条について。日本国憲
法はGHQの占領下でできたものだが、戦争放棄を謳った 9 条に関しては、マッカーサーのアイデアだったと
いう見方がある一方で、実は当時の幣原総理自身が、自分が提案したものだったと証言している。様々な資料を
通して真相を探った。」というコメントの導入から、日本国憲法が押し付け憲法だといわれる一方で、 9 条に関
しては終戦すぐ、幣原喜重郎総理によりマッカーサーに進言され作られたとする説を、当時の証言や記録 (聞き
取りノート)を元に VTR で紹介。VTR では当時の新聞記者や衆院議員の証言、また幣原総理とマッカーサーの
会談を、幣原が回想したものを聞き書きしたノートが紹介されていた。幣原の証言としては「僕には天皇制を維
持するという重大な使命があった。この二つ (天皇制維持と戦争放棄 )は密接に絡み合っていた。オーストラリア
やニュージーランドなどは日本を極度に恐れていた。日本人は天皇の為なら平気で死んでいく。恐るべきは皇軍
である。此の情勢の中で、天皇の人間化と戦争放棄を同時に提案することを考えた。国体に触れることだから、
仮にも日本側から口にすることはできなかった。僕はマッカーサーに進言し、命令として出してもらうよう決心
した。」というものが紹介された。また幣原総理のお孫さんもインタビューに応え、幼い頃の祖父の記憶や家族
などから聞いたであろう姿を語った。
VTR の中でナレーションは「幣原にとって戦争放棄の理念は実はすでに熟知していたものだった。外務次官
のころ、第一次世界大戦に突入、その後各国はパリ不戦条約を締結、そこに戦争放棄が謳われていた。幣原は外
務相になると、この精神を守ると表明し、協調外交を展開する。特に軍部が覇権を強めていた中国には平等で有
効な関係を築く政策を進め、戦争回避を進言し続けた。武力の使用・または脅威は、百害あって一利なし。」と
幣原の「戦争放棄」を説明し、「幣原自身、晩年著書の中で、戦争放棄は決して強いられたんじゃないと語って
いる。自分を突き動かしたのは結局、戦争に突入し多大な犠牲を出したその情景にあったのだと。終戦の勅語、
都営電車の中で、乗客の一人が涙を浮かべながら、自分らはなぜ日本が戦争に突入しなければならなかったのか
納得できない、知らぬ間に抜き差しならぬ状況に追い込まれて敗戦の苦しみを受けなければならないと言い、官
僚と軍部を呪っていた。その悲壮なる叫び声は私の胸に堪えた。文明が戦争を撲滅しなければ、戦争の方が文明
を撲滅するだろう。世界の正義感を味方として行動する方が、はるかに安全で堅実な政策だと信じる。この信念
をもって我々は、徹頭徹尾 9 条の規定を誠実に実行する決心だ。」と幣原の決意を語った。
スタジオでは富川キャスターが「今の憲法はGHQマッカーサーが主導でつくられた、いわば押し付けられた
憲法だという見方がある一方で、 9 条の発案者はこの幣原総理である、これを裏付ける史料がでてきた。憲法学
者の間ではどのように見られているのか」と問題提起をし、それに対して木村氏が「VTRにあったように確実
にこうだといえるものは中々ないが、一方で幣原もマッカーサーも公式の場では、幣原が発案者であったと認め
ていて、この事実は憲法を解釈する上で、非常に重く受け止められているというのが学会の状況。」と返答し、
更に「やはり色々考え方があると思うが、公式発表でそれを言ったということは、仮にそういうことがあったと
しても私は発案者としての責任を引き受けるんだという幣原の表明でもある。また考えてもらいたいのは、最初
に言ったのがマッカーサーなのか幣原なのかは別に、第二次世界大戦の直後には世界の多くの人々が平和への気
持ちを高めていたし、どうやったら軍の暴走というものがなくなるのかということを、世界中が考えていたし、
戦争を放棄しようという気持ちはやはり二人だけでなく多くのひとが思っていたことだと思う。今日紹介された
VTRでもあったが、両者の議論は 9 条が何を目指していたのかということを考える上で重要な出発点になる
のではないか。9 条というのは世界を意識した条文で、まず日本が二度と侵略の道を歩まないことは大前提だが、
更にそのことを宣言するだけでなく、日本が非武装を選択できるようなそういう国際社会を最終的には実現した
いんだと。あるいは相互の信頼によって国家がみんなで協力をして、世界の平和に向けて努力する、そういう国
際社会をつくり上げていこう、そういう理念を究極の理想として表現したものでもある。この理想を受けて日本
政府は 9 条を国家の基本理念としつつ、万が一侵略された場合には国民の自由・幸福追求の権利を守る最低限
の義務があるから、その範囲で実力は行使する。ただしそれ以上の実力は行使しない。必要最小限度の範囲での
行使しかしないという方針できた。これが日本政府の態度だった。」と付け加えた。
これを承けて富川キャスターが「まさにこの 70 年日本人が育んできたものでもある」とコメントし、それに
木村氏が「とても大事にしてきた価値観。もちろん今でも大事にされている。」と相槌を打ち、更に富川キャス
ターが「それが今や、 9 条すら変えてしまおうという風に外国、近隣諸国から見られている。」と新たに問題提
起した。これに対しては後藤謙次氏が「そう。木村先生から指摘があったように憲法は、世界の中の日本国憲法
という視点が非常に大切。私がそれを実感したのは 2007 年の 2 月、まだ健在だった韓国の金大中元大統領にソ
ウルでインタビューしたことがあるが、その時大統領が流ちょうな日本語でこう言った。 [私は日本が大変好き
な国だが残念な点も多い。一つに憲法改正の問題があり、9 条をなぜ変えようとするのか、そこが理解できない ]
日本国内での改正論議、いろいろ取材していたが、 9 条の持つ国際的なメッセージ性、この強さを痛感した。金
大中に限らず、恐らくとりわけアジアの近隣諸国の多くの国の人びとが多分胸に抱いている。 9 条、あるいは改
正論議をするときには国際的な視点を、視座、きちっと固めること無しには前に進めないというのが現実だと思
う」とコメントした。
これ承けて富川キャスターが木村草太氏にコメントを求めると「後藤さんが言ったように、 9 条というのは国
内での最高法規としての意味と同時に外交宣言としての意味もある。韓国の例があったが、韓国にも平和条項が
あり、半島の統一は平和的手段によって行うというのが憲法に書いてある。緊張関係にある南北の対立の中でも
平和的手段で統一をするというメッセージを北朝鮮に送っている。国際情勢を見ていると 9 条の原則的には非
武装だというのはあまりにも非現実的に見えるかもしれないが、時代を遡ってみれば、国内での非武装も非現実
的に見えた時代もある。中世ヨーロッパや戦国時代の日本では各地方の領主や宗教団体が武装を持っており、そ
れを武装解除するというのは余りにも非現実的に見えたが、今はそうなっていない。今現代のアメリカでは各人
が銃を持っているのが当たり前で、銃を規制するのは非現実的に思えるが、日本ではそういう社会が実現されて
いる。改憲論議をすることはいいことだと思うし、それ自体は悪いことではないが、大した努力もせず難しいか
らやめてしまおうと諦めてしまうのは 9 条に関しては本当にもったいない。幣原やマッカーサーが何を考えて
いたかをもう一度理解して、あの時の時代に戻って、理想が何だったのかを考えてほしい。理想を諦めるのはま
だまだ早すぎる。」とのコメントがなされた。
2
富川キャスターが「世界的に見て戦争をしたい人なんて普通いないはず」とコメントし、これに木村氏が「そ
もそも国連憲章に武力行使は国際法違反だと書いてあり、紙の上では米、北朝鮮、中国、ロシアもどこの国も武
力行使は違法なんだというところが今の国際社会の出発点。実践的には今も破ってしまう国があることは確かだ
が、一方でやはり国際法の世界でも武力行使は違法なんだということがグローバルスタンダードになっていると
いうことも重要。」と指摘した。さらに、富川キャスターが「日本に目を移すと後藤さん、改憲自体が目的にな
ってるんじゃないかという見方も」と後藤謙次氏に話を振ると「そうだ。改憲するかしないかで、どこから手を
付けているのかはっきりメッセージが出ていない。VTRにもあったように、ここが総理の 1 月の年頭会見か
らはじまる議論。一番わからない、議論を収斂できない最大の理由。」というコメントがなされた。
最後は富川キャスターの「今年は参院選もあり、 18 歳投票権もある。皆が今のようなことを考えなくてはい
けない。」というコメントで締められた。
・地震報道
・連休中に“円”急伸
・反トランプ陣営結束にひび
・米大統領広島訪問しても「謝罪をすべきだと思わない」
・自衛隊機初の“海外移転”...Pがフィリピンに最大
90
5 機貸与されることについて報道。中国による軍事拠
点化と、自衛隊が警戒を強めていることを紹介した。
・朝日新聞襲撃から 29 年…赤報隊を名乗る犯行声明があり、朝日新聞阪神支局で記者が殺害されもう一人が重
傷を負った事件から 29 年を迎えたことを報道。事件の経緯や犠牲者の詳細などは報じられなかった。犠牲者を
悼む場にはじめて訪れたと語る女性は「このころ言論の自由がひしひしと危ない」と語り、スタジオでは後藤氏
がポツダム宣言の文面を引き、言論・信条の自由および基本的人権の尊重の大切さを訴え、「我々は身を以て、
ペンは剣よりも強し、ということを実証していくという責任がある」と述べた。
・天気・スポーツ
・ブラジルで聖火リレー開始
検証報告(放送法第 4 条の見地から):
・憲法改正
憲法改正について報道内容要旨で「憲法記念日それぞれの思い...」、「・幣原・マッカーサー会談の真実...
」
と紹介された箇所を合わせて「憲法改正」のテーマで検証した。
憲法改正について肯定的な主張および立場からの意見やその紹介を「賛成」、憲法改正については否定的な主
張および立場からの意見やその紹介を「反対」、それ以外を「その他」と処理した。
賛否の比率は以下の通り
賛成:36 秒(12%) 、反対: 254 秒(88%) 、(その他: 917 秒)
3
各地で護憲派と改憲派の集会が開かれたことを紹介し、それぞれに参加した人の声 (改憲派の集会の参加者 1
名:11 秒、護憲派の集会に参加者 2 名:19 秒)や、安倍総理や民進党の岡田代表のメッセージを紹介した前半
の部分に関しては、概ね公平な編集であった。
一方、憲法 9 条に焦点を当て幣原の発案であったとする説を紹介した後に富川キャスター、木村氏、後藤謙
次氏の三者によりスタジオで議論がなされた後半の部分に関しては、スタジオに憲法改正に対して肯定的な意見
を持った人物がいなかったこと、スタジオでの議論の時間がしっかりと割り当てられていたことが、賛否の比率
において反対が圧倒的に優勢となったことの要因としてあげられる。結果として、この番組における憲法改正論
議は「反対」に大きく偏しており、放送法第4条の二「政治的に公平であること」を充分確保しているとは言い
難いものになっている。
日本国憲法の制定過程については、実際には多数の見方が存在する。例をあげれば
(1)幣原内閣が総選挙において下野した際に与党第一党の党首となった鳩山一郎氏が憲政の常道に従い組閣の
大命が下ったにもかかわらず、その直後に公職追放にあったため代わりに吉田茂が自由党総裁として内閣を組織
したことに代表されるように、当時は今の憲法の前文が謳うような正常な民主政治のプロセスから逸脱していた
という事実を重要視する見方。(2)幣原首相がマッカーサーに戦争放棄を盛り込むことを進言した後に、幣原
内閣の憲法改正担当の国務大臣松本烝治のもとで作成されたものであるにもかかわらず松本案が GHQ によっ
て却下されたことから、幣原首相が9条発案であることの実態を疑問視する見方。
あるいは(3)法律はその法文が健全に機能することが現実政治において日本国民に対していかなる便益をもた
らすかという観点で評価すべきであり、その文言がいかなる政治プロセスにおいて盛り込まれたのかを重視しな
い見方。これらのような観点が憲法制定過程と現在の憲法を巡る議論において考えられるが、この番組では「今
の憲法はGHQマッカーサーが主導でつくられた、いわば押し付けられた憲法だという見方がある」 (富川キャ
スター)といわゆる「押し付け憲法論」について触れられたのみで、「押し付け憲法」の何が問題なのかについて
は触れられなかった。
このように、9条の「幣原発案説」以外の視点からの議論はほとんど見らなかったという点において、放送法第
4条1項4号「意見が対立している問題については、できるだけ多くの角度から論点を明らかにすること」につ
いては、残念ながらあまり達成できていなかったと評価せざるを得ない。
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「印象操作」に関する所見(最高裁判例の見地から):
木村氏の「改憲論議をすることはいいことだと思うし、それ自体は悪いことではないが、大した努力もせず難
しいからやめてしまおうと諦めてしまうのは 9 条に関しては本当にもったいない。幣原やマッカーサーが何を
考えていたかをもう一度理解して、あの時の時代に戻って、理想が何だったのかを考えてほしい。理想を諦める
のはまだまだ早すぎる。」というコメントを承けて、富川キャスターの「世界的に見て戦争をしたい人なんて普
通いないはず」という応答があり、更に木村氏が続けた「そもそも国連憲章に武力行使は国際法違反だと書いて
あり、紙の上では米、北朝鮮、中国、ロシアもどこの国も武力行使は違法なんだというところが今の国際社会の
出発点。実践的には今も破ってしまう国があることは確かだが、一方でやはり国際法の世界でも武力行使は違法
なんだということがグローバルスタンダードになっているということも重要。」というコメントであるが、この
ような文脈の上で発せられているという点に、些かの問題を感じる。
実際には「第9条
日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、
武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。」という現行憲
法の規定に対して、自民党の改憲草案では「第9条
日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希
求し、国権の発動としての戦争を放棄し、武力による威嚇及び武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては
用いない。」となっている。
事実として改憲勢力が反平和的であり、武力行使の合法化やグローバルスタンダードからの逸脱を試みている
のであれば、その事実を摘示するべきである。しかし、上述のように改憲勢力として扱われている自民党の改憲
草案においてすら、9条1項については日本語の表記の修正にとどまり、その条文が掲げる戦争の放棄に変更は
事実として認められない。こうした実態がある中での上述の一連のやり取りは、一般の視聴者に対して、いかに
も改憲勢力が反平和的である、あるいは武力行使を合法化しグローバルスタンダードから外れようとしていると
いう、事実とは異なる印象を植え付けてしまうおそれがある。
また、この番組では「幣原首相がマッカーサーに戦争放棄を進言した後に、幣原内閣のもとで憲法改正担当の
国務大臣松本烝治によって憲法改正案が作成された」としているが、実際にはこの案は GHQ によって拒否され
ている。幣原内閣は総選挙の結果を承けて退陣し、それに伴い幣原内閣としての憲法案が取り下げられ、吉田茂
内閣のもとで憲法案が議会に提出され審議を経て制定に至ったのであり、吉田内閣では幣原は復員庁総裁として
の国務大臣に過ぎない。実際に憲法についての答弁に立ったのは首相の吉田茂や憲法担当の国務大臣である金森
徳次郎だった。こうした事実に触れるのか避けるのかで、松本案に先立つ幣原のマッカーサーへの進言による9
条、というストーリーの与える印象は大きく変わってくるのではないだろうか。
検証者所感:
まず、いわゆる「押し付け憲法論」については、それ自体が政治史や政治過程論などの分野であれば意義深い
論点かも知れないが、9条が押し付けられたからあるいは幣原の提案だから、といってそれによって憲法の良し
悪しが決まるようなものではない。それは憲法制定についての正統性を巡る議論であり、憲法の条文自体への評
価を巡る議論には成り得ない。憲法が押し付けられたということのみが問題であるのならば、憲法選び直しとい
う選択も十分にあるわけで、にもかかわらず「押し付け憲法論」を根拠に憲法の条分改正を訴えるのは、押し付
けの有無に先立って憲法への個々の条文に対する是非の判断がなされていることにほかならない。同様に、9条
が幣原の発案であるという事実を強調し、9条の再評価へとつなげようとするのも、押し付けの有無に先行する
条文に対する是非の判断がなされているからこそ成立する論理であろう。
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憲法 9 条が幣原の発案であったというのは、政治史や政治過程論のような政治学上の論点としては重大なこ
とかもしれないが、憲法の条文の是非自体を論ずるに当たってはさして重要な論点ではないと考えるのが妥当で
ある。しかし、そういった憲法の是非をめぐる議論としては重要でない論点を憲法論議上の論点として強調する
かのような姿勢をとった今回の報道ステーションには疑問を感じた。
「幣原発案説」について木村氏は「確実にこうだといえるものは中々ないが、一方で幣原もマッカーサーも公
式の場では、幣原が発案者であったと認めていて、この事実は憲法を解釈する上で、非常に重く受け止められて
いるというのが学会の状況。」とコメントしている。9条の発案者が幣原であるという事実を非常に重く受け止
めて解釈するというのは、法を解釈する際に立法者の意思を尊重する「立法者意思説」のことを言っているので
あろう。しかし「立法者意思説」に立つのであれば、憲法を解釈する上でもっとも重要なのは誰によって提出さ
れた憲法案が議会においてどのような議論を経て可決に至ったか、そのプロセスにおいてどういった「立法者意
思」が顕現し、また合意されたのか、ということの方が遥かに重要ではなかろうか。そして、そうであるならば、
幣原の発案以上に、実際に幣原内閣総辞職によって一旦取り下げられた憲法案が、吉田茂を首班とする吉田茂内
閣の下で再度憲法案として議会に提出されたのであるから、吉田内閣での憲法をめぐる議会での質疑こそ非常に
重く受け止めて解釈する必要があるのは疑いのないことであろう。
また VTR においてナレーションは幣原の「戦争放棄」について「幣原にとって戦争放棄の理念は実はすでに
熟知していたものだった。外務次官のころ、第一次世界大戦に突入、その後各国はパリ不戦条約を締結、そこに
戦争放棄が謳われていた。」と説明していた。この説明をそのまま受け取れば、幣原が9条を発案した意図はパ
リ不戦条約で謳われた戦争放棄を日本国憲法に導入するものと解釈するのが妥当であろう。
そうであれば、幣原の発想は9条1項の範囲を出るものではなく、9条2項へと結びつくにはかなりの飛躍が
ある。しかし、スタジオでは9条2項が示している非武装の理想を含めて語っていながら、この飛躍を埋めるよ
うな説明は VTR でもスタジオでのコメントでもなされなかった。これは視聴者に対して非常に不親切な構成と
いえるのではなかろうか。
「公式発表でそれを言ったということは、仮にそういうことがあったとしても私は発案者としての責任を引き受
けるんだという幣原の表明でもある。」という木村氏のコメントであるが、幣原が 1951 年 3 月に衆議院議長在
任中の心筋梗塞のため死去するまでの間、実際に発案者として責任を引き受けているのかどうかは、議論の余地
があるだろう。現に自衛隊の前身となる警察予備隊は幣原の死の直前に吉田茂内閣によって設立されている。
9条が持つ意義について木村氏は「両者 (検証者補注:おそらくは幣原とマッカーサー )の議論は 9 条が何を目
指していたのかということを考える上で重要な出発点になるのではないか。 9 条というのは世界を意識した条文
で、まず日本が二度と侵略の道を歩まないことは大前提だが、更にそのことを宣言するだけでなく、日本が非武
装を選択できるようなそういう国際社会を最終的には実現したいんだと。あるいは相互の信頼によって国家がみ
んなで協力をして、世界の平和に向けて努力する、そういう国際社会をつくり上げていこう、そういう理念を究
極の理想として表現したものでもある。この理想を受けて日本政府は 9 条を国家の基本理念としつつ、万が一
侵略された場合には国民の自由・幸福追求の権利を守る最低限の義務があるから、その範囲で実力は行使する。
ただしそれ以上の実力は行使しない。必要最小限度の範囲での行使しかしないという方針できた。これが日本政
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府の態度だった。」と述べた。これに対し富川キャスターが「まさにこの 70 年日本人が育んできたものでもあ
る」と応答し、これに木村氏が「とても大事にしてきた価値観。もちろん今でも大事にされている。」と強調し
ている。そして後藤謙次氏の「そう。木村先生から指摘があったように憲法は、世界の中の日本国憲法という視
点が非常に大切。私がそれを実感したのは 2007 年の 2 月、まだ健在だった韓国の金大中元大統領にソウルでイ
ンタビューしたことがあるが、その時大統領が流ちょうな日本語でこう言った。『私は日本が大変好きな国だが
残念な点も多い。一つに憲法改正の問題があり、 9 条をなぜ変えようとするのか、そこが理解できない。』日本
国内での改正論議、いろいろ取材していたが、 9 条の持つ国際的なメッセージ性、この強さを痛感した。金大中
に限らず、恐らくとりわけアジアの近隣諸国の多くの国の人びとが多分胸に抱いている。 9 条、あるいは改正論
議をするときには国際的な視点を、視座、きちっと固めること無しには前に進めないというのが現実だと思う 。
」
というコメントを挟み、木村氏が「改憲論議をすることはいいことだと思うし、それ自体は悪いことではないが、
大した努力もせず難しいからやめてしまおうと諦めてしまうのは 9 条に関しては本当にもったいない。幣原や
マッカーサーが何を考えていたかをもう一度理解して、あの時の時代に戻って、理想が何だったのかを考えてほ
しい。理想を諦めるのはまだまだ早すぎる。」とコメントしている。
……だが、ちょっと待っていただきたい。
まず、理念や究極の理想などというものは、裁判規範性を持つ個別の条文の中に理念条文として盛り込むべき
ではない。盛り込むのであれば、裁判規範性を持たない前文が考えられるが、それでも前文にも法的拘束力はあ
るので、将来に向けての理想であり現時点で即座に実行できるものではないということが明らかに分かる形で書
き込むべきだろう。現行の条文では木村氏の言うような「日本が非武装を選択できるようなそういう国際社会を
最終的には実現したいんだと」などというような、将来的な構想を語る形にはなっていない。条文には「前項の
目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。」と現在形
で書かれているのみである。そこには将来構想への予感などはなく、今現在どうしているか、ということしかな
い。木村氏の言うような、理想を語るものとして9条2項的なものが必要であるならば、然るべき箇所に然るべ
き時制で書き込む必要があり、現行憲法を改正することなく木村氏の言うような解釈をするのは日本語の問題と
して難しいだろう。
一方、「万が一侵略された場合には国民の自由・幸福追求の権利を守る最低限の義務があるから、その範囲で
実力は行使する。ただしそれ以上の実力は行使しない。必要最小限度の範囲での行使しかしないという方針でき
た。これが日本政府の態度だった。」という木村氏のコメントは、彼の師匠である長谷部恭男氏の憲法解釈と同
様であるが、こうした対応は現実政治に即したものであると見なすことができる。しかし、そこまでリアリステ
ィックな対応を許容してなお、「理想を受けた9 条という国家の基本理念」などと主張することが妥当なのかは
疑問である。また、必要最小限度の範囲での実力行使が憲法上認められるのであれば、なおかつ集団的自衛権の
行使が「必要最小限度の範囲」に含まれるような状況に直面した際には、必要最小限度の範囲に含まれる部分に
限定すれば集団的自衛権の行使も当然に認められるという憲法解釈が成り立ち得るという意見に対して、木村氏
の立場は他者に対して説得力のある有効な反論を持ち得ないのではなかろうか。
後藤謙次氏の「世界の中の日本国憲法という視点が非常に大切。私がそれを実感したのは 2007 年の 2 月、ま
だ健在だった韓国の金大中元大統領にソウルでインタビューしたことがあるが、その時大統領が流ちょうな日本
語でこう言った。『私は日本が大変好きな国だが残念な点も多い。一つに憲法改正の問題があり、 9 条をなぜ変
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えようとするのか、そこが理解できない。』」というコメントについては、金大中氏が憲法9条2項と自衛隊の関
係をどう理解していたのか理解に苦しむところであるが、何れにしても、韓国の元大統領の言葉を「世界」から
の見方の代表とする後藤氏のような見解が一方的に発せられて、他の角度からの見方が紹介されないのがこの番
組の傾向と言えよう。
ここまで見てきたように、現実から乖離した議論が目立つ報道であったが、中でも9条に対する「まさにこの
70 年日本人が育んできたものでもある」 (富川キャスター )、「とても大事にしてきた価値観。もちろん今でも大
事にされている。」木村氏
(
)といった評価は、あまりにも現実との連関を欠くものと感じた。
木村氏が「日本が非武装を選択できるようなそういう国際社会を最終的には実現したいんだと。あるいは相互
の信頼によって国家がみんなで協力をして、世界の平和に向けて努力する、そういう国際社会をつくり上げてい
こう、そういう理念を究極の理想として表現したもの」と解説した9条2項の条文は、吉田茂内閣のもとでの警
察予備隊の設立を皮切りに空文化され、ないがしろにされ続けてきた。それが現実の戦後日本の歩みではなかっ
ただろうか。
もし、そうしたことを知らずに「もちろん今でも大事にされている」などというのであれば、憲法学者として
問題があるだろう。実際には戦後の日本政治は「9条2項」を骨抜きにし続けてきた。党綱領において公然と「自
衛隊は憲法9条2項に反する」ということを掲げている日本共産党ですら、今や「国民連合政府」構想のために
「自衛隊と日米安保の堅持」を短期的には打ち出さざるを得なくなっている。憲法学のバイブルともいうべき芦
部信喜の『憲法』においては版を何度も重ねた今でもなお「自衛隊は9条2項の禁止する戦力に該当するため、
違憲である」というのが通説として扱われているにもかかわらず、自衛隊が必要だという認識は国民に広く浸透
している。
もし9条の1項に限っての話であったならば「とても大事にしてきた価値観。もちろん今でも大事にされてい
る。」という認識は妥当であろう。しかし、9条2項の「理想」について、こうした経緯を踏まえながらもなお
「とても大事にしてきた価値観。もちろん今でも大事にされている」などと「憲法学者」として発言するのであ
れば、事理弁識能力あるいは学者としての良心を疑わざるを得ない。
さらに木村氏は「国際情勢を見ていると、9 条の原則的には非武装だというのはあまりにも非現実的に見える
かもしれないが、時代を遡ってみれば、国内での非武装も非現実的に見えた時代もある。中世ヨーロッパや戦国
時代の日本では各地方の領主や宗教団体が武装を持っており、それを武装解除するというのは余りにも非現実的
に見えたが、今はそうなっていない。今現代のアメリカでは各人が銃を持っているのが当たり前で、銃を規制す
るのは非現実的に思えるが、日本ではそういう社会が実現されている。」と述べているが、これはどう受け止め
れば良いのだろうか。
日本の民衆の武装解除にしても、戦国時代においては領主や宗教団体のみならず農民に至るまでが武装してい
たが、宗教団体および農民に関しては羽柴秀吉の天下統一事業の中で刀狩りが行われ武装解除が行われた。江戸
時代でも秀吉の刀狩りによって形成された基本的な形は変わらず、刀を所有しているのは武士のみに限られた。
後に明治維新の最中で武士についても廃刀令で武装解除させられたが、このように段階的なものであった。また
刀狩りにしても、廃刀令にしても、日本において確固たる武力を持った統一政権の元で行われたという事実を見
逃してはならない。このように、日本国内において非武装の社会が実現されてきたプロセスから類推するのであ
れば、木村氏のいうような、国際的に非武装ができる時代が来るとすると、それはおそらく世界政府のようなも
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のが設立された際に行われると考えるのが妥当であろう。そういった理想を奉じるのであれば、天下統一ならぬ
世界統一事業に日本自ら乗り出すか、あるいは世界統一事業を行いそうな勢力を全力で支え、世界統一を実現さ
せるかのいずれかしか国際的な非武装という理想を実現する道はないように思えるが、木村氏は非武装の世界と
いう理想をどのようなプロセスで実現することを目指しているのだろうか。まさか、理想だけ語ってその実現の
ための具体的な方法についての考えをまったくもって持ち合わせていないなどという無責任な言動は 、学者であ
ればするはずがないと信じてはいるが。
幣原が「9条」について「1項」のみを提案したのか、「2項」まで含めて提案したのかが、VTR およびスタ
ジオでのコメントの構成からは分かりにくい。幣原の意思が「1項」にあったのであれば、これを否定する有効
な勢力は日本には事実として存在しないのであるから、憲法改正と関連付けて取り上げる必要はないだろう。そ
れで憲法改正を不安視しているのであれば少なくとも幣原の意思という点においては全くの杞憂、取り越し苦労
であり、現状では全く心配する必要はないだろう。また、幣原の意思が「2項」まで含まれているのであれば、
その幣原の意思は存命のうちから警察予備隊の設置という形で踏みにじられており、また幣原の死後も蔑ろにさ
れ続けてきたといえる。そうしたことを踏まえながらも「まさにこの 70 年日本人が育んできたものでもある」
(富川キャスター )、「とても大事にしてきた価値観。もちろん今でも大事にされている。」(木村氏) 、「幣原やマ
ッカーサーが何を考えていたかをもう一度理解して、あの時の時代に戻って、理想が何だったのかを考えてほし
い。理想を諦めるのはまだまだ早すぎる。」木村氏
(
)などという発言がなされているのであれば、それこそ幣原
も草葉の陰で泣いていることであろう。
備考:
放送法遵守を求める視聴者の会
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