GKH020704 - 天理大学情報ライブラリーOPAC

49
モ ラエス とハ イ カイ
ー翻訳の方法 と実践一
深
〔
要
沢
暁
旨〕 現在, 日本の小 さな詩ハイカイは国際化 し,世界の様々な言語で作詩されて
いる。その端緒 となったのは,明治時代に来 日した外国人による翻訳である。ポル トガ
ル人の外交官,作家であったヴェンセスラウ ・デ ・モラエスも,翻訳を試みた一人であ
った。
モラエスは,ハイカイの散文訳 とポル トガルの通俗 4行詩クア ドラによる詩訳を試み
た。 しか しなが ら,ハイカイの知識,情報不足に加え,詩形式 と作詩法の相違のためク
ア ドラ訳は失敗に帰 した。 とは言え,モラエスの功績は, 日本人の感情的特性の表れを
文学を通 して本国の読者に伝 えたことにある。 また,モラエス自身,ハイカイの風雅に
通 じる資質を持った数少ない西洋人の一人であった。
〔
キーワー ド〕 短詩,散文訳,クア ドラ,暗示,切れ字
Ⅰ. は じめに
日本 の小 さな詩,ハ イカイ (
俳 語)は現在 ,
英語 ,フラ ンス語 ,ドイツ語,イ タ リア語 ,ポル トガ
ル語 ,スペ イン語 ,また ロシア語 ,中国語 とい った世界 の様 々 な言語 で作 詩 され てい る。句 会や
コンテス ト, イ ンターネ ッ トによる連句 まで行 われてお り, 日本 の詩 の-形式が海 を越 えて国
際化 してい る。 その発端 となったの は,明治 になって来 日 した外 国人の翻訳 による紹介であ る。
この小論 は,ポ ル トガル人 の海軍 軍 人,
外 交 官,
作 家 で あ った ヴ ェ ンセ ス ラ ウ・
デ・
モ ラエ ス
(
We
nc
e
s
l
a
u deMo
r
ae
s1
85
4
-1
929)
が3
0年以上 に及ぶ 日本 生活 の 中で著 した著作 を通 して,
ハ イカイを本 国の読者 に どの ようにポル トガル語 で紹介 したか を考察 した ものであ る。
なお,
俳 語 をハ イカイ と したのは以下の経緯 に よる。俳 語 は連歌 の第一句 であ る発句 ,
連句 の
1
0世 紀 初 頭 の 『
古 今和 歌
総称 で あ り,
狭義 には発 句 を指 す。俳 語 の原 義 は滑稽 ,
お どけで あ り,
集』で,
俳 譜歌 と して滑稽味 を帯 びた遊 戯 的 な歌 を集 め たのが始 ま りで あ る。 そ して,
連歌 の隆
5
-1
6世紀 に俳 語 の連歌 と して定着 し,
1
7世紀 に至 り,独 立 した発句 とい う詩形式 とな
盛 と共 に1
った。俳句 と発句 は同 じものであるが,モ ラエスが初来 日 した1
8
8
9
年(
明治2
2)
頃 は,「
発句」が
普通 であ り,
「
俳句」とい う言葉 は,
正 岡子規が明治3
0年代 に発句 の独立 を説 いて以後 ,一般化 し
G.アス トンは ho
kku(
発
た と言 われ てい る。明治期 に来 日 した外 国人 の使 用例 を見 る と,W.
句 ),ha
i
ka
i ut
a(
俳 語歌 )
,hai
kai
(
俳 語)と し,B.
H.
チ ェ ンバ レンは,ho
kkuを多 く用 い,
l
い
1
9
0
2年 の論文 「
芭蕉 と日本 の詩 的エ ピグラム」(
Bas
h6a
ndt
heJapa
ne
s
ePoeticalEpi
g
r
a
m)
で は,Ho
kk
n (
al
s
oHa
ikua
ndHa
i
kai
)と している また, ラフカデ ィオ ・ハー ンは著作 の 中
O
で1
0
0
句 以上 の句 を紹介 してい るが,英語の p
o
e
m(
請),l
i
t
t
l
e ve
r
s
e(
小 さな詩)以外 は ho
kku
を用 いてい る。従 って,英語 を母 国語 とす る西洋人 は主 に「
発句」を用 いた ようであ る。
一方 ,モ ラエ ス は,初 め て発 句 を紹 介 した1
9
0
4年 1
2月2
2日付 の 『日本 通 信 』 (
Ca
r
t
a
s do
a(
敬)と し,1
9
0
6年10月3
0日,1
910年 2月 4日付 の『日本 通信 』で も ut
aと して
Japa
o)で は ut
50
天 理 大 学 学 報
いる。彼 は短歌 も ut
aとしていることか らして,日本の小 さな詩の意味で発句 も ut
aとした と
1
9
0
9年 1月 5日と1
911年 2月 4日付 の『日本通信』では ha
i
kaiを用 い,
1
91
6
思 われ る。 しか し,
年の『
徳島の盆踊 り』(
0 "
Bo
nOdo
r
i
"e
m To
kus
hi
ma)で も hai
kaiを用いている。そ して,
1
9
2
6年の『日本精神 』(
Re
l
anc
edaA
lmaJapo
ne
s
a)では ho
kk
n を用いている。モラエスは,
発句
a,
hai
kai
,
ho
kku と表記 しているように,
先輩の西洋人の影響 もあって,
一つの 日本語 に統
を ut
kkuの kuは,下品な意味 を持 ち,hai
kaiの
一で きなかった。 ラテ ン系の人たちに とって ho
方が美 しく響 くようである。 また,現在のポル トガル語の辞書 では,ポル トガルでは ha
i
kai
,
ブラジルでは ha
i
c
aiとして載せ られている。以上の経緯か
ら,モ ラエスが使用 した ことがあ
(
2
)
り,ポル トガル,ブラジルで現在使 われている「
ハ イカイ」をここでは使用す ることにする。
Ⅰ.モラエス以前
モラエスが 日本 を訪れる以前,ポル トガル語でハ イカイについて言及 している文献 として次
の二つが挙 げ られる。その一つ は,イエズス会神父及 び修道士 たちによ り長崎で編纂 された
(
3
)
i
c
ai
(
ハイカイ),Fo
c
c
u(
ホ ック)の 2語が載せ られている。
『日葡辞書』である。そこには,Fa
Fai
c
ai
.Ce
r
t
oge
ne
r
odeve
r
s
os
,O
uc
ant
i
gasi
mpe
r
f
e
i
t
asquebunf
az
,o
umui
t
o
sJ
unt
o
s
,
Ys
andodepal
aur
aso
r
di
nar
i
as
,epo
uc
opo
l
i
das
.
(
ハ イカィ。一人 または大勢の人が集 まって,普通の,そ してあま り洗練 されていない言葉 を
用いて作 る,未完成の詩, もしくは歌謡のある形式。
)
Foc
c
u.i
,I
ydas
uf
a
j
i
me
noc
u.Pr
i
mei
r
as
e
t
e
nG
adasVt
as
,o
uver
s
osques
ee
nf
iao,ec
6t
i
nu畠ot
6c
e
nt
o.
(
ホ ック。つま り,言い出す初めの句。百句 となるまでつなぎ,連ねてい く歌, もしくは詩の
最初の旬。)
6
0
3年 は,江戸幕府が開かれた年であ り,室町時代末期 に流行 した
『日葡辞書』が刊行 された1
即興性 と許諾 を主体 とした俳語の連歌の伝統 を色濃 く残 した時代 であった。それゆえ, ここで
の 「
ハ イカイ」 は俳語の連歌であ り,「
ホ ック」 も連歌 の第一句の意味である。 この文献 は,
西洋語で書かれたハ イカイについての初めての記述 として注 目に値する。
(
4
(
Joan Ro
dr
i
guez
,1
561
-1633)
もう一つの文献は, イエズス会宣教師ジ ョアン・ロ ドリゲス
)
によって著 された 日本語の文法解説書 『日本語大文典』である。 これは大半が 1
6
0
4年 に印刷 さ
れた ものであるが,第二巻の終わ りに 「日本の詩歌」の章がある。ロ ドリゲスはそこで, 日本
(
5
)
の詩歌 を Vt
a(
り夕)と Re
nga(レンガ)に分類 し,和歌 の 5音節 と 7音節 の韻律 と,31
音節 の
長 さを説明 したあ と,季題や掛詞 を詳 しく解説 している。西洋語で俳語 に通 じる和歌の季題が
取 り上げ られたのは本書が初めてである。次いで,連歌 について詳 しく説明 し,連歌の形式で
Fai
c
ai
(
ハ イカイ)と呼ばれる ものがあ り,文体 はより下品であって,狂歌の ように日常語や滑
稽 な言葉 を使用すると,俳語の連歌 を紹介 した。そ して最後 に,和歌 と連歌 を学ぶための参考
(
6
)
書 を挙 げ,自分 もそ うした書物で学習 したことを述べている。連歌の参考書 としては 『
秘伝抄』
(
7
)
と『
至宝抄』を挙げた。ロ ドリゲスは 日本語 に驚 くほど堪能で,豊 臣秀吉や徳川家康 との謁見の
,
際の通訳 として活躍 しただけでな く, 日本語や 日本の文学 にも興味 を抱 き,詩歌の分野 におい
ては解説書 を原文で読 んでいたのである。モ ラエスが 日本 を訪れる2
8
6年前 に,偉大 なポル ト
ガル人の先駆者が 日本文学への扉 を開いていたことになる。彼 のことを知 った としたら,モ ラ
エスは必ずや興味 を抱いたことと思われる。 しか しなが ら,カ トリックに否定的であったモ ラ
モラエスとハイカイ
51
エスの著作の中で,ロ ドリゲスについて触れた箇所 はない。
Ⅱ.モラエスのハイカイ理解
0
年以上 日本で生活 したにもかかわ らず,ロ ドリゲス と異な り日本語 を習得で
モ ラエスは,3
きなかった。 日本語は読めず,書 けた文字はわずかの漢字 と片仮名で,平仮名 は書けなかった。
(
S
)
話 し言葉 も,「アス,アメデス」,「アンタ,カネモチ,ナ リマス」 といったた どたどしい 日本
語であった。それゆえ, 日本の詩歌 に関 しては,アス トン,チェンバ レン,ハー ンなど先輩の
西洋人たちの著作か ら学 び,時 には自己流の解釈 を加 えた。
モラエスがハ イカイの特色 について記 したことを彼の著作か ら要約す ると,次のようになる。
7
音節で,これ以上 ないほ ど短 く,独特で完全 な詩であること。
(1) 5・7・5のわずか1
(
2)脚韻がない こと
。
(3)教養人だけの特権的な ものではない,庶民的な国民詩であること。
(4) 日本画の ように絵画的であること
(5)短 く簡潔であるため,多 くの暗示 を含 むこと
。
。
(1)の形式 については,他 の先輩たちと共通の理解 をモ ラエスは示 し,ハ イカイが世界で
類のない短詩であることを認めている。モラエスは生来,小 さ くて愛 らしく,繊細で洗練 され
たものを好み, 日本の小皿,盃,キセル,下駄,はた きといった′
トさな品や民具 に惹かれ,果
ては 日本女性の小 さな足 まで称賛 している。詩歌 について も,31
音節の短歌 よ りも更 に短いハ
イカイを特 に好んだ。 しか し,ハー ンと同様,モ ラエスはハ イカイ理解の一つの鍵 となる季語
の概念 を得 られなかった。季語は,南北朝時代 に盛 んになった連歌の会 に集 まった一座の人々
への挨拶 として,季節の題材 を発句 に詠み込む とい う約束事 に由来する。それは,座 とい う共
同体で連帯 して詩作する意識 を確認するための決 ま りであった。季語 は,季節 を具体的に示す
詩語であ り,時 を暗示 し,印象 を走着 させる働 きをする。 また, 日常の具体的な景物であるた
め,作者 と読者の間に共通の限定 された連想 を生み,余情の伝達 をも可能 にする。この ように
季語 は,詩情 を喚起するだけでな く,作者 と読者の共通の理解 を担 う大切 な役割を果たすので
7
音節 とい う形式 に気 をと
ある。 しか しなが ら,モラエスを含む当時の西洋人たちは,わずか1
られただけでな く,ハ イカイの伝 える内容 に興味が向いて しまった。 また,彼 らは異 なる自然
観 を持 っていたため, 日本人の 自然観が詩歌 にいかに反映 されているかの理解が十分でなかっ
た。更 に,季語の効用 を解説す る日本人が身近 にいなかったことが挙 げ られる。 この ような理
由や事情が季語の認識 を妨げた と思 われる。
(2)の脚韻については, 日本語のすべ ての音節が 5つの単純 な母音で終 わってお り,押韻
することが無意味であるとい うことを,モ ラエスを含む先輩の西洋人たち も認めている。
(3)のハ イカイが誰で も詩作で きる庶民的な詩であることに も,皆が共通理解 を示 してい
る。 しか しモラエスは,短歌か ら連歌の形式が生 まれ,ハイカイへ と発展 していった経緯 をア
ス トンやチェンバ レンか ら学んでいた ものの,短歌 とハ イカイを音節数の違い とのみ捉 え,短
歌 もハ イカイも特別 な人々だけの ものではない詩であると見な した。理由 として,皇室恒例の
歌会 に庶民です ら応募 していることや,掛け軸,扇子,手拭 いなどの品物の装飾的要素 として,
(
9
)
短歌やハ イカイの詩が利用 されていることを挙げた。一方,アス トンは 『日本文学史』で,短
歌 には詠作上の拘束があ り,それな りの歌 を詠むには修練 と時間を要 し,かな りの学問的知識
(
1
0
)
百人一首」の
が必要である と述べ た。チェ ンバ レンも 『日本事雑誌』で ,「
I
l
い ように一般大衆 に
知 られ,人気のあるもの もあるが,本来は教養人の詩歌であるとしている。モラエスは短歌の
5
2
天 理 大 学 学 報
伝統的な側面 を見逃 し,短歌 とハ イカイの表面的な庶民性,大衆性 に重 きを置いて,同 じよう
な もの と見 な して しまったのである。 また,ハ イカイの庶民性の中に高い芸術性 を秘めた もの
があることに,モ ラエスは気づいてはいなか った。
(4)のハ イカイを日本画の一筆画の技法 と比較 して捉 える方法は,イギ
リス人の詩人,ジ
(
I
2
)
ャーナ リス トであった E.アーノル ドが1
8
9
4年の 日本旅行記 『
海 と陸』で述べ ているように,
当時の典型的な見方であった。モ ラエス も,「
詩歌芸術 は,他の芸術,例 えば絵画一線 の滑 ら
か さ,飾 り気のないスケ ッチ,想像で きる ものの細かい点の無視- と同 じ審美的精神 の影響 を
受けたかは明 らかである。私 たち ヨーロ ッパ人がペ ンで紙 に草書体で aを走 り書 きす る よう
に,対象物一鶴,アヒル,亀,その他の もの- を素早い動 きの一筆で措 くことを好 む 日本人の
画家一北斎がその一人である-がいる。つ ま り, 日本人の詩歌 における短歌や発句 は絵画にお
(
1
3
)
ける北斎の鶴 に相当す るのだ。」 と述べ た。ハ イカイは,イメージや感情 を言葉 によって さっ
と簡潔 に表現す る輪郭のスケ ッチだ と言 うのである。ハー ンもハ イカイを 「
一幅の完全 な感情
(
1
4
)
画」であると言い切 っている。モラエスはまた,短歌やハ イカイは感覚上の経験 に訴 えるもの
絵 と同 じく,その場のすべ て以上の ものであ り,私 たちが見 た もの,感 じた も
であるか ら,「
(
1
5
)
の,悩 んだ ものの思い出を刺激す る ものである。」 と語 り,過去の記憶 を呼 び起 こす作用があ
ることを指摘 した。ハーンやチェンバ レンも,絵画的な詩は懐 旧の情 をもた らす作用があるこ
とを認めている。
(5)のハ イカイの暗示性 について,アス トン,チェンバ レン,ハー ンの 3者 とも,ハ イカ
イの作者が 2, 3の短い言葉で 自分の得 た感動 を表現 しようとすると,暗示力 に頼 らざるを得
な くなることを認識 していた。モ ラエス も,「日本 の詩歌 は,普通,風景 の美 しさ,思いがけ
ない光景か らインス ピレーシ ョンを得 るが,別の事柄一精神的な分野の事柄一 にも及ぶ ことが
ある感嘆の声- ああ,それだ !一 以上ではな く,それ以上 になろうともしない。いずれにせ よ,
(
1
6
)
描写ではな く,描写では決 してあ り得 ない。暗示 なのである。」 と述べ ている。絵画的な 自然
の美 しさ, 自然か ら受けた瞬間的な驚 きを単 なる叙述 による描写ではな く,暗示的にその場面
や状況 を捉 えるのがハ イカイの特色 だ と考 えたのである。それゆえ,「ある着想 を完全 に仕上
げることを望 まない。む しろ,初めの部分だけを述べ るだけに留めることを優先 し,残 りは推
(
1
7
)
測 に任せ る。
」 とい うことになる。ハー ンも 「同様 に,詩人 も,ご く短 い詩の中で,何 もか も
言い尽 くして しまうと非難 される。彼の 目的は,読者の想像 を満た して しまわないで,ただ読
(
1
8
)
者の想像 を刺激す るだけに しておかなければな らない。
」 と語 る。 これは 『
去来抄』 における
,
芭蕉の 「いひおはせて何かある」 とい う態度 と合致する。ハー ンとモ ラエスは,西洋の作詩法
とは異 なる 日本独特の作詩法の特徴 を認識 していたことになる。 この ように,当時の西洋人の
ハ イカイ紹介者たちは,ハ イカイの短 さゆえに暗示が含 まれていることに気づいていた。 しか
し,暗示の効果がハ イカイの どの ような構造 によるのかは見抜 くことはで きなかった。 とは言
え,アス トンやチェンバ レンは学者の眼で,ハ イカイをモ ラエスやハーン以上 に分析 している。
アス トンは,ハ イカイでは短歌 と異な り,漢語 も口語表現の言葉の使用 も認め られていること,
(
1
9
)
コミカルな傾向 を持つ ものがあること,また,短歌が拒 む題 目も扱 うことを言及 した。一方,
チ ェンバ レンは,ハ イカイは名詞の詩であ り,動詞 は西洋語 におけるような人称,時制の拘束
(
2
0)
を受けないことを見抜 いた。 また, 日本の叙情詩 は単 なる詠嘆であ り,読者の想像力 に訴 える
(
2
1
)
ちのの,作者の論理的知性の主張がないことも見抜 いていた。
モラエスは,アス トン,チェンバ レン,ハー ンといった先輩たちの著作か ら,多 くのハ イカ
イの知識 を自分 な りに取捨選択 して蓄積 していった もの と思われる。
53
モラエスとハイカイ
Ⅳ.翻訳の 目的
翻訳 とは,他の言語で書かれた意味 ・内容 をほぼ損 なうことな く, 自分の言語 にはめ込む作
業である。その場合,筆者が原文で読者 に伝えようとした情熱や雰囲気 を, 自分 と同 じ言語 を
使 う読者 にも伝 えな くてはな らない。 また,翻訳 では,言語構造の違いや,同 じ言葉や表現で
あって も,受け取 る側の文化の違いによってニュアンスが異 な り,誤解が生 じた り,真意が伝
わ らない ことがあることに注意 しな くてはな らない。そ して,翻訳の失敗 を防 ぐには,当然の
ことなが ら,翻訳者 は訳 し訳 される 2言語 と 2文化の十分 な知識が必要 とされる。
モラエスの場合,既 に述べたように日本語が読めず, 日本語か ら直接 に知識 を得ることがで
きなかったOそのため, 日本文学について知 るにも,他の西洋人の翻訳 に頼 らざるを得 なかっ
,「外 国人は,良かろ うが悪 しかろ うが,翻訳 によって しか鑑賞で きない。 し
た。モ ラエスは
か し,良い翻訳であって も不十分である。なぜ なら,原文 に匹敵す る翻訳 は普通 ないか らであ
る。付け加 えるに, 日本人の何 らかの文学作品の一節 を正確 にヨーロッパの言語 に翻訳で きる
ほどの 日本語の豊かな知識 を持つ西洋人は希である。 これだけで も, 日本文学が白人にとって,
窺い知れない真 に不可思議な ものであることを感 じさせ るに十分である。そ して,白人はこの
ことについて,翻訳 によって,それ も日本人が今 までに書いた無数の作品に比較 して, これ ら
(
2
2
)
のわずかの翻訳で判断す ることで満足 しな くてはな らない。
」 と述べ, 日本語が読めない外 国
人は翻訳 によって しか文学作品 を味わ うことがで きず,巧みな翻訳であって も原作 を完壁 に再
現す るのは不可能であるとの見解 を示 した。
文学の中で も詩歌の場合,読者の感情や想像力 に訴える面が強いため, とりわけ翻訳が難 し
い。特 にハ イカイでは,詩人の感性や知性の働 きが表 に出て 自己主張す る西洋の作詩法 と異 な
り,知性 は働かせ る ものの,主観 は抑 える反対の作詩法であるため,翻訳 には さらなる困難 を
伴 う。 また,ハ イカイではその短 さゆえに,暗示や省略がなされ,意味が どうして も不明確 に
な りやすい。か と言って,単 なる逐語訳であった り,暗示 を説明 した り,省略 を補足 して しま
ってはハ イカイにならない。翻訳者 は,説明を極力抑 えて,言外の意味や余韻 をそれ とな く読
者 に伝 えな くてはならない。 アス トンは 『日本文学史』で,翻訳 は した ものの,芭蕉のハ イカ
(
2
3)
イの大部分 は,外国人の門外漢 には理解 を超 えるほどに不明瞭で暗示的であると,ハイカイ翻
訳の難 しさを訴えた。
,
モラエスは日本の詩歌の翻訳 について 「日本の り夕の詩型 にはめた翻訳 は,何 らかの ヨー
ロッパの言語で試み ようとする者 には,毛髪が逆立つ ような困難 さがあろ うが,非常 に興味深
い仕事であろう。主 として,英語 とフランス語でのそのジャンルの試みはい くつかある。ポル
(
Z
l
)
トガル語では皆無であることは明 らかである。
」 と述べ,ポル トガル語での翻訳がな されてい
ない以上,成否は別 に して,翻訳 に挑戦す る気持 ちのあることを示 した。そ して,ハイカイを
,
含めた 日本文学 を,た とえ不完全 な翻訳 を通 してで も本 国の読者 に伝 えたい理 由を 「
私の 目
的にとって,この ことはあ まり重要ではない。私 は, 日本人の感情的気質の この表れが,期待
に違 わぬように,他の方法で得 られる日本精神 についての様 々な知識 を確かめることになるこ
とを感 じさせ るに足 る, 日本 人 の文学 につ いての ほんの短 い印象 を示 したいだけなのであ
(
2
5)
る。
」 と語 った。つ ま り, 日本精神 を理解す るため には文学が有効 な手段 の一つであ り, 日本
文学 を翻訳することで,そこに反映 される日本人の感情的特性の一端 を明 らかに したい とい う
のである。では次 に,モラエスの翻訳方法 と実際の翻訳 を見 てみ よう。
54
天 理 大 学 学 報
V.モラエスのハイカイ翻訳
モラエスは,全著作 を通 じ,数 えた限 りでは,21
句のハ イカイを翻訳,紹介 している。翻訳
quadr
a)による詩訳], [日本語の
には,[
散文による意訳], [
ポル トガルの 4行詰 クア ドラ (
原句 と散文による意訳], [日本語の原句 とクア ドラによる詩訳], L日本語の原句,散文による
意訳 とクア ドラによる詩訳]の 5つのス タイルがある。 日本語の原句 は, 3行のローマ字で書
かれ,句の切れ 目,感動や余韻 を示す箇所 には, コンマ, ピリオ ド,感嘆符,中断記号 などの
符号がかな りの頻度で使 われている。散文訳 に関 して,アス トンは 3行,チェンバ レンは逐語
訳 を除 き 2行で訳 したが,モラエスは行 を意識せず,ハー ンに倣い.直訳 に近い訳 を している。
韻文訳 をするに当たっては,上述 したポル トガルの通俗 4行詩 クア ドラの形式 を採用 した。モ
ラエスによると, クア ドラは,1
4行詩のソネッ トを更 に短 くした もので,4行 ,2
8
音節 より成
り,民衆の自然発生的な感情性か ら生 まれた韻律の形式であ り,文学作品を意識 した ものでは
(
26)
な く,鳥の さえず りの ようなものであると言 う。 また, クア ドラによる翻訳 について,モラエ
スは次の ように述べ る。「ポル トガル人の研究者 に とって,短歌 と発句 はそれほ ど違和感 はな
いに違いない。私 たちには,ポル トガルのクア ドラ,民衆的な素晴 らしいクア ドラがあ り,大
変魅力 に富んでいるので,ほんの-篇だけで感動的な詩 とな り得 る。ポル トガルのクア ドラに
もよ くある言葉遊 び,語呂合わせ,あるいは,意味がお互いに関連のない 2つの語句の配合の
ように, 日本の詩歌で もよく使 われるい くつかの構成方法があるとい う事情 もある。私が思 う
に,私たちのクア
ドラを巧みに使 えば, 日本のす ぐれた翻訳 をするのが可能であるか もしれな
(
2
7)
い」。 クア ドラとハ イカイは,共 に短 く,民衆の詩であること,文学的価値 を追求す る ような
高尚な ものではない こと, また,同 じような技法があることなどか ら翻訳で きるか もしれない
とモラエスは判断 したのである。 この判断が正 しかったのか どうか,散文訳 を含め,以下でモ
ラエスの実際の翻訳 を年代J
I
I
削こ追 ってみることにす る.
1)
,『日本通信 』 (19)
0
4年 1
2月2
2日付)においてであ
モ ラエスがハ イカイを初めて翻訳 したのは
(
2
8
る。その多 くは,ラフカデ ィオ ・ハーンの 『
霊 の 日本 』 (
1
8
9
9) に載せ られた句であ り,この
時の訳は,散文訳のみで, 1句のみローマ字での原句が記 されている。
1.蝶 々に去年死 したる妻恋 し
(
作者不詳)
Ch6c
h6ni!
"
Kyo
ne
ns
hi
s
hi
t
am
Ts
umako
i
s
hi!
Duasbo
r
bo
l
e
t
as!
…noanopa
s
s
ado,mo
汀e
umi
nhaq
ue
r
i
dae
s
po
s
a!
二匹の蝶 !‥.
去年,私の愛する妻は死 んだ !
3行 に分けたローマ字 による原句の書 き方,符号,散文訳 ともハー ンと全 く同 じである。原
蝶 々」 を 「
二匹」 と数 を読者 に提示 した点だけで,素 っ気 ない訳 である。
句 と異 なるのは,「
そ して,感動 と余韻の中心 となる 「
蝶 々」 と 「
愛する妻は死んだ」の後 に,感嘆符 と中断記号
9
2
6
年の 『日本精神』で この句 を再度取 り上げ,次 の ように
をつけている。 またモ ラエスは,1
クア ドラ詩訳 を試みている。
モラエスとハイカイ
55
ひとつがい
Embl
e
madoa
mo
rd
i
t
o
s
o…
Haum a
no
,s
ef
no
i
u
(
2
9)
Amul
he
rdeq
ue
mf
ui'
s
po
s
o‥
.
幸福な変の象徴.‥
l年前 に,死んだ
私が夫であった女性が‥.
クア ドラ訳では,状況 を明確 に して,詩的雰囲気 を醸 し出すために原句 にない語句が加えら
れている。Pa
s
s
a(
横切 る),Emb
l
e
madoa
mo
rd
i
t
o
s
o(
幸福 な変の象徴)が これに相当する。
妻恋 し」 の 「
妻」 も,「
私が夫であった女性」 (
A mu
l
he
rdeq
ue
mf
ui'
s
po
s
o
) と,訳
また,「
し直 されている。散文訳 と比べ るとどうして も説明的になって しまって,原句の 「
妻恋 し」 と
い う作者の切実な心情が伝 わって来 ない。翻訳の後で,ハー ンに倣 い,モラエスは句の解説 を
加 える。ある男が,庭で二匹の蝶 を見つけて感嘆の声 を上げる。 この国では,蝶の番 は夫婦合
一の麗 しい象徴であ り,結婚の贈 り物 として紙製の燦 を贈 る習慣がある。そのため,男は亡 く
なった妻 を思い出 したのであろうと。散文訳 をした後で解説 を加えるのは,風土,習慣の異 な
る外 国の詩 を西洋の読者に伝 える上で,不可欠な手段であった と思われる。モ ラエスが この句
に惹 か れ た の は,過 去 の悲 し くも美 しい 追 憶 で あ る.ポ ル トガ ル語 に は,サ ウ ダー デ
(
s
a
uda
de
) とい うポル トガル人の心情 を表す独特の言葉がある。それは,現在 そ こにない物,
いない人,過去 に失 った物,亡 くなった人に対する何 とも言 えぬ懐か しさ,懐 旧の情であ り,
更 に,そ うした物 を再度見たい,そ うした人に再び会いたい とい う願望 をも含む感情 を表す言
葉である。 この句 で,作者が 目の前 をよぎる 「
二匹の蝶 」 を見て,「
妻恋 し」 に帰結 した とこ
ろに,モ ラエスのサウダーデの情が刺激 された ものと思われる。
2.身に しみる風や障子 に指のあ と
(
作者不詳)
Oh,
ve
nt
oq
uet
r
e
s
pa
s
s
aoc
o
r
a
碑O!a
sma
r
c
a
sd
o
sde
d
i
nho
ss
o
b
r
eopa
pe
ldas
c
o
r
r
e
d
i
c
a
s!
…
ああ,心 を突 き刺す風 よ ! 引 き戸の紙 に小 さな指の跡が !.‥
モ ラエスは, この句 を子供 を失 ったばか りの痛 ましい母親の詩 と見 な し,亡 くなった子の悪
戯 によって障子 に空いた穴 と,そこか ら吹 き込む風 によって悲 しさが増す母親の心情 を表現 し
ていると解説 した。訳 し方 も解説 もハ ー ンとほぼ同 じであるが,「
悲 しい」 とい う言葉 を使 わ
ずに,過去のあ りし日を追憶する母親の心情が伝 わることにモ ラエスは感 じ入った もの と思わ
れる。そ して,キーワー ドとなる 「身にしみる風」 と 「
指のあ と」 に相当する箇所の後に感嘆
符や中断記号が加 えられ,感嘆 と余韻 を示 した。 また文頭 に,ハー ン同様 ,Ohとい う間投詞
を入れ,西洋流 に強調 しているが,訳 は簡潔です っきりしている。
3.蚊帳の手 を一つはず して月見かな
(
伝千代女)
De
s
a
t
a
ndoumapo
nt
adomo
s
q
ui
t
e
i
r
o
,e
i
s
mec
o
nt
e
mpl
a
ndoal
ua!
…
蚊帳の一隅をはず して,私は月を眺めて ここにいる !‥.
この翻訳では,何のことだか読者 にはわか らないはずで,モ ラエスは,ハー ン同様 に解説 を
加 えた。俳人千代女が,四角 と三角 と丸 を使い句 を詠 むように求め られ,蚊帳は四角で,隅を
56
天 理 大 学 学 報
はずす と三角にな り,月は丸い ことに気づ きこの旬 を詠んだ と。即座 に作者が旬 を詠めたかは
別 に して,モラエスは作者の即妙 な機知 に感心 したのである。そ して, この句 にハ イカイの遊
び心 の一面 を発見 した もの と思 われる。モ ラエ スの訳 し方 はハ ー ンとほぼ同 じで ,「月見 か
な」の 「
かな」 とい う切れ字は,感嘆符 と中断記号で対応 している。
4.朝顔 に釣瓶 とられて貰 ひ水
千代女
Aas
agaoe
nl
e
ous
enopo
c
o;vai
s
ebus
c
araguaf
o
r
a.
朝顔が井戸 にか らんだので, よそへ水 を求めに行 く。
アス トンやチェンバ レンもこの句 を翻訳 しているが,モ ラエス も大変気 に入ったようで,全
部で 4回取 り上げている。ハー ンはこの旬 を翻訳 していないが,モ ラエスの散文訳 はハー ンに
倣 った素 っ気 ない訳 で あ る。モ ラエ ス は,「(
釣 瓶) と られ て」 を
「
(
井 戸 に)か らん だ」
(
e
nl
e
o
us
e) と,受動態 も使 わず過去形で訳 している。一般的に,ハ イカイの動詞 は時制か
らかな り自由であ り,原句の 「とられて」 も,純粋 な動 きのみを不定詞的に表 している。一方,
西洋語では,動詞 は常 に主語 に一致 し,厳 しい時制の制約 を受 ける。モ ラエスは,「
朝顔」 を
主語 としたため,過去形 を用い時間を明示せ ざるを得 なかった。 また,受動態 を使 わなかった
ため,「
朝顔が井戸 にか らんだ」 とい う事実ははっきりす る ものの,「
朝顔 に釣瓶 とられて」 と
い う原句のニュアンスを消
して しまった。最後の 「
貰 ひ水」 は,チェンバ レンが訳 した "
iRI
g
1
3
ll
wat
e
r
" とい う名詞での翻訳が難 しかったためか,「
水 を求めに行 く」(
vai
s
ebus
c
arag
ua)
と訳 している。 しか し,3人称単数形の動詞活用 を用いたため,主語 は第 3者である作者 とな
り,作者がその光景 を眺めていることになる。 これでは,景物 を前 に しての 1人称である作者
の感軌
,
感慨 を詠むハ イカイの基本 に反することになる。ただ し 『
徳島の盆踊 り』 (
1
91
6)で
(
3
の翻訳では,「
私 は水 を貰いに行 く」 (
vo
upe
di
ragua) と 1人称 を使 って訳 している。 また,
モ ラエ スは, この句 を神戸 時代 (
1
89
9
-1
91
3) に執 筆 され た 『日本 夜 話 』(
Os Se
r
らe
s no
1)
Japao) と 『日本精神』で クア ドラによる韻文訳 を試みている。前者の訳 は以下の通 りであるo
At
r
e
pade
i
r
a,p'
l
ac
or
da
Dopo
c
o,po
s
s
eat
r
e
par
.
Vai
s
epe
di
rag
uaf
or
a(,32)
Par
anaoai
nc
o
moda
r
…
つる草が,井戸の綱 に,
巻 きつ き始めた。
よそへ水 を貰いに行 く,
それを邪魔 しない ように...
クア ドラ訳では,「
朝顔」 を 「
つる草」(
t
r
e
pade
i
r
a)と訳 し,「
釣瓶」 は,井戸の水 を汲 むた
めの,縄 または竿のついた桶 を指すが ,「
井戸の綱」 に巻 きついた と挿絵 まで入れて正確 に伝
えている。 また,散文訳で も使 われた 3行 目の f
o
r
a(よそへ)と 4行 目の Par
an豆oai
nc
o
mo
-
dar(
それを邪魔 しない ように)は,原句 にない語句である。 また,Va
i
s
e pe
di
r agua(
水 を貰
いに行 く)の主語 は,散文訳 と同 じく3人称 になっている。モ ラエスの クア ドラ訳 は,原句 に
ない語が加 えられることで,意味 は明確 になる ものの,説明の翻訳 になって しまっている。
この句 は現在 では,「
朝顔 に釣瓶 とられて」 と 「
貰 ひ水」が,原 因 と結果 を示す句であ り,
詩 としては視点や発想 に通俗 さが感 じられ,優 しさを売 り物 に している感があるとの見方がな
されることが多い。 しか しなが ら,モ ラエスが この句 に感動 したのは,解説の中で 「
純真で,
(
3
3)
この上 な く魅力的なり夕」 と評 しているように,井戸端 に慎 ま しく咲 く朝顔 に対する作者の素
モラエスとハイカイ
5
7
直な愛情 であ り,朝顔 を苦 しめないために隣人に水 を貰いに行 くとい う作者の心遣いである。
原 因 と結果 について も,モ ラエ スは疑問な く受け入れている。易 しい理屈 があ ったか らこそ逆
に,句意が明確 にな り,当時の一般庶民や外 国人 に も親 しまれたのである。それゆえ,モ ラエ
スの訳 は,俳語の翻訳 としては成功 していないが, 日本人の感情 を伝 える とい う意味ではその
役 を果た した と思われる。
5.雪の村鶏時いてあけ白 し
(
3
4
)
続石
Al
de
i
adene
ve;c
ant
am osgal
os;aur
o
r
aal
vac
e
nt
a…
雪の村,鶏が鳴 き,白 き夜 明け‥.
句 の翻訳 の前 に,モ ラエスは,「
冬 に見 られ る風景 を思 い起 こさせ る絵 画 的 なり夕」 との説
Wi
nt
e
r
Sc
e
ne" (
冬 景) とタイ トル をつ けてい る。 これ
明 を加 えてい る。 一方,ハ ー ンは,"
は,西洋 の読者 に,句の イメー ジを喚起す るための一手段 であろ うD「
鶏噂いて」 の部分 は,
c
ant
ar (
鳴 く) とい う動詞の現在形 をモラエスは用いているが,再度 この句 を翻訳 した 『日本
ant
ando (
鳴 いて) と訂正 した。 「
鳴 く」 と動詞
精神』では,ハー ンに倣 い現在分 詞 を用 い,c
で切 って,セ ミコロンをつけるよ り,現在分詞 を使 う方が 「白 き夜 明け」 によ り滑 らか に繋が
雪 の村」 とい う名詞で一度切 断 され,動 かぬ静寂
る と判断 した もの と思 われる。 この句 は,「
を示 し,次 の 「
鶏聴 い て」で,その静 寂 を破 る動 きを表 し,「て」 とい う接 続 の助 詞 に よ り
「あ け 白 し」 に係 り,静 と動 が交差 して統 合 され る句 で あ るDそ して,「あ け 自 し」 の 「自
あけ自
し」 は形容詞の終止形で,ハ イカ イら しい強 く言い切 った表現 である。そ こか らは,「
し」 の余韻が伝わって くる。モ ラエスの訳 は,大 きく [
名詞,動詞 +名詞,名詞 +形容詞]で
簡潔 に訳 されていて,句の内部構造 を理解 した上での翻訳 とは思 えないが,名詞 を多用す るこ
とで,ハ イ カ イ ら しさ を感 じさせ る翻 訳 とな っ て い る。 また,モ ラエ ス は 「
雪 の 村」 を
lde
A
i
adene
veと し,定冠詞 aをはず しているO「
鶏」 は o
sgal
o
sと定冠詞 o
sをつけている
が,二度 目にこの句 を訳 した時 には,定冠詞 をはず している。モ ラエスはハー ンの訳 し方 に倣
った と思 われるが,冠詞のない方が限定的な表現 とな らず,冠詞の概念のない 日本語の原句 に
鶏」 その もの は ga
l
os(
雄 鳥)と,男性 の複 数形 を用 いてい る。性 ・数 の
近 くなるDただ し,「
概念が明確 でない 日本語の名詞 を西洋語 に訳す場合,特 にラテ ン系言語では性 ・数 を明示 しな
くてはな らない。 この句 の翻訳の場合,性 は問題 ないが,数が問題 となる。 日本人が この句 を
イメージする とき,た とえ現実 には何羽 もの鶏がいた として も,-羽の鶏の鳴 き声 として イメ
ージすることが多 い。 しか し,ハー ン同様 にモ ラエスが複数形 を用 いたのは,複数の鶏 を自然
にイメージ したわけで,論理的 にはこうした解釈 も成立す る。数の概念が言語 に明確 に表れる
西洋語 を使 う西洋人 と,それが ない 日本人 とのイメージの相違が生 じたのである。
6.冬 の夜や遠 く聞 こゆる岬悟の声
(
作者不詳)
Me
i
gael
i
mpi
dape
l
ano
i
t
e,avo
zdeum r
apaz
i
nhoquees
t
uda,1
e
ndoa
l
t
o,um l
i
vr0.
.
.
Tamb6m e
ut
i
veum r
apaz
i
nh0.
.
.
心地 よ く澄 んだ夜,書 を大声で音読 し,学ぶ男 の子の声‥.
私 に も男の子がいたのだ.‥
ハー ンは "
A mo
t
he
r
'
sRe
me
mbr
anc
e" (
母の思い出) とい うタイ トルをつ けているが,モ
58
天 理 大 学 学 報
ラエス とハーンの訳 はほぼ同 じである。 この句は,亡 くなった子供への母親の愛惜の情 を示す
句であ り,モラエ スの散文訳 は作者の心情 を伝 えてはいるものの,ハ イカイの説明訳 になって
冬の夜」 は季語であ り,季節 と時間が具体的に示 され,冬 の夜 のひっ
しまっている。先ず ,「
そ りとして,寒々 とした情景 を読者は連想する。 しか し,ハー ンとモ ラエスの訳では,肝心の
「
冬」が訳出されていない。次の 「
や」 は,詠嘆の切れ字である。切れ字 は,ハイカイをハ イ
カイた らしめる要素である。ハ イカイは,短歌か ら派生 した更 に短い詩形であるため, もとも
と不安定 なものである。そのため,強 く言い切 ることを しない と,単 なる詩の断片 になって し
まう。言い切 ることでその部分が切断 されて独立 し,句全体が引 き締 まり,安定するのである。
句 を切 るためには,切れ字 を用 いる場合 と,名詞や形容詞の終止形 を用いる場合があるが,何
れにせ よ,句が切れない とハ イカイにならない。句の途中に切れ字が置かれると,明確 な空間
の分断がなされ,次 に続 く部分の言葉 との対立,矛盾,あるいは飛躍が生 じ,読者 に驚 きや緊
張 を与える。そ して,最後の部分で両者が統合 されて,句が落ち着 くのである。 また,切れ字
が句の末尾 に置かれると,最後の部分ですっ と切断 され,読者 に詠嘆だけでな く,余韻や余情
を感 じさせ る。 この句の場合,先ず,切れ字の 「
や」 によって句が切断され,独立 した冬 の静
寂 な夜の情景が提示 される。次いで,その静 けさに対立 してかすかに聞こえて くる音が続 く。
そ して最後に,その昔が子供の音読の声 として統合 されるのである。 この ように切れ字は,ハ
イカイに強い感覚,歯切れの良 さを与え,ハ イカイの内部構造 を支える非常 に重要 な要素であ
る。モラエスは,「
や」の切れ字の部分 をコンマで切 ってはいるが,ハー ンの翻訳 に倣 っただ
けで,切れ字の効果 を理解 していた とは思 えない。ハー ンにして も,文脈か らコンマを入れた
わけで,ハ イカイの構造 を理解 した上での判断ではなかった。 またモラエスは,ハー ンと同 じ
く,原句 にない 「
私 に も男の子がいたのだ… 」 とい う文 を加 えたが,句の意味 は伝 えて も,
暗示 を重ん じるハイカイの味 を消 して しまった。
2)
次 にモラエスがハ イカイを翻訳 したのは,1
9
05年 3月1
5日付の 『日本通信』 においてである。
7.手 をついて歌 申 し上 ぐる蛙かな
宗鑑
Co
ma
sma
o
spo
us
a
da
snoc
h畠
O
,
r
e
ve
r
e
nt
e
me
nt
eva
i
sr
e
pe
t
i
nd
oot
e
upo
e
ma,o
hr
a!
…
両手 を地面 について,お前 はうや うや しく詩 を繰 り返 し詠 じている,ああ蛙 よ !.‥
チェンバ レンとハー ンもこの山崎宗鑑の句 を翻訳 しているが,モラエスの翻訳 は,ハー ンの
(
3
5)
1
8
9
8)の 「蛙」での散文訳 に倣 っている。句末の切 れ字 「
か な」 は,両
『
異国風物 と回想』 (
者 とも感嘆符で処理 しているが,モラエスは更 に間投詞 と中断記号 を加 え,詠嘆 を強めている。
ハー ンの解説か ら,カジカ蛙の美 しい鳴 き声 は歌詠む蛙 として 『
古今集』の序 に記 されている
ことを,モラエスは知 っていたはずであるが,モ ラエスの興味 は,両手 をついて貴人にうや う
や しく歌 を詠進 しているような蛙の姿勢であ り,それを発見 して詩 とした作者の着想の見事 さ
であった。ただ し,モラエスは, 二の句のユーモラスな雰囲気 を捉 えなかったのか,この蛙 を
誤 ってカジカ蛙 として しまい,来客 を礼儀正 しく迎 え挨拶する 日本娘のイメージを蛙 にだぶ ら
せて しまった。 日本娘 をこよな く愛 したモラエスらしい解釈である。モ ラエスはまた,私信 か
ら1
9
0
6年頃に執筆 された と思われる 『日本夜話』の 「
蛙」の章で,この句 のクア ドラ訳 を試み
ている。
モラエスとハイカイ
Po
us
adasasmaosnoc
h畠O
,
両手を地面 について,
So
l
t
asc
ant
i
c
o
sf
ag
ue
i
r
os
Em r
e
ve
r
ent
epo
s
t
u
r
a,
(
3
6
)
R豆dosr
ibe
i
r
o
s.
r...
うや うや しい姿勢で,
5
9
心優 しい歌 を詠 じる
小川の蛙 よ !.
.
.
この頃か らモラエスのクア ドラによる詩訳が始 まるが,4行 というクア ドラの形式のため,
原句 より訳が長 くなって しまっている。原句 にない部分 を抜 き出す と,no c
hao (
地面 に),
f
a
g
ue
i
r
o
s(
心優 しい),po
s
t
ur
a(
姿勢),do
s r
ibe
i
r
os (
′
j
\
川の)の語句がそれに相当する。
本国の読者 を意識 したとは言え,ハ イカイの翻訳 としては訳 し過 ぎで,原句の面白さが消えて
しまっている。
9
0
6年 1
0月(
3
0
蝉」 についての 2句の散文訳であ り,ハーン
続いて,1
3
7
)日の 『日本通信』での 「
の .
『
影』 (
1
9
0
0)の 「
蝉」の章か らモラエスは再録 している。
8.蝉一つ松の夕 日を抱えけ り
(
作者不詳)
Umac
i
gar
r
as
o
l
i
t
ar
ia agar
r
as
eao止l
t
i
mor
ai
odes
o
ldat
ar
de,quebr
il
hanor
amo
mai
sal
t
odeum pi
nhe
i
r
o.
一匹の孤独 な蝉が松の木のてっぺんの枝 に射す,午後の夕 日の最後の光 にしがみついてい
る。
ハーンはこの句 を作者不詳 としているが,ハーンの教え子であ り俳人であった大谷正信の句
である。モラエスの訳は,「
夕 日」 を 「
午後の太陽の最後の光」 (
山t
i
mor
ai
odes
o
ldat
ar
de)
とした り,「
松」 を 「
松のてっぺんの枝」 (
or
amomai
sal
t
odeum pi
nhe
i
r
o)と詳 しく説明 し
て しまっている。また句末の,現在の事実を前 に しての詠嘆を示す切れ字 「け り」 に相当する
において
部分にも何の符号 も加 えず,切れ字の効果 を訳に反映 させていない。 (3一方,句の解釈
8)
は,ハーンが 「
次の小品画は日本芸術 の本質に従 った迫真の作である。
」 と,対象物 をさっと
スケ ッチすることで詩的イメージを喚起する日本画の手法から解説 を加えたのに対 し,モラエ
スは,「自然の至上の法則の前では,我
々 (
我々,生 きとし生けるもの)の欲望のむな しいこ
(
3
9
)
との非常に見事な例であると思 う。
」 と,哲学的観点か ら句の内容 に迫っている。句の解釈は
見方によって異なるのは当然であるが,モラエスはこの句の解釈 を仏教思想 に求めたのである。
9.我 とわが殻や弔 う蝉の声
也有
A
l6m e
s
t
aumac
i
gar
r
aac
nt
a
ar
,aol
adodos
e
uc
o
r
pomo
r
t
o.Quec
ant
ae
t
a?
Ac
as
ooso
f
i
c
i
o
sf
hne
br
esde
vi
dosaos
e
upr
6
pr
iOc
ada
ve
r
…
あそこに自分の骸の横で鳴いている蝉がいる。何でそれは鳴いているのか ?
恐 らく自分 自身の亡骸のための葬礼なのであろう日.
この句は江戸時代の俳人横井也有の句であ り,難解な内容のため,モラエスは翻訳 に苦慮 し,
l6
m(
あそこに),Que c
ant
a e
l
a ?(
何でそれは鳴いているの
説明的な訳 になっている。A
adodos
euc
o
r
pomo
r
t
o(
自分の骸の横で)
,Ac
as
o(
恐 らく)といった語句 を加 えて
か ?),aol
いる。 ここまで過度に説明をすると,意味の伝達のみで,ハイカイの翻訳 とは別の短詩になっ
,
て しまう。後 にモラエスは 『日本精神』で再度 この句 を取 り上げ,次の ように翻訳 している。
60
天 理 大 学 学 報
Cant
and
ooso
丘c
i
o
sf
une
br
e
sdi
ant
edos
e
upr
6
pr
ioc
adave
r
.
.
.ai
,avozda
(
40)
…
c
l
gar
r
a!
自分 自身の亡骸 を前 に して葬礼の祈 りを唱 えている.‥ ああ,
蝉の声が !‥.
素 っ気 ない訳であるが, この方が余分な説明 もな く, より原句 に迫 っている。句の解説でモ
ラエスは,変態 によって昆虫の霊魂 も移 り変わるとす る仏教思想 を紹介 し, 自分の弔いを自分
です るとい う,西洋では考 え もしないことを詩的に捉 えた作者の発想 に強い感慨 を覚えている。
,『日本夜話』の
次は
l
‖、
「もみ じ」で紹介 した 2句のクア ドラ訳である。「もみ じ」の章は,友
人宛の書簡か ら,1
9
07年頃に執筆 され,ポル トガルの雑誌 『
セ ロンイス』 (
Se
r
6
e
s
) に掲載 さ
れたことがわかっている。
1
0
,秋 を待つ人を迷 わす もみ じかな
Quandove
m vi
ndooo
ut
o
no
(
作者不詳)
秋がやって来 ると
どれほど心せかれることか !‥.
Quant
oal
vo
r
o9
0S
eS
e
nt
e!
…
r
,nasf
lo
r
e
s
t
as
As
n
i
ad'
i
rvc
樹林 に しきりに見 に行 きた くて
Omo
mi
j
i
,e
mr
amaar
de
nt
e!
.
.
.
燃 えるような枝葉の もみ じを !‥.
ll. もみ じ見 に人 も出かける赤ゲ ッ ト
Co
汀a
皿O
SaVe
rmo
sbos
que
s
Omo
mi
j
ia
ve
r
me
l
hado.
Le
vos
us
pe
ns
odoso
mbr
os
Um c
obe
r
t
o
re
nc
ar
nado!
…
(
作者不詳)
急いで林 に出かけよう
赤 く染 まった もみ じを見 に。
私は肩 に
赤ゲ ッ トをはおって !.‥
最初の句 は, もみ じの紅葉がいかに人の心 を惹 きつける存在であ るか を,「人を迷わす」 と
表現 した句 であるが, クワ ドラ訳 は余分 な説明が多 く,「もみ じ」が 「人 を迷わす」 とい う原
句の味が,翻訳 からは全 く伝 わって来ない。ただ し,最後の詠嘆の切れ字 「かな」 は,感嘆符
と中断記号で対応 している。
次の 「もみ じ」の句 について,モラエスは,赤ゲ ッ ト (
赤い色の毛布) をはおった田舎の人
が もみ じ狩 りに出かけ, もみ じの赤色が原色 の赤ゲ ッ トのために色あせ るものの,赤色が辺 り
一面 に広が っていることを暗示す る句 と解説 している。原句では,田舎者 までが,都会で当時
流行 った赤ゲ ッ トをはおって もみ じ狩 りに行 く光景 を作者が邦旅 した もの と思われる。 しか し,
モラエスはこの皮肉には気がつかず,色の配合の面 白さにのみ興味 を示 している。 また,この
句 は,作者がその場の光景 を客観的に眺めた ものであるが,モ ラエスは 「
人」 を 1人称 として
捉 え,作者 自身が赤ゲ ッ トを身にまとい, もみ じ狩 りに出かけるとの誤 った解釈 を している。
我 も出かける」 となるか らである。
なぜ なら, もし 「
人」が作者 ならば,「
こうした句 を取 り上げたことか らみて,モラエスの興味は, 自然の色彩 をこよな く愛 し,そ
の移 り変わ りに敏感 な 日本人の態度 にあったもの と思われる。
モラエスとハイカイ
61
次いで,1
9
0
9年 1月 1日付の 『日本通信』 における横井也有の句のクア ドラ訳である。 この
句 は,アス トンの 『日本文学史』 に採録 されている。
1
2.木 に置いて見たよ り多 き落葉かな
l ,f
A
ol
hasmo
r
t
as
,C
idas!
a
…
也有
ああ,朽 ちて落ちた葉 よ !‥.
Ve
j
ovo
smai
snume
r
o
s
as
お前 たちは今,私 には移 しく見える。
Ago
r
a,doquevosvi
a
かつて幹 にあった とき,
Quandonost
r
onc
o
s
,vi
e
os
as
…
お前 たちが青 々 しく見えたよ り.日
r
t
as (
朽 ちた),Ago
r
a(
今),vo
s(
お前 たち を),vi
9
0S
aS (
青 々 と した) と
翻訳 で は,mo
い った原句 にない語が挿入 されてお り,vo
sとい う人称代 名詞が 2回 も使 われている。「
落
葉」 を擬人化 して 「
お前たち」 と代名詞 を用い,親 しみを込めた もの と思われる。句の意味 は
伝わるものの,翻訳 としては訳 し過 ぎで,西洋詩の形式 になって しまっている。句 の解説か ら
分かるように,モラエスにとってこの句の魅力 は,辺 りを覆いつ くした落葉の光景か ら,かつ
て木 にあって生命 にあふれていた青葉 を想像 した作者の見事 な着想である。数字的に見れば,
落 ちた葉は元の葉 と数は同 じであるはずであるが,その数が よ り多 く見 えるという作者の詩的
感性 に,モラエスは共感 を示 したのである。そ して,青 々とした葉か ら朽 ちた葉への 自然の変
化 に,生の虚 しさ説 く仏教の無常観の暗示 を読み取 っている。 この句 に仏教思想の影響 を見 る
か どうかは解釈 によるが,モラエスはこの句 に日本人の宗教的雰囲気 を感 じたのであろう。
3)
次 は,1
91
0年 2月 4日付の 『日本通信』での, 日露戦争 に出征 した無名兵士 による 3句のク
ア ドラ訳である。モラエスは,戦場での 日本軍兵士の心情 と心意気 を示す句 としてこれ らの句
を紹介 した もの と思われる。
1
3.異国 も色香変わ らぬすみれかな
So
br
ee
s
t
at
e
r
r
ae
s
t
r
ange
l
r
a,
0'
vi
o
l
e
t
adosval
ados
,
At
uac
o
reot
e
upe
r
f
ume
N孟oose
nc
o
nt
r
oa
lt
e
r
ados
.
1
4.待 て しば し大和桜の返 り咲 き
Em br
e
vei
r
e
it
e
rc
o
nvos
c
o
O'c
amar
adas!Pac
i
昌
nc
i
a.
(
作者不詳)
この異国の地で,
ああ柵堀のすみれ よ,
お前の色 と香 は
変わ らず と思 う。
(
作者不詳)
間もな く君たちに会えるだろう
ああ戦友たちよ ! 辛抱 して待 って くれ。
NoJapao,asc
e
r
e
J
e
l
r
aS
日本では,桜は
Re
pe
t
e
m af
lor
e
s
c
6
nc
i
a!
再び花開 く !
1
5.近寄ればあわて藻に入る蛙かな
Quandoaf
r
o
nt
ai
ni
mi
ga
N6
Sc
he
gamos
,amat
r
e
i
r
a
Es
c
o
nde
s
enave
r
dur
a,
Co
moasr
asn'
umar
i
be
i
r
aI
"
(
作者不詳)
敵の艦隊に
我 らが近づ くと,
校滑者 は草の緑 に隠れる,
川岸の蛙のごとくに !‥.
62
天 理 大 学 学 報
最初の句 で,祖 国のため死 の危険 を前 に して も, 自然の些細 な姿 に目を留める兵士の態度 に
モ ラエスは共感 を示 している。翻訳 では,切 れ字の 「
かな」 は間投詞で一応対応 している。 ま
た,va
l
ados (
柵堀) は原句 にない語で,場所 を明確 に示 し,「色香」 を代名詞 として再度使用
している。ハ イカイでは,音節 の短 さのため,代名詞で同 じ語 を受 けることはまず しない。 こ
の翻訳 は,西洋詩 としては読め る ものの,ハ イカイの雰囲気が伝 わって こない。
次の句 は,負傷 した兵士の戦線復帰 の熱い想 い を,時期 を違 えて咲 く日本 の桜 にた とえた句
で あ るが , 1行 目は原 句 に な く,本 国 の 読 者 へ の 説 明 と な っ て い る。 また, 2行 目で,
c
amar
adas (
仲 間)の語 を間投詞 と共 に加 え,句 を贈 る相手 に呼 びかけている。
3番 目の句 は,旅順港での ロシア艦隊の動 向 を蛙 にた とえて皮 肉った句である。原句が隠唯
を用 いているのに対 し,モ ラエスの訳 では直輪が使 われてい る。象徴 の手段 としての直喉 は,
句 の締 ま りを失 うため,ハ イカイではあま り使われないのが普通である。直輪 は,比倫が はっ
き りす るが,ハ イ カ イの切 れ が失 わ れ るの で あ る。 また,f
r
o
nt
a i
ni
mi
ga (
敵 の艦 隊),
mat
r
e
i
r
a(
狭滑者),r
ibe
i
r
a(
川岸)の語句が,説明のため につ け加 え られているo説明 して
しまうとハ イカイの特性 である暗示性が消 えて しまうのである。
続いて,同 じ 『日本通信』 の 1
91
1
年 2月 4日付 の クア ドラ訳 による 2句 である。
1
6.赤 とんぼ羽 をとった ら唐辛子
Ti
r
ao
l
hose
nc
amado,
赤 とんぼ,
Set
ear
r
anc
oasquat
r
oal
as
,
Fi
c
asas
s
i
mt
r
ans
f
b
r
mado;
もしお前か ら 4枚 の羽 を取 った ら,
こんな風 になる。
- Um pl
me
nt
i
nho.
-唐辛子 に。
1
7.唐辛子羽 をつけた ら赤 とんぼ
Pi
me
nt
i
nho,
Set
eponhoquat
r
oaz
as
,
Fi
c
asas
s
i
mt
r
ans
f
o
r
mado ;
- Ti
r
ao
l
hose
nc
ar
nado.
唐辛子,
もしお前 に 4枚 の羽 をつけた ら,
こんな風 になる。
- 赤 とんぼに。
前者 は芭蕉の弟子の其角の句 で,後者 は芭蕉が弟子の残酷 な遊 び心 を戒めて訂正 した句 であ
る と言 われる。 しか し,それは俗説であ り,芭蕉が句作 した事実 はない。チェ ンバ レンが この
2句 を 『口語 日本語ハ ン ドブ ック』 (注2
0
)と 「芭蕉 と日本 の詩 的エ ピグラム」で 2度取 り上
げてお り,モ ラエスは,チェ ンバ レンの翻訳 をポル トガル語 に重訳 した と思われる。モ ラエス
は句 の内容が気 に入った ようで,『日本精神』で再度,散文訳 を次の ように試みている。
m anque
A
m asas
asaum t
i
r
a1
0
1
hoses
c
ar
l
at
e ;f
ic
ar
Aum pl
ment
O.
真 っ赤 な とんぼか ら羽 を取 ってみ よ,唐辛子 になるだろ う。
(
1
2
)
O ;f
ic
ar
aum t
i
r
aol
hoses
c
ar
l
at
e.
Junt
e
m asas
asaum pl
me
nt
唐辛子 に羽 をつけてみ よ,真 っ赤 なとんぼになるだろ う。
モラエスとハイカイ
6
3
散文訳では,モラエスはチェンバ レンに倣い,条件文でな く命令文 を使い, クア ドラ訳での
t
e(
お前 に),qua
t
r
o (4枚の),as
s
i
m (
そ うした ら) といった語が除かれ, よ り簡潔 になっ
ているDモラエスの関心 は, この句での昆虫 とい うノ
J
、さな生命 に対 して も注がれる作者の愛情
であ り,句の善 し悪 しは判別で きていない。そのため,クア ドラ詩訳 まで試みたのである。チ
ェンバ レンです ら,この ような偽作の句 を受け入れて しまったことか らも,当時の西洋 人のハ
イカイに関する情報不足が窺える。
4)
,
最後 は 『日本精神』の 「
芸術 と文学」の章 に載せ られた1
0
句である。その多 くは既 に解説
しているため,新出の 3句 と芭蕉の 1句 をここで取 り上げる。
1
8. もし鳴かば蝶 々龍の苦 を受けん
宗因
Seabo
r
bo
l
e
t
ac
ant
as
s
e,t
e
r
i
ades
o
f
r
e
romar
t
l
'
iodeumagai
r
o
l
a.
もし蝶が鳴 くとした ら,龍の苦痛 を受けな くてほならないだろう。
この句 は談林俳語の阻西山宗 因の作であ り,チェ ンバ レンの 「
芭蕉 と日本 の詩的エ ピグラ
ム」 に」載せ られた句である。モ ラエスの散文訳 は,句その ままの直訳である。色鮮やかな味
の沈黙が,逆 に鳥か ごに入れ られる危険か ら味 を放 っているとい う,形式 にとらわれない作者
の自由な発想がモラエスの注意 を引いた もの と思 われる。赤 とんぼの句 と同様 に, こうした目
新 しい発想が西洋人の好みに合 ったのであろ う。
1
9.古寺や鐘 もの言はず桜散 る
t
l
t
l
1
酒竹
Oh,ove
l
hot
e
mpl
o!os
i
n°naot
o
c
a ;f
lOr
e
sdec
e
r
e
j
e
i
r
ac
ae
ms
o
br
eos
o
l
o…
ああ,古寺 よ ! 鐘は鳴 らず,桜花 は地 に落ちる.‥
この句 は,正 岡子規 と同時代の俳 人酒竹の作であ り,ハ ー ンも絵画的 な旬 の代表作 と して
や」の切れ字 を感嘆符で示 し,文頭 に
『
霊の 日本』で散文訳 を している。モ ラエスの訳 は,「
間投詞 を加 えている。ハイカイの翻訳 に間投詞 を入れることは,疑問を残すが,西洋 人の発想
l
hot
e
mpl
o(
古寺)の定冠詞 Oは,呼びかけの言
か らす ると自然なのであろう。 しか し, ove
葉 となっているので冠詞 は不要であろ う。 また,原句 にない語句 ,S
o
br
eos
o
l
o(
地面 の上
に)は句の説明であ り,無理に訳出す る必要はない と思われる。ハー ン同様,モラエス もこの
古寺」,「
沈黙す る鐘」,「
散 る桜」 とい う 3つの具体的事物で春の
句 を絵画的な句 と見な し,「
情景 を見事 に表現 しているところに惹 きつけ られた と思われる。
2
0.盗んだる案山子の笠 に雨急 な り
虚子
これは青年時代の高浜虚子の句である。ハー ンが同 じ 『
霊の 目刺 】で紹介 した ものを,モラ
エスは散文訳 とクア ドラ詩訳 を試みている。
Caidur
ame
nt
eac
huvanoc
hap6
uquee
ur
o
ube
iaoe
s
pant
al
ho.
私が案山子か ら盗 んだ帽子の上に雨が激 しく降 り注 ぐ。
天 理 大 学 学 報
6
4
vaimo
l
hadoat
6aoso
s
s
os;
骨 まで濡 れている,
caiac
huva,mai
且emal
S
,
ます ます雨が酎 )注 ぎ,
Noc
hap6u,quef
o
ir
oubar
稲 田で案山子か ら
Noe
ampoaos̀
pant
apar
dai
s
.
盗 んでいった帽子の上 にo
散文訳 は,ほほ原句通 りである。 しか しなが ら,翻訳では西洋語の文法的拘束 を受 けるため,
eu r
。
ubei(
私が盗 んだ) と主語 を表 に出 し,セ ンテ ンスの論理 を明確 に した。ただ し,ポル
トガル語 では,動詞の活用で 1人称 の主語 を明示で きるので,翻訳 で は,主語 の e
uを省 略 し
た方が よ りハ イカイ らしくなる。 また,最後 で言い切 る詠嘆の切れ字 「な り」 は,モ ラエスの
訳 では何の対応 もなされていない。句の解説で,モ ラエスは案山子の意味 と日本の学生の生活
(
4
4
)
る
。 この句が,学生の貧 しさを,短い言葉 による具体的な情景描写で
事情 を説明 し,貧窮の図 を描 くの に, こんなに少 ない言葉で これ以上豊か に表現す ることはで
きない と注釈 を加 えてい
示 した ところにモ ラエスは感心 したのであ る。次 に, クア ドラ詩訳 を見 てみ る と, 1行 目の
「
骨 まで濡れている」 は,原句 にない部分で,誤植が ない とす る と 3人称 の学生が主語で,学
生の状態 を説明 している。原文で 3行 目の 「
盗 んでいった」 も,散文訳 と異 なって,学生が主
語 になっている。つ ま り, クア ドラ訳では,貧乏学生の姿 を作者が眺め,客観的 に作詩 したこ
とになる。 こう した解釈 もまった くあ り得 ないわけで はないが,散文訳 で,笠 を盗 んだのが
「
私」 イコール学生である作者 としているため,矛盾が生 じている。ハ イカイは,基本 的には
1人称 の文学であることをモ ラエスが十分 に理解 していなかったため と思 われる。
2
1.古池や蛙飛 び こむ水 の音
芭蕉
,『日本精神』での散文訳 とクア ドラ詩訳 をここで取 り上 げる。
ほぼ同であるので
Ah,ovel
hot
anque!
eor
ui
dodasf
as
,at
i
r
andoI
S
epar
aaagua!
ああ,古池 よ ! そ して水 に飛 びこむ蛙の音 !…
比較のため,ハ ー ンとチェ ンバ レンの英訳 をここに示す ことにする。
(
4
5)
(
L.
He
ar
n)
Ol
dpo
nd- f
ro
gsj
umpi
ngl
n- s
o
undofwat
e
r
Theol
dpo
nd- ayeIandt
hes
o
undo
ft
hef
r
o
gsj
umpl
ngi
nt
ot
hewat
e
r
・
(
4
6)
(
BJi.
Chambe
r
l
ai
n)
モ ラエ スの訳 は,明 らか にハ ー ンで な く,チ ェ ンバ レンの訳 に倣 ってい る。先 ず
,「古 池
や」 の切 れ字 「
や」 は,チ ェ ンバ レンと同 じく,間投詞 と感嘆符で対応 している。ただ しモ ラ
,「蛙飛 びこむ水 の音」 に相 当す る訳 の後 で も,ハ ー ンとチ ェ ンバ レンの訳 にない感嘆
符 と中断記号で余韻 を示そ うと してい る。次 に,
「
古池や」 の後で,チ ェ ンバ レンに倣 い接続
エスは
詞 e(
そ して) を挿入 しているが,余分 な間がで きて句の締 ま りをな くして しまった。 また,
,
, ,
チ ェ ンバ レンと同 じく 「
古池」 「
音」 「
蛙」 の名詞すべ て に冠詞 (
0,as
,a) をつ け,言葉
を限定 して しまっている。一方,ハー ンの訳 は,一つの定冠詞 も使 われてお らず,ハ イカ イら
,「蛙飛 び こむ水 の音」 を,チ ェ ンバ
しさを残す翻訳 となっている。 さらに,モ ラエス訳 では
モラエスとハイカイ
65
レンと同様 に,「
水 に飛 びこむ蛙の音」 と訳 し,「
蛙」 を複数形 (
r
畠S
) に している。 この訳 だ
と,複数の蛙がぼちゃんぼちゃん と水 に飛 び込 む 「
蛙の音」が強 く印象 に残 って しまう。一方
ハーンは,原句 に忠実 に 「
蛙の音」でな く 「
水の音」 と訳 しているが,やは り蛙が複数形のた
め,同 じような印象 を与 えて しまう。 この句 を,何匹 もの蛙が水 に飛び込む光景 を詠んだ春気
躍動の句 と捉 えることも可能ではあるが,芭蕉の句 としては深みのない平凡 な句 になって しま
う。数の捉 え方の違いが ここで も問題 となったのであ る。従来 この句 は,ハー ンが1
8
9
9年の
『
異国風物 と回想』で初めて翻訳 した と考 えられていたが,モ ラエ スが所持 していた1
8
9
8年版
(
4
7
る
。後 にチェンバ レンは,句の解釈 を変 え
の 『日本事物誌』でチェンバ レンが既 にここで示 した翻訳
) を している。そ して,句の解説で,
色彩 とユーモアの小 さなコマの集合の旬 と語ってい
るが,最初 に訳 した1
9
0
4年当時は,モラエス も蛙が水 に飛 び込む一瞬の動 きを捉 えたこの句 に
ユーモラスな感 じを覚 え,取 り上げた もの と思われる。
モラエスは,散文訳 を したあ と,更 にクア ドラによる詩訳 を試みる。
Um t
e
mpl
o,um t
anquemus
gos
o;
ある寺,苔む した池,
Mude
z,ape
nasc
o
r
t
ada
わずかに破 られる,静寂
Pe
l
or
u1
'
dodasr
as
,
Sal
t
andoaAgua.Ma
isnada.
‥
水 に飛 び込 む,蛙の音 によって。
ほかに何 もな し...
古池や」 に当たる箇所 の後 にセ ミコロンを入れ一時的 に中断 し,最後の
クア ドラ訳では,「
行末で中断記号 をつけ,余韻 を示 そうとしている。 しか し,原句 にない語句が これ までの よう
に加 え られてい る。t
e
mpl
o(
寺),muS
gO
S
O(
苔 む した),Mude
z(
静寂),a
pe
nas c
o
r
t
ada
(
わずかに破 られる),Ma
i
snada (
ほかに何 もな し)が これに相当す る。ただ し,「
古池」の
,『方丈乱】や
mus
go
s
o) と訳 したのは
「
古い」 を 「
苔む した」 (
『
徒然草』 を翻訳で読 んでい
たモラエスが,鴨長明や兼好法師 と重ね合わせ,隠者の庵近 くに古 くか らある名 もない無用の
池 とい う情景 をイメージ した もの と思われる。 しか しなが ら, こうした語句 を補足することで
句の内容 に迫ろうとしたことが,逆 にハ イカイの切れ と俳味 を消 して しまったのである。一方,
句の解説でモラエスは,「
恐 らくある古 びた仏教寺院のす ぐ近 く,境 内に古池があ り,静穀 を
破 るのは眠 ったような水 に飛 び込む蛙たちの物憂げな音のみ とい う,ある場所の安 らぎを想起
(
48)
させ るこの瞬間描写 をすぼ らしい と思わないかね ?」 と述べている。彼 はこの句 を一幅の感情
画 として捉 え,古池 とそ こに飛 び込む蛙の水 の音,そ してそこか ら感 じられるほっとするよう
な一瞬 を措写 した芭蕉の技量 を高 く評価 したのである。モ ラエスの解説 は,「
芭蕉 と日本の詩
的エ ピグラム」でのチェンバ レンの解説 を参考 に した ものの,チェンバ レンが以前 と意見 を変
えて,時折 はねる蛙の音以外,静寂その ものの古池 に人生の暁想的なもの悲 しい側面 を暗示す
ると,禅思想の影響 を読み取 った解釈 とは意見 を異 に している。 とは言 うものの,両者 とも蛙
の鳴 き声でな く,水 に飛 び込む蛙の動作 と音 に注 目したのは確かである。チェンバ レンは,上
述の論文で芭蕉のハ イカイにおける永遠性 と流動性 を説 く 「
不易流行」の理論 を解説 している
ものの,「
不易流行」か らこの句 を分析 しようとは しなか った。一方モ ラエス も,句 の内容 に
興味 が集 中 し,ハ イカイ理論 を理解 しようとは しなか った。後年 ,D.キー ンは 『日本 の文
古池や」 は時間を超越する永遠的な要素 を示 し,「
蛙飛びこむ」 は変化 を示す瞬間的
学」
1で,「
(
4
9
)
な要素 を表 し,「
水の音」で両者が一点 に交わ り統合す る と解説 した。当時のハ イカイに関す
る知識 と情報では,このような解釈 は不可能であったのである。
天 理 大 学 学 報
6
6
ハ ー ンやチ ェ ンバ レンは,ハ イカイの内部構造 には迫 れなか った ものの,ハ ー ンは独 自の詩
的感性 で,チ ェ ンバ レンは西洋のエ ピグラム (
寸鉄 詩)の形式 でハ イカ イを何 とか散文で翻訳
しようと努 めた。 しか しなが ら,散文訳 で さえ,西洋言語 の構造 による拘 束 を受 けるだけでな
く,短 く訳 す ほ ど暖昧 さが残 り,句 に含 まれ る暗示 や余情 が うま く伝 わ らない とい う困難が伴
う。 また,文化 の違 い に よる翻訳 の しに くさや,ハ イカイの本 質 を理解 してい ない ため に起 こ
る誤 りも生 じる。 そのため,西洋 人の翻訳 者 は, 自国の読者 にこの東洋 の小 さな詩 を理解 させ
るため に,丁寧 な解説 を施 したのであ る。一方,モ ラエ スは,散文訳 と解説 だけで は飽 きた ら
ず , 4行 2
8音節 の短 さとその庶民性 か ら, ポル トガルの クア ドラに注 目 し,詩訳 を試 み たo L
か し, クア ドラは短 い と言 って もハ イカイの倍近 くの長 さが あ る。 そのため,翻訳 は どう して
も説明的 になって しまった。 また クア ドラは,感動 を前 に しての作者 の主観 を言葉 に よっては
っ き りと表 に出 し, それ を積 み重 ね読者 に伝 える西洋詩の一つである。 それ に対 し,ハ イカイ
は, 自然 を前 に しての作者の感動 を,主観 を抑 え,極 限 まで削 り取 った具体 的 な言葉 に込 めて,
直観 的 に描 写す る詩 であ る。 そ して,読者 も作 者 と一体 となってその感動 を共有す るのであるO
こう した事情 か ら,作詩法 の異 なる東洋の洗練 された小 さな詩 を西洋の詩形 にその ままはめて
翻訳 す る ことは,初めか ら無理があ ったのであ る。 その結果 ,モ ラエ スの クア ドラ詩訳 の 目論
見 は, 当然 の ことなが ら,失敗 に帰 した。駐 日ポル トガル大使 であ り,モ ラエス研 究家 であ っ
た A.マ ルチ ンス ・ジ ヤネ イラ も 『日本精神 』 (
1
97
3)の序 文 で ,「モ ラエ スはハ イカイ を特 に
好 み, この 『日本精神』 とその他 の本 の なかでい くつ も翻訳 を している。 しか しなが ら,私 に
は通俗 なクア ドラで それ を訳 す彼 の頑固 さが理解 で きない。 ハ イカイの難解 な神髄 を見抜 けな
か ったためか ,それ とも単 なる愛 国心 のため なのであろ うか ? 韻 を踏 んで私 た ちに示 す翻訳
は,脚韻 であ るこ とを控 え目に避 けてはい るが,散文で私 た ちに示す ほ どには, この非常 に洗
練 された詩 の形式 の ことが- つ ま り,簡潔 で,ハ イカイ固有 の叙情 的な総体 によ り一致す る翻
I
S
41
訳 の こ とが- あ ま りわか ってい ない。」 と批 判 してい る。 クア ドラで詩訳 した こ と自体 に,モ
ラエスの知識の限界が あ ったのである。
Ⅵ.おわ りに
モ ラエスのハ イカイ翻訳 は,散文訳 では評価 で きる ところ もあ ったが,ハ ー ンやチ ェ ンバ レ
ンの英訳 を参考 に した重訳 であ ったO また,独 自の翻訳 に挑戦 した クア ドラ詩訳 もハ イカイ と
は別物 になって しまい,成功 にはほ ど遠い ものであ った。ハ イカイの知識 ,情報不足か ら, そ
の特 質 を把握 で きなか った ことが最大の理 由であ る。そのため,ハ イカ イの文学 的価値 をモ ラ
エ スは評価 しなか った。そ して,短歌 とハ イカイを音節数 の違 い とのみ捉 え,句 の出来不 出来
も判別 で きず,句 の内容 のみ に興味 が集 中 して しまった。 また,季語や切 れ字 がハ イカイの構
造 にいか に影響 を与 えてい るか とい うこ とについて も,モ ラエスの想像す らつかない こ とであ
った。 しか しなが ら,ハ ー ンやチ ェンバ レン,アス トンとい ったハ イカイ紹介初期 の先輩 たち
に も同 じような こ とが言 え,モ ラエ スだけ を責 め るこ とが で きない時代状況の宿命であ った。
ハ イカイ翻訳 に成功 した とは決 して言 えない ものの,モ ラエスの功績 は, 日本 人の感性 の探
求 をハ イカイに求め,初めて ラテ ン系 の国,ポル トガルの読者 に 日本文学 の一端 を紹介 した こ
とにある。モ ラエ ス によ りポル トガルの読 者 は,神秘 的 な国の世界 に類 の ない独特 な詩 を知 る
と同時 に,そ こに住 む人 々の 自然 に対 す る態度 と感情 の表 れ をも知 ったのである0
モ ラエ スは知 る由 もなか ったが, 日露戦争直前 の 1
9
04年 ,風土病研究 のため に来 日した フラ
ンス人医 師ポール ・ル イ ・クー シュー (
1
8
7
9
-1
9
5
9) に よって,ハ イカイはその後 フラ ンス に
モラエス とハ イカイ
67
渡 り,1
920年前後
東洋 の哲 人
(
5
1
) に 日本 の小 さな詩 と して流行 した。 そ して, クー シューの著作 『
と詩 人 』 (
1
91
6) を知 った ブ ラジル人文学者 ,医 師 であ った ア フラニ オ ・ペ イシ ョッ ト (
1
875
(
5
2
)
1
9
47) は, この著作 のハ イカイ に関す る一章 を 『ブ ラジル の民 謡』 (
1
91
9) で紹 介 し, ポ ル ト
ガル語 ハ イ カイの礎 を築 い た。一方 , 日本 か らは高 浜虚子 が 1
936年 に ヨー ロ ッパ ハ イ カイ行 脚
に出か け, パ リを訪 れ
た際 の句 会 の集 ま りで 出会 った クー シューの句 に僅 か に 日本 を見 た と,
(
53)
後 に新 聞紙 上 で語 った。 また,虚子 の欧行 以前 に, 門下生 の俳 人佐 藤念腹 が ,1
927年 に移民 と
して ブ ラジル に渡 り,異 国の地 で花 鳥訊 詠 のハ イ カ イ普及 に努 め た。 こ う して, 日本 語 とポル
トガル語 に よるハ イ カイは,地球 の反対側 の国 ブ ラジルで合流 したので あ る。現 在 ブ ラジルで
は,佐 藤 念腹 の弟子 に よ りハ イカイ研 究所 が設立 され,ハ イ カイ雑誌 や ブ ラジル独 自の季語 集
も出版 され てい る。 ポ ル トガル語 に よるハ イカイ も,ペ イ シ ョッ ト以後 ,研 究 が進 め られ , 日
hai
c
ai
s
t
a) を数 多 く排 出 し, ポ ル トガ ル語 に よる句 集
系 及 び非 日系 の俳 人 ,ハ イカ イス タ (
が 出版 され,句 会 や コ ンテス トも しば しば行 われ てい る。 また,作 詩 の練 習 の ため,ノ
」
、
学校の
教 科書 に もハ イ カイが載せ られ てい る。 モ ラエ スのハ イカイ紹 介 が ,思 って も見 なか った形 で,
ブ ラジルで実 を結 んだのであ る 。
モ ラエ ス は, ハ イ カイの本 質 を十分 にはつ か め なか った もの の, 日常 の生 活 の 中で ,木 早草
を友 と して語 りか け,小 川 のせせ らぎに耳 を澄 ま し,花 に集 まる蝶 を愛 で,烏 や虫,蛙 の鳴 き
声 に も耳 を傾 け た。 また,桜 ,藤 の花 , もみ じ,枯 れ葉 ,雪景色 , あか ね色 に染 まる雲 とい っ
た 自然 の色 彩 とその うつ ろい を敏 感 に感 じ取 り, こ よな く愛 した。更 に,蛍 のかす か な輝 きに
亡 き人 の魂 を感 じた り,小 さな昆 虫 な どの生 き物 を殺 す こ とを避 け よう とす る慈 悲 の心 を示 し
た。大 い なる 自然 と, そ こか ら生 み出 され る生 きと し生 け る もの に共 感 を覚 え,慈 しみ, そ れ
らの生命 に触 れ よ う と したの で あ る。 そ して ,「大地 の香 り,土 ,辛 ,樹 木 ,咲 き誇 る花 の発
散 す る総和 ,母 なる 自然 の息 吹 の ような もの !…
毎 朝 寝床 か ら起 きあが り,部屋 の 窓 を開
ける とき, そ よ風 の 内 に突然 その息 吹 を感 じ,喜 び に満 た され,陶然 と し,感極 ま り,涙す る
(
5
4)
ほ どなの だ !‥ .
」 と語 る よ うに, モ ラエ ス は,大 自然 の懐 に抱 か れ る こ とに無 上 の喜 び を覚
え る人 間で あ ったのであ る。 そ う した こ とを考 える と,モ ラエ ス は,ハ イ カ イに通 じる風 雅 の
資 質 を有 す る数 少 ない西洋 人の一 人で あ った と言 え よ う。
註
(1) 「
エ ピグラム」 とは元来,墓石に刻 まれた碑銘や刻文 を示す言葉で, イギ リスやフランスでは,
寸鉄 人を刺す風刺 と皮肉 と機知 に富む短詩 (
寸鉄詩)や警句 の形式で用い られた。チェンバ レ
ンは,エ ピグラムの形式 を利用 してハイカイを翻訳 した。
(2) hai
ka
i
,hai
c
aiは,ポル トガル語 では hが無音のため,「ア イカイ」 と発音 され るが, 日本
語では意味 をなさないので 「
ハイカイ」 と表記する。
(3) vo
c
abul
ar
i
odaLi
n
go
adeI
a
pam,Nagas
aqui
,1
603,1
604
(4)
(5)
(6)
(7)
Ro
dr
i
g
ue
z
,Jo
an,
Ar
t
edaLi
n
go
adeI
a
pam,Mac
ao,1
604-1
608
当時は,大文字の U を欠いていたため,Ut
aを Vt
aと表記 した。
宗砥作 と伝 わる 『
連歌秘伝抄 』。1
5世紀後半。
紹巴作の 『
至宝抄 。1
6世紀後半。
』
(8) 「モラエスさんを懐か しむ座談会」,雑誌 『
モラエス』No.1,1
9
9
8,p.
58
(9) Mo
r
ae
s
,We
nc
e
s
l
a
ude,
Re
l
anc
edaAl
maJa
po
ne
s
a,Li
s
bo
a,1
97
3年版 ,pp.1
80
-1
81
(
1
0) A
st
o
n,W.G.
,
Ja
pane
s
eLi
t
e
r
at
ur
e
,Lo
ndo
n,1
899,p.
291
(
l
l
) Chambe
r
l
ai
n,B.H.
,Ja
pane
s
eThi
n
gs
,To
kyo,1
9
71
年版 ,p.
378
天 理 大 学 学 報
68
(
1
2) A
m o
l
d,Edwi
n,Se
asandLands
,Lo
ndo
n,1
894,p.
293
Re
l
anc
edaAl
maJa
pone
s
a,Li
s
bo
a,1
973,p・1
83
(
1
3) Mo
r
ae
s
,We
nc
e
s
l
aude,
,Ex
ot
i
c
sandRe
t
T
・
O
S
Pe
C
t
i
u
e
s
,To
kyo,1
9
71
科 &,p.1
64
(
1
4) He
a
r
n,Laf
c
adi
o
・
t
aSdoJa
pa
o,22deDe
z
embr
ode1
904,Po
r
t
o,1
905
(
1
5) Mo
r
ae
s
,We
nc
e
s
l
a
ude,CaT
Re
l
anc
edaAl
maJa
pone
s
a,Li
s
bo
a,1
97
3,p.1
83
(
1
6) I
de
m,
(
1
7) I
de
m.
(
1
8) He
a
r
n,Laf
c
adi
o,
I
nGho
s
t
l
yJa
pan,bi
t
so
fpo
e
t
r
y,To
kyo,1
9
71
年版,p.1
55
pane
s
eLi
t
e
T
・
at
uT
・
e
,Lo
ndo
n,1
899,pp.
289
-290
(
1
9) A
st
o
n,W G"Ja
,
Ahandbo
o
ko
f
c
ol
l
o
qui
alJa
pane
s
e
,Lo
ndo
n,1
898,p.
448
(
2
0) Chambe
r
l
a
i
n,B.H.
Ja
pane
s
eThi
n
gs
,To
kyo,1
971
,p.
375
(
21
)I
de
m,
(
2
2) Mo
r
ae
s
,We
nc
e
s
l
aude,
Re
l
anc
edaAl
maJa
po
ne
s
a,Li
s
bo
a,1
973,p.1
70
pane
s
eLi
t
e
T
・
at
uT
・
e
,Lo
ndo
n,1
899,p.
29
4
(
2
3) A
st
o
n,W.G"Ja
・
t
aSdoJa
pao
,22deDez
e
mbr
ode1
90
4,Po
r
t
o
,1
905
(
2
4) Mo
r
ae
s
,We
nc
es
l
aude,CaT
Re
l
anc
edaAl
maJa
pone
s
a,Li
s
bo
a,1
973,p.1
70
(
2
5) I
de
m,
・
t
aSdoJa
pao
,5deJa
ne
i
r
ode1
909,Li
s
bo
a,1
928
(
2
6) I
de
m,CaT
Re
l
anc
edaAl
maJa
pone
s
a,Li
s
bo
a,1
973,p.1
83
(
2
7) I
de
m,
I
nGho
s
t
l
yJa
pan,1
971,To
kyo,p.1
56
(
2
8) He
a
r
n,Laf
c
adi
o,
Re
l
anc
edaAl
maJa
po
ne
s
a,Li
s
bo
a,1
973,p.1
87
(
2
9) Mo
r
ae
s
,We
nc
e
s
l
aude,
,Ja
pane
s
ePo
e
t
r
y,Bas
h6 and t
he Japane
s
e Po
e
t
i
c
alEpi
g
r
am,
(
3
0) chambe
r
l
ai
n,B.H.
Lo
ndo
n,1
91
0,p.1
67
(
31
) Mo
r
ae
s
,We
nc
e
s
l
aude,
0"
BoaOdo
T
・
i
"e
m Tokus
hi
ma,Po
r
t
o
,1
91
6,p.1
58
T
・
6
e
snoJa
pao
,Li
s
bo
a,1
9
7
3年版,p.
98
(
3
2) I
de
m,OsSe
・
t
aSdoJa
pao
,22deDe
z
e
mbr
ode1
904,Po
r
t
o,1
905
(
3
3) I
de
m,CaT
(
3
4) 本名,大谷正信 (
1
87
5
-1
9
3
3)
。松江中学,東大でのハーンの教え子。
(
35) He
am,Laf
c
adi
o
,Ex
ot
i
c
sandRe
t
T
・
o
S
Pe
C
t
i
u
e
s
,Fr
o
gs
,To
kyo,1
971
,p.1
64
T
・
6
e
snoJa
pao
,Li
s
bo
a,1
973,p.
98
(
3
6) Mo
r
ae
s
,We
nc
e
s
l
aude,OsSe
L
'
i
n
gs
,Se
mi
,To
kyo,1
9
71
年版,p.
91
(
37
) He
ar
n,La
f
c
adi
o,Shadoz
(
3
8) I
de
m,
(
3
9) Mo
r
aes
,We
nc
es
l
aude,CaT
・
t
aSdoJa
pao
,30deOut
ubr
ode1
906,Po
r
t
o,1
907
Re
l
anc
edaAl
maJa
po
ne
s
a,L
is
bo
a,1
973,p.1
06
(
4
0) I
de
m,
T
・
6
e
snoJa
pdo
,mo
mi
j
i
,Li
s
bo
a,1
97
3,pp.
24-25
(
41
) I
de
m,OsSe
Re
l
anc
edaAl
maJa
pone
s
a,Li
s
bo
a,1
973,p.1
85
(
4
2) I
de
m,
(
4
3) 本名,大野豊太 (
1
87
2
-1
91
3)
。熊本生まれの医師,俳人。
(
4
4) Mo
r
ae
s
,We
nc
e
s
l
aude,
Re
l
anc
edaAl
maJa
po
ne
s
a,Li
s
bo
a,1
973,p.1
88
ot
i
c
sandRe
t
r
o
s
pe
c
t
i
u
e
s
,To
kyo,1
971
,p.1
64
(
45) He
ar
n,Laf
c
adi
o,Ex
,Thi
ngsJa
pane
s
e
,Lo
ndo
n,1
898,p.
330
(
46) Chambe
r
l
ai
n,B.H.
(
47) I
de
m.
(
4
8) Mo
r
ae
s
,We
nc
es
l
aude,
Re
l
anc
edaAl
maJa
pone
s
a,Li
s
bo
a,1
973,p.1
84
(
49) Ke
e
ne,Do
nal
do
,Ja
pane
s
eLi
t
e
T
・
at
uT
・
e
,Lo
ndo
n,1
953,p.39
l
anc
edaAl
maJa
pone
s
a,
(
5
0) Jane
i
r
a,Ar
mandoMar
t
i
ns
,Pr
6
l
o
godas
e
g
n dae
u
di
9
aodeRe
Li
s
boa,1973.
(
51
) Co
uc
houd,Paul
Lo
ui
s
,Sa
gee
tPo
∼
t
e
sD'
As
i
e
,Par
is
,1
91
6.
(
5
2) Pe
i
xo
t
e
,
Af
r
ani
o
,TT
・
OU
aSPo
pul
ar
e
sBT
・
aS
i
l
e
i
T
・
aS
,Ri
odeJane
i
r
o
,1
91
9.
6
9
モ ラエス とハ イカイ
(
5
3) 「
朝 日新聞」
,虚子俳話 ,1
9
5
7年 7月2
8日付。
(
5
4) Mo
r
ae
s
,We
nc
e
s
l
aude,
6yo
n
deKO
Ha
r
u
,Se
mc
he
i
r
o,Po
r
t
o
,1
923,p.1
72
なお,モ ラエスの原文 は現代 のポル トガル語 で表記 し,明か に誤植 と思 われる ものは筆者が訂正 を
加 えたO また,原句 については,わか る限 り筆者が作者名 を記 し,ハ イカイについての疑問点 は,
天理市在住 の俳人青木健次郎氏 にご教示 を仰 いだ。
主 な参考文献
高浜虚子 『
俳句への道』,岩波新書 ,1
9
5
5。
秋元不二男 『
俳句入門』,角川選書 ,1
97 1 0
佐藤和夫 『
菜の花 は移植 で きるか
比較文学的俳句論』,桜楓社 ,1
9
7
80
外 山滋比古 『
省略の文学』,中央公論社,1
9
7
90
佐藤和夫 『
海 を越 えた俳句』,丸善 ライブラ リー,1
9
91
O
Wences
l
audeMoraeseHai
ka
i - af
or
nadet
radu9孟Oeaprat
i
caAki
r
a Fukaz
a
wa
At
ual
me
nt
e
, hai
ka
i
, uma pe
que
na po
e
s
i
a c
o
m m6
t
iC
r
a e mo
l
de
so
ie
r
nt
ai
s
, 6 be
m
i
nt
e
r
nac
i
o
nal
i
z
adoedi
f
undi
doe
m var
iasl
i
ng
uase
s
t
r
a
nge
l
r
aSnOmundo.0i
ni
c
i
odadi
f
us
aode
hai
kai6de
vi
doat
r
a
du申of
e
i
t
ape
l
o
si
nve
s
t
i
gado
r
esquevi
s
i
t
ar
am oJapaonaEr
aMe
i
j
i
.
Um do
si
nve
s
t
i
gado
r
e
smai
sde
s
t
ac
ado
s6 We
nc
e
s
l
au de Mo
r
ae
s
,di
pl
o
mat
a po
r
t
ugue
se
t
amb6
me
s
c
r
i
t
o
rquepo
rme
i
odet
r
adu与
良
Oa
pr
e
s
e
nt
o
uhai
kaiao
sl
e
i
t
o
r
e
sdos
e
upai
s
.
Mo
r
ae
sf
e
zumat
e
nt
at
i
vaapr
o
xi
madadet
r
adug
えoe
m pr
o
s
a,ut
i
l
i
z
andoc
o
mor
e
f
e
r
昌
nc
i
aade
Laf
c
adi
oHe
ar
n e B.H.Chambe
r
l
ai
n et
amb6
m at
r
adu申oe
m ve
r
s
ope
l
aquadr
a po
pul
ar
po
r
t
ug
ue
s
ae
m quat
r
ol
i
nhas
. Mag
,a s
un t
e
nt
at
i
va em ve
r
s
ot
e
r
mi
no
ue
m f
r
ac
as
s
o pe
l
a
di
f
e
r
e
n9
adee
s
t
i
l
om6
t
ic
r
oepo
6
t
i
c
o
,a1
6
m def
al
t
amai
spr
o
f
undadec
onhe
c
i
me
nt
oei
nf
o
r
ma与
良o
s
o
b
r
ehai
kai
.
Me
s
mos
e
m8
Ⅹi
t
o,as
uaf
aぢ
anhame
it
r
6
ia6,pe
r
l
apnme
i
r
ave
g
,t
e
rt
r
ns
a
mi
t
i
dopo
rme
i
ode
l
i
t
e
r
at
ur
a,amani
f
e
s
t
a申odes
e
ns
i
bi
l
i
dadee
mo
t
i
vadaa
l
maJ
aPO
ne
S
aaO
Sl
e
i
t
o
r
e
spo
r
t
ug
ue
s
e
s
.E
opr
6
pr
i
o Mo
r
ae
s
,f
o
ium do
sr
ar
i
s
s
i
mo
se
s
c
it
r
o
r
e
so
c
i
de
nt
ai
s que t
i
nha uma e
s
s
6
nc
i
a de
e
l
e
ganc
i
apo
6
t
i
c
ae
m ha
i
kai
.