83 コンラー ト3世の国王選 出 ( 1 1 3 8年) 山 は じ め 本 伸 二 に 11 3 8年,四旬節半ばの 3月 7日,シュタウフェン家のコンラー トは,コブ レンツにおいて ド 2月 4日に前 国王 ロー タ イツ国王 に選出 された (コンラー ト3世)。この国王選出は,前年の1 ル 3世が息子 を残 さず亡 くなった後,彼の女婿でその後継者 と目されていたヴェルフェン家の ハ インリヒ促倣公 を忌避すべ く, トリーア大司教 アールベ ロー と少数の諸侯が,聖霊 降臨祭 (5月22日) に予定 されていたマインツでの全体集会 に先駆 けて強行 したクーデタとみなされ て きた。 また,教皇イ ンノケ ンテ ィウス 2世の意向を携 えた司教枢機卿 テオデヴイヌスが教皇 使節 として選出の場 に臨席 していたことも,不法な選出を教皇の権威で補お うとした もの と考 ( 1 ) えられて きたのである。 初期 シュタウフェンの研究は,国王証書, レゲス タの編纂 などの史料整備 とともに,着実 な 在位 1 1 3 8-1 1 5 2年)の 前進 をみせている。 シュタウフェン最初の国王であるコンラー ト3世 ( 治世 にかん して も,ヴェルフェン家 との抗争 に忙殺 されて統治の実績 をあげえなかった とする 評価 にたい して, ドイツ国王の もつ皇帝的な性格の主張, ミニステリア- レンの登用 によって 支配 と管理 を集中 した国王支配領域の形成など,多 くの積極的な要素が指摘 されるようになっ ( 2 ) た。 しか し,そ うした再評価が なされるなかで も,その国王選出は,違法的要件 に満ちた不正 なものであるとの見解は,根強い ものがあったのである。 ,「トリーア大司教 アールベ ロ 諸家の見解 を,い くつか紹介 してお こう。F ・ハ ウスマ ンは ーは,司教枢機卿 テオデヴイヌス と結んで,決定 されていた選出 日以前 に,かつての対立国王 ( 3 ) ,W・ゲ ッツ r r e g ul ar成功 させた」 と述べ てい るO また コ ンラー トの登極 を,法 に則 らず i ,「不意討 ちの ような tiberr umpe l n gs u a r t i g方法 で, トリーア大司教 と教皇使節 を中心 と は した聖界諸侯の小 さなグループが,コブ レンツとい う通常 とは違 う場所 で,選 出をお こなっ ( 1 ) た」 と書 き,0 ・エ ンゲルスは 「それは,近代的な表現 をすれば,正真正銘の クーデタ e i n ( 5 ) r e ge l r e e ht l i e he r St aat ss t r e i e hであった」 と断言 している。そ してようや く1 9 9 0年代 になっ , て,i 汀e gul arか どうか もふ くめて, さまざまな視点か ら, コンラー ト3世の選出を取 り上げ る論考が登場 してきた。彼 らの見解 は,十分 に検討すべ き,新 しい視点 と豊かな内容 をもって ( 6 ) いる。 王位継承 という問題は,その王権の正当性の根拠, さまざまな政治的勢力の利害の競合 など が集約 される場である。1 1 3 8年の コンラー ト3世の選出は- 1 1 2 5年のロータル 3世 ,1 1 5 2年 のフリー ドリヒ 1世 ・パルバロツサの国王選出 も同様 であるが- ,シュタウフェンとヴェル ( 7 ) フェンの対立 を基軸 として理解 されて きた。 また王権 の正当性 は 「 血統」 と 「 諸侯 の選挙」 ( 8 ) とい う相対立する二つの原則 を両極 とす る枠組みにおいて, もっぱ ら検討 されている。 この よ , うな問題設定は,1 2世紀の ドイツ政治史の展 開を考慮すれば理解で きるけれ ども,その結果, 国王選出がおこなわれた ときの具体的な状況それ自体 は,あま り詳 しい考察の対象 とはなって 84 天 理 大 学 学 報 こなか った ように思 える。そ して ,1 1 3 8 年 とい う時点 にお いては,国王選 出の手続 きを法 的 に 整 った周知の もの とす る前提 も, い ささか近代 的 な発想 にす ぎる といえ よう。 コンラー ト3世の国王選 出 に言及 した史料 は, その事実 のみ をご く簡潔 に記 した もの もふ く ( 9 ) めれば,決 して少 な くはない。 コブ レンツで はだれが コンラー トを支持 したのか,マ イ ンツ大 司教 の空位 とい う状況 ,教 皇 に よる支持 は, どの ような影響 をあたえたのか, コブ レンツでの 選 出以 降, コ ンラー トは諸侯 か らどの ように受 け とめ られたのか- ,本稿 の課題 は,史料 を 検討 しつつ, この ような作業 を通 じて, コンラー ト3世の選 出がお こなわれた具体 的 な状況 を 明 らか に し,彼 の国王選出の正 当性 にかん して考察 を試 み るこ とであ る。 第 Ⅰ章 二 つ の叙 述 史料 まず, コ ンラー ト3世選 出の状 況 を確認 す るため に,二 つ の叙 述 史料 を読 んでお きた い。 『 ザ クセ ン編年誌』 は,次 の ように述べ ている。 ([ ] は筆者 による補足 と説明,-- は中 略 を示す。以下,引用文 につ いては同 じ)0 「[ 皇帝 ロー タル 3世が亡 くなった後],--。皇帝 [ロー タル]の妃 リヘ ンツ アは,聖母 マ リアの浄めの祝 日 [ 2月 2日] に, クヴェ- トリンプル クで諸侯 の集会 を開 くこ とを明 らか に した。 しか し, この集 会 は, [ノル トマ ル ク]辺境伯 アルブ レヒ トとその仲 間 によ って阻止 された。 --。諸侯 た ちは,協議 の後 ,聖霊 降臨祭 [5月2 2日] に,マ イ ンツで 全体集会 を開 き,そ こで神 がその ように運命づ けた者 を-致 して王 国の頂点 に据 えるこ と を決定 した。 しか し, トリー ア大 司教 アールベ ロー と少数 の諸侯 の 陰謀 に よって, [シュ ヴ ァ-ベ ン]大公 フ リー ドリヒの弟で,かつ ては国王 の名前 の倍称者 であ った シュヴ ァベ ン人の コ ンラー トが, コブ レンツで秘密裡 に,国王へ と立 て られ,--,司教枢機卿 の テ オデ ヴ イヌス に よって聖別 され た。--。 しか し, この 出来事 の名誉 にか ん して い え ば,多 くの大諸侯 の賛 同は決 して得 られ なか った。 コ ンラー トは,皇帝 ロー タルの女婿 で L J I I あ るバ イエル ン大公 ハ イ ンリヒが手 中に していた帝 国権標 を抜 け 目な く奪 った」 次 に, オ ッ トー ・フ ォン ・フライジ ングが著 した F 年代 記 ,あ るいは二 つの 国の歴 史』 ( 以 下 ,『年代 記』 とす る)の叙 述 を読 んでお こ う。 コ ンラー トの王位選 出 は,第 Ⅶ巻 の第22章 で 扱 われてい る。 「主の受 肉か ら1 1 3 8 年経 た年 の秋,皇帝 ロー タルが息子 を残す こ とな く亡 くな り,来 る聖 霊 降臨祭 [5月2 2日] に,諸侯 に よる全体集会がマ イ ンツで 開かれ る こ とになった。 しか し,諸侯 の なかのい く人かは,当時帝 国 において高 い名声 と卓越 した威信 を誇 っていた大 公ハ イ ンリヒが,その全体 集会 を力で庄倒 して しまうこ とを危倶 して協議 を し,四旬節 の 中頃 に, ガ リアの都市 コプ レンツで集会 を開いたのである。そ こで彼 らは,教皇,仝 ロー マ市民,そ してイ タ リアの諸都 市 の賛成 を約束 した司教枢機卿 で聖 なるローマ教会の使節 テオデ ヴ イヌスの臨席 の下, アウグス トウス以来9 3人 目の支配者 と して,皇帝ハ イ ンリヒ [5世]の甥 である,前述 の コンラー トを国王 に選 んだ。彼 はただちにア-へ ンの王宮 に 向かい,ケル ン, トリーアの大司教 お よび他 の司教 の援助 の下 に,前述 の枢機卿 によって - なぜ な ら,法 に従 ってそれ をなすべ きケル ン大司教 がつ い先 日選 出 されたばか りで, 85 コンラー ト3世の国王選出 ( 1 1 3 8年) l ‖ l ,国王へ と塗油 された」 まだバ リウム を所有 していなか ったので- 最初 にあげた 『 ザ クセ ン編年誌』 は, コンラー ト3世の選出 を糾弾す る姿勢 を強 く前面 にだ ,「しか し, [国王] している。次の 『 年代記』の著者 オ ッ トーは,引用部分の少 し後の箇所 で 選出に参加 していなかった大公ハ イ ンリヒお よびザ クセ ン人は,国王は法 に則 ったかたちでは ( l l ) ザ クセ ン な く,詐欺的な策動 に よって選 ばれ た とい う主張 をお こなった」 と述べ ているが 『 , 編年誌』の叙述 は, まさにその主張 である。 これ に比べ る と,オ ッ トーの 『 年代記』 は,淡 々 3 " . とした筆致であ る といえよ , しか し,両者の内容 はか な り共通 してお り 「は じめ に」で述べ た, コブ レンツにお けるコ ンラー ト3世の選 出が i r r e g ul 畠rであ るとみ なされ る理 由が ほぼ出揃 っている とい って よい。 そ して,ア-ヘ ンでの戴冠 について も,本来のケル ン大司教 ではな く,教皇使節 の司教枢機卿 テオデヴ イヌスがお こなったこと,その場 には帝国権標が欠けていたか らハ イ ンリヒ侶倣公 に渡 されていた故 に- , それはロータル 3世 ことが,法形式 的な欠陥 とみ な された。た とえ ば,G・シャイベ ル ライ ターは 「その選 出 と戴冠 か らすれば, コンラー トの王権 は,一般 的 ( l l ) に有効 とみなされ うる ものか らは,ほ ど遠かった」 と断罪 したのである。 この ような見解 を検討す るためには, コブ レンツにおけるコンラー ト選出の具体的状況 を明 らか に しなければならない。 第 Ⅰ章 「ロー トリンゲン ・グループ」 以下, 「コブ レンツ集会」 とす る- ,そ ,「コブ レンツ集 会」 の参加 者 を特 定 してみ よ 「コブ レンツ集会」の う。 コンラー トの選出 に言及 した史料 は乏 しい とはいえないけれ ども, コブ レンツにおけ るコンラー ト3世選 出の場- の具体 的状 況 を知 るための試 み と して, まず 出席者の固有名詞 を記 している ものは限 られている。 第 Ⅰ章で紹介 した二つの史料 ,『ザ クセ ン編年誌』,オ ッ トーの 『 年代記』 に名前が記 されて い るのは, コンラー トを別 にすれば, トリーア大 司教 アールベ ロー,ケル ン大 司教 アル ノル ト,司教枢機卿で教皇使節 テオデヴ イヌスである。 さらにその他の史料 か らは, メッツ司教 シ ( 1 5 る 。 ュテファン, ヴオルムス司教 ブ ッコ,そ して, コンラー トの兄であるシュヴァ-ベ ン大公 フリ ) ー ドリヒ 2世の名前が確認 され , この顔ぶれ を見 る とき 「 四旬節 の 中頃, トリーア大司教 アールベ ロー とケル ン大司教 アル ノル トを支持す るロー トリンゲ ンの諸侯 によって,前述の諸侯 コンラー トが, コブ レンツで国 王へ と選出 され親 という 『プラウヴァイラー修道 院編年誌』の叙述 は,注 目にあたいす る。 なぜ な ら,名前の特定 された 「コブ レンツ集会」 の出席者 は全員, ロー トリンゲ ンとそれ に隣 接す るエルザス とい う地域 に深 い関係 をもっていたか らである- 以下,彼 らを 「ロー トリン ゲ ン ・グループ」 とす る。 1.聖界諸侯 たち , ni gs mac he r 」 とも称 まず, コンラー ト3世誕生の原動力,それ故 に 「キ ングメイカー Ko される トリーア大司教 アールベ ローか ら検討 してい こう" . アールベ ローは, トウール近郊,モ ン トル イユの出身である。 オーバー ロー トリンゲ ンの メ ッツ教会の プリミケ リウスであった とき,彼 は,バー伯家の兄弟であるライナル ト, シュテフ 8 6 天 理 大 学 学 報 アンと親交 を結ぶ。そ して,彼が皇帝ハ イ ンリヒ 5世 とメ ッツ司教 ア- ダルベ ロと対立 した と 1 2 6 年 にマ グデブル ク きには,バー伯家 との関係 は心強い後 ろ盾であったO アールベ ローは,1 大司教が,1 1 2 9 年 にハ ルバー シュタッ ト司教 がそれぞれ空位 になった ときに候補者 として名前 W L l [ がでているが,1 1 31 年 4月, トリーア大司教 に選 出 された。 I l l l 「 1 1 31 年以来,アールベ ローはロー タルの真 の敵であった」 と評 されるほ ど,アールベ ロー と皇帝 ロー タル 3世の関係 は,最初か ら緊張 をは らんでいた。 ロータルは,アールベ ローがす で にヴイエ ンヌで教皇 インノケ ンテ ィウス 2世か ら聖別 を受 けているに もかかわ らず,最初 は 叙任 を拒否 している。 アールベ ローは, ロー タル 3世の時代 ,1 1 3 2年 にア-ヘ ンで叙任 を受 け ( 力) た ときをふ くめて三度 しか宮廷会議 に出席が確認 で きないが,1 1 3 6 年 に始 まったロー タルの第 I ) H ある 3次 イタリア遠征 には参加 している。そ してこの遠征 において,アールベ ローはコンラー トと 友好的な関係 をもつ ようになったので 。なお, コンラー ト3世選 出の地 コプ レンツは トリ ーア大司教 区に属 してお り, アールベ ローが 自己の大司教 区において領域的支配 を貫徹 しよう と努めていたことはい うまで もない。 次 に,ケル ン大司教 アルノル トについてみてみ よ ヂ ' O彼 は,1 1 3 7 年 7月 1日に南 イタリアの メル フイで亡 くなった 7- ゴーの後任 と して,同年 1 2月 (4E ]か ら2 5E ]の 間 と推定 され g ) に,ケル ン大司教 に選 出 された。「コブ レンツ集会」の時点で は,オ ッ トーが 『 年代記』で述 べ ているように, まだ聖別 を受 けていない。 アル ノル トは,1 1 2 4年以来, ケル ンの聖 ア ン ドレアス律修修道会の プロプス トをつ とめてい たが, この教会 は,ナ-エ ガウに所領 を有 してお り,それ をつ う じて シュボ ンハイム伯家 と結 びついていた。 アルノル トの前任者 7-ゴーは, シュボ ンハ イム伯家の出身である。 シュボ ン ハ イム伯家 は, 7-ゴーの兄 メギ ンハル トの妻がバー伯家の出身 とい う緑 で, メ ッツに所領 を 保持 してお り,メ ッツ教会のプ リミケ リウスであったアールベ ローや メ ッツ司教 シュテ ファン とも親 しい関係 にあった。 アルノル トに とって, シュボ ンハ イム伯家 との関係 は, 自己のケル 加 ) ある 。 ン大司教選出の大 きな推進力 となっただけで な く,彼 をエルザス ・ロー トリンゲ ン地域の所領 ( と人脈 の緊密 な網の 目に組み込 むことになったので 3 けE メ ッツ司教 シュテファンは,オーバー ロー トリンゲ ンのバー伯家の出身で,1 1 2 0 年 にメ ッツ 司教 の地位 に就 いている。 シュテファンは, メ ッツ司教就任以前か ら,メ ッツ教会のプ T )ミケ 1 )ウスであったアールベ ロー とは きわめて親 しい 間柄 で あ った。彼 の メ ッツ司教 選 出 にはアールベ ローの協 力 が あ り,1 1 31 年 にアールベ ローが トリーア大司教 に選 ばれた ときには, シュテファンが支援 したの である。 さらに,後述す るように, シュテファンのバ ー伯家 は, シュタウフェン,つ ま り, シ ユヴァ-ベ ン大公 フ リー ドリヒ, コンラー トの兄弟 とも縁戚 関係 にあったことを付 け加 えてお こう。 t Xl ヴ ォルムス司教 ブ ッコ は,バ ムベ ル クの聖堂参事 会の メンバ ーで あ った1 1 1 5 年, ヴ オルム ス司教 に選出 されている。 しか しなが ら,ブ ッコは,皇帝ハ イ ンリヒ 5世 と不和 になるな どその立場 は危 うい ものであ ったが ,1 1 2 4年 7月, シュヴァ-ベ ン大公 フリー ドリヒの支援 を得 て, ヴ オルムスの把握 に成 功す る。それは一時的 なもの に終 わったが, フリー ドリヒとの友好 関係 を示す ものであろ う。 フリー ドリヒが退 け られてロー タルが国王 に就 いた1 1 2 5 年以後, プ ッコとロー タルの関係 は疎 遠 といって よい。 コ ンラー ト3世の選 出 に大 きな役割 を演 じた人物 と して,史料 に もその名前 が頻 出す るの 87 コンラー ト3世の国王選出 ( 1 1 3 8年) ( 2 1) が,サ ンタ ・ルフィーナの司教枢機卿 で当時教皇使節 で もあったテオデ ヴ イヌスである。彼の ( 2 8) 出 自は確定 されていないが,シュヴァ-ベ ン生 まれ とす る史料 もある。 1 1 7 年以前 に,エルザスのマ ウルス ミュ ンス ター修道院に入 っている。 テオデヴ イヌスは,1 この修道院は, シュ トラ-スブルク司教 区内 にあったが, メ ッツ教会の私有修道院であ り,チ オデ ヴイヌスは, メ ッツ教会のプ リミケ リウスであったアールベ ロー,後 にメ ッツ司教 となる 1 2 5 年 ( あるいは1 1 2 6 年)に, ゴル ツェ修 バー伯家の シュテファンとも親交 を結 んだ。そ して1 道院長 となっている。 1 1 3 0 年, ヴユルツブル クでの帝 国会議 に出席 したテオデヴ イヌスは,ザル ツブルク大司教 コ ンラー ト, ミュ ンス ター司教エ グベル トとともに,皇帝 ロー タル 3世 による教皇 インノケ ンテ ィウス 2世 の承認 を報告 すべ く, イ ンノケ ンテ ィウスの滞在 地 ク レルモ ンに派遣 され てい ( 2 9 ) るOそ して,1 1 3 4年 にサ ンタ ・ルフィーナの司教枢機卿 に選 出 された後 ,彼 は教皇使節 に任命 されてただちに ドイツへ赴いた。 ロー タル とシュヴ ァ-ベ ン大公 フ リー ドリヒの和解 に尽力 し,ア-ヘ ン,バムベル ク,ハルバ ーシュタッ トを訪れ, メ ッツではアールベ ローが主宰す る 宗教会議 に出席 している。 ( 3 0) テオデヴ イヌスは,合計 6臥 教皇使節 として ドイツに滞在 した。 コブ レンツで コンラー ト 3世選 出に関与 したのは 3回日の滞在の ことであるが,テオデヴイヌスの精力的な活動 と,彼 を 「国王 コンラー トの最 も親密 な割 と評す る史料 をふ まえれば, コンラー トは,国王選 出の ずっ と以前 に・すでにテオデヴ イヌス と密接 な関係 にあ霊 =とい う見踊 説得力 をも-。彼 は,第 2次十字軍 において も, コンラー トに同行 してい 。テオデヴイヌスは,エルザス ・ロ る ー トリンゲ ンにおいて緊密 な人間関係 を構築 していたのであ り,教皇使節 としての活躍 も,そ うした人脈 に支え られていた といえよう。 2.シュヴァーベ ン大公 フ リー ドリヒ 2世 ,「コブ レンツ集会」の コンラー ト3世 の兄 であ るシュヴァ-ベ ン大公 フ リー ドリヒ 2世 は 出席者 としては,唯一その名前があげ られている世俗諸侯 である。 1 0 5 年以来, シュヴァ-ベ ン大公 の地位 にあ った彼 は,エ 父 フリー ドリヒ 1世 の後 を襲 った1 ( 3 4) ルザス ・ロー トリンゲ ン地域 に支配権 を確立すべ く,努力 を重 ねている。オ ッ トー ・フォン ・ フライジ ングの 『フリー ドリヒ [1世 ・パルバ ロ ツサ]の事績』- , 以下 『 事績』とする- によれば, シュタウフェンに とって 「 バ ーゼルか らマ インツまで」の地域 は,そのなかに 「 王 xi mavi sr e g i」が存するのであった。 さらに, フ . m )- ドリヒ 2世の精力的な 国最大の力 ma ,「彼 はつねにライン河 を下 りなが ら,適切 な場所 にブル クを建設 し,その周辺 を征服 活動 は した。そ してす ぐにそのブル クを後 に して新 しいブル クを建設 していったので,人々は彼 につ いて 「 大公 フリー ドリヒは, 自分の馬の尻尾 にいつ もブル クをつけて引 きず っている」 とい う ( 3 5 ) u xA l sa 且 とも呼 ばれて 諺 をつ くった」 と描写 されている。それ乱 彼 は 「 エルザス大公 d I ) 7 1 う いた。 次 に,前述の聖界諸侯 たちともかかわって くる血縁 関係 について述べ てお こ 。 フリー ドリ ヒは,祖母 ヒルデガル トをつ うじて,バ ー伯家 と縁戚関係 にあった。 メ ッツ司教 シュテファン をは じめ,彼 を媒介 としての さまざまな人脈 は, フリー ドリヒが この地域 に確 固 とした基盤 を 築 くの におおいに貢献 した。 また,圧力 を強めて くるロー タル に対抗 すべ く, フ リー ドリヒ ( 3 &) は,オーバ ーロー トリンゲ ン大公 ジーモ ンの息子 に娘 を嫁がせている。 さらにケル ン大司教 ア ル ノル トと結 びつ きのあったシュボ ンハ イム伯家 とも,近親者 の婚姻 によって友好 を保 ってい 88 天 理 大 学 学 報 たことも付 け加 えておこう。 , フリー ドリヒが コンラー トの選出に関与 していたことは 「コンラー トは,兄の フリー ドリ ヒによって国王 に選 ばれ貰' J とす る史料 もあ り,確実 といえ よう。 しか し,国王選 出におけ る, シュタウフェンのこの二人の兄弟の関係 は,少なからず錯綜 していて,決 して 「 一枚岩」 ではない。1 1 3 8年のコンラー ト選出への理解 を深めるためにも,その前史 ともい うべ き部分 を 中心 に,二人の関係 を確認 しておこう。 フリー ドリヒとコンラー トの母は,ザ リエル家最後の国王ハ インリヒ 5世の姉 アグネスであ る。 シュタウフェンのこの兄弟 は,母をつ うじてザ リエル家の血統 をひいていることになる。 1 1 2 5年,ハインリヒ 5世が息子 を残す ことな く世 を去 ったとき,ザ リエル家の財産 と帝国権標 を託 されていたのはフリー ドリヒであった。彼は,王位継泉の権利 をもつ最有力候補 として, ロータル 3世の後継者選出に際 しての,ヴェルフェン家のハ インリヒ侶倣公 と同 じ立場 にあっ た といえよすとそ して,ハ イン. )とと同 じく, フリー ドリヒの期待 も裏切 られる。興味深いの 1 25年の国王選出には, コンラー トはまった く関与 は,フリー ドリヒが最右翼の候補であった1 1 2 7 していないことであg' .彼は,前年か ら聖地イエルサ レムへの巡礼 に赴いてお り,帰国は1 年の夏のことであった。 ( 4 B) ロータルの選出に対抗 して, シュタウフェンは対立国王 を擁立す る。 この とき選出 されたの 1 2 5年の時点で国王への最短距離 にあったフリー ドリヒではな く,聖地か らの帰国まもな は,1 い弟の コンラー トであった。その後 シュタウフェンは1 1 35年にロータルに降伏するが,フリドリヒが ロータルの周辺には姿 を見せず,その第 3次 イタリア遠征 に も参加 していないのに対 1 3 5年の うちにロータルの近辺 に登場 してい し,対立国王で もあったコンラー トは,降伏 した1 る。た とえば,ロータルのイタリア遠征では,発給 された国王証書の証人欄 に,世俗諸侯 とし ( t 3 ) ては,ハ インリヒ侶倣公 に次いで 「 大公 コンラー ト」 と名前 を残 している。 コンラー トは,少 な くともロータルの治世末期 には,彼の有力な側近であった。そ して, イタリア遠征 において す ' . 発揮 された彼の能力が,他の諸侯の信頼 を勝 ち取 り,王位へ とつながった ともいえよ 王位継泉 とい う舞台に限って も,この二人の兄弟 は,かな りきわだった対照 を示 している。 1 1 2 5年の国王選出においては王位 に最 も近い と期待 されなが ら敗北 を喫 したフ リー ドリヒは, 対立国王 にもならず ,1 1 3 8年の国王選出では候補者 としてその名前に言及する史料す らない。 一方,弟のコンラー トは,1 1 25年の国王選出ではまった く蚊帳の外で- 兄-の協九 支援す 1 3 8年 には国王登極 を果 た している。そ し ら確認 されない- あったが,対立国王 を経 て,1 て,コンラー トが対立国王であった時期 において も,この兄弟はお互いにそれぞれの領域で動 いてお り,共同歩調,協力姿勢 とい うものはあま り示 していないのであ 岩 ' 0 1 1 3 8年の国王選出においては,すでに述べ たように,フリー ドリヒは弟 コンラー トの擁立に ,「コプ レンツ集会」 にヴオルムス司教 ブ ッコが参加 したのは,フリー ド 努力 している。 また リヒとの友好関係が理由であろう。 しか し,国王選出におけるフリー ドリヒとコンラー トの関 係- もちろん決 して非友好的 とい うのではないが,おたがいにい くぼ くかの,場合 によって はかな りの温度差 と距離が感 じられる- を考慮す るとき,フリー ドリヒは, コンラー トの兄 とい う血縁上の立場 よりも,む しろ,シュヴァ-ベ ン大公 としての 「ロー トリンゲ ン .グルー プ」の-貞 として, コンラー トの王位 を推進 した といえるだろう。 3.「E 3- トリンゲン ・グループ」 と 「ザクセン ・グループ」 「コブ レンツ集会」の出席者 として特定 された諸侯は,エルザス ・ロー トリンゲ ン地域 にお 89 コンラー ト3世の国王選出 ( 1 1 3 8年) いて,血縁 ・友好関係 を軸 として緊密 に結ばれていた。そ して,司教枢機卿 テオデヴイヌスは 教皇使節 とい う面だけでな く, またシュヴァ-ベ ン大公 フリー ドリヒはコンラー トの兄 とい う 立場 よりも,それぞれ, まず 「ロー トリンゲ ン ・グループ」の-貞であるとい うことを強調 し てお きたJ T. そ して,第 Ⅰ章で紹介 した 『 ザ クセ ン編年誌』 に述べ られていた,ロータル 3世の妃 リヘ ン ツアが聖母マ リアの浄めの祝 日 (2月 2日) に予定 していたとい うクヴェ- トリンプルクでの 集会 を想い起 してみ ようO この 「クヴェ- トリンプル ク集会」 を,「ロー トリンゲ ン ・グルー プ」 による 「コブ レンツ集会」 と同 じ性格の もの,つ まり,予定 されていたとい うマインツで の 「 全体集会」の前に, 自分たちの候補者 を国王 に推そうとい う試み とみなすことは,乱暴に す ぎるであろうか。 リヘ ンツアたち- 「 ザ クセ ン ・グループ」 としてお こう- は,「ロー トリンゲ ン ・グループ」 と同 じように,マインツでの 「 全体集会」では国王選出は紛糾すると 憂慮 して, ロータルの女婿であるハ インリヒ侶倣公 の擁立 を企てた と考 えたい。そ して 「 ザク セ ン ・グループ」が失敗 したことに,「ロー ト. )ンゲ ン ・グループ」 は成功 したので I I Il あE " .前 者の試みが ノル トマルク辺境伯アルブ レヒ トの反対で潰えたのに対 し,後者の結束は十分 に強 固であった といえよう。 年代記』で も述べ られているように, コンラー ト3世選出にかんす る批判は,オッ トーの 『 ( 4 9) ハ インリヒ侶倣公の擁立に失敗 した 「 ザ クセ ン ・グループ」 によってな されている。 しか し, ザク 「クヴェ- トリンプルク集会」が 「コブ レンツ集会」 と同 じ性格の ものであるな らば,「 セ ン ・グループ」の非難は,露骨 な党派的利害によるもので,説得力 に乏 しい といわざるをえ ザ クセ ン ・グループ」 によるハ イ ない。少数派による選出が正 しくない とい うのであれば,「 ンリヒ侶倣公選出の試み も,少数派の手になる企 てであった。 ザ クセ ン人以外の手 になる史料か らは, コンラー ト選出の不当性 を主張する叙述は確認で き ない。つ まり,「 ザ クセ ン ・グループ」以外の人々に とって, コンラー トの選出は,少 な くと も非難 されるべ きものではなかった と理解 していいのではないか。国王が亡 くなったとき,主 だった諸侯がそれぞれの立場 と利害に基づいて新国王選出のためにさまざまな協議の場 を設け I S l l るとい うのは,当時の社会 としては,ご く普通の ことであった。その意味では,「コブ レンツ 集会」,「クヴェ- トリンプルク集会」は,いずれ も,いわば 「 国王候補者の選出 Ka ndi dat e n( 引 ) f i ndung」の場であった といえるか もしれない。そ して国王の決定 は,その後 の展 開にかかっ ていたのである。 次章では,マインツ大司教の空位 とい う状況 と,教皇による支持が コンラー トの選出に与 え た影響 を考 えてみ よう。 第 Ⅱ章 マ イ ンツ大司教 の空位 とい う状況 と教 皇 によ る支持 の影響 1.マインツ大司教の空位 とい う状況 コンラー ト3世の選出にかん して看過 されてはならない事実 は,マインツ大司教が空位 であ ( 5 1 た 1 25年のロータル 3世誕生の立役者であったマインツ大司教 ア-ダルベル ト ったことである。1 ) 1 37年 6月2 3日のことであっ 。後述するように,その後任が コンラー トの兄 が没 したのは,1 0ケ月後 ,1 1 3 8年 であるシュヴァ-ベ ン大公 フリー ドリヒの尽力で選出されたのは,それから1 4月下旬である。そ してその1 0ケ月の間には, ロータルの死,新国王 コンラー トの選出 とい う 90 天 理 大 学 学 報 政治的事件が挟 まっていた。 国王選 出においてマ イ ンツ大司教 が果 たす役 割 は大 きい。 ロー タルの選 出 において も,マ イ ンツ大司教 の動 向が決定打 となっていた。 コンラー ト選 出の場 合 も,新国王選 出の ため に予定 されていた とい うマ インツの 「 全体 集会」 が, ロー タルの死去 か ら半年 以上 も後 の聖霊 降臨祭 (5月2 2日)であ った とい うのは,マ イ ンツ大 司教 が空位 であ ったこ とが大 きい と思 われる。 その大 きな権力が空 白で,マ インツ大司教 に次 ぐケル ン大司教 も選 出は され た ものの まだ聖 別 を受 けてい なか ったので あ るか ら,聖界諸侯 の筆頭 は,形 式 的 には, トリー ア大 司教 とな 農 「コブ レンツ集 会」 が お こなわれ たの は, そ うい う状 況 下 で あ った。 第 I章 で紹 介 した 『 ザ クセ ン編年誌』の ように, トリーア大司教 アールベ ローが 「コブ レンツ集会」 を主導 して t S ll コ ンラー ト選出 を取 り仕切 った と述べ る史料 は少 な くないが,それ に も正当 な理 由が ない わけ で は ない とい え よ う。パ ルデ リクス の 『[トリー ア]大 司教 ア ー ルベ ロー の事 績』 にお け る ( S S ) 」 とい う叙 「 おびただ しい協議 の後,大司教 アールベ ローが, コ ンラー トを国王- と選 出 した 述 も, アールベ ローが マ イ ンツ大司教 の権利 であ る 「 最初 の声 ( 投票 )pr ima vo x」 を代行 し た とい う意味 だ と考 え られ る。 そ して,マ イ ンツ大司教 が空位 で ケル ン大 司教 が まだ職務遂行 のための資格 を十分 には満 た してい ない状況 をアールベ ローが利 用 した こ とが,反 コ ンラー ト であ る 「 ザ クセ ン ・グルー プ」 の人 々の眼 には ,「陰謀」 と映 ったのか も しれ ない。 さらに,マ イ ンツ大司教 の空位 は, ロー タルの後継者選 出の ため に聖霊 降臨祭 にマ インツで 予定 されていた とい う 「 全体集会」 の正当性 に も,疑問 を投 げかける。 国王選 出の ための 「 全 ( 5 6 ) 体 集会」 を召集す る権利 は,マ イ ンツ大司教 に属 す る とみ な されていたか らであ る。 今回の場合, ロー タルが亡 くなった ときにはすで にマ イ ンツ大 司教 は空位 となっていたので ,『ザ クセ ン編年誌』や オ ッ トーの あ るか ら 『 年代 記』が述 べ るマ イ ンツでの 「 全体 集 会」 の 決定 には,マ イ ンツ大司教 は関与 してい ない。 そ して,その 「全体集会」 が しか るべ き場 で決 定 されたの だ と して も,その決定 に トリーア大司教 アールベ ロー,ケル ン大司教 アル ノル トが 参加 していたこ とを示す 史料 はない。 また, も しも彼 らが 「 全体集会」 開催 の決定 に関与 して いた とす れ ば,その 「 全体 集会」 を無視 して ,「コブ レンツ集会」 を開 くであ ろ うか。す なわ ち,今 回の 「 全体集会」 の決定 には,空位 で あ ったマ イ ンツ大 司教 は もちろんの こ と, ケル ン, トリーア大司教 といった聖界諸侯 の大立者が関与 していない可能性 が きわめ て高 いのであ る。その ような 「 全体 集会」 が,諸侯 にたい して十分 な拘 束 力 をはた して持 ち えたのか どう ( 5 7 ) か,否定的 にな らざる をえない。 「コプ レンツ集会」,お よびそれ を主導 した とみ られ るアー ルベ ロー- の批判 は,マ イ ンツ での 「 全体集会」 の正当性 を前提 と していた。その正 当性 に疑 問符 がつ け られた以上 ,その よ うな非難 も,根拠が揺 らいでい る といわねば ならない。 2.教皇 によ る支持の影響 司教枢機卿 で教 皇使 節 のテオデ ヴ イヌスは, コ ンラー ト3世選 出 とい う舞 台 にお ける主要 な 登場人物の一人である。 そ して彼 の活動 は,その まま教 皇 イ ンノケ ンテ ィウス 2世の意 向であ り,教 皇 に よる支持が コンラー ト選 出の決め手であ った とい う主張, さらにその教皇 の権威 に よって選 出手続 きの違法性 を糊 塗 しよ うと した とい う見解 は 現在 で も根 強 J T. ,「は じめ に」 で述べ た よ うに, 教皇 イ ンノケ ンテ ィウス 2世 は, ロー タル 3世 の イ タリア遠征 においてハ イ ンリヒ侶倣公 と 不和 になってお り,ハ イ ンリヒが国王 に選 出 され ることは,彼 の望 む ところではなか ったであ 91 コンラー ト3世の国王選出 ( 1 1 3 8年) ろ 苦01 1 3 7 年1 0月に, ロー タル と対立関係 にあった トリーア大司教 アールベ ローを ドイツへの ( 0) 教皇使節 に任命 したの も,反ハ イ ンリヒへの布石 といえる。 もちろん, イ ンノケ ンテ ィウスの 支持 は, コンラー トにとって心強い ものであったか もしれない。 しか し,テオデヴイヌスは, 第 Ⅱ章で明 らかに した ように,エルザス ・ロー トリンゲ ン地域 に深 く根差 した利害 をもつ 「ロ ー トリンゲ ン ・グループ」 の-貝で もあった。 この事実 に留意すれば,テオデヴイヌスの行動 を,教皇の意向 を携 えた,いわばその代理人 としての教皇使節 とい う役割か らのみ注 目す るの は,一面 的 にす ぎるであろ う。 テオデヴイヌスは- 枢機卿,教皇使節 とい う呼称 もふ くめて- , コンラー トの選出を扱 った史料 においては,最 もよ く登場す る固有名詞である。 しか し,彼 が 「コブ レンツ集会」 に おいて,ハ インリヒ侶倣公 を退けて コンラー トを推す とい うイ ンノケ ンテ ィウスの意向に沿 っ て行動 した ということを述べ た史料 は少 ない。 はっ き りと明言 しているのは,厳密 にいえば, l 引l 第 Ⅰ章で紹介 したオ ッ トーの 『 年代記』のみであ る といって よい。 ,『リュ ー ジュの た とえば, コンラー ト選出への教皇の影響力 の大 きさを物語 る根拠 として 聖ヤ コブ修道院編年誌』の,以下の ような叙述が よ く引用 される- 「コンラー トは,教皇 イ ンノケ ンテ ィウスの好意 と裁可 を携 えたローマの枢機卿 テオデヴイヌス によって,ア-ヘ ンで ( 6 2) 塗油 を受 け, [ロー タル 3世の]後継者 となった」。 しか し, これは,ア-ヘ ンでの戴冠 につい て記 された ものであって ,「コブ レンツ集会」 にかんす る叙述ではない。同様 の ことは,『デ イ ジボーデ ンベルク修道院編年誌』 の叙還' にもあてはまる。 また,第 Ⅰ章で紹介 した 『 ザ クセ ン編年誌』 と同 じく, コンラー ト選 出を非難する 『マグデ ブルク編年誌』か ら,該当する部分 を読 んでみ よう。 「[ 聖霊 降臨祭 に,マ インツで 「 全体集会」が開かれ ることになった]。-・ -。 しか しなが ら,若干の人々が,他 の人々か ら自分 たちを隠 して [ 他 の人々に気づ かれない ように], 四旬節の中頃,都市 コブ レンツにおいて,司教枢機卿 テオデヴイヌスの仲介 によって, シ ュヴ ァ-ベ ン大公 の弟であるコンラー トを,彼 ら一部の人々にとっての国王 として,選出 し苫〕 この叙述は,テオデヴ イヌスが 「コブ レンツ集会」 に参加 していたことを示す ものか もしれな I L S l い。 しか し 「 司教枢機卿 テオデ ヴ イヌスの仲 介」の内容 は不 明であ り,少 な くともイ ンノケ , ンテ ィウスの意向への言及 は見 当た らないのである。 コンラー トと 「ロー トリンゲ ン ・グループ」が,国王選 出の正当性 の根拠 を 「 諸侯の選挙 を , つ うじて pe re l e c t i o ne m pr i nc i pum」 においていることは, コンラー トみずか ら 「コブ レン ( ■l ツ集会」か らまもない時期 の国王証書で言明 している。そ こには,教皇 による支持への言及 は ない。 以上の検討か ら,教皇 による支持 の影響 にかんす る結論 をまとめてお こう。「コブ レンツ集 会」 での コンラー ト選 出にかん して,教皇 イ ンノケ ンテ ィウス 2世 による支持 の意義 を過大 に ( 6 1 る 評価 す る こ とは,史料 か ら判 断す るか ぎ り論 拠 が 乏 しく,憤 まね ば な らぬ とい うこ とであ ) Oそ して 「ザ クセ ン ・グループ」以外の手 になる史料 は, コンラー トの選 出 を不法 な もの , と判断 していないのであ るか ら,教皇の権威 でその違法性 を正 当化 しようと した とい う見解 ち,その根拠 を失 った といって よい。 最後 に,ア-へ ンでのテオデヴイヌス による塗油の問題 にふれてお きたい。司教枢機卿かつ 92 天 理 大 学 学 報 教皇使節 である彼 が,いまだ聖別 を受 けてい ないケル ン大司教 の代理 として,帝国権標 な しで コンラー トに塗抽 した ことは,すで に紹介 したように,本来の形式か ら逸脱 した もの とい う批 判があ った。 しか し,オ ッ トーの 『 年代 記』 は もちろんの こと, コンラー ト選出 を非難す るザ クセ ン人 による史料 です ら,テオデヴイヌスの行為 を不当 な もの とは述べ ていない。 同時代人 には,テオデヴイヌスによる塗柚はなん ら容 め立てす るようなことではなか ったので あ君 と 「コブ レンツ集 会」, ア-ヘ ンでの国王戴冠 を経 て,国王 コンラー ト3世 は,その後 ,諸侯 か らどの ように受け とめ られたのか- 第 Ⅳ章 これが最終章の課題 である。 国王 選 出,戴 冠 後 の コ ンラ ー ト3世 3月 7日の 「コブ レンツ集会」, 3月1 3日の ア-ヘ ンでの国王戴冠- それか ら後 の コンラ ー トの活動 を教 えて くれるのは,オ ッ ト-の 『 年代記』の,第 I章で紹介 した箇所 に続 く部分 2章)0 である ( 第Ⅶ巻,第2 「ケル ンで復活祭 を祝 った後,彼 [コンラー ト3世]は,当時大司教の地位が空席であっ たマ インツへ 向か った。そ して,そこの聖職者 と人々によって選出 されていた,前任者 ア -ダルベル トの甥であるア- ダルベル トを大司教 に任命 した。・ --。 そ して,すべ ての諸 I l l l 侯 にとっての全体集会が,次の聖霊降臨祭 にバムベル クで開かれることになった」 3章で語 られる。 その後の経過 は,引 き続 き,第2 「国王 コンラー トは,予定 されていたように,聖霊降臨祭の 日,国王 らしい壮麗 さで もっ て帝国会議 を開催 した。 それには非常 に多 くの諸侯が参加 した。ザ クセ ン人 もすべ て,皇 帝 [ロー タル 3世]の未亡人 リへ ンツアとともにやって きて,彼 [コンラー ト] にすす ん で従 うことを誓 ったのである。 しか し,帝国権標 を保持 していた大公ハ インリヒだけが姿 6月2 9日] に, レ-ゲ ンスプル を見せ なかった。その ため,使徒ペ テロ とパ ウロの祝 日 [ クで帝国権標 を返 させ るべ く, 日程が定め られた。ハ インリヒは,そ こに来て帝 国権標 を 引 き渡 した。 しか しなが ら,彼 は,国王 に見 えることは許 されず,そ して国王の恩寵 を受 けることな く, さらに友好 的な和解 もない ままに立 ち去 っL T1 1.ケル ンからマインツヘ オ ッ トーの 『 年代記』が述べ てい る ように, コ ンラー ト3世 は,ア-ヘ ンか らケル ンへ赴 き,復活祭 (4月 3日) を祝 った。 ケル ン滞在 中にコンラー トは 6通の国王証書 を発給 してい l T い るが,その証人欄 には, ドイツの各地域か ら訪れた多数の諸侯の名前が記 されている。 聖界諸侯 としては,サ ンタ ・ルフィーナの司教枢機卿で教皇使節 テオデヴイヌス を筆頭 に, ケル ン大 司教 アル ノル ト, トリーア大司教 アールベ ロー, メ ッツ司教 シュテ ファンとい った 「コブ レンツ集会」の出席者 に加 えて,ヴユル ツブルク司教エムプ リコ, リュージュ司教 アー ルベ ロー, ミュ ンス ター司教 ヴェルナ一,オスナブ リュ ック司教 ウー ド, カムプ レイ司教 ニ コ ( 1 2 ) ある 。 ラウス,ユ トレヒ ト司教 ア ン ドレアス,ハルバーシュタッ ト司教 ル ドル 7, さらにス タブロ修 道院長 ヴイーバル ト, ドイツ修道院長ル ドル フなどで 一方,世俗諸侯 としては,ニー ダーロー トリンゲ ン大公 ヴ ァルラム とその息子ハ イン. )ヒ, 9 3 コンラー ト3世の国王選出 ( 1 1 3 8年) レ- ヴェ ン大公 ゴ ッ トフ リー トとその息子 ゴ ッ トフリー トとハ イ ンリヒ, ライン宮 中伯 ヴ イル ヘ ルム,そ して多 くの伯 が名 を連 ねてい る。 この地域 におけ るロー タル 3世 の基盤が脆弱 であ った とはい え,ケル ンで発給 され た国王証 書 の証 人の数の多 きは, ア-ヘ ンか らケル ンまでの2 〔 旧 聞 とい う旅程 にお ける コ ンラー トの側 . の プロパ ガ ンダの成功 を意味 してい る といえ よヂ' ケル ンを出発 した コンラー トの次 の行先 は,マ イ ンツであった。 4月1 7日にはマ インツに到 着 していた こ とは確 実 であ るが,マ イ ンツでの 目的は,オ ッ トーの 『 年代 記』が語 る ように, 0ケ月 もの 間空位 となっていたマ イ ンツ大司教 の選 出であ った。 約1 新 しい大司教 に選 ばれたア- ダルベ ル トは, コ ンラー トの兄 シュ ヴ ァ-ベ ン大公 フ リー ドリ ヒの妻 の兄弟であ り, ア- ダルベ ル トの選 出 に フ リー ドリヒの後押 しが あ った こ とは確 かであ l T い る。マ イ ンツで発給 され た 2通 の国王証書 の証 人欄 は,いず れ もケル ンで は見 られ なか った ( 7 S) 「 大公 フ リー ドリヒ」 とい う名前 を記 してい る。 フ リー ドリヒは,「コブ レンツ集会」 の後 , ケル ンには- おそ ら くア-ヘ ンに も- 同行せず その ままマ イ ンツヘ 直行 し,義理 の兄弟の 大司教選 出 に全力 を傾 注 した とい え よう。前章 で述べ た ように,マ イ ンツ大司教 が ドイツ王 国 において占め る位 置 は きわめて重要であ る。 コンラー トに とって も,近い縁戚 関係 にあ る者が ( 7 S ) る 。 その ようなポス トに就 くこ とは,大 きな意味 を もったで あ ろ う。選 出 され た ア- ダルベ ル ト に, コ ンラー トが ただちに レガー リエ ンを授 与 したの は,その期待 の大 きさを示 してい ロー タル 3世が亡 くなって コ ンラー トの選 出が お こなわれ た この時期 ,空位 となってい た ( 大)司教座 は,マ イ ンツ,ケ ル ンだ けで は なか った。 その他 に も, フラ イ ジ ング,バ ーゼ 1 7 7) ル, メルゼ ブル ク,ブ ラ ンデ ンブル クな どがあげ られ る。 コ ンラー トとその支持 者 は,マ イ ン ツ,ケル ン大司教 の場合 と同 じく,空位 の司教 の ポス トにシュ タウフェ ン派 の聖職者 を起用 す べ く,力 を注 いでい る。 す なわ ち, フライジ ング司教 には, コ ンラー トの異 父弟 でモ リモ ン修 道 院長 ,『年代 記』 と 『 事績』 の著者 で もあ るオ ッ トーが選 ばれ,バ ーゼル司教 には,親 シュ タウフェ ンの オル トリ ープが就 い た。ザ クセ ンの メルゼ ブル ク司教 の地位 は, ヴェル フェ ン派 のエ ツタ リンに奪 われ ( 7 8) たが, ブ ラ ンデ ンブル ク司教 ヴ イガ-は, コ ンラー ト支持 であ った。 コ ンラー トは,空位 とな っていた ( 大)司教座 の争奪戦 で も,優位 に事 を進 めたのであ る。 2.バ ムベル ク と レーゲ ンスブル ク 2日,聖霊 降臨祭 を マ イ ンツを旅立 った コンラー トは,バ ムベ ル クに到着す る。そ して 5月2 祝 うとともに,帝 国会議 を開催 した。 この帝 国会議 につ いて語 った史料 は多 くない。 オ ッ トーの 『 年代記』 を除け ば ,『プ ラハ の すべ ての 人 々 に よ って, 彼 コス マ ス のベ - メ ン年代 記 ( 続) 』が , バ ムベ ル クで の課 題 は,「 t 7 1I [コ ンラー ト]の選出 をよ り強 くす ること」 と述べ 『 ベ ガウ修道 院編 年誌』が ,「シュ ヴ ァ- , ベ ン大公 フ リー ドリヒの弟 コンラー トは, コブ レンツで国王 に選出 され,--,バ ムベ ル クの 宮廷会議 で,非常 に多 くの王 国の諸侯 に よって,承認 され ( l る 。 岩」 と記 してい るにす ぎない。 しか しバ ムベ ル クで発給 された国王証書 の証 人欄 に名前 を連 ねた聖俗諸侯 の数 の多 さ,多様 さは, ) 特筆 にあたいす 聖界 諸侯 と しては,マ インツ大 司教 ア- ダルベ ル トを筆頚 に, トリー ア大 司教 アー ルベ ロ ー, ブ レー メ ン大司教 ア- ダルベ ロが並 んでい る。司教 にか ん しては,バ ムベ ル ク司教 オ ッ ト ー, レ-ゲ ンスブル ク司教 ハ イ ンリヒ, シュバ イエ ル司教 ジー クフ リー ト, ヴ オルムス司教 プ 94 天 理 大 学 学 報 ツコ,ユ トレヒ ト司教 ア ン ドレアス, ミュ ンス ター司教 ヴェルナ一,オスナブ リュ ック司教 ウ ー ド,パー ダーボル ン司教ベル ンハ ル ト, アイヒシュテ ツ ト司教 ゲ-プハル ト, ツアイツ司教 ウー ドの名前がみえる。 世俗諸侯 も多い。宮 中伯 ヴ イルヘ ルムをは じめ,ベ-メン大公 ウル リヒ, シュヴ ァ-ベ ン大 公 フリー ドリヒ,ブル グン ト大公 コンラー ト, ノル トマル ク辺境伯 アルブ レヒ ト,オース トリ ア辺境伯 レオボル ト, ヴェ ッテ ィン辺境伯 コンラー ト, ア ンズルツバ ッハ伯 ゲ-プハ ル ト,ハ -ゲ ン伯 コンラー トな どである。 これ らの出席者の なか には,すで にケル ンやマ インツにおいてコンラー トの宮廷 に姿 を見せ ていた者 もいるが,バ ムベル クで初めてその名前が国王証書の証人欄 に記 されている とい う諸 侯 も少 な くない。 さらに注 目すべ きは,ザ クセ ンの諸侯が多い ことであ る。 オ ッ トーの 『 年代 記』が述べ ている 「 ザ クセ ン人 もすべ て」 とい うのは もちろん一種 の レ トリックであ るにせ よ,ブ レー メン大司教 ,オスナブ リュ ック,パ ー ダーボル ン, ミュ ンス ター, ツアイツの各司 教, さらにノル トマル ク, ヴェ ッテ ィンの各辺境伯 な どがそれ に該当す る。 「コブ レンツ集会」 で コンラー トを選出 した 「ロー トリンゲ ン ・グループ」 は,た しか に多 数派ではなかったか もしれない。 しか し, ア-へ ンでの国王戴冠,ケル ン,マ インツを経 て, ,「国王 バ ムベル クでの帝 国会議 においては [コンラー ト] は,法 に則 ったかたちで はな く, 詐欺的な策動 によって選ばれた とい う主張 をお こなった」 とい うザ クセ ン人のイ ンリヒ侶倣公 を中心 とす るグループは別 にせ よ- もちろんハ 承認 を も獲得 す る こ とになったのであ ( 8 2) る。バムベル クでの帝 国会議 における出席者の数の多 さだけでな く,その地域的多様性 も, コ ンラー トの王位継承が これ までにない広範囲 にわたる諸侯 によって承認 されたことを,物語 っ ( 8 3) ている。バムベル クでは じめて, コンラー トの王位 は,政治的 に も確 かな もの になった といえ よT.その意味では, ロー タル 3世の死後,後継者選出のため にマ インツで予定 されていた と いう 「 全体集会」 は,時は同 じく聖霊降臨祭の 日に,場所 を変更 してバムベル クでお こなわれ た とい うことになるのか もしれない。 L P o6 月末の レ そ して, コンラー トの王位承認の仕上 げの舞台 は, レ-ゲ ンスブルクであっ -ゲ ンスブルクでの帝国会議 には, コンラー トを拒否す る姿勢 を貫いて きたザ ルツブル ク大司 教 コンラー トが,バ イエル ンの聖職者 とともに参加 したのである。 この大司教 は,バ ムベル ク ( B 6 ) の帝国会議 には出席せず,書簡 を送 って 「コブ レンツ集会」 を非難 していた。その彼が, コン ラー トに対す る誠実宣誓は拒否 したけれ ども,その王位 は認めたので L 1 7 1 ある 。 コンラー トは,ザ ル ツブル ク大司教 の王位承認 を得 て,王 国の南東 部 に襖 を一つ打 ち込 ん だ。一方,ハ インリヒ促倣公 は,ザ クセ ンに引 き続 いてバ イエル ンの諸侯 の,特 に聖界諸侯 の l & l い。 支持 を失 って しまった。彼が, レ-ゲ ンスブル クで コンラー トに帝国権標 を漉 きざるをえなか l ったの も,当然か もしれな コブ レンツで国王 に選出 された コンラー ト3世 は,ア-へ ンでの国王戴冠後,ケル ン,マ イ ンツ,バムベル ク, レ-ゲ ンス プルクで帝 国会議 を催 した。そ して, 3月 7日の 「コブ レンツ 集会」 か らわずか 4ケ月足 らずで,エルザス ・ロー トリンゲ ンは もとよ り, フランケ ン,ザ ク セ ン,バ イエル ンの諸侯,なか んず く聖界諸侯 の承認 を得 てい る。「コンラー トは,司教 とそ の他の諸侯 によって,王国の後継者- と高め られ L n とい う 『 ペールデ修道院編年誌』の叙述 ち,聖界諸侯 の支持 を強調す る もの と理解す るこ とがで きよう。「 彼 らが コ ンラー トの王位 を ,「倣慢 なハ インリヒ侶倣公へ の嫌劃 認めた理 由は だけで はな く,それぞれの利害 に基づ い 95 コンラー ト3世の国王選出 ( 1 1 3 8年) たさまざまな原因によるのであろう。ただ,出発点である 「コブレンツ集会」での選出が,彼 , らの眼 に 「 逸脱 した i r r e gul ar 」 ものだ と映っていたのであれば, これほ ど短期 間で コンラー トが承認 を獲得するのは,やは り不可能だったのではないだろうか。 お わ り に 本稿の課題 は, コンラー ト3世選出の具体的状況 を明 らかにし,彼の選出の正当性の再検討 を試みることであった。「コブ レンツ集会」 ではだれが コンラー トを支持 したのか,マイ ンツ 大司教の空位 とい う状況,教皇 による支持 はどの ような影響 をもったのか,国王 に選出 された コンラー トは,その後諸侯か らどの ような受 け とめかた をされたのか- 以上 の ような論点 r r e gul arで を,史料か ら検討 してい くと, コンラー トの選出は,同時代人 には,少 な くとも i はなかったとい う結論が導 き出 されるに至った。 その考察の過程で明 らかになった点 を確認 してお きたい。 まず,国王選出の手続 きは,史料 か ら判 断す るか ぎ り, まだ十分 に確立 されていなかった とい うことであ る。「コブ レンツ集 会」 を批判するのは もっぱら 「 ザ クセ ン ・グループ」 による叙述で,その 「 ザ クセ ン ・グルー プ」 もハ インリヒ侭倣公 を選出すべ く, これ も少数派 による 「クヴェ- トリンプルク集会」 を 計画 していたのである。 しかるべ き場所 と日時が設定 され,有資格者の多数の支持 を獲得 した , 1 ' o法的,形式 的な手続 き 半の ドイツに想定す るのは,い ささか近代 的な発想 にす ぎるだろ 3 「 正 しい選出」 にかんする十分 な判断基準 ではな とい うものは,その当時の諸侯 にあっては, 候補者が国王 に選 ばれる- 国王選出にかん して,このような法的 形式的な規範を1 2 世紀前 かったのである。 また,法的,形式的な手続 きの重視 は,国王選出の正当性 を一つの局面は 「コブ レンツ集会」( 92) 1 1 38年の場合 に のみで判断するとい う考察のあ りかたとも結 びついているように思 ,「コブ レンツ集会」で選出 されたコンラー トが,その後諸侯か らどの ように える。本稿では 受 けとめ られたか とい う点 を重視 して,ケル ン,マインツ,バムベルク, レ-ゲ ンスブルクの 帝国会議 まで,検討の射程 を伸 ば した。その結果,彼が王国のほぼ全域の諸侯, ことに聖界諸 侯の承認 を得ていたことが明 らかになった。 この事実は, コンラー トの選出が 「クーデタ」で はなかったことを示 してお り, コンラー トの王位の正当性 は,なによりも, この諸侯 たちの承 ( 9 3) 認が証明 しているといえよう。 最後 に, コンラー トの国王選出における 「 諸侯の選挙」 と 「 血統」の関係 について述べてお ,「ロー トリンゲ ン ・グループ」 とい う 「諸侯 の選 こう。 コンラー トが 「コブ レンツ集会」で ,「諸侯 の選 ,「諸侯 の選挙」 とい う原則 を否定 してい るので はな 挙」 によって選出 されたことは事実である。 コンラー トの選 出を批判す る史料 は 挙」の方法 を批判 してい るのであ って い。第 Ⅲ章で述べたように,ケルンで発給 した国王証書 において, コンラー トお よびその支持 者 は王位 の正当性 を 「 諸侯の選挙 を通 じて」 においている。 しか し一方,その国王証書 には, l l い ザ リエル家 と自己 との血縁関係 も述べ られている。 また,1 1 47年,十字軍遠征 に出発するにあ たって, コンラー トは1 0歳の長男ハ インリヒを共同国王 としている。 この措置への批判 を露わ に した史料 はな く,王位継承 における 「 血統」 とい うものへの コンセ ンサスが,コンラー トと ( 9 5) 諸侯 との間に存在 したことを示 しているといえよう。いずれにせ よ,少な くとも1 2 世紀前 半に おける国王選出の正当性 は,一貫 した原則の存在 を前提 とした 「 血統」か 「 諸侯の選挙」か と い う二者択一的な問題 ではな く, まず,個 々の国王選 出にかん して史料か ら事実 を掘 り起 こ し,その具体的な状況か ら論 じられなければならない。 96 天 理 大 学 学 報 「 血統」 とい えば, シュ タウフェ ン内の緊張 関係 も看過で きない 。1 1 25年以後 の国王選 出 に お けるシュヴ ァ-ベ ン大公 フ リー ドリヒ 2世 とコンラー トの微妙 な関係 はす で に述べ たが,そ の ような状況 は, コンラー ト没後 の 1 1 5 2年 の国王選 出で も再現 された。 コンラー トは ,1 0歳 に も満 たぬ次男 フ リー ドリヒを後継者 と して推 す こ とを断念 し,甥の,つ ま り兄 フ リー ドリヒの 長男 であ るシュヴ ァ-ベ ン大公 フ リー ドリヒ 3世 に王位 を委 ね たのであ る ( 国王 フ リー ドリヒ 1世 ・パ ルバ ロ ツ覇 。1 2世紀 の ドイツ史 を規 定 した シュ タウ フェ ン とヴ ェル フェ ンの確 執 ち,王位 と大公位 が交錯す るシュタウフェ ン内部 の緊張 関係 をふ まえて,考察 されねばな らな い。 註 (1) U.Vo ne s Li e be ns t e i n,Ne ueA s pe kt ez urWa hlKo nr a dsⅢ.( 1 1 3 8 ) ,i n:H.Vo l l r a h /S. t ), Kb l n.St adtundBi s t uT ni nKi r c heundRe i c hde sMi t t e L al t e r s .Fe s t s c hT ・ i P We nf i ur t c r( Hg. f urOdi l oEn ge l sz uT n6 5 .Ge bur t s t a g,Kb l n/We i ma r/Wi e n1 9 9 3 ,S.3 2 4 f .に,コンラー ト3 世の選出が扱われている近年の文献が リス ト・アップされている。 (2) 西川洋一 「 初期 シュタウフェン朝」成瀬治 ・山田欣吾 ・木村靖二 ( 宿)『ドイツ史 1- 先史 -1 6 4 8 年J山川出版社 1 9 9 7 年,2 1 6 21 8 頁O (3) F.Ha t l S ma nJ l ,Di eA n 良I l g ede 卓s t auf is c he nZe i t lt a e r sunt e rKo nr a dl I I . ,i n:Pr o b eme l de s1 2.Jahr hunde r t s( VuF1 2) ,Ko ns t anz/St ut t ga rt1 9 6 8 ,S.5 7 .ただ し,コンラー ト3世 の,MGH 版の国王証書集の編纂者である彼は,この論文全体 としては,コンラー ト3世の実 績 を高 く評価すべ きだと主張 している。 (4) W. Go e z ,Kb igXo m nr adⅢ. ,i n:i de m,Ge s t al t e nde sHo c hT ni t t e l al t e r s,Da ms r t ad t1 9 8 3,S. 21 2,ただ し,少 し省略 して訳 した。 (5) 0. Eng e l s ,Di eSt au f e r,7. Auf l. ,St ut t g ar t/Be r l n /K6 i l n1 9 9 8 ,S. 3 3. (6) それぞれの主張,見解 については,適宜,言及 してい くが,ごく簡潔に彼 らの論考の特色 を 述べておこうDVo ne s Li e be ns t e i n,o p.c i t りS.3 2 3 3 4 8は,コンラー ト選出の原動力 として, エルザス ・ロー トリンゲン地域 において縁戚 ・友好関係 を軸 に緊密な利害関係で結ばれたグル ープを特定 し,その意義を明らかにした。R. Pa le u r , Wa rKb ni gXo nr a dsI I I .Wa hli r r e g ul a r ? , DA 5 2( 1 9 9 6) ,S.1 3 5 -1 5 9は,叙述史料 をていねいに読みこむことによって,コンラー ト3世 の選出は,同時代人にとっては決 して i r T e g ul a rではなかったことを主張 している。G. Lubi c h,Be o ba c ht ng u e nz urWa hlXo nr a dsⅢ.undi hr e m Umf e l d,HJb1 1 7( 1 9 9 7 ) ,S.31 1 3 3 9 は,コンラー ト3世 と兄のシュヴァ-ベ ン大公 フリー ドリヒ2世 との緊張関係 を指摘 し, コン ラー ト選出における聖界諸侯のイニシアテイヴを強調する。 (7) 西川洋一氏は, 「コンラー トの国王就任は,・ ・ ・ ・ ・ ・ ,シュタウフェンとヴェルフェンのあいだの 確執の出発点 となった」 ( 西川,前掲論文,2 1 6 頁) と述べているが,両家の対立 は,1 1 2 5 年の ロータル 3世選出を発端 とすべ きだろう。 (8) 代表的作品として,U.Sc hm i dt ,Kb T u gs wahlundThr o n f o l gei T n1 2.Jahr hunde r t ,K6 l n/ Wi e n1 9 8 7を,あげてお く。 (9) W.B6 hme( Hg. ) ,Di ede ut s c h eKb T u ' gs e r he bun gi m 10. -1 2.Ja hr hunde T ・ t ,He 氏 2,G6t t i n7 点 ( Nr . 4 7 -7 3)が収録 されている。 g e n1 9 7 0 ,S. 2 4 3 0に,2 ( 1 0 )A n nal i s t aSa xo ,hg.V.G,Wa lt z ,MGH SS6,Ha n no v e r1 8 4 4,S.7 7 6.なお, 『 ケルン年代 コンラー ト3世 の国王選 出 ( 11 3 8年) 97 記』( Chr o ni c ar e iaCo g l o ie m ns i s ,hg,V,G.Wai t z ,MGH SS r e f .Ge r T n.( 1 8) ,Hanno ve r ,Fパーダーボルン編年制 ( Annal e s Pat he r b r unne ns e s,hg.V.P.Sc he f r e r 1 8 8 0,S.7 5 ) Bo i c ho r s t ,I nns br uc k1 87 0 ,S.1 6 5 -1 6 7 ) ち,同 じ叙述である。 ( l l ) Ot t o ni se pi s c o piFr i s i n ge ns i sChT ・ O ni c as l u eHi s t o r i adeduabusc i u i t at i bu s( 以下,Chr oV.W.La mme r s ,Dar ms t adt1 9 6 0,Ⅶ.2 2. ni c a と略記),hg. ( 1 2) ChT L o ni c a,Ⅶ,2 2. Kb n由eundFar s t e n,Kai s e T ・undPa ps tnac hde n Wo T ・ ms e T ・ Ko nk o r ・ ( 1 3) B.Sc hi mme l pf e nm ig, dat ,Mu nc he n1 9 9 6,S.1 3.オッ トーは, コンラー ト3世の異父弟であ り,そのためのバイアス は当然予想 される ところであるが,「まった く遠慮するこ とな く,記 している」( Pa血e r ,o p. c i t . ,S.1 5 5) 。 ( 1 4) G.Sc he i be l r e i t e r ,De rRe ie g ungs r ant r i t tde sr 6 mi s c hde ut s c he n K6 ni gs( 1 0 5 6 -1 1 3 8) , MI OG 81( 1 97 3) ,S.4 3 f . ( 1 5) シュヴァ-ベ ン大公 フリー ドリヒ 2世,ヴ オルムス司教 ブ ッコの名前があげ られてい るの は,Ge s t aA lbe r o ni sa rC hi e pi s c o piauc t o r eBal de r i c o( 以下,Ge s t aA lbe r o ni sと略記),hg. V.G.H.Pe r t z ,MGH SS8,Ha L nnO Ve r1 8 4 8,C .1 5 .メ ッツ司教 シュテファンについては,W. r n ha r di , Ko nr a dm"NDBe r l n1 i 9 7 5 ,S.25 ,A n n.4;Vo ne s Li e be ns t ci n,o p.c i t . ,S.3 2 6 Be に従 ったO シュ ミッ トは,メ ッツ司教 シュテフ ァンを出席者か ら除いてい る ( Sc hmi dt ,o p. ,S. 81 , n n.7 A 6) . c i t . ( 1 6) A n nal e sBr unwi l ar e ns e s ,hg.V.G.H.Pe r t z,MGH SS 1 6,Hanno ve r1 85 9,S.7 2 6.後註 ( 2 4) も参照の こと。 ( 1 7) トリーア大司教 アールベ ローについては.史料 と して,前註 ( 1 5 )の Ges t a A lbe r o ni s, さ らに W. Pe t ke, Kanz l e i ,Ka pe l l eundkb ni gl i c heKuT ・ i eunt e rLot harm. ( 11 25-11 37 ),Kb l n/ e T ・ S uC hun ge nz urRe i c hsKi r c he n po l i t i kL Dt haT I S Wi e n1 9 85 ,S.25 4 1 25 7;M.I L.Cr o ne,Unt m.( 11 25-11 37 )z wi s c he nT . e i c hs ki r c hl i c he r Tr adi t i o n und Re F o r mkur i e,Fr ankf ur tam Mai n/Be r n1 9 8 2,S.9 2 1 9 6;Paul e r ,o p.c i t . ,S.1 4 2 11 4 4;Vo ne s I Li e be ns t e i n,o p.t i t . ,S.3 30 1 3 3 4. ( 1 8) Ge s t aAl be r o ni s ,C .1 0. ( 1 9) Cr o ne , o p.c i t "S.9 5. ( 2 0) DDL.Ⅲ.41( 1 1 3 2年 4月);71( 1 1 35 年 3月1 7日);7 8( 1 1 36年 1月 6日). ( 21) Ge s t aAl be r o ni s ,C .1 5 . ( 22) ケル ン大司教就任以前の アル ノル トの経歴 については,明 らか になっている ことは多 くな Gr e be,Er z bi s c ho fA m o l dI.vo nK6 1 ni nde rRe i c hs -u n dTe r it r o r i lpo a l i い。 ここでは,W. t i k,Jahrbuc hde sKb l ni s c he nGe s c hi c ht s u e T . e i ns4 2( 1 9 6 8) ,S.2-8;Vo ne s ie L be ns t e i n, o p.c i t りS.3 4 0 3 43 によるO ( 2 3) Gr e be,o p.c i t . ,Ex nr k sI.S.7 2 -7 4による。アルノル トの選出は,ロータル 3世が亡 くなっ た1 1 37年1 2月 4日以後であったことは確実で,1 1 3 8年 2月 4日とい う説 もある。 ( 2 4) ア ル ノル トは,プ ラ ウ ヴ ァ イ ラ ー 修 道 院 との 結 び つ き も指 摘 さ れ て い る。Vo ne s Li e be ns t e i n,o p.c i t . ,S.3 4 2 f . ( 25 ) メ ッツ司教 シュテファンについては,Ges t aA lbe r o ni s ,C.4-1 0;Cr o ne, o p.c i t . ,S.9 9 f . ( 2 6) ヴオルムス司教 プ ッコにっては,Pe t ke,o p.c i t . ,S.2 27 f .;Cr o ne ,o p.c i t . ,S.1 2 2 f . ;Vo ne s Li e be ns t e n,o i p.c i t . ,S.3 4 3 f . hmann,Di epa ps t l i c he nLe gat e ni nDe ut s c hl andund ( 27) テオデヴイメスについては,J,Bac 98 天 理 大 学 学 報 Sh andi nau i e n( 11 25-11 59 ),NDVaduz1 9 6 5,S.4 0 4 6;Vo ne s I Li e be ns t e n,o i p.c i t . ,S.3 35 3 4 0 . ( 2 8) Sac hs i s c heWe l t c hr o ni k,hg.V.L.We i l n d,MGH De a ut s c heChr o ni k e n 2,Hanno ve r 1 87 7 ,S.21 5. t ke , o p.c i t , ,S,2 4 2 f . ( 2 9) pe ( 3 0) 1 1 3 435 年 ,1 1 3 6年 ,1 1 3 8年 ,1 1 4 ( ト4 3年 ,1 1 4 5 4 6年,1 1 47 年の 6回である。それぞれの活動 c hmann, O P.C i t . ,S.4 0 4 6,4 8 f,5 2 -5 7.5 9 1 67,7 3 -7 8,7 8 「8 0を参照せ よ。 については,Ba ( 31 )A n na le sPal i de ns e sauc t or eThe o do r omo nac ho,hg.V.G.H.Pe r t z ,MGH SS1 6,Hanno ve r1 8 5 9,S.85 . , o p.c i t . ,S.8 0. ( 3 2) Sc hmi dt hma nn,o p.c i t リS. 8 0 8 3. ( 3 3) Bac ( 3 4) シュタウフェンの, シュヴァ-ベ ン大公 としての領域政策 については,71 )- ドT )ヒ 1世の 時代 もふ くめて,H. Maur e r , De rHe r z o gu o nSc hwab e n,Si gma inge r n1 9 7 8,S.21 8 1 2 6 8. ( 3 5) Ot t o T u ' Se pi s c o piFr i s i n ge ns i se tRahe wi niGe s t aFr e de r i c is e wr e c t i usCT ・ O ni c a ( 以下, Ge s t a と略記),hg.V.F. J.Sc hmal e,Dar ms t adt1 9 65 ,I.1 2. , o p.c i t "S.1 85 ,2 3 3. ( 3 6) Ma ur e r s Li e be ns t e i n,o p.° i t . ,S.3 27 3 3 0による。 ( 3 7) お もに,Vone ( 3 8) オーバーロー トリンゲ ン大公 ジーモ ンはロー タル 3世の異父兄弟であるが,ロー タルの宮廷 では,その活動は確認 されない。Pe t ke, o p.c i t . ,S.25 2 f . ( 39) Be r t ho l dil i be rdec o ns t r uc t i o nemo nas t e r i iZwi vi l de ns i s ,hg.V.0.Abe l ,MGH SS 1 0, Hanno ve r1 85 2,S.1 1 4. 年の国王選出については,Sc hmi dt , o p.c i t . ,S.3 4 -5 9.最近の作品 として,L.Vo ne s ,De r ( 4 0) 1 1 2 5 ge s c he i t e r t eK6 ig m s mac he r .Er z bi s c ho fAda lbe r tI. vo nMa inzu n ddi eWa hlvo n1 1 25 , HJb 1 1 5( 1 9 9 5) ,S.85 -1 2 4. ( 41 ) Enge l s , o p.c i t . ,S.2 7;Lubi c h,o p.c i t リS,31 3f .は,この事実 を強調する。 ( 42) 対立国王 コンラー トについて も,基本的には,Sc hm i dt , o p.c i t . ,S.6 0 づ8.なぜ フリー ドリヒ ではな くて, コンラー トが対立国王 に擁立 されたのか とい うことにかん しては,フリー ドリヒ が ロータルにたい してすで に誠実宣誓 を していたこと,フリー ドリヒが隻眼であったこと,コ ンラー トの 「 権力への意志」 な ど, さまざまな見解が考 え られているが,いずれ も説得力 は十 分ではないように思われる。Sc hmi dt , o p.c i t , ,S.6 2;Lubi c h,o p.c i t リ31 2 f . ( 4 3) DDL. Ⅲ. 9 7,1 01 ,1 2 0 . ( 4 4) オ ッ トーは F 事績』 において,「 バ イエル ン大公 は,その悪名高い倣傾 きの故 に,皇帝 ロー , Ge s t a, I. タルのイタリア遠征 に従軍 したほとん どすべ ての人々の嫌 われ者 になっていた」( 2 3) とも記 している。 ( 45) Ge s t a,I. 1 8;Lubi c h,o p.c i t . ,S.3 31. ( 4 6) 「ロー トリンゲ ン ・グループ」 は, ヒルザ ウやザ ンク ト・ブラージェンといった修道院の改 革理念 に共鳴 していた点 において も共通点があったという指摘 もある ( Vo ne s ⊥i e be ns t e i n,o p. c i t . ,S.3 45) 。 また,「ロー トリンゲ ン ・グループ」が名前の特定で きた参加者以外の諸侯 もふ くんでいたことは,容易 に推定 される。 さらに,パ ウラーは,「レ-ゲ ンスブルク司教 とベ-メ ン大公 の推薦 で コンラー トが選 ばれた」 とす る Fレ-ゲ ンスブル クの聖職者 による皇帝年代 記」 ( Di eKa is e r c hr o ni ke i ne rRe ge ns bur ge rGe i s t l i c he n,hg. V.E.Sc hr 6 de r , MGHDe ut s c he n no v e r1 89 2,S.391)千,「バイエルン人 とシュヴァーベ ン人が コンラー トを Chr o ni k e n1,Ha 王 に選んだ」 と述べる F ザ クセ ン世界年代記 』( Sac hs i s c heWe l t c hr o ni k,o p.c i t リS.21 0) と 99 コ ンラー ト3世 の国王選 出 ( 11 38年) 同様 ,「ロー トリンゲ ン ・グループ」の関与 を記す Fプラウヴァイラー修道院編年誌」 も,著者 が 自分の関心のある人物やグループについてのみ述べ たにす ぎず,「コプ レンツ集会」 には, 「ロー トリンゲン ・グループ」以外の諸侯 も参加 していた と主張する ( Paul e r ,o p.° i t . ,S.1 47 -1 49) 。 ( 47) vo nes I Li e be ns t e n,o i p.c i t . ,S.3 4 6.ただ し,彼女は, コンラー ト3世の選出を i r re g ul arと みな している。 ( 4 8) コンラー トは,ハ インリヒ促倣公か らザ クセ ン大公位 を剥奪 してそれ をアルブ レヒ トに与 え るとい う 「 選挙約束」 を していた と考え られるoS.Ha ide r ,Di e Wahl u e r s pr e c hun ge n de r 1 6e nJahr hunde r t s,Wi e n1 9 6 8,S.5 9 f . r bmi s c hde ut s c he nKbni gebi sBumEndede sZ W6 ( 49) ただ し,ザ クセン人以外の作品 として, F ザルツブルク大司教 コンラー 卜伝』( Vi t aChunr adi ar c hi e pi s c o piSal i s bur ge ns i s , hg.V.W.Wa t t enbac h,MGH SS ll ,Hanno ve r1 85 4,S.6 6)が あるO著者ハ インリヒはザルツブル クの聖職者であるが,促倣公支持 なので, とりあえず 「 ザ クセ ン ・グループ」の一員 としてお きたいOなお,ザ ルツブル ク大司教 コンラー トにつ いて は,本稿 1 2頁 を見 よ。 ( 5 0) た とえば,1 1 5 2年の国王選出にかん しては,拙稿 「フリー ドリヒ 1世 ・パ ルバ ロッサの国王 」 選出 ( 1 1 5 2年) 『 西洋史学」1 6 3,1 9 9 2年,4-5,1 ト1 3 頁 を見 よ。 ( 51 ) Sc hi mme l pf e nni g, o p.ct "S.1 2. ( 5 2) Cr o ne,o p.c i t . ,S.2 87 ,r e s.E3 6. i ( 5 3) U. Re ul i ng, Di eKuri nDe ut s c hl andundFr anhr e i c h,G6 t t i nge n1 9 7 9,S.1 7 6. r 韻律 による [トリーア大司教]アールベ ローの事績」( Ges t aA lbe r o ni sme t ic r a,hg.V.G. Wa it z , MGH SS8,Ha L mO Ve r1 8 4 8,S.2 3 8)によれば,アールベ ロ-は,ア-ヘ ンで コンラー ( 5 4) トの戴冠 まで 自身で行お うとしたが,ケル ン大司教 アルノル トの抗議 を受けて断念 している。 ( 5 5) Ge S t aAl be r o ni S ,C .1 5 . ( 5 6) 1 1 2 5 年,ハ インリヒ 5世が亡 くなって国王選出がおこなわれた とき,オッ トーは 『 事績』に , おいて,次の ように述べている。「[ マインツ大司教]ア- ダルベル トは,王国の諸侯 を秋 にマ インツへ と召集 した。 なぜ な ら,国王が空位 の ときには,この権利 は古 くか らマインツ大司教 Ge s t a,I.1 7) 。 が もっていたか らである」( ( 5 7) マインツの 「 全体集会」の正当性 については,大筋 として,Pa ul e r ,o p.dt . ,S,1 5 2 -1 5 5によ る。 ( 5 8) コンラー ト3世にかんする 「 坊主 による国王 Pf h fe nk6 ni g」 とい う蔑称 は,こうした評価の 反映であった。Pa ul e r ,o p.c i t . ,S.1 35 f . ( 5 9) Be r l1 n ar d i ,o p.c i t . ,S. 4f . ( 6 0) Bac hma nn,o p.c i t . ,S.5 2 f . ( 61 ) 『 年代記』 とは対照的に,オ ッ トーは, r 事績jでは,テオデヴイヌスに言及 していないO ( 6 2) m A al e Sa .Jac o biLe o di e ns i s ,hg.V.G.H.Pe r t z , MGH SS1 6,Ha n no ve r1 85 9 ,S.6 40. d i ,hg.V.G.Wai t z, MGH SS 1 7 ,Ha n no ve r1 8 61 ,S.2 5. ( 6 3) A n nal e ss .Di S i bo ( 6 4) A n nal e sMagde bur ge ns e s ,hg.V.G.H.Pe r t z , MGH SS 1 6,Ha n no ve r1 8 5 9 ,S.1 8 6. ( 65) Vo ne s Li e be ns t ei n,o p.c i t . ,S.3 40は,否定 している. ( 6 6) DK. Ⅲ. 4( 1 1 3 8年 4月1 0日)。「コプレンツ集会」か ら,ほほ 1ケ月後である。「 pe re l e c t i o ne m pr inc i pum」 については,A.Bt i hl e r ,K6 ni gs haus und Ft i r B t e n.Zur Le it g i ma t i o nu nd Se l bB t dar B t e l l ungKo nr adsⅢ.1 1 3 8, ZGO1 37( 1 9 8 9) ,S.88 J9 0を見 よ。 ( 6 7) 教皇による支持の影響 を否定 して,Enge l s ,o p.ct . ,S.34f .は, トリーア大司教 アールベ ロ ーの領域政策 とシュタウ7ェンの家領政策の利害関係の結 びつ きを強調 し,Ll l bi c h,o p.c i t リS. i 1 00 天 理 大 学 学 報 3 3 8 工は,聖界諸侯が決定的 にイニシアテ イヴを握 っていた と考 える。 ( 6 8) ( 6 9) ( 7 0) ( 71 ) ( 7 2) Paul e r ,o p.c i t . ,S.1 45 f , Chr o ni c a, Ⅶ.2 2. ChT Y ) mi c a, Ⅶ. 2 3. DDK. Ⅲ. 2-7. マ グデブルク,ブ レー メン,ザ ル ツブル クの各大司教 区 に属す る聖界諸侯 の名前 は,記 され r nha r di , o p.c i t . ,S.2 4.なお,ス タブロ修道院長 ヴイーバル トについては,「コブ てい ない。Be Sc hmi dt ,o p.c L t . ,S.81 ,A n n.7 6 ) oDK.Ⅲ.5 レンツ集会」への参加者 とみなす見解 もある ( の内容 ともかかわるこの間蓮 については,γo ne s Li e be ns t e i n,o p.° i t . ,S.3 2 6,Anm.1 9 を参 照せ よ。 ヴイーバル トも, ロー トリンゲ ン地域 にかかわ りが深い ことは,事実である。 ( 7 3) Sc he i be l r e i t e r ,o p.° i t . ,S.4 4. 年代記』では, フ リー ドリヒと7- ダルベル トの関係 にはふれ ( 7 4) オ ッ トーは,上述 の ように 『 ていないが ,F事績J には,「大公 フリー ドリヒは,聖職 者であれ世俗 の人であれすべ ての人 々 に,彼 の二 人 目の妻 の兄弟 で あ る若 い ア- ダルベ ル トを選 出す る よ うに は た ら きか け た」 24) と記 している。 ( Ge s t a,Ⅰ. ( 7 5 ) DDK.Ⅲ.8,9. ( 7 6) 「 聖別」 は,約 1ケ月後,バムベ ル クでの帝 国会議 の ときに,バ ムベル ク司教 オ ッ トーに よ ってお こなわれた。 ( 7 7) Sc he i be l r e i t e r ,o p.c i t . ,S.5 3 15 6:Lubi c h,o p.c i t "S.3 2 4 f . ( 7 8) コンラー ト3世の国王証書の証人欄 には じめて登場す るのは,ブラ ンデ ンブル ク司教 ヴイガ 3( 1 1 3 8年 7月2 6日),バーゼル司教 オル トリープが DK.Ⅲ.1 8( 1 1 3 9年 5月2 0 -が DK.Ⅲ.1 日), フライジ ング司教 オ ッ トーが DK.Ⅲ. 3 2( 1 1 3 9年 7月1 9日)である。 ( 7 9) Co s ma ec hr o ni c aBo e mo r um,Ca no ni c iWi s s e g r ade ns i sc o nt i nuat i o,hg.V.R.K6 pke , MGH SS 9,Hanno ve r1 85 1 ,S.1 4 4. ( 8 0) m A a le sPe ga ie v ns i s ,hg.V,G,H.Pe r t z . MGH SS 1 6,Hanno ve r1 85 9,S.25 7. i t . ,S.1 7 7 f . ( 81 ) Re ul i ng,o p.c 年代記』の叙述か ら,ザ クセ ン人が コン ( 8 2) Sc he i be l r e i t e r ,o p.c i t リS.47 f .彼 は,オ ッ トーの 『 ラー トにたい して,誠実宣誓 と託身 をお こなった と考 えている。 ( 8 3) Lubi c h,o p.° i t . ,S.3 2 3.しか し, コンラー トと兄の フ リー ドリヒの緊張関係 を重視す るルー ビヒは,バ ムベ ル クの帝 国会議 に, フ リー ドリヒの影響力 の強 い シュ トラ-ス ブル ク, クー i bi d. ,S.3 2 9) 。 ア, コンス タンツの各司教が参加 していない ことも,指摘 している ( ( 84) Re ul i ng,o p.c i t . ,S.1 8 2. ( 85 ) レ-ゲ ンスブル クの帝 国議会 については,Sc he i be l r e i t e r ,o p.c i t . ,S.4 9 f . ;K.Ze i l l i nge r , Er z bi s c ho f l Ko nT ・ adI.I ) O nSal z buT g1 1 0611 47,Wi e n1 9 6 8,S.5 8 f . Epi s t o l ae Ba m( 8 6) この書簡 自体 は失われているが, トリーア大司教 アールベ ローによる返信 ( be r ge ns e s ,i n :Mo nuT ne nt aBaT nb e T ・ ge nS i a,hg.V.P.Ja L f i,Be r l i n1 8 6 9,Nr .3 2)によって, その内容 は推察で きる。 ( 87) 彼 は, ロータル 3世 に も誠実宣誓 を拒否 している。その経緯 については,Ze i l l i nge r ,o p.c i t . , S.4 4£ ( 8 8) この後, コンラー トとハ イ ンリヒの争点 は,ザ クセ ン ・バ イエル ン大公位 の問題 となる。E. Bo s ho f ,St auf e rundWe l f e ni nde rRe ie g ungs r z e i tKo nr adsⅢ. :Di ee r s t e nWe l f e npr oz e s s e undd i eOppo s i t i o nWe l f sV l . , AKG7 0( 1 9 8 8) ,S.31 3 1 3 41. ( 8 9) A n nal e nPa li de ns e sauc t or eThe o do r omo nac ho,hg.V.G.H.Pe r t z ,MGH SS 1 6,Hah- コ ンラー ト3世 の 国王選 出 ( 11 38年 ) 1 01 no ve r1 8 5 9 ,S.8 0. ( 9 0) Ge s t a,I.2 3. 8.ロー タル 3世 は,1 1 3 0年 にお きた シスマでは,枢機卿の過 ( 91 ) Paul e r ,o p.° i t . ,S.1 37 -1 40,1 5 半数 の支持 を集 めた アナ ク レー トウス 2世で はな く, イ ンノケ ンテ ィウス 2世 を承認 して い 1 3 8年,イ ンノケ ンテ ィウスの勝利で決着 をみた。 る。そ して, この シスマは,1 ( 9 2) Sc he i be l r e i t e r ,o p.c i t . ,S.1;Pau le r ,o p.c i t "S.1 37. ( 9 3) Lubi c h,o p.c i t . ,S.3 2 3. 続) 』の ( 9 4) ザ リエル家 との血縁 関係 については 『シジュペ -ル ・ド ・ジャンブルーの年代記 ( , t i r ps r e gi a」 に属 しているが故 に国王 に選出 された と述べ ように, コンラー トは 「 王の家系 s ge be r t iGe mbl ac e ns i s Chr o ni c a.Co nt i nuat i o Ge mbl ac e ns i s ,hg.V.L. る史料 もある。Si ve r1 8 4 4,S.3 8 6. Be hma t nn,MGH SS 6,Hanno hmi dt ,o p.c i t . ,S,1 0 9 -1 2 2.「 血統」 を考 える場 ( 9 5) ハ インリヒの共同国王選出については,Sc 合, コンラー トとハ インリヒの ような父 ・子 の関係 と,ザ リエル家のハ イ ンリヒ 5世 とコンラ ー トの場合の ような叔父 ・甥の関係 を,当然の ことなが ら,同列 にお くことはで きない。 ( 96) 共同国王 に選出 された長男ハ イ ンリヒば父 よ りも先 に没 したが, コンラー ト3世 は,次男 フ リー ドリヒにかん しては,後継者へ の措置 を とっていない。 フ リー ドリヒは,パ ルバ ロ ッサの 1 5 2年の国王選 出につい 国王選出後, シュヴ ァ-ベ ン大公 フリー ドリヒ 4世 となった, なお ,1 ては,前掲拙稿 を参照 されたい。
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