自主避難者を切り捨 てることは「正義」 を切り捨てること

自主避難者を切り捨
てることは「正義」
を切り捨てること
講師:中手聖一さん
講師:長谷川克己さん
2015 年 10 月 31 日(土)
(於)スペースたんぽぽ
頒価:250 円
核と被ばくをなくす世界社会フォーラム 2016
連続学習会第四回講演記録
ウェッブ http://www.nonukesocialforum.org
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司会の挨拶
こんにちは、今日の司会を務めます弁護士の柳原敏夫と申し
ます。原発事故後国がおかした最大の誤りの1つは事故後にす
ぐ子どもたちを国の責任で避難させなかったことにあります。
そう考えた郡山の小中学生14人が原告となって、2011年
6月に、郡山市を相手に自分たちを安全の場所に避難させよと
求める、いわゆるふくしま集団疎開裁判を起こしました。この
裁判は2012年5月に仙台高裁で判決が出て、結果は却下
だったのですが、内容は私たちの言い分を全面的に認め、「子
どもたちの命と健康には由々しい事態の進行が懸念される、被
ばくの危険を回避するためには、安全な他の地域に避難するし
か手段がない」と認めました。そこで引き続き、子どもたちを
国の責任で安全な場所に避難させよを求める第二次の裁判(名
称は子ども脱被ばく裁判)を起こしまして、国の責任を追及し
ています。本日の講演者の中手さんと長谷川さんはいずれもそ
の裁判の原告のお一人です。
「被爆者はどこにいても被爆者である」
こう言ったのは2002年の大阪高等裁判所の裁判官です。韓
国に住む広島・長崎の被爆者の人が被爆者援護法に基づく手当
の支給を求めた裁判(在外被爆者訴訟)で、これを認めた大阪
高裁の判決の中でこの言葉が引用されました。この真理が、そ
れまでの「日本国の領域を超えて居住地を移した被爆者には、
被爆者援護法の適用がない」という国の理屈を打ち破りました、
居住地によって被爆者の地位が変わるものでない、と。
「 普天間の原点は銃剣とブルドーザーで強制収容された場所だ
ということ」
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こう言った翁長沖縄県知事です。彼は、その原点から考えれば
沖縄の基地問題の正しい解決の方向は誰の目にも明らかだと訴
えています。
真理・原点は誰の目にも明らかな単純明快なものです。
福島原発事故も同様です。
「被ばく者は どこにいても被ばく者である」
「 福島の子どもたちの原点は、原発事故直後に国の責任で子ど
もたちを避難させなかったということにある」
この真理・原点から考えれば福島原発事故による被害者救済問
題の正しい解決の方向は誰の目にも明らかです。
この真理・原点に立ち返って、被ばくした人たちの命と健康
と生活を守ろうとする市民の市民による市民のための団体の1
つがこの度結成されました。それが今日の講演をする中手さん、
長谷川さんたちが作った「避難の権利」を求める全国避難者の
会です。その結成記念集会が2日前の11月29日、参議院議
員会館で開かれました。
今日は、この会の共同代表をつとめる中手聖一さんと事務局
長をつとめる長谷川克己さんに避難者の立場の過去、現在、未
来について、思いの丈を語っていただこうと思います。
私たちにとってもこの問題が決して他人事ではなく、私たち
と日本の未来につながるとても大事な問題であることを一緒に
考えていければと思っています。
では、最初、中手さんからお話いただければと思います。
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あきらめない、ぶれない、媚びない
──避難の権利運動をたたかう──
中手聖一さん*
皆さん今晩は。今紹介いただきました中手聖一です。私は福島県い
わき市に生まれ、高校を出るまでおりました。そのあとは福島市で30年
数年、障がい者団体で働き、被災当時はその団体の相談員と法人の
理事をやっていました。現在は、カミさんと子どもたち 2 人と 4 人で札
幌に移住し暮しています。札幌に行って半年は失業しましたが、いまは
避難者の仲間たちと障がい者を対象としたヘルパー事業所を立ち上
げ、おかげさまで3年目になりました。事業所スタッフ13名のうち9人が
避難者です。
一昨日、「『避難の権利』を求める全国避難者の会」が設立されまし
た。3年ほど前から、避難の権利の運動は長期戦になる、長い年月をか
けて権利として勝ち取っていかなければならないということを自覚しは
じめ、呼びかけをしてから会が結成されるまで3年かかりました。昨日か
ら公式ホームページもできて入会の手続きもはじまったところです。私
も電話での応対や問い合せの窓口になっておりまして、昨日からいろ
んな電話もかかってきます。さっそく今日、茨城県の、声の感じでは年
配と思われる方から、苦言(クレーム)の電話がはいりました。クレーム
は、これから私たちが何をやらなければならないのか、いろんなヒントを
与えてくれるので有り難いものと思っています。その方の主張は、「強
制避難の人たちは、強いられたわけだから補償を受けるべきだが、自
主避難はそうではないのではないか、自主避難は自己責任なのでは
ないか」ということでした。有り難い批判ですが、では本当に自己責任
と自助努力の問題にしていいのかどうか、今日の私の話を聞いてもら
*中手聖一さん
原発事故子ども・被災者支援法市民会議代表世話人。『避難の権利』を求める全国避難者
の会共同代表。福島から札幌に家族とともに避難。合同法人、うつくしまの代表社員
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い、皆さんにもしっかり考えていただきたいと思います。
これから原発事故から現在までを、三つに分けてお話したいと思い
ます。最初に、事故発生から約一年、私たちも参加して制定させた子ど
も被災者支援法という法律ができるまでのことを、「避難か居住か」と
いうテーマで話をさせていただきます。二番目に、「子ども被災者支援
法」ができて以降、自主避難者はどのような状況に置かれているのか
をお話します。最後に、「『避難の権利』を求める全国避難者の会」の
話をさせていただこうと思います。
第一部 避難か居住か
今日参加されている方のなかには、すでにご存知の方もおられるか
もしれませんが、事故から 4 年 7 ヶ月たって、もういちど思い起こして
いただくという意味もかねて、過去の話もさせていただこうと思います。
今回の事故がおこって、福島に限らず汚染地域で暮していた人たち
は、避難か居住かという選択を迫られる状況に置かれたわけですが、
その実情はまだまだ伝えきれてい
ないことが多くあります。
今見ていただいている新聞【右
図】は、福島で最も多く読まれてい
る『福島民報』です。かつては東京
電力が大株主だった新聞です。さ
すがに直接株主は憚られるのか
今は変わりましたが、東電とのか
かわりが今でもある新聞です。これ
は地震の翌日、12 日の記事です。
当日は地震で配達されず私も後
日見たのですが、ご覧のように地
震と津波については大きくとりあ
げられていますが、原発について
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は「原子炉圧力容器、設計値の 1.5 倍、計器の故障の可能性もある。
放射能が漏れる恐れがあった。現在は水位は燃料棒より上に3.4メー
トルの余裕がある」でした。枝野官房長官のコメントは「放射能は炉の
外には漏れていない」でした。社説欄では「今回は結果として炉心で
十分な水位が保たれ対策を講じる余裕があった模様だ」と書いてあり
ます。既に原発の危機は終ったかのような報道を、福島民報に限らす
新聞、テレビ、ラジオで私たちは聴かされたわけです。
しかしこうした報道が誤りだということが数時間後にはわかることに
なります。皆さんもご存知のように、12 日に 1 号機が爆発します。新聞
では危機は去ったかのような報道がされていた当日に、実際には事故
は進展していたことが明かになるわけです。続いて 14 日に3号機も爆
発し、2 号機は内部で爆発的な事故を
起こした。4 号機も爆発しました。
事故が起きると今度は、「まったく心
配ない」「健康に影響なし」「緊急に対
応する必要性は低い」「健康に影響を
与える数値ではない」「安全上問題な
い」との報道が次々と流されます。日本
政府は「ただちに身体に影響はない」
とコメントしました。つまり爆発事故が
起こる前は、「危機は去りました、原発
は大丈夫です」と聞かされ、爆発すると
今度は、「爆発しても大丈夫、大したこと
はない、健康に影響はない」というような
ことを、ずっと聞かされるなかに私たちは
いました。
こうした中で 3 月 19 日に長崎大学教授・山下俊一が福島にやって
きます。彼は県のアドバイザーとして、この日から安全宣伝キャンペー
ンが大々的にはじまります。来るなり第一声で山下は、「ただちに健康
に影響を及ぼす値ではないことを十分に理解し冷静な対応をお願いし
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たい」といいます。何もわかっていない時ですよ。翌日 20 日に、彼は私
の住んでた福島市で講演をやるというので、私は反論しに乗りこんで
いきました。前日に、かつて 4 号機の圧力容器を設計された田中三彦
さんに電話をして、今どういう状態なのかを直接お聞きしていました。
彼は、「わからない、今後どうなるかはわかる訳がない」「収束したなど
ということはありえない。これからが事故なんだということしかわからな
い」「おそらくこうだろうという推測しか今は言えない」ということでした。
20 日の山下の講演では、「事故はこれ以上進展しないし、今の放
射能も毎時 100 マイクロシーベルト
までは心配しなくていい、外で子ども
を遊ばせてもいい」と、ありえないこと
を言っていました。福島県が主催して
いたので、その動画がウェブにも掲
載されました。一ヶ月ほど後に、動画
の下に「講演中に 100 マイクロとあ
るのは 10 マイクロの誤りでし
た」という訂正が出されました。
私たちはこうしたものすごいデ
タラメを聞かされる中にいまし
た。本当にこのまま信じて暮し
ていいのだろうか、私は一人の
人間として、親として本当にこ
れを鵜呑みにしてここに居てい
いのだろうか、こういう気持ち
のなかで暮していました。
これは火山学者の早川由
紀夫さんが作られた資料【左
図版】ですが、放射能が第一
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原発から各地に拡がり、東北・関東にまで初期被ばくをさせているのが
わかります。原発が爆発して自分の家族を逃がさなければならないの
ではと思うのは当たり前のことです。火山の噴火でも、「あなたの家に
岩石が飛んできますよ」という時になってから避難したのでは遅いわけ
で、来るかもしれない、どうなるかわからないから避難する、大丈夫だっ
たら、よかったねと戻ればいい、これが避難の意味ではないでしょうか
だから私は、すぐに子どもたちを避難させることに決めましたが、福島
始め東日本の多くの人たちは、どうしたらいいかわからない、どう決断
したらいいかわからない、そういうなかに置かれたんです。
福島は原発が 10 基もあります。ですから県が各地で定点観測して
います。福島県庁のホームページでも数値だけは出ます。このグラフ
はその数値をもとに私が作成したものです。タテ軸は対数目盛です。
【下図】3 月 15 日未明にいわき市の数値が、それまで 0.03 とか 0.05
マイクロシーベルト/毎時だったものがいきなり数十マイクロシーベル
トに跳ね上がります。数百倍です。場所によっては一千倍のところもあ
りました。最初の放射能雲がいわき市方向に流れたことがここからわ
かります。放射能雲が通り過ぎると一度数値は下がり、翌日に第2の
ピークがあります。何度も放射能に襲われたのです。
15 日夕方には私がいた中通り方向に来ます。福島市は上から二番
目の線、一番上の線は飯舘村です。飯舘村は定点観測がなかった場
所ですが、15日から始まりました。まもなく来るということがわかってい
たのでしょう。福島市でのピークは 24 マイクルシーベルトです。よくみ
てみると中通りはいわき市の場合と違い、一回ドーンと上ってあとはじ
わじわとしか下りません。これは何を示しているかというと、この時一回
だけ陸から海へ、北西に向う風が吹き、阿武隈山地を越えて放射能が
中通りに来ました。そして中通の盆地地帯に停滞する放射能が、運悪
く降り始めた雨と雪で大量に大地に降り積ったままになりました。一発
でやられました。
いわき市の場合をもう一度見てみると、上ったけど急激に下がって、
また上って下がって、さらにもう一度上ってと、ここでもまた上っていま
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す。実は、南方向や関東には何回も放射能雲が来ましたが、降雨が少
なかったのと地形のため放射能雲は通り過ぎたのです。通り過ぎれば
下るけれどもまた上がるということを繰り返しました。けれどもこれは迂
闊には喜べないことです。甲状腺がんのことがよく取り上げられますが、
一番の原因は放射性ヨウ素だと言われています。あまり言いたくない
話ですが、自分達がヨウ素を吸い込んだ量を考えますと、福島県では
いわき市、そして茨城や関東方面が本当に心配なのです。今の放射線
の数値で考えると中通りの方が心配されるかもしれませんが、吸い込
んだ放射能のことでいうと、原発以南が心配です。子どもたちの鼻血
が問題になりましたよね。『美味しんぼ』バッシングのことではなく、そ
れよりも前、事故が起きて数ヶ月後、ある市民団体が調べただけでも
600 人の子どもたちの鼻血が報告されています(私の子どもも鼻血を
出しました)。その報告の中で驚いたのは、関東の方が非常に多かった
のです。私は単に人口が多いだけが理由ではないのではないかと懸
念しています。
私は、3 月 27 日にようやく自分の子どもたちを避難させることがで
き、その後やっと放射能が実際どうなっているのか調べなければと活
動を始めました。東京の福島老朽原発を考える会(フクロウの会)の皆
飯舘村
福島市
郡山市
南相馬市
いわき市
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さんが福島にガイガーカウンターを贈ろうということに取り組み、そのう
ちの一台が私の家にも来たのが 3 月 29 日で、さっそく測り始めてほ
んとうに驚きました。私の子どもが通う学校の側溝では 100 マイクロを
越えるような数値がでました。まさかここまでというショックを受けまし
た(側溝は放射能が滞りやすく、今でも福島市内の水があまり流れな
いような側溝だと 100 マイクロくらいは出ます)。
そういうことも調べながら3月末、4 月から学校を再開するかどうか
というときに、緊急レポートを作って県教育委員会に申し入れをしまし
た。とても今学校に子どもを通わせられない、ちゃんと測ってほしいと
要請しました。県は(もともと計画があったのかもしれませんが )、始業
式と相前後する4月4・5・6日に、県内すべての小中学校、幼稚園、保
育園など 1600 箇所の校庭・園庭を測定しました。これが県全域を対
象とした最初の調査でした。それまでは文科省のモニタリングカーが
走り回って測定した数値しかわかりませんでしたから、測ったルートの
汚染状況は推測できても福島全体がどうなっているかはわからなかっ
たのです。この県による全校調査で初めて、福島全体がどうなっている
のかがわかったのです。これほど貴重な調査であるにもかかわらず、県
は何のコメントも出しませんでした(彼ら自身がびっくりしたのかもしれ
ません)。そのために、私たち市民はこの数値を自分で判断しなければ
ならないことになりました。そこで数人の仲間でしたが、1600 件のデー
タを地域ごとに分析しました。放射線管理区域の基準(原発などで働
いている人たちのために、いわゆる放射能マークの内と外をわける基
準)で色分けしてみました。【前ページ図表】そうすると福島全域の四
分の三が管理区域状態だったのです。放射能マークのある区域の中
くらいの被ばくをしてしまう地域であるということが分りました。それが
赤と黄色の部分です。避難指示が出て測定できない20キロメートル区
域を除くと、福島市のある県北地区がもっとも深刻な汚染でした。これ
を作成して、県教育委員会と各市町村に、子どもたちを学校に集めて
はいけない、線量が下るのには長い時間がかかる、子どもたちを安全
な場所に学童疎開させて、安全な場所で教育をやってほしいという進
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言書を作成しました。し
かし、これには県も市
町村も反応はありませ
んでした。子どもたちを
疎開させるということは
やってくれませんでした。
本当に残念なことです。
私たちはこの進言書
をフクロウの会のブログ
に掲載してもらうことに
しました。そうしたところ、
私たちにも思いがけな
いほどの反響があった
のです。
当時の福島は、皆が
怯えながら口をつぐみ、
周囲の様子を伺ってい
るようなところがありま
した。皆どうしたらいい
か正直わかりません。そ
んな中、早くに避難した
人たちの後ろ指を指す
といったらいけないかも
しれませんが、「あの家は逃げたらしい」といったことが言われるような
雰囲気があったのです。それほど皆がわけのわからない恐怖を感じて
いたのです。だから山下のような人間が来て「大丈夫だ、大丈夫だ」と
言ってくれると安心できる、ホッとできるということだったんです。
しかし、他方で放射能を心配している人たちにとっては、口を塞がれ
たに等しい状態になりました。ガイガーカウンターをもって私が測ると、
「私の家のそばで測るんじゃない」と言われるのです。かねてから脱原
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発運動をしていた人たちは状況がよくわかるので、「これはとてもじゃ
ないけど逃げなきゃいけない」ということで避難してしまう。もしも、地元
にいてくれたならば皆に「ここはまずいよ、これだけ汚染されているよ、
放射線というのはこういう影響があるよ」と教えてくれたであろうはず
の人たちは、既に福島にはいなかったんです。そんななかで、この学童
疎開を求める進言書がふくろうの会のブログにアップされたのです。フ
クロウの会のメンバーから私に電話があって、「すごいことになっている 。
うちの会はじまって以来のことだ。ブログへの賛同の書き込みが数百
件来てる」と言われました。今福島にいるのは安全キャンペーンで大丈
夫だと思っているばかりかと思われていたのですが、そうじゃないとい
うことがようやくはっきりわかったんです。福島の親たちの声が目に見
えた瞬間でした。ブログに書き込んできた方の多くは、子どもを持つ親
です。これは今でも見られます。福島にそのときいた人たちがどんな思
いだったのかをひとつ紹介します。
「福島市に住んでいます2児の母です。
私は親失格です。放射能が心配なのに今朝も親を信じて疑うことなく元気
にいってきますと言う子供達を送り出しました。毎朝子供を小学校に送り出し
た後は罪悪感でいっぱいです。学校に行かせたくない、でもみんなが行くのに
うちだけ休みにすると…毎日こんなことばかり考えて1日が終わってしまう…な
んでこんな事が…これは現実なのか夢ではないのかと、答えのでないことを考
えすぎて自分でもわけがわからなくなっています。
私は子供を愛する普通の主婦です。学者でも教授でもない知識もない普
通の主婦です。でも何かしなくちゃと思います。子供のために何もせずにはい
られません。国と県にしてほしいことは福島の子供達も我が子のように思って
ほしい!隣でスヤスヤ寝息をたてている子供の寝顔を毎日見ながら涙している
親の気持ちを少しでもわかってほしい!お願いします。我が身に置き換えてくだ
さい。
子供が大人になったらなんで引っ越してくれなった、なんで怖いと知ってて
助けてくれなかったと思うでしょう。だから私は親失格です。福島以外に逃げて
そこでまたこんなことになったら…そう思ってしまうのも事実です。避難指示が
出ていないのに…と思うのも事実です。政府を信じて外で遊んでいる子供もた
くさんみかけます。恐ろしい現実がおこっています。」
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たしかに福島市には避難指示はでていませんでした。しかも 4 月、5
月の時期には本当の意味での汚染は、先程私がお見せしたグラフ以
外には何もわからなかったのです。それでもここに放射能が来たのは
事実、外にはたくさん放射能がある、マスクをさせなきゃ、長袖を着させ
なきゃ、外では遊ばせないように、そういうことには気をつかうけれども、
本当にこのままで大丈夫なのだろうか、避難しなくて大丈夫なのだろう
か、住み続けていて大丈夫なんだろうかということについて自己決定を
迫られるということが、その後自主避難者になった人たちの置かれた
状況だったんです。冒頭に申し上げましたが、これを本当に自己責任
にしていいのかどうかを皆さん考えながらお聞きください。
そんななかで、親たちが 2011 年 5 月 1
に集まって会ができました。この思いを私た
ち親が行動に移そうということでした。ご覧
いただいているのは【右】、文科省に福島か
ら約 70 人の親たちが行って、文科省の「子
ども 20 ミリシーベルト通知」の撤回を求めて交渉をしているところです。
国民に年間 1 ミリシーベルト以上の被ばくをさせてはいけないというこ
とは法令で決まっていて、それ以上の被ばくを電力会社などがさせた
場合には、違法行為として処罰されることになります。その 1 ミリのなん
と 20 倍まで、子どもを被ばくさせてもいいと言わんばかりの通知が文
科省から出ました。これがネックになって、各自治体も対策を打ち出し
にくくされていました。仮に自治体が、学校の校庭の表土だけでも削っ
てきれいにしなければ(除染などと言われていますが、除染とはいえな
いようなことですが)と思っても、国が金は出さないというのがこの 20
ミリシールトの通知の意味でした。
この通知を撤回させなければ何もすすまないという思いで、親の会
でまず取り組んだのが子ども 20 ミリシーベルト通知撤回の要求でし
た。何度かの懸命の交渉を重ね、当時の高木文科大臣に 5 月 25 日
撤回させることができました。正確には棚上げになりました。つまり、通
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知は実質的に撤回しましたが、“学校内”で 1 ミリシーベルトを目指す
としたのです。文科省は自分達のテリトリーの中で 1 ミリシーベルトを
守るというだけで、子どもたちが学校の外に出たら、あとのことは知りま
せんという態度になったのです。だから私は「文科省は学校内に引き
込もった」と言ったんです。今でも経産省の避難基準は年 20 ミリシー
ベルトです。20 ミリというのは先のグラフの赤色の部分です。黄色の
部分も放射線管理区域ですが赤はさらに危険な領域です。被ばく労
働者だからといっていくらでも被ばくさせていいわけではなく、一定の
基準で法令で守られ、それが年間 20 ミリ=5 年で 100 ミリという数
値です。この数値をさえ超えかねない部分が赤色の領域です。20 ミリ
シーベルトで避難指示ということは、つまり被ばく労働者と同じ扱いに
なるということです。子どもも同じです。これは今でも撤回しない国のと
んでもない基準です。
こうしたなかで、私たちは 20 ミリなどという高い基準ではなく、これ
まで使われてきた 1 ミリ(これでも大丈夫ということではないですが)
以上の被ばくが懸念されるところは、誰でも避難ができるようにすべき
だと思いました。一方で、分かった上でそこに留まりたいと思う人の気
持ちも尊重されるべきだと思いました。ですから、避難を選択するにし
ても居住を選択するにしても、等しく選べるように国は支援してほしい
という要望を掲げ、「選択的避難区域」の設定と、避難を選んだ人には
避難の支援、居住を選んだ人には当然必要な防護の配慮が受けられ
る法律を作ろうという運動を 2011 年 6 月頃から始めました。同じ頃に、
心ある国会議員たちが日本版のチェルノブイリ法(事故の 5 年後に移
住の権利や義務を定め、国の支援策を定めた法律 )を作ろうと勉強会
を始めました。また、法律家のなかからも新規立法が必要だという声が
上りました。これらがひとつの要求になっていく動きが 2011 年 12 月
頃から始まり、2012 年 6 月 21 日に「原発事故子ども被災者支援法」
(東京電力原子力事故により被災した子どもをはじめとする住民等の
生活を守り支えるための被災者の生活支援等に関する施策の推進に
関する法律)ができたわけです。
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私たちが求めた立法は何かというと、年間被ばく 20 ミリシーベルト
以下のグレーゾーンでの権利確立だといえます。国の避難指示が出て
いる 20 ミリ以上は立入禁止、居住禁止の区域になっています。この
20 ミリシーベルト以下のグレーゾーンの場合、滞在する場合でも自主
的に避難する場合でもしっかりとした自己選択、自己決定ができるよう
な法律が必要だということです。具体的には、避難でも残留でも権利
として保障されることが必要だ、被ばくを避けて避難する権利、被ばく
への配慮を受けながら住み続ける権利、リスクを受容してでも故郷い
戻る権利、更には健康被害の防止と治療、健康管理と医療を受ける権
利などが権利として定められるべきだという運動をしてきました。
そのような要求運動によりできた支援法には、たくさんの成果もあり
ましたが課題もありました。成果では、一人一人の被災者を支援する
法律がやっとできたということです。事故直後から、行政組織や地区を
対象とした復興支援はあったんですが、一人一人の被災者を対象とし
た支援の法律はなかったんです。また、放射線の影響が未解明である
ということをはっきりさせた法律ができたということ、避難や居住の自
己決定を尊重するという文言がもりこまれたということ、原発を推進し
てきた国の社会的責任を明記した法律になったということ、基本方針
や具体策に被災者の意見を反映させるということも書きこまれました。
さらに、費用のうち東電が負担すべきものは国が東電に求償する、つま
り、支援策は国がやるけれども、本来東電が払うべきものは国が東電
に請求する、責任は負うべきものに負わせるという私たちの主張が盛
り込まれました。わずか 1 年数ヶ月の間にこれだけの成果を上げたこ
とは、私たちが胸を張ってよいことと思います。
課題としては、残念ながら権利法とはならず、国が講ずべきことの理
念法に留まってしまいました。私たちは権利として認められるよう運動
しましたが、残念ながら権利ではなく理念に留まりました。国がやろうと
思えばできるという法律にしかならなかった。権利法であれば、その人
が権利を行使したならば、国はこの権利を保障する義務を負うというこ
とですが、そういう法律にはならなかった。また、支援対象地域を 1 ミリ
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シーベルト以上と明確にし、福島だけではなく広範囲の被災者を対称
にするよう求めましたが、明文化されずに国の裁量で決めることになっ
てしまいました。さらに、法では被災者の声を反映させるとは書いてあ
りますが、具体的には何も書かれていなく、これも国の裁量に任された
ことです。
第二部 「被曝か貧困か」支援法成立後
その後どうなったかというと、国は、定めるべき基本方針を一年以上
出しませんでした。政権交代はかなりの痛手でした。政権交代の前ま
では、官僚たちは「まだこのへんの検討ができていない」などあれこれ
言っていましたが、政権交代後は基本方針を出す気がないという態度
に明らかにかわかりました。
私たちは、法律で基本方針
を出しなさいとされている
のに一年以上も出さない
のは法律違反だから早急
に出しなさいという訴訟を
起しました。裁判が結審す
る前に、仕方なくかもしれま
せんが基本方針を出しまし
た。中身は本当にお粗末な
もので権利とは 程遠いも
のでした。わずかに、情報
提供事業(相談できる場所
をつくる、地元からの情報
を定期的に避難者に送る)
や子どもたちの 保養に一
部お金を出すなどにとどま
りました。そして今年 8 月
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に基本方針の改正ということになりました。
新たな基本方針で、私たちが最も問題視したのは「新たに避難すべ
き状況にはない」という文言が盛りこまれたことでした。この言葉がだ
けを聞いて「そうなんだろうな」と思ってしまう方もいるかも知れません。
事故は収束していないとしても、少なくとも今は拡大しているというこ
とはなく、報道に出るかぎり少しずつ収まってきているので、新に避難
する必要はないと思ってしまうかも知れません。しかし本当にそうなの
でしようか。
これ【前ページ】は 2011 年 7 月に文科省が出した汚染マップ【図
版】です。この古い地図をなぜ出したかというと、現在でも基本的に
変っていないからです。今この最新版が出ていますが、除染しても汚
染マップは本質的に変っていません。むしろ食品などで放射能汚染が
私たちの身近に迫ってきているのではとすら思います。また、福島に帰
りますとこういうフレコンバック【右写真】が今でもいたるところにありま
す。廃棄物を入れたフレコンバックが、各家の裏庭や公園などにあたり
まえのようにして野積みされています。この上に子どもがあがって遊ん
でいるんです。公共施設などには、リアルタイムで放射線の値がわかる
モニタリングポストが多数設置されました。こうやって管理しなければ
住めない。まさに管理区域なんです。新たに避難する状況にはありませ
んか?皆さん方は自分の子どもや孫をここで暮させたいと思います
か?私は決して福島のことをひどく言おうと思っているわけではありま
せん。帰れなければおかしい、帰還せよと言うから言わざるをえないの
です。誰が好き好んで自分の故郷を汚染されているなどと言いたいで
しょうか。「新たに避難する状況にない」ということは、「ここに住め、こ
のまま住め」ということなんです。我々避難者にしてみれば、戻れという
こと、帰還せよということです。国は 2020 年東京オリンピックまでに、
避難者をゼロにするというんです。丁度東京サミットのときにホームレ
スの方達を追いだして何人もの犠牲者を出したように、今度は同じこと
を我々にやろうとしているんです。「もう避難者はいません、移住したか 、
帰還して、避難者ゼロです」と公言するため猛進しているんです。ここ
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に帰りなさいと言うのです。今その手段として、住宅支援の打ち切りを
しようとしています。自主避難者のなかでたとえば、母子で避難して子
どもが小さくてお母さんがまだ働らけないという場合に、福島にいる父
親からの仕送りでやっていくには住宅費がかからないということが命
綱になっている人たちが多くいます。一年半後には、この命綱を断ち切
ると言っているんです。避難を続けたいなら、被ばくしたくないなら貧困
になれ、こう言っているのと同じです。貧困になるのがいやなら被ばくし
ろ、我々はこう言われているんです。「新たに避難する状況にはない」と
いうことの意味はこういうことなのです。
避難者のなかにはいろいろな状況の方がいます。既に定住を決め、
住宅支援が打ち切られる前になんとか経済的に自立し新たな生活を
始める準備を整える人たちもいます。一方で準備しようにもできない人
たちもたくさんいます。母子避難の
方でも様々です。母親と父親の間
でもこれから先どうするか決まらな
い方々がいます。今以上の仕送り
はできないので、住 宅支援が 終
わったら 戻ってこいということを
ずっと言われて、離婚の危機を何
度も乗り越え、棚上げにしてやって
きた人たちもたくさんいます。原発事故離婚や生活保護などもさらに
増えるでしょう。言いたくはないですが、本当に死人も出かねないです 。
こういうと大袈裟と言われますが、私は福島で相談員をやっていました
から、何人もみずから命を絶った人たちを知っています。人間は精神的
に追いつめられると弱気になって身体をこわしたりしますが、ギリギリな
んとか持ちこたえられるものです。そこに経済的な打撃が加わると、
あっけなく命を絶つということを何度もみてきました。本当にこれは死
人を出す問題だと私は思っています。ですから後でもお話しますが、新
たに設立された避難者の会でも、住宅保障のことにはまっさきに取り
組んでいかなければならないと思っています。
19
二部の最後に、甲状腺がんのことについて触れたいと思います。福
島県立医大が担い手になって、事故当時 18 歳以下の子どもたちの
甲状腺検査を定期的にやるという調査、研究が始まっています。1 巡
目の最初の 3 年間が終わって、その集計結果が出ています。1 次検査
(エコー検査)33 万 3403 人が検査対象です。まだ結果が確定しない
人、あるいは検査を受けていない人もいますが、既に 29 万 7046 人
が確定しています。そのうち B・C 判定者というのは、甲状腺にしこりや
嚢胞がある観察対象になる人たちです。実は私の二番目の子どもも B
判定を受けて福島県立医大に来いと言われました。当然ですが、まさ
か福島まで行くことはせずに札幌の専門医に診てもらいました。おか
げさまで、しこりがあるだけでそれ以上の兆候はなく、このまま経過観
察でいいということでほっとしたところでした。こういう B・C 判定を受
けた子どもたちが 2251 人です。そのうち 110 人が甲状腺がん、ある
いはその疑いが濃厚だということがわかっています。
小児甲状腺がんは、チェルノブイリの事故以後、原発事故の健康被
害であることを誰もが認めています。「誰もが」と言いましたが、実はウ
クライナ政府は大規模な調査に基づき、甲状腺がんだけではない他の
被害についてもレポートを出していますが、国連や WHO はこれを一
切認めようとはしていません。しかし、小児甲状腺がんだけは、認めざ
るをえないのです。というのも、子どもの甲状腺がんは極めて稀な病気
で、通説では 50 万人から 100 万人に一人と言われています。それが
チェルノブイリ事故汚染地でたくさんの子どもたちが発病し、放射能の
被害と認められました。
今回の調査では、福島の場合は 3000 人に一人という異常な割合
になっています。B・C 判定を受けると 20 人にひとりがガンであり、手
術を受けている割合も高いです。通常甲状腺がんの進行は比較的遅
く、生存率も高いので、がんが見つかっても慌てて手術するようなもの
ではないと言われているんですが、福島の子どもたちの場合、手術し
ている割合が高いんです。研究中心者の鈴木慎一医師が、「転移や浸
潤などがあれば進行したがんであり、手術しなければならない」という
20
ことを公表されています。チェルノブイリで山下俊一は甲状腺がんの
手術を何度もやってきましたが、彼の論文では、通常の甲状腺がんに
比べてチェルノブイリでの子どもの甲状腺がんの進行が早く浸潤や転
移の割合が多いということを書いていて、とても気がかりです。さらに
心配なのは、県立医大が既に発見されたがんは、事故の影響ではな
いという見解を出していることです。こんなに早く発症するはずがない
というのが彼らの主張ですが、そうであればこの 110 人について賠償
の必要はないことになります。賠償請求がされたきには、福島県立医
大は東電の側に立って、賠償の必要はないと主張すると言っているの
と同じです。とんでもない話だと思います。健康被害についてはまだ
はっきりしない点が多いとはいうものの、これだけの発症が出ている。
しかも甲状腺がんだけではありません。様々な健康影響がなかったか
どうか、健康診断などを通じて把握し対処する必要があると思います。
福島だけでなく関東の人たちも本当に影響を受けていないのかどうか
国はまったく対応していません。岡山大学の津田敏秀先生が、疫学の
専門家として、原発との因果関係や影響について先頃論文を出されま
したので、ぜひ皆さんもお読みください。
第三部 “被ばくなき居住”と“貧困なき避難”を求め
て
冒頭にも紹介していただきましたが、「『避難の権利』を求める全国
避難者の会」という当事者の会が一昨日発足しました。私はその共同
代表になりました。この会は避難者であれば全国どこにいても入れま
す。帰還を強いられた方々も入れます。福島県かそれ以外かとか、強制
避難か自主避難かにも関わりなく加入できます。今自主避難者が増え
ているという事実は皆さんはご存知ですか?楢葉町は避難指示区域
でしたが最近解除されました。戻られた方はごく僅かです。戻らない方
達は、自主避難者になっていしまったのです。国が帰れというのに帰ら
ないのですから。今自主避難か強制避難かで区別する意味はありま
21
せん。この会では、避難の権利を求める全国の会を作ろうということで
す。先程も支援法を作るときに、権利法を作りたかったということをお話
しました。避難の権利ということで私が何を言いたいのかをこれからお
話しします。
まず情報へのアクセスです。ウソばかり聞かされるなかで、自分が本
当に必要で信じるに足る情報にアクセスすることができなければなら
ないということです。
次に、自分が避難しようと思ったときに、自分の意思を自由に表現で
きなければなりません。ご存知がどうかわかりませんが、今福島では無
言の同調圧力により、避難したいとか、放射能が心配であることを語る
ことさえタブーになっているんです。私がいる札幌にも保養で父母と子
どもたちがやってきますが、札幌に来るとようやく安心していろんなこと
が話せるんです。胸につかえたことを話して胸をなでおろして、もう一回
福島に戻って頑張ろうという気持ちになるんだとおっしゃいます。福島
には何とも言いがたい息苦しさがあります。事故当時の秋以降、放射
能や事故のことを語ること自体が非常に難しいという同調圧力を私も
感じました。自分の本当の思いを表現できなければいけません。
そして表現したら行動に移す選択肢がなければいけません。ところ
が、今避難しようと思っても一年以上前に新たな住宅支援は打ち切ら
れてしまいましたから、仕事も辞めて住まいも出て、新たな土地で、自
助努力でやらなければなりません。本当は避難することも、必要な配慮
を受けながら住み続けることも対等に選択できなければなりません。そ
して自分でどちらかを選べる権利が重要なのです。
私は長年障がい者団体で仕事をしてきましたから、自己選択とは何
なのかを学んできました。70 年代、多くの人たちが障がい者は施設で
一生終えるのが幸せなんだと思っていた時代に、一部の障がい者の
人たちが、自分の人生はここで一生を終えることではない、街に出よう
と自立生活運動を始めました。皆と同じように地域で暮らそうというこ
の運動の傍で、私は一緒に関わらせてもらいました。当時の障がい者
には、選択権などありませんでした。施設にいれば 24 時間介護があり
22
ます。しかし一度街にでれば、大学や街でチラシを配ってボランティア
を募るしかなかったのです。ヘルパー制度などなかったですから。それ
でも地域に出ようという人たちが、こうした運動を起こしました。私たち
は地域で暮す権利がある、施設で暮すか地域で暮すかは私たちの選
択権であると介護保障の運動を続け、障がい者の介護制度を作り、選
択しうる状態がだいぶ進んできました。
では避難者はどうでしょうか。避難しようとしたら全くの自助努力で
す。私も札幌で最初は失業状態でした。そこからスタートせざるをえな
いのです。避難をきちんと選択できる保障がされること、それが避難の
権利の本質的なことです。
さらにコミュニティの保障も大切です。札幌では様々な受け入れ支
援もあり、私たち避難者が同じ団地や地域に住んで、身近な隣近所と
して励ましあって暮せる環境が一部あります。住宅支援が打ち切られ
ると、ここから出て行く人たちがでてきて、避難者のコミュニティがなく
なってしまうということが危惧されています。避難者同士の繋がり、故
郷とのつながり、コミュニティの保障が絶対必要です。
また、定住の支援も必要です。長期帰れないということで移住を決
断したのなら、就職の支援なども必要になります。私は札幌で立ち上げ
た事業で 8 人の避難者を雇用していますが、国からの援助は一円たり
ともありません。いわゆる強制避難の人たちを雇用すると一人につき
100 万の奨励金が給付されますが、しかし自主避難者には一切ない
です。自主避難者もふくめた定住の支援が必要です。
これまでお話したことに加え、避難の権利にはもうひとつの大切な
側面があります。それは汚染地に留まっている人たちを、可能な限り
しっかりと被ばくから守られなければならないということです。“被ばく
なき居住”と“貧困なき避難”の両方があって、はじめて避難の権利で
す。
こうした目標を掲げて、私は避難当事者の会の活動をしようとしてい
ます。けれどもこの国はいま、戦争法案ひとつみてもとんでもない方向
に進んでいます。私たちがいくら声をあげても、はねかえされて何も進
23
まないような絶望感に落ちこむこともあります。しかし、私は障がい者の
当事者運動から学んだ3つの信念があります。一つ目は決してあきら
めないことです。どこにいても障がい者は障がい者ですし、被ばく者は
被ばく者です。避難者、被災者もそうです。今日からやめたというわけ
にはいかない、一生のことです。あきらめずに粘り強くやります、どんな
ことがあってもあきらめません。
二つ目は、ぶれないことです。自分の魂を売ってまで妥協はしないと
いうことです。本当に大事なことは自分の子どもたちに引き継いでいく 、
語り継ぐ、子どもたちに胸をはって人生を行きるんです。
最後のひとつは、媚びないということ。あなたたちは可哀想だから助
けてあげると言われ、背に腹はかえられない、助けてもらえなければ帰
るしかないというときに、地元の町で家賃は出しましょうといってもらっ
たら、それは有り難いです。当然ですが、支援には感謝の気持ちを持ち
ます。けれども私たちはこれを本来的な権利として自覚し、自分を蔑ん
だりはしません。堂々と生きたいということです。堂々とやっていこうと
いう思いを込めて「『避難の権利』を求める全国避難者の会」を立ち上
げたのです。
まだ会はできたばかりですから、会としてお話できることは限りがあ
ります。会の設立趣意書が資料としてあります。ぜひお読みいただけれ
ばと思います。また、先日の設立記念集会に様々な方がメッセージを寄
せてくださいました。その中の一人で安積遊歩さんのメッージを紹介し
ます。彼女は全国的に活躍されている障がい者の方です。安積さんは
若いころからすごい人で、会って 3 分もすればこの人はただものでは
ないとわかる位すごい人でした。東京に住んでいましたが、事故後
ニュージーランドに避難し、現在は幸運にも私と同じ札幌に移って来ら
れました。このメッセージを最後に読みあげます。安積さんは、障がい
者運動や子育てのこと、原発事故後の避難のことなどに触れられたあ
とで次のようにメッセージの最後を閉じてくださいました。
●安積さんのメッセージ
「避難は権利です。避難している人たちの権利を保障するのが政治の責任
24
であり、行政の機能しなければならないところです。そしてマスコミは、避難者た
ちの声をこそメインストリームにしていくことによって、放射能のなかでさえも助
けあって、どんな人も追いやられることのない暮らしや社会を作る責任を自覚
すべきです。
避難は権利です。私たち避難者は、その避難が守られ、保障されるために、
お互いを責めることなく、まして避難していない人を追いこむことは、決してしま
せん。政治や電力会社に対しては怒りで声を荒げても、被曝させられたお互い
には決して向けないという覚醒と終わりなき洞察が必要です。
避難は権利です。私たちには子どもたちに未来を手渡す責任と、渡せるの
だという愛と確信があります。それらを行動し続けるために、時にあまりの悲し
みに泣き叫ぶことはあっても、その悲しみさえも力とし、未来を作っていくことを
決してあきらめません。
わたしは今日ここに参加した避難者のみなさんと、北海道札幌から心をさし
のべて、しっかりと繋がっていること、放射能が何万年の時を半減期として必要
とするのなら、私は時を越えた無限のエールをみなさんに送り続けていることを
約束します」
これは私の気持ちを代弁してくださっている様なメッセージでしたの
で、これを最後に紹介して話を閉じようと思いました。どうもありがとう
ございました。(拍手)
25
未来への責任を負うということ
長谷川克己さん*
私はほとんど家族を集会に連れてくることはなかったんです
が、今日家族を連れてきました。
3 月 12 日に原発が爆発したとき、福島県内数箇所に拠点を持
つ会社で運営管理の仕事をしていました。私は、特に原発に近
いいわき市内の自社施設で、置き去りになっている認知症のお
年寄りを連れて東京方面に逃げたかったんですが、会社の指示
で「福島市の自社施設に向かえ」ということで雨に濡れ、途中
で雪になりながら、福島市に逃げました。後から思えばまさに
その時に大量の放射能が降りそそいだなかをお年寄りや職員、
家族を連れて移動したことは痛恨のことでした。
5 月 23 日に「子ども福島」の文部科学省への申し入れをテレ
ビで観ました。そのとき私共はまだ避難ができていなかったの
ですが、避難しなければならないと思ってはいました。私はも
ともと福島県人ではないのですが、妻は根っからの福島県人で、
福島を離れることになかなかふんぎりがつかないなかで、中手
さんや「子ども福島」の主張を聞いて、二人で覚悟を決め、そ
こからは、避難をするかどうかではなくて、どこに避難をする
か、というとが焦点になりました。翌日からガイガーカウン
ターを持って避難場所を決めることを始めました。そういう意
味で私たち家族にとって中手さんは恩人です。そうした中手さ
んと共に避難者の会の立ち上げを一緒にすすめられるというこ
とは、奇遇であると共に、とてもうれしいことであると思って
*長谷川克己さん
福島原発告訴団原告。子ども脱被ばく裁判原告。避難の権利」を求める全国避難者の会
事務局長。郡山から静岡県富士宮市に家族とともに避難。避難先で起業し、うつくし倶楽部
代表取締役(高齢者デイサービス、児童デイサービス事業を運営する。
26
います。
2012 年の夏頃から、 原子力規制委員会への抗議行動があり、
私もずっと参加して 7 週連続で抗議をしていたときに、イン
ターネット TV のアワプラネット TV が私たちの家族の活動と行
動をまとめてくれました。
【ここで DVD 上映】
ビデオの後半で、私は「仕事を捨てて、地域を捨てて、と
言った後で、子どもは捨てまい」、ということを言っています。
実はある仲間から、このことをかなり批判をされましたけれど
も、当時、私は意識的に「子どもは捨てまい」、ということば
を使ったことを記憶しています。この時点では、まだいろいろ
なことが咀嚼できていませんでしたが、「私達は正しい行動を
とったのだ」という思い入れがあって、それが「子どもだけは
捨てまい」という強い言葉を意識的に使ったのだと思います。
ただ今、4 年 7 箇月たって、もうひとつ懐を広くして、いろい
ろな人たちと繋っていかなければならないと思っています。
これから少し文章を読ませていただきます。これから読ませ
ていただく文章は、私が子ども脱被ばく裁判の原告として関わ
らせていただいていて、司会の柳原さんも弁護士として、中手
さんも原告として関わっており、会場にも原告の方が来られて
いますが、そのなかで今年の 6 月 23 日に第一回口頭弁論が福島
地裁で開かれたときに原告として読みあげたときの原稿をその
まま読まさせていただきます。
原告意見陳述書
「私は福島原発事故後 5 箇月がたった 2011 年 8 月に福島県郡
山市から自主的に静岡県富士宮市に避難をした長谷川勝巳と申
27
します。避難した当時は妊娠した妻と五歳の長男の三人家族で
したが、翌年に長女が生まれ、現在は、家族四人で避難先の静
岡県で暮しております。私は、この度子ども脱被ばく裁判の親
子裁判に 9 歳になった長男とともに原告として参加いたしまし
た。私たち親子がこの裁判の原告になった理由は一言で申せば、
この理不尽に屈っするわけにはいかないという思いであります。
原発事故から 4 年あまりの間日本政府、福島県行政が行なって
きた対応の数々は私のとっては理不尽の連続でありました。原
発事故直後、多くの諸外国が原発から 80 キロ圏内の住民に避難
指示を出したのに、なぜ日本政府は 30 キロ圏内にとどめたのか、
なぜ日本政府は原発事故からまもなくして法律に定めていた国
民の追加被ばく線量年間 1 ミリシーベルトのしきい値を 20 倍に
引き上げたのか、なぜ日本政府は予防原則に基づき、子どもや
妊婦は放射線量の低い地域へ避難させるとの措置をとってくれ
なかったのか、なぜ日本政府は、今も事故まえよりも明らかに
放射線量の高い地域に帰還を促すのか、そのほか数々のなぜが
私の頭の中をめぐります。振り返れば私がまだ福島に在住して
いた頃、ネット通販で手に入れたガイガーカウンターを片手に
福島県内県外の至る所の放射線量を昼も夜もなく妻とともに
測ってまいりました。妻の妊娠がわかってからは一人ででかけ、
結果を妻に報告するようになりました。
夜を徹して何度も何度も話しあいました。そしてひとつの結
論に逹っしました。もうこの国の政府、福島県行政を信じない、
自分の子は自分たちで守る、という決断でした。守ってくれる
はずだと疑いもしなかった国に、故郷の行政にあきらめをつけ
るのは辛い決断でした。今までこの国に生きること、この地に
生きることを真剣に考えてこなかった報いだと思いました。子
どもに申し分けないと思いました。そう決断してからは、黙々
としてこの地を離れる準備を始めました。創業から取締役をつ
とめた愛着深い会社を退職する準備、親御さんたちと力をあわ
28
せて除染活動するはずだった PTA 会長の辞任、親しい知人や親
戚にこの地を離れることの告知。政府や福島県行政がキャン
ペーン運動のように復興を謳いはじめその機運が盛り上りつつ
ある中でしたので、時には周囲の人には怪訝な顔でみられたり、
後ろ指を指されていることも承知でした。しかしこの子は自分
たちで守る、そう決めればなんてことのないことでした。ただ
かえすがえす悔しいことは、本当はこの地に暮す子どもや妊婦
だけでも一時避難をするべきなのではないか、それは政府が行
なうべきことではないのか。本来私たちが後ろ指を指されるべ
きことではないのではないか、ということでした。
そして原発事故から丁度 5 箇月がたった 2011 年 8 月 11 日の
朝、私たち家族は故郷、郡山を後にしました。本当は前の日の
夜に出るはずだったのですが、あたりが暗くなるなかで出かけ
るのは夜逃げみたいで悔しいと思いなおし翌朝にしました。わ
が家から 100 メートルほどのところにあった妻の実家に立ち寄
り、最後の別れを告げ、いよいよ車を動かしはじめたとき、5
歳の長男が「バアバさよなら、ジイジさよなら、さよなら、さ
よなら、さよなら」と何度も何度も叫び声をあげました。その
時私は、このままでは絶対に終わらせない、この理不尽に必ず
けじめをつけてみせるとの思いをあらためて心に刻みました。
もちろんこのとてつもない大事故に、私などでは知りえない
こと、そうするしか方法のなかったこと、いろいろな事実が
あったのだろうと推察します。しかしながら、日本政府が、福
島県行政がこの四年間をかけて行なってきたことは、私たちに
対して、まるで被ばくなどなかった、原発事故はコントロール
されているかと錯覚させるような所業であります。
このことに対してあらためてここで強く申しあげたいことが
あります。それは、この被ばくを、この原発事故をなかったこ
とにしたいのは、本当は私たちの方だということです。四年前
3 月 12 日以降、子どもたちの頭の上に大量の放射能が降りそそ
29
いだことをなかったことにしたい、自分の判断が悪かったこと
でわが子に大量の被ばくをさせてしまったことをなかったこと
にしたい、住みなれた愛すべき故郷が放射性物質で汚されたこ
とをなかったことにしたい、この先子どもたちに健康被害が発
生するかもしれないなどという未来など訪ずれるはずもない、
そう、この原発事故をなかったことにしたいのは、私たち市民
であり、母親であり、父親であります。しかし過ぎさった過去
を変えられないのであれば、この現実に目をそむけずに直視し、
真実を明かにし、今からでも行なえる最善の措置をほどこして
いくことが子どもの親として、この時代に生きる大人として、
私にできるせめてもの罪ほろぼしであり、責任であると考えて
います。声を上げれば波風がたつ、このこともこの四年間で十
分に承知のことであります。ただ、それでもやらなければなん
らないことがあると思っております。最後になりましたが、原
発事故から 2 年たったころわが子が長男 7 歳と長女 1 歳のとき
に子どもと遊ぶなかで作った詩を拝読させていただき、私の口
頭弁論を終わらせていただきます。
発展
昼下がり、傍らで息子と娘が戯れる。
「あーあーあー」と笑いながら近寄る妹をあやすお兄ちゃん。
「お兄ちゃんのことが大好きなんだよね」
誇らしそうに、お兄ちゃん。
放射能はこの子たちの身体を冒しはじめているのだろうか。
身体の中に入ってしまったのだろうか。
全部もらってあげる方法はないのだろうか。
見知らぬ大人たちは
この子たちを置き去りにどんな発展を目指しているのだろう
か。
30
お父さんとお母さんがずっと守ってあげるからね。
先に死んでしまってもずっとずっとまもってあげるからね。
(拍手)
以上が口頭弁論でお話しをさせていただいたた内容です。
今日は子どもを連れてきました。子どもたちも大きくなるに
つれて自分自身で咀嚼する時期がくると思います。私はこの原
発事故避難の当事者ですが、私以上に当事者中の当事者は彼ら
だと思っています。私は彼らがこの世で生き、子どもを育てて
いくなかで、どんな苦境にあたっても、必ずこのことに目をそ
むけないで立ち向かっていってほしいと思います。これから
「避難の権利」を求める全国避難者の会として、横につながる
仕組みをつくっていきますが、同時に未来にも、縦に繋ること
も意識しながらいかなければいけないと思います。縦につなが
ることを軽視して横につながることばかりを目指すのではなく、
未来の子孫に対する責任を負っているという自覚をもって、み
なさんと一緒にがんばっていきたいと思います。今日はありが
とうございました。
質疑から
●自主避難という言葉が使われているが、強制避難に対して区
域外避難という区別でとらえていますが、自主避難ということ
ばでいいのかどうか。
長谷川
自主避難という言葉について。これまでも疑問を投げ掛けら
れることがありました。みなさん気配りしていただいて「区域
31
外避難」といった言葉を使った方が勝手に逃げた人たちではな
いんだから、ということで思いやりを込めて言ってくださって
いることに非常にありがたいので、このことを否定すべきでは
ないと思うんですね。しかし個人的には「自主避難」という言
葉は嫌いではありません。自主避難という言葉は、自分が主体
的な判断で避難したのだという意味で使っています。否定的な
意味では使っていません。
中手
自主避難という言葉が誤解されないようにということで「自
救避難」などという言葉はどうかなどの議論もありましたが、
自主避難という言葉は、自ら決めて出たというプライドをもっ
て、自分のことを語りたいという意味で嫌いな言葉ではありま
せん。自主避難なら自助努力ではないか、というふうに言われ
ることもあるので、注意深く使いたいですが嫌いな表現ではあ
りません。
●住宅保障の問題では県知事がやらないといっているが、市町
村長から働きかけるのはどうか。
●自主避難で保障してほしいということですが、自分の判断で
避難するのは問題ないが、いつまで保障すべきなのか、どの程
度保障すべきなのか。移住先で仕事を見つけた後も保障を続け
るべきなのか。
長谷川
住宅問題は、喫緊の課題だと思います。そのなかで平行して
移住の問題もしっかりやりたい。できるだけ子どもたちは、今
は福島周辺を離れたほうがいいと個人的には思っています。
中手
32
住宅打ち切りについては、住宅支援は本当に命綱になってい
る人がいます。私たちが何を要求項目に掲げるのか。5 年にす
べきだと言うのか、生活再建を果すまで支援しろというのかな
ど、恐らく、避難者の意見はいろいろだと思います。切実な声
をあげている人たちは、支援を打ち切られたら帰るか、帰れな
かったあどうしようもない人たちです。実際帰っている人たち
もいます。というのも帰らなかったら、このままジリ貧で貧困
化していくのを待たずに否応なく帰還せざるをえなくなってい
るということを福島での ADR の申請が増えているということで
私もはじめて知りました。今、宙ぶらりんの方たちはどうする
のかが一番難しい問題です。もし私たちの言うことを親身に
なって聞いてくれる政府が当事者の意見を入れるというのであ
れば、当事者同士がギリギリの話もして妥協もしあって方策を
決めることもありえるかもしれませんが、今の政府はそのよう
な姿勢をもった政府かということです。今、避難者はさまざま
な要求をもっています。その要求をそのまま政府にぶつけてい
きたいと思います。ですから、会としては何らかの方針は決め
ると思いますが、将来どうなれば支援を打ち切ってもいいのか、
という方向で決めることはありえないと思います。支援の継続
を求めるということは確かだと思います。
●被災者支援法で「放射線の健康影響が未解明である」という
ことを明記の意義について。
中手
チェルノブイリの状況を見れば、被害が出ないなどというこ
とはありえない。どれくらいの被害かを私が推測するのは難し
いです。福島にいたときも、「中手さんはどれくらい被害がで
ると思っているのか?」と質問されたことがあります。それは、
私にはわからないです。ただ、私は恐らく 20 年後、原発事故で
33
こういう被害がでましたという声がでたときに、政府や電力会
社などが、それは原発との因果関係はないと否定することがあ
るでしょう。20 年後、そうしたなかで私たちが暮すことになる
と思う、と言いました。それだけは間違いないと思います。社
会的法的に決着がつくというのは早くても何十年後になるで
しょう。最近原爆症の認定で、敗訴と勝訴の異なる判決が出ま
した。70 年後ですよ。私は被害が出ないなどということは絶対
にありえないと思っています。一人一人にとっても違いがある
でしょうが。そういうことを 100 ミリまでは健康被害は出ない
んだという役人がいっぱいいて、私は 100 ミリ一族と呼んでい
ましたが、そういうなかで、法律のなかで、まだ健康被害につ
いては白黒決着がついていないんだよということを書き込んだ、
予防原則を適用しろと書きこんだことを評価しようということ
です。本来はしかりとこれは被害と認めましょうというふうに
踏み込んだほうが本当はいい。少くともこれはなかったことに
はさせなかったということです。
●当事者と支援者との関係をどのように作るべきなのか。
中手
少なくとも、障害者とはいえない私が障害者の支援運動を 30
年やってきました。自分が障害者と同じ立場にはたてないとい
うことを感じていました。当事者の言葉でないと伝わらない、
当事者でないとできないということもたくさんみてきました。
裁判の陳述書で長谷川さんも触れられていましたが、私も北海
道の裁判で意見陳述をしました。裁判官は日本のエリートたち
ですから、彼らには言葉を尽してもわからないでしょうが、避
難者同士なら「何を失なったのか」と言えば「全部を失なっ
た」という言葉だけで全てがわかる。他方で、当事者は、この
ような集会にも集るだけでも大変です。そういう意味では、当
34
事者だからできる部分、当事者だからできにくい部分というの
があるわけで、支援者が助けになる部分があると思いますので、
そういう意味で有り難い存在になっていただければと思います。
一方で、避難者の会は当事者性を担保するということですが、
原発事故の場合は、皆さんも被害者です。全員が被害者になっ
てしまいます。事故が起きたあと東京に住んでいてもガイガー
カウンターで測っている姿は間違いなく被害者です。そこまで
いかなくても日本のどこかで、スーパーで買物をするときに産
地を気にするような生活をさせられていること自体が被害者で
す。国がしないなかで、何かなしとげようと思うのであれば、
自分のなかの当事者性を目覚めさせないといけないと思います。
おおいに自分が当事者だということを自覚してほしいと思って
います。これも障害者から学んだのですが、私たちは障害者で
あると言われるけれどもそうではない、私たちは障害者になっ
たのだ、障害者と自覚したのだ、だからこれをやっているんだ、
そういう気持ちがあるからやっているんだと言われました。言
われたときは若くてよくわかりませんでしたが、今はよくわか
ります。今私たちは避難者ですが、私たちは避難者になったん
です。しっかりと自分の自覚をもって当事者になってください。
長谷川
先程の自主避難のこととも重ねあわせて考えていたんですけ
れども、先日 4 年 7 箇月たってますが、義理の父母が静岡に来
ました。そのときに「今更ではありますが、孫や娘と楽しく暮
す生活を引き裂いたことをお詫びします」ということを妻の両
親にお詫びしました。「そのことは、あなたがすべて詫びなけ
ればならないことなのか」と思う方もいらっしゃるかと思いま
すが、私のなかでは自主的に避難することを選んだのは私であ
り、避難しない人もいるので、そのなかで、自分のとった行動
にしっかりとけじめをつけたいとの思いがありました。現実的
35
に孫子との仲を引き裂いたということは、妻の両親からしてみ
れば「あなたが決断した張本人、責任者」なんじゃないかとい
う気持ちに対して、詫びなければならないと思っていました。
これが正しいかどうかわかりませんが、私には「責任をもって
家族を避難させたんだ」という誇りの部分もあります。一度は
詫びなければならないけれども、なんら恥かしいことをしたわ
けでもない、ということを自分では今も思い続けています。
話は変わりますが、たとえば沖縄の問題は、私は当事者では
ないかもしれませんが、沖縄、安保、原発の問題は根っこで全
てつながっていて、やはりこれを克服しなければいけない、未
来の子どもたちのためにここで解決しなければいけない、とい
う責任を負わされているということであれば、私も当事者であ
るということで、すべての人が何らかのかたちで、子どもたち
の未来に対しての当事者であるという意識のなかで、それぞれ
の問題にかかわっていくという気持ちがスタートになるのでは
ないかと思います。
中手
事故後 1 箇月後の芝公園の集会で言ったことがあります。踊
る大捜査線というテレビドラマで、「事件は会議室で起きてい
るんじゃない。現場で起きているんだ」という台詞があるじゃ
ないですか。福島を現地というのは間違いじゃないですが、避
難者の権利や原発の再稼動というときに、これらのことを決め
ているのは東京、霞が関が決めている。現地はここ、東京です。
事件はここで起きているんです。みなさんは現地にいる人たち
です。みなさんが加害者だというわけではありません。しかし
東京だからできるということを大いに担ってください。チャン
スは必ず来ると思います。私たちは原発事故の被害者をやめる
ことはできないし、この国で原発と無関係に子どもたちを育て
るということができなくなってしまった。諦めたってしょうが
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ないです。そしてチャンスは必ず来るはずだ。チャンスが来た
ときに成果を出せるように今がんばることが大切だと思います。
チャンスが来るときの準備を今しておくことが必要です。支援
法が理念法であることをいいことに、骨抜き、塩漬か、棚上げ、
ひどいものですが、この法律だけは消させないで残して、次に
使うチャンスを準備しようじゃないか、実は今、法律家の一部
では、この支援法をもとに権利法を準備しようじゃないか、今
の政府では無理であっても、やれるチャンスがきたときに畳み
かける準備をしようじゃないかと言っている方々もいます。私
たちは諦めません。一緒にやっていきましょう。
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核と被ばくをなくす世界社会フォーラム 2016 開催への
賛同のお願い
私たちは、核(核兵器と原子力発電)の軍事利用、商業利用に反
対する市民です。2014 年 10 月に日本で行なわれた議論から出発
し、2015 年 3 月、チュニスでの「世界社会フォーラム(WSF)」
で継続された話し合いを通じて、私たちは、2016 年に日本で、核
に関するテーマ別世界社会フォーラムの開催を決定しました。開催
の日程概要は以下のようなものになります。
3 月 23 日 オープニングフォーラム(東京:韓国 YMCA)
3 月 24〜25 日 福島(予定)
3 月 26 日(土)反原発集会とデモ(代々木公園、さようなら原発
1000 万人アクション福島原発事故5周年 全国集会に合流)
3 月 27 日(日)全日フォーラム開催(東京:韓国 YMCA)
3 月 28 日(月)午後、国会院内集会。関連集会として夜に被ばく労働
を考えるネットワークによる集会があります。(会場:韓国 YMCA)
最新の情報は、http://www.nonukesocialforum.org にアクセスして確認
してください。
このフォーラムは、これまでの世界社会フォーラムの活動をふま
えて、国境を超えた原発や核兵器だけでなく、ウラン採掘から住民
や労働者の被ばく、廃棄物問題、そして経済から安全保障に至る多
様な核問題に取り組むグローバルな運動を目指す第一歩として、こ
れらの課題に取り組む皆さんの参加を期待して企画されました。
本フォーラムは、世界社会フォーラムのこれまでの経験を背景に
実施されます。世界社会フォーラムは、2001 年以来、新自由主義
グローバリゼーションや対テロ戦争への反対運動などを通じて貧困
や戦争のない「もうひとつの世界」を模索するグローバルな運動と
して重要な役割を担ってきました。本フォーラムは、この世界社会
フォーラムのこれまでの運動の蓄積と経験を核廃棄の運動へと繋ぐ
ことを意図しています。日本は、広島・長崎の被ばく体験の後も、
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第五福竜丸の被ばくを経験しながら、世界有数の「核先進国」の道
を歩み、更に、2011 年の福島原発事故の深刻な被害にもかかわら
ず原発再稼動と原発輸出を積極的に推進する国であり続けています。
幾度となく核の被害を受けながら、なぜ核開発を推進するのか?と
いう疑問は、各国の反核運動から日本の私たちに投げかけられてい
る厳しい問いかけでもあります。こうした問いかけに応えつつ、今
回のフォーラムは、日本国内の反核運動と世界の運動を繋ぎ、核の
ない「もうひとつの世界」へ向けたグローバルな運動の第一歩とし
たいと考えています。
以上の開催趣旨に賛同いただける方は、是非開催のためにご助力
をいただき、あわせて当日のフォーラムにもふるってご参加いただ
きますよう、ここに呼びかけます。
賛同人となられる場合には、お名前(所属)と名前公表の可否を書いて、
[email protected] 小倉利丸
までメールをお送りください。
個人の場合一口 2000 円、団体の場合は一口 5000 円の賛同金を下記に振
り込んでください。
振込先
●郵便振替口座
名称:反核 WSF 基金
口座番号:00110-0-696242
●ゆうちょ銀行
店名:〇一九(ゼロイチキュウ) 店番:019
預金種目:当座
口座番号:0696242
なお上記は目安です。財政状態や団体規模などに応じて減額されて構いま
せん。
●呼びかけ団体
3・11 福島原発事故緊急会議/ATTAC Japan(首都圏)/ATTAC 関西/グ
リーン・アクション/研究所テオリア/経産省前テントひろばL/原子力
資料情報室/再稼動阻止全国ネットワーク/占領に反対する芸術家たち
(Artists against Occupation)/たんぽぽ舎/ノーニュークス・アジア
フォーラム・ジャパン/ピープルズプラン研究所/被ばく労働を考える
ネッーワーク/脱被ばく実現ネット/辺野古リレー〜辺野古のたたかいを
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全国へ /appel du 26 avril/Articulação Antinuclear Brasileira/
ATTAC FRANCE/Coalizão por um Brasil livre de Usinas Nucleares/
Mouvement UTOPIA/NPO <Echo Echanges France Japon>/Réseau
Sortir du nucléaireL/
●呼びかけ人
秋本陽子/稲垣豊(ATTAC Japan(首都圏))/稲葉奈々子(上智大学教
員)/印鑰智哉/植松青児 /鵜飼哲(一橋大学教員)/大榎淳(東京経済
大学教員、芸術家)/小笠原公子/小倉利丸/海棠ひろ(福島原発事故緊
急会議)/木村雅英 (再稼働阻止全国ネットワーク)/京極紀子
(ATTACJapan(首都圏))/くじゅうのりこ(平和といのち・イグナチ
オ 9 条の会)/国富建治(福島原 発事故緊急会議)/コリン・コバヤシ
(エコー・エシャンジュ)/木幡ますみ/近藤和子/斎藤かぐみ(ATTAC
ジャパン)/杉原浩司(福島原発事故緊急会 議)/園良太(東電前アク
ション)/橘優子(たんぽぽ舎ボランティア)/寺本勉(ATTAC Japan
(関西))/なすび( 被ばく労働を考えるネットーワーク)/中川敦詞
(たんぽぽ舎ボランティア)/根岸恵子/樋口裕重子/平井玄/平坂謙次
(原発と足立を考える会)/武者小路公秀(元国連大学副学長)/武藤一
羊(ピープルズプラン研究所)/村田はるせ/毛利 聡子/茂住 衛/八鍬瑞
子(美術家)/柳原敏夫(脱被ばく実現ネット、法律家)/Bernard
Laponche/Chico Whitaker
連続学習会講演パンフ(既刊)
第一回 「帰還」と、どう向き合うか?
長谷川秀雄さん(いわき自立生活センター理事長、3・11被
災者を支援するいわく連絡協議会理事長、いわき放射能市民測
定室副理事長)
第二回 原発をとめるアジアの人びと
佐藤大介さん(ノーニュークス・アジアフォラム・ジャパン事
務局)
第三回 原爆と原発
武藤一羊さん(ピープルズプラン研究所)、天野恵一さん(福
島原発事故緊急会議)
第一回、第二回の講演パンフは、ホームページからダウンロー
ドできます。http://www.nonukesocialforum.org
各 250 円 申込: [email protected] 小倉まで
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