KOJ001001

民俗伝承からみた 古
一一岐阜県大野町野古墳 群 周辺の事例から
失政
党洋
1. はじめに一一古墳と 塚の近年の研究
古墳は、 これまで主に 考古学の研究対象であ ったが、 近年、 それを民俗学的に 捉える試みが、
見られるようになった。 本稿は、 古墳の民俗学的研究の 意義を踏まえて、 岐阜県大野町野古墳
群 とその周辺における 古墳と塚に関する 伝承を取り上げ、 地域社会の人々にとって、 古墳がど
のような存在であ ったのかを考察する。 野 古墳 群は 「十姉塚」と 呼ばれていることから、 とく
に民俗学の十姉塚の 研究を参照しながらみていくことにしたい。
民俗学における 古墳の研究に 関して、 柳田圃男は「民俗学上に 於ける塚の価値」で
次のよう
に 述べている。 「古墳が何の 鴬に築かれたかが 忘れられてしまった 場合に 、 新しい上を封じて 塚
を作る よ りは簡便であ るが故に、 古墳を宛も天然の 小山の如くに 見、 其 頂を祭壇に使ふのは、
極めて自然なことであ る」柳田 1969)。 これは、 古墳が後世に 祭壇として再利用されることを
指摘したものであ る。 また現在、
P 日本民俗学大辞典』によると、
民俗学における 塚は、 「上や
石、 あ るいは木の枝を 人工的に積み 上げたり、 盛った信仰的構築物の 総称」と定義されており
「土盛りされた
祭壇」が 塚 ということになる。 これに柳田の 指摘を重ね合わせると、 古墳は、
民俗学における 塚 として扱うことが 可能だということになる。
十三塚に関する 研究は、 柳田圃 男 の一連の研究から 始まり、 1948年の柳田圃 男
・
堀 一郎によ
るⅡ十三塚 考 』以覚、 まとまった研究はみられなかった。 そのような状況で 研究を大きく 進め
たのが、 1984年、 85年の神奈川大学日本常民文化研究所に
よ
るⅡ十三塚 一 現況調査 編一 J H十三
塚一実測調査,考察編 』であ る。 n十三塚 一 現況調査 編一 』は、 『十姉塚 考』でまとめられた 資
料をもとに、 全国の十三塚に 関する実態調査の 結果を報告したものであ る。 伝説・名称の 分類
なども行なっており、 最も多い伝説は 戦死に関するもので、 砦 跡などとする 伝説もあ る。
これ以降も、 本稿の参考文献リストに 挙げているように、 塚
・
ト姉 塚の研究は数多くみられ
-
るが、 本稿がとくに 注目するのは、 古墳に対する 新たな民俗学的アプローチ、 つまり塚の一種
として古墳をとらえる 研究であ る。
まず1993年に、 小池 私 が「 星塚 伝説について
一 その機能と変遷をめぐって 一
」を発表し、 古
墳の名称が出土遺物の 黒曜石から連想された 例をあ げて、 これにまつわる 伝説を考察している
目、 池 1993)。 また、 1999年には大嶋 善孝が 「古墳にまつわる 伝説一大塚・ 火面 塚は ついて 一
」
を発表し、 古墳に火の雨が 降ったという 大南伝説が、 古墳の横穴式石室から 生み出されたとし
ている (大嶋 1999)。 同じ年、 山泰幸が 崇 りの " ビオ ト一プ" 都市空間における 古墳をめぐっ
「
て」で、 共同体における 古墳の機能を 論じた (山 1999)。 山によると、 古墳は霊魂などを 連想さ
せる魔術的空間であ り、 同時に人々を 結ぶ聖なる空間であ ったという。 さらに同年、 桜井隼也
が 「伝説の生成・ 補強と縄文土器
一 近世庶民の遺物認識の
一側面 一 」で、 出土遺物と伝説を 対
比するという 試みを行なった (桜井 1999)。 桜井によると、 出土遺物に関わる 伝説から、 民衆の
遺物 観 がうかがえるという。
また歴史学では、 2000 年、 外地界 が 『天皇陵の近代史 コで 陵墓の崇りを 扱った (外油 2000)。
一
l
一
外油 によ ると、 近世では陵墓は「聖地」として 庶民生活から 隔離された空間ではなく、 犯せば
崇 りをもたらす 存在として地域で 一定の機能を 有していたという。
この ょ うに 1990 年代の終わりごろから、 上記で紹介したような、 古墳を塚の一種と 捉え、 地
域社会における 意味を探るという 民俗学的な研究がみられるようになった。
しかしその数はま
だわずかであ ることから、 筆者は、 そこに今後の 研究の余地が 広く残されていると 考え、 調査
を始めることにした。
1. 岐阜県揖斐郡谷汲村名礼の 十三塚
本章では、 岐阜県揖斐郡谷汲村の 十三塚に関する 現地調査に基づき、 成果の報告と 考察を行
なう。 この十三塚は、 柳田圃 男 堀 一郎の『十姉塚 考 』でも扱われており、 現在でも信仰の 対
・
象となっていることが 判明したからであ る。
1. 文献にみる十三塚
岐阜県揖斐郡谷汲村は、 岐阜県の北西に 位置する。 西国三十三番の 華厳寺があ る 村 としても
知られ、 大野町から参りに 来る人も多かったという。 谷汲村の十三塚は『十姉塚
一 現況調査 編
一山で「主要な 十三塚」と位置づけられ、 次のように記述されている。
① [所在地 ] 所在地岐阜県揖斐郡谷汲村大字名札
考 』には「十姉塚」と 記載 ) ③ [保存状、滅 5
一
②略称 ] 十三塚古戦場 (『十姉塚
6 基保存 ( もと 1Q基か ) 。 昭和 9A年から入
植が始まり、 開墾された。 ④ [配列 ] 南北一列に並ぶ。 大塚 1 基のほかは小塚であ る (直
径 2m 、 高さ lm) 。 ⑤ [形態・伝承な 団天文 8 年行 539K、 揖斐 町 の 城合 山城主揖斐五郎
光近 と国枝本郷城主が 囲碁をしていたが、 光通が優勢であ ったのを側に いた 清水城主稲葉
一徹が入れ智志したため、 本郷城主が勝ちを 得た。 これを恨んで 翌 9 年弥生、 本郷城主が
谷 汲出 に参詣した折り、 当地十姉塚に 待ち伏せして 討ち取り、 意趣をはらした。 十三塚は、
本郷城主のほか、 家来 13名の墓として 葬った塚であ ると伝えられる (以下略 ) 神奈川大学
( 日本常民文化研究所 t984)
この十三塚の 所在地の環境・
保存状況・配列について、 『谷汲村吏 J (谷汲村 1977) と『谷汲
村「名札」を 語る』 (平川l1985) に、 詳細な報告があ る。 以下にその一部を 紹介する。
牧野の十姉塚
名礼の丸山の 東 m 麓 、 谷汲 中学校裏 の徳横手牧野にあ る塚を十三塚と 呼
んでいる。 中学校の講堂と 校舎との間にも 以前は 3 基あ った。 大正 13年は 924) 小川栄一
が揖斐郡志を 書くころは 8 つの塚があ り、 谷汲旧 街道に沿って 一直線に並んでいたく 谷汲
W1977)0
現在 谷汲 中学校の在る 丸山集落付近は、 40 年前まで一面の 竹藪で狐や狸が 横行する淋し
い 所であ った。 昔はその中を 巡礼街道が谷波止へ 通じており、 その道に沿って 両側に点々
と
塚があ った (平川 t985) 。
またこの十三塚には、 『十姉塚一 現況調査 編一 』で紹介された 由来以外にも 類似した伝説があ
る。 P谷汲村史上には、 以下の記述が 見られる。
この十三塚は 天文 17年 (1548H1 月 晦日から翌月 4 日までつづいた 織田信秀と長瀬城主鷹
司改元・光政の 会戦に敗死した 人々を葬ったものであ るという。 鷹司勢は加瀬の 国枝 氏 と
共に全滅した。 鷹司 放 光を始め幹部は 枕を並べて討死にした。 主将と重臣合わせて 13人を
13塚に公葬したのが 十三塚であ るという。 そのお人を夫々姓名を 明らかにしているが、 し
かし、 十三塚は民俗であ って討死を悼んだ 人々が十姉回忌に 供養した跡であ るとするのが
妥当であ る。
美濃 国 諸旧記は十三塚について 異説を伝えている。 土岐 頼芸 の 弟 、 揖斐五郎党就は 揖斐
城主であ ったが、 碁会の席上、 池田本郷城主国枝大和守正則と 勝負に就いて 口論した。 仲
裁したのが稲葉長 通 であ る。 その場はおさまったが、 実は揖斐五郎の 主張が正しいのを 稲
葉長道 が娘婿の国枝大和守に 最肩して仲裁した 為 、 揖斐五郎は遺恨に 思った。 天正 6 年 8
月 18 日、 国枝大和守が 谷 汲 参詣に僅かな 主従で本郷城を 発ったと知ると、 好機として揖斐
五郎は名礼の 広野に兵を伏せておき、 揖斐城の裏 手で待受け、 名乗りをあ げて斬 込んだ。
正面と斬り結んで い る処を伏兵に 背後から襲われ 国枝方は全滅した。 その氏名は (中略 )14
人 となっている。 主将を除けば 比八 であ る。 美濃 国 諸旧記は「本郷勢の 十三の輩、 その 死
骸を取集め名札・
結城村の辺りの 土中に埋め、 十三 ケ 所にて葬りける。 その形、 今に相 残
りて、 谷汲 道の傍らなる 十三塚という 是 なり。」と結んでいる。 話は更に続く。 国枝大和守
の 舅であ る清水城主稲葉長通は 揖斐五郎を油断させ 翌年元旦急襲して 揖斐城を攻略した。
五郎は城から 逃れて大垣へ 走った。
さて 14人で十姉塚というのは 牧野合戦の場合も 同様で、 鷹司勢は主将改元以下 10 人 、 加
瀬の国枝勢は 4 人、 計 14.人が幹部であ る (谷汲村 1977)0
また、 『美濃明細記
コ
には、 以下の記述があ る。
西 美濃にて信長に 不従者十姉人、 谷汲 開帳 に能見物に集り、 真仮りに 祐 向山城主長井藤九郎
討 取り、 首を岐阜へ送り 骸を埋むと云云。 又或説に 、 小島 庄 岡村の堀将監 宅 にて土岐五郎 と國
枝 大和と碁の口論にて 國 枝を討っ、 土岐は谷汲の 方へ退けるを、 国枝一類 追駈け 相戦ひ 、 闘技
方 十三人討死の 塚なりと云云。 文哉 説に 、 信長の頃 、 公卿の牧村 ゴヒ 方の不破、 本郷の國 枝 一類
戦死の骸を埋むと 云云。 文致 説 に天正垣 國 枝 大和、 同四郎左衛門、 老回書左衛門など 云ふ 者の
塚 の 由 、 不分明 (大衆書房 1969)0
2. 十三塚の伝承一一現地調査の 成果より
十三塚の所在地であ る合級中学校付近は、 現在、 住宅地となっている。 中学校から、 現在の
国道沿いに北へ 向かうと天理教外教会があ り、 この敷地内に 十三塚 碑 (写真 1) が建立されて
一
3一
いた。 石碑には、 表
に「十姉塚玄雲」と
あ り、 裏 にも銘文が
あ るようだったが、
判読不能であ った。
以下、 筆者が 2004 年
9 月に行なった、 現
地の方々の聞き 取り
から得た情報をあ げ
てみたい。
事例 i
十三塚の伝
説について
十三塚のいわれ
(写真 i)
谷汲村の十三塚 碑
は 、 昔、 丸山城の城
主と池田藩の 城主
が 囲碁の勝負をしたときに、 負けた丸山城の 城主が、 池田藩の藩主を 十三塚のあ たりで待ち伏
せして、 家来もろとも 殺してしまったのを 埋めたのが、 十三塚であ るらしい。 <M.I氏 (40歳 男
事例 2
石碑の由来について
塚を動かしたり 壊したりすると、 怪我人がでたりしたので、 坊主を呼んで、 塚に眠っている
霊を今の「十姉塚 霊 」碑に集めて、 供養するということをした。
事例 3
十三塚に関連した 行事について
今でも 2 月旧日に ツカ クョ ウ といって、 坊主を呼んで 供養している。 そういうこと
があ って、 今も供養している。
事例 4
( 同上 )
(事例 2)
く
同上 )
十三塚を信仰していた 人について
この話は、 もう亡くなられた 方だが、 G.M さんという毎日十三塚に 参っていた方から 聞いた
ものだ。
事例 5
( 同上 )
十三塚の現況について
公教会の裏 にあ る栗の木の下にも、 十三塚のうちの 一つが残っている。 また、 外教会の南の
家の庭にも、 塚があ ったように思う。
( 同上 )
外教会の裏 にあ るという塚は 確認できたが、 南にあ るという塚については、 それらしいもの
しか確認できなかった。 また、 事例 1 は次に紹介する M 氏からも確認できた。
一4一
事例 6
十三塚の旧 状は ついて
昔、 十三塚があ ったあ たりはうっそうとした 松林で、 そのなかに塚が 一直線に並んでいるの
を見たことがあ る。 そのなかに、 一つ大きなものがあ ったことも覚えている。
(I.M氏 (80歳男性 )>
事例 7
十三塚の崇りほついて
昔、 中学校やその 周囲の新しい 住宅地ができたときに、 塚を敷地にもっている 家の息子が夜
にうなされるということがあ って、 その後、 耕運機に片足を 挟まれて、 切断してしまったとい
うことがあ った。 そんなことがあ って、 十三塚を供養するようになったと 思う。
( 同上>
3. 考察一一集落と 御霊信仰
十三塚の伝説は、 文献で得られた 情報と聞き取りからの 情報を比較すると、 固有名詞などに
遠いがみられた。 しかし、 「殺害された 者を埋めた」という
点は同じで、 設定された年代もほぼ
同一であ る。 堀 一郎は『十姉塚 考団 で固有名詞や 年代などの要素が、 何者かが殺害されて 埋め
られたことを 合理的に説明するための 設定であ るとしたが (堀 1982)、 本伝承もその
してよい。 また、 囲碁怨恨伝説のなかに「揖斐五郎」という
ょ
うに解釈
名前が登場することに 注目したい。
柳田の「 セ塚考 」に よ れば、 この「五月ほ」という 名前は「御霊」を 言い換えたものであ る (柳
田 1969) という。 したがって、 囲碁怨恨伝説と 戦死伝説との 根底にあ るものが、 御霊信仰であ
るとしてよいだろう。
次に、十三塚をとりまく 環境から、 信仰の背景を 考えたい。 十三塚は 谷汲村「名札」を 語る』
ロ
(平川 1985) や事例 6 からわかるように、 旧 街道に沿った、 狐狸が出没するような 藪に存在し
ていた。 つまり、 人々が居住している 集落から離れていた 場所といえる。 堀 一郎が指摘したよ
うに、 十三塚は御霊信仰と 養の神を結合させる 働きがあ ったことから、 この御霊信仰が 成立、
持続した環境は、 同時に境界として 機能したと考えられる。 そして、 この点から、 客礼の十姉
塚は養の神的な 性格を有していたと 考えられる。 このように、 十三塚の信仰が 成立、 持続する
背景には、 集落からの距離という 問題があ ると考えられる。
Ⅲ.岐阜県揖斐郡大野町野の塚と古墳
1. 大野町の 野 古墳 群は ついて
野古墳 群は 、 大野町大宇野の 西側に広がる 平坦な田園部に 、 北には野地区から 谷汲村へと抜
ける坤道が通る m と、 南方の三水川に 挟まれて、 集落の西側に 存在している。 大小様々な古墳
が存在しているが (図 1) 、 いずれの古墳の 周辺も戦後の 圃場整備に
よ
り田畑や果樹園へと
完全
に 整備され、 かつての地形をうかがい 知ることは出来なくなっている。 この整備により、 現存
する古墳の墳丘以覚の 地形は全く残されていない。
この古墳 群は 、 冒頭でも記したように「野村十姉塚」と
呼ばれる (図 2) 。 しかしながら、
『十姉塚若コ『十姉塚 一 現況調査 編一 』ともに、 野古墳 群 が十三塚であ るとの報告はない。 この
一 5一
十三塚という 表現に関しては、
『野村村高ま
ロ
に収録されている 文政 6 年 (1823)の # 野村十三勝
記 』が最古のものであ る。
(前略 ) 十三塚は所謂 る 石塚山、 藤垣 出 、 桧山、 藻草山、 奥山、 不動 塚 、 茶白山、 華表山、
関山、 国議 山 、 登越山、 手神山詩合せて 十三の大小の 檜山 地 、 中でも石塚山の 古墳は人皇
五十九代宇多天皇の 陵にして内に 石棺を埋む m 彫櫛車の形をなす、 某 余の山々は異形にし
て是 普天皇上下の 随 臣 の 墓陸 なり 其他 御講 は詳 かならずとも 言へども石塚山は 勿論 其 会ロ
の 塚も神鬼あ りて柳も掘 葬 する時は崇りあ り故に里人畏敬して 少しも崩さず、 右の御威光
のためや四時朝夕の 雰次々に山形を 隠すによりて 十三塚のタ霧 と烏す (後藤 1959)0
ここから、 以下の 3 点が確認できる。 すな ね ち、 ①野地区では 十三塚という 表現は少なくと
由江戸時代には 成立していたこと、 ②十三塚それぞれに 固有名詞が与えられていたこと、 ③ 崇
りをもたらす 塚があ ったこと、 であ る。
2. 好古墳 群 に関する伝承
一現地調査の成果より
次に野古墳 群は ついて、 2004 年 9 月に行なった 現地調査の結果を 項目にわけて 報告する。 な
お 一部、 2003 年 f2 月の調査成果を 含んでおり、 それらについては 各事例にて明記した。
a. 地鎮祭について
神主を務めておられる 所 典夫 氏 (76歳 ) によると、 野 古墳群を発掘するにあ たって、 これま
で合計 4 度の地鎮祭が 実施されたという。 不動 塚 古墳で過去に 1 回、 城塚 古墳 とモ タレ古墳で
1 回ずっ、 近年では 2004 年の天理大学考古学実習に 際して、 不動 塚 古墳にて実施された。 地鎮
祭では、 氏神や古墳に 眠る霊を降ろして、 神 撰を供え祝詞を 奏上する。 そして、 対象地の四隅
と中央に御幣を 立て、 酒などで清める。 使用された御幣は、 しばらくの間そのまま 立ててお い
て 左義長で燃やすとい
b. 野 古墳 群 に対する認識
事例 9
古墳に対する 信仰
昔、 古墳のまわりは 田や畑 だったが墳丘は 木がたくさんあ って入ってはいけなかった。 また、
田を耕作するときは 古墳を拝んでから 始めた。
(T.M 氏批正 8 年生男性 ) .W.I 氏 (昭和 3 年生男性 ) .K.M 氏 (昭和 11 早生男性 ))
G, 不動 塚古墳。瓢塚古墳 (藍屋敷古墳 ) について
不動 塚 古墳の伝説は 野地区のなかでは 最も特徴的で、1959 年の『野村 付 言志』にも取り上げられ
ている。
此の不動 堂は 、 元大平 m の 北 柚木 洞 にあ りしが寛文年中水無月の 項、 大雨降り 緩 き山河
一統大洪水の 時、 堂宇と共に流れて 南 なる、 此 星出口の地十姉塚の 内の一つの北進流来り
一 6一
か 、 れり故に 其 塚の上に安置せるなり、 其 れより 是 古墳を村人呼びて 不動 塚と租 せり、 其
丈後天和姉年に 至り清浄の地を 撰 び今の瓢塚の上に 移せり、 それより六年の 後堂宇再建し
庫裡をたて 奄寺 となす時は元 祓 _ 年八月 也 、 此 不動尊像は運慶の 正作 なりとて、 霊験 斬 ら
たかにして重病を 治せしめ 其外諸ろ もろ願い事を 満足せしめ給ひ 里人の信仰する 所也 、 堂
は巽 向 なり 此地 自然の勝地にして 坐 乍らにして池田養老連山は 元より伊勢地道
も
一望の内
にあ り、 秋の頃 待月 十六夜は月影の 山 端 に人るを惜しむ 月見の名所 也 。 影法師ほかせる 迄
や (後藤 1959)0
また、 この不動 尊 漂着伝説は、 I.G氏 (明治A.4年 生男性 ) からも確認できた。 一方、 不動 塚古
墳 では、 不動尊を安置した 痕跡を見つけることはできなかった。
なお、 現在、 瓢塚古墳の上に
築かれた堂は 不動 院 と呼ばれている。
d. 登越 古墳について
登越 古墳は、 野古墳 群 に属する古墳としては 最も大きいが、 伝承などは採集できなかった。
古墳名は、 考古学では「ノボリコシ」と 記載されている。 しかし、 今回の調査で 話者は「ノボ
リコエ 」と発音していることから、 「ノボリ コエ 」が正しい読みであ ろう
e.
モ タレ古墳について
モ タン古墳は、 名称の由来が 不明なことで 知られている。 詳しい報告は、 後述する。
f、 城塚 (南 出口 ) 古墳について
この古墳について、 『岐阜懸 史蹟名勝天然組合物調査報告書』 (岐阜 懸 学務部 1928) に、 此古
「
横主に就いての 博説 なし、 古来 南 出口双方後圃 墳 上に 拉び 露出する大石上へは 草韓 穿いて上る
可からずと 云ひ博 へ、 里人常に崇敬し 来れり」と記されている。 またに野村付言 ま 団には、 城塚
「
岳は姉水川の 流の左にあ る古墳にして 城塞の跡なり、 往古新田と足利の 合戦の刻野村常陸 介の
軍 此の塞に楯籠り 数ケ月 対陣の内、 足利軍勢不意に 神寄せて一戦に 踏崩され、 皐月二十日夜の
挽討死す、 其 後より 北 辺りに 蛍 沢山集まり合戦すとかや、 城塞の戦 蛍と補 し今も卯月の 末頃 よ
蛍 出で始め盛りともなれば 塚の廻りを飛び 交ひて見もの 也 。 蛍 とふや古城の 森に映るまで」
り
(後藤 i959) とあ る。
これらの記述から、 城塚 古墳に関して 以下の 3 点の特徴があ げられる。 ①十三塚の伝説とし
ては典型的な 古戦場 跡 であ る、 ②草履を履いて 登ってはならないという 禁忌があ る、 ③村人か
ら
崇敬されていた。 また、 以下の伝承を 採取することもできた。
事例 1
丁
城塚の蛍火について
蛍火の話は 、 小さい頃 に聞いたことがあ る。
事例 12
(M.G 氏 (大正 6 年生女性 ))
城塚の狐について
昔、 夜道を歩いていると 狐を見たことがあ る。 今でもいるかもしれない。
(同上 )
昔、 城塚 のあ たりには狐がいた。 道を通っているときに、 狐が尾を振ると 進行方向を迷わさ
れて、 化かされたという」
(T.M 氏 (大正 8 年生男性 ) .W.K 氏 (昭和 3 年生男性 ) . K.M 氏 (昭和 11年生男性 ))
事例 腱 昔の城 塚 周辺について
50 一 6c@年前は、 竹藪だった。
く
M.G 氏 (大正 6 年生女性 ))
9. 外地 (南 屋敷 西 ) 古墳
事例 14
古墳に対する 認識
古墳とは言わずに、 外地の 塚 といった。
(I.G氏 (明治 44年生男性 )> (2003年 12 月実施の調査より )
事例 15
古墳周辺の古環境
古墳の周りは、 オヤ シキヤブ という藪が覆っていた。 任G 氏 (明治 AA早生男性 ))
(同上 ) (2003年桟戸実施の 調査より )
川 があ って池があ った。
事例 t6 オヤシキヤブ の怪異
その 藪 (オヤ シキヤブ ) を、 牛洞 (大宇野の西にあ る集落 ) に抜ける道があ ったが、 そこに
ツル ベ オトシが出る。
(2004/9ハ 0 T.M 氏 (大正 8 年生男性 ) , W.K 氏 (昭和 3 年生男性 ) . K.M 氏 (昭和Ⅱ早生男性 ))
h. 石塚古墳について
この古墳は、 現在消滅してしまっている。 宇多天皇陵であ るという伝承も 採取できなかった。
しかし、 野の人々が土などを 利用していたことは 確認できた。 また、 石塚らしき古墳の 情報は
採取できた。
事例 17
利用されていた 石塚古墳
(古墳を ) 石塚と呼んでいた。 低 い 小さな古墳があ ったが、 道 直しのときに 泥をとった。
く
T.M 氏 (大正 14 年生男性 ))
事例 18 石塚らしき古墳
城 塚から西の、 今の柿 畑 のまん中に小さな 古墳があ った。 砂利がたくさんあ った。
<M.G 氏 (大正 6 年生女性 け
3. 考察
塚 と立地
野地区では、 地鎮祭に象徴される
よ
うに一般的な 古墳に対する 敬意や畏れの 気持ちがうかが
える。 しかし、 そのような態度も 強く表れる場合と、 あ まり表れない 場合があ る。 この点を古
墳の立地条件という 点から考察してみたい。
一
8一
a.
名称と立地条件の 関係から
まず、 野 古墳群を十三塚としてみてみると、
それぞれの塚に 固有名称が与えられていること
が注目される。 このような事例は、 十三塚のなかでも 稀有であ る。 『野村村 富ま』は13の名称を記
述 しているが、 それがどの古墳に 対応しているかは、 不動 塚 、 登 越 、 石塚古墳以外不明であ る。
また、 藻草山がその 発音上モタン 古墳に対応しているようにも 解釈できるが、 これは強引な 説
であ る。 そこで、 この モ タレ古墳の名称の 由来について、 野地区に「 モ タ ン」という言葉があ
るという事例を 紹介したい。
事例 19
モ タ ン の語源について
神輿の担ぎ手の 親方の一 つ 下に位置する 人のことを モ タ ン と いっ。
く
T.M 氏 (大正 8 年生男性 ) .W.K 氏 (口細口 3 年生男性 ) .K.M 氏 (昭和 11早生男性 ))
同様のことを、 M.G 氏 (大正 6 年生女性 ) ,T.M 氏 (大正 t4年生男性 ) .K 田子 氏 (昭和 6 年
生女性 ) からも確認できた。 この事例から 考えると、 モ タン古墳の名称がつけられたのは 何ら
かの「親方」的なものが 近辺に存在していたからだと 思われる。 この観点から、 対応する巨大
な 存在を探すと、
南に野古墳 群 最大の古墳であ
る 登越 古墳を見つけられる。
したがってこの 名
称は、 登越 古墳が モ タレ古墳の「親方」に 相当する存在に 見えたからだと 考えられる。 もっと
も、 モ タ ン」はアイヌ語であ るとする俗説もあ るようだが、 アイヌ語で塚に 命名する必要性が
「
な い ことから 信想性 に乏しい。
一方、 登 越 古墳の名称の 由来は、 墳丘の形状と 周 濠が 原因になったと 考えられる。 まず、 登
越古墳付近を東から 西に移動する 際、 古墳を迂回するのではなく 墳丘を越えて 移動するほうが
便利であ る。 つまり、 古墳を「登って 越えた」から「 登越 」古墳
と
名づけられたとすることが
できる。 また、 Ⅰ発起」を「 野堀を越える」と 解釈することもできる。 賛 」について、
「
『地名用
語語源辞典』の「のぼり」の 項を参照すると、 「のぼり (登 、 昇、 野 堀コ (中略 ) ノ (野 ) . ボリ
(堀 ) で、 「野に掘られた 堀
」
か」と定義されている
(柿原・溝手 1983)。 つまり、 ここでいう
野堀は古墳の周 濠 であ る。 周 濠は明治時代には 消滅しているが、 それ以前に存在していた 可能
性はあ る。 したがって、 周濠が 消滅した後、 発音から「 野堀 」が「賛 」と表記されるようになっ
たのだろう。
外油古墳の名称の 由来は、 事例 15にあ る通り、 池があ ったからだと 考えられる。 また、 穆蒼
とした竹藪であ った環境が、 事例 16のようなツル ベ オトシの怪異を 発生させたと 考えられる。
石塚古墳の由来については、 これを宇多天皇陵とする 伝説は確認できなかった。 この古墳が
消滅した上、 伝承を検討する 確かな資料が 得られなかったので、 ここで考察することは 避ける。
以上の分析から 明らかになるのは、 古墳が隔離された 空間ではなく、 民衆の日常生活に 直結
して、 地域で一定の 機能を有していた
(外油 2000) ということであ る。 モ タレ古墳の名称は、
地形や配置が 野地区の伝統的役職を 連想させていた。 また、 登越 古墳はその周囲の 土地の利用
法が名称の由来となって、 庶民生活との 強い結びつきをうかがわせる。 さらに外油古墳の 名称
は、 周辺環境から 名付けられている。 集落から見た 池の位置関係が 反映している、 生活に根差
した古墳であ
るといえる。 つまり、 実生活の空間としての 集落に近い場所にあ る古墳は、 その
一 9一
名称に実用的な 性格が付与されるのだ る
b. 伝説と立地条件から
十三塚の伝説の 類型によくあ てはまるものは、 城塚 古墳の古戦場 跡伝説であ る。 この伝説の
成立について、 古墳の立地条件から 考えたい。 城塚 古墳は大宇野の 字境 であ る三水川に接して
いる。 川を背にした 立地から城砦 跡 と想像することは 容易であ る。 その一方で、 この三水月 lに
は以下のような 伝承があ る。
事例 20 三水川の,怪異
三水川にはオオマガ
リ
というところがあ って、そこへ泳ぎに 行くとカッパにさらわれるとⅤ ) つ" 。
(T.M 氏 (大正 8 年生男性 ) . W.K 氏 (昭和 3 年生男性 ) .K.M 氏 (昭和Ⅱ早生男性 ))
オオマガ リ の具体的な位置は 不明だが、 この事例から、 三水川は怪異が 出現するような 空間
であ ったことがわかる。 また、 事例 i4, 15 のように狐狸の 類が出現するような 藪があ り、 集落
から距離があ ることは、 前章でとり上げた 谷汲村の十三塚と 酷似している。 この古墳をめぐる
一連の伝承は 周辺の環境から 生成されたものとしてよいだろう。
次に、 野 古墳群の北方にあ る不動 塚 古墳の伝説について 考察する。 この不動尊は 大水で漂着
したという。 現在古墳の周辺に 氾濫を起こすような 河川はないが、 1967 年 7 月打日の『岐阜日
日新聞』の写真には 北方から不動 塚 古墳へと向かう 川が写されている。 これは、 伝説にもあ
っ
た 字 「柚木洞 」方面より流れてくる 川であ り、 しばしば氾濫を 起こしたという 記 ,憶を持つ人も
多 い 。 また、 柚木 洞 方面には山の 神が祭られている。 この m の神と川の関係と、 神仏の漂着と
いう点に関しては、 北見俊夫が『川の 文化』で上流から 神仏が漂着する 事例から、 川上を神聖
祖 する信仰があ ることを指摘している
(北見 1981)。 この点を考慮すれば、 柚木 洞は 、 住民に
とって聖域であ ったと位置づけられるのではないだろうか。
したがって、 この不動 尊 漂着伝説
は 、 地域の人々の 聖地についての 認識から発生したものであ ると考えられる。
Ⅳ.古墳と集落一一結びにかえて
以上の考察から、 野古墳群を概観してみると、 モ
タ
ン、 登越 、 外地、 石塚などの古墳は 田畑
の中に位置しており、 人々の実生活に 直結した古墳だとかえる。 集落からの距離も 近く、 これ
らの古墳には、
日常的、 実用的な名称と 性格が付与されたのであ ろう。 これに対して、 集落か
らの物理的精神的な 距離がもっとも 遠いのは 城塚 古墳であ った。 竹薮や河川に囲まれ、 集落の
境界に位置する 立地条件から、 人々は、 そこが霊魂や 御霊があ つまる空間 (山 1999) だと認識
したといえる。 その一方で、 同じような伝説を 持つ不動 塚 古墳は集落に 近い場所に位置してい
る。 しかし、 山から流れる 川が不動 塚 古墳に聖性を 持たせ、 それによって 人々はそこに 神霊の
存在を認識したと 言えるのではないだろうか。
これまでの考察から、 野地区においては、 集落に近く実生活の 要素を多く持つ 古墳と、 集落
から遠く非実生活的な 要因を多く持つ 古墳を区別する 傾向をみることができる。 そのなかには、
一 l0 一
集落のそばにあ りながら、 怪異的な性格を 付与された覚地古墳のような 例外もあ るが、 全体的
な傾向として 集落と古墳の 位置関係が古墳に 影響を与えていると 思われる。 そして集落との 多
様な関係から、 伝説や地名、 あ るいは地鎮祭や 古墳への敬意に 代表される、 一連の古墳をめぐ
る 文化が発展したといえる。
本稿では、 より詳細な古墳の 位置づけができなかったが、 ささやかながら、 民俗学における
古墳と塚の研究に 、 新たな視角を 提供できたのではないかと 思、う 。
謝辞
調査にあ たって 、 快く資料を貸してくださった 大野町教育委員会の 方々と、話を聞かせてくださった 方々
に、 この場を借りてお 礼申し上げます。 また本研究は、 平成 13 一 16 (2001-2004)
年度科学研究費補助金
(基盤研究 (B) (2) 研究課題「レーダ・ 電気探査 法 による古墳復元の 調査研究」 (課題番号 13480030) 研
: 天理大学文学部教授貴国雅昭の
究代表者
助成を受けました。 このほか、 執筆の過程で 協力してくれた 天
(2 回生 ) と年末売手 (1 回生 ) さん、 また卒論の段階から 本誌掲載に至るま
理大学文学部柿本雅美さん
で、 根気強くご指導いただ いた文学部考古学・ 民俗学研究室の 斉藤 純 先生と安井 真奈美先生に感謝いたし
ます。
(参考文献一覧 )
芦屋市立美術博物館
1993
「特別展 古墳と伝承 一 移りゆく "塚 " へのまなざし 一山
足立直次
1949
「美濃賀茂の十三塚」Ⅰ民間侍承 J 13- 8
池田 末則
1986
「大和国「十姉塚」私考」『奈良県吏 第 ¥2 巻 民俗 (上 ) 一大和の伝承文化
伊丹市 史編纂 室
1972
『伊弛史話』伊弛市役所
揖斐郡教育委員会
1924
『揖斐郡誌 0
1992
「ふるさとの地名Ⅱ
1998
「
ぃび郡の地名山
今井善一郎
1950
「十姉塚資料」『民間
博承 J 14-
9
岩野滝野
1994
「塚に関する若干の考察」『静岡県民俗学会誌』 14
梅木舞雄
1959
「姉川村の塚をめぐって」『日本民俗学会報J g
大嶋 善孝
1994
「火の雨塚 のこと」 静岡県民俗学会報 J 44
1999
「古墳にまつわる伝説一人 塚 ,大雨塚は ついて 一 」『信濃』51-
ダ
一 ⅠⅠ 一
1
凹
大場 磐雄 、 八幡一郎、 内藤雅 垣 監修
1971
『新版考古学講座 第 8 巻 特論 a上刃 雄 m 閣 出版
大森京胡
1954
「十姉塚供養」『日本民俗学
d 2 - 1
神奈川大学日本常民文化研究所
1984
『十姉塚一現況調査 編一J W神奈川l大学日本常民文
1985
『十姉塚一実測調査・考察 編一0 ㎝ 奈月l大学日本常民文化研究所調査報告第 10 集)
ィヒ
研究所調査報告第
9
集)
川辺賢哉
1957
「おとめ塚について
1958
「おとめ塚について (二 )」『兵庫史筆コ比
『兵庫史串コ皿
川原崎次郎
1959
「十姉塚関係の地名について」『地名字研究
10 、 11 合併 号
コ
北見俊夫
1981
囲 lの文化 9 日本書籍
岐阜 懸 学務部
4928
m岐阜 懸 史蹟名勝天然 紀 金物調査報告書 d (第三回)
岐阜 懸 記録 課
1924
f大野郡名村 客 高利
桐原佑介、 溝手理太郎 編
1983
『地名用語語源辞典ョ東京堂出版
Ⅱ、地豆 ム
1993
「
星塚 伝説について 一 その機能と変遷をめぐって 一 」『昔話伝説研究J 17
後藤宏一編
1959
『野村ヰす
誌 $ 野村村吏編集委員会
桜井隼也
1999
「伝説の生成・補強と縄文土器 一 近世庶民の遺物認識の
ァ
メタ・アーケ オ ロジー J
-
側面一 」メタ
アーケ オ ロジー研究会編
l
佐野賢治
-
1976
「山中他界観俳の表出と虚空茂信仰 一 浄土観の歴史民俗学的
1983
「十姉塚と御霊信仰一 愛知県十姉塚研究」『愛知大学綜合郷土研究所紀要 J 28
1988
「十姉塚と十姉才ボ
1996
「山中他界観俳と虚空威信仰」『国立歴史博物館研究報告 J 68
比較民俗学上の 一視点」『日本民俗の伝統と創造山腔文 堂
外地界
2000
『天皇陵の近代史』(歴史文化ライブラリー 83) 吉川腔文館
大衆書房
1969
『美濃明細記・美濃雑事組合本ロ
谷汲村
1977
試論 一 」『日本民俗学 108
『谷汲村吏$
一
Ⅰ
2一
コ
中井正幸
「美濃の主要古墳一美濃・野古墳群と 後期古墳」春日井市教育委員会文化財 課編 第 nl 回 春日井シ
199.3
『
ンポジウム資料集』
中山柄 子
1glR
「十姉と云ふ数 」『郷土研究J3 - 1
箱 止貫太郎
Ⅰ
Ⅰ将軍塚と旗塚」Ⅱ日本民俗学 37
965
コ
平川 國男
r谷汲村「名子 口を語る」
1985
し
福田アジオ池編
r 日本民俗大辞典コ 下 吉川腔文館
2000
堀 一郎
f堀 一郎著作集コ 第 8 巻 未来社 柳田圃男 、 堀一郎『十姉塚 考コ (初出 1948
1982
三省堂)
都丸十九一
「十姉塚資W.」Ⅱ民間博承0 13-
1949
8
宮崎 進
「秋田の十姉塚考 」『日本民俗学会報コ杓
1963
柳田圃 男
1969
『定本柳田圃男 全集』第 12 巻 新装 版 筑摩書房
『赤子塚の話 (初出 1920
団
立文枕 )
「十姉塚」(初出 1910 f考古 界
』
「
塚と 森の話」 (初出 1912
「十姉塚の分布友 博 説
」
8 - Ⅱ
同年 12 月
ァ
m斯民 J 6 -10 、 Ⅱ、 12 、
榊出 1913 「考古学雑誌83
考古学雑誌 J1 - 4)
7 - 1、
-
銭
5)
「境に塚を築く風習」 (初出 1913 『郷土研究Ⅱ 一 3)
「
セ塚考
」
(初出 1915 『郷土研究J
「耳塚の由来に就 て
3 -
5)
(初出 1916 『郷土研究J
」
3
-11
「民俗学上に於ける塚の憤 値 (初出 1918 「中覚J
」
1999
『柳田圃男 全集コ第
1巻
『石神問答$ (初出 1910
2 -
8)
筑摩書房
聚精堂)
柳田園 男監修・日本放送協会編
i950
「日本伝説名彙コ 日本放送協会出版局
山泰幸
1999
「
崇 りの " ビオ ト一プ" 都市空間における 古墳をめぐって」 PBIO
一 13 一
一
GtyJ
l6
ビオ シティ
引
日
旧
け
年
明治
野村十三塚位置 図
『野村村誌 』口絵より
一 l4 一
図
群 ㏄
周綴
野
古墳
中
(
1井
図
図2
(後藤 1959J