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Marvin との遭遇
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「ミンスキー博士を偲んで」
Marvinとの遭遇
Encounter with Marvin
中島 秀之
Hideyuki Nakashima
公立はこだて未来大学
Future University Hakodate.
[email protected], http://www.fun.ac.jp/~nakashim/
1.MIT AI ラボで
と書いたが,これは文字どおりの意味で,PDP-11 が計
算を引き受けるほかに,各端末の画面イメージを構築
して持っている.端末はそれを表示しているだけであ
著者は 1978 年夏から 1 年間,MIT AI ラボに滞在し
る.そのため,実はどの端末からでも他の端末のイメー
た.東京大学からの交換留学生としてである.指導教官
ジが呼び出せる.つまり他人の仕事状況を観測できるの
は PLANNER で有名な Carl Hewitt だったが,Marvin
である.今では信じられないかもしれないが,個人メー
Minsky ともさまざまな接点をもつことができた(ちな
ルなど存在しない頃のことだからプライバシーへの配慮
みに,アメリカでは学生は親しい教授はファーストネー
は一切なしである.他人の仕事も見える.論文を書いて
ムで呼ぶので,著者も Carl,Marvin と呼んでいた)
.
いたらそれも読める.著者がプログラムを書いていると
一つには Minsky の秘書の Monica Strauss(Minsky の
チャットの割込みを受けることがときどきあった.著
親戚だと言っていた)が日本贔屓で,少し日本語が話せ
者の仕事に興味をもつ教授や学生からのコンタクトであ
たことがある.人生初の海外滞在で,彼女にはいろいろ
る.当時の著者は Prolog の処理系を Lisp で構築し,そ
と助けてもらった.
の Prolog 上で仕事をすることが多かったのだが,Lisp
もう一つは彼のオフィスの利用.当時の MIT の計算
発祥の地である MIT では Prolog を知る人は少なく,ま
機環境は世界最先端であったが,今から振り返ればかな
た知っていても反論理型プログラミングの立場の教授が
り制約されたシステムであった.インターネットの前身
多かった.Hewitt などは PLANNER(これも一階述語
となる ARPANET は稼働していたが,一部の人を除い
論理に基づく言語である)のほうが優れていると言い
て一般的な通信(メールのやり取り)にはまだ使われて
張っていた.いずれにしてもそのような MIT において
いなかった.MIT 内部でのメールシステムは稼働して
も何人かは Prolog に興味をもってくれた.そういう意
いたが,日本との通信などは夢想だにしなかった時代で
味では,著者が MIT に Prolog を伝道したことになる.
ある.当時 AI ラボや CS(コンピュータサイエンス)学
科には PDP-11 で制御されるタイムシェアリングシステ
3.The Society of Mind
ムがあった.確か,1 台のマシンで 9 台の端末を駆動し
ていたのだと思うが,台数も限られており,昼間に学生
話が脇に逸れてしまった.Minsky の話に戻そう.著
がログインするのは困難な状況であった.ただ,17 時
者が留学した当時,彼は“The Society of Mind”
(Simon
以降残業する教授はほぼ皆無で,夜間は学生にも使い放
& Schuster, 1986)
( 邦 訳 は「 心 の 社 会 」
( 産 業 図 書,
題.しかも,教授のオフィスと端末が解放される.著者
1990)
)を執筆中であった.この本はほとんどの項目が
は Minsky のオフィスを使うことが多かった.
見開き 2 ページに収まるようなエッセイ集であった(日
ちなみに Minsky のオフィスの隣は確か David Marr
本後訳では字数が異なるので,残念ながらそうなってい
( 多 く の 研 究 者 に 影 響 を 与 え た“Vision”
(Freeman,
ない)
.彼はこの原稿段階のものの 1 項目ずつを毎回の
1982)の著者として有名.邦訳は「ビジョン─視覚の計
講義に使った.学生の反応を見,それを生かして書き
算理論と脳内表現」
(産業図書,
1987)
)のオフィスであっ
換えていったのだと思う.出版は,それよりかなり後
たが,すでに病気療養中(1980 年に白血病で死去)で,
の 1986 年になる.著者がいた頃は執筆を始めたばかり
ドアは閉じたままだった.
だったのかもしれない.ちなみに,Knuth の TeX はま
だ一般化しておらず(ギリギリ完成していたのかな?)
,
2.PDP-11
troff が使われていたのだと思う.
“The Society of Mind”は知能に関する疑問がぎっし
PDP-11 でタイムシェアリングの画面を制御している
り詰まった本である(答えはあまり書かれていない)
.
人 工 知 能 31 巻 3 号(2016 年 5 月)
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図 1 科学未来館にて(2003 年)
ある意味,哲学書である.AI の産みの親の一人である
は隣の産業技術総合研究所臨海副都心センターにいた.
Minsky から直接講義を聞けたのは良い経験になった.
この写真に,著者を含め現在公立はこだて未来大学の教
本場の AI はこんなにも哲学をするのかというのが当時
員になっているのが 4 名もいるのは大学としての自慢か
の著者の第一印象である.今の日本の研究者は哲学が足
もしれない.
りない.
4.日 本 で
Minsky は晩年,何度も日本に来ている(このあたり
は竹林さんの記事(pp. 437-438)に詳しい)
.著者は彼
が 1990 年に日本国際賞を受賞したときや 2003 年に来
た時に会っている.図 1 の写真は 2003 年に松尾 豊氏が
人工知能学会でインタビューしたときのもの.日本の若
手研究者と一緒に 2000 年にできた真新しい科学未来館
でのスナップショット(松尾 豊氏提供)
.この頃,著者
著 者 紹 介
中島 秀之(正会員)
1983 年東京大学大学院工学系研究科情報工学専門課
程修了(工学博士)
.同年,工業技術院電子技術総
合研究所入所.2001 年産業技術総合研究所サイバー
アシスト研究センター長.2004 年より公立はこだ
て未来大学名誉教授.情報処理学会,日本認知科学
会,各フェロー,JST さきがけ領域研究総括.著書
に「Prolog 」
(産業図書,1983)
,
「知能の物語」
(公
立はこだて未来大学出版会,2015)など.