GKH019805

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伊沢修二の漢語研究 (
下)
栄
鵬
〔
要 旨〕 本稿は,前稿 『
伊沢修二の漢語研究 (
上)
」に続いて,台湾か ら帰国 した伊
沢の帝国議会活動,東亜同文会を中心に,泰東同文局や漢字統一会を設立 し,漢語研究
,
をおこなった実態,とくにその成果を明 らかに した。これによって F日清字音鑑」刊
行以降伊沢の漢語研究業績の特徴 を解明 し,さらに,中国清末期における漢語表音文字
「
官話合成字母」の発明者である王照 との接触及び,直隷省教育官僚厳修 との交友関係
を明らかにした。
前満 と合わせ総 じて言うと,近代 日本国家形成期において,漢語 ・漢学の文化背景を
背負 う伊沢修二は,欧米 との文化接触を通 じて視話法 という音声識別方法を身につけ,
それに啓発 され,明治3
0年代, 日本,中国及び朝鮮半島を含めた漢字表音文字の創出を
工夫 した。これは,いうまで もな く明治 日本の国内,国際政治指向 と深 く関係 してい
る。時期を同 じくにして,伝統文化の近代化をはかるべ く,清末中国知識人もまた自国
漢語音韻表記の通俗化を模索 していた。勿論,両者の目的は全 く異なるものであるが,
しか し漢字表音の通俗化問題にあっては交錯 している点が見逃せない。伊沢の漢語研究
は,明治日中文化交流における性格の-方面を顕著に表出 しているものとして特筆 され
るべ きだろう。
〔
キーワー ド〕 漢語
字音仮名遣
新音字
官話合成字母
厳修
三.東韮 文化 統 合 活 動 と 日中教 育 交 渉 の接点
1.「字音仮名遣 ・樺 引仮名遣」問題
明治以降の国字 国語 にかんす る議
嘉か, 日清戦争の勝利 に伴 って,俄 か に活発 になった。 と
くに,1
9
0
0(
明治3
3)年文部省 による国語調査委員の委嘱 と,同年 8月第1
4号小学校令 の改定
によって,初等教 育 にお ける-教科 と して国語科 の設置,教授 用 漢字 の節減,変体仮名 の統
一,及 びそれ と係 わる教科書の作成 な どの出来事 が,体制舶
語成立の契機 となった。そ う し
6条第 2号蓑もゞ
公布 され,それ まで使用 して きた旧字音
た動 きのなかで,小学校令施行規則第1
仮名達 を,発音主義の字音仮名達 に改定す ることになった。その理 由は,従来 における 「
錯雑
粉乳不規律不統一ナル文字言語文章」が, 日本 の 「
世界 ノ競争場裡 二馳醇 セム トス其 ノ国力 ノ
発達人文 ノ進歩 ヲ阻滞」 し,かつ教授及 び習得 には極 めて困難 だ とす る考 えか ら,仮名 の錯雑
状況 を統一すべ く,文部省 当局が,原案 を帝 国議去'
に提 出 し,採択 されたのである。
い」「ゐ」
字音仮名遣 にか んす る第 2号表の改定 内容 についてかいつ まんでい うと, まず 「
を 「
い」 に,「え」「ゑ」 を 「え」 に変 えるように,旧式の混用 した仮名, または両者 を併用す
るばあいの仮名 を統 一 して使 うこと。次 に,「くわ」- 「
か」,「くゑ」- 「け」 の ように,複
合発音 を単純化す ること。 さらに 「
か う」「かふ」「こう」「こふ」「くわ う」 を 「こ-」 に統一
64
天 理 大 学 学 報
(
5
)
る
するように,多様 な発音表記 を一本化 し,長音の細かな音素 を省略する (
棒引仮名遣) という
三点が特徴 としてあげられ 。 この1
9
0
0年小学校令施行規則第1
6条には,上述 した字音仮名道
の第 2号表のほかに,「
ノ
J
、
学校二於テ教授 二用 フル仮名及其 ノ字体」 にかんする第 1号表 と,
また漠字数の節減にかんする第 3号表があった。
ところで,1
9
0
4(
明治37)年か ら1
9
05
年の 日露戦争後,社会情勢に即応 させるべ く,文部省
は,国語教科書の修正を目指 して,1
9
0
0年の第 2号表 を改め, さらに 「
国語仮名遣改定案」 に
(
6
)
まとめて,それを,国語調査委員会や高等教育会議 に諮問 した。仮名遣諮問案は,本案 と別案
とか らなってお り,長音符号 を用いることや,助詞 「
は」「
へ」 を 「
わ」「
え」 に統一すること
浴
など,再度,漢字の字音及び国語表記を,表音的新仮名達 として位置付けることにして,1
9(
(
明治39)年1
2月の第1
0回高等教育会議において可決 された。
(
7
)
明治40)年 3月,貴族院の本会議でこの案が質疑 され,激 しい批判 を受ける
しか し,1
9
07 (
ことになった。質疑に応 じて,文部大臣の牧野伸顕が答井を行 ったところ,伊沢修二 を含めた
貴族院議貞 7Rも、ら,1
9
0
0年第 2号表並びに高等教育会議の諮問案にたい して,再整理せ よも.
、
唱 出された。それを受けて,1
9
0
8(
明治41
)年 5月文部省に臨時仮名遣調査委員会
の建議業も
が設置 され, 5回あまりの会議 による審議がなされたものの,結局結論が出ず,同年 9月,逮
に諮問案が撤回され,1
9
0 年の 「
小学校令施行規則」第1
6条 とそれに付随する三つの表が削除
されるという事態に発展 した。 これが,第23回帝国議会において,主 として展開された論議の
経緯 とその結果であるが,貴族院において,文部省にたい して強硬 な反対意見 を述べたのが,
(l
2)
じつはほかでもない伊沢修二であった。
それでは,伊沢修二は,貴族院でいったい どのような質問を提出 したのか,その主旨及び根
拠はどのようなものだったのか,まず,伊沢 らによって提出 した 「
国語及字音仮名遣二開スル
質問主意書」の要点を検討 してみよう。
・文部省は,1
9
0
0(
明治3
3)年 8月小学校令施行規則第1
6条第 2号表をもって,棒引仮名道
への新訂,国語字音の改廃 をおこなったが,斯様 な行為は極めて軽率である。
・文部大臣は,1
9
0
6(
明治39)年1
2月第1
0回高等教育会議 に諮問 して,棒引仮名 を再改定 し
たことによって,学校教育 に混乱 を起 こした。 これは国家教育 にとって大 きな損失であ
り,かつ誤 りである。
(
1
3
い。
・上述の高等教育会議の諮問を経たる仮名遠 も,1
9
0
0年新訂 した棒引仮名達 と同様,従来の
)
慣用仮名達 とはかけ離れ,それは決 して許せ な
要旨のみのまとめであるが,何れ も文部省 または文部大臣を相手 に したものである。 ここ
で,伊沢は1
9
06年高等教育会議における諮問案のみならず,1
9
0
0年文部省によって提出 された
小学校令の施行規則にまで批判の矛先 を向けていたことがわかる。「
国語仮名遣改定案」制定
によって,1
9
00年施行規則 に基づいて新訂 された棒引仮名道が再改定 されるといった運命 を繰
り返 し,それが原因で,現場の学校教育 に混乱 を引 き起 こしたことや, また,旧字音仮名達の
改廃は社会の到底容認で きるものではない と,質問書の行間に文部省にたいする感情的な不満
と怒 りを顕わにしている。
さて,旧字音仮名遠の改定にたい して極めて批判的な伊沢であるが,彼の主張はどんなもの
であろうか。
伊沢修二の漢語研究 (
下)
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・教育者はなるべ く国語 をや さしく教 えるのは当然 だが, しか し,国語 は単 なる教育上の問
題だけではな く,そこに含 まれる政治的,社会的,文化的な要素 を無視するわけにはいか
ない。 にもかかわ らず,小学校令規則 は単 に教育者の声 しか取 り入れていない。
・国語の書 き方が難 しい との理由だけで,それを簡単化す るというのが文部省の理屈だが,
他国 と比較 して考 えると,文明の進 んだ国の国語ほど,書 き方 と話 し方 とは当然区別 され
ている。
・一国の文化は深厚で複雑である。 日本のばあい,それは仮名の多様性 によって表現 されて
いる。それを簡易化 してはいけない。
・その意味で古来の字音仮名道 は決 して国学者 と漢学者の物好 きか らのみ出来た ものではな
い。「
種 々の学者が脳梁 を搾 って研 究 を した もの」で,仮 名 ローマ字 になって もい けな
い。
・従来の字音仮名道 は,「
支那語」や 「
朝鮮語」 を学ぶには有効である。
伊沢の発言 は多岐にわたっているが,要するに文部省が明治以降,すべての国民 に初等教育
を受けさせ,教育上の負担 を減 らそ うとして仮名達 の簡易化 をはかったことにたいする彼の異
論である。1
9
0
0
年の施行規則 によって文部省の施策が誕生 し,その結果,従来国学者 によって
まとめ られて きた歴史的字音仮名道が変更 されることになった。そのことは, とくに世界の文
明国を目指そうとす る日本の国際的な地位 にとって も, また,外 国語の勉強 を進めるうえか ら
みて も極めて不利であると,伊沢は指摘する。
そうした伊沢の,国際関係 における言語の政治的,社会的,文化的要素 にかんす る強調 は,
彼の重要な論 旨の一つ として集約することがで きる。
国字国語問題 にかん しては,伊沢 は,単 に仮名連の問題 にだけ限定せず,文部省の書 き言葉
と話 し言葉の統一問題 について も触 れ,それは単 なる教育上如何 に教 えやすいか とい うことの
みな らず,言語の背景 にある諸要素は, 日本の国際的地位 の向上 とも連接 している と主張す
る。 ことに西洋諸国及びその植民地統治 との比較 を視野に入れるばあい,歴史,文学の伝統 を
どの ように位置付 けるかによって, 日本 は 「
文明 国」かはたまた 「
野蛮国」かのいずれかに区
別 される根拠 とさえなって しまう。話 し言葉 をそのまま記録すれば,必ず欧米諸国か ら軽蔑 さ
れ,「
半開化の国」 としか位置付 け られない との危倶 を抱 いている。 もし日本が,歴史ある文
明国を目指そうとするのであれば,当然,書 き言葉 と話 し言葉 を別々に両立 させ なければなら
ない と主張する。伊沢 は論点 を,言文一致の問題 にまで広 げているが,西洋諸国をかな り強 く
意識 していることがわかる。その うえ,言語の政治性,社会性 をとりわけ重視 している点が注
意 される。 日清, 日露戦争以後の 日本は近代国家 として,国際舞台に立 とうとす るばあい,言
語の通俗化は,国際的イメージア ップに相応 しくな く,避 けるべ きだとの認識である。
こうした西洋 を中心 に見 る伊沢の国際政治への視野 と同次元で,彼 には もう一つの国際的視
点があった。つ まり東 アジアにたいする文化的経営 を如何 に進めるか ということである。伊沢
はフランスで,中学校以上の学校 にあっては ドイツ語,同 じく ドイツではフランス語,英語 を
導入 しているのを意識 して, 日本では将来,中学校以上は必ず漢語 を導入すべ きことを予想 し
ている。そ こで彼 は, 日本人の漢語習得 には,旧来 日本語の字音仮名道 が極 めて便利 だ と考
え,次の ような具体例 を述べている。
「
例へバ 『
衰世凱』 ノ 『
衰』 ト云 フ音ハ ソレハ 『
ユヱ ン』デアル。 ソレカラ煙 リノ 『
煙』
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天 理 大 学 学 報
ノ字ハ是ハ 『イエ ン』デアル。斯 ノ如 ク飴 ホ ド支那語 トモ密接 ナル関係 ガ有 ルノデアル。
従来我 キガ今 日マデ用井テ居 ル字音仮名遣 卜云 フモ ノヲ知 ッテ居 ッタナラバ支那語 ヲ撃 ブ
(
1
4
)
上ニ ドレホ ド便利 ガアルカ,斯 り云 フコ トハ私 ガ申スマデモナ イ次第デア リマス」
また,威光 の威 は 「
ヰ」,伊沢 の伊 は 「イ」 とも挙 げた ように,その発音 は表記が別 々であ
ったが,何 れ も 「イ」 に統一すれば,その区別の形跡 も消滅 して しまう。 これ と相似 した例 は
棒 引仮名達 に もみ られ る。「ア ウ
」「ア フ」「オ ウ」「ワウ」 を 「オー」 に,「カ ウ」「カ フ」「コ
衣桁」 (イカフ)「
憩」 (
イ コフ)「
遺稿」 (
ヰ
ウ」「クワウ」 を 「コ-」 に統一 して しまえば,「
コウ)「
威光」 (
ヰ クワウ)「
偉功」 (
ヰ コウ)の本来の区別がで きな く,総 て 「イコウ」 になっ
て しまう。
周 知 の よ うに,本 来 ,「ヰ」 (
wi
) と 「イ」 (
i
), 「
エ」 (
ye) と 「ヱ」 (
we)は発音 上 異 な っ
た ものであった。西暦
1
0
0
0年頃か ら混 同されて きぞ表記 だけが残 っていた と言われている。伊
wi
)と 「
伊」 (
yi
) の発音 に示 した如
沢 は,そ う した本来の違いが,漢語 (
北京官話)「
威」 (
く, じつ に相対応 している もので,いずれ も発音 を 「イ」 に統一 して しまえば,将来 中学校 で
漢語教育 を行 な うばあ いで は,必 ず不都 合 が生 じる。 「
衰」 (
ユヱ ン) と煙 (
イエ ン) を 「
エ
ン」 に統合す る例 も同様 な結果 になる。多様 な発音 を単純化す ることは,漢語教育 に障害 を き
たす との論法であった。
この ように,伊沢修二 は漢字 ,漠字音擁護論の立場 にたちなが らも, しか し従来, 日本 国内
のみ を主要な視点 にす えた仮名国字論, ローマ字 国字論者 らとのあいだの考 え方 に大 きな相違
があった。つ ま り,彼がいわゆる匡l
際関係 , また東 アジア との関係 とい う点 に依拠 しなが ら,
なお漢語 にたいす る文化理解或 いは文化の融合 とい う視座か ら, 日本の国字改革 に立 ち入 った
とい う点であ る。明 らかにこれは,彼が さきに台湾で唱えた混和主義の理念 と関連 した性格 を
もった論調 だ と言 えよう。
2.春東同文局 と漢字統一会 について
台湾総督府民政局初代学務部長 をつ とめて きた伊沢修二 として,文化的施策への熱意 とそれ
を実施 した努力 は,近代 日本の対外拡張路線 において,台湾での植民地統治の基盤確定 に大 き
な業績 をお さめた ことは, ここで これ以上賛言 す る必 要 が なか ろ う。 しか し,上述 した とお
り, もともと言語,儒教 を通 じて 「
混和」 を主張 して きた彼 に とって,台湾 に滞在 した 3年 間
は, 自分 の初志 にたいす る裏切 りで もあった。それは,北京官話の研究 を間南語の方 に方向転
換せ ざるを得ず
,『日清字音鑑』 を もとに した官話音 の研 究 が一時 中断 して しまった とい うこ
とであ る。
ところで,台湾 を離れた後 の彼 は,漢語の研究 を再び北京官話 に戻 し, また視点 を台湾か ら
大 陸 に移 しつつあ ったoそ こに,1
9
02 (
明治3
5)年 頃か ら次 第 に増 えて きた清 国の訪 日官紳
が, 自ず と彼 の標 的 とな り,彼 らとの交流 を きっかけに して,伊沢 は よ り一層漢語研 究 に没頭
3回議会での発言 に も示 されているように,言語研究は彼 の議会 に
しは じめ, また上述 した第2
おける活動 とも密接 な関係 を もつ ようになっていた。 この ような彼 に活動 の場 を提供 したの
は,近衛篤麿が代表 であ った東亜 同文会で,その キ ャ ッチ フ レーズは,「日清韓」三 ヶ国の文
化統合 とい う構想であった。
周知の如 く,明治維新後, 日本 の対 中国政策の策定 は,活動家 ・先駆者 とみ られ る,荒尾精
伊沢修二の漢語研究 (
下)
6
7
っ親 対大陸活動家 を組合 し,一定の方針 と計画の もとに協力せ しめたことにあるが,彼 は,
漠 口楽善堂の堂員 を集めて決定 した活動方針 中に,は じめて東亜経論 の理念 を訴 えたのであ
る。 また他方では,対外硬派の 「
志士活動」集団 として,1
8
8
0(明治1
3
)年 に興亜会が創立 さ
れた。 この会は中国での軍人諜報活動経験者 を含む 「
大陸浪人」「
大陸志士」,外務官僚,ジャ
(
1
7
)
ーナ リス トなどのほか に,アジア諸地域で も広汎 に会員 を集めてお り,「
支那語学校」の経営
が主要な事業の一つ とされた。後 にこの興亜会は亜細亜協会 と改名 し,1
8
9
9(明治3
2
)年東亜
同文会 と合併 している。荒尾精の理念 と,興亜会の語学教育事業 を受け継いだのが この東亜同
支那保全論」
文会であ り, とくに近衛篤麿が会長 に就任 して以降,対 中国教育事業 を唱え,「
を展 開す るようになった。 よ り具体 的 にい うと,東亜 同文書 院,東京 同文書 院,天津 同文書
文化相通 じ風教相 同 軌
院,江漢中学校 などの教育機関の設立 と雑誌,図書の出版があ り,「
とい う立論の もとで,対外硬集団黒龍会が解釈 したように, 日本の国是は,文化 を通 じて 「
支
那長年の迷夢 を破 り,その国家的革新の端緒 を得せ しめ,支那 を して西力東漸の大勢 に抗する
(
柑
)
に足 る力 を養は しめん とす る
」 と, 日本 をリーダー とする 「
支那」保全の論理 を展開 したので
ある。
伊沢修二が台湾か ら帰国 したあ と,語学 を中心 とした対中国文化活動 は,間違いな くこうし
た東亜同文会の行動の範囲内において展 開 した ものであった。
まず指摘すべ き点は,近衛篤麿 との関係である。小股賢明の研究 によれば,国家教育社 を基
盤 に設立 した学制研究会 は,1
8
9
4(明治2
7
)年第一次大会の時,その会長が近衛篤麿 であ っ
た。翌年会長の座 を長岡護美 に譲 ってはいるが,二人は,当時東亜同文会の会長,副会長職 を
も兼ねていた。学制研究会の活動 を主宰 した伊沢修二 は, この時期で既 に近衛 と親密な関係 を
結んだに違いない。時期的に続いているが,伊沢の国家教育社 と辻新次の大 日本教育会が,
1
8
9
6
(
明治2
9
)年合体 して,帝国教育会 に変身 したが,その会長 もまた近衛篤麿 であった。 さら
8
9
7(明治3
0
)年帝国議会勅選議員 になったの も, じつは近衛が,第二次松方内閣外相の
に,1
大隈重信 に斡旋 して実現 したと言われる。伊沢 にとって近衛 は,政治的庇護者 とも言 える存在
であった。そ して,伊沢は同 じ時期 に近衛 ブ レーンを中心 に組織 した 「
条約実施研究会」 に入
会,続いて東亜同文会 にも入会 して評議都 こなっているO
台湾か ら帰国 した伊沢は,積極的に猟官運動 を しているが,前述 した内容 に依拠 して近衛 と
の関係 を考 えるばあい,伊沢は,東亜同文会の事業 と,理念的に共通性 を有 していたことも明
らかである。む しろ,その共通認識があったか らこそ,「
支那保全,朝鮮扶植」 とい うス ロー
ガンの もとで,意欲的に対 「
清韓」の文化事業 を展開することがで きたのである。そ うしたな
か,泰東同文局の創立 と漢字統一会 における活動が, もっとも特徴 的であったO
泰東同文局
9
0
2(
明治3
5
)
泰東同文局にかんする先行研究が少ないなかで,埋橋徳良の記述 によれば,1
年発足 と同時に,中国向け図書出版事業 を行 い,初代代表者が川村理助であった とい 5
2
"
.設立
当初,
『
東文易解』
『
養兵秘訣』
『
支那交際往来公憤』 など 8種類の書物 を刊行 し,1
9
1
1(
明治
4
4
)年閉業 まで, 日本語,倫理,地理,社会軌範及 び陸軍の訓練教本など合計2
0
種3
0
巻以上 に
9
0
5(明治38)年同
わたる教科書 を刊行 しているo そこで出版 した図書は,主 に中国向けで,1
局によって刊行,伊沢修二 『
東亜普通読本』の奥付 によれば,泰東 同文局 は上海 に分局 を設
け,上海 ・北京 ・直隷省保定府 ・天津 ・湖北省武昌府 ・江蘇江寧府金陵 ・蘇州府 ・漸江省杭州
府 ・四川省成都 ・福建省厘 門に11ヶ所ほ どの販売店 を有 した発展ぶ りであった。同 じ頃,泰東
同文局の書物が, 日露戦争軍政時期 における遼東守備軍支配下の中国人教育 に参考書 目として
6
8
天 理 大 学 学 報
(
2
2)
使 われていたとも言われている。
(
2
3)
同文局の設立 と運営 には伊沢が深 くかかわっている。一説によれば,設立は伊沢が提案 した
とされ,伊沢は川村 を代表者 に任 じてもいるとい う。川村は,1
8
9
0(明治2
3
)年に高等師範学
校 を卒業 し,和歌山県立師範学校の校長 を勤めた経歴 を持つが,高等師範学校の前身である東
京師範学校長 (
1
8
7
9
年 3月 -1
8
81
年 6月) と,和歌山 ・高知両県の巡視 (
1
8
8
2
年 8月)を歴任
した伊沢の部下同様の存在であったと考えられ,その関係の緊密 さは明白だと言えよう。
天津図書館蔵 『
厳範孫先生東進 日記』によれば,中国直隷省学務官僚の厳修が,1
9
0
2
年 9月
東亜同文会を訪問 した時,根津-の紹介 を通 して伊沢修二 と面識 をもつ ことになったが,伊沢
の名刺 に書かれた肩書 きは泰東同文局の顧問貞であった。 また,同 日記 に 「
伊沢君来談甚久,
劃
為余書介紹之名刺四紙,又論於吾国設泰東同文分局
(
伊沢が訪ねて きて長時間にわたって
話 し合った。 自分 に紹介状 を四枚書 き,さらに我が国に泰東同文局分局 を設置すると述べた)
と記 している如 く,同文局中国支局の設立 にかん して,中国の地方学務官僚 と接触 しているこ
とは,伊沢が 自ら対 中国交渉を進めたことを物語 っている。また,外務省外交史料館所蔵の外
務史料によれば,伊沢は1
9
0
2
年 3月頃か ら外務大臣小村寿太郎 を通 じて, 日本の在清国駐在領
(
2
S)
事館 に泰東同文会の章程 を送付 し,同会の中国にたいする影響力拡大-の協力 を求めている。
それには,一定の効果が見 られ,同年 6月在福州の領事豊嶋捨松 より,外務総務長官珍田捨巳
宛てに章程の追加送将Xも項 求 されている。同 じように,直隷給督兼北洋通商大臣の任 を終え,
山東巡撫 に就任 した周簸か らも,「
東京小石川区小 日向第六天町五十二番地泰東同文局」 よ
,
,
り 「
書籍数本 ヲ寄七其販売 ヲ依頼--」 という内容の依頼書 を受け取 り 「
同文局ナルモノハ
(
2
T)
何人力主宰 シ其主義及其所弁事項ハ如何ナルモノナルヤ」 と,在清特命全権公使内田康哉への
問い合わせ もなされている。これ らは何れ も,泰東同文局創立初期 における伊沢の活動ぶ りを
記録 したものである。
泰東同文局には,1
9
0
3(明治3
6
)午,実業家藤山雷太 (
1
8
6
3
-1
9
3
8
)が経営 に資本参加 し,
藤 山は1
9
0
7(
明治4
0
)年 3月2
8日,東京市 日本橋 区数寄屋 町城連河岸二十二号地 に総会 を開
き,株式組織に改めている。新会社は松尾寛三,津田興二,久保春海三氏 を調査委貞 とし,金
六万五百九十三円五十五銭で権利義務一切 を譲受け,資本金 を百万円に し,藤山が社長 として
推 された。
同社の営業 目的として以下の二点が記 されている。
「(
第一) 日本の教科書 を支那文 に詳 し,小学校,師範学校,中学校程度の もの迄使用せ し
むる事。 (
第二)教育用機械器具文房具に至 る迄 日本の ものを使用せ しむる薦めの輸 出貿易 を
(
2
8)
行ふ事である」
また,この時会社の重役構成は,
「
顧問伊津修二
取締役 (
社長)藤山雷太
(
専務)川村理助,星野錫,橋本忠次郎,豊島佳作,津田輿二,阿多贋助
(
2
9)
監査役湯本武比古,越智直,松尾寛三」
となっている。
伊沢修二の漢語研究 (
下)
6
9
とくに注 目に値するのは,株主 として近衛篤麿,小村寿太郎,渋沢栄一,岩下清周,飯 田義
一,大林芳五郎,浅田正文,鈴木兵右衛 門,樺 山資英,早川千吾郎,鎌 田栄吉,床次竹二郎,
岩原謙三,池田成彬 ,中井三郎兵衛,福沢桃介,近藤廉平 ,白岩龍平,高橋義雄,武藤山治,
呉錦堂 ら,政界 ・経済界の静々たるメンバーが名前 を列ね,中国か らは衰世凱,趨爾巽,厳修
らの名前 も列記 されていることである。
漢字統一会 と 『
同文新字典 」
】
伊沢が直接関係す る もう一つの組織 に漢字競一会がある。『
教育時論』の記載 によれば,同
会は,1
9
0
7(
明治4
0
)年 4月に創立 され,総裁は伊藤博文,会長は金子堅太郎,張之洞,朴斎
純,副会長 は端方,厳修,楊枢,伊沢修二,村井吉兵衛,幹事 は古城貞吉,木下邦昌,杉 山文
悟等であった。 この会 については不明な点が多いが,創立大会 には金子堅太郎,伊沢修二,井
上頼囲,肝付兼行,物集高見,小牧昌業,市村項次郎,湯本武比古,岡本正文 らと活国公使楊
(
3
0)
枢ほか四,五名が出席 したことが知 られている。
同会設立の主 旨乃至は性格 について,金子堅太郎が 「
敢 て学者の事業 といふに非ず,今 日何
人 にで も賛務 に昔て清韓 に関係 を有する ものは,其仕事の奈何 を間はず,先づ進て之に賛成す
べ く,要す るに統一
一合 なるものは漢字 を活用 して,賓務 に便ぜ ん とするに外 ならざれば,廉 く
一般世人の賛同 を望 親 と述べ ている。韓国 を も含めてい るのだが,文字 どお りに理解すれ
,
-す るために設 けた組織 とみることがで きる。 しか し,金子
ば 「日清韓」三 ヶ国の漢字 を統一
の記述 に明示 されているように, この会は学問的に漢字文化 を考 えるとい うものではな く,対
「
清韓」実務の必要 に応 じて設立 した,い うまで もな く政治的背景のある組織であった。
漢字統一会の業績 について,今 日唯一検討材料 として使 えるのは,1
9
0
8(
明治4
1
)年漢字耗
に漢字 の重要性 を説明 してい
一会刊行 の 『
同文新字 刺 であるO金子 は引 き続 いてその序貰'
る。す なわち,欧米諸国において東洋語学校が設け られ,漢語教育が進め られているが,そ う
した欧米諸国のアジア市場進出戦略 を, 日本 は無視 で きない。 日本が通商 ・産業の発展 を遂げ
るために,東西文化 を共有 した 日本文化 を東亜大陸に伝 えることが大 きな役割 を果すはずであ
る。そ してその際,欧米 に比 して絶対有利 な条件 は,漢学 ・漢字 という経路 を利用することで
,「以筆代 口」 を以 って意 を疎通す ることがで き
あろう。 これまで,三 ヶ国は同 じ漢字 を使い
たが, もし, さらに言語発音 を整理することがで きれば,意思の伝達 に更 なる効果が得 られ
る, とい うのである。
西洋のアジア進出にたい して 日本 は,如何 に東亜 における自国の経済利益 を獲得するか, と
いう外交 ・経済上の切迫 した必要性か ら,当時の 日本の指導者たちが,漢字統一会 を通 じて漢
語研究 に力 を注いだ経緯が,この序文 によって示 されていると言 えよう。
ところで,この会の実際運営者 と 『
同文新字典』の編纂者 は,やは り伊沢修二である。金子
はかつて伊沢 と同 じ学制研究会のメンバーであった。二人 は親 しい間柄 であ ったが,金子 は
1
9
0
7
年 9月, 日露戦争 における広報外交の勲功 により子軌 こ昇進 し,枢密院の長老政治家 とし
(
3
3)
て大 きな影響力 を持つ人物 になった。その後の金子の活動ぶ りについては詳細 を把捉 していな
いが, とくに言語間題 に関心が高 く,伊沢の活動 をバ ックア ップ していたようである。
当該字典の編集凡例 には,その特徴 と編輯基準 について,以下 の ようなことが記 されてい
る。
・ 「日清韓」三 ヶ国に共通 し,かつ実用的な漢字 を6千字選び, さらに三 ヶ国の音韻 とその
70
天 理 大 学 学 報
意味 を付ける。
・漢字は,康興字典に基づ き画数にしたがって並べ,検索のため, さらに部首 を付記する。
・漢字の字体は,普通に使われるものを採 り,各々の国に現存する異体字 を名字の下に注 し
て,将来,それを統一するQ
・漢字官話音の表記 は, 日本漢字のばあい,平仮名で付すQ「
清韓」両国のばあい,新音字
を使 う
。
・伊沢の新音字の下に, さらに韓国の諺文 を付するが, 日本の漠字音が 「
清韓」の発音 と一
致 しないばあい,官話音字 と韓国諺文に正音仮名を付 し,また,ローマ字 を使 って官話音
を記す。
つまり,この 『
同文新字典』は,三 ヶ国共用の実用的な漢字から 6千字 を選び出 して編集 し
たものであるが,その配列は,まず康興字典の部首画数順 に基づいておこない,そ して下図に
示 したように,平仮名 を使って 日本語の音 ・訓読音 を注記する。 さらに漢語官話音 とハ ングル
の発音 を記すため,伊沢の漢語新音字 (
後述 をも参照)
,韓国の表音文字 を記する。それ らの
発音 をよ り理解 させ るために,新音字 とハ ングルに 「
正音仮名」 とい う変則的な振 り仮名
(
『日清字音鑑』の往昔方法) を付 して,その発音 を明記する。最後 に漢語の意味解釈 とロー
マ字を追記 している。なお,各 々に異体字があるばあいには,それらを特別に付記する形 をと
っている。
伊沢修二の漢語研究 を基本 に編韓,漢字統一会によって刊行 されたこの辞典は,漢語の発音
表記の初めに,まず 日本語の仮名 を使用 して綴 っている意味か ら考えれば,三 ヶ国の言語 を同
,『日
じ水準で,相手の言語発音 を識別 させる手引 きとして編纂 したのではな く,依然 として
清字音鑑』の仮名 による漢字往昔 という手法 を元にしていることが明らかである。また凡例 に
「
本邦漠字音ハ,普通ノ記法」 と記 されているように, 日本語の漢字発音を基準に設定 してい
るのは, 日本人を主要な読者 としていたことを意味 しているQつ まり, 日本語の発音 との比較
,
清韓」の漢字発音 を知 るために,この辞書 を編纂 しているとい うことである。
をしなが ら 「
,「従来ノ仮名又ハ羅馬字等 ヲ用
平仮名注記の後ろに,伊沢の漢語新表音字が記 されているが
フルモ,其ノ馨音 ヲ精確二表出スル能ハザルヲ以テ」,新音字 によって 「
清韓南国ノ字音 ヲ最
(
3
4)
モ精確二表記シ得ルヲ以テナ リ」 というように,仮名,ローマ字の限界 を超えて,より精確 に
漢語発音 を示 したいというのがその意図であった。
,
もちろん,同辞典はまった く 「
清韓」両国の学習者 を視野 に入れていない とい うわけでは
ない。「
清帝人ニシテ日本語学及 ビ文筆二志ス者二枚 ク可 ラザルノ指針 タルノ ミナラズ,三園
ノ音韻ノ相互密接ナル関係 ヲ統一的二表記セルヲ以テ,東亜比較音韻畢 ノ資料 卜為ス二足ルベ
キモノナ 7
'
)
5 1 と, 日本語 を学ぼうとする 「
清韓」両国の 日本語学習者に,音韻比較のモデル と
,
して も役 に立てたい と 「
序文」で宣言 したのである。後述する 「
官話韻鏡」 と比較すれば,
『
同文新字典』には,漢語の音韻研究にかん して更なる進歩は見 られない。 しか し中国から莱
,
官話韻鏡」 をみん
日した教育官僚 と会合 したとき,伊沢は漢字統一の理念 を細か く説明 し 「
(
3
6
)
なに配布 して,その宣伝 に努めてお り,それは,漢語の音韻研究 を目指す努力の一端であろ
う。こうした 「
清韓」 を含めた言語字典編纂事業は,何 としても言語 を国際交渉の場にも役立
てようとした伊沢の熱意のあらわれ とみることが出来,それはまた理念のみならず,確実に一
歩 を踏み出 し,実践 していた彼の姿勢 を顕著に示す ものだったとも言えよう。
この時期 と前後 して,伊沢はほかに泰乗数青田を設立 して, 日本の中国渡航者に北京官話 を
授 けなが ら,同時に中国か らの教育官僚 を日本 に招請する事業 をも行 った。団長は伊沢が担
71
伊沢修二の漢語研究 (
下)
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伊 沢修二監修 『
同文新字典』 (
大 日本図雷株 式会社発行 ,1
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い,名誉団員 に楊枢活 国公使 のほか,長 岡護美 ,清国各省 の総督,巡撫,学務所官僚 などが名
青
指列 ねている。
3.「視話官話演義」の誕生 と王照の 「官話合成字母 」
本稿 の冒頭 に述べ た とお り,伊沢修二 には多様 な経歴 を有 しなが ら.生涯 をお えるまで漢語
との関係 を保 ち続 けた。台湾へ の赴任 までは,視話法の理念 に基づ いて,漢語の音韻 を日本人
向けに系統化 し,台湾での漢語研究では,同 じような手法 によ りなが ら, とりわけ,仮名 を通
じて関南語の発音注記 を試み, 日本語教育のための教科書編纂 に務 めた。 しか し,そ こまでの
72
天 理 大 学 学 報
伊 沢の漢語研究 には じつは大 きな欠点があ った。す なわち,漢語 の発音 を記録す る媒体 と し
て,単 に日本語の仮名, またはローマ字 を使用す るだけでは,漢語の発音 を十分 に表記す るこ
とが出来 ないのであ る。 またそ う した欠点が あるこ とのみな らず,「日清韓」 の各 々の発音 を
直読す るばあいに, 日本語の仮 名のみ に依拠 す る方法 をとっていることに大 きな限界があるこ
とも,彼 にはわか っていた。だか らこそ伊沢 は, この問題の解決 を目指 して三 ヶ国共通のため
の音韻記号 を案 出 し,それ を 『
視話応用清国官話韻鏡』 と 『
視話応用清 国官話音字解説書』 に
まとめ,楽石社か ら出版 したのである。
「
視話官話韻鏡」 は,二つの部分 に分 れているが,原物 は,縦4
4糎 ,横 67
糎 ある図表 『
視話
9
0
4年 7月,上伊那郷土
応用清 国官話韻鏡』 (
伊沢修二著,李僑 ・張廷彦 同校 ,楽石社発行 ,1
館蔵)である。『日清字音鑑』 と異 なるの は, まず 「
視話法 ノ原理 ヲ応用」す る趣 旨を明確化
し,直接 に視話文字 を導入 している点であ り,最 も特徴 的なのは,漢語の発音 を表記す るため
の表音文字,いわゆる新音字 を採 り入れたことである。
音 首」 (
5
5
個) と 「
韻尾」
当該 の図表 で,伊 沢 は,視話文字 をなぞ って,漢語 の音 韻 を,「
(
3
0個)の二種類 に分類 してい る。 さらに, こう した 「
昔首 」「
韻尾」 の比較表 を,漢字 と視
話文字 ・新音字 の二段租 で対照 して併記 してい る。新音字 の字形 は視話文字 と異 なって,漢
辛, または 『日清字音鑑』の ように仮名 の ままで記 した もので はない。 「
音首」 は,清未 中国
において表音文字創 出 とい う切音字の主流 をな した,王照 の 「
官話合声字母」 を利用 している
の にたい して,「
韻尾」 は, 日本語片仮名の複合形 または変形 した もの を使 っている。音韻 の
,『日清字音鑑』 と異 なって, 日本語 の漠字音 を手がか りとせず,直接 に北京官話
検索索引は
音 を記 してい る。 さらに,そ れ を音 首 に 「
唇音 」「
舌 頭 音 」「
舌 上音 」「
舌本 音 」「
喉 音 」「
劫
音」 とい う 6ジャンルの1
7
種類 と,韻尾の1
0種類 とに詳 しく類別 している。 これは 『日清字音
乳 】の単 なる 「
音首」「
韻尾」 とい う大 まか な枠組 よ りか な り詳細 で,その昔首 と韻尾の合成
(
3
a
)
0
0ほ ど得 られ ることとなった。い うまで もな
によって,今 日の漢語音節表 と相似 した音節が4
,『日清字音鑑』の ように 日本語 の漠字音 を通 じて調べ る とい う,漢語発音 の便
く 『
韻鏡』 は
利帳 とい う性格 ではな く,伊沢の本格的な音韻分析 に近づ いた研究業績 である と言 える。
視話応用清 国官
この図表が上梓 されて 5ケ月後 ,伊沢 は,引 き続 いて説明書 として別冊の 『
9
0
4年1
2月) を刊行 した。『韻鏡』の使用方法 な どにつ
話韻鏡音字解説書』 (
東京楽石社蔵版 ,1
いて,詳細 な解説 を加 えた書物 であるが, 自序 5頁,本文2
6頁か ら成 り,音韻の種別 に合 わせ
て,新字の字形,並 びに発音 について細 か く説明 している。そのなかで も, とくに音韻 を識別
し, また参考 に供す るために,文 中で発音の特徴 を詳記 しなが ら,視話文字 を付 けて,英語 な
ど諸言語 との区別説明 をもお こなっている。
当該の図表及 び解説書の出版 と関連 して,伊沢 はその後引 き続 き幾種類かの重要 な著書 を上
梓 したが,いずれ も 『
韻鏡』 に基づいて編成 した教科書 的な ものである。
以下 にそれ らもあげる。
・『同文新字典 』,漢字統一会編 ,1909年 1月に出版 され,題字 は伊藤博 文,監修 は伊沢修
二であ った。 また序 には金子 堅太郎,伊 沢修 二の文 が添 え られ,校 定 は重野安樺,星野
恒 ,井上頼 囲,高 田忠J
乱 張廷彦 ,愈書清であるO繕写校正 は杉 山文悟 ,伊笠碩哉,堅田
0頁,本文3
02頁,索 引1
0
6頁 とい う給
長江,何秋潔があたっている。活字版 で,序 ・凡例4
数3
5
0頁 ほ どの大著 であ る。内容 につ いてす で に前節 で触 れたので ここで は省 く。漢字統
一会の趣 旨に基づ いた新音字 を導入 した点 において,同字 の実用 に踏み切 った最初の普及
版 として,価値ある書である。
伊沢修二の漢語研究 (
下)
73
I『支那語正音 聾微』,1915 (大正 4)年10月刊 行。題 字 は衰 世凱,そ して大隈重信,厳
頁,本文47
3頁
修,下田歌子,伊沢修二の序がある。同 じく活字版 で,題字 ・序 ・凡例21
とい う構成で,伊沢修二作視話新字 を普及するための,最 も集大成 した辞書兼教科書であ
る。著作意図,凡例 な どについては,ほほ 『
視話鷹用清国官話韻鏡及同意字解説書』 をな
ぞるものであるが,第一編 「
母音及韻尾」 (
音尾)1
0
種類,第二編 「
子音」 (
首音)に 「
唇
音
」「舌頭音」「舌上音」「舌本音」「喉音」,第三編 「物音」 に 4種類 とい うように,更 な
る詳細 な区分 を行 なっている。検索 はアイウエオ順で,一個の漢字 にたい して,幾つかの
常用語嚢 を付 し, さらに用例 と日本語訳 も付 されている。単漢字及び語桑 には何 れ も視請
視話鷹用支那語正音韻鏡』 と同
新音字が綴 られ,視話文字 も注記 されている。ただ し,『
じく, 日本語仮名の往昔は一切付 されていない。なお,各音部に練習問題が付記 され,教
科書の役割をも果た している。当該書は吃音矯正 にも対応すると記 されている。
・『
支那語正音練 習書』,楽石社蔵版 ,1
91
5(
大正 4)年 8月。活字版 で総数 1
1
0頁あ る。
,「支那語正音発微 ノ要領 ヲ授 クル ヲ
『
支那語正音費微』の刊行 時期 と前後 しているが
旨」 と記 されているように,あ くまで も 『
費微』 を習得するための,携帯用の索引兼練習
帳である。
,
』『視話続法』 (1909年 8月)があるが,現時点で,筆者 は確認
,
ほかに 『
視話療用音韻新論
していないDなお,視話新字図の 『
視話療用支那語正音韻鏡』 (
1
91
6年 3月)は 『
視話鷹用清
1
91
7
年)は入手 し
国官話韻鏡』の再版であ り,内容 は同一である。『
視話磨用支那語正音法』 (
ていないが,恐 らく内容 もまた同 じものではないか と推測 している。
『日清字音鑑』 を漢語研究の皮切 りと考 えれば,漢語表音記号 をまとめた 「
視話官話韻鏡」
は,伊沢 にとって,その研究 をひとまず完結 させ た もの とい うことが出来るだろうo漢字競一
会 によって編纂 ・出版 された 『
同文新字典』 は,この音字研究 に よる一つの大 きな収穫 であ
る。 ことに韓国を含めて音韻の共通記号 まで大成 したことは,伊沢が東亜への 日本の拡張 に大
きな野望 を持 ったことを物語っている。そのため,中国にあっては,衷世凱
厳修 との接近 を
(
3
9
)
はか り,強力 に中国の教育官僚 にそれを勧め,普及に努めた。 しか し,指摘 してお く必要があ
るのは,その効果が必 ず しも伊沢の期待 どお りにな らなか ったこ とであ る。中国国内におい
て,伊沢 とかかわる表音記号の発明をめ ぐって,王照か らの非掛 あったほかには,それ以上
の記述は見当 らない。一方, 日本国内で も,漢語研究 を通 して漢語教育 に貢献 しようとしたの
は,伊沢の初志であった。 しか し,それ も例 えば当時関西で広範囲に漢語教育 を行 った西島良
蘭の教科卦 こも, まった く反映 されていないなどの点か ら見れば, とくに大 きく注 目された と
91
6年伊沢が大陸行の際,南満教育会で 『
支那語正昔馨徴』の試験講義 を行 い,
は言えない。1
効果があったと指摘 されているが,詳 しい内凱
,
明 らかにされていない。
韻鏡』 よりやや早い1
9
01
年 に,この新音字形の一部分 とほほ同様
さて,前述 した ように 『
な表音文字が誕生 している。いわゆる清末 中国において,切音字運動 の主流 をな した王照の
「
官話合成字母」がそれである。合成字母は,中国の伝統 的 な反切法 を参照 した ものである
が,発音 を 「
喉音」 (
1
2
)
,唇舌歯顎音 (
5
0)の二種類 に大別 して,四つの声調 に固めているo
最 も特徴的なのは一般民衆 を対象 に,繁雑 な漢字の代替物 として表音文字 を案出 したことであ
る。 この字母は, 日本語の仮名文字 を参考 に して漢字の偏妻 を利用 して文字 に仕立てたのであ
るが,表音文字だけで文 を綴 るということは,漢字存在の意義にかかわるので,清未の中国に
おいては,言語改革にかんする議論の一大問題であった。中国の近代学制 「
奏定学堂章程」が
頒布 された時期 に,当該字母は直隷省 をは じめ,かな り広 い範囲に広げて教育の現場 にも導入
7
4
天 理 大 学 学 報
されたが, しか し,民 国以後,結局 は往昔字母の誕生 によって収束 された。
伊沢の新音字 と王照の官話合成字母 は,字形か ら見れば極 めて相似 している。伊沢本人 も述
,「視話官話韻鏡」 の音字 は,相 当部分王照の合成字母 を活用 してい る。以下
べ ているように
に,伊沢の新音字 と王照の官話合成字母 との比較一覧 を作成 して,その異 同を示 してみ る。
王照、伊沢修二官話字音-葺
く
青 首)
王 照 式
1
才
3
2
十
手
1
.
口
(
漢) (ト) (
目)
伊沢注視話
P
5
オ チ ム
(
撲) (ト) (
木)
伊 沢 式
4
D
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3
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夫) (
五)
車
血
(
夫) (
五)
3
6
7
8
女
* 十
(
皮) (
必) (
栄)
土
塊
苧
(
皮) (
必) (
栄)
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′
(
粗)
皿
(
粗)
D【
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上 朗
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5
1
伊沢注英語
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p
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漢字 ピン音
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bu
mu
fu
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pi
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11
12
13
1
4
15
16
17
18
タ
ブ
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† ヤ
入
ス
10
王 照 式
ニ
(
租)
伊 沢 式
†
(
足)
伊沢注視話
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8
1
伊沢注英語
tz
u
王 照 式
伊 沢 式
(
蘇) (
都)
王
者
(
秦) (
環)
こ
5
1 ロロ1
s
u
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(
土) (
初) (
朱) (
車)
土
中
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(
土) (
也) (
竹) (
辛)
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奴)
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入) (
奴)
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伊沢注視話
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得) (
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題) (
池)
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(
題) (
尺)
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75
伊沢修二の漢語研究 (
下)
王 照 式
伊 沢 式
伊沢注視話
28
29
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31
32
33
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36
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寸
句
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之)
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持) (日)
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日) (
那)
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伊沢注英語
王 照 式
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76
天 理 大 学 学 報
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77
伊沢修二の漢語研究 (
下)
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伊沢注英語
漢 字 ピ ン音
参照文献 :
」『小航文存』 (近代中国史料叢刊265)
王照 「
摘録官話字母発卯再版凡例十一一
棟附各囲表
」
同 「
重刊官話合馨字母序列及関係論説 F
官話合成字母』(
文字改革出版社出版 ,1
9
5
7
年 1月)
伊沢修二 r
視話鹿用清国官話韻鏡』 (
1
9
04年 7月)
同 『
視話応用清国官話韻鏡音字解説書』 (
楽石社蔵版 ,1
9
04年 1
2月)
説
明:
① この表は,基本的には王照の 「
摘録官話字母菜卯再版凡例十一棟附各国表」に示 された字母順 に
基づいて作成 した ものであるoただ し,王照の 「
唇音」「
喉音」 とい う分類法ではな く,伊沢の 「
音
首 」「
韻尾」の方法 を採 った。番号は筆者が便宜的に記 したもので,伊沢の 『
視話麿用清国官話韻鏡』
中の もの とは無関係である。
② 「
王照式」,「
伊沢式」音字及び括弧の中の表音漢字 は,原本の表記 をその ままに写 した ものであ
る。
③ 「
伊沢式注視話」は,伊沢修二が注記 した視話文字である。
(
む「
伊沢注英語」は,伊沢修二が注記 した英語発音である。
⑤ 「
漢字 ピン音」には,今 日の 「
漢語排音字母」 を,筆者が注記 したものである。
7
8
天 理 大 学 学 報
本表 は,王照の字母図 をもとに作成 したのであ る。伊沢の 『
韻毒
別 図 を概観 で きないが,
「
音首」の部分が,ほぼ王照式の字母 を使用 し, または王照の思考様式で音字 を作成 している
ことは明 らかである。ただ,若干の部分 に加減が行 われたことも上図に示 したとお りである。
「
韻尾」(
「
喉音」
)のばあい,王照式の1
2
個 にたい して,伊沢式 は3
0
個 に増や していて,今 日
でい う 「
韻母」の部分 をかな り充実 させている。勿論,これは,音字つ ま り表音字母 に限って
示 されたことを述べ ただけであるが,前述 したように,このばあい伊沢の大 きな功績 は,何 と
言 って も視話法 とい う方法で,人体発音の特徴 にあわせて音節 を細分化 させ,その 「
音首」 と
「
韻尾」の合成 によって,4
0
0
余 の音節図 を得 ることに成功 したことである。 これは,漢語の
官話発音 を図式化 させ,王照の もの よりもさらに一歩進めて明確化
系統化 を実現 したことで
ある。竹内好 らによって指摘 されたいわゆる伊沢の科学性 とはこうした点 を指 してい うのであ
ろう。
このように,伊沢の新音字 と王照の官話合成字母 とは,漢字発音表記の通俗化 という点で接
触 していることは上述の とお りである。伊沢の漢語研究 と明治 日本 との関係 を考察すれば,伊
沢の漢語研究は明治 日本 とい う近代 国家の枠組のなかで,国語改革,台湾統治,大陸への利権
拡大過程 にその意味が付与 され,彼の国内,国際-の政治参加過程 に,一つの武器 として位置
付 けられる。 これにたい して,列強 による国土分割 とい う亡国の危機に瀕 していた,1
9
世紀末
期の中国では,国を救い,国を強 くするため に,啓蒙活動のみにとどまらず,何 よ りも伝統文
化 にメスを入れて,新 しい社会を模索 しようとする動 きが,康有為,梁啓超の ような在野の革
新派 だけでな く,清末朝廷 における一部の官僚の行動 に も表 れていた。王照 の官話合成字母
は,その ような背景の もとで産出 されたのである。
4.巌修 との交友関係及び 『東亜普通読本』の特徴
1
8
9
8
年台湾か ら戻 った伊沢は, 折 よく興亜会 ・同文会の合併 に出会い, さっそ く東亜同文会
(
4
3)
発会時 に近衛 グループの メンバー として加わ り,その後は対 中国大陸 との交渉 も東亜同文会 を
主軸 としておこなった。
ことに,1
9
0
2
年以降になると,中国か らの官紳の訪 E
]者数が急増 し,それが一層彼の大陸の接触意欲 をか きたてた。そのなかで,1
9
0
2年 2月訪 日の羅振玉 との交淀を は じめ,7月,9
月に京師大学堂の総教習呉汝論 との二回に渡 る面茸 が彼の中国 との交流 にとっての重要な きっ
(
4
6
)
かけ となったO また,同 じ時期 に直隷省学校司督雛 の厳修 とも密接 な関係 を結ぶこ とがで き
た。伊沢 と厳修 との交際は,1
9
0
2年 9月1
0日東京東亜 同文会 において始 まった。その後伊沢
は,厳修の 日本滞在期間に交流 を重ね,教育行政,泰東同文局の中国における事業の発展,教
科書編纂,音楽教育 など,諸 々の課題 をめ ぐって論 じ合い,厳修の 日本 における学校視察 など
をも案内 した。個人的 には,厳修の子の師範学校-の入学 は伊沢の斡旋 によって実現 し,それ
に代 わって厳修 は,官話合声字母の創出者王照 とのパ イプ役 を果た し,また伊沢の 『
支那語正
音費微』の序 に示 された如 く,伊沢の漢語研究 にも一定の程度手助 けを したのであった。
とくに注 目に値す るのは,伊沢が企画 した道徳教科書 『
東亜普通諸本』 (
上伊那郷土館蔵)
5
糎,縦2
2
糎 の全 6巻,計約4
0
0
頁,袋綴 じ活字線装本 で,1
9
0
5
年
の作成 である。同書 は,横 1
5月泰東同文局 によって刊行 された.表紙 には 「
大浦国直隷学務庭督癖 ・五品卿衝翰林院編修
厳修 閲」「
大 日本 国勅任貴族院議員 ・大清 国欽賜 二等隻 龍宮星伊沢修 二監修」「
泰東 同文局
撰」,裏表紙 には 「
大清 国皇太后皇帝御覧」 と物 々 しく記 されている。巻 によって 「
大 日本泰
東同文局前協修大清国京師大学堂教官江紹鎗校補」 と付記す る もの もある。内容 は,巻-孝
79
伊沢修二の漢語研究 (
下)
行,巻二友愛 ・婦道,巻三勤学 ・立志 ・交道,巻四勤勉 ・節倹 ・廉潔,巻五誠実 ・仁慈 ・忍耐
・謙譲,巻六忠節 ・知識 ・剛勇 に分冊 され,中臥
日本,西洋の人物 を,287人ほど選んで編
輯 している。人物の時代区分 を表 にまとめると,下記のようになる。
『
東亜普通東本』登場人物類別一覧
周
魂晋
漢
帽唐
元明
莱
合計
清
日
英
孝行
2
7
7
1
1
3
友愛
2
2
6
5
8
婦道
1
4
2
1
5
2
4
5
2
2
4
1
1
1
1
1
1
6
4
4
4
4
4
5
1
30
2
1
動学
立志
1
交通
1
勤勉
2
4
9
1
4
0
1
2
4
3
l
l
3
3
1
9
4
2
1
2
1
4
5
1
5
2
6
節倹
1
2
廉潔
4
8
1
2
1
7
1
1
2
4
1
3
2
1
3
3
1
1
4
2
5
2
1
3
1
1
1
3
5
4
5
3
3
1
2
1
4
誠実
仁慈
忍耐
謙譲
1
忠節
2
1
知識
剛勇
4
1
米
仏
1
2
1
2
1
1
1
21
1
6
4
3
1
1
0
2
1
1
7
3
註 :同書の記述によって筆者が作成 した
同書 は,主 に中国の生徒 を対象 に, とくに庶民の子弟 を対象 に編纂 した ものだ としている
が,東亜の道徳模範 として様々な人物が記 され,それを教科書 として広げたいとの思惑があっ
たようである。内訳 を見 ると, 日本関係人物が35名,イギ リス 8名,フランス 5名,米国 1名
のほか,あ とは全部中国関係の歴史上の人物で占めている。更に具体的に分ければ,伝説の舜
か ら始めて,秦
・漠 ・唐 ・末,清の国朝 まで238人ほどが取 り上げ られている。最 も多い時代
は末,漢,貌晋南北朝以下の順である。内容的に興味深いのは,中国のばあい,孝行 という項
目で取 り上げられた人物が最 も多 く,その次は廉潔,友愛,謙譲,動学の順である。だが,皮
肉にも日 ・英 ・仏 ・米のばあい,孝行,友愛,忍耐,謙譲の項 目は何れ も空欄 になっている。
厳修 自身,この教科書の編集にどれほど参与 したかは,明 らかではない。伊沢が,これを混
和主義 による対中国文化交渉の-材料 とした意図は,これまで述べてきた内容 を参照すれば,
おのずか ら明 らかだろう。その後伊沢は,1
907年 に始めて中国大陸を訪問 し, とくに天津 にあ
る厳修の中学堂を訪れた。帰国後東亜同文会の例会で,厳修の学校 を紹介 し, 日本 より以上に
整備 されていることなど,
'
を述べている。その後 も厳修 との交流は続いていたもの と思われる。
ただ し,厳修 自身の書札, 日記などには,伊沢にかんする記述が さほど多い とは言えない。 ま
た,辛亥革命以後,ことに21ヵ条要求 を境 に,厳修 はむ しろ日本 との交際を絶ち,彼が創立 し
た 「
南開学校 も日本色 を払拭 して米国色 にぬ りかえて しまい,この学校は排 日の急先鋒 となっ
80
天 理 大 学 学 報
(
4
8
)
た」 ことに も示 されているように, 日本 と一線 を画 していった ようである。
四.む
す び
に
伊沢の漢語研究 をテーマ に,彼の背負 う漢語 ・漢学の文化背景か ら, 日清戦争 にともなって
『日清字音鑑』が世 に出 されるまでの経緯,台湾 における混和主義理念 の形成, さらには東 亜
同文会の周辺 における活躍のあ とをながめる と,彼の活動 は,おおむね上記三つの章の ように
まとめることがで きるだろ う。伊沢の生涯 を通観す る と,進徳館 の
「
一読直解」式の教育が間
接的 に伊沢の音韻 にたいす る興味 を生み出 し,明治期 の国際,国内政治情勢か ら,伊沢 は 「こ
とば」の果 たす重要性 をよみ とる とともに, アメ リカで視話法 とい う音声 識別方法 を身 につ
け,それ に基づいて仮名で漢語の発音 を記 した 『日清字音鑑』 を誕生 させ た と言 えよう。 この
仮名 による音韻識別標示方法 は,台湾 において,辞書 ・教科書 の編纂, 日本人の間南語習得 に
役立 ち,台湾での任期 中 「
混合主義」 とい う対 中国乃至東亜文化交渉理念 をまとめた。それは
具体 的 に言 えば言語 ・儒教 による統合策略である。 この理念 は,その後 ,彼 の対 中教育交渉の
過程 に集大成 されるが
,『同文新字典』 に示 された ように,対 中国お よび対朝鮮半 島 にお ける
文化統合の手段 ともなったのである。
また,出身地信濃の藩校での教育 を通 じて,漢学 的文化背景 を背負 っていた伊沢 は,明治の
近代 国家 とい うフィルターで渡過 した競争化社会-の参入過程 において, 自分の不正確 な英語
発音 に悩 みなが ら,その悩み を出発点 と して視話法 を学 んだ。明治 日本の英語教育か ら来 る言
語的 コンプレックスによって生 まれた発音習得 にたいす る彼 の執念が, 日清戦争後 における 日
本 の対 中国勢力拡張 に ともない,視話法⇒仮名往昔⇒新音字 とい う過程 を辿 って,漢語発音 の
細分 ・類型化,表記の簡易化 をもた らした と言 え ようO漢語の音韻標示 を主 とした,彼 の対 中
国文化交渉手法の形成 は,明治及 びそれ以降 にお ける 日中関係 を考察す るばあい,無視 で きな
い課題 として認識 されるべ きだろう。他方,それは 日本 国内における国語形成の動 向 とも連動
してお り,伊沢の外 にたいす る植民地支配及 び野心 的膨張志向は,結局,国内にたいす る国民
統合の方法の確立作業 とも相補完 している首 も見逃せ ないO
日清戦争後 ,中国の知識 人 たちは,国土分割 ・亡 国の危機 に瀕 していた実状 の刺 激 を受 け
て,文化的な面で敗北 を招 いたのは, じつは漢字の表音,表記 による士大夫 と民衆 間に横 たわ
っている文化的乗離, とりわけ文字 を知 らない一般民衆が多数いたことが,最大の要 因であっ
た と認め ざるを得 なかった。そ こか ら,そ う した状況 を根本 的 に変革す るには,民衆 の識字水
準 を高めること以外 に救国の良策 はない とす る考 え方が生み出 されたのである。 日本語の仮名
文字 にヒン トを受 け,「
官話 合声字母」 とい うような表音文字 を作成 して,漢語音韻表記 の通
俗 化 に努 め た王照 の例 は, まさにその代 表 である。 こう した伝 統文化 の近代化へ の脱皮過程
で,清末の知識人 は, まさ しく漢語表音,表記の省略 ・簡易化 を通 じて 日本 の東亜- の膨張 を
指向す る伊沢 と出会い,互い に密接 な関係 をもつ に至 ったのであるO勿論両者の 目的はそれぞ
れ異 なっていた とは言 え,方法 としては何 れ も漢語及 び教育の改革の重要性 に着 目 していたの
である。伊沢修二 と厳修及 び王照 らとの交誼 と交渉 は,その関係 を端的 に示 してお り,それが
明治期の 日中交流 における性格の-方面 を顕著 に表出 しているのではないか と筆者 は考 えてい
る。
註
(1) 平井昌夫 r
国語国字問題の歴史』(
復刻版)第四章,第五章 (
安田敏朗解説,三元社,1
99
8年
81
伊 沢修二 の漢語研 究 (
下)
2月)が詳 しい。
(
2) 長志珠絵 『近代 日本 と国語ナシ ョナ リズムJ(
吉川弘文館 ,1
9
9
8
年1
1月)6
3
頁。
(
3) 『明治以降教育制度発達史』第四巻 (
教育史編纂会,1
9
3
8
年1
1月)1
0
1
頁 -1
0
4頁 を参照。
(
4) 1
9
00年 2月1
6日第1
4回貴族院議会 において,辻新次外二名 によって提 出 した 「国字国語囲文
ノ改良二開スル建議」案が審議 された。そこに,国字改良の理 由を 「
我 力教育二従事 スル人々
ハ皆賛際二其 ノ撃習 ノ困難 ヲ経験 シテ常二其 ノ教授 ノ方法二苦心セ リ我 力学生姓鬼童ハ此 ノ言
語文字 ノ学習 ノ馬二其ノ学校生涯 ノ大半 ヲ徒費 シテ他 ノ有要ナル智識 ヲ得 ルニ暇 アラザルノ ミ
帝国議会貴族 院
ナラス更二此 ノ無用 ノ日課 ノ為二其 ノ鋭気 ヲ消耗 シ---」 と指摘 している (『
議事速記録 1
7
』第1
4回議会下,明治3
3
年,財団法人東京大学出版会,1
9
8
0
年 6月)5
5
3
頁。
(5) 詳 しいことは大野晋 「国語改革の歴史 (
戦前)
」(
丸谷才 一 『
国語改革 を批判す る』 日本語の
6,中央公論社 ,1
9
5
3年 5月) を参照 されたい。
世界1
(
6) 「明治三十八年二月文部省 国語調査委月会な らびに高等教育会議へ諮 問の仮名遣改定案」
(
吉田澄夫他編 『
明治以後国字問題諸案集成J風間書房刊 ,1
9
6
2
年 7月) を参照。
(7) 「国語及字音仮名遣 二開スル質問主意書 (
1
9
0
7
年 3月1
1日)
」『帝 国議 会貴族 院議事速記録
2
3
』(
財団法人東京大学出版会,1
9
8
0
年1
2月)1
5
2
頁 -1
6
1
頁 を参照。
(
8) 「貴族院議員伊揮修二君提出囲語及字音仮名遣 二開スル質問主意書 二封 スル答辞書 (
1
9
0
7
年
3月2
3日)
」 同上掲書 F
帝国議会貴族院議事速記録2
3
』3
4
6
頁 -3
4
7
頁 を参照。
(9) 発議者は徳川達孝,金子有卿,岡田良平, 日高栄三郎,松平正直,中島永元,伊沢修二であ
るD同上掲書 r
帝国議会貴族院議事速記録2
3
』3
7
7
頁。
(
1
0
) 「匪ほ吾及字音仮名遣二開スル建議案 (
1
9
0
7
年 3月2
4日,2
7日)
」同上掲書 F
帝国議会貴族院議
3
』3
7
7
頁 -3
8
1
頁及び3
8
5
頁,4
2
0
頁 -4
2
5
頁 を参照。
事速記録2
(
l
l
) 臨時仮名遣調査委員会の構成 メンバーは,委員長菊池大黄,委員曽我祐準,松平正直,浅E
E
l
徳則,小牧昌業,山川健次郎,岡部長職,矢野文雄,森林太郎,岡野敬次郎,小松健次郎,井
上哲次郎,上 田万年,伊 知地彦太郎,伊沢修二,徳富猪 一郎,横 井時雄,芳賀矢一,松 村茂
助,島田三郎,藤岡好古,大槻文彦,江原素六,鎌 田栄吉,三宅雄次郎,肥塚龍,主事渡辺董
之介,書記坂根友敬,土館長言である (
文部省 F
臨時仮名遣調査委員会議事速記録』文部大 臣
官房図書課,1
9
0
9
年 1月)0
(
1
2) 大野晋 「
国語改革の歴史 (
戦前 )
」 に,臨時仮名遣調査委員会 を中心 に,保守的傾 向の人々
として森林太郎 (
鴎外),伊沢修二 を取 り上げている (
丸谷才
一r
国語改革 を批判す る』 日本
6
,中央公論社 ,1
9
5
3年 5月)8
2
頁 -8
6
頁。ほかに,かつて平井昌夫 『
国語国字問題
語の世界 1
の歴史』では,鴎外 を主要な反対論者 として取 り上げているが,伊沢の名前があげ られていな
い (
同書2
2
5
頁)
。森鴎外 は反対論者 として,1
9
0
8
年貴族院によって招集 された臨時仮名遣委員
会のメンバー として加わっている (
保科孝一著 r
ある国語学者の回想 一括話 に浮んだ名士の面
影J朝 日新 聞社刊 ,1
9
5
2
年1
0月,7
2頁)
。ただ し,貴族院議論 当時の提案者 はあ くまで伊沢修
二であることを指摘 してお きたい。
(
1
3
) 「国語及字音仮名遣こ開スル質問主意書」F帝国議会貴族院議事速記録2
3
』(
財 団法人東京大
9
8
0
年1
2
月)1
5
2
頁 -1
6
1
頁 を参照。
学出版会,1
(
1
4
) 同上掲書 ,1
5
4頁。
(
1
5
) 大野晋 「国語改革の歴史 (
戦前)
」(
丸谷才一 『
国語改革 を批判す る』 日本語の世界 1
6,中央
9
5
3年 5月)7
0
頁 -7
5
頁。
公論社 ,1
(
1
6
) 大学史編纂委員会 『
東亜同文書院大学史-創立八十周年記念誌 IJ(
社団法人潅友会 ,1
9
8
2
年
5月)1
6
頁。
(
1
7) 酒田正敏 r
近代 日本 における対外硬運動の研究J(
東京大学出版会,1
9
7
8
年 3月)6
1
頁 16
5
頁
82
天 理 大 学 学 報
を参 照。
(
1
8) 「東亜 同文会創 立主意 書 」 『
東亜 同文 書 院大学 史 一創 立八 十周 年記念誌 -』4
8頁。
(
1
9) 黒龍会 F東亜 先 覚志 士記 俸』 (
原書房 ,1
9
6
6年 1月)6
06頁 。
(
2
0) 小 股憲 明 「
教 育 関係 議 員 の背景 -学 制研 究 会 を中心 と して」 (
本 山幸 彦 編 著 『
帝 国議 会 と教
9
81
年 6月) を参照 。
育政 策』思 文 閣出版 ,1
(
21
) 埋 橋 徳 良 F日中言 語 文 化 交 流 の先 駆 者-
太 宰 春 台 ・坂 本 天 山 ・伊 沢 修 二 の華 昔研 究 』 (
白
帯社 ,1
9
9
9年 11月) 1
1
9頁 -1
2
4頁 を参照 。
(
2
2) 竹 中憲 一 「日露戦争 軍政 下 の対 中国人教 育 方針 をめ ぐって 一嶋 田道禰 著 『満 州教 育 史』 の誤
」 ア ジア教 育 史学会 Fア ジア教 育 史研 究』 第 9号 ,2
0
0
0年 3月。
解-
(
2
3) 藤 山愛 一郎 『藤 山雷 太 俸」 (
千倉 書房 ,1
9
39
年 )2
6
3頁 を参 照 。
(
2
4) 天津 図書館 蔵 『
厳 範孫 先生東 遊 日記不 分 巻』 光 祐2
8年 8月 1
3日の 日記 を参照 。
(
25) 外 務省外 交 史料館 蔵外務 省記 録 「泰 東 同文 局 ノ事 業 二 関 シ在 清 国帝 国公 使 及領 事 ヨ リ便 宜 ヲ
1
9
0
2年 3月 1
3日)及 び外務 総務 長 官 珍 田捨 巳 が 内 田康
得 旨全 局顧 問伊 津修 二 ヨ リ願 出一件 」 (
哉公使 宛 ての 「
泰東 同文局 ノ件」 (
同 3月2
4日) を参照 (『東 亜 同文 会 関係 雑 纂 第 - 巻 』1
8
9
9年
4月 -1
910年 )。
(
2
6) 同上 ,1
f
X
)
2年 6月 9日在福 州領事豊 嶋捨 松 よ り外 務 総 務 長 官 珍 田捨 巳 宛 て の手 紙 及 び返 信 の
草稿 を参照 。
(
27) 同上 ,内 田康 哉 よ り小 村寿太郎 宛 「泰東 同文局 二関 ス ル件 」 (
1
9
0
2年 9月 1
5日)及 び,小 村外
務 大 臣 よ りの返信 「
泰東 同文 局 二関 ス ル件 回答 」 (
1
9
0
2年 10月 2日) を参照 。
(
2
8) 藤 山愛 一郎 F
藤 山音大 倖』2
6
0頁 -2
61
頁 を参 照。
(
2
9) 同上掲 書。
(
3
0) 「漢字統 一会絵 会
」F教 育 時論 」 (第793号 ,1907年 4月)30頁 。
(
31
) 同上掲 書。
(
3
2) 伊 沢修 二監修 漢字統 一会撰 F同文新 字典 』 (
大 日本 図書株 式 会社 ,1
9
0
9年 1月)。
(
3
3) 金子 堅太郎 につ い て,松村 正義 著 r日露戦争 と金子 堅太郎 一広 報外 交 の研 究 -』 (
新有堂,
1
9
87
年1
0月増補 改 訂版 )が あ る。
(
3
4) 伊 沢修 二 監修 F同文新 字典 』凡例 を参照 。
(
35) 同上掲 書 。
(
3
6)
「
大清 出洋提 学使諸公 前 之意見 」 『
伊 沢修 二選集 』7
1
2頁 -71
4頁 。 ただ し, この講演 の期 日に
ついて 『
伊 津修 二選集』 の編集者 は明治3
5
年 ?と疑 問符 を付 して い る。漢 字 統 一会 は明治4
0年
に創 立 とい うこ とに鑑 み て, その前後 に行 われ た ものであ る と考 えた方 が適 当か も しれ ない。
」F教 育 時論 』 (第736号 ,1905年 9月)33頁 -34頁。
(
37) 「泰東教 育 団
(
3
8) 伊 沢修 二 『
視 話応 用清 国官 話韻鏡 一同字音解 説書」 楽石社 ,1
銚池年 7月。
(
3
9) 上伊那郷 土館 の所 蔵伊 沢修 二 史料 に,伊 沢 よ り学 部 尚書 栄慶 宛 と思 わ れ る書 簡原稿 が保 存 さ
れ てい る。
「
学部大 臣李 大 人 閣下
敬 啓者 久欽碩 望 時切 塘依 前 夕忽侍 緯維得玲
大数 渇飢 頓慰 姦有懇者 請依 本曾 規則 第五保 及 第八保 列
大名於本合名 其曾 長是 職 由千本骨 組裁伊 藤公 爵所 推薦 而本曾 員等誠心 誠 意仰 望
蔦請
閣下憐 察微 衷 容納都個 若 豪允 口感 激 口壁
此速 度 請
勲安伏 希
明治 四十 一年 四月三 日
漢字統 一曾 副会 長伊 滞修 二頓首拝
8
3
伊 沢修 二の漢語研 究 (
下)
又男具活国官話韻鏡及字音解説書口上執 口清閑之除偶賜口覧何章如之」
この史料 について更 なる検証が必要であるが,漢字統一会創立 1年後の1
9
0
8
年 4月に書か
れた もので,清朝学部大臣の漢字統一会長職への就任依頼 を内容 としているのである。追伸
文か ら積極的に 『
韻鏡』 を宣伝 していたことの一端が窺われる。なお,草稿 なので,判読で
きない文字が幾つかあった。 ここで 「
Ll
」印で記 している。
(
4
0
) 王照 「
摘録官話字母突卯再版凡例十一催 附各固表」
『
小航文存』巻- (
沈雲龍主編近代 中国
史料叢刊第二十七輯,文海出版社印行) を参照。
」(
r
-海 ・太 田両教授退休記念
(
41
) 柴田活継 「
在阪時の西島良蘭 とその中国語教育活動
中国撃
01
年 4月) を参照。
論集』翠書房 ,2
(
4
2
) 上沼八郎 『伊沢修二』3
1
9
頁 -3
2
0
頁 を参照。ほかに竹中憲一が,満鉄 による漢語教育の教員
研修 にあたって,伊沢修二の涯中について言及 している。同著 「「
満州」 における中国語教育
(1)
」早稲 田大学法学会 『
人文論集』 (
第3
2
号)1
9
9
4
年 2月
(
4
3
) 酒田正敏 『近代 日本における対外硬運動の研究』 (
東京大学出版会,1
9
7
8年 3月)1
2
7
頁 -1
3
1
。
頁 を参照。
(
4
4
) 羅振玉 『扶桑両月記』 (
教育世界社印,1
9
0
2
年 3月) を参照。
(
4
5
) 『桐城呉先生 日記巻第九』 (
沈雲龍主編 『
近代 中国史料叢刊』)3
6
7
,7
9
4
頁 -7
9
5
頁,8
0
8
頁。
また,会談 によって,「
貴族院議員伊揮修二氏談片 一呉振麟録」二編が残 っている。呉 汝編著
9
0
2
年1
0月,函札筆談)8
7
頁 -9
9
頁。
『
東遊叢録』 (
三省堂書店,1
(
4
6
) 拙稿 「
厳修の新学受容過程 と日本 一其 の一 ・壬寅東進 を中心 に」『アジア教育史研究』第
4号 ,1
9
9
5
年 3月。同 「
厳修の新学受容過程 と日本 一其の二 ・天津の神南 と近代初等学堂 をめ
『
天理大学学報』第1
9
2
輯,1
9
9
9
年1
0月などを参照 されたい。
ぐって」
(
4
7
) 伊沢修二 「清国視察談」(
『
東亜同文会報告』第9
9
回,1
9
08
年 2月) 5頁。
」(
『
東亜同文会報告J第1
1
9回,1
9
09
年1
0月)2
4
頁。
同 「
清国教育事情 (1)
(
4
8
) 東亜文化研究所編 『
東亜同文会史』 (
霞目
」
会 ,1
9
8
8
年 2月)8
8
頁。
(
4
9
) この ような論点 にかん しては,すでに多数の先行研究 によって指摘 されている
。
例 えば,西川長夫の論文 「
帝国の形成 と国民化」及び同書の相関論文 などがそれである。西
川長夫 ・渡辺公三編 F
世紀転換期の国際秩序 と国民文化 の形成』 (
柏書房 ,1
9
9
9
年 2月) を
参照。