幽霊には脚がな い 私た ち の 文化の伝統 で は幽霊には脚がな いの で

幽霊には脚がない
本田 光男
私たちの文化の伝統では幽霊には脚がないのである。子供の頃夜の帳が
下 りて あち こ ち にで き る 暗が り か ら 人が 現れ ると 恐 怖 の 戦 慄が 背筋 に 走
り、瞬間的に脚があるかどうかを確かめるのが私たちの心性であった。そ
して幽霊でないと知ると、次に現実的な人間がもたらす危害に用心したの
である。この頃街から暗がりが消えるにつれ、そこから脚のない幽霊も姿
を消した。脚のない幽霊という種は絶滅しかけているかに見える。ところ
がどっこい、脚のない幽霊は昼夜を問わず日常の場に正々堂々と出現する
ようになったのである。それは特にテレビというマスコミ媒体に多く出没
する。そうした幽霊の兆表は単純である。普遍的言述を振り翳す時、その
根拠として提示すべき自分の経験的領域を、意識的無意識的に一部または
まるごと、忘却して見せることである。つまり脚がない、ないし脚を消す
のである。そうした幽霊の事例を今ひとつだけ挙げてみる。かってあるテ
レビの政治番組に登場した新興企業の経営者は、番組の最後にこう締めく
くった。「戦後教育は破産した」と。それまでの言動で自分の子が受けた
教 育 を 批 判 し た のが 唯 一 経 験領 域 の 根 拠で あ り 自分 自 身 の 被 教 育 経 験 の
提示は皆無のままに、である。この経営者は年齢五十台後半だから間違い
なく戦後教育と称せられる教育体制の真っ只中で過ごし、ともかくもそこ
で高等教育まで終了した筈である。とすれば彼は戦後教育なるものの恩恵
を受けて今があるか、さもなければそこから疎外されて、あるいはそれに
そ っ ぽ を 向 いて 、 自 主 的 に 他 に 教 育 の 場 を 求 めて 今 が あ る か 、 で あ ろ う 。
さて 戦後 教 育の恩 恵を こ うむ りな が ら それを 否定す る 発 言をす ると す れ
ば、国民一部の懐旧心情の時流に乗って教育基本法改正を主導している当
時の政治党派におもねっているだけのことである(現在改正が成立したの
で、以後この法律の新旧を改正教育基本法と教育基本法に呼び分ける)。
もし戦後教育に疎外されたのであれば、自分の被教育経験を語りそれが自
分のどこをスポイルしたかを根拠にあげなくてはならない。だがそれはそ
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こではまさしく忘却されたのだった。つまり彼は脚のない、ないし脚を消
した幽霊である。ところで私の被教育経験によれば、もし教育基本法の理
念を実現しようとする教育を戦後教育と称するなら、小学校における経験
がそれに大いに近く、中学校の経験は戦後教育とは似ても似つかぬもので
あり、高等学校のそれも教育基本法の掲げる理念の影を色濃く過らせる教
育であったし、大学は学科によってローカルに戦後教育が存在した、と思
い返すことができる。そして戦後教育の理念の影がない教育現場では私は
そこからの脱落者であった。こうした被学校教育経験の終了後に今度は自
分 が 学 校 教 育 を す る 立 場で 過 ご し た三 十 九 年 間 ま で を 見 渡 して 総 括 す る
と、戦後教育なるものは日本の教育において階層的に恵まれた一部に局在
していたに過ぎないと言うのが実感となる。では戦後教育の土台となる教
育基本法の理念とはどのようなものであるか。第一条に曰く、「教育は、
人格の完成をめざし、平和的な国家及び社会の形成者として、真理と正義
を愛し、個人の価値をたっとび、勤労と責任を重んじ、自主的精神に充ち
た心身ともに健康な国民の育成を期して行わなければならない。」あえて
言わしてもらえば、このような理念の影を、特に自主的精神に充ちた国民
の育成という理念を、校長等の管理職教員が現場の教育活動においてどれ
だけ実現して見せたであろうか。ほとんど上滑りの自主性尊重しか見られ
なかったといっても過言ではない。第二条に曰く、「教育の目的は、あら
ゆる機会に、あらゆる場所において実現されなければならない。この目的
を達成するためには、学問の自由を尊重し、実際生活に即し、自発的精神
を養い、自他の敬愛と協力によって、文化の創造と発展に貢献するように
努めなければならない。」ああ、実際生活に即し自発的精神を養い、など
という教育を現場で目にすることができた学校がどれほどあったか。被教
育経験者たる国民自身に問うてみるが良い。第十条曰く、「教育は不当な
支配に服することなく、国民全体に対し直接に責任を負って行われるべき
ものである。②教育行政は、この自覚のもとに、教育の目的を遂行するに
必要な諸条件の整備確立を目標として行わなければならない。」公権力が
直接不当な 支配を学校教育に及ぼすなどということはほとんど見当 たら
ないか見えるが、幾多の省令と通達及びそれに付随する指導や研修により、
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行 政 に の み 顔 を 向 け る 校長 等 管 理 職を 介 して 自 主 的 自 発 的 精 神 の 育 成 の
教育は抑制と圧力を日々受けているのである。国民に対して直接責任を負
う 教育など 現場 教員が 管理職 教員 に 抵抗しな い限り学 校 現場に影さ え 見
当たらない。戦後の教育行政はじわじわと陰に陽に教育基本法を形骸化に
追い込み、その仕上げが改正基本法であったと言うべきかもしれない。と
すれば私に言わせれば、現在生じている教育の問題、すなわち学校教育の
無力化は、まず戦後教育に罪を着せるのではなく、それが一度もまともに
実現されなかったところに求めて行くのが筋である。少なくとも戦後教育
なるものに冤罪を負わせ、それだけで足りず教育基本法にまで冤罪を負わ
せ、先に指摘した教育基本法の条項の字句を見事に削除した改正教育基本
法を成立させるのでは、学校現場の空洞化を追随合理化して問題の所在を
隠蔽し、それらを存続させ増大させするだけであると思える。問題解決の
原点は 教育 基本法の理 念と学校教育現場の実態とのずれ を事細かに 再 検
証するところにあるとしか見えない。かのテレビ出没幽霊たる経営者は自
分自身の経験に基づけば、
「戦後教育はなかった」、もしくは個人的に「戦
後教育は私を受け入れてくれなかった」と、締めくくるべきだったのであ
る。幽霊だからそれは出来ない相談だったということかもしれない。私見
によれば、今学校現場の問題は国家や地方自治体やマスコミやその他の社
会的圧力が 学校現場に 権力的な管 理のみを強 いるところ から主として 生
じている。戦後教育を主導したとされる教育基本法は教育全体を、従って
学校教育についても、国家政策の一環たることを国家自ら否定し学校教育
に自立性を認めてそれを支援するというところに基礎を置いていた。この
ことを今や国民の多くが理解していないか、理解している者も口をつぐん
でいるのである。口を開き声を大にする者たちは学校教育を国家政策の一
環だと思い込んで疑わない。だから改正基本法が学校教育の精神的土台を
いけしゃしゃと国家政策の一環に挿げ替えることができたのである。こう
して さ ら に 学 校 外 の あ ら ゆ る 社会 的 圧 力 は 行 政 を 介 して あ か ら さ ま に 学
校が教育を抑圧し管理を強めることを求めている。そのため学校内部では
管理が教育を抑圧する場面として次々と露出し、教育そのものに捻れと屈
折と亀裂が生み出されている。しかもそれは教育する側の無意識的作為と
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してなされることが今日的特徴である。即ち行き届いた教育的配慮の形を
とって善意に張り巡らされる権力的管理である。その結果生じる最も根源
的現象は教師と生徒との人間的な信頼関係の疎外である。それは学校現場
における知の拡大と深 化を介した敬愛と無償の愛の関係の衰退ない し消
滅と言い換えてもいい。そう、知は権力的管理を無化して自由(放任)を
呼吸しなければ拡大と深化を推し進めることはできない。そうしてこそ知
の拡大と深化は批判的知を育成し自己内省をもたらす。またそれによって
徳の自己教育を引き寄せるのである。知の教育もそれに伴う徳の自己教育
も自由を前提とし自由と同伴することでこそ活力をもつ。学校教育なるも
のはそもそも牧歌的に形成されて来たのだ。自由を前提とし自由と同伴す
る牧歌性が許されないのならば学校は解体されるべきものでしかない。と
ころが学校を解体するなど誰の頭にもないとすれば、このまま権力的管理
がのさばるだけとなり、学校は存続すれども教育は死滅する。小心虚勢の
為政者たちにとってはめでたしめでたしというわけだ。
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