法然における悪の問題について

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法然における悪の問題について
齋藤, 真希
文化と哲学. 32, p. 61-75
2015-08-31
http://doi.org/10.14945/00009409
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法然 における悪 の問題 に ついて
1、浄土思想 の基本
園
真
希
エ
ハ一
と共に、他者をも苦しみから救 い出す偉大な存在とみなされ、人 々の崇拝を集 めるようにな っていく。特 に大乗仏教
時代が経 つに つれて、仏は超人的な存在として理想化されるようになる。具体的 には、仏は自ら苦しみを克服する
するに、仏 になることを目的とする教えであると いえる。
に必要不可欠な手段 である。 こうした修行 によ って輪廻から抜 け出し、苦しみを克服した者を仏と呼ぶ。仏教とは要
仏教 ではその目的 のために、自 らの力 で修行を行う べきであると考 えられて いる。修行とは輪廻から抜け出すため
う ことである。
れて いるからである。仏教 の目的とは、 このような輪廻から抜け出 し、無限に続く苦 しみの状態 から自由になると い
生存 は無限 に繰り返されるも のとされている。なぜならば、仏教 ではあらゆる生き物 は輪廻転生を繰 り返すと考えら
単 に説明 しておきた い。まず仏教 の基本的な考 え方とは、生存は苦しみであると いう ことである。 しかも、苦 しみの
法然 の思想は仏教思想 のうち、浄土思想 に属して いるも のである。それな ので、最初 に仏教と浄土思想 に ついて簡
蘭
ニ
一
ハ一
の段階 にな ると、多種多様 な超人的な仏 の存在を認 め、 そ のような仏 の救済力 によ って音 しみから助 け出 してもらお
うと いう思想 が盛 んに行 われ るよう にな った。
浄土思想とは、そのような思想 の典型 であると言われている。浄土思想とは、阿弥陀仏 の実現した理想的な国土に、
死後生まれ変わることを目指す思想 である。国土とは、
一世界 全局い山 の周囲を月と日がめぐり、海 と四 つの大陸 が
とりま いている︶ × 一〇〇〇 × 一〇〇〇 × 一〇〇〇を単位とする広大な領域を指 している。大乗仏教 の世界観によれ
ば、全宇宙 のうちには我 々が住んでいる国土の他にも、無数 の国上が存在して いる。
いく つかの浄止経典によれば、そ のような国上 のうちの 一つに、法蔵菩薩と いう優れた修行者が いた。法蔵菩薩は
自 らが仏になると いう志とともに、迷 い苦しむ他者をも救 おうと いう願 いを持 っていた。そこで法蔵菩薩 は他者を救
う手立 てとして、成仏す るために理想的な環境を持 った国土を作り、そ の国土 へ生きとし生けるも のす べてを生まれ
させると いう ことを考えた。
法蔵菩薩は このような願 いを四十八 の誓 いとして具体化し、師匠 であ る世自在王仏 の前 で宣言 した。そ の後、法蔵
菩薩は長年 の修行によ って四十八願を成就 し、自らは阿弥陀仏と いう名 の仏になると共に、自ら の住まう国土を浄め、
いく つも の理想的な特徴を持 つ極楽浄土を作り上げ たと いう。
浄土思想は以上 のような浄土経典 の説に基づき、阿弥陀仏 の極楽浄土 へ死んでから生まれ変わることを目的として
いる。なぜならば、極楽浄土に生まれた者 は、理想的な環境 のもとで修行を積 み、速 やかに仏になることができるか
らであ る。浄土思想とは、阿弥陀仏 の誓 いを信 じ、阿弥陀仏 の救済 の力 に頼 ることで、成仏を目指す思想と言えるだ
ろう。
極楽往生 のための方法は、浄土思想史 のうちで多種多様なも のが考えだされている。
一例を挙げ ると、法然 に重大
な影響を与 えた中国 の善導 は、五種 の正行をも って往生 の行としている。五種正行とは、読誦正行 ︵
浄土経典を読誦
、礼拝正行 ︵
、称名
阿弥陀仏と極楽浄土 のありさまに思念を集中し観察する︶
する︶、観察正行 ︵
阿弥陀仏に礼拝する︶
、讃歎供養正行 ︵
正行 ︵
阿弥陀仏 の名号を称える︶
阿弥陀仏を讃歎し供養する︶ である。
2、法然 の浄土思想 の特徴
以上、仏教思想 のうちの浄土思想 の概要に ついて簡単 に説明した。法然 の思想は、 このような浄土思想 に連なるも
のであり、日本仏教思想史にお いて重要な意義を持 つものとして位置づけられている。それでは法然 の浄土思想とは、
一体ど のようなも のな のだろうか。法然 の主著とされる ﹁
選択本願念仏集﹂によ って、 このことを見 て いこう。
﹃
選択本願念仏集﹄にお いて、法然はまず仏教全体を聖道門と浄土門に分類 している。聖道門は自力 で修行 して成仏
を目指す方法 であ る。 これに対 して、浄土門は阿弥陀仏 の力によ つて極楽浄土に往生し、極楽浄土 で仏になることを
目指す方法 であ る。 つまり法然 は仏教を自力 で修行す る方法と、超人的な仏 の力 に頼 る方法 の二 つに分類 している。
前者は最初期 の仏教以来存在する方法 であるのに対し、後者 は時代 の経過と共に超人的な仏 への信仰が生じてから発
生 した方法 であ ると いえる。
このような分類を行 ったうえで、法然 が勧 めることは、現在 の人間が成仏を目指す のなら、聖道門 ではなく浄土門
を選択す べきだと いう ことである。要するに法然は浄土門 こそが現在 の仏教 の主流 であると位置づけ、聖道門を傍流
に過ぎな いも のと位置づけて いる。
それでは浄土門を選択 した人間は、具体的にど のような実践をお こなえばよ いのだろうか。既に述 べたように、極
楽浄土 へ往生するための方法は何種類も存在 している。 これらの方法を列挙 した上 で法然が主張するのは、称名念仏
エ
ハ〓一
六四
こそが往生 のための最も正し い方法だと いう ことであ る。法然 の考えにしたがうならば、極楽浄土 へ生まれ変わるた
めには、ただ称名念仏 のみを実践すれば よ いと いう ことになる。称名念仏以外 の方法は、往生 のためには 一切必要 で
はな い。
まとめるならば、法然 は浄土門を仏教 の主流 と位置づけた上 で、さらに称名念仏を浄土門 にお いて実践す べき唯 一
の方法としている。 つまり法然は、膨大な内容を持 つ仏教を称名念仏 の実践と いう 一事に集約 してしま ったと言える。
3、法然思想 の革新性
そして 一般的 に、 この称名念仏 一行 の選択と いう点に、法然 の思想 の革新性 が見出されている。
その革新性とは、救 いの平等性と いう ことである。
仏教における修行 の多くは困難なも ので、誰にでも実践 できると いうも のではな い。修行をするための優れた素質
を持 っている、修行に費 やす時間がある、豊富な財力を持 っているなど、何らかの点 で優越 した人間 でなければ、困
難な修行をやり遂げ ることはできな い。 これに対して、称名念仏は非常 に簡単な行 である。称名念仏は南無阿弥陀仏
と口で称えるだけ のことな ので、ど のような人間 であ っても容易に実践することができる。
法然以前 のいわゆる旧仏教と呼ばれる段階 にお いては、困難な修行を成し遂げ ること こそが、仏になるための常道
であると考 えられていた。そして称名念仏など簡単な行は、困難な行よりも劣 ったも ので、効果 の薄 いも のとみなさ
れていた。したが って成仏すること のできる者 は、困難な修行をおこなう ことができるごく 一部 の特権階級 の人間 に
限られ ていた のである。称名念仏しかできな いような 一般民衆 にと って、成仏 への道は閉ざされていた。
しかし法然が登場すると、成仏 の可能性は万人に開 かれたも のとなる。と いう のも、法然は称名念仏を重視 し、唯
一絶対 の成仏 の方法として位置づけた。それに対 して従来重視 されてきた困難な行は、成仏 のためには全く不要 で、
無意味なも のに過ぎな いと の評価を与 えた。
つまり法然 は、困難な修行と簡単な称名念仏 の価値を逆転 させてしま い、成仏に至るための道を誰にでもできる平
易なも のにしたと言える。そ の結果、救 いの可能性は 一部 の人間 に限定されたも のではなく、
一般民衆 に至 るま で誰
にでも平等 に与えられたも のとな った のである。
以上 のように従来 の研究 では、平易な称名念仏 一行を選択することによ って、救 いの平等性を実現したと いう こと
こそが、法然思想 の持 つ意義 であり、また法然が先駆けとな った鎌倉新仏教 の重要な特性 であると評価されて いる。
4、法然思想における不徹底性
しかし法然には、そ のような思想的な意義 に水を差すような側面が存在 していると考えられている。法然 が膨大な
数 の称名念仏を称えたと いう こと、三昧発得 の人 であ ったと いう こと、さらに法然が戒律を非常 に重視したと いう こ
となどがそれである。しかしこの発表 では問題を限定して、特に戒律を重視する法然 の態度に ついて論 じていきた い。
法然は自 ら戒律を厳格 に守 るとともに、人 々に対 して戒律を守 るべき ことを説 いている。戒律とは仏教者が守 るべ
き規則 であ るので、仏教本来 の立場からすれば、戒律を重視することは当たり前 のことと言えるだ ろう。
しかし法然は、成仏に至るための道を称名念仏 の実践に限定 している。そ のような法然 にと って、戒律を守 ること
は念仏以外 の行 である。したが つて戒律は原則として、成仏 のためには何 の意味も持たな い行為 であるはずだ。法然
の立場からすれば、戒律を守 るか否かと いう ことは、極楽往生と いう結果に対 して何 の影響も与えることはな い。
それにもかかわらず、法然は戒律を守 ることを重視する。 これは 一体どう いう ことな のだろうか。戒律を重視する
六五
ニ
ハエ
ハ
法然 の態度は、極楽往生 のために称名念仏 のみを必要とすると いう、法然思想 の原則に反するも ののように見える。
さらに、もしも法然 が称名念仏 の他に戒律を必要としているのであれば、往生 の方法 は誰にでも実践 できる簡単な
も のとは言えなくな ってしまう。 いかに称名念仏が簡単 であ っても、それに加えて困難な戒律が重視されて いるので
あれば、極楽往生は結局 一部 の人間にしか実現 できな いも のにな ってしまう。
このことは困難な行を重視 し、
一部 の人間に のみ救 いの可能性を認めると いう、旧仏教的なあり方 への逆行 ではな
いだろうか。
一般民衆 にま で平等 に救 いの可能性を開くと いう、法然思想 の革新性 は戒律重視 の態度 によ つて損なわ
れ てしま いかねな い。
以上 のような理由から、戒律を重視する法然 の態度を いかに理解するかは、法然研究における 一つの大きな問題と
な ってきた。従来 の研究 でしばしば行われているのは、法然 の戒律重視 の態度を、法然 の二面性、ある いは不徹底性
として解釈すると いう ことだ。
例えばあ る見解 によれば、法然 は革新的な思想をとなえながらも、指導者としての立場に縛 られて いたがために、
自己 の思想を徹底することができなか つたと いう。すなわち、法然は人々に称名念仏による往生 の道を説き広 め、人 々
を導く師としての立場にた つていた。そのために法然 は、模範的な姿を人々に見せる必要があり、伝統的な価値観 で
重んじられてきた戒律を野放図に破るようなことができなか つた。その結果、法然 の称名念仏 一行による往生の思想
と、戒律を重視すると いう実践的態度 の間に食 い違 いが生 じ、法然 の思想 は徹底 したも のにならなか つたと いう ので
あ る。
こうした見解に見られるように、法然はしばしば伝統的な仏教とは 一線を隔する革新性を持 つ一方で、伝統的な仏
教 の価値観に泥むような側面を持 っていると考えられている。 つまり法然とは二面性を持 った人物であり、思想的に
不徹底な面を持 つとされているのである。
しかしこのような法然観は、果たして妥当なも のであるのだろうか。私はこのことに ついて疑間を感 じて いる。と
いう のも、法然思想が二面性を持 ったも のとみなされるのは、法然研究 の枠組 みによると ころが大き いのではな いか
と考 えられるからだ。
法然 の思想はしばしば、伝統的な旧仏教と革新的な新仏教 の対立と いう図式や、ある いは弟子 の親鸞 への流れ の上
に位置づけられて解釈 され評価を受けて いる。 このような研究 の方法は、仏教思想史上における法然思想 の意義を考
えるために、非常 に有効なも のと言えるだ ろう。
しかしこうした研究 の方法は、法然思想 の外部に存在する尺度 でも って、法然思想を理解するも のである。そ のた
めに、法然思想自体に ついての理解 が、疎 かになりかねな いと いう欠点を持 って いる。法然 の思想に矛盾点が見出さ
れるのも、実は こうした研究方法 の特性 によると ころが大き いのではな いだろうか。
と いう のも、法然 の思想自体を検討するならば、従来矛盾点として指摘 されてきた法然 の態度 は、実 は法然思想 の
うちに整合性を持 って位置づけることができるからだ。法然 の戒律重視 の態度も、法然 の称名念仏 の思想と決 して矛
盾するも のではな い。むしろ法然 における称名念仏 の特性から、必然的 に導き出され るも のと考 えることができる。
以下、 このような私 の見解に ついて述 べた い。
5、法然思想における悪
戒律とは悪と密接な関係にあるも のである。悪ある いは罪とは法然思想 にお いて、おおよそ二通り の意味に分類 で
きると いう。
一つは戒律を破 ると いった具体的な行為 である。その代表的なも のとして、十悪 ︿
殺生 ・楡盗 ・邪淫 ・
六七
六八
妄語 。綺語 ︵
無益なお喋り︶・悪 口 ・両舌 ︵
中傷︶。貪 欲 ・瞑患 ・邪見﹀や四重罪 ︵
殺 ・盗 ・淫 ・妄︶ や五逆 ︿
母を殺
す こと、父を殺す こと、聖者を殺す こと、仏を傷 つけること、教団を破壊すること︶がある。もう 一つは煩悩 や念仏
に対する不信など、望ましくな い心 の状態 である。 この二 つの事柄は煩悩 や不信など望ましくな い心 の状態から、戒
律を破 ると いう具体的な行為 が行われると いう関係 にある。
これらの悪ある いは罪とは、生き物を生死輪廻 の境遇 に繋ぎ止 め、苦 しみをもたらす要因となるも のである。した
が って戒律を重視すると いう ことは、自 ら輪廻 の要因 である悪を避け、他者 に対しても悪を戒めることに他ならな い。
ここから法然 の戒律重視 の態度とは、悪を忌み避ける態度 であると考 えることができる。
と ころで悪とは法然思想にお いて、非常 に重要な意味を持 つ事柄 である。と いう のも、﹁
世す でに末法 になり、人 み
な悪人なり﹂∩念仏往生一
業義抄﹂﹃
法然全集 一
二 一三 〇頁︶と いうように、法然 は自らを含めた人間す べてを、末法 の
悪人 であると規定している。末法とは釈尊 の死から長 い年月が経 った悪 い時代 である。 このような末法に生きる人間
も、また素質 の劣 った悪 い者ばかりであると考えられ ている。そしてこのように人間を悪人とみなす こと こそが、法
然思想を成立 せしめる前提 であると言える。
仏教 にお いては基本的 に、人間は成仏を遂げ るために、自力 の修行によ って悪を断ち切 っていかなければならな い
と考えられている。なぜならば、悪とは輪廻 の要因 であるので、輸廻を抜け出すためには克服 せねばならな い対象 で
あるからだ。しかし法然は このような基本的な成仏 の方法を、聖道門と分類 し、現在 の人間には実践不可能なも のと
して否定する。なぜならば、
﹁
煩悩具足してわろき身をもて、煩悩を断 じ、さとりをあらはして成仏すと心えて、昼夜 にはげ めども、元始 より貪
唄具足 の身 なるがゆえに、ながく煩悩を断ず る事かたきなり。かく断じがたき元明煩悩を三毒具足 の心にて断ぜんと
する事、たと へば須弥を針にてくだき、大海を芥子 のひさくにてくみ つくさんがごとし﹂含念仏往生要義抄﹂﹁
法然全
集一
二 一三 〓一
頁︶
と述 べられているように、現在 の自分たちは末法 の悪人 であ って、無限 の過去以来、煩悩を起 こし続けてきた存在
である。そのように絶えず煩悩を作り続ける身 でも って、自己 の煩悩を断ち切 ろうとしても、そ のことは例 えば須弥
山を針 で砕き、大海を芥子の柄杓 で汲 み つくすほどに困難な ことであると いう。
このように法然 にと って、現在 の人間 は絶えず悪を行 い続け、そのことを自分 ではどうすることもできな い存在 で
ある。彼らはそのために自 ら悪を断ち切 って成仏すると いう、仏教 の基本的な方法を実践することができな い。 これ
は仏教的な価値観に基づけば、人間にと って最も正しく幸福 であるあり方を、自力 では永遠 に実現すること のできな
い、絶望的な状況 に置かれたも のと言える。
そして法然 の思想的課題とは、 このような悪人 であ る現在 の人間が、それでもなお、 いかにして成仏を実現するか
と いう こと であ った。
6、他力 による悪 の超越
この課題 の解決法として法然が見出した のが、浄土門、すなわち称名念仏による極楽往生と いう道 であ る。称名念
仏は南無阿弥陀仏と称えるだけ の行 である。 これはごく簡単なも のであるので、誰にでも実践することができる。 つ
まり悪人 であると ころの末法 の人間 にと っても、容易にお こなう ことができるも のである。
しかも称名念仏は簡単 でありながら、最低 の悪人 ですら確実に往生させる威力を持 っている。なぜならば、称名念
仏をおこなう者には、他力と いう阿弥陀仏 の救済 の力 の働きかけがあるからであ る。 このことに ついて、法然 は ﹁
無
六九
量寿経﹄ の四十八願を挙げ て説明 して いる。
七〇
﹁
無量寿経﹂によれば、阿弥陀仏が法蔵菩薩という修行者であ った時に、四十八の本願をたてた。この本願のうちの
一つで、法蔵菩薩は称名念仏する者をみな自分の浄土に生まれさせようということを誓 つたという。 つまり法蔵菩薩
の誓 いにおいて、称名念仏は往生のための正式な方法として定められている。
そして法蔵菩薩の誓 いは、阿弥陀仏の超人的な救済力、すなわち他力によ って今現に実現されている。したが って、
称名念仏をおこなうならば、阿弥陀仏の他力がその人に働きかけていき、往生を遂げさせてくれるのである。このよ
うに称名念仏とは、他力に接触し、他力 の救 いにあずかるための方法である。そのために、末法の悪人にすら往生を
遂げさせる効力を持 っているのである。
このような他力がいかにして実現されたのか、その要因として語られるのが、﹃
無量寿経﹄で説かれる法蔵菩薩の修
行の物語である。﹃
無量寿経﹂によれば、法蔵菩薩は称名往生の誓 いを立てた後、その誓 いを実現するために修行をお
こな った。その修行は無限に近 い時間にわた つて行われ、純粋な善行を計 知れないほど積み重ねるというものだ っ
,
た。
善とは仏教にお いて究極的 には、人を成仏に向かわせるものを意味している。法蔵菩薩 は自ら積 み重ねた善行によ っ
て成仏し、阿弥陀仏と いう超人的な仏とな つた。さらにそれだけには留まらず、法蔵菩薩は迷 い苦しむ生き物を往生
に向 かわせる救 いの力を実現した。要するに他力とは、法蔵菩薩 の無限 の修行 によ って実現した、絶対的な善 の力 で
あると考えることができる。
法然によれば、 このような他力とは人間 の善悪を超越 したも のであると いう。
﹁
たと へばおもき石をふねにのせ つれば、しづむ事なく万里 のうみをわたるがごとし。罪業 のおもき事は石 のごとく
なれども、本願 のふねにのりぬれば生死 のうみにしづむ事なく、かならず往生する也﹂∩十 二箇条 の間答﹂﹁
法然全集
一
こ 一三 四頁︶
と いう文章にあ るように、人間 のおこなう悪がどれほど重くとも、本願にしたが って称名念仏するならば、他力 に
よ って必ず往生を遂げ ることができる。 つまり人間 の行うどれほど重 い悪 であれ、他力 の前 に出れば、ま ったく意味
のな い程度 の些細なも のでしかな い。そして善 に ついても、 これと同 じことが言える。人間 のお こな い得 る いかなる
善 であれ、他力と比較するならば、無 に等 し いほど つまらな いも のでしかな いのであ る。
法然 によれば、善 であれ悪 であれ、他力 に影響 を及ぼすほど の働 きを、人間は行う ことが できな い。 したが って、
人間が いかに悪をお こな ったとしても、その悪が他力を妨げ て、往生を遂げ られなくなると いう ことはな い。そ の逆
に、人間 が いかに善をお こな ったとしても、そ の善が他力を助けて、往生を遂げ やすくなると いう ことはな い。
このように、他力とは人間 のおこなう善悪を超越 した、絶対的な善 の力 である。そのため他力と関わる限り、人間
のお こなう善悪はその意味を失 い、必然的 に成仏に向かわされて いく ことになる。そして他力と関わりあうための具
体的な方法とは、既に述 べたとおり称名念仏を称えることである。 したが って称名念仏とは いわば、絶対的な書 のカ
の介在を求 めることで自己 の悪を超越 し、成仏に向 か って いくための行為 であると いえる。
7、日常的な悪に対する姿勢
このような称名念仏 の思想を基本とした上 で、日常生活 のうえで悪 に具体的 に対処する仕方を述 べた のが、法然が
戒律を重 んじ、悪を戒 める 一連 の言説 であると考えることができる。
と いう のも、 いかに阿弥陀仏 の絶対的な善 の力と関わ って いるからと い つて、日常 の生活を送 る以上は、自らが善
七一
七二
悪をおこなうと いう局面と無縁 でいることはできな い。悪を行う べきか否かと い った選択に迫 られた場合、どうすれ
ばよ いのかと いう問題は、念仏者と いえども気 にかけず には いられな いことであ ったろう。
法然 の日常的な悪 への対処 の仕方とは、やむを得な い場合は悪をおこな つても仕方がな いが、可能な限りは悪は避
けるべきである、と いう ことである。と ころで、 このように法然が悪を戒めるのは、
一体 いかなる理由があ ってのこ
とだろうか。
念仏を行う限り、人間 のおこなう悪は本質的 に無意味なも のとなる。 つまり いかに悪をおこなおうとも、そ の悪が
輪廻 の原因としての力を発揮することはな い。したが って法然が悪を禁ず るのは、それが輪廻 の原因 であるからと い
う理由 ではあり得な い。
従来 の研究 にお いては、社会 や他宗派と の融和を図 った結果、法然は悪を戒 めず にはおれなか つたと いう見解 や、
戒律 を守 ることは、念仏を補助するために行われるも のであ ると いう見解 が出されている。しかしここではより根本
的な理由として、そもそも法然 の念仏 の背景には、輪廻 の要因 である悪を厭 い、悪から逃れ出ることを願う態度 が 一
貫して存在 していたと い ことを指摘 しておきた いと思う。
,
もしも法然が悪を輪廻 の要因 として問題視し、そ の克服を目指す態度を持たなか ったならば、念仏をおこなう必要
はなか つただろう。と いう のも、法然 は自 らの悪を自力 で克服することができな いがために、阿弥陀仏と いう超越的
な救済者 の介在を求め、それによ って自己 の悪を克服することを目指 したからである。念仏 の実践とは法然にと つて、
自己を支配する悪を超え、成仏と いう理想 へ向 か っていくための行為 であ った。
さらに法然によれば、念仏は 一生 の間絶えず行われ続 けねばならな いも のだ った。
﹁マコト 二十念 ・一念 マデ モ、仏 ノ大悲本願 ナホカナラズ印接 シタ マフ元上 ノ功徳 ナリト信ジテ、
一期不退 二行ズ ベ
キ也﹂∩越中国光明房 へつかわす御返事﹂﹃
法然全集 一
こ 六Q 貝︶
とあ るように、極楽往生を求める者は、十回や 一回 の念仏 ですら往生すると信 じて、
一生涯怠 ることなく念仏し続
けなければならな い。なぜならば、ある人が念仏を称え ていたとしても、ある時点 で念仏を止めてしま ったならば、
そ の時点 で阿弥陀仏 の他力はそ の人から離れ去 ってしまうからである。そ の結果として、そ の人は自己 の悪 に引かれ
て、輸廻 の境遇に沈んでいかざるを得な い。
このような法然 の考え方 は、彼 が 一念義を批判する態度からよく読 み取 ることができる。
一念義とは当時流行 した
説 で、ひとたび念仏すれば、その後 いかに悪を行 ったとしても、問題なく往生することができるとする考え方 である。
法然 は このような考え方に対し、
﹁マタ念ゼズ バ、ソノ悪カノ勝因 ヲサ エテ、ムシ三 二途 ニオチザラムヤ﹂令越中国光明房 へつかわす御返事﹂﹁
法然全
集一
こ 六 一頁︶
と いう意見を述 べて批判 して いる。 つまり法然によれば、人間は悪をお こな い続け、常 に悪 の影響を受ける存在 で
ある。そ のため、他力と関わりあう努力を続けなければ、人間は自 ら のお こなう悪 によ つて、生死を繰り返す ことに
な ってしまう。 したが って、人間は念仏によ って生涯自己 の悪を否定 し続 けねばならな い。
以上 のことから結論付けると、法然 の思想 における念仏とは、絶対的な書 の力 に関わりあう ことによ って、絶 えず
能動的に自己 の悪を否定 し続けていく営 みであ る。そして、 このような念仏者 のあり方 にお いて、悪とは常 に厭 い克
服す べき対象 に他ならな いと言 える。したが つて、法然にお いて悪 の克服を意図することは、念仏すること の大前提
であり、念仏者 が持 つべき基本的な態度だ ったと考 えることができる。そして、 この念仏 の前提 である態度からは、
七三
日常生活 のうえでも悪を可能な限り避けようとする姿勢が自然 に導 き出されてくる。 このことは次 の文 によく表れて
ヽ
いると言 える。
七四
﹁
ほとけは悪人をす て給 はねども、 このみて悪を つくる事、 これ仏 の弟 子にはあらず。 一切 の仏法 に悪を制 せず と い
う事 なし。悪を制 す るに、 かならず しも これをと ゞめえざ るも のは、念仏 してそ の つみを減 せよとす ゝめたる也。 わ
が身 のた へねば と て、仏 にとがをかけた てま つらん事 は、 おほきな るあ やまり也 。わが身 の悪 をと ゞむ るにあたはず
ば、 ほとけ慈悲をす て給 はず して、 この つみを滅 してむか へ給 へと申す べし。 つみをばた ゞつくるべしと いふ事は、
す べて仏法に いはざると ころ也﹂今十 二箇条 の間答﹂﹁
法然全集一
昌 一言一
四頁︶
阿弥陀仏 の他力 は いかなる悪人も往生させるが、好んで悪を行う ことは仏教者 のなす べき こと ではな い。悪とは仏
教 にお いて克服す べき対象 であり、そ のことは念仏者にと つても同じである。念仏者 は自力 で悪を克服しようとして
も、悪を止 めることができな いので、他力 の助けによ つてその悪を乗り越えようとするのであ る。したが って、念仏
者と いえども悪 の克服を願う べきであり、 できる限り悪を避けようとするのが正し いあり方 である。
このように念仏をお こなう ことと、悪を できる限り避けようとすることは、悪 の克服を願うと いう同じ 一つの態度
から生 じた行為 である。そのiめ念仏をすることと、戒律を重んじ悪を戒めることが、法然 にお いて矛盾 した行為 で
あると いう ことはできな い。むしろ悪を戒める法然 の態度は、法然における称名念仏 の意義 から必然的に生じてくる
も のであると いえる。
注
︲﹃
アジア仏教史日本編Π 鎌倉仏教 一﹄︵
佼成出版社、
一九七二年︶
2田村円澄 ﹃
、福井康順 ﹁
法然上人伝の研究﹂︵
法蔵館、
一九五六年︶
法然伝についての二三の問題﹂∩印度学仏教学研究﹄通号 一〇、
、信楽崚貴 ﹃
、家永二郎 ﹃
法蔵
一九九七年︶
親鸞と浄土教﹄︿
一九五七年︶
家永三郎集﹄第 二巻 ︵
岩波書店、
日本印度学仏教学会、
館、 二〇〇四年︶
。 田瑞麿 ﹃
一九六三年︶
日本仏教 における戒律 の研究 ︵
在家仏教協会、
石
﹄
4矢野了章 ﹁
一九七 二年︶
法然 における罪悪 の問題﹂含真宗学﹄通号四五・
四六、龍谷大学真宗学会、
6
、 九 九 、以下 ﹃
﹁
法然全集 三 と記述する。
橋
俊
雄
訳
注
法
然
全
集
﹄
第
二
巻
︵
春
秋
社
一
八
年
︶
﹂
大
6坪井俊映 ﹁
、齋藤隆信 ﹁
法然 の戒と念
一九六 一年︶
法然教学 における戒 の問題﹂含仏教大学研究紀要﹄通号二九、仏教大学学会、
、同朋合、 二〇 一一年︶
八百年遠忌記念法然上人研究論文集﹄
仏﹂︵
福原隆善編 ﹃
︵
さ いと う ま き 静 岡 大 学 人 文 社 会 科 学 部 講 師 ︶
七五