行き詰まりの先の栄光

行き詰まりの先の栄光
旧・ローマ書の福音 24
行き詰まりの先の栄光
8:18-27
1
18.以上の理由として 私はこう考えるのです。これから私たちに見せて頂
けることになっている栄光に比べるならいま当面の経験などは、苦しいと言
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っても問題ではありません。 19.現に被造物まで が、神の子らの出現を一日
3
千秋の思いで 待ちかねているのです。 20.なぜなら、こうして空虚な存在と
なり果てた被造物も、自ら進んでなったのでなく、神により服させられてそ
4
うなったのである以上、希望を先に見ているのであり、 21.その希望とは 、
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被造物自身が腐朽という奴隷状態から解放されて、神の子たち の栄光に与れ
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ることなのです。 22.私たちにはその被造物全体がこぞって 呻きの声を上げ、
今に至るまで産みの苦しみをしているのがよくわかります。 23.それだけで
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8
はありません。この私たち自身、御霊という初穂 を頂いていながら なお、
各自、内から呻き声をあげて、神の子として受け入れて頂ける日を、つまり、
この体の贖われるその時を待ちこがれているのです。 24.私たちが救われた
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というのは、この希望を保証されたという意味において ですが、その希望を
現に目で見ているのなら、それは希望ではないはず……現に目で見ているも
のを希望の対象にする人がどこにいますか? 25.しかしその見ていないもの
を私たちが希望の対象とするのである
11
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以上、それを待つ者には忍耐が要る
のです。
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26.ところで、私たちを支えるものはそれだけ ではなく御霊までが直接手
を貸して、無力な私たちを助けて下さいます。実は私たちは本当は何を祈ら
ねばならない状況にあるか
13
さえわかっていない者ですが、それにもかかわ
らず、御霊がご自分で中に入って下さって、言葉にもならない呻きの執り成
しまで
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して下さいます。 27.それで、人の心を深り知るお方が、その御霊
の思いのほうをわかって下さるのです。御霊が聖徒のためになさる執り成し
は神のお心にかなっているからです。
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1.被造物のうめき
第一段の 18~25 節には、私たちの中に働いている聖霊の「人を生かさずに
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置かない作動の仕組み 」が着実に働き続けるのと呼応して遂に贖いの御業
が完成する時が到来し、私たちが名実共にシンまで神の子とされて栄光に輝
く日まで、全宇宙の被造物がこぞって呻き声を上げながら、産みの苦しみを
している様が描かれます。
海も山も、動物界も植物界も、そして生命のない岩石から水の流れに至る
まで、呻いているのが聞こえるとパウロは言います。これは何という感覚、
何という感受性でしよう!
私たちはいわゆる超能力(その何%が本物なのかは知りません)の所有者
を見て感心しがちです。たとえば「眼光紙背に徹す」を字義通りにできる人
がいて書物の何頁か先を開かずに読み取ったり、テーブルの上に置いた軽い
物体に手を触れずに力を加えて少しばかり移動させてみたり、あるいは大喝
一声、可聴音波と同時に高周波らしきものを発して飛ぶ鳥を落とす人、など
がいます。すべて驚異は驚異ですが、いずれも自然の能力であることに変り
はなく、その人の持っている電磁波や音波の発振力や受信装置が我々凡人の
より数倍すぐれているだけのことで、厳密にはやはりただの物理現象です。
しかしローマ書の筆者のそれは霊的超能力です。
「霊的」と申しますのは、
それが生ける神とかかわり、人間の罪とかかわるからですが、この人は人間
の罪ゆえの悲しさと、それに共感して呻き震える万物のおののきを感じ取っ
たのです。この人は、すでに前講まで私たちが学んだように、自分の内にお
住みになる聖霊の力を全面的に信頼し、自分の肉の弱さと悲しさの方は「死
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んだものとみなし 」て勇気を持った人でありましたが、それでいて、なお
自分の体と精神力全体が呻き声ときしみを立てるくらいに矛盾して痛むのを
感じ取った人です。そしてそれと同時に、実に被造物全体が悲んで呻くのを
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聞いた人であります。
ある意味では私どもも、その呻き声の反響のまた反響のようなものを、今
日の汚染された自然界の中に聞き取るのですけれども、パウロの聞いたその
被造物の苦痛の声は汚染問題が解決すれば消えるというようなものではない
のです。すでに水や大気の汚染が社会問題となるより千九百年も早く、パウ
ロは、人間の罪の結果が神から委ねられたこの自然界を腐朽という奴隷状態
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につなぎ、かつて神が見て「よし」 とされたものを空虚な存在に成り果て
させている事実を見抜いていたのです。人間の罪が完全に跡を断たない限り
「山も海も空も林も流れも」苦痛に呻き続けている……その呻きを敏感にキ
ャッチしたこの人の鋭さは何ということでしょう! これに比べれば、50 頁
を開いておいて 100 頁の文章を読むとか、千 km 先へ自分の意識を移動させ
て事件を見て帰って来る等は、せいぜい安物のビデオカメラ位に色褪せて感
じられます。
2.呻きの中に光る希望
しかしパウロの本当に偉大だった所は、このような万物の呻き声を聞き取
っただけでなく、その呻きそのものの中に希望を見抜いたことです。間もな
く聖霊の命の働きで神の子たちがきよめられ、完成される。キリストが来ら
れることによって地上の神の子たちがその栄光に輝く者とされた時に、いま
苦痛に呻いている被造物が神の子の栄光を分かち合って喜びの声を上げる。
すべてはその時のためにある! 神がこの状態に服させなさったのである以
上希望を与えて服させておられるのでなくて何であろうか……! この信仰
が 18 節から 22 節にわたって言い表わされています。
パウロという人はこの信仰を持っていたために、全く無駄で非生産的と普
通の人なら考えるものの中に「産みの苦しみ」を見た人でした。「これから
私たちに見せて頂けることになっている栄光に比べるなら、いま当面の経験
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などは苦しいと言っても問題ではありません」と言ったこの人は、いわば次
のような考え方ができたのです。「苦しいなァ、全く行き詰まりだなァ。…
…ということはこれは本当に楽しみだぞ!」
私たちは時に、自分で処理し切れない問題の山積を見たり、不幸や行き詰
まりに押し潰されそうになると、これと反対の発想をしはしませんか? 「今
のこの苦しい経験を見ていると、今からどんな絶望的な状況になって行くの
か、先が思いやられる。今でもこれだから、この先はまっ暗だ」。これは「そ
の状態に服させておられる神」を抜きにした発想です。当然、希望抜きの発
想でもあります。
しかし万物の空虚さの中に「服させておられる神」を洞察し、その神が希
望を与えずに服させる筈はないことを見ぬいているこの人は、自分の行き詰
まりや兄弟たちの苦痛の中に、そうさせておられる神と、神が与えた希望と
を二重写しにして眺めて、こう言うのでした。
「いやぁ、行き詰まったな。苦しいな。私の力だけでは潰れてしまいそう
だな。……ということは、これを聖霊の力が克服させて下さる、ということ
だな。……とすると……これを通り越して神様から頂く栄光はどんなにすば
らしいものだろう。これは楽しみになって来た!」空虚と腐朽の先に被造物
の栄光を見たこの人は、苦難と行き詰まりの先に神の子の勝利と栄光を見る
ことができたのです。
こんなのに比べますと、数十頁下の文章を読み取るなどの芸当は児戯に等
しく、単に眼球というテレビカメラの感度が何百倍か何千倍かあって、紙を
突き抜けて来る(?)0.000・・・何ルックスかの影像を感じ取るだけのこと
で、確かにすごいことはすごいけれども、「苦難と行き詰まりの先に栄光を
見る」眼力の前には色褪せるのです。ローマ書の筆者は決して、人一倍楽天
的であったからこんなことが言えたのではなく、彼が「キリストの中に」身
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を置いて、「聖霊が人を生かす仕組み」に委ねることができたから、これが
言えたのです。
24 節の言葉はまさにその信仰の秘決を明かにします。聖書の中には「救わ
れる」(未来)という表現のほかに「救われつつある」(現在)や「救われ
た」(アオリスト)、「救われてしまっている」(完了)等の表現がありま
す。救いをどの角度から見て表現するかによって変って来るのですが、使徒
パウロがここで強調するのは、「救われた」という過去形
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はどんな意味で
「救われた」ことなのか、ということです。訳文(本講最初)に明らかなよ
うに、これは強調構文
19
で書いてあるのですが、パウロがここで言おうとす
るのは、前節にある「その時」が本当の救いの完成する時なのだけれども、
私たちは別な角度からは「救われた」と告白することも許される。その場合、
私たちが「救われた」というのはどういう意味で言えるのか……それはどこ
19
までも「希望で」 である、ということです。「希望で」とは「その希望を
確かに与えられたという意味で」をさすと見るべきでしょう。
私たちに与えられる救いの確信は、神の子としての栄光を既にフルに与え
られてその成就を全部見てしまった者の確信じゃないのです。まだそのほと
んどが見えないままで、その代り「御霊という初穂」を確かに内に頂いて、
神がこの体まで贖いつくして御業を成就して下さるという約束に希望を置い
て、その「見ていないもの」を「見た」のと同じ位確かなものとして望み見
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る者の確信なのです 。「救われた」という告白の意味は実にそういうこと
である、とパウロは言います。
この言葉は実に信と不信の本質をえぐっていると言えましょう。信じてい
ると言いながらすべての解決が目に見えるまで安心できない時、あらゆる対
策と安全性を月ロケットの計器のように点検して、赤ランプが全部消えるま
で一歩も踏み出せない時、人は希望も信頼も持っていないのです。信じると
いうことは、目の前の一歩より先はわからない時も、ひとりのお方を信頼で
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きる故に委ねて歩けることです。有名な英語の讃美歌に、
“私の足もとだけ、しっかり照らして下さい。遠くまで見せて下さいとは、
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お願いしません。一歩だけで充分でございます”
とありますように、一歩より先は見えなくても、その照らして下さるかた
が、私のために死んだかたであり、私のために復活したかたであることを知
って、信頼と希望でその暗やみの中へ足を踏み入れて行けるのです。
19 節や 20 節の文頭に出る for に相当する接続詞にこめられたパウロの意味
を私は次のように感じ取るのですがいかがでしょう……。
ごらん、被造物の世界だってこんなに忍耐して、希望を捨てないで、ひた
すら産みの苦しみをしているんだ。希望を保証されて「救われた」というこ
の私たち自身がどうして忍耐しないでいられよう! パウロはこのことをも
う一度念を押すようにして 25 節で締めくくります。
3.言葉にならない「呻き」の祈り
最後の段落、26~27 節には、クリスチャンが時に行き詰まって、どう祈っ
たらよいのかわからないような場合も、とにかくその人の口をついて出るも
のを(時には口に出すさえ不可能で、心の中で混沌としたまま渦巻いている
ものを)聖霊ご自身が中にはいって、神様にとどくよう、しかも神様のお心
にかなうように伝えて下さるという保証が、経験者の口から語られます。
「何を祈らねばならない状況にあるかさえ」と訳した箇所は「正しくは何
を祈るべきかを」と書いてあります。これは「祈りの内容をどんな言葉で言
い表わすべきか
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」という表現の形式よりは「何を祈らなければならない事
態に立ち至っているか」という現状の認識、把握をさし自分がどんなに霊的
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に危険な所に立っているかも正確には掴めておらず、そのような状況ではま
ず何を(祈りの内容として)祈ることが急務なのかの洞察もないような、狼
狽している状態を言います。
確かに、私たちは何を祈らねばならぬのか、またどう祈ったらよいのか、
わからずに、ただただ狼狽することがあります。あなたにはそういう御経験
がおありかどうか知りませんが、人はどうしても祈れない瞬間だってありま
す。本当は、そんな時こそ最も祈りを必要とする時でありますし、祈りだけ
が唯一の助けの源泉につながる道なのですけれど、それが祈れないのです。
こんなことを告白するのは非常に恥かしいのですが、病気の回復がはかば
かしくなかったり、事態が全く行き詰まりのように見えた時に、私は妻にこ
んなことを言って頼むことがありました。何年も前のことですけれど……
「済まんけど、お前代りに祈ってくれへんか? 僕の祈りは今はアカン。利
けへん。頼む、お前祈ってくれ」。
そんな時に、
妻はよくこう答えたものです。
「何アホなこと言うてんの? ウ
チの祈りなんか余計アカンやんか。あんたのんが利くんやないの。」
実はこれは両方とも間違っておるわけです。第一、どんな祈りが「利く」
とか「利かない」とか、呪文の魔力みたいに考えること自体が不信仰で、祈
りとは何かを取り違えております。第二に、勇気と確信にみちたチャンとし
た祈りは聞いて頂けるが、勇気を失ってペシャンコの時のみっともない祈り
はボツになる、という考えが間違っております。つまりこっちの側(祈る人)
がどれだけしっかり立っているかで祈りの力が違って来るみたいに思うのは、
祈りを祈りと考えていない証拠です。
本当は聖霊は実にそんな時のために、あなたや私の中に座を占めていて下
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さって、祈る人自身どうしてよいかわからぬ混乱の時にも「直接手を貸して、
無力な私たちを助けて下さる」のです。しかも、私たちのその瞬間の祈りの
態度や言葉が、自分の混乱の故に「なっていない」ような場合でも、それを
父なる神のお心に添うように波長を変え、変調もして、正しく天に届けて下
さると言うのであります。何という有り難いことでありましょう!
こうして、8 章の初めから語られて来た聖霊の福音はその極みに達しまし
た。聖霊は私たちの栄光を保証する神様からの「初穂」であり、神の子とし
ての身分に証印を押し、生かさずには置かない「いのちの仕組み」として着々
と働いていて下さり、遂には体まで贖って神の子に適わしい栄光で輝かせて
しまわれる……だけでなく、私たちの行き詰まった時、祈りが祈りとならな
いような時にも、祈りの理解者、中継者、いな代祷者とまでなって、「言葉
23
にならない呻きの執り成し までして下さる」のです。
「キリスト・イエスにある者には今や断罪は一切あり得ない。その理由は
……」と切り出したパウロの福音の理由―聖霊の秘密―はここに語り尽
くされました。
(1972~75)
《研究者のための注》
1.
は以上に述べた福音の慰めの根拠を説明する。18 以下、26 以下、28 以下に説明
は三分される。
2. 信者や人間世界とは対立するものとして「被造物」が使われていることを「……まで
が」で表わした。
3. 直訳「被造物の待ちこがれ(
による強調。なお
4.
)が待ちかねている」―同義語の重複
は「首を前に伸ばして待つこと」。
は because とも that とも受け取れる。
5. 「子たち」
は 19 の「子ら」
を言い換えたもの。特に区別して
訳さなかった。
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6.
は「人間と共に」ではなく「一緒になって」。
7. 「初穂」は人間が神に捧げる供物という第一義から離れ、「それは初めのしるしに過
ぎず、これに続いて本収穫が来る」点が比喩の中心になっている。ここでは神が人間
に賜わる最終的祝福(体まで贖われ、神の子としての栄光がフルに与えられること)
の保証として賜わった聖霊をさしており、いわば2コリント 1:22 やエペソ 1:24 で
使われている
8.
の意味に近い。
は副詞的で、譲歩の分詞構文と見た。
9.
は強調的位置。「私たちが救われたのはどこまでも
…
(という
条件、性格で)である」。
10. 「私たちが希望の対象とするのなら」と形は条件文だが、22 講註 33 等と同様、事実
に基いて結論を引き出す第一種条件文。
11.
は強調された位置にある。
12. 直訳「だがそれと同じようにして」。つまり希望が私たちを支えて忍耐させるだけで
なく、これと平行する助けが聖霊によって与えられていることを言う。
13.
(当然なすべき限りに従って)は、言うべき内容や表現し方の無知を言うの
でなく、本当の事態に見合った祈りの内容が何であるか(事態がどれだけ緊急で命に
かかわるか)の認識さえ欠くことに言及する。1コリント 8:2 の
をも参照。
14. 「言葉にならない呻きを使って(具格)」つまり信者の呻きのような祈りででも、註
23 をも見よ。
15. 22 講訳文 8 章 2 節、および 22 講註 1,4。
16. 23 講訳文 8 章 13 節、および 23 講註 2。
17. 創世記 1:10,12,18,21,25。
18. ギリシャ語ではアオリスト時称。「救われた」事実をひと塊りの全体としてみる。
19. For it is“
”that“
”という感じの強調構文と見てよい。
20. ヘブル 11:1 の内容と相通じる。
21. Keep Thou my feet, I do not ask to see the distant scene, one step enough for me.
賛美歌 288 番の原詩の 1 節後半。
22.
→註 13
23. 「言葉にならない(または、言い表わせない)呻きで」は、私訳のように解する人は
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行き詰まりの先の栄光
少なく、大多数は聖書協会訳のようにこれを聖霊の呻きと解する。Kittel 辞典
,etc.の項を執筆している J.Schneider は「被造物の吐息 sighing と神の子
らの吐息に御霊の吐息が呼応する」と言う。新改訳の「言いようもない深いうめきに
よって」も同様である。ただし Tyndale N.T.Commentaries 中の F.F.Bruce は「あら
ゆる人の思いは神の前には開かれた書物に等しいが、その神が彼の民の心の深みにあ
る言葉にならない『呻き』の中に、御自身の意志に合わせて執り成そうとする聖霊の
声を聞き取って下さり、それに応じたお答えを下さるのである」と書いており、NBE
では“through our inarticulate groans the Spirit himself is pleeding for us”となっ
ている。
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