中 央 情 報 通 信 社

発行日 毎月15日
大日本生産党機関紙
第1322号 平成27年8月15日
8 月 号
無知から生まれる侮辱を許すな ………………………………………………1
寄 稿
今年は同和対策五十周年 …………… ………3
「兵庫通信」代表 村上 学
沖縄「在日米軍基地」についての一考察 ……………………………………4
連 載
或る運動者の回想録〈第2回〉…………………………丹 野 寛 親………5
本部、地方本部活動報告 …………………………………………………………8
発 行 所
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中 央 情 報 通 信 社
主幹/杉 山 清 一 編集長/谷 田 透
無知から生まれる侮辱を許すな
福岡県飯塚市で歴史冒瀆事件発生
本紙編集部
福岡県飯塚市の市営霊園の中に国際交流広場︵写真︶を造り、補助金や寄付金によっ
て﹁炭鉱労働者の朝鮮人慰霊堂﹂が建てられている。それ自体は、慰霊や追悼を差別
なく行なうという﹁文明国の代表﹂である日本人の美しい行為であるが、その慰霊堂
にある﹁納骨堂と追悼碑﹂︵平成十二年作成︶が今、物議をかもしている。
福岡県飯塚市というのは、筑豊炭鉱の真ん中にある地区だ。麻生太郎副総理の地元
でもある。そこでの﹁歴史冒瀆事件﹂なので、より一層深刻だ。
問題の朝鮮人慰霊追悼文には﹁日本の植民地政策により数多くの朝鮮人と外国人が
日本各地に強制連行されました。筑豊には十五万人に上る朝鮮人が炭鉱で苛酷な労働
を強いられ、多くの人々が犠牲となりました﹂と書かれている。この十五万人の根拠
が不明確なのである。
飯塚市によれば、これは朝鮮総連が押し込んできた話で
あり、疑問をはさむことは出来なかったらしい。また飯塚
市には、韓国人から帰化した怖い議員も居るとかで、誰も
疑問を口に出来ないらしい。その上に、毎年の市の負担金
は際限なく続けられている。飯塚市が言い訳に使う逃げ口
上 は、﹁福 岡 県 知 事 が 県 内 の 炭 鉱 に 強 制 連 行 さ れ た 朝 鮮 人
﹂である。
のリストを発表しているので …
そのリストはネットにも発表されているそうで、強制連
行された朝鮮人を約十一万人、その中の約五万八千人が逃
亡 し て 行 方 不 明、死 亡 し た 者 は 約 七 百 人 と い う も の だ が、
数字の出所は朝鮮総連の関係者の捏造と見られており、そ
の確認や検証を福岡県は一切実施していない。つまり、福岡県知事は朝鮮総連の宣伝
工作員にさせられているのである。
明治時代から昭和四十年代まで続いた筑豊炭鉱は、三菱・三井・麻生などの企業が
運営していたが、炭鉱には﹁山の掟﹂という厳しいルールが存在した。一例を挙げると、
朝飯で味噌汁をご飯にかけたらリンチされる。理由は、炭鉱で死亡した仲間を土饅頭
で葬った所に味噌汁をかける風習が存在したからである。また、仲間の妻や娘にちょっ
かいを出した者は半殺しにされるが、この理由は仲間に対する信頼が全てだったから
である。おびただしい数の﹁山の掟﹂については、ユネスコ世界記憶遺産になった山
本 作 兵 衛 の 記 録 画 に 詳 し い が︵次 頁 写 真︶
、肝 心 な こ と は、そ の 炭 鉱︵山︶で 働 い て
いた人々はどんな出自を持っていたかを語ることがタブーだという現実である。
炭鉱会社の労務担当は厳しいものだが、それでも炭鉱労働者のリストには本名や本
籍地が正確に記されたものは少ないらしい。大手企業でもそうなのだから、タヌキ掘
りと呼ばれた中小企業になれば、ほとんど正確なリストは存在しないだろう。また、
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本名や本籍地などが普段の生活に関係なかったことも現実である。
炭鉱で働いていた人は、九州全体では百万人を超えるかもしれない。圧倒的多数者
は 日 本 人 だ が、同 和 地 区 出 身 者 や 貧 窮 家 庭 出 身 者 ば か り で な く、﹁訳 有 り﹂の 日 本 人
が多かったのも事実である。差別なく、働いた分だけ給料がもらえるからと、日本の
数倍も身分差別が激しい韓国全羅道から渡ってきた労働者も大勢記録されている。こ
れらは現地の職業斡旋を受けたり、人材派遣業者︵奴隷商人︶から売られてきた人た
ちが多かったらしい。日本陸軍や日本警察が現地の村で﹁強制連行﹂した人など、我々
の知る限り存在しない。
だが、一部の炭鉱では、政府や軍の命令で増産するに当たり﹁労働者補充﹂を申請
したようだが、その時に不正な行為が行なわれたという話もある。それが何割にのぼ
るのかは不明だが、少数であることに間違いなさそうだ。その不正な行為については、
歴史に真面目に向き合う必要性から、我々はきっちり清算することが大切だ。
さて、前述の飯塚市の﹁追悼文﹂に在る﹁強制連行十
五 万 人﹂と﹁多 く の 犠 牲 者﹂と い う 言 葉 を 検 証 す れ ば、
何の根拠も存在しないことが判る。飯塚市の隣の田川市
では、朝鮮人の慰霊をするために死亡した者の墓石を整
理したところ、総数は約六百基だったという。これを拡
大して考えれば、福岡県知事が公表している﹁強制連行
の朝鮮人リスト﹂のデタラメさも分かる。
なぜ、こんな事が起きるのか?
それは福岡県知事や
飯塚市長の無知、県民市民の無関心が全ての根底にある
からであろう。
強制連行・強制労働・徴用工・勤労動員・労働者売買
などの実態と区別が学校などで教育されていれば、こん
なことにはならない。また、祖国の恥ずかしい行為であっても、歴史に真面目に向き
合って清算する心構えがあれば、片目をつむって歴史を見るような卑屈も排除できる。
正々堂々としていれば、中共や朝鮮総連の対日工作および韓国の挺対協︵挺身隊問題
対策協議会︶の﹁日韓を永遠に和解させない﹂工作にも、平然と﹁何が真実か﹂を打
ち出して正面から受けて立つことができる。
また、在日朝鮮韓国人の特権を糺弾しようというグループなども﹁百かゼロか﹂﹁白
か黒か﹂という不毛な理屈を主張するが、世の中に﹁百かゼロか﹂はほとんど存在し
ない。その間には一から九十九までがあるのであり、白に近い灰色から、黒に近い灰
色までが在るのだ。その当然すぎる歴史の事実を、感情論や誤解によって極論に持っ
て行こうとするのはいただけない。
福岡県知事と飯塚市長の無知に端を発する今回の﹁歴史冒瀆事件﹂は、祖国を侮辱
する行為だと知らねばならない。そうでなければ、歴史的事実の有無を捏造した者が
先手必勝になってしまうだろう。我々は既に﹁後手﹂を踏んでいるのだから、正々堂々
と歴史に正対する謙虚さと、僅少でも存在した不正行為に対する清算を考える真面目
さをこそ﹁最高の文明国の対応﹂として心得るべきではなかろうか。
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今年は同和対策五十周年
兵庫通信
代表
村
上
学
我 が 国 に お い て﹁同 和 問 題﹂が 公 式 に 取 り 上 げ ら れ た の は、昭 和 四 十 年 に 総 理 府 同
和対策室が﹁同和対策審議会答申﹂を発表した時からである。それまでは、単純に﹁部
落問題﹂という被差別問題と人権救済問題だったのである。
こ の 時 政 府 は、最 大 の 民 間 部 落 解 放 運 動 組 織 で あ る﹁部 落 解 放 同 盟﹂に 全 国 調 査 を
依 頼 し た。そ の 結 果 は、正 し い か ど う か と い う 議 論 は 省 略 し て、全 国 六 千 部 落・三 百
万人という﹁同和﹂が存在していることが判明した。 政府は﹁属地属人主義﹂の立場
から、明治四年の太政官布告によって﹁賤称廃止令﹂
︵通称解放令︶が出された時点で、
﹁被 差 別 の エ タ 部 落 や 非 人 部 落 に 居 住 し て い た 者 の 直 系 の 子 孫 に 限 る﹂と い う 制 約 を
設けていた。
昭 和 四 十 年 の 部 落 解 放 同 盟 の 全 国 調 査 で は、筆 者 の 知 る 限
りでも、かなり多くのエタ部落が﹁指定﹂を拒絶している。
﹁同
和 地 区﹂に 指 定 さ れ れ ば、免 税 や 補 助 金 な ど の 恩 恵 に 与 か れ
ると勧誘されたが、指定を受けたら未来永劫﹁エタ﹂から抜け
られなくなると言って拒否した部落が多かった。だから、この
時 の 調 査 は 正 確 で は な い。現 実 的 な も の で あ る よ り も、理 念
的 な も の を 望 ん で い た の で あ り、多 少 の 小 手 先 修 正 は 当 然 だ
と言える。
大 正 十 一 年 に 京 都 岡 崎 公 会 堂 に お い て、﹁人 の 世 に 熱 あ れ、
人 間 に 光 あ れ﹂と い う﹁水 平 社 宣 言﹂が 出 さ れ た 時 に、全 国 統 一 の 民 間 部 落 解 放 運 動
は 始 ま っ て い た の だ が、こ の 水 平 社 は、内 部 に お い て は 浄 土 真 宗︵一 向 宗︶と キ リ ス
ト 教 と 共 産 主 義 者 に よ っ て 分 裂 が 始 ま り、外 部 か ら は 警 察 の ス パ イ 送 り 込 み と 恫 喝 に
よって解体が始まるのである。
政 府 主 宰 の﹁融 和 運 動﹂と、反 権 力 の﹁水 平 運 動﹂は 相 容 れ な い も の だ っ た が、大
東亜戦争を経て統一的な運動がGHQ 民生局からも推奨され、東京オリンピックで国
際 社 会 の 一 員 と 認 め ら れ て か ら は﹁同 和 運 動﹂に よ っ て 被 差 別 部 落 を 解 放 す る こ と が
進 め ら れ た。そ の﹁同 和 運 動﹂が 根 拠 と し た の が、昭 和 二 十 一 年 に 国 連 人 権 委 員 会 が
設置され、昭和二十三年に﹁世界人権宣言﹂が採択されたことにある。
昭 和 四 十 四 年 に、同 和 対 策 審 議 会 答 申 を 実 際 の 政 治 的 な 形 と し て﹁同 和 対 策 事 業 特
別 措 置 法﹂が 制 定 さ れ た。つ ま り、部 落 解 放 運 動 の 根 本 は﹁劣 悪 な 生 活 環 境 を 改 善 す
る こ と が 最 も 優 先 さ れ る﹂と い う こ と に な っ た の で あ る。こ の 法 は、十 年 間 の 時 限 立
法として﹁同和利権﹂を形成した。
◇
さ て、昭 和 四 十 年 の 同 和 対 策 審 議 会 答 申 の 中 に 書 か れ て い る 要 点 と は、﹁同 和 問 題
と は 人 類 普 遍 の 原 理 で あ る、人 間 の 自 由 と 平 等 に 関 す る 問 題 で あ り、憲 法 に よ っ て 保
障 さ れ た 基 本 的 人 権 に 関 わ る 課 題 で あ る。審 議 会 は、こ れ を 未 解 決 で 放 置 す る こ と は
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投稿
断じて許されず、早急な解決こそ国の責務であり同時に国民的課題とする﹂とされて
いる。具体的には﹁同和行政は基本的に国の責任において当然行なうべき行政であり、
部落差別が現存する限り、この行政は積極的に推進されなければならない﹂とされた。
つまり﹁部落差別がある限り、国は同和行政をしなければならない﹂という底なし
沼的な魔界の扉を開いたのだと言える。
それから五十年を経た現在、一世を風靡した﹁同和対策﹂という社会現象を知らな
い 世 代 が 増 え て き た。そ う し た 中 で、﹁同 和 問 題﹂の 本 質 は 日 教 組 教 育 の 中 に 取 り 込
まれた部落解放同盟の﹁較差を無くす﹂という主張に沿って歪められ、昭和四十年の
同和対策審議会答申が力説した﹁国連人権宣言﹂の精神も忘れられた。
﹁国連人権宣言﹂と一般的に言われているのは、﹁人権に関する世界宣言﹂と言うも
ので、この内容は実は﹁国連憲章﹂第一条の精神そのものなのである。
詳細な内容については、読者の皆様がネットなどで調べて頂きたいのだが、肝心な
ことは﹁全ての人は自由・平等・尊厳・権利を持ち、それは人種・性別・宗教・国籍・
貧富の差などによって差別されてはならない﹂ということである。この要点さえ確実
に掴んでいるだけで、同和問題の解決の道筋が理解できるはずである。それを解決す
る道筋が﹁国連﹂であるということも、現実の国連が大国のエゴで歪められて正義が
置き去りになっていることと併せて、理想論としての国連の姿を知ることになる。そ
れが理解できれば、日本の同和問題に対する姿勢も﹁何が正しいのか﹂分かるだろう。
我 々 が 本 質 を 知 ら ず に﹁同 和﹂﹁人 権﹂を 政 治 的 用 語 と し て 振 り 回 し、他 者 を 屈 服
させる理論武装の一種として取り入れたりするのは、実際には愚の骨頂なのである。
﹁在 特﹂や﹁ネ ッ ト 右 翼﹂を 批 判 し て も、客 観 的 に は た だ の 近 親 憎 悪 的 な 歪 み し か 感
じない。
﹁同和対策五十周年﹂の現在、同和問題解決の理想論と国連人権宣言の精神的方向
性を照らし合わせ、共通の価値観が存在することを確認してみるのも価値があること
だと思う。
沖縄﹁在日米軍基地﹂についての一考察
沖縄の在日米軍基地問題が紛糾している。沖縄県知事や各市長も﹁反対﹂と大声を
出している。ワシントンDCまで乗り込んで、アメリカ政府に直接抗議をしに行く茶
番まで演じている。日本政府与党はおろおろして、国内法も国際条約も忘れているよ
うだ。
マスコミが正確に発表しないので、少しだけ在日米軍基地について報告させて頂く。
◇
沖縄には﹁沖縄県軍用地等地主会連合会﹂という組織がある。在日米軍基地の地主と、
自衛隊基地の地主の大半が加盟している。
この組織には約四万二千人が加盟しており、所有する基地内の土地面積は約二三二
平 方 キ ロ で あ る。支 払 わ れ る 借 地 料 は 年 間 九 二 七 億 円︵二〇一 一 年 度︶、加 盟 す る 地
主には約二〇〇万円ずつ支払われている。
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この在日米軍基地の用地は、二十年毎に契約更改が行なわれている。今回九十九%
の面積について、約二万九千人の地主が契約更改した。あとの一%を所有しているの
が﹁反戦一坪地主﹂である︵写真下︶。
沖縄で﹁土地強制収用﹂が行なわれたのは、那覇市、宜野湾市、
伊 江 村 の 約 一 七 七 ヘ ク タ ー ル と 言 わ れ て お り、こ れ は 在 日 米
軍基地全体の〇・八%である。
我 々 は 沖 縄 に い な い の で 実 態 は 分 か ら な い が、沖 縄 に 在 住
す る 基 地 地 主 の 大 半 が﹁基 地 継 続﹂を 求 め て お り、そ れ は 経
済的理由を第一にしているようだ。
米 軍 基 地 の 問 題 は、借 地 料 以 外 に も 補 助 金 や 雇 用 な ど の 経
済 効 果 が あ り、マ ス コ ミ が 喧 伝 す る よ う な 政 治 的 理 由 だ け で
は﹁沖縄世論﹂とは言い難い。
政府与党は、沖縄の在日米軍が﹁中共の攻撃から日本を防衛する中心だ﹂と語るの
だが、沖縄の海兵隊八〇〇人は十月に台湾に移動する予定と聞くし、太平洋司令部も
台湾に移転すると聞いている。沖縄の米軍基地は、縮小する方向で考えられているの
だろう。沖縄へ支払われる金銭や経済的恩恵も縮小されるのは確実だが、それを駆け
引き材料に使うという下品な計画ではなさそうで、純粋に戦略的なもののようだ。
数年前には、国民新党の下地代議士が﹁那覇に中国総領事館を誘致する﹂と選挙公
約 し て い た が、沖 縄 と 中 共 や 北 朝 鮮 を 結 び つ け た い 勢 力 が﹁反 米﹂﹁反 日﹂を 叫 ん で
いるという昔変わらぬの構図があるようだ。それら左翼勢力が﹁ポスト米軍基地﹂の
経済的問題にどんな回答を用意しているのか、是非聞いてみたいものである。
或
る
運
動
者
の
回
想
録
︵
丹 野 寛 親
第
二
回
︶
回想録も第二回を迎えるが、前回に予想以上のご好評を頂いたので今回も記憶を辿
りながら書いてみたいと思う。
さて前回、書いたように翌年に全国ブロック別研修会に参加する時が来た。前知識
として第四代党首
鴨田徳一先生の活動の軌跡は、当時発行されていた中央情報通信
小冊子を熟読していたので、早く鴨田先生の講義を聞きたくて心待ちにしていた。
氏の理解し難い行動に少し疲れていた時でもあり、この
しかし、相変わらず岑︵みね︶
頃から私も、何かにつけて居留守を使うようになり、岑氏との距離を置くようになる。
しかし、それを察知してか岑氏も大義名分に結びつけた、断りにくい理由をあれこ
れ言うようになり、少し油断すると夜中まで引っ張り回されるといった日々を過ごし
ていた。
そんな頃、ついに待望のブロック研修会が開催される時が来た。この時代は、全国
ブロック別研修会ともなると九州地方は鹿児島を除く福岡・佐賀・長崎・大分・熊本・
宮崎県と各支部だけでも十七支部が存在しており、九州管区行動隊本部と各地区行動
連 載
5
隊も活発に活動していた。
◇
ブロック研修会に初参加して驚いた。まず各支部だけでも五十名を超えており九州
行動隊本部・地区行動隊・要員だけでも三十名ほど居たので、総勢八十名規模の研修
会である。開催されたホテルに到着して、一泊二日の研修会で、割り当てられた部屋
に八名。暫くすると、当時の管区隊長数名で名簿確認があり、四名しか来てないと伝
えると、八名分の参加手当て四万円を渡された。なんと
?﹁な ら 岑 氏 の 言 動 と は?﹂
参加するとお金を貰える …
こ
…のあたりから不信感を覚え始めた。
さて、研修会が始まると意外と小柄な鴨田先生が、冒
頭は物静かに挨拶をされて参加者一同を労う言葉を頂い
て、謙虚な方だなあと聞き入っていた。
そうするうちに占領憲法の打破、自主独立憲法制定の
講義になると力強い声で、また初めて聴く私たちにも分
かりやすく、我が国の主権が如何に米国によって蹂躙さ
れているか、或いは旧ソ連や朝鮮半島の動向などを熱弁
される姿に、すっかり聞き入ってしまった。初日が四時
間余りの講義であったが、時間の経つのも忘れるうちに
夕食となった。
その後、入浴のあとに座会となり鴨田先生との質疑応
答の時間となる。私がこの時に先生に素朴な質問をしてみた。
﹁先生、なぜ日本は主権を取り戻せないのですか?﹂
﹁国民一人々が、現在のような経済発展と自由な暮らしに真の平和を感じているの
で、銃剣のもとに押し付けられた占領憲法を実感できないでいるのです﹂
。言われてみれば、自由と平和、権利と主張は当たり
なるほど、自由な暮らしか …
前だと感じていた私に鴨田先生は簡単に答えられた。
当時は余り気にもしなかった憲法問題に、初めて憲法とは何かを少し思考してみる
気になったのである。当時の私にとって、そもそも憲法とは何か等とは、確かに平和
ボケ的であり自由も平和もタダの権利であるという曖昧な感覚であったと思う。読者
の中にも、そう感じられている方は居ると思う。しかし、この時の素朴な質問に正面
から淡々と答えて頂いた、当時第四代党首であられた鴨田徳一先生との出会いによっ
て、その後、私の党活動、党生活にじわじわと火がついてゆくのである。
◇
私は入党して数年経った頃に、当時存在していた﹁佐賀地区行動隊長﹂に阿部右善
先生から推挙された。当然のことながら岑氏の雑音も響いてくる。
﹁丹野よ、行動隊は党の要だから資金調達をしないと何もできない﹂
そこであれやこれやと古本から掛け軸、さらには宝石まで持ってくる。
﹁これを売って活動資金にしろと?﹂
以前から騙されているので警戒して断ると、
当時の研修会の模様
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﹁ならこのダイヤモンドをお前が買ってくれ﹂
これからが大変、どんなに断っても食い下がってくる。どうにか断りきれた時に
﹁わかった﹂︵笑いながら︶﹁じゃあ宝石を預けるから七万都合してくれ﹂と …
やむなく諦めて貸すことした。
暫く経ってお金を返してくれと言うと、例の如くあやふや言い訳ばかり。堪りかね
て質屋に持って行くと、質屋のオヤジさんは﹁これガラスですよ …リングは鉄メッ
キです ﹂ また騙された …
こうして、岑氏との可笑しなその党生活は続いて行くが。その一方で、鴨田先生や
北上清五郎先生との研修会・勉強会を通じて、生産党の歴史、戦前戦後の諸先生諸先
輩方々の救国済民運動に、私はますます魅力を感じていくのである。
◇
そ れ か ら、昭 和 の 時 代 が 終 わ り に 近 づ い た 頃 に﹁九 州 管 区 行 動 隊 長﹂に 就 任 し た。
この時代はまだ九州一周遊説隊を編成して、約一週間かけて党の運動方針に基づき世
界内外情勢、時局問題、地方政治の刷新等々を掲げて各地方を遊説しながら活動して
いた。
各支部ごとに支部長や支部員と昼間は世論喚起の街宣運動をして、夜は地元の居酒
屋での座会での楽しみを満喫していた。
そんなある時だった。確か宮沢喜一首相政権当時に熊本県議で熊本自民党県連会長
が、熊本市議の女性議員に対してセクハラ行為で話題となり、マスコミでも盛んに報
道していた。当時の我が党熊本支部長から、ゼネコン癒着で、問題の自民党県連会長
が公共事業の独占的な談合で公共工事を受注しているという問題提起があり、当時の
熊日新聞が記載していた事実に基づき糾弾街宣運動を展開した。当時の運動を振り返
れば、今では拡声器による暴騒音条例やら何かと当局側の規制が強くやりにくいが、
この時代は少々やりすぎても許される頃であった。
この時は自民党熊本県連合会に公開質問状を持参し、抗議会談を要請した。県連本
部には誰も責任者は居ないと答えるので、﹁では宮沢首相に公開質問状の事実を認め
たものとし、次は官邸に抗議する﹂と伝えると、態度が一変した。慌てて担当の者に
連絡すると言って、県連幹事長が面会することになった。しかしそこに行きつくまで
と い う も の、当 局 側 と の 入 り 乱 れ た や り 取 り が あ り、
当時の県連合会は何としてでも、県連事務所に来させ
ないよう官憲あたりに要請したのであろう。
今となっては想い出話であるが、当時はこうした事
態に対応する現場での判断は、すべて管区隊長の自己
責 任 で や っ て い た の で あ る。若 さ ゆ え 出 来 た こ と で、
冷静に考えると冷や汗が出そうな事であった。
◇
話は前後するが戦前戦後を生産党の重鎮として戦われてきた白井為雄先生とお会い
する機会を得た。当時、九州本部長であられた阿部右善先生の尽力で、九州本部に白
井先生をお迎えして勉強会を開催するという、ありがたい機会に恵まれた。
白井先生の著書
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さっそく当日は、白井先生を福岡東区香椎駅へお迎えに行く。九州本部道場に到着
された先生のお姿は、板張りの道場に正座で凛と背筋を伸ばされた格好で、全員が着
座すると、その小柄な体からは想像しがたい張りのある声で一言々々を丁寧に、戦前
戦後からの生産党運動で経験された諸々の事案を話して頂いた。話を聞きながらその
当時の出来事を感じつつ、偉大なる昭和維新を切望され身を挺して維新日本建設に奔
走されてきた白井先生の行動を、走馬灯の如く語られた貴重な勉強会であった。
質疑応答となり、参加者からの質問を受けられたが誰もが黙っていた。そこで厚顔
にも私は先輩たちを横目に﹁神兵隊事件﹂の話をお尋ねしたのである。いま思えばと
んでもない失礼な質問であるのに、物静かにお話をされ始めたのである。
この事件の概要は簡単に言えば決行行動計画が事前に漏洩した為に、影山正治氏、
白井為雄氏、村岡清蔵氏以下六十三名が検挙され、昭和十年春以降に東京刑事地方裁
判所において被告人の多くが内乱予備罪に該当するとして、悔しくも長期に渡り刑に
服することになった と
…話された。
このように生きた歴史のお話を聞けたと言うことは、私にとって本当に有難い事で
あり、現在もあの時の白井為雄先生の毅然とされた様子を思い浮かべながら、党運動
にますます精進しなければと痛感するのである。︵次号に続く︶
URL は http:// 大日本生産党 .com/ です。
党の窓口として広く国民の皆様にご認識頂き、国内外諸問題の情報発
信や、正しい世論の構築に役立てたく存じます。
本部、地方本部活動報告
■ 関東・東北本部
◇七月二十六日︵日︶
・東 京・府 中 市 多 磨 霊 園 に て 党 祖・内 田 良 平 先 生 の お
墓 を 清 掃 作 業。内 藤 幹 事 長、山 田 関 東 東 北 本 部 副 本
部長による。︵写真︶
■ 関西本部
◇七月十八日︵金︶
・午 後 六 時 三 十 分 よ り、尼 崎 市 内 に お い て﹁む す び の
集い勉強会﹂。出席者は、党員党友六名。資料は﹁戦
後七十年V日韓五十年、日本政府V沖縄政府﹂﹁強制
連行を捏造する飯塚の石碑﹂﹁郵政民営化を狙う者の
正体﹂ほか。爾後の﹁むすびの集い﹂は、八月二十一
日
︵金︶
、九月十八日︵金︶に実施予定。
■ 九州本部
・七月三十日午後三時より五時まで、熊本市西区上代・
すし秀に於いて﹁熊本支部再結成準備会議﹂を開催。丹野党首、森田書
記長代行、堤副幹事長、佐伯九州本部事務局長、野崎伸也総務、野崎和
幸九州本部員、六名参加。
他界された熊本支部長村上富士夫氏に代わり、支部員であった岩尾隆雅
氏、古賀秀治氏、他三名の中から、新支部長に岩尾氏、幹事長に古賀氏
を選任して熊本支部の再結成を確認した。十月頃をめどに新体制で結成
式を行う事を取り決めた。
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