ヒューマンエラー防止の心理学

(JR 貨物
安全講演会)
ヒューマンエラー防止の心理学
2015/11/13
北九州市立大学文学部 松尾太加志
1.ヒューマンエラーとは?
人間の行為や判断が期待された範囲を逸脱し,その
結果においても期待された範囲を逸脱した場合,その
人間の
基本特性
ヒューマン
エラー
行為や判断が「ヒューマンエラー」と言われ,表1の
ように分類することができる(松尾,2011).事故と
柔軟で適応的
錯誤・失念
効率優先
不安全行動
いう期待されていない事態が生じるのは,錯誤やスキ
ルが不十分で行為がうまくいかなった場合(行為の失
事故
図1
ヒューマンエラーと事故
敗)や,リスクを過小に評価してしまい,不安全行動をする場合(リスクの過小評価)など,期待された範
囲を逸脱した結果だと考えられる.
このようなヒューマンエラーが生じるのは,人間が柔軟で適応的であったり,効率を優先させたりする人
間の基本特性に依存している(図1).そのため,人間はエラーをする存在であるという行動特性を理解し
た上で,ヒューマンエラーを考えなければならない.
表1 エラーの分類
事例
分類
行為の失敗
誤確信エラー
座金の交換を忘れていた
患者を取り違えた
ボルトの緩みが発見できなかった
ボルトをきちんと締めることができなかった
未達成エラー
リスクの過小評価
効率優先エラー
安全行動省略エラー
一人ですべきところを4人で分担した
標識を設置していなかった
チェックシートを使っていなかった
フルネームを名乗ってもらわなかった
2.人間の基本特性
人間は,現実世界に適応的に生活をしなければならない.そのた
め,優先されるのは効率や柔軟性であり,正確さは二の次である
(図2).人間は効率よく行うための行動特性を持っているが,こ
れらの特性は同時にエラーも誘発してしまう(表2).つまり効率
とエラーは両刃の剣である.
ヒューマンエラーを「人間の正しい判断や行為が何かの原因で歪
表2
行動特性
論理性
正確性
効率性
柔軟性
適応性
図2
人間は効率を優先
錯誤や失敗を生じさせてしまう人間の行動特性
ヒューマンエラーを誘発する特性
資源の分配
効率や柔軟性をもたらす点
複数の課題でも適切に記憶や注意の資源を配
分して実行する.
トップダウン的処理
先に結論を決め,その結論に合うような処理
を行う.
思い込みによる誤った判断
ヒューリスティック
な判断
すべての情報を利用せず,限られた情報だけ
から推論する.
短絡的な判断による誤り
自動処理
意識せずに行為を効率的に実行できる.
無意識のうちにエラーをしてしまう
学習可能
必要に応じて学習可能
知識や技能の不足によるエラー
-1-
注意の分散や記憶の失敗
(JR 貨物
安全講演会)
められる」と考えるのは間違った認識である.エラーを起こすのは人間の基本特性であり,「もともと,人
間は正しい決定や行為ができているわけではない」という認識を持たなければならない.人間の行為のうち,
外から見たときに期待された範囲を逸脱した場合をエラーと言っているにすぎず,そうでない場合でも人間
の行為のプロセスとしてはどれも同じであり,ヒューマンエラーは結果論に過ぎない.
3.ヒューマンエラーの原因は?
ヒューマンエラーによって事故が生じたときに,「あのと
100%
きにこうすればよかった」,「もっと注意しておけば気づい
たはず」と人間を責めることがある.しかし,それは後知恵
正
確
さ
バイアスにすぎない.人間の行動特性を考えると,その時点
ではやむを得ない行動であったはずである.注意は,高める
ことである程度までは正確さに効果をもたらすが,それを越
えると,かえって負荷がかかってしまう(図3).注意をす
人間の注意
図3
人間の注意と正確さの関係
ればヒューマンエラーがなくなるものではない.
ヒューマンエラーを引き起こす要因として考えられるのは,ひとつは人間の基本特性であるが,もうひと
つは,モノ・情報・システム・文化の要因である(図4)これらの背景要因がヒューマンエラーを引き起こ
している.背景要因に様々な問題があるため,ヒューマンエラーが必然的に生じているのである(図5).
実際の業務環境の中で,人間は安全を含めさまざまな要求との折り合いをつけながら判断・行為を行ってい
る.人間は融通が利くため,折り合いをつけることができる唯一の存在である.うまく折り合いをつけるこ
とができなくなったときに生じるのがヒューマンエラーである.モノ・情報・システム・文化の様々な問題
がヒューマンエラーという形で表れてしまう.したがって,それらの要因に対して対策を講じなければ,ヒ
ューマンエラーはなくならない.人間の基本特性は「基本」特性であるため,変えることはできないが,モ
ノ・情報・システム・文化の要因は変えることができるのである(図4).
エラー
人
要因
要因
要因
図4
ヒューマンエラーの原因と改善
図5
要因
ヒューマンエラーは背景要因から生じる
4.ヒューマンエラーを防ぐ
人間がすべきことは,知識やスキルを獲得し,リスク認知を高め,組織として安全文化を醸成することで
ある.しかし,それによってヒューマンエラーが無くなるわけではない.ヒューマンエラーは,人の問題と
いうよりも,モノ・情報・システムの不具合の兆候が表出したものであり,根本的な解決には,モノ・情
報・システムの改善が必要である(表3).具体的な対策を表4に示した.しかし,どのような対策を行っ
てもエラーが完全になくなるわけではないため,気づきやすい手がかり(表5)を設けることが必要となる.
さらに不安全行動を防ぐには,「○○をしなさい」だけでは何の対策にもならない.ルールや手順を命令
的規範として定めても,例外が存在していたり,それらを遵守することにコストがかかったりしてしまうと,
守られなくなってしまい,守らないという事実が記述的規範となって,ほとんど遵守されなくなってしまう.
ルールや手順を遵守されないことによって事故が発生した場合,個人の責任に転嫁させてしまうのは,本当
-2-
(JR 貨物
安全講演会)
の事故要因を隠蔽させてしまうことになりかねない.みんなが守れる安全行動の規範を作っていくことが必
要である.
表3 ヒューマンエラーを防ぐ対策
エラーの分類
人の改善
モノ・情報・システムの改善
誤確信エラー
人間の基本特性によるた
識別性を高める.識別が困難な場合,止める.
め,改善は考えにくい.
効果的な手がかり(表5参照)を設ける.
知識やスキルを高める.
支援ツールを設ける.
未達成エラー
教育・研修を行う.
効率優先エラー
リスク認知を高める.
効率的に作業ができるようにする.効率を優先した行為を
しなくても効率的にできるようにする.
安全行動省略エラー
リスク認知を高める.
安全行動に対するコストを低下させる.安全行動を実行す
ることをコストと感じさせないようにする.
表4
考えられるエラー対策
エラーの分類
生じたエラー例
エラー防止対策例
誤確信エラー
薬を間違えた.
薬の形状を変える.
未達成エラー
ボルトの緩みが検知できなかった.
ボルトの緩みが容易に検知できるツールを開発.
検知技術を訓練.
効率優先エラー
一人ですべきところを4人で行っ
た.
一人で行っても十分に効率よくできるようなツー
ルを開発.
安全意識を高める.
安全行動省略エラー
チェックシートを使わなかった.
使いやすいチェックシートに.
安全意識を高める.
表5
エラーに気づく手がかり
手がかり
具体例
特徴
モノで気づく
対象が直接持っている情報
見ただけでわかる.
使おうとするとわかる.
表示で気づく
対象を示す情報で対象に貼付されている情報
モノで気づかない場合に有効.
錯誤が生じることがある.
見落としもある.
文書で気づく
チェックシート,マニュアルなど
情報のチェックには必要.
見ようとしないと役に立たない.
見たい情報がすぐにわからない.
機器から指摘
センサーなどによる指摘
確実性が高い.
導入コストが高い.
他者から指摘
当人以外の人間による指摘
あいまいになることがある.
指摘が難しいことがある.
5.エラーや事故を教訓とする-安全文化の醸成-
ヒューマンエラー防止にとって重要なことは安全への意識を高めることである.安全への意識が高まれば,
リスク認知の向上,知識・スキルの向上,ヒヤリハットの報告につながる(図6).とくに,ヒューマンエ
ラーは必ず生じるという意識を持ち,リスクに対する認知を高めることが重要である.それによって効率を
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優先させたり,安全行動を省略してしまうような不安
安全への意識を高める
全行動はなくなることが期待される.さらに,安全の
ために知識やスキルを向上させる動機づけを高めてく
教育・研修
リスク認知を高める
れる.
安全意識の向上には教育や研修が必要であるが,組
安全情報の共有
ヒヤリハットの報告
織としては個人が行う安全のための行動を活かすこと
がもっとも重要である.そのためには,ヒヤリハット
知識・スキルの向上
個人
や事故を教訓として活かさなければならない.ヒュー
マンエラーはシステムの抱えた問題が表面化したもの
モノやシステム
の改善
組織
安全文化の醸成
であるため,ヒューマンエラーによるヒヤリハットは
システムの潜在的な問題を示すものである.
図6
安全のために組織および個人がなすべきこと
組織としての安全管理のあり方は,ヒューマンエラーをした個人を責めるという懲罰モデルではなく,エ
ラーをシステム改善につなげる学習モデルであることが求められる.ヒヤリハット報告は安全に関する情報
として共有され,それがリスク認知を高めることにつながる.また,それがモノやシステムの改善につなが
ることもある.その改善は,個人のスキル向上に役立つようになることもある(図6).
ヒヤリハットに意識が向けば,リスクに対して敏感になる.また,報告事例を共有することによってリス
クの認知を高めることができる.報告事例をもとにリスクの改善がなされれば,リスクの低減につながり,
その改善フィードバックがヒヤリハット報告の促進となる.
安全は個々人の努力だけでは実現できない.安全と効率はトレードオフにあるため,安全のための行動は
コストになってしまう.そのため,個人では安全を優先させる行動を起しにくい.個人の行動は,組織や職
場の風土に影響されるため,組織や職場が安全を優先させる風土にあれば,個人も安全のための行動を実行
できる.
そのためには,組織には「安全を優先させなければならない」という安全文化の醸成が求められる.コス
トをかけてまで安全を優先させるという文化を醸成するには組織のトップの意識が強くなければならない
参考文献(順不同)
磯兼 雄一郎・井上 孝司
2010
標識と信号で広がる鉄の世界 秀和システム
大山 正・丸山 康則(編) 2004 ヒューマンエラーの科学 麗澤大学出版会
海保 博之・宮本 聡介 2007 安心・安全の心理学~リスク社会を生き抜く心の技法48~
河野 龍太郎(編著)東京電力㈱技術開発研究所ヒューマンファクターグループ(著)
エラーを防ぐ技術 日本能率協会マネジメントセンター
シドニー デッカー (著) 小松原 明哲 (訳)
ルドガイド 海文堂出版
2010
2006
新曜社
ヒューマン
ヒューマンエラーを理解する―実務者のためのフィー
篠原 一光・中村 隆宏(編) 2013 心理学から考えるヒューマンファクターズ 有斐閣
芳賀 繁 2009 絵で見る失敗のしくみ 日本能率協会マネジメントセンター
エリック ホルナゲル (著) 小松原 明哲 (訳) 2006
重なりが事故を起こす 海文堂出版
ヒューマンファクターと事故防止―“当たり前”の
松尾 太加志 2011 エラー防止対策のアプローチに基づいたヒューマンエラーの分類
トリ学会第 15 回全国大会(http://mlab.arrow.jp/pdf/c1101.pdf)
三浦 利章 ・原田 悦子(編著)
会
日本情報ディレク
2007 事故と安全の心理学-リスクとヒューマンエラー 東京大学出版
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