【 顔からさぐる私たちの由来】 ∼好きでこういう顔 をしているわけで はない∼ 馬 場 悠 男 先生 講演 国立科学博物館人類研究部 部長・東京大学大学院 理学系研究科 教授 顔 からさぐるヒトの 由来 第1部は「顔からさぐるヒトの由来」、 人 類 学あ るいは生物学の分野のお 話しで す。動物や人類 の顔を進化史的な観点から分析すると、 それぞ れの 段階で顔の要素 (部品) がさまざまに発 達・ 衰 退、 あるいは用途 が 転 換してきました。その 歴 史を 探 ると、顔に書き込まれた 私 たちの由 来が見えてくるというお 話をしたいと思います。 日本 顔 学 会 の 前会 長・香 原志 勢 先 生は、 ドイツ 語 の Gesi cht ( 顔) は sehen (見る) という動 詞の 過 去 完了 形 なので、顔は 眼 が あって見 るためのもので すが、 それ 以 外 に見られるという機 能もあるとおっしゃ いました。 これは 非 常に卓 見 だと思います。 その 意 味 で「見る顔 」 「見 られる顔 」が あるわけで す。 8 しかし それ 以 外に「見られたい顔」 「見られ たくない 顔」 「見 せたい 顔」 というの が、生 物 学 や人 類 学 の ほうから言えたらおもしろいと思 います。 まず、脊 椎 動 物としての 顔 の 由 来で す。骨 格 が ちゃんとできて筋肉 が 付いていることが、顔の 大 枠として 重 要 で す。顎 の 骨と歯 が あると、 噛 みつくことが できます。 さもないと、積 極 的に相 手を攻 撃して自分の 栄 養 にすることが できません。 「食う顔 」の 発 達 で す。なお、 顎の 骨は もともと鰓を支えていた 骨から進 化したもの だというの が、動 物学の 常識 で す。 その上にさまざまな感 覚 器( 触 覚・味 覚・嗅 覚・視 覚・平 衡・聴覚 ) が 配 置されて、 脊 椎 動 物 の 顔 が それらしくなります。 それらを統 御 する中 枢神 経 系の 脳 が 発 達して、特に脳の出張所である眼球の形成により、 「見る顔 」になります。 それから表 情という点で問 題になる筋肉は、 もともと頸のところにあ ったものが、 だんだん前のほうに出てきて、顔の 表 面を覆い、私たちの 表 情を司っています。そして噛む、呑み 込む、 表 情を作るといった 働 き をする筋 肉は、 本 来は前のほうから後ろのほうへずらりと並 んで いて、 それぞれ 脳 から出てくる神 経 が 順 番に 支 配しています。そういう全 体 的な 構 成、 いわば 分 節 的な 構 造 が 頭と頸に錯 綜しながら集中してい ることは、魚 類も私たちも基本的には同じです。魚 類には眼だけでな く、鼻 が あり、聞くため の 耳もあって、系 統 進 化 的に私たちにつなが っています。 魚類の鼻は鼻の孔が左右2対、 つまり4つあって、前 か ら入った 水 が 後ろに 抜 けます。鼻 が 左 右に完 全に分 かれています。 これ は視 界 の 利 か ない 水の 中でエサを探 すために 有 効 ですが、陸(お か )に上 がると、左 右 の鼻の 孔で 臭 いを嗅ぎ 分ける必 要 が ないし、 口の中 央 近くにあったほうが いいので、私たちの鼻は左右が一体となっている わけです。 魚 類の鼻の 孔は 左 右とも前と後ろにありました が、 両 生 類・爬 虫類 になると、 前 から入った 空 気は口に流れますし、水 が 抜 けるところだ った 後 ろの 孔は目に 通じて、 これ が 鼻 涙 管という涙を 流 す管 になり ます。 「泣く顔 」が 初めてできた の かもしれません。 私 たちの 涙 は目頭 のところにある2つの 涙 点という孔から入って、 それ が 最 終 的に鼻 の中に 抜 けます。 で すから泣い たときに 涙 がこぼ れな いように上を向いていると、涙が鼻の 中に流 れてきて、鼻をかむ ことになるわけです。 陸上の四足の動 物は、臭いを嗅ぐところが 口に通じて、 それ が息を 吸うようになるので、 いわば「息をする顔 」が できたということかもし れません。また 消化 器 官だった口が 発 声器官としても作用 するように なり、後に人間の言語能力の獲得につながります。 哺乳 類としての 顔はどんなものかといいますと、 まず原始的な哺乳類 の時 代は、昼 間は 恐 竜が いるので 夜間に活 動しますから、寒さを防ぐ ために毛 が 顔 面を覆うようになります。夜間探 索をするために 特殊な 触 覚 毛 、猫などのヒゲ が 発 達し 、 臭いもよく嗅 げるようになり、いわば 「 触る顔 」 「嗅ぐ顔 」になります。 哺 乳 類には 音を聞くために中耳の耳小 骨 (じしょうこつ)が3個あり ます。両生類・爬虫類は、 2つに分かれてはいますが1個しかありません。 それから両生類や爬虫類には耳介 (じかい) の部 分 がなく、 哺乳類にな ると初 めてできてきます。 哺乳 類 の耳は、空気という非常に疎(そ) な物質の振動を耳の中のリ ンパ 液という密な物質の振 動に変えるための工 夫 があります。空気で 震動 する鼓膜の面 積に比べてリンパ 液を震 動させる前庭窓の面 積は 10分 の1以 上に 小さくなっています。その間を3つの 耳 小 骨が つない で いるので す。そのような機 構 が あるから、弱い 力しかな か った空 気 の 振 動を強い力のリンパ 液の 振 動に変えることが できます。それを内 9 耳の神経細胞が感じて私たちは音を聞いています。 「聞く顔」の 発 達と 言えるでしょう。 臭いや音を感じる細 胞は、 それぞれの感 覚 器 のところにあり、 そこか ら別の 神 経を介して情報を脳へ 送っていますが、おもしろいことに、 光 を感じる眼だけはシステムが 全く違っています。眼では、非 常に大量の 情報を一 遍に取り入れて、そのまま脳の 後 頭 葉のところへ 投 射して認 識します。刻々と変 化 する巨大な情報を瞬 時に扱うので、別に感覚器を 用意して、 そこから神 経を介して脳へ送っていてはとても間に合いませ んから、 眼球の中に網膜という脳細胞の出 張 所をつくって、 そこで 光を 直 接に 受 容しています。 で すから「見る」ことだ けは、私 たちの感 覚の 中で非常に特 殊 だと考えたほうが いいと思います。 頸の浅 層の 筋肉が 顔面に移 動して表 情 筋となります。表 情 筋がある のは見られることを前 提としていて、 「見られる顔」が 機 能し 始めること になります。 犬 歯が 発 達して威嚇 すると、 「見せたい顔」がスタートします。 ところで、 犬 や 猫 の目は、 私たちと違って普 通は白目が見えません。金 色や 茶色 に見える部 分 が 虹 彩 つまり私たちの 黒目で、真ん中の 黒いところが 瞳 孔、 本当の 瞳に当たります。 さらに 虹 彩 の周りの白目の部 分に色 素を沈 10 着して黒 っぽくしています。だから、視 線の方 向を少しずらしても白目 が 見えないので す。 これは視 線 の方向 が わからないようにしているの で す。視 線 が わかると獲物が 危 険を感じて逃 げては具合 が 悪いので、 わざと隠している 「見られたくない顔 」で す。牙で威 嚇 するのは「見せた い顔 」で すから、 この 矛盾を状 況 に 応じていかに使い 分けるか だと思 います。 次は霊長 類としての 顔で す。樹上 生活に適 応して、枝 から枝 へジャ ンプするときに距 離を測るために2つの 眼で見る立体 視 が 重 要で す。 果 物の 熟 れ 具 合を判 断 するために色 覚 が 発 達してきます。 つまり 「見 る顔 」が 完 成します。嗅 覚 はむしろ退 化して、 「 嗅ぐ 顔 」の 鼻 はあまり 目立ちません。犬と比 べ ると、少しも鼻が 出っ張っていません。 それから大脳の 発 達により互いの個体の認識が 進むことは、 表 情を 観 察 することとも密 接な関 係 が あります。特に顔の 毛 が 退 化して皮膚 が 露出してくるから微 妙な表 情 がわかるわけで、 「見られる顔 」の意義 が 強まります。 親しい間柄で視 線を確認し合うことが 霊長類の段階 でどんどん進み ます。親しくないと視 線を隠 すことによって、 「見られ たくない顔 」を堅 持 することになります。 チンパンジーは皮膚が露出していて細かい 表 情を読むことが できま すから 「見られる顔 」が 発 達しています。 しかし白目が 露 出してない、基 本的に 「見られたくない顔 」で す。 人 類としての顔を見てみましょう。犬 歯 が 退 化したのは、 犬歯を使わ なくても、棒を振り回 す、 あるいは集 団で 威 嚇し 攻 撃 するといった別の 手段が 可能になったからだと思われます。全 体として柔らかいものを 食 べ るようになって 咀 嚼 器 官としての「食う顔 」が 退 化します。 もちろ ん 道 具を使うということもあります。 大 脳の 著しい 拡 大 が 起こりますので、 「 考える顔 」 と言えるかもしれ ません。 人 類では 眼 裂 が 大きく横に広 がりました。そうすると、 キョロキョロ よそ見もできますが、大 事なのは、 白目の 着 色 が なくなって白目が 明 瞭 になり、視 線の方 向 が さらに確 認しや すくなることで す。親しい、親し くない、 の関 係で 視 線の 使い 分けが 重 要になります。 それから完 全に 露 出した顔の皮 膚の中で眉だけが 毛 が 残って、表 情を演出することに 役に立ちます。唇も粘 膜の 部 分 が まくれ 返った 赤 唇 (せきしん ) が 発 達しますが、 これは人間以 外ではほとんどありません から、 「見られ たくない 顔 」を放 棄して、 「見られ たい顔 」 、 さらに最 近で は「見せたい顔」になっているのかもしれません。 「 誘 惑したい、 された い顔 」かもしれません。 ホモ・サピエンスとしての 顔を見ましょう。歯 が 退 化して「食う顔 」が 目立たなくなります。歯列 全 体も後 退します。 また脊 柱 頸部 が 直 立し、 顔を基 準 にしてみると脊 柱 が 前に 押し出されるようになります。 その結 果、 歯 列と脊 柱 頸 部との間にある咽 頭のスペースが 足りなくなり、 もと もと咽 頭の中にあった喉 頭 が 頸の中 程まで下がらざるを得なくなりま した。 ところが、 それ が 革命的な事態をもたらします。つまり、 喉 頭の 声 帯 で つくられた 声 が 口から出る途 中 で、 舌の 付け 根と口 蓋との間で 調 整して、 言 葉 がうまくしゃべ れ るようになったので す。 ただし 私 たちはクシャミがうまくできません。クシャミは、本 来は 鼻 の 異 物を吹き飛 ば すためなので、鼻 から出なければ 意 味 が ありませ ん。動 物も人間の 赤ん 坊も、喉 頭の 位 置 が 高いので鼻でクシャミをし ます。赤ん 坊はクシャミすると鼻 汁 が ジュルッと出ることが ありますが、 私 たちはクシャミをしても鼻 から出ません 。 それは 喉 頭 が 下がってい るので、 クシャミの息は鼻ではなく口から出るからで す。鼻の異 物を吹 き飛 ば すという本 来の目的のクシャミをしないのは、 ずいぶん 変なこと です。 もちろん、鼻 から出すこともできるのでしょうが、鼻 汁 が 出るとみ っともないので、初めは意 識 的に、後には 無 意 識 的に鼻から出すこと をしなくなったのでしょう。 11 私たちの 喉 頭 は 頸 にあるの で、 もし 私 たちの 顎 先 が サルみたいに 後 退していたら、 下を向 いたときに、頸 がきつく、 うっかり居眠りしたら 喉頭が 圧 迫されて窒息 死してしまうでしょう。そこで、 顎の 底 、特に前 方の部 分を拡 大して 喉 頭を圧 迫しないようにしました。その 結果 、 顎 の 先、 オトガイが 発 達したので す。有 節 音声言 語 の 発 達によって、 「息 をする顔 」 「聞く顔」が「しゃべる顔 」 「聞か せたい顔 」になりましたが、 オトガイの発達はその象 徴なのです。 私たちホモ・サピエンス独 特 の オシャレの意 識により、 「見られたい 顔」 「見せ たい顔 」がさらに発 達します。 ビーズや小さな貝殻をいっぱ い 集めた首飾りが、 南アフリカの8万年 前の遺跡 から見つかっていま す。こうしたオシャレは、 その意味 が 相 手に伝 わらないと意 味 が ありま せんので、 昔のサピエンスにはそういう表 象 能 力 が あったはずで す。 私たちと同じになったということで す。 このサピエンスがアフリカから世界中に拡 散していく過 程で、 いろい ろな気 候に適 応していきますが、 これは 最 近5万 年ぐらいの出来 事で あると考えられています。つまり700万 年に及ぶ人 類 進 化という時間 からするとわず か の間に、 それぞれの 環 境 に適 応して手足の長さ、肌 の 色の 違 い、顔 が 平 べったいか 出っ張っているか、 瞼が一重 か 二重 12 か など、 いわ ゆる人種 特 徴 が できあがっていったわけで すから、 中身 の本 質は 同じはず で す。みんな 仲 良くしましょうということです。 顔 からさぐる日本人の由来 第2部は「顔からさぐる日本人の由 来 」に つ いてお 話しします。歴 史 的 に見ると、 日 本人の 頭 骨の形 態はあ る時 期に急激に変化しました。大 雑 把に 言うと、縄 文 時代 及びそれ 以前 と、 弥 生 時 代 及びそれ 以降とで 違い ます。 つまり今 から二千 年ぐらい前に 顔の 形 が 大 幅に変わりました。 これ はいったいどうしてなのか、 生 活の仕 方が 変わった影 響なのか、 それとも 集団 が入れ 替わって遺 伝 子 構成が 大幅に変わったの かということです。 縄文人の 顔の 骨は、 全体に短く幅 広く、四角い直線的な構成です。弥生 人の 顔の 骨は、全 体 に長く曲線的な 構成です。縄文人 は、 眼 窩( がんか ) という眼球の入るところが上下に短く、 その上縁のラインが 真っ直ぐで す。 ところが 弥 生 時代 以 降の人は、 眼窩 が上下に 長く、 そ の上 縁 が 丸 くなっています。 横から見ると、縄文人は立体感があり、眉間が出っ張って、 鼻の付け 根が窪み、 鼻は高く出っ張っています。 メガネを掛けてもずり落ちない 感じです。歯 が小さく口 元 が 引き締まっています。それに対して弥生 人は、眉間から鼻にかけてなだらかで 平らな顔をしています。 また、 歯 が 大きいといった 特 徴 が あります。 なぜ違ってきたのかを調べるために、 ベースとして私 たち 現 代 人の こともいろいろ調 べます。そうするとアジアの人たちの 顔 は、北と南で ずいぶん違うことがわ かります。この 違 い は日本人の中にもあ って、 冗 談 まじりに、 「あなたは 南 方 系 だ 」 「あなたは 北 方系だ」ということ はよく言うと思います。 これは 事 実で、 たとえば 台 湾 先 住 民とモンゴル人を比べるとよくわかり ます。南の台湾 先 住 民の 顔 は、 立体 的で目鼻 立ちが はっきりしています。 瞼 (まぶ た ) は二重で、頬 骨と顎は 小 さめで す。それに比 べて北 のモンゴ ル人の顔は、平らで、 のっぺりしてい ます。瞼は一 重 、頬 骨と顎 が 大 きめ というの が 特 徴で す。 また歯の 特 徴を見ると、 中国人など北の人たちの歯は 大きくて頑丈 で す。 これは 弥 生 人も同じで す。東 南アジア人など 南の人の 歯は 小さ めで、形も割と単 純 で す。縄 文 人とも似ています。 たとえばシャベ ル 型 の 切 歯(せっ し ) というのは、 切 歯の 後ろのところ がシャベル のように 真ん中が へこん で 両 脇が出っ張っています。 このよう な 切 歯は 北 のアジア人に 多く、私 た ちでも7、 8割 の人が そうなっていま す。南へ 行くと、 その 割 合 がぐんと減 ります。 そのようなことを 参 考にすると、 日本 列 島 に元々から住 んでいた 縄 文人 の 顔 は、 東 南アジア人の 顔と似てい たと言えるでしょう。 さて、 アフリカからホモ・サピエンスが日本 にやってきたのはおよそ 4万 年ぐらい 前 で す。縄 文人 時 代 の 始まりは1万5000年ぐらい前 13 で すから、 3万 年ぐらいの 時 間 差 が あります。彼らは、 その間に文化的 な 発 達 によって現 代 化したようで す。 つまり顔が やや 華 奢になりまし たが、形はほとんど 変わらなかったので す。歯が 小さくなった ので、 口 元 が 引き締まりました。鼻は 高くて立 体 的 で、 いわば 端正な顔です。 造 作としては 眉と髭 が 濃くて目が 大きくて唇 が 厚 い 、 はっきりした 濃い 顔です。な ぜそんなことがわかるのかというと、縄 文 人の 直 系の 子 孫 はアイヌの人 たちで すから、 アイヌの人 たちの 風 貌 から 推 測で きます。 全 体としてみると、 縄 文 人の 顔は、 ヨーロッパ の旧 石器 時 代 人とも似て いて、 世 界 中で 割と共 通に見られる 顔で す。ユニバーサルモデルと言えま す。私 たち現 代人と比 べてみると横、 幅 が あ って上下に 短く、 まとまった 顔 をしています。私 たちに 比 べれば 遥 か に硬 いものを 食 べ ていたので、 造りが 頑 丈 で す。 14 北 九 州で 弥 生時 代の遺 跡から見 つ かる人骨の 典 型 的 な 顔 は、 長くて 平 べったく、歯 が 大きいようで す。 こ ういう顔は世界 的には非 常に 稀で、 北 東アジアにしか ありません。現 在 の日本 で は 近 畿 、瀬 戸 内、北 九 州 の人々の 顔と似て います。鼻 が 高く ない ので、眼 鏡をか けるとずり落ち るタイプかもしれません。 そういう顔の骨を実 際に世 界中で 探してみますと、現 代 のシベリアに住 む人たちの 骨が、 弥 生人の 骨と非 常 によく似ています。眼窩のところが 丸 く、 横から見ると、 眉間から鼻にかけて 平らです。顎が 非 常に頑 丈で 歯も大 きいので す。他の 証 拠もあわせて判 断 すると、 弥 生 時 代に日本 列島に渡 来してきた人たちのお おもとの 故郷 は、 シベリアだろうと思われます。 では、彼らはマイナス50度 にもなるシベリアで、 いったいどうやって 暮らしていたのでしょうか。冬になるとトナカイのような動 物し か 食 料 が ないところで 暮らせるようになったのは、 そのころ技 術的な発達が あったからで す。石を細 かく割って 作る石 刃 (せきじん)技 法 によって、 いろいろな 細かい加 工 道 具を作り、 さらに 角 (つ の) や 骨を材 料として 生 活用具を作りました。用途 別 のひと揃えの 加 工 道 具という意 味で、 スイスの軍 用ナイフにたとえられるような技 術が 発 達したので す。 そし て、縫 い 針 が 発 明され 、縫 製された衣 服 が できて、初 めてマイナス50 度の地で暮らせるようになったのです。 針は 角や 骨で 作ることはわかりますね。糸 はどうやって調 達 するの でしょうか 。 トナカイの 毛 は丈 夫 ではなく、糸になりません 。一 つ は 動 物の腸で す。 ウィンナーソーセージを作るときに、 腸の 丈 夫 なところを使 いますが、 あれを捩って伸ばして干 すと丈 夫な 紐になります。楽器の弦 をガットといいますが、 ガットは 腸 のことで す。 もう一つは 腱 で す。私た ちのアキレス腱は短いですが、 トナカイの脚には長い 腱 が たくさん あり ます。 で すから「さけるチーズ」のように割いて糸にすると、 丈夫な服 が 縫いあ がります。 この 技 術のお陰 で 寒 冷地に入ったのですが、 その 技 術だけでは不 十 分 で す。顔と体も、熱の発 散を防ぎ凍 傷を防ぐために変わりました。 私もそうで す が、胴 長、 短 足、 末 端 が 小さくなるので す。凍傷に罹らな いように 鼻も低くなり、空 気を暖 めるために上顎 洞という鼻 腔の 脇の スペースも大きくなります。皮 下 脂 肪 が 厚くなって瞼 が 一重 になり、唇 も耳タブも小さくなるということが 実 際に 起きたようで す。 また 髭・睫 毛・眉などの 体 毛 が 全 体 に薄くなりました。これはなぜ かよくわ かりません 。一 つ 考えられるの は、 たとえば 髭 は マイナス20 度ぐらいまでは 暖 かくていいの で す が、 マイナス50度 になると、吐く 息 が 凍りツララになって困ります。北 海 油 田 の人は、冬 は 毎日きちん と髭を剃るそうで すから、 やはりこういう理 由ではないかと考えられ ます。 また 冷 凍 の 肉をそのまま噛んだり硬 い 革をなめして 軟らかくする ので、頬 骨と顎と歯 が 大きく頑 丈になります。その 結 果 、顔 が 大きく平 らになりました。 南 方アジア人やヨーロッパ人は 瞼 が 二 重で す。犬も猿も二 重で す。 これ が 普通の 状 態で、北 方アジア人は 特 殊 で す。眼 球 の 角膜には血 管 が なく寒さに 弱 いため、 眼 球 を守るために瞼の 皮下脂 肪 が 厚くな ったということで す。 さて、 どういうわけか 北 東アジア人は、 ウィンクが できない か下 手で す。いわ ば「見せたい 顔 」だったもの が、 むしろ一 時 的に 遠 慮して「見 られ たくない 顔 」になったと言えると思います。このことから「表 情 の 15 乏しい日本人 」という表 現も生物学 的 に言えることかもしれません。 ウィンクが できるというの は、 片目も眉もまったく動 かさず 片目だ け つぶ れ ることで す。ヨーロッパ人 ができることは 私 たちの常 識でした が、実 はアイヌの人 たち が ヨーロッパ人と同じか それ 以 上にウィンク が 得 意 だと発 見したのは、 香 原 先 生で す。アイヌの人たちは見 事 に片 方 ずつ目を簡単につぶってみ せます。ということは、 縄 文 人もウィンクが 上 手 だったことでしょう。 それから、 耳アカが 湿っているのは、 ヨーロッパ人やアフリカ人、 南方 アジアやアイヌの人たちに多 い。 ところが 北 方アジア人だけ特 殊で、 乾 いた耳アカになります。 スプーン 型 の 耳 かきは、 日本や 東 アジアにしか なく、 ヨーロッパやア メリカなどには 売っていません。彼らの 耳アカは earwaxとい って 湿 っていますから、綿棒や波 形シリンダーで 掃 除します。 こうしたところ が 顔 形 以 外 の 特 性で、私たちの由来 が わかるところで す。 腋 臭も耳アカに関 係した 特 徴で す。汗 腺には、 ただの 塩 水を出すエ クリン腺と、 タンパ ク質を出すアポクリン腺の2種 類 が あります。 アポク リン腺は、 毛 根 に 開 口していて、腋 の下と陰 部と乳首そして耳の 孔に あります。アポクリン腺の 本 来 の 役 割は、分 泌 物を毛 に付 けて臭 いの 16 情 報として使うことで す。特に性 的な 魅 力にもします。耳 の 孔 だけは 毛 が ありませんが、 その 臭いと苦 い 味を虫が 嫌うので 虫除けになって います。耳アカは、舐 めてみれ ばわかりますが、確 かに苦いで す。北 方 アジア人は、 アポクリン腺 が 少ない ので 腋 臭 が 少なく耳アカも乾 いて いるので す。なぜそうなったかはわかりません が、 ヒゲが 少 なくなり体 毛 が 少 なくなったことと関 係 が ありそうで す。 毛根には皮 脂腺という脂 肪を出す腺とタンパク質を出 すアポクリン 腺 が あって、両 方 発 達させたら 乳 汁になるというわ けで す。 もともと 左 右の腋 の下から陰 部に 至るVゾーンはアポクリン腺 が 発 達して、 乳 腺 が できや すいところで、たとえば 豚 で はここに10対ぐらい 乳 房 が 並んでいます。人 間の 副 乳というの がこのあたりにできたりします。 人 間は 腋 臭 が 発 達していますが、実は他 の 動 物にはほとんど あり ません。直 立二足 歩 行 するようになったから、 アポクリン腺 が ここにあ るので す。普 通の 動 物は陰 部 近くにあります。人間は、 下のほうの 臭い を一々嗅いだら 失 礼になりますし 疲 れて大 変なので、 上の ほうにある と都 合が いいようです。直 立二 足 歩 行したから腋 臭 があるようになっ たとは、 人類学の 基 礎知識 で すが 、 お話 するのは 少々憚られます。 もう少し下世 話 な 話をしますと、動 物 は耳 の 孔 の中だ けで は なく、 耳 介 の 内 側 全 部 にアポクリン腺が いっぱ いあり湿 っています。 だから、 耳アカの湿っている状 態を猫耳とも言うので す。黒 柳 徹 子さんの『窓ぎ わ のトットちゃん』を読 むと、 うちへ 帰って飼 い 犬 の 耳の臭いを嗅ぐと、 うちへ 帰ったという感じ がしたといいますから、 彼女もわかっているの でしょう。縄 文 系かもしれません。 寒 冷 地で 暮らしてい た 北 方アジ ア人は、 その 後6000年ぐらい 前か ら東アジ アにどんどん 拡 大し、 その 途中で日本 列島にも入ってきて弥 生 人になります。 もともと縄 文 人 が1万 4000年前から日本 列島に住んでい たところへ、 2800年ほど 前に 北 方 アジア人 が入ってきます。そのときに 中国南 部の水田 稲 作や金 属器など の文 化を吸収して入ってきました。 そ の文 化 が 縄 文 文 化と融合したのが 弥生文化です。 その 結果、縄 文人は北と南に分断さ れ、 その 子 孫 が 北 海 道のアイヌの人 たちと、沖 縄の 琉 球人というわけ で す。そして 本 土のいわ ゆる和人は北 方アジア人の 影 響 が 相 当 強 いと考 えられます。 縄文人と弥 生 人の 顔はこのように 復 元できますが、縄 文人はアイヌの人 を真 似て復 元しています。骨の形は、 北海道では縄 文から近世アイヌまでほとんど 変 わらない ので、 これで 間違いないと思われます。 私たちの世 代には 非 常にインパクトのある岩下志 麻さんと吉永小百 合さんを比べてみましょう。岩下さんは弥 生 顔で す。顔が 長めで頬骨が 大きく、 口が 少し出っ張り、 鼻の付け根は低くてだんだん 高くなる。 それ に対して吉 永さんはどちらかと言えば 縄文顔 で す。鼻 が 付け 根 からし っかりして、全 体 に 顔 が 短い。頬 骨が さほど 大きくない。口 元 が 引き 締まって唇が 少し 厚 い。 縄 文 人と弥 生 人 が 混ざり合って、古 墳 時 代 以 降 の人たちが でき あ がりました。現 在の 本土日本 人つまり和 人は、 平 均 すると渡 来して きた弥 生 人 が70% 、縄 文 人 が30%ぐらい の 混 血と考えられていま すが、どうしてこうなったの でしょうか。縄 文 時 代 末 期 の人口は10 万人と推 定されています。 さりとて、 この 比 率になるように 弥 生人 が20 万人も来 たとは思えません。弥 生人が みんな 縄 文 人を殺したとも思え 17 ません。 可能性が 高そうな理 由は二つ で す。 一 つは 渡 来 人 が 麻 疹、 結 核、 イ ンフルエンザなどの 病原 菌を 外 から 持ち込 んだの で、 抵 抗 力の 小さ な 縄 文人 が 病 気 になって人口 が 減ってしまったことで す。これは、 大 航 海 時 代 以 降 にアメリカやオーストラリアにヨーロッパ人 が入ってい ったときに実 際 に 起きた 現 象で、 人口が 激 減しました。 もう一 つ は、 渡 来してきた弥 生 人は、 水田 稲 作 の 農 耕生 活をしていて人口 増 加 率が 高いので、 たとえば1万人しかいなくても、 最 終的には 縄文人と人口が 逆 転したのではない かと考えられます。 渡 来してきた弥生人は中央集権国 家を打ち立てましたので、 絵巻物 でも明らか なように、彼らの 血を受 け 継ぐ貴 族 は 引目 鉤 鼻 、 ぽっちゃ りした 顔 で、 まさしく北 方アジ ア人の 顔 で す。新 参 者 のくせ に、 こうい う顔 が 福 福しい良い 顔で日本 的 だといって威 張 ってい たわ け で す。 反 対に 縄 文 人の 顔 を受 け 継 い だ人々の 顔 は、周 辺 で 抵 抗してけし からんということで 盗 賊や鬼の 顔 に されてしまいました。社 会 的 差 別 が ずっと存 在してい たの で す。 それは、 たとえば 江 戸時 代 の浮 世 18 絵 の顔を見てもわかります。 一重瞼で 鼻も付け根 が 低くて徐々に高くなる、 北方アジア人の 伝 統を引き継いだ顔 をしています。ただ、 みんな顔が 非常 に 細 長いようで す。それはこの当 時 すでに食生活の影 響で、 将軍や殿様、 金 持ちなど、上 流階級はみんな顔が 細く華 奢になっていますから、 上流階級への 憧 れ から細長い顔が 美人 の 条 件になり、 いわゆる瓜 実(うりざね ) 顔になったというわけで す。 しかし明 治 以 降に欧 米 文 化 が 流 入すると、 むしろ縄 文 人の 顔は欧 米人に似ていますので、 立体 的で 濃 い 縄 文 顔 が 復 権し、 めでたし、 めで たしと、私は思っています。 顔 がどう変わったかという典型 的 な例として、 縄 文人の 女 性のレントゲ ン写 真と、浮世 絵 美 人のモデルにな ったような 江 戸 時 代の 女 性のレント ゲン写 真を比べてみましょう。国立 科 学 博 物 館人類 研 究 部に数千 体 ある 江 戸時 代の人骨の中で、 顔 が 細い庶 民を選 んでレントゲンを撮ってみました。 江 戸時代の女性は、 縄 文時 代の女性と比べると幅が ずいぶん 狭く、 奥 行きもありませんので、 歯が 全 てきれいに並びきらないなど、 いろいろ障 害が起きることがわかると思います。顎の骨の緻密質の厚さが 半 分ぐら いしかなく、 骨が 華 奢で す。噛む力も5分の1くらいでしょう。現代の 若者 もまさしく同じでして、 こういう顔がどんどん増えています。 まとめとしては、 現 代の日本人は 縄文人と弥 生人の 混 血で 形 成され ていて、 アイヌは 縄 文 人の 顔をそのまま受け継いでいて、本土人は主に 弥 生 人 、琉 球人は半々ぐらい か なと考えられています。 身 体 特 徴は混 血の 割 合でそれぞれ 違 います。 もちろん 個人変異 が 非 常に多いので、 本土人の中でも縄 文 人そっくりの人もいれば、 弥生人 そっくりの人もいます。 節 度ある「見られたい」 「見せたい顔 」はいいので すが、 「見られたく ない顔」は、 ある意 味では哺 乳 類が 持っていた特 徴でもありますし、 私 たち日本人が文化 的にも持っていた要 素で すので、 大 事 にしたいと思 います。 顔 からさぐる未来人の行方 第3部 は「 顔 からさぐる未 来 人の 行 方」が テーマですが、お 話しす ることが あまり多くありません。遺 伝 的な 変 化をもたらすほど 現 代 生 活は 厳しくありませんので、大きな 変 化は 起こらないでしょう。 ただ、少々言うのを憚りますが、 一 般的な意味で 弱 者救 済 による変 化 が 起きる可 能 性が 多分にあります。たとえば 近 視や 色覚 異 常は、 昔 の 狩 猟 採 集 時 代にはほとんどなかったのですが、 農 耕 生 活 が 始まる にしたがってどんどん 増えてきたと考えられています。 脳 は、 これ 以 上は 大きくなりません。みんなが 帝王 切開するなら別 で すが、 これ以上 大きくなったら骨盤 から産めなくなってしまいます。 それ から、 先 ほどお 話ししたように、軟らかい 食 物 の 影 響で 顔 がど んどん 虚 弱になっていきます。あまり虚 弱 化 すると、 単なる外 見の 問 題 ではなく、消 化・呼 吸・発 声 など、 諸々の 機 能 にも影 響してきます。 先 ほど 原 島 先 生が おっしゃった 未 来 顔 は、 アイスクリームコーンの 上に丸いアイスクリームをたっぷりおまけしたような状 態になりそうで す。少 女コミック的 発 想 で、 このような 顔 が「見られたい顔 」 「見せたい 顔」 として重 宝がられては困ります。たとえば 歯の 植 わるスペースが 狭 くなり、 歯の 数は 現 在の32本 から20本 になってしまう可能 性が ある でしょう。 これは、 先ほど原 島 先 生の 話にありました「 Newt on」の 記 事を書 くときに、私 が 描 い たスケッチで す。 19 縄 文から現代になって未 来になる と、 こんな変 化 が 当然 起きるだろうと いうことです。私 が 縄 文 人と弥 生人 そして現 代人の骨の 幅 や長さなどの データを提 供しました。その計 測値に 基 づ いて 原 島 先 生 が 顔をCGで 作 ってくださいました。顔の表 面の特 徴 は、 プロレスラーから縄 文人らしい 顔 を集めました。 当時の 「Ne wt o n」編 集 部 の人から弥 生人らしい 顔を集めた のですが、 中に1人か2人女性 が 混じ っていたそうで、少し女っぽくなりました。 いずれにせよ縄 文人と弥 生 人が 混ざり合って、表 面の 造 作 は 中間 ぐらいになります。ただし、顔の長さと幅 はそれぞれデータが あります ので、 こんなふうに 細 長く変 わってきました。今 後、 表 面の 特 徴 が 混合 している状 態は 変 わらないとして、顔 形の 変 化をそのまま続 けたらど うなるというの が原島 先 生のところで CGで 作ってもらったこの 未 来 人の 顔 です。 20 以 上で 終 わります。ありがとうござ いました。
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