戦いの示唆 ―西川祐信の武者絵

第一部 研究論文
戦いの示唆 ―西川祐信の武者絵
ジ ェ ニ ー ・ プ レ ス ト ン Jenny Preston
(矢野明子 訳)
49 戦いの示唆 ―西川祐信の武者絵
源 義 経、 曾 我 兄 弟、「 太 平 記 」 と い っ た 軍 記 物 は、 失 わ れ た 武 勇 の
を 見 た。 そ の よ う な 時 代 に お い て、「 平 家 物 語 」 や 保 元 平 治 の 乱、
江 戸 時 代 は じ め の 一 世 紀 は、 和 平 と 文 治 に よ る 比 較 的 安 寧 の 世
踏み込むための地平というよりもむしろ、現実の身に迫る諸問題
たちにとっては、同じ武者のトポス(主題)は、見知らぬ世界へ
は自身の優れた才能を世に示す機会となったのに対し、後の絵師
( 図 1 )と 西 川 祐 信 の『 絵 本 答 話 鑑 』( 享 保 十 四 年〈 一 七 二 九 〉)( 図 2 )
との関わりにおいて、まとまった意味を付与される対象であった
宣( 一 六 一 八 ─ 一 六 九 四 ) は、『 古 今 武 士 道 絵 づ く し 』 の 序 文 に お
からそれぞれ、一の谷の戦いで越中前司盛俊が討死する場面を見
世界と未知の可能性を読者に垣間見せる格好の題材であった。そし
い て、「 和 漢 武 者 之 風 俗、 喜 怒 哀 楽 の 顔 ば せ、 老 若 の 姿 を そ れ 〳〵
てみよう。どちらも盛俊が田中に仰向けに倒れ、猪俣小平六則綱
と 考 え ら れ る 。例 え ば 、師 宣 の『 大 和 武 者 絵 』( 元 禄 二 年〈 一 六 八 九 〉)
尋 常 に 書 あ ら は せ る( 中 略 ) 誠 の 戦 場 を 見 る に ひ と し 」 と 、 自
がとどめを刺さんと降りかかる瞬間を描いている。師宣にとって
て絵師にとっても、武者の世界は同様な魅力をもっていた。菱川師
らの作品への意気込みを語った。この書では、楠木正成と息子正
この場面は、格好の敵武者を探して戦場へやって来た猪俣の、勇
小意地のわるい姑のにはかに嫁のひいきせ
いる。画中の詞を読んでみよう。
俣」のレトリックの意味が大きく変更されて
し か し な が ら 祐 信 の 図 で は 、「 越 中 前 司 ― 猪
んぬきつかもとをれともかたなさしけり
やがてぜんじを取ふせてよろいとをしをひ
としけれどもものになれたるいのまたにて
力いのまたをとってふせうたんふせうたん
み を み せ ん と て( 中 略 ) ぜ ん じ も と よ り 大
出いずれもかたきにふそくなしかけよてな
いのまたの小平六は大をんじょうにてかけ
猛さと臨機の才を描くものだった。
行 の 別 れ の つ ら さ (「 く す の 木 お や 子 の わ か れ の ほ と あ わ れ と も
中 々 也 」)、 梶 原 景 時 が 息 子 源 太 の 手 助 け に 馳 せ
寄 る 場 面 (「 子 ど も が た め に て 」)、 源 頼 光 と 四
天王の超人的な武勲など、年若い主人公を中心
としためくるめく勇姿の世界が繰り広げられて
おり、読者には若年層を想定していたものと思
われる。大衆向け版本という形式で初めて手に
できるようになった師宣のダイナミックな武者
の図像は、近世初期における庶民の想像の世界
を、漸次均質化することに大きく貢献し、師宣
の図像の多くは、後の絵師たちによって引用さ
れることとなった。
しかしながら、武者の図像が、師宣にとって
●図1: 菱川師宣『大和武者絵』1689 年、越中前司盛俊が討死(国
立国会図書館デジタル化資料より)
1
第1部 研究論文 50
らるゝは坐頭の坊に蜆の吸物すわすやうな
もので身やら皮やらしれぬといへり
浮気な針立に若後家の腹さすらすと不埒な
男に銀かすハすかぬ物あたかも風の神に火
桶預るがごとし
画面右方、仰向けになった越中前司と、まさ
に飛びかからんとする猪俣が対峙する図と、画
面左方の、風神が手に提げた火鉢から男が煙管
に点火する図によって表されているのは、慎重
に行動すべしという忠告である。火鉢の場面は
明らかに、信用してはならないものの表現であ
る 。 そして、ここでの越中前司と猪俣の場面は、
命 を 落 と さ せ る こ と に な る 物 語 の 展 開 に、 暗 に
言い及んでいるにちがいない。「平家物語」巻第
九からの次のくだりはよく知られている。
猪 俣 、「 ま さ な や 、 降 人 の 頸 か く 様 や 候 」。
越 中 前 司 、「 さ ら ば た す け ん 」 と て ひ き お
こす。まへは畠のやうにひあがって、きは
めてかたかりけるが、うしろは水田のごよ
みふかかりけるくろのうへに、二人の者ど
も 腰 う ち か け て、 い き づ き い た り。 し ば
し あ っ て、 黒 革 威 の 鎧 着 て、 月 毛 な る 馬
に乗ったる武者一騎はせ来たる(中略)越
中前司、はじめはふたりを一目つつ見ける
華を添えるはずの画中詞が、姑のわざとらしい物言いに言及するな
ならない欺瞞を暗示するものとして挿入されているのである。図に
いたるところに潜む奸計、すなわち賢明な民が常に注意を払わねば
師 宣 に と っ て こ の 戦 い は、 二 人 の 高 名 な 荒 武 者 の 死 を 賭 し た
たをばくとついて、うしろの水田へのけにつきたをす 。
がり、ゑいと言ひてもろ手をもって、越中前司が鎧のむない
たとまもって猪俣を見ぬひまに、ちから足を踏んでつい立あ
が、次第にちかう成ければ、馳来る敵をは
ら ば 、猪 俣 と 越 中 前 司 の 対 決 も ま た 、欺 き 、す な わ ち 猪 俣 が 越 中 前
対決を表すものであったのに対し、祐信にとっては、命取りにな
武 勇 の 絵 画 化 と い う ほ ど 単 純 な も の で は な く、
司を騙すことによって隙をついて優勢を奪い、ついには越中前司の
51 戦いの示唆 ―西川祐信の武者絵
●図2: 西川祐信『絵本答話鑑』1729 年(国文学研究資料館蔵)
*1 松
* 平 進 『 師 宣 祐 信 絵 本 書 誌 』( 一 九 八 八 年 、 青 裳 堂 書 店 、 八 一 ペ ー ジ )
*2 梶
* 原正昭 、山下宏明校注『新日本古典文学大系 平家物語』下(一九九三年、岩波書店、一六九ページ)
* *
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2
た。図像は同じだが、文脈が変わったのである。
るかもしれない騙しの手口に対して注意を促すための一例となっ
対する臣民の義務という考えを呼び起こした。かつて闇斎の弟子
とっては、このような関心は、当然のこと、国の元首(天皇)に
庶民間から生まれたがゆえに、それらの学問的探求は、社会に
めの私塾の設立などは、いずれもそれに寄与するものであった。
うになっていた。在野の学者による講義や学問の集い、商人のた
広い主題に関する当時の前衛的な思想に触れる場が提供されるよ
重なっている。十七世紀末頃までには、もし庶民が望むなら、幅
重なる。それはまた、庶民の間に知識人が台頭してくる時期とも
り、ちょうど版本が奢侈品から一般商品へと移り変わった時代と
ていたと考えられる。祐信の絵本制作は十八世紀前半全般にわた
において変化しつつあった社会観・権威観・庶民観などが関わっ
には、絵師が芸術的新味を追求することよりも、むしろ十八世紀
ているにすぎない。とはいえ、このように含意を変化させること
た 。 つ ま り 日 本 は「 武 士 国 」 と な り、 強 欲 と 傲 慢 に よ っ て 堕 落
ことを、重大な社会的不正を引き起こすものとして厳しく批判し
見 絅 斎 は 、「 軍 兵 」 の 口 に 糊 さ せ る た め に 農 民 に 不 当 な 税 を 課 す
る理想は、所によっては次第に弱体化しつつあったと言える。浅
増 加 さ せ た に 違 い な い 。 し か し 十 八 世 紀 ま で に は、 武 士 の 掲 げ
法家によって火を付けられ、師宣の武者絵に対する庶民の関心を
鹿素行(一六一二─一六八五)のように多大な影響力をもった兵
が生じ始めた。過ぎし日の武芸練達に対する憧憬は、例えば、山
政治的意識の芽生えに触発されて、庶民の間の武士観にも変化
皇思想に基づく探求は、いわば危険な土地に穴を穿ったのだった 。
点とした幕藩体制に対する批判が許されなかった時代に、これら尊
れ ば 、 同 様 な 肉 体 的 苦 痛 を 感 じ る と い う も の で あ る 。 将軍を頂
だ っ た 浅 見 絅 斎 ( 一 六 五 二 ─ 一 七 一 二 ) は 、天 皇 と 臣 民 の 関 係 を 、
おける個人的役割の認識や、そもそも日本人とはどのような存在
し て い る と 論 じ ら れ た の だ っ た 。 そ の 数 十 年 後 、賀 茂 真 淵 が 『 国
与えられた定型の修辞(ここでは図像)が、文脈によって異な
であるかということに、ますます関心を寄せるようになった。こ
意考』
( 明 和 二 年〈 一 七 六 五 〉の 出 版 だ が 、そ れ 以 前 に す で に 出 回 っ
存在論的な相互依存のひとつとして特徴づけた。つまり、人は爪
れ に は 内 容 的 に も 構 造 的 に も、 儒 学 や 朱 子 学 の 原 理 を 基 盤 に も
ていた)の中で、戦国時代の武士への恩賞の算出法、つまり何人
る意味を帯びるというのは、とりたてて新しいことではない。先
ち、加えて神道思想がさまざまなレベルで影響していた。山崎闇
を殺戮したかという、仏教的因果応報観の否定に基づくように見
先をぶつければ痛みを感じるように、主(天皇)から切り離され
斎(一六一九─一六八二)の垂加神道、すなわち、天皇を神とし
える恩賞制度について、次のように論じた。
の例は、武者絵のレトリックが複雑な記号となり得ることを示し
て尊崇する態度を軸に構築された思想原理に傾倒した多くの者に
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6
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第1部 研究論文 52
と呼ぶ。更にそれより少し多く戦場で敵を殺した者は大名と
ない身分となっている。人を少し殺した者は現在では旗本侍
の時に一人も殺さなかった人は、現在では取立てて云ふ程も
は各地に於て戦争し、相互に人を殺し合ったのであった。そ
定するまでに於ては世の中がすこぶる乱れて、その間に各人
仏の道では最も大なる罪を殺人とする。然るにこの御代が平
を帯び始めていたにちがいない 。
あったならば、描かれた武者の勇姿そのものも、新たな意味合い
もし十八世紀の読者が、時に、武士の領地というものに否定的で
な し た こ と が、 ど う し て 徳 川 政 治 を 支 持 す る も の と 言 え よ う か。
真淵が、江戸時代の封土制を過去の血塗られた行為と同等に見
代々天下の覇権を握り繁栄を続けていられるのである 。
なり、大名より少し多く殺した人々は一国の主となった、又
十 八 世 紀 初 期 以 来、 多 く の 作 者 が、 あ ら ゆ る 人 の 心 の 内 に あ
*3 浅
* 見 絧 斎 「 仁 説 問 答 師 説 」( 西 順 蔵 ほ か 校 注 『 山 崎 闇 斎 学 派 』〈 一 九 八 〇 年 、 岩 波 書 店 、 二 六 〇 ペ ー ジ 〉)。 絅 斎 の 尊 皇 反 幕 思 想 に つ い て は 、
石 田 和 夫 、牛 尾 弘 幸 『 浅 見 絧 斎・若 林 強 斎 』( 一 九 九 〇 年 、明 徳 出 版 社 ) 参 照 。 垂 加 思 想 に つ い て の 基 本 的 解 説 は 、阿 部 秋 生 、平 重 道 校 注 『 近
世 神 道 論 ・ 前 期 国 学 』( 一 九 七 二 年 、 岩 波 書 店 ) を 参 照 。 垂 加 思 想 の 広 い 意 味 合 い に つ い て の 議 論 は 、 前 田 勉 『 近 世 神 道 と 国 学 』( 二 〇 〇 二
年 、 ぺ り か ん 社 )、 前 田 勉 「 守 護 さ れ る 現 人 神 」(『 江 戸 の 思 想 』 第 四 号 、 一 九 九 六 年 、 七 一 ─ 八 一 ペ ー ジ ) 参 照 。
る武士魂に訴えはじめるようになっていた。例えば、真淵をはじ
8
限りなく人を殺したものに至っては、非常に貴い身分として
9
*4 祐
* 信の共作者の多くが垂加思想に関わりがあったようであることは興味深い。中村三近子は闇斎のもとで学んだ経験があり、自著の中で闇
斎 を 「 垂 加 先 生 」 と 呼 ん で い る 。 三 近 子 の 号 「 絅 錦 斎 」 か ら は 、 彼 も ま た 浅 見 絅 斎 の も と で も 学 ん だ も の と 推 測 さ せ ら れ る 。「 絅 」 と 「 斎 」
は 「 絅 斎 」 の 字 を 利 用 し て お り 、「 錦 」 は 錦 小 路 に あ っ た 絅 斎 の 庵 号 「 錦 陌 講 堂 」 に 由 来 す る も の と 思 わ れ る 。 阿 部 隆 一 「 山 崎 闇 斎 学 派 諸
家 の 略 伝 と 学 風 」( 西 順 蔵 ほ か 校 注 『 山 崎 闇 斎 学 派 』〈 一 九 八 〇 年 、岩 波 書 店 、五 八 二 ペ ー ジ 〉) 参 照 。 祐 信 晩 年 ( 一 七 四 五 ─ 五 〇 ) の 共 作 者 、
多田南嶺は中山要人のもとで垂加神道を学んだことが、また、中園季題や中山兼親に故実に関する助言を施すなど、宮廷との近しい関係が
知 ら れ て い る 。 古 相 正 美 『 国 学 者 多 田 義 俊 南 嶺 の 研 究 』( 二 〇 〇 〇 年 、 勉 誠 出 版 )、 神 谷 勝 広 「 多 田 南 嶺 の 浮 世 草 子 -当代俳壇との関係を
軸 に 」(「 近 世 文 芸 」 七 一 号 、 二 〇 〇 〇 年 、 十 三 ペ ー ジ ) 参 照 。 祐 信 の 共 作 者 た ち の 人 物 像 に つ い て は 、 山 本 ゆ か り 「 西 川 祐 信 と 絵 本 ・ 往 来
物 十 八 世 紀 前 半 期 の 学 問 史 と の 関 係 か ら 」(「 採 蓮 」 十 号 、 二 〇 〇 七 年 三 月 、 三 七 ─ 六 五 ペ ー ジ ) 参 照 。
*5 山
* 鹿 素 行 の 武 士 論 に つ い て は 、 前 田 勉 「 山 鹿 素 行 に お け る 士 道 論 の 展 開 」(「 日 本 文 化 論 叢 」 十 八 号 、 二 〇 一 〇 年 、 一 ─ 一 九 ペ ー ジ ) 参 照 。
巻 賀 茂 真 淵 集 、 本 居 宣 長 集 』( 一 九 三 三 年 、 大 日 本 思 想 全 集 刊 行 会 、 四 一 ペ ー ジ )
*6 浅
* 見 絧 斎 『 箚 禄 』( 西 順 蔵 ほ か 校 注 『 山 崎 闇 斎 学 派 』〈 一 九 八 〇 年 、 岩 波 書 店 、 三 七 〇 ─ 三 七 三 ペ ー ジ 〉)
*7 同
* 右、三七一ページ。
*8 大
* 日本思想全集刊行会編『大日本思想全集 第
*9 同
* 右。
53 戦いの示唆 ―西川祐信の武者絵
*
*
* * * * *
9
分 け 隔 て ず 、 読 者 に 対 し て 、「 大 和 魂 」 に 誇 り を 持 ち 、 天 皇 を 護
る こ と を 訴 え た 。 そ れ は、 死 後、 八 百 万 の 神 に 伍 す る た め の 献
身 で も あ っ た 。 中 村 三 近 子 は 著 述 家 か つ 教 育 者 で あ り、 祐 信 と
13
み
15
た苦難の敵を取るべしと訴えた 。貝原益軒のような保守的な思
の『六諭衍義小意』では「丈夫らしき味棹」をもって、親が被っ
お と こ
か ら 取 っ た と 思 わ れ る「 絅 錦 斎 」を 用 い 、享 保 十 六 年( 一 七 三 一 )
五作ほど共作したことでも知られるが、その号には「絅斎」の名
14
を見せるものだと述べている 。
士であり、必要に迫られれば、いかなる武士にも劣らぬ戦いぶり
想家でさえ、農民は本来勇気ある者、すなわち古代においては兵
16
の 八 文 字 屋 本『 百 姓 盛 衰 記 』 で は、 米 の 不 作 に 悩 ま さ れ、 重 い
レ パ ー ト リ ー の 中 に 入 り 込 ん で き て い た。 正 徳 三 年( 一 七 一 三 )
的な体制を転覆させようとする様子を視覚化することが、文芸の
よう。この頃までにはすでに、武装した農民たちが団結して抑圧
不穏な事態が増加していた時代において、予兆的であったと言え
このように農民たちの武者精神をほのめかすことは、地方での
17
も れ ぬ を 法 と す 」 と 理 由 付 け て、 そ の 土 地 の 大 名 の 屋 敷 を 焼 き
税 に 苦 し ん で い た 農 民 た ち が 、「 是 非 な れ 共 下 は 上 の は た ら い に
18
め国学者の著作を通じて次第によく知られるようになった「大和
魂 」 や「 ま す ら お 」 と い っ た 概 念 は、 早 く も 絅 斎 と そ の 周 辺 の
崎門垂加神道家たちの著作の中に現れていた。絅斎にとってこれ
ら の 語 は、 日 本 人 本 来 の 特 質 を 規 定 す る も の だ っ た 。 享 保 五 年
仏 制 儒 格 と も に も ち ゆ べ か ら ず 」と 唱 え た 。 ま た 、松 岡 仲 良 は『 神
路手引草』において「日本人の魂を以て、異端を砕く心ゾならば
( 一 七 二 〇 ) に は、 神 道 思 想 の 一 般 化 に 貢 献 し た 増 穂 残 口 が『 神
11
道 学 則 日 本 魂 』( 享 保 十 八 年 〈 一 七 三 三 〉) の 中 で 、 農 民 も 商 人 も
12
「百姓の政治的主題」の誕生を目撃することになった。すなわち、
起こした。十八世紀初頭の数十年間は、深谷克己が言うところの
れ て い る ( 図 3 )。 享 保 十 四 年 ( 一 七 二 九 )、 津 山 の 農 民 が 一 揆 を
ちが鍬鋤を手に進軍する、という二場面が祐信によって絵画化さ
討ち、一方では、大名が逃げ込んだ寺へ向けて数千という百姓た
19
10
●図3:西川祐信『百姓盛衰記』1713 年(京都大学附属図書館蔵)
第1部 研究論文 54
はや話合いをもってするだけのものではなかったのである。
中で、物事の状況をよく考えるべしと訴えた。つまり、政治はも
初 め て 強 訴 件 数 が 越 訴 件 数 を 上 回 っ た の だ 。 絅 斎 は『 箚 禄 』 の
える声明のうち、最も高位の人物から出されたものは、将軍吉宗
制に対する不満が明らかに募っていた。幕府の統治法に異議を唱
に看過されてはならない。一七三〇年代までには、幕府の政治体
乱れた国内の状況があればこそ、祐信の作品がしばしば、正義
行 し た 『 温 知 政 要 』( 享 保 十 六 〈 一 七 三 一 〉) と 題 さ れ た 政 教 書 で
の従弟で尾張藩主の徳川宗春(一六九六─一七六四)が藩内で版
*10 例*え ば 、真 淵 は 『 に ひ ま な び 』 の 中 で 「 高 く 直 き 大 和 魂 」 に つ い て 述 べ て い る 。 佐 佐 木 信 綱 『 日 本 歌 学 大 系 巻 七 』( 一 九 五 七 年 、風 間 書 房 、
二 〇 一 ペ ー ジ )。
の政府および暴君の打倒という主題に言及していることは、簡単
20
*11「 武
* 毅 丈 夫 ニ テ 、 廉 恥 正 直 ノ 風 天 性 根 ザ ス 。コ レ 吾 国 コ ソ ス グ レ タ ル 所 也 」『 中 国 弁 』( 西 順 蔵 、 阿 部 隆 一 、 丸 山 真 男 編 『 山 崎 闇 齋 學 派 』、
日 本 思 想 体 系 三 十 一 、一 九 八 〇 年 、 岩 波 書 店 、 四 一 六 ペ ー ジ )
*12 阿*部 秋 生 、 平 重 道 校 注 『 近 世 神 道 論 ・ 前 期 国 学 』( 一 九 七 二 年 、 岩 波 書 店 、 二 〇 六 ペ ー ジ )
*13「 紫
* 極の 靖鎮を護る者(中略)これを日本魂と胃ふ」同右、二五七ページ。
*14 こ*の 考 え 方 は 様 々 な 著 作 に 見 ら れ る が 、 例 え ば 、 若 林 強 斎 『 神 道 大 意 』 で は 「 八 百 万 の 神 の 下 座 に 列 り 、 君 上 を 護 り 守 り 、 国 家 を 鎮 む る 霊
神 と 成 に 至 る ま で 」、 あ る い は 吉 見 幸 和 『 国 学 弁 疑 』 で は 「 所 謂 日 本 魂 に し て 念 々 忘 れ ざ れ ば 、 即 ち 身 不 肖 と 雖 も 、 宜 し く 八 百 万 の 神 の 末
席 に 列 る べ し 」 と あ る 。 前 田 勉 『 近 世 神 道 と 国 学 』( 二 〇 〇 二 年 、 ぺ り か ん 社 、 一 三 ペ ー ジ )
*15 註*4 参 照 。
*16『 六
* 諭 衍 義 小 意 』 は 石 川 松 太 郎 監 修 『 六 諭 衍 義 小 意 』(『 往 来 物 大 系 巻 三 十 五 〈 一 九 九 三 年 、 大 空 社 〉』 に 収 載 さ れ て い る 。
*17「 農
* 人 は 商 工 に か は り て 其 志 い や し か ら ず 。 養 を う け 恩 を か う む れ ば 戦 に の ぞ ん で 其 勇 気 を は げ ま し て つ た な か ら ず 。」(『 益 軒 全 集 』
一九一一年、益軒全集刊行部、三七〇ページ)
─
*18 八*文 字 屋 本 研 究 会 編 『 八 文 字 屋 本 全 集 四 』( 一 九 九 二 年 、 汲 古 書 院 、 二 七 一 ─ 三 一 〇 ペ ー ジ )。『 百 姓 盛 衰 記 』( 作 者 不 詳 ) は 、 江 島 其 磧 が
八文字自笑と一時決別していた時期に出版された。藤原英城「正徳三年前後の其磧と八文字屋
時 代 物 の 成 立 と 谷 村 清 兵 衛・中 島 又 兵 衛 」
(「 国 語 と 国 文 学 」 八 十 号 、 二 〇 〇 三 年 五 月 、 五 八 ─ 六 八 ペ ー ジ ) に お い て 簡 潔 に 論 じ ら れ て い る 。
*19『 八
* 文字屋本全集 四』三〇二ページ
*20 深*谷 克 己 『 百 姓 一 揆 の 歴 史 的 構 造 』( 一 九 七 九 年 、 校 倉 書 房 、 二 二 四 ペ ー ジ ) ま た 、 以 下 の 文 献 も 参 照 。 Herbert P. Bix, Peasant Protest
in Japan, 1590-1884 (New Haven, Conn. (USA); London: Yale University Press; 1986). Anne Walthall, Social Protest and Popular Culture
in Eighteenth-centur y Japan (Tucson, Ariz. (USA): Published for the Association for Asian Studies by the University of Arizona Press;
1986).
55 戦いの示唆 ―西川祐信の武者絵
*
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* * *
* * *
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* *
ある。藩士たちに向けた施政の手引として著された本書は、吉宗
畑からよじれた亜麻の樹幹を抜き取るところを描いている。この
人ハ麻中の蓬ハすぐになるに麻中の麻の却て直らざるがこと
隠喩の意味するところは、跋文の中で詳しく述べられている。
の 介 入 ( 贅 沢 品 の 規 制 な ど )、 将 軍 の 強 権 主 義 的 位 置 づ け ― を 糾
し天下古今の捨もの恥べきの甚きなりいかなる愚人悪人も善
の政治の最も著しい短所―法令の厳守と厳罰、庶民生活への過度
す も の だ っ た 。 享 保 十 七 年 ( 一 七 三 二 )、 京 都 町 奉 行 に よ っ て 、
のしたがふべき悪の去べき嘗てしらざるにハあらず。
知政要輔翼』を出版した 。
祐 信 の 共 作 者 で あ る 中 村 三 近 子 は 、こ れ に 対 す る 熱 烈 な 賛 辞 、
『温
22
ある者にとっては、とりわけ際立ったところもないように見えたか
清 水 の 池 』( 以 下 『 清 水 の 池 』 と 略 称 ) を 出 版 し た 。 そ の 巻 末 は 、
諭衍義小意』が世に出てから三年後、三近子は祐信と共に『絵本
宗 春 の『 温 知 政 要 』、そ し て 三 近 子 の『 温 知 政 要 輔 翼 』な ら び に『 六
る よ り 他 な か っ た の で あ る。『 清 水 の 池 』 は、 若 年 層 の 最 明 寺 殿 百
にも値するものであったため、異議申し立ては比喩的な言葉を用い
とではない。幕府の統治体制をあからさまに批判することは、死罪
治的行動の発起を煽るものと読んだ、と考えるのも可能性のないこ
も し れ な い 。 し か し 、幕 府 の 統 治 に 幻 滅 さ れ ら れ た 者 は 、こ れ を 政
不正な為政者の批判的譬えとして、古代中国の堯・舜帝時代の四
あ っ た。 幕 府 に よ る 町 人 や 農 民 に 対
に 追 い や ら れ て い る、 と い う 見 方 が
軍の専制によって宮廷が周辺的地位
な か っ た。 少 な く と も 京 都 で は、 将
幕府政治への一般的不満の要因では
し か し な が ら、 地 方 の 状 況 だ け が
にも顕著である。
かもしれない。訴えの激烈さはあまり
を装っていたに過ぎない作品だったの
首 習 得 を 主 眼 と し た 書 に 見 え る が 、あ る い は 、単 に 一 般 的 な 往 来 物
を列挙することで結ばれている。
善人とむつべハ其身をおのずか
らよくなるものといへ共海の魚
の塩にしまぬ風情にて成人と同
居しても直らぬ者あり是ハ下愚
の至自暴自棄ものなり 尭舜の
孔子の陽貨儒悲
時四凶あり湯武の世に桀紂あり
24
そ れ に 伴 う 挿 絵( 図 4) は、 亜 麻
●図4:西川祐信画、中村三近子著『絵本清
水の池』1734 年(国立国会図書館デジタル
化資料より)
凶、夏の桀王と殷の紂王、また、孔子が斥けたという陽貨と儒悲
23
子 ど も 向 け 教 訓 書 と い う 体 裁 の 本 書 に 取 り 入 れ ら れ た 訓 戒 は、
本書の商業出版は禁ぜられたが、それでもなお、この書はすでに
多大な影響を及ぼしていた 。本書が出版されて早くも数ヶ月後、
21
第1部 研究論文 56
す る 傲 慢 な 取 り 扱 い の み な ら ず 、宮 廷 に 対 す る
不 敬 は 、享 保 八 年( 一 七 二 三 )に 初 演 さ れ た「 大
塔 宮 曦 鎧 」( 竹 田 出 雲 ・ 松 田 和 吉 作 、 近 松 門 左
衛 門 添 削 ) に お い て 諷 刺 さ れ て い る 。「 つ わ も
の 万 歳 」 の 段 で は 、鎌 倉 ( 北 条 氏 ) へ の 逆 心 を
持 つ 者 た ち が 、幕 府 の 専 制 的 行 為 を 諷 刺 す る 万
歳 を 演 ず る 。 こ れ は「 知 略 の 万 歳 」と し て 知 ら
れ る 人 気 の 絵 入 り 図 と な っ た 。結 局 こ の 絵 入 り
図 は お 上 の 目 に と ま り、 い ち 早 く 禁 止 さ れ た
が 、そ の 謳 い 文 句 は よ く 知 ら れ る と こ ろ と な っ
た。それは『月堂見聞集』に収録されている。
今 の 京 と 申 す は よ ろ ず よ こ し ま で、 あ
の 御 天 子 を は ば か ら ず、 我 ま ま は た ら
く 平 の 京、 京 の し を き は 関 東 ま か せ、
宮 方 ひ ず め 公 家 衆 た を し、 百 姓 せ た り
町 人 い じ り、 民 は き ず ち り 々 々、 ま こ
とにむねんにさふらひけると
れている。例えば、高名な武者の偉業を絵画化
関わり合っていたことが、いたるところに示さ
大衆文芸もまた、まさに同時代の政治的内容と
た の は 明 ら か で あ る。 祐 信 の 作 品 に 徴 す れ ば、
大衆演劇が危うい政治的問題を取り上げてい
25
( 松 本 四 郎 山 田 忠 雄 編『 講 座 日 本 近 世 史 四 元 禄・享 保 期 の 政 治 と 社 会 』
〈 一 九 八 〇 年 、有 斐 閣 、二 四 六 ペ ー
*25 宮*沢 誠 一「 元 禄 文 化 の 精 神 構 造 」
,
ジ 〉)、『 月 堂 見 聞 集 』
( 森 銑 三 、北 川 博 邦 監 修『 続 日 本 随 筆 大 成 別 巻 三 近 世 風 俗 見 聞 集 』
〈 一 九 八 一 年 、吉 川 弘 文 館 、二 五 二 ─ 二 五 三 ペ ー ジ 〉)。
近 松 門 左 衛 門 作 品 の 政 治 的 側 面 に つ い て は 、 内 山 美 樹 子 『 浄 瑠 璃 史 の 十 八 世 紀 』( 一 九 八 九 年 、 勉 誠 社 ) で 論 じ ら れ て い る 。
57 戦いの示唆 ―西川祐信の武者絵
●図5:西川祐信『絵本大和童』1724 年、朝比奈門破(ハーバード大
学図書館蔵)
*21「 温
* 知 政 要 」 奈 良 本 辰 也 校 注 『 日 本 思 想 大 系 四 近 世 政 道 論 』( 一 九 七 六 年 、 岩 波 書 店 )
( 一 九 八 二 年 、臨 川 書 店 、一 三 一 ペ ー ジ )も 参 照 。
*22『 温
* 知 政 要 』の 出 版 に 関 す る 議 論 は 、註 、四 五 三 ペ ー ジ 参 照 。 ま た 、蒔 田 稲 城『 京 阪 書 籍 商 史 』
21
*23 名*古 屋 市 教 育 委 員 会 編 『 温 知 政 要 輔 翼 』( 一 九 六 〇 年 、名 古 屋 市 教 育 委 員 会 )
*24 三*近 子 が 言 う と こ ろ の 「 下 愚 」 は 『 論 語 』「 陽 貨 第 十 七 」 に 見 え る 「 子 曰 、 唯 上 知 與 下 愚 不 移 ( 子 の 曰 わ く 、 唯 だ 上 知 と 下 愚 と は 移 ら ず )」
を ほ の め か す も の で あ ろ う 。 ま た 「 自 暴 自 棄 」 は 、『 孟 子 』「 離 婁 上 」 の 次 の く だ り に 言 い 及 ぶ も の と 考 え ら れ る 。「 自 暴 者 、 不 可 与 有 言 也 。
自 棄 者 、 不 可 与 有 為 也 。 言 非 礼 義 、 謂 之 自 暴 也 。 吾 身 不 能 居 仁 由 義 、 謂 之 自 棄 也 。( 自 ら 暴 う 者 は 、 与 に 言 う 有 る べ か ら ざ る な り 。 自 ら 棄
つる者は、与に為すあるべからざるなり。言、令義を非る、之を自ら暴うと謂い、吾が身仁に居り義に由ること能わずとず、之を自ら棄つ
る と 謂 う 。)」 す な わ ち 同 じ く だ り に 続 け て 説 明 さ れ る よ う に 「 舍 正 路 而 不 由 ( 正 路 を 舍 て て 由 ら ず )」 と い う 行 い を す る 者 の こ と で あ る 。
書 き 下 し 文 は 、 そ れ ぞ れ 金 谷 治 訳 注 『 論 語 』( 一 九 九 九 年 、 岩 波 書 店 )、 小 林 勝 人 訳 注 『 孟 子 ( 下 )』( 一 九 七 二 年 、 岩 波 書 店 ) に 拠 る 。
* * * *
*
その表現は通常のものとは異なる。北条邸を取り囲む築地は御所と
鎌倉の北条邸の門を破る、よく知られた場面である(図5)。しかし
からの一図を見てみよう。これは、朝比奈が和田義盛にともなわれて、
した『絵本大和童』(享保九年〈一七二四〉、以下『大和童』)の下巻
図では、幕府の役人が組織的に、御所を庶民の手の届かないもの
兼 好 の 文 章 は、 皇 統 を 凡 人 の 手 の 届 か な い と こ ろ に 位 置 づ け る。
に、 御 所 の 門 の ひ と つ に 設 け ら れ た 番 所 を 画 す た め の 柵 で あ る。
も知れない柵ではなく、両隣の築地の五本線から察知されるよう
柵の隙間から中を覗き込もうとしている。この柵はどこのものと
としている。比喩的にも、図の描くところそのままにも、この番
同じ「五本線」をもち、また軒瓦のデザインは菊花文に描かれてい
る(図6)。この絵をそのまま読み取れば、朝比奈は北条氏の屋敷の
御所を囲う塀そのものは、非常に複雑な意味をもっていた。幕府
所は庶民を天皇から切り離すものとして機能している。
内側では警護の者どもが逃げ惑っているところを描いているのであ
の「禁裏付」は、寛永(一六四三)、宮中への出入りの動向を監視す
門を打ち破っているのではなく、御所の門を打ち破っており、その
る。これは歴史的には正しくない。が、だからといって、それが意
るための措置として、御所周辺の事柄を取り仕切る役職として設置
きん り づき
図的でなかったとは言えない。
に政治的な意図をもって賀茂神社を
( 一 八 六 三 )、 孝 明 天 皇 が、 そ の 高 度
の 民 か ら 引 き 離 さ れ た 後、 文 久 三 年
た。 お よ そ 二 百 年 近 く も の あ い だ 国
さ れ た 。 そ の 間、 天 皇 は 御 所 の 外 へ 踏 み 出 す こ と を 許 さ れ な か っ
●上/図6−1・下/図6−2:御所外観図
同 様 の 門 が、 元 文 三 年( 一 七 三 八 ) の『 絵 本 徒 然 草 』 で も 描 か
れ て い る( 図 7)。 こ の 図 は、 吉 田 兼
好『 徒 然 草 』 か ら、 願 わ し き も の に
ついての換喩的瞑想を絵画化したも
のである。
訪 れ た と き、 徳 川 時 代 の 天 皇 は 初 め
て御所を離れ、行幸したのである 。
るのは理に適っているように思われ
及を意図的なレトリック装置と考え
の 筋 塀 と い っ た、 禁 裏 へ の 換 喩 的 言
頭 の 中 に あ れ ば こ そ、 例 え ば 五 本 線
禁裏に対する不当な扱いが大衆の
27
いでやこの世に生まれてはねが
はしかるべき事こそ多かめれみ
かどの御くらゐはいともかしこ
し竹のそのふのすへ葉まで人間
のたねならぬぞやんごとなき
祐信はこの文言に次のような絵を
つ け た。 町 人 た ち が 群 れ を な し て、
26
第1部 研究論文 58
る。 実 際、 御 所 の 塀 は 絵 本
の 中 で 幾 度 も 描 か れ る。 祐
信 の 和 歌 絵 本『 絵 本 有 磯 海 』
( 元 文 四 年〈 一 七 三 九 〉) の
中 の 一 図 で は、 御 所 の 塀 が
貴族の女性の感傷的な物思
いを仲介する対象物となっ
ている(図8)。
女性は雨の激しく降る
中、 侍 女 の 差 し か け る 傘 の
下 に 立 っ て い る。 画 中 に 記
中 の 繊 細 な 春 の 雨 は、 強 く
降 る 雨 に 変 更 さ れ て い る。
歌のイメージの中心にある
雨 の 雫 は、 図 中 で は 明 示 さ
れ な い。 女 性 の 心 を と ら え
て離さないように見える筋
塀 は、 歌 の 中 に は 対 応 す る
も の が な い。 だ が、 ま た も
や筋塀が本図を理解するた
め の 鍵 と な っ て い る。 築 地
の五本線は皇族の邸を表し
丸紋の棟瓦は、御所の築地塀と御所そのものの屋根を飾ったそれを
て お り、 塀 の 屋 根 に 並 ぶ 小
な春の雨と柳の糸に連なる雫の様子をありありと目の前に浮かび
彷彿とさせる。女性が注視するのは、この小丸紋である。小さな円
さ れ た 伊 勢 の 歌 は、 穏 や か
上がらせる。
●下/図8:西川祐信『絵本有磯海』1739 年、© Trustees of
the British Museum. 1938,1008,0.3
の柳に「いともてつなく玉」を置き換えた表現であることが示され
中の柳糸の先端が棟の玉の連なりに軽く触れることによって、歌中
青 柳 の 枝 に か か れ る 春 雨 は い と も て つ な く 玉 か と そ 見 る 形が棟に沿って並ぶ様は、あきらかに玉を繋いだように見える。図
伊勢
しかしこの図は、さまざまな点において尋常のものではない。歌
59 戦いの示唆 ―西川祐信の武者絵
●上/図7:西川祐信『絵本徒然草』1738 年、© Trustees of
the British Museum. 1938,1008,0.6
*26 辻*達 也 編 『 日 本 の 近 世 二 天 皇 と 将 軍 』( 一 九 九 一 年 、 中 央 公 論 社 、 一 三 四 ─ 一 三 五 ペ ー ジ )
*27 高*埜 利 彦 編 『 身 分 的 周 縁 と 近 世 社 会 八 朝 廷 を と り ま く 人 び と 』( 二 〇 〇 七 年 、吉 川 弘 文 館 、二 一 六 ペ ー ジ )。 幕 末 の 御 幸 に つ い て の 議 論 は 、
藤 田 覚 著 『 近 世 政 治 史 と 天 皇 』( 一 九 九 九 年 、 吉 川 弘 文 館 、 一 九 六 ─ 二 二 二 ペ ー ジ ) 参 照 。
* *
を経て、ひそやかな願望の対象となっ
雫の玉にきらめく柳糸との相関関係
筋 塀 と 玉 の よ う な 小 丸 紋 は、 歌 中 の
る。 皇 族 の 在 所 を 象 徴 す る 五 本 線 の
いは御所の塀を示す線条を入れた
て描かれている。公家の屋敷ある
は城郭の塀にあるような石垣とし
る。祐信の後の作品では、この塀
めに堀河邸へ連れ帰るところであ
を 出 版 し、 延 享 元 年( 一 七 四 四 )
信は『絵本勇者鑑』
(以下『勇者鑑』)
いない。元文三年(一七三八)、祐
年 間、 祐 信 は 武 者 絵 に 手 を つ け て
し た 武 者 絵 本 で あ る。 そ の 後 十 四
『大和童』は祐信が初めて制作
表現は『大和童』に特有である。
て い る。 し か し こ こ に お い て も、 塀
によって女性は愛する対象から阻ま
れ て い る。 玉 は 女 性 の 変 わ ら ぬ 思 い
を 象 徴 す る も の で あ る。 晴 れ や か な
春雨が容赦のない土砂降りに取って
代 わ ら れ た 本 図 は、 困 難 の 時 に お け
る尊皇派の忠誠心を体現したものと
読むことができよう。
に は『 絵 本 武 者 考 鑑 』( 以 下『 武
者 考 鑑 』) を 出 版 し た 。 そ の 数
する祐信の思い入れにいくらか光
への折江の序文は、この作品に対
下『 勇 武 鑑 』)で あ る 。『 武 者 備 考 』
者 備 考 』) と 、『 絵 本 勇 武 鑑 』( 以
も つ 『 絵 本 武 者 備 考 』( 以 下 『 武
折江という人物による序文と詞を
に二点の武者絵本を出版した。源
年後、すなわち祐信の晩年、さら
28
こ の よ う な 文 脈 に お い て は、 朝 比
奈が壁を打ち壊して幕府の役人たち
を 蹴 散 ら し、 天 皇 と そ の 民 の 間 の 壁
を 取 り 除 く、 と い う 絵 図 は 示 唆 的 で
あったにちがいない。『大和童』の最
終図は、切り詰められた構図の中に、
禁裏のものとも公家のものとも取れ
る 筋 塀 が 描 き 込 ま れ て い る( 図 9)。
この図は、義経を暗殺せんとした土
佐房昌俊を弁慶が捕らえ、斬首のた
●図9:西川祐信『絵本大和童』1724 年、土佐房昌俊と弁慶(ハーバード大学図書館蔵)
第1部 研究論文 60
をあててくれる。
くる
ふ
さ きゅう
くつ げん
そ
すなわ
は 厄 し み て『 春 秋 』 を 作 り、 屈 原 は 放 逐 さ れ て 廼 ち『 離 騷 』
われ
も
すで
を賦し、左丘は明を失いて、厥れ『國語』有り(中略)これ
うら
名の煙滅てつたはらずしかも高義なるは司馬氏が恨もおもひ
を以って極刑に就くも而して慍む色無し。僕は誠し已にこの
おさ
あわされ侍りてさらばもののふの八十氏を西川の筆に芳を流
りく
に 傳 う れ ば 、則ち僕は前辱の責を償い、萬に戮を被ると雖ども、
つぐな
書を著わし、これを名山に藏め、これをその人の通邑・大都
祐信の作品を司馬遷の怨詩に重ね合わせているのは意義深い見
豈 に 悔 い 有 ら ん や。 然 れ ど も こ れ は 智 者 の 爲 に 道 う べ く も、
われ
ばいく千とせふるものがたりにもとたかけきをわすれぬ
解であって、軽く見てはならない。司馬遷(紀元前一四五年ある
俗人の爲に言うは難きなり 。
い
いは一三五─八六年頃)は漢武帝(紀元前一五六─八七年)の治
かどで、腐刑(去勢)に処された。司馬遷は友の仁安に宛てた書
記した史書で、統治者を賞賛するためではなく、教え導くために
は、黄帝から武帝に至る二千年以上にわたる中国諸王朝の歴史を
司 馬 遷 が 言 及 し て い る 著 作 と は 『 史 記 』 の こ と で あ る 。『 史 記 』
簡 (「 任 少 卿 に 報 ず る 書 」) の 中 で 、 死 刑 よ り も 腐 刑 の 道 を 採 っ た
著述された。司馬遷はその中で、歴代王朝は次第に瓦解し、悪徳
世に任官した歴史家で、敵に敗れた将軍李陵の高潔さを擁護した
理由について説明している。
い
の統治者は必ず打倒されるという理論を展開した。逆境の中で著
かり
隱忍して苟そめに活き、糞土の中に函れられ、而して辭せざ
ひそか
されたこの書は、真実を伝えねばならぬという強い思いに囚われ
ゆ え ん
る 所 以 な る は、 私 に 心 に 盡 さ ざ る 所 有 る を 恨 み、 世 を 沒 し、
いにしえ
た者の、心の底からの証言なのであった。
いや
而して文采の後に表われざるを鄙しめばなり。古より富貴に
ただ てき とう
の
ちゅう じ
中国の怨詩は一八世紀の日本思想にとって重要な位置を占めて
あ
とら
して名を摩滅するは勝げて記すべからざるも、唯俶儻非常の
せい はく
い た 。 貞 享 三 年 ( 一 六 八 六 )、 絅 斎 は 「 靖 献 遺 言 」 を 記 し 、 中 国
けだ
人のみ稱せらる。蓋し西伯は拘われて『周易』を演べ、仲尼
)
http://www010.upp.so-net.ne.jp/tenmei-zehi/kanjo/shibasen/frame.htm
61 戦いの示唆 ―西川祐信の武者絵
29
からは、さらにもう一作祐信の武者絵本が存在し
*28『 絵
* 本 武 者 考 鑑 』 は 、 松 平 進 『 師 宣 祐 信 絵 本 書 誌 』 に 収 載 さ れ て い な い 。『 武 者 備 考 』 序 文
む し ゃ
た 可 能 性 が 読 み 取 れ る 。 こ の 作 品 は 大 変 な 人 気 を 博 し た よ う で あ る 。「 前 に え ら み た る 介 士 譜 三 策 み や こ も 鄙 も 甚 称 し て 世 に も め で た く も
もとめ
て は や さ れ け れ ば 書 の は や し の 責 せ は し く 今 ま で の 画 譜 に な き 図 を あ ら は し て と い う に ぞ 」。 松 平 進 『 師 宣 祐 信 絵 本 書 誌 』( 一 九 八 八 年 、 青
裳堂書店、二五〇ページ)
*29「 古
* 代 史 獺 祭 」(
*
*
戦 国 時 代 の 臣 下 八 人 が、 不 正 と 弊 風 の さ な
か 、清 廉 潔 白 を 保 っ た 話 を 述 べ た 。 こ の 書 は 、
幕末においてはベストセラーとなり尊皇派の
聖典となったが、それまで本全体が出版され
ることはなかった。それにもかかわらずその
影響力は大きかった。絅斎はこれをもとにい
くつもの講義を行った。例えば「靖献遺言講
義」は絅斎の弟子で垂加神道の学者であった
若林強斎によって記録され、強斎の死後の延
享 元 年( 一 七 四 四 ) に 出 版 さ れ た 。 こ の 書
は、元来取り上げられた八人の士のうち、屈
原(紀元前三四〇─二七八年)のみについて
編み出すことで先制した。
カ ヨ ウ ナ 人 ノ 目 カ ラ ハ、 カ ノ 男 女 ノ 情 ヲ
云 タ リ、 仙 術 ノ コ ト ヲ 云 タ リ ス ル ヲ ミ テ
ハ、 コ レ ヲ 構 ノ ス ル コ ト ハ 面 白 ナ イ ヤ ウ
ニ 思 ワ バ、 キ ワ メ テ 残 念 ジ ャ ガ、 然 ニ 不
忍 本 心 ニ 根 ザ ス ユ ヘ、 聖 賢 ノ 教 ノ 忠 モ 考
モ 此 ヨ リ 外 ハ ナ ウ テ、 此 心 カ ラ 出 タ 離 騒
ゾ。 放 臣 ハ 君 ニ ハ ナ タ レ タ 臣、 屏 子 ハ 親
ニ シ リ ゾ ケ ラ レ タ 子、 怨 妻 ハ 夫 ヲ ウ ラ ム
ル妻、夫婦ハ姑ニサラレタ婦ゾ
あ る 。 比 喩 は す な わ ち、 調 和 の と れ た 外 形 を
況によってやむを得ずして課された方法なので
く、すでに絅斎もそう認識していたように、状
比喩は選択によって採用された方法ではな
31
容れる、二重の意味を表す形式であった 。
維持するのに役立つ一方で、感情表現の方途を
32
詳説している。屈原は戦国時代の高徳の政治
家であったが、政敵の中傷によって追放され
た。流罪の憂き目に遭って、屈原は著名な叙
事詩「離騒」を著し、流浪の悲しみや、君主
から引き離されてもなお忠誠を誓う気持ちを
吐 露 し た。 そ の 詩 中、 忠 誠 心 は 自 然 や 恋 慕、
仙術といった比喩をもって表現された。屈原
の 「 離 騒 」 に 特 化 し た 論 議 に お い て 、強 斎 は 、
没 ) は、 絅 斎 早 期 の 二 例 で あ っ た 。 し か
を 犠 牲 に し た 村 上 義 光( 正 慶 二 年〈 一 三 三 三 〉
や、大塔宮のために吉野城での戦いで自らの命
史からの例証を付加することだった。楠木正成
る忠誠心と自己犠牲のパラダイムに、日本の歴
絅斎が元来持っていた意図は、自身の確固た
33
35
世俗的な比喩の使用が指示対象を汚す恐れが
あるという反論に対し、次のような擁護論を
34
30
●右/図 10:西川祐信『絵本武者備考』
1750 年、楠正成(国文学研究資料館蔵)
●左/図 11:西 川 祐 信『 絵 本 勇 者 鑑 』
1738 年、村上義光(岡山大学附属図
書館池田文庫蔵)
第1部 研究論文 62
主家への出仕をやめる。物語を読めば理解されるように、彼はま
寺 田 畑 之 助 正 種 が、 腐 敗 し た 家 臣 ら が 優 位 を 獲 得 す る の を 嫌 い、
其 磧 の 『 愛 護 初 冠 女 筆 始 』( 祐 信 画 ) で は 、 勇 敢 な 主 人 公 の 大 道
を日本に置き換えたような登場人物が取り上げられ始めた。江島
めることとした。それにもかかわらず、大衆文芸の中では、屈原
しながら、政治的反動の脅威をおそれ、絅斎はモデルを中国に求
て い る 夢 を 見 て い る( 図
寝そべった若い男が、遊女と手を取り合って繋馬の絵馬の前に立っ
る。その中のひとつのカテゴリーに絵馬がある。挿図には、部屋で
さまざまな絵画の形式や様式、主題の淵源を探求するものと見られ
出版した 。 本書は、屏風、掛け物、中国の画題、日本の画題など、
多 田 南 嶺 と の 共 作 で、 祐 信 は『 絵 本 花 の 鏡 』( 以 下『 花 の 鏡 』) を
寛 延 元 年( 一 七 四 八 )、 作 家 で あ り 故 実 と 神 道 の 学 者 で も あ っ た
)。 画 中 に は、 男 が 遊 郭 で の 放 蕩 が 過 ぎ
さ に 屈 原 の よ う な 存 在 で あ る 。 後 の 祐 信 の 武 者 絵 本 諸 作 で は、
)。 君 主
中国の怨詩がもつ政治的意義の同時代的自覚をも考慮すれば、
『武
― 臣 下 関 係 を と り ま く 当 時 の 活 発 な 言 説 が あ っ た こ と 、な ら び に 、
ように、繋がれた馬のようであり、逃げたくて仕方がないのである。
しき所に掛けられた繋馬の絵馬を見せている。彼自身、詞が述べる
明 さ れ て い る 。 夢 の 中 で 、男 は 愛 し い 遊 女 に 会 い 、寺 の 絵 馬 堂 と 思
るために、父親に家中の一室での謹慎を命じられたことが簡潔に説
者備考』において祐信がしようとしたことは、ある意味で司馬遷
そ し て さ ら に 、武 者 の 絵 も ま た 、絵 馬 と し て 奉 納 さ れ た こ と を 教 え
、
に通じるところがあると言える。ゆえに、この絵本が単に若年読
32
*30 近*藤 啓 吾 校 注 『 靖 献 遺 言 講 義 』( 神 道 大 系 編 纂 会 編 『 神 道 大 系 論 説 編 十 二 ─ 十 三 垂 加 神 道 』( 一 九 七 八 年 、一 九 八 四 年 、神 道 大 系 編 纂 会 )
32
*35 絅*斎 の 『 常 話 雑 記 』 に よ れ ば 、 彼 が 楠 木 正 成 や 村 上 義 光 な ど の 人 物 を 使 う こ と を 考 え て い た こ と が 知 ら れ る 。 石 田 和 夫
斎 ・ 若 林 強 斎 』( 一 九 九 〇 年 、 明 徳 出 版 社 、 五 〇 ペ ー ジ )
牛
, 尾弘幸『浅見絧
*31 若*林 強 斎 著 『 楚 辞 序 章 講 義 』 同 右 、 二 六 二 ペ ー ジ 。
*32「 惣
* 有・感ト云詞ハ、ヨシアリテ云コトニテ、ムサトハイワヌコトゾ 御前デ披露スルヤウナコトニ便ゾ」註 、二六二ページ。
、二六二ページ。
てくれる。
楠 と 村 上 の 両 方 が 取 り 上 げ ら れ る こ と に な る( 図
12
37
者向けの娯楽として企図されたとは考えにくいのである。
11
*36 長*谷 川 強 編 『 八 文 字 屋 本 全 集 十 三 』( 一 九 九 二 年 、 汲 古 書 院 、 一 三 ─ 一 四 ペ ー ジ )
*37 多*田 南 嶺 に つ い て は 註 5 参 照 。
63 戦いの示唆 ―西川祐信の武者絵
10
36
*33「 此
* 心ガナケレバ、境界ガ順ナレバ幸ニ背ク跡ハミエヌガ、何時デモ狭間クグル心ハモッテイルゾ」註
*34『 太
* 平 記 』( 国 民 文 庫 本 ・ 巻 二 十 九 )
* * * * * *
* *
古来は今の様に武者絵女の姿をはじめ様々
の 事 を ゑ が き た る に は あ ら ず。 願 を か く る
時 つ な ぎ 馬 を か か せ て か け、 そ の 願 か な ひ
た る と き つ な ぎ の 縄 を け し た る こ と な り。
但武者絵は阿保氏が川原軍よりはじまるか。
太平記にその事出たり
こ こ で 言 わ れ て い る の は、『 太 平 記 』 第 二 九 巻、
秋 山 光 政 が 河 原 で 皇 軍 に 戦 い を 挑 み、 阿 保 忠 実 が
そ れ を 受 け た と き の こ と で あ る。 二 人 の 対 決 は、
『 太 平 記 』 の 述 べ る と こ ろ に よ れ ば、 後 々 武 士 た
ちの間で人気の絵馬の画題になったという 。
『花の鏡』によって示された、絵馬と武者絵と
讐 と い う レ ト リ ッ ク で あ っ た の だ 。『 勇 者 鑑 』 も 同
)。 そ れ に 続 く
様に、神功皇后が、新羅の討伐計画に神の加護を願っ
て 釣 り を す る 場 面 か ら 始 ま る( 図
)。 張
のは、張良(紀元前二六二─一八九年)が隠士の黄
石 公 の 靴 を 川 か ら 取 り 戻 す 場 面 で あ る( 図
四 郎 忠 常( 図
)、 鹿 児 島
狩にて頼朝に襲いかかろうとした猪を殺した新田
た絵馬の画題に次のようなものがある―富士の巻
そ の 他 に も、 江 戸 時 代 以 前 か ら 同 様 に よ く 膾 炙 し
ては、強い呪術性を持っていたのではなかろうか。
知 ら れ た も の で、 本 の 冒 頭 に 置 く レ ト リ ッ ク と し
戦いの勝利を神に祈願する絵馬の画題としてよく
て 秦 を 滅 ぼ し 、漢 の 創 設 に 貢 献 し た 。こ れ ら は み な 、
良 は こ の 後 、黃 石 公 か ら 兵 書 を 授 か り 、そ れ に よ っ
15
)、 樊 會 ( 図
)、
)、
の 夜 討 ち 、巴 御 前 、熊 谷 と
橋 上 の 義 経 と 弁 慶 、堀 河 邸
朝 比 奈 と 曽 我 五 郎( 図
や 大 江 山 に お け る 渡 辺 綱、
た 関 羽 、熊 坂 長 範 、羅 生 門
中国の軍神として祀られ
朝( 図
の鎮西八郎すなわち源為
16
の 明 快 な 連 想 は 興 味 深 い。 と い う の も、 祐 信 の
武 者 絵 本 に お け る レ ト リ ッ ク と、 伝 統 的 な 絵 馬
の 画 題 と の 間 に は、 軌 を 一 に す る も の が し ば し
ば 見 受 け ら れ る か ら で あ る 。 例 え ば『 勇 武 鑑 』
)。
中巻は、神功皇后が新羅討伐に勝利を収めた後、
「三
韓 の 夷 」 と 岩 に 刻 み 出 す 場 面 か ら 始 ま る( 図
為 と し て で は な く、 そ れ に 先 立 つ( 史 実 で は な
いが)新羅の日本に対する攻撃への報復として
14
17
38
中 世 ま で に は、 神 功 皇 后 の 新 羅 討 伐 は、 侵 略 行
13
18
19
39
表 象 さ れ る よ う に な っ た 。 つ ま り そ れ は、 復
40
●右上/図 12:西川祐信『絵本花の鏡』1748 年(国立国会図書館蔵)
●中上/図 13:西川祐信『絵本勇武鑑』1750 年、神功皇后(国立国会図書館蔵)
●左上/図 14:西川祐信『絵本勇者鑑』1738 年、神功皇后(岡山大学附属図書館池田文庫蔵)
●下/図 15:西川祐信『絵本勇者鑑』1738年、張良と黃石公(岡山大学附属図書館池田文庫蔵)
第1部 研究論文 64
土佐房昌俊を捕らえる弁慶の図
い 。『 大 和 童 』 の 最 終 図 で あ る
ま だ 、ほ ん の 一 握 り の 例 で し か な
田 太 郎 と 新 田 義 貞 な ど 。こ れ で も
敦 盛 、村 上 義 光 、一 来 法 師 、小 山
に お い て は、 幕 府 の 刺 客 で あ っ た
変 え る こ と に な る か ら だ。 この図
で、 図 像 が 体 現 す る 祈 願 の 意 味 を
と は、 幕 府 対 宮 廷 と い う 構 図 の 中
よって意図的に禁裏に言い及ぶこ
い う の も、 筋 塀 を 描 き 込 む こ と に
●右中/図 17:西川祐信『絵
本勇者鑑』1738年、鹿児島の
鎮西八郎為朝(岡山大学附
属図書館池田文庫蔵)
かか
●右下/図 18:西川祐信 『絵
本勇者鑑』1738年、樊會(岡山
大学附属図書館池田文庫蔵)
●左/図 19:西川祐信『絵本
勇者鑑』1738 年、朝比奈と曽
我五郎(岡山大学附属図書館
池田文庫蔵)
こ れ ら の 画 題 の 多 く が、 本 来 的
に奉納に適した主題であったとす
れ ば、 そ れ と は 別 に、 神 仏 が 介 入
す る 様 を 描 く こ と に よ っ て、 神 仏
Richard W. Anderson, “Jingū Kōgō Ema” in Southwestern Japan: Reflections and Anticipations of the ‘ Seikanron’ Debate in the Late
Tokugawa and Early Meiji Period”, A sian Folklore St udies, vol. 61, 2002,
*40 神*功 皇 后 の 物 語 の 意 味 の 変 化 は 、鎌 倉 中 後 期 の 『 八 幡 愚 童 訓 』( 石 清 水 八 幡 宮 の 宮 司 の 作 に 擬 さ れ る ) に 見 え る 。 Melanie Trede, “Banknote
Design as a Battlefield of Gender Politics and National Representation in Meiji Japan”, in Doris Croissant, Catherine Vance Yeh and
Joshua S. Mostow eds., Per for ming “Nat ion”: Gender Polit ics in Lit erat ure, T heat er, and the Visual Ar t s of China and Japan, 18 80-1940,
参照。十九世紀までには、尊皇派によって同じレトリックが朝鮮侵略を有効化するものとして引き
pp. 67-8, (Leiden; Boston: Brill; 2008)
合 い に 出 さ れ る よ う に な っ た 。 ま た 豊 臣 秀 吉 の 朝 鮮 侵 略 に 際 し て も 、神 功 皇 后 の 物 語 が 先 例 と し て 、ま た 正 当 化 の 根 拠 と し て 、認 識 さ れ た 。
か はら
だねられることになっているのだ。
( 前 掲 図 9) も ま た、 絵 馬 で は 人
あふぎうちは
昌 俊 の 行 く 末 は、 宮 廷 の 采 配 に ゆ
おんたむけ
気 の 主 題 で あ っ た 。長 谷 川 等 伯 筆
)。 奉 納 物 と
の同画題の絵馬はよく知られる
と こ ろ で あ る( 図
そのころ
●右上/図 16:西川祐信『絵
本勇武鑑』1750年、新田四郎
忠常(国立国会図書館蔵)
*38「 さ
* れ ば 其 比 、 霊 仏 霊 社 の 御 手 向 、 扇 団 扇 の ば さ ら 絵 に も 、 阿 保 ・ 秋 山 が 河 原 軍 と て 書 せ ぬ 人 は な し 。」『 太 平 記 』( 国 民 文 庫 本 ・ 巻 二 十 九 )
に 屈 曲 し た 意 味 を 帯 び て く る。 と
信 の 土 佐 房 昌 俊・ 弁 慶 図 は、 新 た
い う 文 脈 の 中 で 考 え て み る と、 祐
20
*39 岩*井 宏 実 『 絵 馬 』( 一 九 七 四 年 、 法 政 大 学 出 版 局 )
* * *
*41 特*に 岩 井 宏 実 『 絵 馬 』( 一 九 七 四 年 、 法 政 大 学 出 版 局 、 二 二 〇 ─ 二 二 四 ペ ー ジ ) を 参 照 。
65 戦いの示唆 ―西川祐信の武者絵
41
*
囚 わ れ の 身 の 悪 七 景 清 が、 頭 上 に 現
の加護を願う図像もあった。例えば、
の も と に は、 武 装 し た 魔 物 を 打 ち 負
「拉鬼体」
の一図を考察してみよう 。
)。
者絵は、先人師宣のそれとはずいぶん隔たっている。さらに、
呪術的言霊の力を宿す絵馬あるいは奉納物のレトリックとし
て 再 読 し て み れ ば、 祐 信 作 品 全 体 に わ た る 徳 川 政 治 に 対 す る
攻 撃 の 視 覚 化 と 共 鳴 す る と こ ろ が あ る と 言 え る。 例 え ば、 寛
保 二 年( 一 七 四 二 ) の『 絵 本 姫 小 松 』( 以 下『 姫 小 松 』) か ら
輝 く 神 の 光 だ ろ う か 。)
を 、乾 か し て い る 。 こ れ は 永 劫
ま、社の前に立つ榊の露を、霜
( 天 か ら も れ 射 す 光、 陽 光 が い
よへぬらん
ゆじもにあまてるひかりいく
ぬれてほすたまぐしのはのつ
二つ目の歌、
の 伊 勢 の 荒 磯 で 。)
れ る つ も り な の で し ょ う か 。こ
は 本 当 に 葦 を 褥 に 、こ こ で 休 ま
( 神 風 が 吹 い て い ま す。 あ な た
きいそべに
りしきてたびねやせまじあら
かみかぜやいせのはまおぎお
導くものである。一つ目の歌、
切 迫 し た 争 い、 神 々 し い も の の 謂 を
これらの歌は、常に備えがあること、
26
42
ら の 二 首 が 添 え ら れ て い る( 図
)。
か す 四 天 王 の 図 に、『 新 古 今 集 』 か
)、弁慶が
)、鈴鹿権現瀬織津姫
れ た 観 音 の 力 を 得 て、 牢 を 破 壊 し て
脱出する(図
命が魔物を駆逐する(図
やまとたけのみこと
)、日本武尊が伊勢大神
に僧覚明が筆を執る場面である(図
木曽義仲が次の戦における勝利を八幡神に祈願するその願文
武鑑』の最終図は、神への祈念の瞬間を眼前に立ち上らせる。
仲、鎌倉権五郎影政、関羽など。祐信最後の画作と目される『勇
た ―『 勇 者 鑑 』 上 巻 第 一 図 の 六 孫 王 経 基 と そ の 息 子 の 多 田 満
) な ど。 ま た あ る も の は、 後 世 に 神 格 化 さ れ た 武 者 を 描 い
こと々々く退治したまひし成り」(図
剣を請得て遂に東征したまひ賊徒を
宮 へ 詣 で た こ と に よ っ て「 薙 雲 の 宝
に祈る(図
知盛の霊を鎮めるために神々に必死
22
21
23
このようにしばしば神仏を引き合いに出してくる祐信の武
25
43
24
●右上/図 20:長谷川等伯「土佐房昌俊弁慶」絵馬(北野天満宮蔵)
●右下/図 21:西川祐信『絵本勇武鑑』1750 年、朝比奈牢破(国立国会図書館蔵)
●中/図 22:西川祐信『絵本勇者鑑』1738 年、鈴鹿権現瀬織津姫命(岡山大学附属図書館
池田文庫蔵)
●左/図 23:西川祐信『絵本勇武鑑』1750 年、弁慶は知盛の霊を鎮める(国立国会図書館蔵)
第1部 研究論文 66
神 風 、荒 き 磯 辺 ( 苦 難 の 時 )、神 の 栄 光 (「 あ
ま て る 」 の 音 か ら「 あ ま て ら す 」 す な わ ち 皇
統の先祖神である天照大神が連想される)な
ど の レ ト リ ッ ク に よ っ て、 悪 を 正 当 に 駆 逐 す
る 祈 念 を 絵 画 化 す る こ と と と も に、 そ れ ほ ど
想 像 力 を 働 か せ な く と も、 聖 な る 戦 い を 支 持
する態度を明らかに示すことができるのだ。
祐 信 の 作 品 は、 も は や 単 に 復 古 的 な ロ マ ン
テ ィ シ ズ ム の 産 物 で は な く、 闘 争 精 神 の 寄 る
辺 と な っ た。 祐 信 の 武 者 絵 は 明 ら か に 闘 争 を
励 行 す る も の で あ っ た 。『 勇 者 鑑 』の 序 文 で は 、
て い る 。『 勇 武 鑑 』 で も 同 様 に 、「 男 童 の 心 を い さ
ま し め 」( 序 文 ) と あ る 。 ま た 『 姫 小 松 』 の 謎
め い た 諸 図 に は 、 読 者 を 正 し い 行 動 導 く (「 世 の
容 儀 の い ま し め 」 序 文 ) 意 図 が あ っ た 。『 姫 小 松 』
の跋文は次のように述べる。
おのおのわ が
ア、 但 こ れ が 善 か れ が と 悪 評 ず る の み な ら ん
や 各 自かへりみとなれかしと
武 者 の 精 神 と 神 と を 融 合 さ せ る こ と は、 偶 然 の
こ と で は な か っ た。 祐 信 の 時 代 は、 な ん と い っ て
も、 垂 加 神 道 学 者 の 松 岡 仲 良 が「 大 和 魂 」 を 尊 ぶ
こ と、 天 皇 を 護 持 し、 そ う し て 死 後 に は 八 百 万 神
に列するよう読者に呼びかけた時代であり 、ま
45
*42 関*西 大 学 図 書 館 編 『 西 川 祐 信 集 』( 一 九 九 八 年 、 関 西 大 学 出 版 部 ) 参 照 。『 絵 本 姫 小 松 』 の 画 と 詞 は 「 定 家 十 体 」 を 変 奏 し た 歌 体 の も と に 集
め ら れ て い る 。「 定 家 十 体 」は 、は じ め 藤 原 定 家 に よ っ て 考 案 さ れ た 歌 作 の 十 体 を も と に 、後 に 、歌 例 を 加 え て 解 説 し た 歌 学 書 。 筆 者 不 詳 だ が 、
読 者 の「 武 勇 を 励 ま さ ん 為 な る べ し 」 と 述 べ
44
*44 松*平 進 『師 宣 祐 信 絵 本 書 誌 』( 一 九 八 八 年 、 青 裳 堂 書 店 、 二 五 七 ペ ー ジ )
*45 若*林 強 斎 著 『 日 本 書 記 弁 』( 近 藤 啓 吾 校 注 、 神 道 大 系 編 纂 会 編 『 神 道 大 系 論 説 編 十 二 ─ 十 三 垂 加 神 道 』〈 一 九 七 八 年 、 一 九 八 四 年 、 神
道 大 系 編 纂 会 〉)
67 戦いの示唆 ―西川祐信の武者絵
●左/図 25:西川祐信『絵本勇武鑑』1750 年、
木曾義仲と覚明(国立国会図書館蔵)
●右/図 24:西川祐信『絵本武者考鑑』1744
年、日本武尊(国立国会図書館デジタル化
資料より)
十 三 世 紀 の 著 と さ れ る 。 Paul S. Atkins, “The Demon-Quelling Style in Medieval Japanese Poetic and Dramatic Theory”, Monumenta
参照。
Nipponica, vol. 58, 2003, pp. 317-46
*43 祐*信 が 画 中 に 引 い た 歌 は 『 新 古 今 和 歌 集 』 に 収 録 さ れ た 同 歌 ( 神 風 の 伊 勢 の 濱 荻 折 り 伏 せ て 旅 ね や す ら ん 荒 木 浜 べ に ) か ら 若 干 変 化 し て い
る。助動詞「まじ」は、否定的な推量を表す。つまり「あなたはここで休まれるのでしょうか、いえ、そんなことはないでしょう」という
解釈が可能になる。神風に力を得た四天王が魔物を追い払う図という文脈を考え入れれば、この歌は、魔物のような穢らわしい者が神聖な
伊勢の浜で休もうとしていることに対する挑戦を表していると読むことができる。
*
*
* *
を 表 現 し た か も し れ な い が、 た わ い な い モ
だ 。庶民は浮き世のモチーフの中に自ら
まり神々の御座すところと言った時代なの
た 垂 加 学 派 が 御 所 そ の も の を「 高 天 原 」 つ
ざけり給はむはまことにこころうけ
く模様のあやまりてあたらぶ事をあ
いづらやいずら見ん人々の撰つたな
ることについては、次のように述べる。
また、見識ある人 のユーモアを理解す
祐信の最後の作品『勇武鑑』の序文で
もひもふけしことなれ
れどももとよりはかせのわらひはお
チ ー フ は、 実 は、 強 い 政 治 的 信 念 を 隠 匿 し
う る の だ。 ヴ ィ ク ト リ ア & ア ル バ ー ト 博 物
館 に 所 蔵 さ れ て い る『 勇 者 鑑 』 の 表 紙 は、
松葉と天皇を象徴する十六弁の菊文のデザ
は、 祐 信 が 自 身 に つ い て「 例 の 桜 の 花 の
魁 と な し は べ り ぬ 」 と 述 べ て い る。 こ
「梅は諸木の魁なればと
義仲の八幡神への願文を記さんとする場
『 勇 武 鑑 』 の 末 尾 は、 大 夫 房 覚 明 が 木 曽
が 武 者 ぶ り あ っ ぱ れ に み え し ぞ か し 。」)。
軍の一番馳といさみすすめたる梶原源太
がけ
一枝手折てをしいただき是非々々けふの
い て い る( 図
梅の一枝を手に握りしめた梶原源太を描
祐 信 は『 武 者 考 鑑 』中 巻 第 一 図 に お い て 、
う。 同 じ く「 魁 」 と い う 語 に 関 連 し て、
ことに疑問を差しはさむ余地はないだろ
のもとに導かれる攻撃の先鋒と解釈する
の 文 句 の 意 味 す る と こ ろ を、 桜 の 花 の 名
48
イ ン で 装 飾 さ れ て い る。 こ れ は、 天 皇 を 護
持 し、 天 皇 の 治 世 の 復 権 を 期 待 す る 者 た ち
の 言 葉 な き 宣 言 で あ り、 心 の 内 を 表 明 し た
エンブレムだったのだ。
武 者 の 図 像、 超 自 然 的 な 技(「 仙 術 」)、 情
熱的恋慕といったレトリックは、声に出すこ
とのできない政治的感情を寓意的に表現する
ための手段であり、生産的に読み取られるこ
と が 意 図 さ れ て い た。『 姫 小 松 』 の 序 文 は 読
者に、物語から歌へ、歌から絵への解釈の道
をたどることを促した。
此のあらましの心得は歌のすがたとおな
じさまなれさればそれを此にくらべ此を
かたみ
かれによせて絵と歌を互にうつし
47
27
46
●図 26:西川祐信『絵本姫小松』1742 年、拉鬼体(国文学研究資料館蔵)
●図 27:西川祐信『絵本武者考鑑 』1744 年、梶原源太(国立国会図書館デジタル化資料より)
第1部 研究論文 68
面 で あ る( 前 掲 図
)。 そ の 起 請 の 内 容 が 次 の よ う な も の で あ っ
平家は将軍の悪政を喩える言い回しに繰り返し用いられた。それは
帰命頂礼、八幡大菩薩は、日域朝廷の本主、累世明君の嚢祖
読者の目に供したものは空白の紙であった。しかし、この空白を無
しをきは関東まかせ」を思い起こせば足るであろう。この最終図が
「 つ わ も の 万 歳 」 の 文 句、 す な わ ち「 我 ま ま は た ら く 平 の 京、 京 の
也。宝祚を守らんがため、蒼生を利せむがために、三身の金
言と読むならば、それは根本的な過誤を犯すことに外ならない。
なぐ。試に、義兵をおこして凶器を退んとす(中略)然とも
に、思慮を顧にあたわず、運を天道にまかせて、身を国家に
も弓馬の家に生れて、僅に箕裘之塵をつぐ。彼暴悪を案ずる
を悩乱せしむ。是既に仏法の怨、王法の敵也。義仲いやしく
図
• 図
• 6 ─1 、2 「 御 所 外 観 図 」 石 上 阿 希 撮 影
転載
図
• 3 『 八 文 字 屋 本 全 集 第 四 巻 』( 一 九 九 三 年 、 汲 古 書 院 ) よ り
【図版典拠】
画中では、文言を記す筆は未だ紙上に置かれてはおらず、紙は空
白 の ま ま で あ る 。 し か し そ れ で も 、特 定 の 対 象 読 者 に と っ て は 、そ
の 趣 旨 は 十 分 に 明 ら か で あ っ た に ち が い な い。 江 戸 時 代 を 通 じ て、
※ 人 間 文 化 研 究 機 構 国 文 学 研 究 資 料 館 所 蔵 の 画 像( 図 2、
20
について、二次使用を禁ずる。
、
)
26
(原文 一六三頁参照)
10
『 日 本 美 術 絵 画 全 集 第 十 巻 長 谷 川 等 伯 』( 一 九 七 九 年 、
国の為、君の為にしてこれを発す(中略)伏願くは、冥顕威
集英社)より転載
に退給へ 。
をくわへ、霊神力をあわせて、勝決を一時に決し、怨を四方
よりこのかた、平相国といふ者あり。四海を管領して、万民
容をあらわし、三所の権扉をおしひらき給へり。爰に頃の年
たことは周知だったにちがいない。
25
*46 享*保 九 年 ( 一 七 二 四 )、若 林 強 斎 が 「 天 子 ノ 皇 居 ヲ 高 天 原 ト 云 コ ト 也 」 と 述 べ た 。「 天 子 」 は 生 き 神 で あ り 、御 所 は そ の 御 座 所 で あ っ た の で 、
両者の連係は比較的明快である。同右、二八二ページ
48
*49 梶*原 正 昭 、 山 下 宏 明 校 注 『 新 日 本 古 典 文 学 大 系 四 五 平 家 物 語 下 』( 一 九 九 三 年 、 岩 波 書 店 、 一 五 ─ 一 六 ペ ー ジ )
69 戦いの示唆 ―西川祐信の武者絵
49
*47 松*平 進 『師 宣 祐 信 絵 本 書 誌 』( 一 九 八 八 年 、 青 裳 堂 書 店 、 一 九 三 ペ ー ジ )
*48 註* 参 照 。
*
* * *