Vol.38 トップに聞く 飯村 愼一 (いいむら しんいち) 福島県会津若松市出身。昭和22年7月5日生まれ、63歳。東京都立駒場高等 ジニアリング㈱を経て、父親が起こした光陽電気工事㈱に昭和58年入社。平 成7年6月に現職に就く。宇都宮大学経営協議会委員、同大学長選考会議議 幹事など多くの公職に尽くす。平成22年度栃木県建設事業関係功労者知事 ﹁会社は社長の器より大きくならない﹂という飯 の言 葉を知り、理 解し、実 践することが大 切 ﹂とい めに学んだ、多くの事 例が紹 介されている。 ﹁ 先人 そこには、自らが繰り返し、繰り返し自己啓発のた 年の 学 期に、父 親から﹁ 東 京に行け﹂ 球を追う毎日だったが、中学 と言われ都立高 校に進 学 。東 京の 始まった。昭和 年に送電線工事 下宿先で、大学生と交わる生活が を主たる事 業として高 柳 電 気工 した初 代 社 長である父 親は、長 事㈱ ︵現在の会社の前身︶ を設立 問をしたくてもできなかった。その想いを息子に託 人 兄 弟の親 代わりをしていたので、学 の存 在ではなく 、会 社や組 織というきちんとした 業、社会に出ても日々学ぶ姿勢を崩さず、 ついには、 ビ ̶ジョナリーカ 愛 娘と同 窓 生で、同じ時 同じ学び舎に通った仲 。 還 暦を過ぎて学 位を取 得するほどに。ちなみに、 す。その影 響か、 アメリカの大 学で二つの学 部を卒 対象に光陽ビジネススクールを始めた。自ら 時間 重 要だと飯 村 氏は考え 、早 速 管 理 職 幹 部 以 上 を 心を積極化して 教育で風土を作る 〝風土〟 をつくることが必要。そのためには、教育が 兄として れ、中 学まで育つ。野 球 少 年は甲 子 園を目 指し白 野口英 世と白 虎 隊で知られる会 津 若 松に生ま 教育が人を創る う思いがつまっている。 村 愼一氏 。ならば、会 社 、社 員のためにもその器を 歳を過ぎ、父が創立した会社も 周 年を 迎 年間やり通し、昨年専門職学位 ︵MBA︶ を を受 験 、 みごと合 格 。社 長 業と週 末だけの学 生 生 活を ﹁ 取得した。 周 年 のために も ビ え安定している。これでいいのかと自問自答した結 果 、次 な る ジョナリーカンパニーを 目 指 そう﹂と決意。まずは ﹁基本を 学 び、経 営の原 点に返るため に ︵MBAに︶ チャレンジした﹂そ うだ。 ビジョナリーカンパニーとは、 時 代 を 超 え 、際 立った存 在であ 表彰受賞。平成21年早稲田大学大学院商学研究科ビジネス専攻 (MBA) 卒。 講義用教材も、自らの手で作り上げる熱心さ。 ﹄ の講師を務める。 ンパニーへの挑戦 ̶ Profile 大きくしようと、 年前に難関早稲田大学大学院 先人に学ぶ 長や国際ロータリー第2550地区ガバナー補佐、㈳栃木県経済同友会副代表 3 夫人に捧げると明記するなど、家庭的であたたか ﹁ライバルは娘だった﹂と嬉しそう。卒業論文には、 な一面も持つ。 心に良いものだけをつめ込む 人生のヒントとなった書物が、書棚やサイドボー ドのあちこちからひっぱり出される。中でも、背 表 紙がすり切れているナポレオン・ヒル著﹃ 成功哲学 ﹄ いっ という一冊。 代後半にその本と出合ってから、 年を見据え、次の世代に残すためのもの。その姿 まさにその教え。自分のことではなく、 これからの のを入れること。飯村氏が今取り組んでいるのは、 積極化﹂。 一言でいうと、心の雑念を取り去り良いも の教え﹁心の 行者 中村天風 ︵なかむら てんぷう︶ そして、常に心がけているのは、日 本 初のヨーガ のだろう。 時、必ず先人から学び、進むべき道を模索してきた たりした時、そして人生で重要な局面にぶつかった ある。欄 外には、書き込みの文 字も。悩んだり迷っ 響いた言葉には何色ものカラーペンでなぞった跡が たい何 度 開いたのだろう。紙 面は黄ばみかけ、心に 30 学校、米国テキサス大学オースチン校工学部・理学部卒。日立ソフトウェアエン 36 50 の講義﹃ 次なる 周年へ向けて! 2 会への貢献につながっている。 勢が、社 員の幸 福につながり、会 社を発 展させ、社 50 3 50 2 60 り続ける企 業のこと。それには、 カリスマ的 指 導 者 8 3 50 光陽電気工事株式会社 代表取締役社長:飯村 愼一 Series 企業 Report
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