SKI001101

貧
救
ワ
ケ
本
建
野
根
日
KeyWord
M.E. リッチモンド、 ソーシャルワーク、 社会福祉 史
1 . はじめに
小論は、 日本ケースワークの 萌発に遡り、 生成事情や展開模様を 傭敵することを 目的とする。
ケースワークの 体系は、 米国に生起し、 リッチモンドが 大成した。 リッチモンドの 体系は、 社会的
困難を調査して、 診断した上で、 治療するのをケースワークとしたところに 第一の特徴があ る。 また
第二の特徴として、 人間個々と社会環境の 間の個別的で 意図的な調整をケースワークとするのが りッ
チ モンドの体系であ る 1。 このケースワークの 体系は、 19 世紀後半に慈善組織協会の 組織的かつ個別
的な救貧事業を 母型とする。 がしかし、 リッチモンドは 医療と司法の 分野にも、 ケースワークの 活動
を認識し、 体系に供した 2。 医療分野では、 病院社会事業のソーシャル・アシスタントの 活動であ る。
また司法分野では、 少年審判所のプロベーション・オフイサ 一の活動であ る。 両者とも、 調査、 診断、
治療を進め、 人間と環境を 扱った。
ここでは、 日本ケースワークの 萌発を戦前日本の 救貧事業、 医療分野、 司法分野に探ることを
限局
とする。 まず、 日本ケースワークの 論者の一人、 小澤一の救貧事業の 構想をとり上げる。 そして次に、
日本の病院社会事業の 活動、 また日本の少年審判所の 活動を姐上にのせる。 この区々に、 調査、 診断、
治療を進め、 人間と環境を 扱 う というリッチモンドが 着祝 する活動を日本ケースワークの 萌発として
探ることに関心をおく。 このことを通じて、 日本ケースワークの 草創を通史的もしくは 回顧的に整理
する従来の研究を 補充する 3。 その上で、 ソーシャルワークの 原形を確認し、 若干の示唆を 得るのが小
論の意義となる。 ソーシャルワークの 原形に着目することは、 その本質にせまり、 その様相をつかむ
ことに繋がるだろう。 そして、 日本ソーシャルワークの 展望を開く土台と 軸 心を明確にするとともに、
強固にするだろう。 またここで、 日本ケースワークの 起点を対象にすることは、 日本ソーシャルワー
クを時間軸で 相対化し、 今日的課題の 索出に資するだろう。
そして、 医療や司法といった 二次分野の
ケースワークの 始点を対象にすることは、社会福祉士の 職域拡大という 今日的課題にも 通ずるだろう。
今日、 社会福祉士の 職域拡大は、 日本ソーシャルワークの 研究と教育の 一大懸案であ る。 社会福祉
士という日本ソーシャルワーカ 一の国家資格が 誕生して早くも 20 余年がたつ。 しかし、 日本学術会
議の関係部会が 次のような提案を 公に出す実情があ る。 一つは、 社会福祉士の 任用をめぐる「ソーシ
ャルワークが 展開できる社会システムづくりへの 提案 4 (2003 年 ) であ る。 いま一つは、 社会福祉士
」
の活用をめぐる「近未来の 社会福祉教育のあ り方について 一 ソーシャルワーク 専門職資格の 再編成に
向けて 5 (2008 年 ) であ る。 ここには社会福祉 モの 職域拡大の志向があ るが、 資格の有様に 終始して
」
説得力 は ない。 リッチモンドは、 ケースワークの 大成の背後で、 ソーシャルワークの 専門職化を企図
した。 ここで専門職化とは、
一つぼソーシャルワークの 技術化と、 いま一つにソーシャルワークの 職
業化とを意味する。 ケースワークの 大成は、 技術化の結実にほかならない。 と同時に、 このことは 専
門 的な職業化の
一歩でもあ った。 社会福祉士の 職域拡大も、 この技術化や 職業化の議論に 結びはじめ
て、 実質化する。 ここから社会福祉 モ 0 行方を俳頭に、
日本ソーシャルワークの
専門職 化 をも小論は
瞥見する。
なお、 今日ケースワークの
呼称 は 死語に近い。 ソーシャルワークという
シャルワークは、 ケースワークを 包摂し、 理論と実践の 両面で内容を 再編
と
用語が一般的であ る。 ソー
し拡張する。
しかし、 研究
教育の両面でソーシャルワークの 説明が形骸的で 不明瞭になった 印象も否定できない。
シャルワークの 視点や手順は、 リッチモンドのケースワークの
無論、 ソー
体系より基本に 変容はない。 術語の改
変を除いては、 ソーシャルワークも 同様にして、 調査、 診断、 治療を進め、 人問と環境を 扱
では、 このかぎりでケースワークの
史的考察にのぞみ、
う
6。 小論
ソーシャルワークの 原形を求めたい。
2. 方面委員のケースワーク
日本ケースワークの 草創を飾った 代表的論者としては、
小澤 一 、 福山政一、 三好豊太郎らがいる 7。
福山や三好は、 ケースワークの 母、 リッチモンドの 体系を日本に 忠実に紹介した 主要な人物であ る。
一方、 対照的に小澤はリッチモンドの 体系を日本の 実情に移植した 稀有な人物として 際立っ 8。 ここで
は、 日本ケースワークの 草創の一大典型として、
仏教信仰を底流にして、
は、 1923
(大正
この小澤の構想、を見る。
米国に学び日本に 直す救貧事業のケースワークが 小澤の特徴であ る。 小澤
12) 年の米国視察より、 慈善組織協会に 着目した。 リッチモンドの 体系の母胎をな
すのが、 この慈善組織協会であ
った 9。 慈善組織協会は、
19 世紀後半に救貧活動を 刷新した民間主導
の地域機構であ る。 主眼は、 救貧活動の無秩序と 不経済を抑止することにあ り、 自助の賦活を 徹底し
た。 特徴の一つは、 私的慈善団体や 公的救貧制度を 組織化した点であ り、 いま一つは救済申請の 窓口
を 一本化し救済を
個別化した点にあ る。 窓口では、 有給専従 員 が友愛訪問 員 とともに調査をした 上、
私的慈善団体や 公的救貧制度の 活用、 友愛訪問活動ほか 適切な救済を 展開した。 この慈善組織協会の
営為がケースワークの
原形にほかならなかった 10。
小澤は、 1925 (大正 14) 年に論稿「組織社会事業とその 充則 一 オーガナイズド・チャリ
ース・メソッドの
発達」
チ一と ケ
11を発表する。 そこでは、 慈善組織協会に 相応する日本の 地域機構を方面 委
員 制度として、 救貧事業にケースワークを 編成する提起があ った。 方面委員制度は、 小河 滋 次郎の発
案により 19
Ⅰ
8 U大正
7) 年に大阪府が 整備したのを 機に全国に普及した。 為手 は 、 市町村吏員、 警察
吏員、 学校関係者、 救済事業関係者のほか 無償の有志者が 知事の任命で 小学校通学区を 担当した。
目
的は 、 「民出の社会的生活状態の 真相を詳 査 審問する、2」ことであ り、 広義の社会測量と 狭義の社会測
量とからなる。 前者は、 地域全般に対する 社会測量であ り、 社会政策の基礎を 築く。 一方、 後者は個
刈 生活に対する 社会測量であ り、 個別救済の展開を 導く 18。 小澤は、 救貧事業のケースワークの 導入
で、 この方面委員制度の 発展を企図した。
2) 救護事業指針の 形成
1929 (昭和 4) 年 制定の救護法は、 義務救助主義をとり、
弱め、」「家族制度と 近隣
及び隣保扶助の 精神を破壊」する 懸念が生じた。 また、 このことにょり 救護法の財政基盤の 逼迫とい
「自助的精神を
う問題に対する 憂慮も高まった ,4。 この救護法下の 情勢 は 、 慈善組織協会を 念頭にケースワークの 明
確な定位を小澤に 一層動機づけた。 そして 1934 (日窃口 9) 年 、 小澤は大著『救護事業指針』
, 5で救貧
事業のケースワークの 体系を提示する。 ここで救護事業とは、
救護法下でケースワークを 展開する新
局の救貧事業をさし 示す呼称であ る。 救護法は、 市町村長が実施主体となり、
いう規定をもった。 小澤は、 市町村の救護係員と
方面委員が補助すると
方面委員を中核にした 公私事業の組織的な 連絡と、
個別的な居宅救護の 展開とをケースワークとした。
ここには、 慈善組織協会のケースワークよりリッチモンドが 整理した調査、 診断、 治療という手順
が 同様にあ った。 まず調査は、 方面委員が要救護者を 訪問調査し、 救護係員へ意見具申する 段階であ
る。 次に診断は、 救護係員が救護方法を 審査決定する 段階であ る。 そして最後に、 方面委員が診断内
容に即して物質的任務と
人格的任務を 負い、 要 救護者に監督指導し 救護係員に救護報告する 治療の段
階 であ る IB。 なお、 物質的任務とは、 各種の扶助や 救助の供給ほか 労働供給、 児童保護、 医療保護な
どであ る。 一方、 人格的任務とは 奨励や希望などを 与えて新しい 習慣の形成をはかる 指導であ る 17。
ここに、 ケースワークの 母型を慈善組織協会から 日本の実情へと 摂取する小澤の 構想があ る。 また、
社会環境に視野を 広げ人間個々を 扱
ケースワークの 特有の視点もそこにはあ った。 事実、 小澤のケ
ースワークは、 「貧困問題は 社会問題の淵源 18」であ り、 「家族の快復自立と 社会状態の改善 19」をはか
う
る 。 しかし他面で、 小澤の構想ではリッチモンドの 民主主義的かっ 社会連帯的な 精神は乏しい。
このことは、 一つぼ小澤の 構想が自身の 仏教信仰を貫徹させることに 自因する。
物質的、 社会的の悩みも 結局は精神的苦痛であ り、 人間性そのもの ム 悩みであ る。 人生問題は単に
物質的、 科学的に見たのみでは 到底真の解決は 望み得ない。 人間は唯心的存在でも 唯物的存在でもな
い 。 然るに最も深く 人生の相対有限の 事実に悩み、 その徹底的解決を 見出したのが 宗教的解脱の 実験
であ り、 妓に人間が真の 救済と如来の 絶対 カ とを見出す大乗的信仰の 境界があ る。 之が実に聖徳太子
以来の我 邦 大乗仏教の信仰であ り、 国民思想の最も 深い淵源であ る。 宗教的信念は 各自の体験に 依る
ものであ って人間の抽象的な 理論的思索の 及ばない現実的実験の 世界であ る。 妓に社会事業家も 真の
所信 とカと 生命を把握し 得ると信じる 20。
また一つに、 救貧事業のケースワークを 方面委員制度に 結合させたことにも 来由する。 元来、 小河
の方面委員制度は、 官製の無給篤志家を 要衝にした民間の 相互扶助の制度であ った。 小澤は、 この方
面 委員制度に有給専従化を 期待し、 ケースワークの 専門職 化 をはかった 21。 このことは、 民間主導の
慈善組織協会とも、
リッチモンドの 専門職化とも、 相違した。 ここに、 小澤が実情に 即して移植を 試
みた日本ケースワークの 草創の最大の 特徴があ る。
3. 病院社会事業とケースワーク
] ) 病院社会事業の 端緒
さて、 次に医療分野の 日本ケースワークの 草創を見たい。 日本の病院社会事業の 発祥はケース フ一
クの 萌芽と関係する。 病院社会事業の 噴 矢は 、 泉橋 慈善病院 (現 三井記念病院 ) であ る。 「本法人 ハ 貧
困ナル病者 / 為メ 施療 ヲ為スヲ 目的 2,」に、 同病院は 1909 (明治 4 の年に開設した。 この背景には、
東京市長の要請があ り、 三井八郎右衛門高楠が 資金供出した。
同病院では、 1919 U大正 8) 年 、 賛助婦人会の 発足とともに、 病人相談所を 設置する。 病人相談所
は、 賛助婦人会の 内部組織であ り、 先駆的で試行的な 病院社会事業であ った。 この病人相談所は、
「
外
来 患者二煩悶解決、 病気快復後 / 就職口 / 斡旋 他 諸般 / 相談相手 23」を配置した。 同病院の関係者は、
5
開設時に米国視察を 実施して病院のソーシャル・アシスタントを 見聞した。 病人相談所の 相談相手の
配置は、 このソーシャル・アシスタントを 考量 し 実現する一策であ った。
(R.Cabot) が 1905 (明治 38) 年にマサチュー セ
ッツ 総合病院に任用したのが 発端であ る。 キャボットの 医療は、 患者個人の生活環境の 全般に視野を
ソーシャル・アシスタントは、
医師キャボット
拡げるところに 特徴をもった。 無論、 その医療は患者個人に 対して身体面と 精神面を扱い、 前者でほ
遺伝や健康、 また後者では 知的障害や精神疾患、 気質・性格に 応じる。 ただしそこでは、 生活環境の
物理面と精神面をも 扱い、 前者では食物・ 衣類,住居や職場の状態、 学校の状態、 気候・自然の 美醜、
後者では家族・ 友人や教育・ 余暇、 宗教にも応じた 240
この医療を全うするには、 医師一人では 足りない。 ここに、 ソーシャル・アシスタントの 着想が出
る。 キャボットは、 「診断と治療の 両方に関する 医師の援助者 25」として、 ソーシャル・アシスタント
の 活動を構想した。 ソーシャル・アシスタントは、 患者個人と生活環境を 調査して医師の 診断に供し、
これに基づく 治療に参加する。 ここには、 生活環境に対する 視点があ り、 また医師と協働する 調査、
診断、 治療の手順があ る。 このソーシャル・アシスタントの 活動を、 リッチモンド は ケースワークと
認識し自身の 体系を築いた。
なお、 最初のソーシャル・アシスタントは べ ルトン (G Ⅱ.Pelton) であ り、 1 年後にはキヤノン
(I.M.Cannon) が受け継いだ 26。 ペルトンは、 デニ ソ ンハウスセツルメントの
看護師の経歴をもった。
一方、 キヤノンはセントポール 慈善組織協会の 看護師の経歴があ った。 ただし、 キヤノンはシモンズ
女子大学社会事業大学院を 卒業し、 ソーシャルワークの 素養があ った。 このソーシャル
,アシスタン
トは、 病院が雇用し 組織の一部とする キャ ボットの構想 27の下で活躍した。
さて、 泉橋 慈善病院は日本最初の 病院社会事業を 展開したことに 相違ない。 しかし、 同病院は以上
のキャ ボットの構想を 同然に具現したとは 高いがたい。 第一に、 「覚来患者二煩悶解決、 病気快復後 /
就職口 / 斡旋 他 諸般 / 相談相手」は、 患者個人の生活環境に 視点をおく。 しかし、 調査、 診断、 治療
の手順は不分明であ
り、少なくとも常態的に 医師と接点をもつ 活動には到達しなかった。 また第二に、
相談相手は病院の 外部組織に位置する 賛助婦人会に 所属し、 報酬も同会の 寄付で賄 う 体制であ った。
無論、 原初的なソーシャル・アシスタントの 姿はあ る。 しかし、 リッチモンドの 認識や体系をここに
見出すことは 不可能であ る 28。
このことが可能なのは、 済生会病院であ り、 聖 ルカ病院であ る。 ここに、 本格的なソーシャル・
シスタントの 姿があ る。即ち、リッ テ モンドの認識や 体系に符合する
ア
日本ケースワークの 登場があ る。
2) 日本のソーシャル。 アシスタント
済生会病院と 聖 ル力病院は、 日本の病院社会事業の 発祥を象徴する。 まず済生会病院は、 1gn
治 44) 年に「施薬救療 以テ 済生 / 途ヲ腔メム
発足した。 病院社会事業の 展開は、 1926
トス」 る 済生勅語に発し、
U大正
御内締金を元手に 官民協力で
15) 午の済生社会部の 設置をまっ。 ここでは、 米国
留学でソーシャル・アシスタントに 精通した里江孝之が 多大な貢献をなした。
生江は 、 済生会参事を
務め早くから 病院社会事業を 日本で紹介しその 実現は念願であ った。 済生社会部の 社会事業家は、
本女子大学を 卒業した清水利子であ り、 生 江の教え子であ った 29。
済生社会部規程要綱は
(明
、 次のとおりであ る 300
一 、 本部 ハ 恩賜財団済生会 / 事業 ヲ語功シ 患者 / 苦痛軽減 ヲ図ルヲ以テ 目的トス。
6
日
二 、 本部 ハ 事務所 ヲ 恩賜財団済生会病院内二 畳ク 。
三 、 本部ハ恩賜財団済生会関係有志者 及 篤志者 ヲ以テ 組織 ス 。
四 、 本部 ハ 資金充実 二従ヒ 漸次 左 / 事業 ヲ行フ 。
(一 ) 患者 / 身元生計調査。
(二 ) 患者 / 相談入院中 度 退院後 / 世話
(三 ) 患者 / 世話 右 二関 シ他 / 社会事業 トソ 連絡。
(四 ) 患者職員等二便宜 ヲ興 フル ヲ 目的トスル病院内売店事業。
五 、 本部二 左 / 役員 ヲ置ク 。 理事若干 率 、 監事若干 名 。
六 、 本部 / 経費ハ友 / 収入 ヲ以テ 支弁 ス 。 寄附会・売店利益金・
雑収 。
七 、 本部二 左 / 職員 ヲ置ク 。 事務員一人・ 助手一人。
済生社会部は、 済生会病院の「事業 ヲ詰助シ 患者 / 苦痛軽減 ヲ国がヲ以テ 目的 ト 」する。 そして、
「患者 / 身元生計調査」、 「患者 / 相談入院中波退院後 / 世話」、 他 / 社会事業
「
ト
/ 連絡」が社会事業
家の主な仕事であ る。 この規定要綱は、 患者個人の生活環境に 対する視点を 示す。 しかし、 医師と接
点をもっ調査、 診断、 治療の手順は 不明であ る。 ただし、 生江は 「その仕事はまず 主事をおいていわ
ゆるケースワークの 任に当たらせ、 患者と家族およびその 社会生活を調査し、 医師はその資料にもと
づいて治療をなし 診断をするようにした 31」と述懐する。 本格的なソーシャル・アシスタントの 姿が
あ り、 またリッチモンドの 認識や体系もあ った。 済生会病院は、
日本ケースワークを 出現させた。 し
かし、 生注 が述懐するように 済生社会部は、 「病院覚の独立機関として 設立,2」を果たした。 社会事業
家の報酬も、 規定要綱が記す 寄付や売店収益などが 支えた。 同病院はこの 点、 キャボットの 構想を十
全に具現する 社会事業家の 地位を与えなかった。
一方、 聖 ル力 病院 (現 聖路加国際病院 ) は米国聖公会の 宣教医師トイスラー㎝・ B.皿 usler) が来日
し、 1901 (明治 34) 年に施療を開始したところに 出来した。 病院社会事業の 展開け、 1929 (昭和明
年に浅賀ふさが 社会事業家として 入職 し 、 このとき同時に 医療社会事業部が 開設したのをまっ。
ここ
では、 米国に遊学してシモンズ 女子大学社会事業大学院を 卒業した経歴をもっ 浅賀に多大の 功績があ
る。 浅賀は、 キャボットの 警咳に 接し、 キャノンの指導を 受け、 ソーシャル・アシスタントを
て 、 同病院に導入した 33。 また 1931 (昭和 6) 年 、 医療社会事業部にはキヤノンと
熟知し
同職にあ ったシッ
プス (H.K.Sh めps) が加入し強力な 陣容を整えた 34。
1935 (昭和 10) 年 当時の医療社会事業部の 業務大綱は次のとおりであ る 35。
一、
患者の社会的地位及び 生活状態 並に 其の為、 人を調査して 病気に関係あ る資料を医師に 報告、
提供すること。
ニ 、 医師の指導に 従ひ、 患者に対して 其の必要に応じて 援助の計画を 立てること。
三 、 患者に静養の 機会を与へ、 或は療養所に 入る事、 某他 に就 て 適当の計画を 立てること。
四 、 病気に就ての 知識を患者に 与へて療養上の 指導をすること。
五 、 その他患者の 経済状態を調査して、 其の必要に応じて 入院料を定めて 事務部に報告すること。
この業務大要は、 医療社会事業部の 社会事業家の 主な仕事を列挙する。
患者の「経済状態」や「 社
全的地位及び 生活状態」、 「入院費」や「療養所」を 問題にするところに 患者個人の生活環境に 対する
視点があ る。 また、 「病気に関係あ る資料を医師に 報告、 提供」 し 、 「医師の指示に 従ひ」、 「事務部」
と関係をもち「患者」の「必要に 応じて援助の 計画を立てる」。 ここには、 医師と接点をもっ 調査、 診
断、 治療の手順が 明瞭であ る。 事実、 「面接、 家庭訪問して 調査した資料をもとにケース 記録を書き、
要点を英文になおす。 ミス・シップ ス の OK (承諾 ) を得ると、 セクレタリーが 英文タイプで 4 枚と
り、 部長、 会計主任、 ソーシャルワーカーと 病棟のカルテに 挿入する。 sf (149) 実態があ った。 本
格 的なソーシャル・アシスタントの 姿があ り、 またリッチモンドの 認識するケースワークの 体系もあ
」
る。 聖 ル力病院は、 日本ケースワークを 出現させた。 さらに、 医療社会事業部は「院長の
直轄として
配置された 37」部署であ り、 社会事業家は 正規職員であ った。 同病院は、 この点も キャ ボットの構想、
を 忠実に顕現する
社会事業家の 様相があ った。
4. 少年審判所とケースワーク
] ) 少年審判所の 設置
最後に、 司法分野の日本ケースワークの 草創を見たい。 少年裁判所の 設置は、 日本ケースワーク の
萌芽と関係する。 1922
U大正Ⅱ )
年 制定の少年法の 規定が新設するのが 少年審判所であ る。 このこ
とは、 少年犯罪への 寛刑主義から 保護主義への 移行を表象した s8。 この少年法制定の 背景には、 「十四
歳二 滴タ ザル 者 / 行為 ハ之ヲ罰セズ 」とする 1907 (明治 40) 年の刑法改正があ る。 ここでは、 14 歳
未満の少年は 絶対的責任無能力者であ る。そこで、 この年齢の犯罪処遇に 向けた対策が 問題となった。
このとき、 米国視察より 帰国した穂積陳重の 1907 (明治 40) 年の講演が論議に 道筋をつけた。 米
「
国に 於ける小僕裁判所」と
題して、 米国事情を東京大学法理研究会で 紹介する講演であ る S9。 穂積の
問題意識は、 14 歳未満の「是等の 不良少年を如何にすべきか 40」ということにあ った。 米国事情に学
び倣
う
穂積はその後、 少年審判所を 規定する少年法制定に 関する特別委員にもなった 4、 。
米国では、 少年犯罪に対しては 特別立法で少年審判所を 通じた処遇をなした。
ここでは、 少年を成
人より分離し、 教育主義を理想、 とする保護主義の 立場があ った 42。 最初の少年審判所は、 1899 (明治
32) 年 設立のシカゴ 少年審判所であ る。 この背景には、 少年犯罪の原因を 不幸な生育環境に 求める児
童救済運動があ った。 この運動は、 アダムズ (J.Addams) らが率いるセツルメントハウスのハルハ
ウスが支持した。 そして、 レジデントの さズ ロップ (J.C.Lathrop) を中心にシカゴ 婦人会のメンバ
一
が活躍した。 シカゴ少年審判所は、
この児童救済運動の 結実であ った 43。
(P.Smith) が描き出した 佃。 ここでは、 プロベー
少年審判所の 具体構想は、 シカゴ婦人会のスミス
ション・オフィサ ー が重要な役割を 果たす。 プロベーション・オフィ
サ 一 % 、 少年の生育環境を 調査
し、 判事の審判に 資する。 このとき調査は、 家庭訪問や学校訪問、 近隣視察、 交友視察等を 通じて行
った。 そして、 これを踏まえた 審判は刑罰を 科さず、 一身全体の処遇の 方針を打ち出した。 さらに、
プロベーション・オフィサ ー 泣この方針に 基づいて処遇を 具体的に展開した。
校や教会等と
協力した保護観察や、
感化院を活用する
矯正保護、
この処遇では、 普通学
慈善団体を活用する
教育保護等があ
った。 なお、 留置学校を設け、 審判の際に少年を 在宅に置くのが 不都合な場合に 使った 45。
このプロベーション・オフィ
サ 一の活動には、 リッチモンドが 着規 する生育環境に 対する視点があ
る。 またそこには、 判事と協働する 調査、 審判、 処遇、 即ちリッチモンドの 着祝 する調査、 診断、 治
療の手順があ る。 リッチモンドは、 このプロベーション・オフィ サ 一の活動をケースワーク と 認識し
る。
す
カ
浮上
自身の体系を 築いた。 日本でも少年法の 規定が新設する 少年審判所に、 これと合致するケースワーク
8
なお、 シカゴ少年審判所の 最初の判事は、 タットヒル (R.血 thiIl)であ り、最初のプロベーション・
オフィサ ーは 、 ステイーブンス (A.P.Stevens)であ った 46。 当初は、 このプロベーション・オフイサ
一には、 シカゴ婦人会のほか 慈善団体より 志願する無給篤志家があ たった 47。 また 1914 (大正 3) 年
には、 シカゴ少年審判所ほ ヒ一 リー (W.Healy) が担
う
少年精神病質研究所を 新しい部署として 設け
た。 ここには、 アダムズ やラズ ロップが執行役員、 として名を連ねるなどハルハウスと
深く関係した 組
織 体制があ った 4R。 ただしここでは、 非行原因を生育環境に 求める児童救済運動に 新生面を開く 調査
研究に期待が 集まった。 ヒ一 リーは、 環境に加えて 遺伝、 発達、 知的、 道徳、 身体、 医学、 心理とい
った観点で非行原因を 調査研究した 49。 そして、 1917 U大正 6) 年にまとまった 研究成果 50は多角的
な観点に立った 少年犯罪の個別対応の 意義を闇明した。
この ヒ一リ 一の調査研究も、
リッチモンドの
ケースワークの 認識と体系に 多大な影響をもたらした。
2) 日本のプロベーション。 オフィサ ー
少年法は、 対象を 18 歳未満とし、 司法大臣が監督する 少年審判所を 規定した。 ただし、 「死刑、 無
期又ハ 短期三年以上 / 懲役者ハ票 鋼二該 ルヘキ 罪ヲ犯シタ者 」や「十六歳以上二シテ 罪ヲ犯 シタル 者
」
(27 条 ) は、 少年審判所に 原則的に審判権 はなかった。 そこでは、 裁判所又は検事より 送致があ った
時にのみ、 相対的に審判権 が生じた。 当初、 実際に開設したのは、 東京少年審判所と 大阪少年審判所
の二か 所に止まった 51 。
関係 及 本人 / 性行、 境遇、 経歴、 心身 / 状況、 教育 / 程度等 ヲ 調査」 (第 31
条 ) する。 また、 「身心 / 状況二行 テ ハウル ヘク 医師ヲシテ診察 ヲ為 (第 31 条 ) す 。 ここには、 蒸
少年審判所は、
「事件 /
」
煮的な寛刑主義に 代えて実質的な 保護主義に立った 少年審判所の 性格が端的に 表出する。 このとき、
重要な役割を 果たすのが少年保護司であ った。 少年保護司は、 プロベーション・オフイサ 一に照応す
る。
少年審判所は、 少年審判官とともに、 少年保護司を 配置し、 「少年審判官 ヲ 補佐シテ審判 / 資料 ヲ
供シ 観察事務 ヲ掌ル (第 23 条 ) とした。 そしてこのとき、 少年保護司には「観察 ヲ為 スニハ善良 ナ
ル師友トシテ 少年 ヲ 指導訓諭 シ之二 不断 / 援助 ヲ 与へ 其 / 性格 / 矯正境遇 / 改善 ヲ図 B2 る 要請があ
」
」
った 。
1937 (昭和上 2) 年の少年保護司の 調査項目は 、 次のとおりであ る 53。
一 、 事件関係調査
(事件、 動機、 不良傾向、 不良行為発生時期 及 経路双科等 )
二 、 性行傾向
(性質、 素行、 習癖、 嗜好、 娯楽等 )
三 、 境遇調査
(家庭の生活状況、 資産、 収入、 宗教、 親族間の折 合 、 近隣の状況、 交友関係、 性関
係)
四 、 心身の状況調査
(遺伝、
胎生期異常の 有無、 出生時の状況、 病歴、 身体の発育状況、 精神の発
達状況、 心身の特質、 特徴等
)
五 、 生女調査
(各年齢に付ての 異動状況 )
六 、 教育調査
(学校名、
学校所在地、 就学年齢、 学歴 及 嗜好科目、 嫌悪科目、 操行、 成績、 欠席状
況、 生徒間の折 今 、 賞罰 及 非行等 )
セ 、 職業調査
(紹介者、
雇士卒 及 其の住所、 就業年齢、 求職期間、 種類、 賃金、 成績、 雇主政同僚
との 折合 、 解雇理由等 )
八 、 家族調査低率、 年齢、 職業、 教育、 収入、 遺伝の有無、 心身の状況、 飲酒、 前科、 素行等 )
九 、 血族調査 低名 、 年齢等家族調査と 同項 討
干 、 保護者調査 (氏名、 年齢等家族調査と 同項目 )
十一、 非行に対する 感想、 悔悟の状況及び 将来の方針等
この調査項目には、 ヒ一リ 一の多角的な 観点も含め、 リッチモンドの 清規する生育環境に 対する 視
点があ る。 少年保護司は、 この調査項目に 即した資料を 審判に供し、 少年審判官の 審判に基づいて 処
遇にあ たった。 そして、 処遇では保護者、 寺院や教会、 学校や病院と 協力する保護処分のほか、
感化
院や矯正院、 少年保護団体を 活用した。 判事と接点をもつ 調査、 審判、 処遇、 即ちリッチモンドの 着
祝 する調査、 診断、 治療の手順が、 ここにあ る。 なお、 保護処分の観察事務は 主として嘱託少年保護
司の仕事であ った。 少年保護司は、 専任少年保護司と 嘱託少年保護司の 二種があ った。 前者は高待遇
の 官吏であ り、 後者は司法大臣が 嘱託する無給の 篤志家であ った 54。
この少年保護司の 活動に、 リッチモンドのケースワークが
直接に影響を 及ぼした様子はない。
しか
し、 リッチモンドの 認識する体系はたしかにあ る。 守屋克彦の指摘するとおり、 後年にケースワーク
を標傍 した家庭裁判所調査官の
活動の母型であ った 55。
5. おわりに
救貧、 医療、 司法の分野で 萌発する日本ケースワークの 生成事情や展開模様を 確認した。 ここでは、
調査、 診断、 治療を進め、 人間個々と社会環境を 扱
の 慈善組織協会やソーシャル・アシスタント、
と同時に、 リッチモンドのケースワークの
う
日本ケースワークを 把握した。 そこでは、 米国
プロベーション・オフィサ
ー
が日本に影響を 及ぼした。
体系が芽を出す 土壌が日本の 一時代に社会的にあ った。
このケースワークの 萌発は、 ソーシャルワークの 原形の一面をなす。 リッチモンドの 体系は、 調査、
診断、 治療を進め、 人間個々と社会環境を 扱
う
のを基本とした。 今日のソーシャルワークもこの 手順
と視点を、 術語を異にしながら 理論体系や実践展開の 基礎とする。 日本ソーシャルワークの 原形に照
らして、 今日的課題を 指摘したい。
まず、 ソーシャルワークの 場に関係する 問題であ る。 救貧事業のケースワークは、
個別化に加えて
組織化を特徴とした。 住民の方面委員や 行政の救護係員を 中軸として公私救済事業が 地域機構をなす。
要 救護考へのこの 地域機構の各部機能の 連動がケースワークの 展開であ った。 今日的には、 マネジメ
ント や ネットワークと 呼び習わすところであ
る。 しかし、 個別化に体な
う
組織化にほケースワークの
実践装置や活動舞台の 準備といった 含意があ った。 このことは、 今日のソーシャルワークが 領頸開拓
や 場裏 設営といった 発想や内実の 不弁を示唆する。
病院社会事業や 少年審判所のケースワークも、 同様にこのことを 示唆する。 この二次分野では、 ケ
一 スターク は 補助的な立場にたち、
同時に自律的な 寄与をなす。 病院社会事業では 医師と、 また少年
審判所では判事と、 相互理解の下で 協働関係を築くことが 肝要であ る。 そして、 前者では診断を、 後
者では審判を、 補助的かっ自律的に 医師や判事と 共有することが 要諦をなす。 このことは、 今日の二
次分野のソーシャルワークが 領野 開拓や場裏 設営をはかる 一大指標でもあ る。
以上は実際、 新しい二次分野のソーシャルワークの 一大課題にあ がる。 たとえば、 学校ソーシャル
ワークが 2008 年度より国庫事業として 始動した。 文部科学 省は 、 スクールソーシャルターカー 活用
事業の趣旨で「児童生徒の 心の問題とともに、 家庭、 友人関係、 地域、 学校等の児童生徒が 置かれて
いる様々な環境に 着目して働きかけることができる 人材や、 学校内あ るいは学校の 枠を超えて、 関係
10
機関との連携をより
一層強化し、 問題を抱える 児童生徒の課題解決を 図るためのコーディネーター 的
な存在が、 教育現場において 求められている」とする。 この学校ソーシャルワークの
教師をはじめ 学校内覚の各関係者でアセスメントとプランニンバを 行
う
認知と展開には、
ケース会議の 定着を図ること
が鍵をにぎる 56。 ここには、 二次分野のソーシャルワークの 領野 開拓や場裏 設営に挑戦する 実際 例と
必要性が表出する。
さて、 次にソーシャルワークの 職に関係する 問題であ る。 救貧事業は戦後、 生活保護に変わり、
ケ
ースワークの 為手 は行政職員となった。 またそこでは、 行政補助の方面委員は 行政協力の民生委員に
名称と性格を 移した。 今日、 ケースワークの 中心は行政職員であ り、 職業化が安定した 一方、 技術化
の進展には首肯しがたい。
この点、 社会福祉士の 資格保有者の 割合も上がらず、 専門職化の道はいま
だ険しいのが 実情であ る。 くわえて現状は、 生活保障と自立助長の 矛盾をはらむ 業務を行政職員が 中
心となり担当する。 この点、 救貧事業のケースワークでは 救護係員と方面委員が 分業し、 自助の賦活
は専ら方面委員があ たった。 ここには、 行政責任は措いても
ぅ
民間の相互扶助を 通じた自助の 賦活とい
合理性がたしかにあ った。 ここからは今日、 行政職員がたつ 自立助長の地平の 合理性を、 生存権 を
めぐり検証する 課題が浮上する。
また戦後、 病院社会事業はケースワークを 機軸とした医療ソーシャルワークの 専門的な発展に 繋が
った 。 ただし今日も 、
一個の職業的な 地位の整備や 確立は不完全に 止まる感が否めない。
一方、 少年
審判所は戦後に 家庭裁判所に 改組 し家庭裁判所調査官がケースワークの 職業として多大な 期待が向い
た。 しかし今日では、 ソーシャルワークの 同一性が希薄になり 行く傾向は拭えない。
このことは、
日
本 ケースワークの 萌発に由来する。 病院社会事業は 気概をもった 民間人の尽力が 招いた。 反面、 少年
審判所では法令に 基づく行政官の 設置であ った。 無論、 当時の病院社会事業や 少年審判所のケース フ
一クは 、 医療や司法の 今日にも通ずる 時局の進歩的な 考え方に基づく。
は、 ここから技術の 洗練と職業の 確立を均斉にすすめ 存在意義を一層
二次分野のソーシャルワーク
う
ち出す必要があ る。 最後に、
日本学術会議の 関係部会が公に 出す提案、 「ソーシャルワークが 展開できる社会システムづくりへの 提
案 B7 (2003 年 ) 及び「近未来の 社会福祉教育のあ り方について 一 ソーシャルワーク 専門職資格の 再
」
編成に向けて 58 (2008 年 ) に一言して結びたい。
前者は、 社会福祉士を 任用資格として 普及させる
」
ことを前面に 出し、 後者は社会福祉 モを 基礎に二次分野の 認定資格を付加することに 及ぶ。 このこと
自体を、 ただちに否定はしない。
のみで、 説得力がない。
しかし、 あ まりにも 怒放 的で皮相的であ る。 資格の有様を 操作する
この様を呈する 理由は、 大きく二点あ る。
一 つは 、
ソーシャルワークの
場や
職の開発を事としないことであ る。また一 つは 、 その基礎研究の 地道な努力と 成果を欠くことであ る。
生
l M.E .Richmond,SocialDiagnosis,RusselSageFoundation,
l917 及び M.E.Richmond,W
aiis
Descr rPtion, 1922 。 なお、 リッチモンドのケースワーク 論の要点
SocialCaseWoork?:Introductory
は、 固根好運「原点のケースワーク 論一 リッチモンド 研究」Ⅰ同志社社会福祉 学 21 号 、 同志社大学
社会福祉学会 (2007 年 ) 、 pP,49,61. に詳しい。
2 前掲、M.E.Richmond(l917)
は、ケースワークを 医療や司法の 分野にも把捉 し 、 前掲、M 田 . Richmond
(1922) にはケースワークの 諸種の二次分野に 言及する。 ケースワークの 大成に医療や 司法の分野
が関係したことは、 前掲、 目振野建 (2007)、 Pp.53-55.に詳しい。
3 岡本民夫『ケースワーク 研究 ミネルヴァ書房 (1973 年 ) は、 日本ケースワークの 草創を通史的に
整理し、 仲村優一「ケースワーク 一日本社会事業の 海外の影響とその 消化」『社会事業 40 巻 8 号、
全国社会福祉協議会 (1957 年 ) 、 pp.62-67.ほ 、 回顧的に叙述する。
4 日本学術会議第 18 回社会福祉・ 社会保障研究連絡委員会『ソーシャルワークが 展開できる社会シス
土
』
刀
コ
Ⅱ
テム づくりへの提案
(2003 年 )
日本学術会議社会学委員会社会福祉草分科会『近未来の 社会福祉教育のあ り方について 一 ソーシャ
刀
5
再編成に向けて』 (2008 年 )
(2007 年 ) 、 pp.59-60 ・は、 「今日のソーシャルワーク 論に相通ずる 内容と方向を、
ルワーク専門職資格の
6 前掲、 目振野建
すでにリッチモンドのケースワーク
論 は 包摂する。 」とこの点を 明きからにする。
7 前掲、 岡本民夫 (1973 年 ) Pp.57-101. に詳しい。
8 同上、 pp.57.101. に詳しい。
9 前掲、 目板野建 (2007 年 ) 、 pp.51-53.に詳しい。
10 同上、 PP.51-53.に詳しい。
,1
小澤 一 「組織社会事業とその 充則 一 オーガナイズド・チャリ
チ一と ケース・メソッドの 発達」『 社
余事業コ中央社会事業協会 9 巻 1 号 (1925 年 ) 、 pp.2,16.
花 小河 滋 次郎『社会事業と 方面委員制度日巌松覚書店は 924 年 ) 、
、 8 同上、 p.2
P
ユ
14 小澤一目救護事業指針 一 救貧の理論と 実際』巌松覚書店 (1934 年 ) 、 p.58
15 同上。
16 同上、 p.35-36
17 同上、 p.108
18 同上、 P.l
19 同上、 P,g
20 同上、 p.4
2, 同上、 p.36
" 田代国次郎『 E 療 社会福祉研究』童心社 (1969 年 ) 、 p.55
羽同上、 p.57
24 1?.C.キヤボット 著 (1919 年 )/ 森野郁子訳「 1S療 ソーシャルワークー 医師とソーシャルワーカー』
(1969 年 ) 、 p.96
2s 同上、 P.7
26 中島さつき『医療ソーシャルワーク』誠信書房 (1975 年 ) 、 pp.39-40
27 前掲、 p.3
28 高橋恭子「初期病院社会事業の 実践一県 橋 慈善病院、 病人相談所について」
社会福祉 学刀 48 巻 1
号、 日本社会福祉学会 (2007 年 ) 、 pp,u7-129, は、 泉橋 慈善病院では「当時の 日本における 専 P 社
会事業の影響を 受けっ っ 、 欧米の新知識や 活動を取り入れ、 素朴な形ながらケースワーク 活動がなら
あ くまで「素朴な 形」の活動であ った。
れた。」とする。 ここで「ケースワーク」とは、
29 前掲、 田代国次郎 (1969 年 ) 、 pp.66-78.
30 同上、 pp,67-68.
丑 前掲、 中島さつき (1975 年 ) 、 p,50
32 同上、 p.50
33 前掲、 田代国次郎 (1969 年 ) 、 pp.78,82.のほか、 日帳好運「浅賀ふさ 一 医療ソーシャルワーカ 一の
先達」室田保夫編著『人物でよ む 近代日本社会福祉のあ ゆみ ミネルヴァ書房 (2006 年 ) 、 pp.221.227.
ァ
弓
日
に 詳しい。
34
35
36
s7
38
前掲、 田代国次郎 (1969 年Ⅰ、 p.81
同上、 pp.80-81.
前掲、 中島さっき (1975 年 ) 、 p.149
同上、 p.149
守屋克彦『少年の 非行と教育 一 少年法制の歴史と 現状』 動 草書房 (1977 年 ) は、 刑法改正にはじ
まり少年審判所を 規定する少年法制定にいたる 時期を保護主義の 萌芽の時期として 整理する。
39 穂積陳重「米国に 於ける小俣裁判所」 い法学協会雑誌 d25 巻 9 号、法学協会 (1907 年 ) 、 pp.1258.1286
は、 その講演を掲載する。
40 同上、 p.1259
矧 前掲、 守屋克彦 (1977 年 ) 、 p.67
42 前掲、 穂積陳重 (1907 年 ) 、 pp.1285-1286.
佃 A.M. フラット 著 (1969 年 ) / 藤本哲也・河合清子 訳 F 児童救済運動 一 少年裁判所の 起源山中央大
Ⅰ2
学 出版部 (1994 年 ) 、 p.74 。
典 同上、 p.124
45 前掲、 穂積陳重 (1907 年 ) 、 PP,1266-1276
46 前掲、 A.M. プラット 著 (1969 年 ) / 藤本哲也・河合清子 訳 (1994 年 ) 、 p.136
47 前掲、 穂積陳重は 907 年 ) 、 p.1268
48 W.Hea なr,TheIDdividualDelinquent:A TextBook ofDiagnosisand Prognosisわて抽lConcerned
iD Understanding
O 丘、enders,Li 七は e,Brown,and
Company, l917,p.809
49 同上、 p.53
50 同上。
51 前掲、 守屋克彦 (1977 年 ) 、 p.93
52 同上、 pp.97-98.は 1923 (大正 12) 年の司法省訓令の 少年保護司執務心得を 掲載する。
53 同上、 p.98 はニ司法保護事業年鑑』 1 巻、 財団法人司法保護協会は 940) よりこの調査項目を 抜
粋する。
54 同上、 p.97
55 同上、 p.98,p.130
56 『報告書 一 スクール (学校 ) ソーシャルワーカー 育成・研修等事業に 関する調査研究 d 社団法人日
本社会福祉士養成学校協会 (2008 年 ) 、 p.14 及び日本学校ソーシャルワーク 学会編 P スクールソー
シャルワーカー 養成テキスト 日中央法規出版 (2008 年 ) 、 pp.113-128.
5, 前掲、 日本学術会議第 18 回社会福祉・ 社会保障研究連絡委員会 (2003 年 )
58 前掲、 日本学術会議社会学委員会社会福祉草分科会 (2008 年 )
13