﹁太田家流家庭教育﹂

台目︶
善意の贈り物
次の方からあたたかいご寄付をいた
だきました︵敬称略︶
車椅子1台︵通算
※︵ ︶内は1月からの累計
人身事故 件 ︵ 件︶
うち死亡 0件 ︵0件︶
救急 168件 ︵461件︶ 火災 2件 ︵4件︶
東かがわ市管内の事故などの発生件数
3月の事故などの件数
山本 文夫︵引田︶
34
よろず東かがわサテライト
知的財産・技術相談会
1350
経営相談、創業・企業支援、金融相談、販
路開拓・商品開発、支援機関、補助金活用、
ITデザイン分野に関する相談はありません
か?専門家による、無料相談会を実施します。
︵要予約︶
日時 5月 日︵火︶9時 分∼ 時
︵事前予約必要︶
場所 市役所3階第7相談室
︻問合先︼総務部商工観光課
﹁太田家流家庭教育﹂
30
昨 年 九 月 、 と ら ま る て ぶ く ろ 体 育 館 で 二、家庭と食事
﹁太 田 家 流 わ く わ く 子 育 て﹂と 題 し、フ ェ ン ご両親は、夫婦が力を合わせて家事など
シングオリンピックメダリストの太田雄貴 に取り組む姿を見せていたそうです。その
選手の母、太田妙美さんによる講演会が開 姿が、太田選手自身も自発的に家事をした
催 さ れ ま し た 。 講 演 の 中 で み な さ ん に も り、健康にも気を遣うことにつながりまし
知っていただきたい内容について、抜粋し た。また、家族みんなが何をする時も楽し
く過ごし、嬉しいことがあった時はみんな
てご紹介します。
でプチ祝いをしていたそうです。
一、経験と目標
ご両親は、子どもに多くの経験をさせる 食事面では、毎日太田選手のためにお弁
ことを大切にしていたそうです。太田選手 当を作っていました。ご両親にとっては少
は幼少期に、さまざまなスポーツに取り組 しも苦痛ではなく、むしろ楽しみであった
ん で い ま し た 。 水 泳 を や っ て い た 頃 は 、 そうです。子どもの強い体を作ってあげら
﹁こ こ ま で の 泳 ぎ が 達 成 で き た ら 水 泳 を や れるのは、食事を作る親だけということで
める﹂と約束を交わし、わずか数カ月で達成 す。
子どもと関わることができる時間は限ら
して、約束どおり水泳をやめたそうです。
さまざまなスポーツを経験し、最終的に れています。幼い頃のさまざまな経験は、
フ ェ ン シ ン グ の 道 を 歩 む こ と に な り ま し 生涯の宝になることでしょう。太田家のよ
た 。 太 田 家 が 大 事 に し て い る ﹁ 約 束 を 守 うに、親が積極的に体験させてあげること
る﹂ということを徹底し、フェンシングの が大切です。新学期が始まるのを機に、ス
世界でも有言実行でいくつもの記録を塗り ポーツ少年団に加入するなど新しいチャレ
かえました。大きな目標はもちろん必要で ンジをはじめてみませんか。
すが、具体的な目の前の小さな目標を立
て 、 少 し ず つ ハ ー ド ル を 上 げ て い く こ と ︻問合先︼市教委 生涯学習課
が、結果的に大きな目標に辿り着くことに
1238
つながったそうです。
11
第 回
母への孝行
∼
﹁母の日﹂
をき�かけに∼
55
歳余り︵当時は高齢者でした︶の母と二人
暮 ら し で し た 。 朝 、 重 さ 三 〇 貫 目︵約 一
一 二 キ ロ グ ラ ム︶の 薪 を 採 り 、 そ れ を 背
負ったまま家に帰り、母に﹁今帰りぬ
︵ただいま帰りました︶﹂といい、母がそ
の声を聞き目を覚まして﹁今帰りしか
表す﹁母の日﹂です。
母親の様子を見に帰宅していたそうで
の家で仕事をした後も、昼になると折々
薪を下ろしていました。また朝早く主人
起源は世界各国でさまざまあるようで
す。
こう し き
すが、5 月の第2 日曜を﹁母の日﹂の記
として取り上げられています。
明治時代になっても母親孝行が模範者
なら
年︵一九四九︶ごろから女性宣教師
明治元年︵一八六八︶の﹃引田村孝子奇
表彰された事例の書上提出を全国に求め
七 八 九︶に 老 中 松 平 定 信 が 善 行 者 と し て
江 戸 時 代 の 終 わ り ご ろ の 寛 政 元 年︵一
みましょう。
今回は江戸時代の母親への孝行をみて
す。
ンなどの物品を贈るのが一般的ですが、
る行いでした。母の日にはカーネーショ
このように親孝行というのは賞賛され
育していたことが挙げられています。
六 歳︶と い う 人 物 が 老 母 を よ く 気 遣 い 養
援 金 を 施 し た 者 ら と と も に 、 恒 三 郎︵三
録に、長年職業を勤めた者や難渋者に義
ぎ ぼく
た ち の 熱 心 な 働 き か け で 、﹁母 の 日 ﹂ が
特並ニ儀僕職業人別書出し帳﹄という記
て編集し享和元年︵一八〇一︶に発行され
常日ごろの思いやりも孝行になるのでは
かんこくこうぎろく
た ﹃ 官 刻 孝 義 録 ﹄ に 、 大 内 郡︵ほ ぼ 東 か
ないでしょうか。
これには与田山村に金右衛門という母
親孝行者が紹介されています。彼は五〇
︵文責 歴史民俗資料館︶
がわ︶の親孝行の記録があります。
とく
定着していくきっかけとなったそうで
昭和
念日としたアメリカに倣って、日本では
の母の苦労を労り、母への感謝を
いたわ
月の第2 日曜︵本年は8 日︶は日頃 ︵お帰りなさい︶﹂との返事を聞いてから
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