参考資料 田頭真一 特定医療法人本部長・理事長

全人医療とスピリチュアルケア
聖書に基づくキリスト教主義的理論とアプローチの手引き
はじめに
オリブ山病院の基本理念
現在筆者の所属する特定医療法人葦の会は、1958 年 7 月に個人医院として始まり
ました。創設者の田頭政佐が 1965 年にクリスチャンになったことによって、現在は
特定医療法人葦の会オリブ山病院として以下の基本理念の下にその医療の働きを進
めています。
特定医療法人葦の会基本理念
「わたしたちはキリスト教精神にもとづき、病める者の肉体的、精神的、社会的、
さらに霊的ないやしを含めた全人医療の実践をとおして主の栄光のために奉仕す
る。」
この基本理念の中で掲げられた全人医療の中で、人のいやしの過程には、肉体的、
精神的、社会的、さらに霊的な面で求められるケアがある事が明示されています。
キリスト教の経典である聖書にもいやしに至る過程で私たちがなすべきことを多く
教えています。私たちの通常の理解でも、身体的いやしのためにはまず医療による
ケア、精神的いやしのためにはカウンセリングなど心理的なアプローチや人間関係
の日々の歩みをとおしてのケアが必要です。さらに精神的なケアとともに社会的な
関係の健全化に向けての社会的ケアが求められています。そして、究極的な魂の問
題として罪と死の解決にむけてのスピリチュアルケアが求められています。しかし、
そのような中でどうしても原則と理論がまとめられ提示されなければならない時期
にも来ているように感じています。時代とともに急激にまた大きく変化していく医
療現場においてスピリチュアルケアを続けるためには、変わらない理論と原則をは
っきりと知っておくというのは緊急の課題です。
そのような状況の中で、スピリチュアルケアにおける書籍の出版や学会の創設等、
最近ではスピリチュアルケアにも一般の注目が集まっています。しかしそこにまた
別の問題があることもわかってきたのです。一般的にも関心の高い「スピリチュア
ルケア」に関して本質的に正しく位置づけられず、残念なことですが、客観的に議
論されていない説明も多くあるのです。
ここにスピリチュアルケアの理解に関して非常に危惧しなければならない問題が
あります。それは現代社会の主流となっている世俗的世界観の影響です。それが伝
統的キリスト教理解に与えている多くの影響にも危機感を持つ必要があります。そ
れは聖書的な考えよりも世俗的ヒューマニズム(人間中心主義)やニューエイジ・
スピリチュアリティーの考え方がだんだんとキリスト教理解にも影響を与え始めて
いるという現実に対する危機感です。その影響の結果、聖書に明らかにされている
啓示としての客観的な霊的事実に基づいたスピリチュアルケアが無視されています。
それとは反対に「実存的」という言葉を使って単なる主観的な慰めがまるでスピリ
チュアルケアであるかのような考えが言われ始めてきました。その傾向が昨今さら
1
に強くなってきているのです。
最近の多くの文献を調べる中で、精神的・心理的ケアをもってスピリチュアルケ
アとしている本が多くありました。確かに精神的なあるいは心理的なケアは大切な
ことであり、スピリチュアルケアと関わる面も多くあるのですが、しかし、スピリ
チュアルケアは精神的・心理的ケアとは異なる領域に関わるケアなのです。
また全く聖書の教えとは違うニューエイジ・スピリチュアリティーをもってスピ
リチュアルケアの定義をしている本も見られます。そこでは客観的な啓示としての
聖書が語る霊性から離れて、スピリチュアルケアの原則を提示しているような場合
も多いのです。それではもはや福音による救いに導くという伝統的キリスト教の究
極的な目的は失われていくだけで、主観的に安らぎを得れば良いというような安易
な結果になることは明らかです。そのような危機感もあってこの著作では聖書に基
づいた本来のスピリチュアルケアについて説明をします。
その理解のためには、スピリチュアルケアの伝統的キリスト教理解が何であるの
か、スピリチュアルケアがいったい人のどのような面を扱うことなのかということ
をわきまえる必要があります。これらをスピリチュアルケアの聖書的な概念を説明
する中で明らかにしていきたいと思っています。
またスピリチュアルケアが独自の領域に関わるものであることを知れば知るほど
に、また他の領域とも深い関わりがあることにも目を留める必要があります。人間
が全人格的な存在として神に愛されているということを常に聖書から教えられつつ、
スピリチュアルケアは他の領域のケア、すなわち身体的、精神的、社会的ケアとの
関わりの中でとらえる必要があります。正に「全人」的に考えるときにスピリチュ
アルケアだけを切り離して考えることはできないのです。
なお、この著作では「霊的」という言葉と「スピリチュアル」という言葉を同義
語として扱っています。その定義に関してはこれから明らかにしていきますが、聖
書による定義を説明する中で、その他の多くの異なる定義の背後にある根本的な問
題も明らかにしていきたいと思います。
2
序章
「愛する者よ、あなたが、たましいに幸いを得ているように全ての点でも幸いを
得、また健康であるように祈ります。」
Ⅲヨハネ 2 節
スピリチュアルケアへの関心の高まりと重要性
現代社会の主要な社会問題の一つに人間の生命の取り扱いの問題があります。も
ちろんそれは医学だけの問題ではありません。死は宗教、神学、文学、芸術、政治、
経済において非常に大きな関心事であり、これまでも人間の生命の問題は人類の歴
史上で常に重要な問題でした。しかし以前は死は日常のなかにあり身近でありつつ
も、人間の力の及ばない神聖なものであると認識がありました。だからこそ、文学
や芸術の対象となり、哲学的課題と神学の論点であり、宗教信仰を必要とする根拠
ともなっていました。
しかし、死の問題が今や別の問題となって人々の生活の中で問われるようになり
ました。一言でいえば、
「どう死ぬか」が問われる時代になってきたのです。それは
具体的に終末期医療、尊厳死、またリビングウィルの問題として日本でも身近に問
われています。その背後には現代社会の死の状況に関しての急激な変化があります。
まず、日本では自宅での死者数より病院や施設での死者数が 1970 年代に上回り、
最近では病院施設での死亡が全体の 8 割を占めるようになりました。その場合にも、
延命的な治療がより長期に行われるようになり、寝たきりになったままの存命期間
が長くなりました。その結果、死は物理的にも心理的にも遠いものとなったと同時
に、人の手で操作できるかのように錯覚する状況になりました。
出展
内閣府平成 24 年版 高齢社会白書(概要版)3 高齢者の健康・福祉
それに先立って命の誕生に関しても 1960 年代後半には自宅での出産から施設や
病院の出産の方が多くなり、命の誕生の時に家族が立ち会う機会が減ると同時に、
新生児および妊婦の死亡率が急減し、母子ともに健康で出産する比率が劇的に上が
りました。同時に、医療に対する過信と過度な期待から、出産時の事故に対する許
容範囲が狭まり医療訴訟が増えると同時に、人間の立ち入ることのできない命の神
聖さという感覚は薄れて行ってしまいました。
3
分娩場所別の分娩割合および新生児・妊産婦死亡率の推移
出展 厚生労働省 第9回「医療安全の確保に向けた保健師助産師看護師法等のあり方
に関する検討会」資料6 産科における看護師等の業務について
このように、時代と共に乳幼児死亡率や高齢者の死亡率は劇的に低下しました。
それは急性期医療の急速な発展が急性期高度医療を可能にし命をつなぐことができ
るようになったということです。その反面、治せない疾病患者や障がいの残ってし
まった患者の増加につながりました。障がいが残った状態で医療による支援が継続
される必要な状況、超高齢社会のおける慢性疾患と合併症の増大や認知症の増加な
ど治せる医療のみならず、障がいを抱えて生きる状況、さらには緩和医療をはじめ
とする終末期医療の必然性が増大し、医療の対象である人をもはや身体的治癒のみ
を目的として取り扱う事は不適切な状況になりました。延命治療の是非が問われ、
尊厳死や、さらには安楽死という生命倫理の概念も生まれてきました。超高齢社会
の出現によって認知症の発症も増え、医療とともに介護の必要性が急激に高まり、
認知症を患う人々の存在の意味が当事者と介護者から切実に問われる状況が続いて
います。そこで、人のいのちは単なる身体的な生命ではなく、QOL(Quality of Life)
すなわち生活の質、さらに人生そのものの価値が問われるようになって来たのです。
そこで改めてどう人間のいのちを位置づけるかが重要な問題として問われ、「どう
死ぬか」が問われています。医療においても人間の生命の哲学的意味が問われるよ
うになってきたのです。死生観を持つことの重要性が注目され、医療専門教育にお
いても死生観の教育は避けて通れないものとなりました。また、これが哲学的問題
であったとしても、現実医療の問題として取り扱わなければならないものとなって
いるのです。しかしいまだにこれらの課題には明確な解決がありません。
そこで、ここではキリスト教的人間論における死生観を確認することが非常に重
要です。特に近代医療の先駆的な役割を果たした医療宣教師、昨今のキリスト教生
命倫理の研究やホスピスムーブメントの背後には聖書に基づくキリスト教世界観が
あり、真実なクリスチャンは聖書の教えに基づいて人間の生と死の問題に向き合っ
てきました。また、人をからだとこころとたましいが一体である全人として見るキ
4
リスト教的人間観、また罪の結果と理解される死が、イエス・キリストの十字架に
よる罪の贖いによって解決されると言うキリスト教的死生観に基づいて全人医療と
いう枠組みが提唱され、そこで不可欠なものとなっているスピリチュアルケアはキ
リスト教主義に基づく医療において提唱されてきたものです。
実際に、日本国内で広がっていったホスピスは、1980 年代にキリスト教主義病院
において始められてきました。筆者の関わるオリブ山病院では、沖縄で最初に、ま
た全国的にも早い時期である 1983 年に、まさにキリスト教人間観と死生観を土台と
してホスピスを始めています。その設立の意義が次のように語られています。「究極
的には、魂の救いである。永遠の世界の問題である。治療も、そこに向かって行け
ば良いのです。83 年にホスピスを始めましたが、死を目前にした人たちの死の問題
の解決にはキリスト教しかない、ホスピスはキリスト教を標榜する病院にとっての
使命だと考えたからです。」(田頭政佐 オリブ山病院理事長 2006 年当時のインタ
ビュー)
このようにキリスト教的スピリチュアルケアが、終末期医療におけるホスピスケ
アの根幹をなしています。ほとんどの場合、スピリチュアルケアは死の問題と関係
が深く、ホスピスや緩和ケアにおける重要なケアとして記述されています。
WHO は、「パリアティブ・ケア(palliative care)とは、治癒を目的とした治療
に反応しなくなった疾患を持つ患者に対して行われる、積極的で全体的なケアで
あり、痛みのコントロール、痛み以外の諸症状のコントリール、心理的な苦痛、
社会面の問題、霊的な問題、(spiritual problems)の解決が最も重要な課題とな
る。」…と報告している。
(柏木 2001:200、201)
しかし、スピリチュアルケアは終末期のみならず、医療全体においてもその必要
に対する認識が広がってきました。特に障がいを抱えて生活する中において、ある
いは身体的医療が完了し、社会復帰した時点においても、スピリチュアルケアが必
要であるという理解が広がって来ています。そして、認知症のケアにおいても重要
であるばかりでなく、そのケアの根幹をなすものとして見られるようになってきま
した。また、スピリチュアルケアの不十分さが身体的回復後の人生の喪失感に関わ
っているという見方もあります。その一つの事例として、脳梗塞を発症し昏睡状態
後のケアの事例が以下のように挙げられています。
脳梗塞を発症し昏睡状態になったベテランの運転手。医療者の努力でその方は
意識を取り戻し、心理的に障碍を受容できてリハビリに励み、右片麻痺は残るも
のの配車担当者として復職。何とか生活できるようになりました。まさしく肉体
的、精神的、社会的癒しが実践されたのです。しかしこの方は復職一年後に自殺
してしまいました。この方の肉体的、精神的、社会的癒しが不十分であったと言
えるのかもしれません。しかし人間は常に自分の生きている意味、生きなくては
ならない意味に直面します。そして病や障碍等人生の危機状態に直面する時、圧
倒的力でもって、その解決を迫ってきます。
(田頭政三郎 オリブ山病院法人医療
統括本部長 2013 年当時 葦の会ニュース・オリブ山「葦の会の努力の方向」)
以上の事から医療現場において患者本人の全人的なケアの課題と真摯に向き合う
時、どのような場合でも身体的なケアでは十分ではないということは明らかです。
人のいやしには、全人的に、すなわち精神的、社会的、さらにスピリチュアルケア
も含めて対処しなければならない事であることがわかります。その様な中で問われ
5
るのが、ケアの背後にある世界観、人間観、死生観なのです。
このように人の存在と死の現実に対峙するために終末期だけではなく、人の人生
のすべての期間に関わるためにも死生観を学ぶ必要があるという理解が深まってき
ました。特に、これまで物質的な生命を一分一秒でも延ばすことに力を注ぎ、終末
期における QOL(生活の質)の問題、さらには障害が残った後のケアなどの問題が
起こった時に、対処する術も理解もなかったことに対する反省がなされ、これから
の課題として提起されています。まさにスピリチュアルケアが医療の重要な要素と
して問われているのです。
以上のような背景をもって、WHO(世界保健機関)憲章ではその前文の中で次の
ように「健康」について定義しています。
“Health is a state of complete physical, mental and social well-being and not
merely the absence of disease or infirmity.”
「健康とは、病気でないとか、弱っていないということではなく、肉体的にも、精
神的にも、そして社会的にも、すべてが満たされた状態にあることをいいます。」
(日
本 WHO 協会訳)
さらに、この憲章の健康定義について、1998 年に新しい提案がなされました。
“Health is a dynamic state of complete physical, mental, spiritual and social
well-being and not merely the absence of disease or infirmity.”(下線部筆者)
ここで、新たに “dynamic”と “spiritual” という言葉が挿入されることが提案さ
れ、審議されました。現時点ではその結論は出ておらず、日本語でもどう訳するの
か議論の残るところですが、それでもこのような提案がなされたということは、医
療においてスピリチュアルケアの必要があり、対応が問われていると言う現実が認
識されているということです。しかし、目に見える物質的な面においてケアがなさ
れる肉体的ケア、さらに現実の生活と密接に結びついている社会的ケアや精神的ケ
アとは異なり、スピリチュアルケアと言うと目に見えない領域との関わりでどうと
らえて良いのか、多くの場合に戸惑いがあります。その結果、スピリチュアルケア
に関しては深く立ち入ることできず、無視されたり否定されたりすることも多く、
いまだに共通の定義が形成されているとは言い難い現実があります。さらに、対応
においては本人の主体性が非常に重要ですが、同時に客観性を無視し心理的な状態
のみの観察やあるいは主観的な考えでそのケアの必要性や内容を図ることでは本来
のスピリチュアルケアを定義することはできません。そこにスピリチュアルケアの
課題の中心があるのです。本論でまずこの課題を検証していきます。
最初に、「スピリチュアルケア」の研究にける学問の方法論の違いから起こる問題
点の検証をし、なぜこれほどまでにスピリチュアルケアの概念がキリスト教信仰と
は離れて語られているかが検証されます。次に、聖書的理論に基づき行うスピリチ
ュアルケアの実践を症例から紹介し、さらにそれに基づく方法と技法を説明します。
6
Ⅰ 方法論的課題
スピリチュアルケアという言葉が使われ始めてすでに数十年が経ちますが、その
定義となるといまだに確定されていないばかりか、実際の必要性や専門性さえも認
められていない場合も少なからずあります。ウァルデマール・キッペスが 1999 年の
著作において「ホスピスを含めて、スピリチュアルな領域での病に対して専門的ケ
アが必要であるという意識は薄く、スピリチュアルケアは日本の医療界においてそ
の位置や伝統が未だ無いと言っても過言ではない」と評価していますが、その状況
はそれから 10 年以上が経っても大きくは変わっていないのが現実です。当時キッペ
スが指摘しているように「国公立やキリスト教病院以外の一般の私立病院では、ス
ピリチュアルケアの専門職がいないどころか、むしろ働くことを断られる場合さえ
ある」という当時の状況は今でもあまり変化がありません。もちろん社会における
スピリチュアルケアへの関心の広がり、関係書籍の出版や学会等の創設、またキリ
スト教以外の宗教、特に仏教からのアプローチも知られています。また「宗教家」
という肩書で医療ケアのチームに加わることも名目上言われる場合もあります。し
かし未だに様々な定義が主張されており、果たしてどのように定義すべきかも定ま
ってはいません。さらに実践となるとさらに困難が生じます。これらの課題の解決
のためには、定義そのものの確定の前に、すでにある定義の多様性とそれぞれの定
義がどのような前提に基づいているのかも明らかにされなければなりません。なぜ
ならば、すでにスピリチュアルケアにおいては、多様な定義の前提としての哲学的
な立場があり、さらに多様な学問的方法論において定義が左右されているからです。
その結果として、当然の帰結として多くの異なった実践がなされています。
以上のような現状を踏まえて、スピリチュアルケアの定義の問題をまず検証し、
さらにその背後にある学問的方法論的な問題も掘り下げていきます。そのようにし
て、本来のあるべき定義を提案し、また実践のための方法論を提示していきます。
スピリチュアルケアにおける定義の
スピリチュアルケアにおける定義の問題
定義の問題
序章で述べたとおり、まだ現場の実践には結びついていないとしても、スピリチ
ュアルケアの重要性が認識されて来ているのは明確な事実です。特に死の問題を踏
まえて、すなわち現場においては告知を踏まえて、終末期ケアがなされる場合、ス
ピリチュアルケアが不可欠であるという事はすでに一般的な認識になっています。
さらに精神科医療、認知症ケア、また急性期におけるケアにおけるスピリチュアリ
ティの問題も避けて通る事はできません。しかしその必要に対してスピリチュアル
ケアの正しい認識と定義がなされているかと言えば、決してそうではありません。
そこにこそ実践の困難さの理由があるように思います。
まず、現代医療におけるスピリチュアルケアのこれまでの経緯を振り返って見ま
すと、スピリチュアルニーズの認識とスピリチュアルケアの実践は、キリスト教的
立場の医療現場、特に終末期ケアから始まりました。日本においても 1980 年代から
始まった聖隷三方原病院、淀川キリスト教病院、オリブ山病院などのキリスト教主
義病院が、ホスピスケアを先駆的に始めていったという歴史からも、そこにキリス
ト教信仰が背景にある事は明白なことです。さらに遡れば、シシリー・ソンダース
の英国におけるセント・クリストファー・ホスピスの背景には、ソンダース自身の
キリスト教信仰とキリスト教死生観があったことは否定できません。しかし、今や
ホスピスケアの理解と営みが以前より拡大し、キリスト教以外の宗教関係者からも、
また宗教とは関係ない医療分野からもスピリチュアルケアの必要性が語られていま
す。以前はスピリチュアルケアの提供者はほとんどの場合チャプレン(病院付牧師)
7
でしたが、今では宗教家あるいは宗教の専門家という広い概念が用いられるように
なり、他宗教との対話の中でスピリチュアルケアが研究されるようになっています。
さらに宗教性を抜きにした前提で心理カウンセラーという立場からのアプローチも
必要とされています。またスピリチュアルケアを提供する場はキリスト教主義の病
院や施設としてのホスピスが中心でしたが、今やビハーラ(仏教系のホスピスの呼
称、サンスクリット語で休息の場所の意)
、さらに宗教的背景をもたない公立私立の
病院でも語られ、さらに医学や看護学の教育カリキュラムにも含まれるようになっ
ています。この傾向に関して、高木(2014:46)は次のように肯定的にとらえていま
す。
自身と信仰を同じくする患者だけでなく、多宗教や無宗教の患者をもケアの対
象とすることについて、人によっては、既存の宗教の力が弱まっていると捉える
人がいるかもしれない。しかし、筆者はそうではかう、既存の宗教が広げられて
いっていると実感している。自身の宗教・宗派に留まらず、同じ志を持った他宗
教の人と協同することができる。こんな恵みはないのではないだろうか。
しかし、その前提となるスピリチュアルケアの定義においては、学問的な検証へ
の関心は強くなっているものの、決して統一的な見解はありません。窪寺(2009)
は、
「スピリチュアルケア」「心理的ケア」「宗教的ケア」の相違について、互いのケ
アの境界線が明確になっていないと課題提起しています。同時に後述するように、
スピリチュアルケアを定義する学問的方法論においては、すでに社会科学的なアプ
ローチが支配的な役割を果たしているという現実があります。
定義に関する最近の傾向を簡単にまとめると、特定の宗教の立場で「宗教的ニー
ズ」に応えるケアを「宗教的ケア」
、人間の存在そのものに共通する「スピリチュア
ルニーズ」に応えるケアを「スピリチュアルケア」として分けるような考えが主流
になっています。しかし、学問的方法論までを検証の対象にするならば、それは社
会科学あるいは一部哲学的な立場として主張されている事であって、形而上学全般
の議論や、さらに限定するならばキリスト教神学の立場からの主張や聖書神学的な
立場の見解は十分には織り込まれていない状況です。ですから定義以前に事実認識
のための学問の方法論とその土台となっている世界観の問題が問われなければなり
ません。
ひとつの具体的な提案として、窪寺(2008)による分類では、スピリチュアルケ
ア、心理的ケア、宗教的ケアの定義の比較は以下のようになっています。
「スピリチュアルケア」は、心理的ケアとも宗教的ケアとも重なる部分を持っ
ている。その第一点は、患者の心のニーズに応えるケアであるという点である。
心のケアは肉体的ケア・社会的ケアとも異なるもので、実に見えない心の内部の
出来事に関わるケアである。心理的ケアは人と人との水平関係に関わる問題への
ケアであり、他人への憎しみ・怒り・嫉妬などが中心のテーマである。スピリチ
ュアルケアは死後のいのち・罪責感に苦しむ人へのケアである。宗教的ケアはケ
アする人が信じる宗教がもつ教理・礼典などがケアの資源として用いられる。患
者は礼拝に参加し、宗教の枠組みに自分を合わす必要がある。これに対してスピ
リチュアルケアでは患者中心である。宗教が示すような神的存在はないが、患者
にとっての神的存在を探し求め、その神的存在、絶対他者、超越的存在(something
great)、神秘的存在などと呼ばれるものとの垂直的関係の中で自己をとらえよう
とする方法である。(窪寺 2008:61)
8
さらに、スピリチュアルケアに関する定義を様々な著作から拾ってみると以下のよ
うな説明があります。
スピリチュアルケアは苦しんで人と共感し、同情するのみの行為ではありあり
ません。病んでいる方の内心に含まれている力(パワー)や支えを喚起し、精一
杯生きられるように努めることでもあります。病んでいる方への「力付け=エン
パワーメント」、
「可能な限りの自立の育成」とも言います。
(キッペス 2012:25)
スピリチュアルケアは「心・霊/スピリット・魂」を豊かにする人間関係から
生まれる、双方的な企て、働きです。(キッペス 2012:36)
スピリチュアルケアは人生の危機に直面して、心の平静を乱し、生きる意味を
失い、自分を支えるものが見つからない状態にある人に寄り添って、その人らし
く生きられるように援助することです。(窪寺、井上 2009:5)
―余命半年などの状態になってしまっても、その半生を受け入れ、最後まで自分ら
しく、人間らしく生きることは、自分の人生の締めくくりとして重要なことではない
でしょうか。スピリチュアルケアとは、以上のような求めに対するケアであり、それ
による生きる意味・存在する意味の取り戻し(再構築)、人間存在の深いレベルに関
わる癒しのことだといえるのでしょう。
(浜崎 2011:197)
さらに、宗教的ペインとスピリチュアルペインの比較の中で、次のような対比がな
されています。
(スピリチュアルペインの解決は)宗教的な解決を受け入れるのではなく、自
分自身で解決の道を探し出すものです。それも人間を超えた超越的なものや、自
分の中の深い自分と出会うことから得る解答です。(窪寺、井上 2009:62)
以前は、スピリチュアルペインと言えば、宗教的な悩みのことだと考えられて
いたこともあった。もちろん宗教が大きな意味を持つ場合もあるが、むしろ一見
しては宗教上の苦しみとは考えにくいようなものが多いことに気づく。だからこ
れまでスピリチュアルケアを日本語に訳す時に「霊的」という用語を使うことが
多かったのだが、最近では無理に日本語に訳さずに、仮名書きでそのままスピリ
チュアルケアと言うのが普通である。あえて意訳すれば「実存的」とか「意味論
的」と言うのがわかりやすいかもしれない。(村上 2005:62、63)
スピリチュアルケアとは、ある個人が置かれている現実とその人の信念体系と
の間に存在する不調和に由来するスピリチュアルペインを抱いている人あるいは
抱く可能性のある人に対して、その不調和が解消・予防される方向へと働きかけ
る営みであり、その人が自らの置かれている現実を受け止めることができるほど
の力をもつ信念体系へと、その人の信念体系の変容を促したり、信念体系を強靭
化したりする方向でのかかわりの総称である。(岡本 2014、177)
多くの識者の意見をまとめると、スピリチュアルケアとは、人生の意味と目的
を探求することにおいて中心となるテーマやシンボルなどを肯定的し、再評価し、
9
確認するために行う援助であり、自己の精神性(spirituality)に気づかせ、必要
ならばその精神性を変化させ、そして生きるにも死ぬにも自己を肯定することを
目指すものです。
(大下 2005、42)
以上のようなスピリチュアルケアの定義に共通なことと言えるのは、ケアの対象
者の心理的状態の分析が中心になっているという事です。それは第一に、自己申告
や観察による当人の持っているスピリチュアルペインの同定、第二に、その対応と
対応の結果としての対象者の心理的変化に焦点が当てられているように見られます。
これは社会科学的な視点からのスピリチュアルケアの定義づけです。このように社
会科学が、心理学や宗教学の学問的方法論として人間存在を外部から観察可能な現
象や自己申告から分析する方法論となっています。このような考えは、マズローの
「形而上学的、神学的、教学的観念に縛られることなく、スピリチュアリティを宗
教とは区別して考えたうえで、あらためてスピリチュアリティはあらゆる領域で実
践されうるという見解」
(大下 2005、220)に説明されています。
その結果、定義においても「スピリチュアルケア」と「宗教的ケア」の二つに二
分化されている状況です。しかし、現代医療はキリスト教的背景をもつ欧米に起源
をもつものとするならば、当然キリスト教的スピリチュアルケアがこれまでのスピ
リチュアルケアにおける主流を占めていました。しかし、受け手の多様性、伝道や
布教と身体的医療の分離、宗教多元主義、さらに他宗教によるスピリチュアルケア
の発生によって、キリスト教のみによらず、多宗教によるケアも検討されるように
なりました。山岡義生(2010)日本バプテスト連盟医療団理事長は日本バプテスト
病院でのスピリチュアルケアについて下記のように語っています。
(第 2 回医療と宗
教を考える研究会 2010 年 12 月 4 日)
ホスピスは、20 ベッドあります。去年から、在宅のホスピスもやって、今の
ところ、60%の人がお宅で亡くなっておられます。それは、それなりにうまくい
っていると思うのですが、そこで、精神的なサポート、「パストラルケア」を今後、
どうやっていけばいいのかというところに、これから、我々がもっともっと考え
ていかなければならない。まあ、牧師室があり、チャプレンがいるからいいじゃ
ないかと、いうことでは済まされないことになってきているというのが、今の私
の思いであります。これからですね、京都の中でも龍谷大学では看取りの研究が
あったり、あるいは本願寺系でそういうホスピスをもっておられたり、そういう
のは、宗教に関係があって、サポートというのはあるわけです。緩和医療という
のはいろんな病院で進みつつあるのですが、はっきりとパストラルケアを、スピ
リチュアルケアをどうやっているかと明言できるところは、そうはないと思いま
す。
このような流れの中で、スピリチュアルケアは人間本来の根源的な存在にとって
必要なケアとして、特定の宗教を除くものとしての定義がなされるようになってき
ました。それに対し、特定の宗教信条を前提にケアを行う事を「宗教的ケア」とし
て、スピリチュアルケアと分離したり、あるいは、スピリチュアルケアと対立する
ものとしたりして異なるものとして位置づける場合も出てきました。具体的には、
どの宗教の専門家も、宗教的信条を抜きにして行うことがスピリチュアルケアに求
められ、それに対して宗教信条を土台にしてケアをする場合は「宗教的ケア」とし
て位置づけられる傾向が強くなりました。
10
しかし、「スピリチュアリティ」を「宗教」と明確に区別した場合、スピリチュア
ルケアの定義は、社会科学的な説明に終始することになりかねません。なぜならば
それぞれの宗教においてもその内側での理解として「スピリチュアリティ」は定義
されているからです。ですから、社会科学単一の学問的方法論での定義付けは限定
的なものであり、またスピリチュアルケアは大部分において宗教信仰と切り離すこ
とはできず、宗教信仰の便宜的な外側からの評価のみで分析しつくせるというもの
でもありません。それぞれの宗教信仰は個々人の問題ではあっても、客観的な検証
がなされるときには、社会科学以外の方法論による定義づけが対等なものとして提
示されなければ物事の本質を現すことはできません。なぜならば、社会科学のみが
客観性を保証するものではなく、それも一つの視点にすぎないからです。
そこでまず覚えなければならない事は、いくつかの学問的方法論が並列され検証
に用いられてこそ、スピリチュアルケアの本来の定義が可能になるという出発点で
す。「スピリチュアルケア」と「宗教的ケア」の社会科学に限定された分離と定義づ
けによって、他の学問的方法論が従属的な位置に置かれてしまうということは、学
問的に中立な研究の妨げになってしまいます。その傾向に対する危惧は現場の実践
にも垣間見ることができます。
スピリチュアルケアは決して宗教的援助と同一ではない。このことは、しっか
りと認識されるべきである。しかし同時に、その非同一性を強調するあまり、そ
こに含まれるべき宗教性を否定する動きが近年散見されるが、これはまた塩けの
抜けたスピリチュアルケアとなってしまう。(下稲葉 2003:112)
これらの問題の解決には、窪寺(2008)がマックミンを引用して「誤った自己理
解や誤ったニーズを正すのは、心理学や神学(宗教)の援助が必要である」と言う
ように、社会科学と並列する学問的方法論としての神学によって「宗教的ケア」と
「スピリチュアルケア」の定義づけする事が必要となっていきます。さらに、神学
的立場においては、組織神学的な概念の前提として聖書釈義をもって「スピリチュ
アルケア」を定義する事が必要になります。残念ながら、マックミンによる神学の
役割はスピリチュアルケアを社会科学とは別に独自に定義づけるための方法論とし
ての役割ではなく、すでに社会科学的に分類された対象を説明する役割に限定され
ています。すなわち神学に後付けの権威づけの役割を担わせているにすぎないので
す。これはプルーフ・テキスティング(文脈を無視して自らの言説の権威づけのた
めの引用)という間違った引用になりかねません。そこでは神学を用いると言いつ
つも、神学の役割が矮小化され、社会科学による定義づけに対して従属的な位置づ
けになっている事もスピリチュアルケアの客観的な定義づけの妨げとなっています。
また、社会科学自体が、客観性の同定において自然科学とは全く別の問題を持っ
ていることを忘れてはなりません。特に社会科学では自然科学のような客観性を保
つことは非常に難しく、理論の正統性はその理論の自己完結性によっていると言わ
ざるを得ないからです。
それは、因果律の閉じた系である自然を取り扱う自然科学の方法を、因果律だけ
では説明できない開いた系である人間とその集合体である総体としての社会に適用
することにおいて、それを因果律の閉じた系と仮定して法則性を導き出しているか
らです。すなわちまず因果律が成り立たない、あるいは交絡変数(confounding
variable)を避けるよう制御できない状況のなかで、因果関係を推論している場合が
多いという事実です。またその結果として、相関関係が観察された場合、学問的に
は峻別を意識していたとしても、一般的な日常の理解や会話ではそれを因果関係と
11
誤解してしまう場合も多々あるのです。
以上のような傾向の中での多くの研究では、スピリチュアルケアが扱う問題に関
して、人生の意味、生きる目的、苦難の意味、罪責感、因果、死後のいのちなどと
いう項目が挙げられています。しかし、対象となる項目自体がいわゆる宗教性を持
っていること以外、その取扱いにおいては心理的・社会的問題と本質的な違いがあ
るとは言い難いのです。言い換えれば、すべて心理的ケアとしても取り扱いうる問
題を、ケアの対象の性質によって区分しているにすぎないような状況です。結果的
に、心理的・精神的ケアの対象としてされている個人の社会的適応の問題や自己実
現の問題が心理的な問題であると同様、スピリチュアルケアが扱うとされる問題も
心理的問題として取り扱っても大きな違いはないと言えるのです。そこで神学の役
割が求められるはずですが、結局のところ、社会科学的アプローチの中で定義され
たスピリチュアルケアと宗教的ケアの違いおいては、神学はスピリチュアルケアと
宗教的ケアの定義づけのための独立した学問的方法論としての役割は持たず、すで
に社会科学によって定義された宗教的ケアの中での各宗教の神概念、人間観、死生
観という諸項目をキリスト教的に定義する役割だけを担うものとされているのです。
また、実践の評価においてまず問われなければならないのが、「宗教的ケア」は
ア・プリオリなアプローチであり、時には押し付けであって、それに対して「スピ
リチュアルケア」は患者中心であるという前提です。この考え方の背後には、定義
づけと社会学的な評価が混乱している事を見逃してはなりません。まず、ケアの内
容が客観的な必要なのかあるいは主観的な要望なのか、どうかも判断しなければな
りません。ここでは、ケアの客観性と主体的に受け入れることの関係という信仰に
関する状況が正しく検討されなければなりません。それは身体的ケアと相似性のあ
る関係です。客観的によりよいと思われる治療を医師が行う場合において、インフ
ォームド・コンセントなどによって患者の主体性が重んじられるべきではあります
が、それでも客観的根拠に基づく治療を提供するのが医療者の役割です。それはス
ピリチュアルケアの客観性を検証する場合にも同様な事が言えるのです。すなわち、
本人の主体性を尊重したうえで、客観性に基づくケアが提供されるべきという原則
は身体的ケアにおいてもスピリチュアルケアにおいてもあてはまるのです。
スピリチュアルケアの第一番目の原則は、他の医療行為と同じです。すなわち
「害を与えてはならない。」ということです。ある宗教的行為が無害のように見え、
効果的に見えたとしても、まずその行為の霊的起源を調べなければなりません。
また、その最終的な結果がどうなるかを調べなければなりません。また安全性と
効果も調べなければなりません。 (Shelly2000:25)
それではスピリチュアルケアにおける客観性は何かという問題に突き当たります。
そのための客観性という問題を検証する方法論からの問い直しが必要となります。
そこで続いてスピリチュアルケアを定義付し構築するための方法論について検証し
ていきます。
方法論の限界
昨今のスピリチュアルケアの定義においては、前述のように、まずキリスト教的
な立場でのスピリチュアルケアの概念、他の宗教はそれぞれの概念を定義づけなけ
れば、それぞれの宗教を外から観察する宗教社会学の支配的な概念しか描くことは
できません。実際、宗教信条を別にしたスピリチュアルケアに関する研究は宗教を
外から社会科学的に定義したうえで、神学に代表される宗教の内側からの研究を踏
12
まえることなく議論がなされています。その結果スピリチュアルケアも社会学的心
理学的な概念としてのみ提示されることになります。そのことに関しては、窪寺も
指摘しているように、スピリチュアルケアが情緒的な問題として取り扱われ、スピ
リチュアルな問題と宗教の問題が一緒に扱われているという課題があります。さら
に窪寺(2008)は、スピリチュアルケアの正しい認識のために心理学や神学(宗教)
の援助が必要であるという心理学者マックミンの意見を引用していますが、すでに
スピリチュアルケア、心理的ケア、宗教的ケアの相違点という区分が前提とされ、
神学と宗教という言葉を置換できる言葉として使っているということは、すでにス
ピリチュアルケアを定義する前提が定まっているという事に他なりません。キリス
ト教神学的立場からは、聖書に基づくスピリチュアルケアの定義から始めなければ
ならなりません。筆者の立場であるキリスト教としての定義は、まさしくキリスト
教の概念を内側から構築する土台である聖書からの定義付けです。
現実に様々な宗教があるなかで、本来のスピリチュアルケアの概念を定義するた
めには、それぞれの自らの立場を前提に定義されるスピリチュアルケアの概念が何
かを問い、その比較を試みない限り定義づけの課題は根本的な解決はないのです。
社会学的方法論によるスピリチュアルケアの概念は、どのような信仰形態にも共通
する心理学的な面でのアプローチによる定義を試みます。その方法論では特定の宗
教的信条に基づくケアは社会学による枠組みの中で宗教的ケアとして一纏めに定義
しまう事になってしまいます。しかし、それぞれの宗教はその信条に従った「スピ
リチュアルケア」を実践しています。それを「宗教的ケア」と一纏めにしてしまう
なら、宗教学的に各宗教的信条に基づくケアを外から見た定義づけに過ぎません。
その信仰内容は全く異なるのにすべての宗教的アプローチを宗教学的心理学的に
「宗教的ケア」とまとめてしまう事になるのです。このような定義づけには宗教社
会学的なアプローチしかなく、実際的には神学的な考察は全く考慮されていません。
それでは片手落ちなスピリチュアルケアの理解となってしまいます。それは一つの
学問的アプローチの枠組みの中での前提に過ぎず、普遍的なスピリチュアルケアの
概念を構築できるわけではありません。もし社会科学的定義を普遍的前提とするな
らば、キリスト教主義に基づくスピリチュアルケアの提供はできず、それを社会科
学、宗教学的な視点から「宗教的ケア」として他の宗教のケアと並列されてしまう
ことになります。
以上のことを踏まえ学問的に厳密に定義するならば、スピリチュアルケアの「社
会科学」的定義、「哲学的」定義、「神学」的定義、あるいは「仏教的」定義などと
いう議論から始めなければなりません。もし「宗教的」立場を明示するのであるな
らば、「キリスト教的スピリチュアルケア」、「仏教的スピリチュアルケア」等と定義
すべきであり、もしこれらのものをすべて纏めて「宗教的ケア」とするならば、宗
教社会学の方法論の中での定義づけと検証に限定されることになります。実際、現
在主流となっている「スピリチュアルケア」の定義においては、「スピリチュアル」
ということが何であるのか心理学的な定義から分類された項目となっており、現実
的には「スピリチュアルケア」は心理的ケアの対象が神や死、人生の目的、死後の
世界など特定のものであるにすぎず、そのケアの目的も心理的状態の安定につなが
ることであり、結局は心理的ケアと変わらないものとなっています。
それゆえに、社会科学的立場からの「宗教的ケア」の一つに括られて定義される聖
書的「スピリチュアルケア」の理解は、神学的な立場からの正当な定義づけが必要
です。結局どの視点から「スピリチュアルケア」定義づけるのか、学問の方法論を
明確にしない限り学際的検証は不可能であるばかりか、社会科学的アプローチに従
13
属的な「神学的」理解という言葉には本来の意味はありません。神学は神学として
の、聖書釈義を土台とした「スピリチュアルケア」の定義があります。次の翻訳の
例がそのことを端的に表しています。
「看護における宗教的ケア」(1994)の原題は “Spiritual Care: Nurse’s role”
(1978)であり、キリスト教的スピリチュアルケアに関する著作です。原著者はス
ピリチュアルケアの確信を「神との関係が、イエス・キリストを信じる信仰によっ
てできると、人はキリスト者になる。そして、神の家族の一員になる。このさい生
じる新しい親子関係には、数多くの祝福がともなう。その最大のものは、神との平
和であり、死後にもつづく永遠の命である。」と定義し、これこそがスピリチュアル
ペインの解決であると定義しています。しかし訳者の立場からの定義によれば、こ
れは「宗教的ケア」となるべきと考えており、原著の“Spiritual care”を邦訳(1994)
では「宗教的ケア」という訳をしています。但し、その点は 2014 年の再版において
訂正され、
「宗教的ケア」という訳語はすべて「スピリチュアルケア」あるいは「霊
的ケア」と改訳され、題も「スピリチュアルケアにおける看護師の役割」という原
題の直訳に改められています。
原著者シャロン・フィッシュとジュディス・シェリーは以下のように、スピリチュ
アルケアの中心をイエス・キリストを信じる信仰による創造主なる神との個人的な
人格関係として説明しています。それは彼らの立場がキリスト教であり、彼らの立
場からのスピリチュアルケアの定義はキリスト教的スピリチュアルケアだからです。
この赦しは、自動的・機械的にすべての人に与えられるのではない。それは自分
も赦しを得たい、と、心から願う人にだけ、与えられる。赦しを受けるには、自
分の反逆の罪を告白し、罪に対する自分の無力さを、認めなくてはならない。そ
れから、自分を救い、自分に神との生きた人格関係を回復してくださる唯一の方
として、イエスを信じなくてはならないのである。
神との関係が、イエス・キリストを信じる信仰によってできると、人はキリスト
者になる。そして、神の家族の一員になる。このさい生じる新しい親子関係には、
数多くの祝福がともなう。その最大のものは、神との平和であり、死後にもつづ
く永遠の命である。 (Judith Allen Shelly&Sharon Fish, 邦訳窪寺俊之、福嶌千
恵子訳「スピリチュアルケアにおける看護師の役割」2004:61-62)
これをあえて「宗教的ケア」と訳すると、著者の本来の意図が伝わらなくなってし
まい、結局社会学的な定義の中に押し込めるものとなってしまいます。
また、スピリチュアルケアの重要性を強調する場合でも、聖書的、神学的な考察の
ないまま、超越するパワーというあいまいで広大な枠組みとしてスピリチュアルな
領域を定義している場合もあります。
スピリチュアルケアは宗教的な援助をしていながらも、宗教活動や宣教をする
行為ではない。さらにスピリチュアルケアワーカーのすべてが宗教家や宗教を持
っている者とは限られていない。North London Hospice を尋ねたとき(原文マ
マ)、当ホスピスのスピリチュアルケア部には 7 人の多様な宗教家の他に一人の無
神論者のスピリチュアルケアワーカーが活躍していた。スピリチュアルケアは宗
教の有無にかかわらず、人生の意味や目的の把握、人間として生きるための人間
学的、哲学的、および宗教学的な援助だからである。(キッペス 2003:59)
14
Ⅱ スピリチュアルケアに関するキリスト教的理解の混乱の背景
概念の混乱の背景
スピリチュアルケアという概念の理解が混乱している状況の中で、その背景を知
って整理しておくことが大切です。混乱の第一の理由が現代社会の主流となってい
る世俗的世界観です。それではなぜ世俗的世界観がキリスト教の信仰理解にも影響
を与えるようになったのでしょうか。はっきりとその影響が見られるようになった
のは約 100 年余り前からのことです。19 世紀後半からとくに合理主義的考え方が間
違った形で聖書理解に影響をあたえ、本来の聖書の内容が歪められて理解されるよ
うになりました。
その代表的なものが自由主義神学です。聖書を誤りの無い神の言葉として受け止
めることを過去の盲目的な宗教的無恥蒙昧な行為として、逆にその当時に通用した
科学的理解といわれるものを絶対化し、当時のレベルで合理的に納得できることだ
けで聖書を解釈しようとしたのです。その代表的な聖書の研究方法が高等批評とい
われるものです。聖書を歴史の中で人間によって書かれた書物として批判的に研究
する方法です。そこでは超自然的な要素すなわち処女降誕、復活、奇跡、あるいは
預言のなどをすべて合理的に解釈し、客観的な事実としては認めないという前提で
聖書を理解し解釈しようという立場をとる方法論が学問的方法論として主流となり
ました。
しかし 19 世紀の後半における科学の絶対化は本来の科学のあり方よりも、合理主
義という当時の哲学的な考えに流されていった面を見逃すことはできません。実際
には科学的根拠なしに進化論の枠組みだけが先走り、さらにそれは社会科学の方法
論に影響を与え、やがて神学にも影響を与えていきました。その結果が自由主義神
学の台頭だったのです。
またシェーファー(1994)によれば「開いた系」としてのそれまでの世界理解が、
「閉じた系」として理解されるようになってしまった結果、科学の方法論がそれを
当てはめられない領域、すなわち人間の存在やその集合体である社会にも適応され
るようになり、神の介入という考えが否定され、人間が機械的に理解されるように
なった間違いを犯してしまいました。
さらに自由主義神学の間違いはイエス・キリストによる救いの客観的事実として
の確かさにまで疑問を投げかけたことです。その結果、何のためのキリスト教かと
いう、キリスト教の根本的な存在理由も問われました。しかしそれまでキリスト教
はヨーロッパ社会の精神的基盤でした。日常生活の中での心の支えでもありました。
ですからいくら合理的に拒否しても、宗教的なよりどころを拒否してしまうという
ことは心情的に受け入れられません。そのような中で実存主義神学が生まれてきた
のです。すなわち科学的、客観的に聖書を事実としては受け入れられなくても、実
存的にはそれを受け止め、人生が変わる。それこそが信仰であり主観的な真理であ
るという、
「客観的事実」と「主観的真理」の分離という現実には不可能なことがま
ことしやかに通用するようになっていきました。まさにフランシス・A・シェーフ
ァーの言う「理性からの逃走」であり、信仰的飛躍という、信仰は知性を無視して
でも飛び込むことであるかのように言われるようになったのです。
結果的にイエス・キリストの復活が歴史的事実であるかないかは問題ではなく、
それをどう受け止めるかが大切なのであるという言い方が一般化してしまいました。
その結果、歴史を二元論的に受け止めるようになりました。客観的な事実としての
歴 史 、 Historische ( 独 ヒ ス ト リ ッ シ ェ ) と 実 存 的 な 意 味 を 持 つ 救 済 史 、
15
Heilsgeschichte(独ハイルスゲシヒテ)を分離して考えるようになり、聖書が語っ
ているのは客観的な事実としての歴史ではなくとも、実存的な意味を持つ救済史で
あるという理解をするようになりました。現代においては「実存的」という言葉を
もって主観的な救いをまことしやかにスピリチュアルケアにおいても肯定するよう
になってしまっているのが現状なのです。
しかし、それは客観的な事実を無視した主観的な思い込みであっても慰めや平安
があればよいということに他なりません。しかし単なる思い込みでは本当の慰めや
平安が得られることもありません。人間の罪と死が厳然たる事実であるように、そ
の解決も客観的な事実にもとづいた、歴史における神の救いのみ業であるイエス・
キリストの十字架によらなければならないのです。
もし、死者の復活がないのなら、キリストも復活されなかったでしょう。そし
て、キリストが復活されなかったのなら、私たちの宣教は実質のないものになり、
あなたがたの信仰も実質のないものになるのです。それどころか、私たちは神に
ついて偽証をした者ということになります。なぜなら、もしもかりに、死者の復
活はないとしたら、神はキリストをよみがえらせなかったはずですが、私たちは
神がキリストをよみがえらせた、と言って神に逆らう証言をしたからです。もし、
死者がよみがえらなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは
今もなお、自分の罪の中にいるのです。そうだったら、キリストにあって眠った
者たちは、滅んでしまったのです。もし、私たちがこの世にあってキリストに単
なる希望をおいているだけなら、私たちは、すべての人の中で一番哀れな者です。
(Ⅰコリント 15:13-19)
このようにはっきりと復活とそれにあずかる恵みについて、聖書は歴史的客観的
事実であるイエス・キリストの復活に基づいてその客観性の大切さを教えています。
しかしながら聖書的な考えよりも世俗的ヒューマニズムやニューエイジ・スピリ
チュアリティーの考え方がだんだんとキリスト教理解にも影響を与え始めていると
いう現実の中で、聖書の中心的なメッセージが客観的な事実に基づいているという
ことさえ理解されなくなっています。このように 19 世紀から 20 世紀前半に強い影
響力をもっていた自由主義神学や実存主義神学の誤った考えが別の形で今も混乱を
引き起こしているのです。その結果、聖書に明らかにされている啓示としての客観
的な霊的事実に基づいたスピリチュアルケアが無視され、「実存的」という言葉を使
って単なる主観的な慰めがまるでスピリチュアルケアであるかのような考えが抵抗
なく受け入れられるようになってきているのです。
「実存的」とか「個人の自由」とかという受け入れられやすい言葉をもって、ま
るでそれが各人の尊厳と信仰の多様性を認めているかのような表現をします。さら
に宗教的寛容という言葉をもって、宗教的に一つの真理を主張するのは正しくない
と言われています。しかしわたしたちは聖書のメッセージに関して、それをそのま
ま受け入れるか、あるいは拒否するかという選択しかないのです。
私たちは、真理に逆らっては何もすることができず、真理のためならば、何で
もできるのです。
(Ⅱコリント 13:8)
さらに最近の傾向として、み言葉を神の誤りない言葉として信じることと狂信的
な信仰を混同したり、あるいは、今までの誤った聖書解釈によるキリスト教の名の
もとでおかされた間違いを聖書そのものの教えと同一視したりしてしまう間違いが
16
あります。
たとえばエイズに対する偏見と神による同性愛の禁止を短絡的に同一視して、一
方でクリスチャンという名のもとでエイズ患者を拒否するような行動が見られます。
しかしその一方でその反動から聖書の倫理を矮小化して、エイズ患者を受け入れる
ことだけを強調し、同性愛に対する神ご自身による裁きを全く否定する考えが台頭
してきているのです。
それではどう考えるべきでしょうか。イエス・キリストは心の中で情欲をいだい
て女を見る者はすでに姦淫を犯したのであると言われました(マタイ 5:28)。また
姦淫の女を裁く者に対して、まず罪の無い者が最初に石をなげなさいといわれまし
た(ヨハネ 8:7)。ですから単に性的な放縦の結果のエイズ感染であったとしても短
絡的に裁くことはできません。私たちはその背後にある精神的なあるいは社会的な
原因も考慮した上で、すべての人を愛され、すべての罪をも負ってくださったイエ
ス・キリストの愛をもってどのような人をも愛さなければなりません。
それと同時にすべての人は神の律法によってさばかれ、そのさばきからの救いが
ただイエス・キリストによる贖いのみによるというものであることを忘れてはなり
ません。私たちは他人を勝手に裁くこともできない者であり、また勝手に赦すこと
もできないものです。そこでの唯一の救いがイエス・キリストの贖いなのです。
性的放縦によるエイズ感染も神の恵みによって赦されます。しかしそれはただ十
字架の血潮による贖いによるものなのです。またどんなに品行方正な人であっても
罪人であり、イエス・キリストの十字架の血潮によらなければ罪の赦しはないので
す。その恵みを伝えるのが私たちに委ねられた責任なのです。
さらにエイズ患者もまた神の前に一人の人格として悔い改めが求められるほどに
尊厳があり、責任を問われるという尊いものとされているのです。悔い改めが求め
られているというのは裁きではなく、人がいかに神の前に尊く、また責任ある存在
として自由を与えられているかを語っているのです。
また形骸化してしまったキリスト教信仰に対する反発から聖書が語っている救い
さえも否定するという反動がみられます。すなわち、クリスチャンとして生きるこ
とは何も伝道し信仰に導いて神を信じさせることではないという考えをもっている
人もいます。確かに形式的にキリスト教徒にすることは何の意味も無いことです。
しかし、形骸化しているキリスト教があるからと言って聖書のメッセージにも耳を
傾けない、あるいは自分の考えを読み込んでしまうということがあってはなりませ
ん。
聖書をもって自分の考えを正当化するというのは、いわゆる伝統や形式そして自
分自身の価値観をもって人をさばくような、いわゆるファンダメンタリストの一部
にもみられます。それと全く同じ間違いが現代神学の立場にも多く見られるのです。
そこでは愛という言葉を持って神の裁きを軽視し、一人一人に与えられた神の前で
悔い改めるという責任を否定しているのです。
どちらの場合でも、聖書が本来語ろうとしているメッセージを正しく聞いていな
いと言う問題から発していることであるということに気がつかなければなりません。
聖書を根拠に差別を正当化することはできません。また聖書を根拠に裁きを否定す
ることはできません。私たちは神のあわれみによって、神の愛と義を実践していか
なければならないのです。
何よりも大切なのは私たちのすべてのいとなみが神の目から見て良いとされ、正
しいとされるために、聖書が霊感を受けた誤りの無い神の言葉として、すなわち霊
的な事柄に関する客観的な真理として受け止めるということがいかに大切かという
17
ことを確認することです。そうでなければ、クリスチャンとしての実践がまったく
見当はずれのものになってしまいます。それがスピリチュアルケアの領域で、生け
る唯一の創造主なる神との人格的な交わりを回復するというケアの究極の目的を見
失うようなことにもなっているのです。
私たちは、この地上に永遠の都を持っているのではなく、むしろ後に来ようと
している都を求めているのです。(ヘブル 13:14)
主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天
から下って来られます。それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、
次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き
上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主と
ともにいることになります。(Ⅰテサロニケ 4:16-17)
けれども、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い
主としておいでになるのを、私たちは待ち望んでいます。(ピリピ 3:20)
スピリチュアルケアの究極の目標は、まさにクリスチャン皆が切に待ち望んでい
ることに他ならないのです。それは罪からの解放と、永遠のみ国の栄光です。この
世の現実がわかればわかるほど、この世の問題は、この世だけの解決では解決でき
ないことに目が開かれていきます。そして、せつに神の国の現われを待ち望むもの
とさせられるのです。
今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比
べれば、取るに足りないものと私は考えます。被造物も、切実な思いで神の子ど
もたちの現われを待ち望んでいるのです。
(ローマ 8:18-19)
世俗的ヒューマニズムすなわち人間中心主義は、この世の現実を直視してみ国の
希望に生きる生き方をまどわし、本来の救いの必要を見失わせてしまいます。ヒュ
ーマニズムは人間が善であることを信じることです。ですから私たち自身の罪深さ
によってこの世の悲惨があるということを無視するようになります。また死のおそ
ろしい現実を避けてとおるようになります。さらにはこの世に、なんらかのユート
ピアができるように誤解するようになり、来るべき永遠のみ国でしか最終的な解決
はなくその解決の約束はイエス・キリストによってのみ与えられると言う聖書の中
心的なメッセージが解らなくなってしまうのです。その一つの例が以下のような論
述に現れています。
我々キリスト者が自らの信仰を大切にするように、成熟した社会にあっては相
手の信条、立場を尊重することが特に重要である。死に逝く人を対象とするホス
ピスケアではこの点は格別重要であり、日常のケアの中にケアする者の信仰がア
プリオリに、あるいは直接ケアの中に現れることは好ましくない。…キリス者に
今後求められることは、ありのままの人間をそのまま受け入れるこという姿勢だ
と思う。(神田 1999:191、192)
ここでは一見なるほどと思われるような表現がなされています。しかしこのよう
な理解の中にスピリチュアルケアに関して非常に危惧しなければならない問題があ
18
ります。それは現代社会の主流となっている世俗的世界観の影響です。
「相手の信条、立場を尊重する」ということは確かに相手への尊敬を示す中で大
切ですが、しかしそれと同時に何が客観的な事実かということに基づいて相手を正
しく位置づけるということが必要とされています。そうでなければ結局はお互いの
主観的な考えを認めるだけで、自分をも相手をも超える客観的な事実はどうでもよ
いということになるからです。さらに聖書の言う真理はどうでもよく、聖書も自分
の都合のよいように読まれることになります。それに対して聖書はイエス・キリス
トにある救いの唯一絶対性を語っています。だからといって、もちろんのこと、イ
エス・キリストを信じる人自体が絶対的な真理を保有しており、他人よりすぐれて
いると言う考えには短絡的に結び付けることはできません。なぜなら聖書によれば
救いは恵みにより信仰によるものでだれも誇ることができないと言っているからで
す。
また「ありのままの人間をそのまま受け入れる」ということとイエス・キリスト
にある救いが唯一絶対であるという信仰とは本来的には対立しないものです。クリ
スチャンの信仰はもちろん最初から裁くような姿勢や先入観をもって人を見るとい
うことではありません。他の人の考え方や信仰に理解を示すことは大切なことです。
それと同時に聖書に言われている人間観を否定してありのままの人間をそのまま受
け入れるという姿勢は論理的に不可能です。「ありのまま」と言ってもそれは聖書と
は別の人間観をもって人を理解していると言うことにすぎないのです。確かに宗教
としてのキリスト教において信条化した考えを押し付けたり、ここでも「救われて
いる」というめぐみを自分の優位性と誤解して他者をさばいたりという見方は問題
視されなければなりません。それはむしろ聖書から離れた結果なのです。実際はど
のような場合でも本来の聖書的な人間観か、あるいは別の考えから導き出された人
間観か、という二者択一の上で人は他者を認識しているのです。そして本来の聖書
的でない人間観において世俗的ヒューマニズムやニューエイジ的な考え方が台頭し
てきているのが最近の傾向です。それが信条化されたキリスト教理解に対する反発
である場合もありますが、その問題の解決は反動的に今までのキリスト教の考えを
否定して相対化することによってではなく、むしろ聖書が本来語ろうとしている人
間観に立ち戻ることによってのみ与えられるものなのです。
信仰の聖書的概念においては、神が信頼に足りうるお方であるということが強調
され、また人の神への信頼における真実な応答が示されています。信仰の聖書的概
念には次の三つの要素が含まれています。信仰の対象は、信仰する内容であり、信
仰する心理的状態は信仰の構造であり、信仰の人格関係は、神と人間との間に成り
立つ信頼関係です。この信仰の内容、信仰の構造、信頼関係という三要素が聖書の
信仰の概念を構成しています。
キリスト教の歴史において、信仰の概念は常にキリスト教的生き方の重要な関心
事でした。さらに信仰と知性の関わりが信仰理解の発展に中心的な役割を果たしま
した。その結果、信仰の理解は異なる二つの方向へ向かいました。すなわち明示的
概念と暗示的概念です。しかしながら、中世までに信仰の関係性という理解の重要
さが失われてしまいました。宗教改革において信仰の理解の再発見がなされ、ルタ
ーの信仰理解によって、再度信仰の関係性が強調されるようになりました。正統信
仰の内容が形作られました。そこでも歴史を通して主知主義は、信仰の関係性の視
点から問い直されなければなりませんでした。さらに相対主義は、信仰の概念の客
観的根拠である啓示された神の真理をもって再考されなければなりませんでした。
さらに、信仰の概念に対する社会科学的アプローチの限界が、その概念を決定し
19
ているように思います。信仰の社会科学的理解においては、信仰の構造が中心にな
っています。それは、多くの場合、信仰の行動様式として検証されています。そこ
では社会科学的に観察可能な側面のみが対象となり、信仰の内容は検証から除外さ
れています。その結果、信仰の内容と信仰の関係性は、それらの行動様式への反映
と言う形でしか検証されず、それが信仰の構造として理解されているのです。
肉体的側面と霊的側面の両方において神の形が現されています。人間の責任とし
て、人間の活動の断片化と統合を認め受け入れることが必要です。それが特に医療
における働きにおいて必要です。断片化の現実を乗り越えて統合を図ると言うこと
が、人間の地上の営みの最終的な目的であり、特にキリスト教主義に基づく全人医
療の実践の目的なのです。それ故に、キリスト教主義に基づく医療は断片化を超え
た統合を神の創造と救いの御業を反映するものとしてあらわさなければなりません。
それが肉体的側面と霊的側面の両方における救いの客観的事実に基づく医療の実践
における神の御心を表す唯一の方法であり、キリスト教医療宣教をとおして実現す
ることが可能なのです。
医療界において、断片化を超えた肉体的ケアと霊的ケアが関連づけるキリスト教
的努力がなされる必要あります。その土台となるのが、1)キリスト教信仰の論理
的理解、2)人間の断片化の現実の理解と、3)統合に内在的な過程の理解です。
さらに、病院伝道に必要なのはチームワークです。そのためには、本著作の提言し
ている論理的土台と実践の枠組みが必要です。そこで、現代社会の断片化を超えて、
キリスト教信仰の有用性、適切性、および必要性が、あらわになって来ます。本著
作の目指すところです。
「スピリチュアルケア」の再定義
以上のような混乱の結果ともいえる定義の多様性から、「スピリチュアルケア」と
「宗教的ケア」の関係は、社会科学的定義づけと神学的定義づけが対等になされた
上で検証されなければなりません。スピリチュアルケアにおいて、聖書に基づけば
聖書の「スピリチュアル」という定義がまずなされなければなりません。同時に「キ
リスト教」という宗教としてのアプローチは社会科学的定義による「宗教的ケア」
の一つとして検証することができます。
まずは、スピリチュアルケアとは「精神的・心理的援助を含むが、同一ではな
い」ということである。死に対峙している人が抱える痛みに、後悔・不安・怒り・
疎外感などがあり、これらがスピリチュアルペインと混在していることがしばし
ばであるが、それらは精神的・心理的要素が強く、コミュニケーションによって
援助される要素である。
またさらに、「宗教的援助を含むが、同一ではない」ということが言える。スピ
リチュアルケアは決して宗教的援助と同一ではない。このことは、しっかりと認
識されるべきである。しかし同時に、その非同一性を強調するあまり、そこに含
まれるべき宗教性を否定する動きが近年散見されるが、これはまた塩けの抜けた
スピリチュアルケアとなってしまう。
これらのことを踏まえ、スピリチュアルケアを次のようにとらえ、考えてみた
い。「スピリチュアルケアとは、自分の死に対峙し脅える魂に対し、しっかりとし
た宗教的支柱を中軸に、愛し仕えるホスピスの心をもって積極的にかかわる援助」
である。スピリチュアルケアは、患者・家族・スタッフ間の良きコミュニケーシ
ョン・信頼関係に始まり、いつしかその関係を生きる・死ぬるにかかわる関係へ
と発展させ、最終的に家族もスタッフも癒すことによって完結する、いわば全人
20
的ケアを締めくくる大変重要なケアなのである。
(下稲葉 2003:112、113)
スピリチュアルケアにおいては、アプローチの面において当事者へのケアは当事
者を中心として行われなければならならないことは確かです。ですから、当事者が
人生の意味や目的を主体的に見出す援助がまずなければならないということはその
定義において共通しています。しかし、身体的ケアと同様に、必要に対して客観的
な解決の手段を提供することがなければ、根拠なしに本人の心理的な安心を追及す
るだけのケアになってしまい、キリスト教的理解における、聖書的な歴史的客観的
根拠に基づく救い、すなわち罪と死の解決という概念とは全く異なったものになっ
てしまいます。しかし、キリスト教信仰も宗教としての側面はもっており、その面
からの社会科学的な検証は必要ですし有用です。しかし、神学的にはキリスト教信
仰は、宗教であってはならないし、それはイエス・キリストによる唯一の神のとの
和解による罪と死の完全な解決に他ならないと主張されるのです。
さらにもう一つの問題があります。それは宗教社会学的なアプローチを学問的に
中立と誤解する傾向があることです。それは思い込みでしかありません。特に宗教
的信仰に関わる面においては、社会科学的な疑似中立的な見解がほとんどである中、
学問的にも多様な立場からの議論を進めていくことによって、より誠実な記述と定
義をすることができます。また、実際の現場では不可能である信仰的立場を抜きに
したスピリチュアルケアを議論する場合が多い中、本当の意味で実践に役立つよう
な議論が必要とされています。そこでキリスト教信仰に基づく「スピリチュアルケ
ア」の定義と実践を検討していきます。
Ⅲ 聖書に基づく
聖書に基づくスピリチュアルケア
スピリチュアルケア:
スピリチュアルケア:
聖書は何を教えているか、クリスチャンはどのようにすべきか。
オリブ山病院の基本理念の実現
特定医療法人葦の会基本理念
「わたしたちはキリスト教精神にもとづき、病める者の肉体的、精神的、社会的、
さらに霊的ないやしを含めた全人医療の実践をとおして主の栄光のために奉仕す
る。」
この基本理念の中で掲げられた全人医療の中でのいやしまでの過程としてそれぞ
れの面で求められているケアがあります。聖書もいやしに至る過程で私たちがなす
べきことを多く教えています。身体的いやしのためにはもちろんのこと医療による
ケア、精神的いやしのためにはカウンセリングなど心理的なアプローチや人間関係
の日々の歩みをとおしてのケアが必要です。さらに精神的なケアとともに社会的な
関係の健全化に向けての社会的ケアが求められています。そして、究極的な魂の問
題として罪と死の解決にむけてのスピリチュアルケアが求められています。そこで
聖書の語るスピリチュアルケアについて検証していきます。
スピリチュアルケアの原則:
スピリチュアルケアの原則:「霊的」あるいは「スピリチュアル」という事柄
日本語で「霊的」といえば様々な意味合いがあります。聖書の言葉について理解
するときに、一般に使われている意味、一般的な意味を聖書がそのまま使っている
場合の意味、聖書で新しく付与されている意味という三つの意味を考えてみる必要
があります。(図1)そこで「霊的」あるいは「スピリチュアル」という言葉の意味
21
を考えるときも同様です。まず日本語として、日本人の感覚としてどのような意味
を覚えるのか、さらに聖書がその言葉を使うときにどこに共通する意味があるのか、
さらに聖書が神の啓示として霊的という意味を説明するときにどのような意味を伝
えようとしているのか、という三つの点が大切なポイントです。(図 1)
(図 1) 言葉の意味の理解
一般
共通部分 聖書
日本人の一般的な霊に関する理解
ある精神科の問題でカウンセリングに関わる機会がありました。クリスチャンの
方の紹介であったので、精神科的診察と共に「霊的な問題も考える必要がある」と
いうことも伝えたところ、クリスチャンの方自身が「それはすべて終わらせました」
と答えていました。しかしよく聞いてみると、「ユタ(沖縄の霊媒)に祈祷をしても
らった」という意味でそれはすべて処理されていると考えたようでした。ですから
「霊的」という言葉から多くの違った意味を人によって受け止められることが多々
あります。そこでまず日本人の「霊」という言葉に関する共通理解は何かをしばら
く考えてみたいと思います。
日本においては、特にアニミズム的な考え方から、霊というものが何にでも宿る
という見方があります。しかしすべての意味に共通する概念として、「肉体に宿り、
または肉体を離れて存在すると考えられる精神的実体」と定義されています。(広辞
苑)
しかし同時に霊が「不思議な力」であって人格という概念が意識されない場合も
多くあります。そのような場合は「はかり知ることのできない力のあること」とい
う定義が与えられています。(広辞苑)
最近の霊に関する興味の高まりにおいても常にこの二つの理解があるように思わ
れます。しばらく前に霊界グッズなどの商品が人気を集めました。背後霊や守護霊
などというように○○霊という言い回しをすることも多く見受けられます。また、
霊能力というような上からの力をもって目的を達成するような考えはアニメから占
いにいたるまで共通している考えです。映画でもスターウォーズなどでも上から力
をもらって戦うというパターンが見られ、それは多くのコンピューターゲームソフ
トの展開でもよく見られるものです。
そのような状況では「霊」に関して本来的な良い悪いの区別はなく、むしろ自分
にとって役に立つか立たないかという考えが第一の関心となっています。また良い
力か悪い力かという区別というのも本質的な善悪ではありません。世俗的ヒューマ
ニズム的な善悪に基づき、人間にとってのみ都合のよいことが可能になるかどうか
というプラグマティズム的な基準が霊の善し悪しを区別する基準になっています。
22
たとえば病気が治れば良い、経済的に満たされれば良い、安心できれば良い、敵と
思われるものに勝つなどという基準です。これは聖書による悪霊の惑わしに対して
全く役に立たない基準です。
サタンさえ光の御使いに変装するのです。
(Ⅱコリント 11:14)
そして具体的に、これまでの民間信仰においても、そのような霊との関係はつね
に一時的な御利益との引き換えに、いけにえを要求されるような関係でした。例え
ば洪水で橋が流されないようにと祈願して、その代わりに娘を橋の欄干に人身御供
として生き埋めにしたというような話は沖縄の真玉橋について言われています。同
様に自分の願いをかなえてもらうために人の命を売るというような方法は様々な民
間信仰の中でなされていることです。あるいは人魚姫のように魂を魔法使いに売っ
て人間になりたいという願望をかなえ、最後は海の藻くずと消えたような童話もあ
ります。またユタにたよってひきまわされ財産も失ったと言うのは身近によく知ら
れているところです。
ですからプラグマティズム的な霊の善悪は、自分にとって都合が良いかという、
まったく御利益的で自己中心的な基準に他ならないのです。そしてそれは、人を自
由にするどころか最終的には逆に恐怖によって縛り付けるものになっていくのです。
しかし聖書が語る神の御霊は人を自由にするものです。
あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、
子としてくださる御霊を受けたのです。(ローマ 8:15)
ではどのようにして霊が良い霊なのかそうでないのか知ることができるのでしょ
うか。聖書は霊の判断を人間を中心とした御利益あるいはプラグマティズムではな
く、善悪の区別の基準を別のところに置いています。それは人となってきたキリス
トを告白するかしないかという点です。「人となって来たイエス・キリストを告白す
る霊はみな、神からのものです。それによって神からの霊を知りなさい。イエスを
告白しない霊はどれ一つとして神から出たものではありません」(Ⅰヨハネ 4:2、3)
これは聖書の啓示として霊の問題の判断の基準として絶対的なものです。人となっ
て来たイエス・キリストが神の愛と義をはっきりと示しています。そして、キリス
ト教の異端はみなこの点を否定するということで共通しています。聖書ははっきり
と、イエス・キリストが人となった神であるということを教えています。そしてイ
エス・キリストを主と告白するのは聖霊によるものであると教えています。
神の御霊によって語る者はだれも、「イエスはのろわれよ。」と言わず、また、
聖霊によるのでなければ、だれも、「イエスは主です。」と言うことはできません。
(Ⅰコリント 12:3)
この事に関して症例からクルト・コッホは以下のように述べています。
もしも冒涜的な考えが人の心の中に生じ、少しの悔恨もなく意識的に表現される
ならば、それは殆どすべての例において悪魔によって促進されていると言う法則を
立てることが出来る。一方ではもしもその考えが、その人に強制され、表明される
代わりに嫌悪され真に後悔されるならば、それは大いに病理的性質のものである。
悪霊の影響を受けている人は彼の冒涜的な考えについて殆ど配慮しないが、精神
23
的抑鬱の場合は、彼がこのような事を考える事が出来ると言う事を嘆くだろう。こ
のような人はイエスの名を冒涜、或いは中傷せねばならぬ事を怖れてイエスの名を
発音することすら出来ないかも知れない。一方では悪霊に圧迫されている者がイエ
スの名を述べることが妨げられているとすれば、それはそれについての彼等の憎悪
と嫌悪の結果としてである。(Koch1970: 168)
さらに霊的な領域においては人格的なサタンの存在を無視することはできません。
合理主義的な現代のキリスト教理解では聖書にあるサタンの存在と働きに関してま
るで存在しないかのように考えています。また聖書を解釈するときも人格的なサタ
ンの存在は無視しているかのようです。しかし創世記第 3 章のサタンによる誘惑に
始まって黙示録第 20 章においてサタンが火と硫黄の池に投げ込まれるまで、サタン
の存在は人類の歴史における霊的な問題の中心的な事柄として聖書において語られ
ています。
それで聖書に基づくスピリチュアルケアを語るときにサタンに関する事柄との関
連を避けてとおることはできません。その一つが病歴の中でオカルト歴を中心とし
た信仰歴をとる必要性です。オリブ山病院入院の際に、プライバシーや人権問題を
尊重しつつ、ケアのために必要な情報として信仰歴を本人や家族からもらうように
ソーシャルワーカーや相談課が配慮しています。
ですから霊的という場合、一般に流布しているアニミズム的な考えとまた霊的な
力を自分の願望の達成のために得るというような考えがあり、また合理的に全く聖
書の教える概念を無視する考えが支配し、この二つの傾向が私たちが正しく霊的な
問題を取り扱うことを非常に困難にしています。
その結果は全く誤った霊の問題に関する対処の仕方です。まず合理主義では霊を
全く無視して、その結果スピリチュアルケアなど全く考慮に入れず、人がみな持っ
ている魂の飢え渇きを満たすことができない状況が多く見られます。現代の医療が
その典型です。なんとか精神面や社会面にも目をむけようとしますが、本来のスピ
リチュアルケアがなんであるか学ぼうとせず、心理学や社会科学などのような結局
は合理主義的なアプローチで人の内面を取り扱おうとするとき本当には満たされな
いままにケアはから回りをするのです。
その反対に霊的と言われることに興味を持ち、全く分別もなくいろいろな宗教や
供養などの儀式に関わり、それに縛られていくような状況も日常的に見られます。
知らずに巻き込まれていくというような状況もありあます。占いが毎日のように新
聞に載っており、テレビ番組で取り上げられ、インターネットや携帯電話でも占い
にアクセスできるようになっており、非常に人気があります。またみな風水に興味
を持ち、家やその他日常生活のことでうかがいを立てます。
このようなまったくの混乱した状況に対して聖書は霊的領域に関して客観的な事
実をもって説明しています。私たちは聖書から正しい理解を学んでいかない限り解
決が無いということに気がつかなければなりません。霊的な暗闇を照らす光として
聖書のみ言葉が与えられているのです。
あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です。
(詩篇 119:105)
私たちは、さらに確かな預言のみ言葉を持っています。夜明けとなって、明けの
明星があなたがたの心の中に上るまでは、暗い所を照らすともしびとして、それに
目を留めているとよいのです。(Ⅱペテロ 1:19)
24
それでは霊に関して聖書はどのような説明を与えているのでしょうか。聖書全体
をとおしてその定義を説明していきたいと思います。
旧約聖書における「霊」
旧約聖書の霊という考えにおいて、
「ルアッハ」というヘブル語が何を意味してい
るのかまず考えてみたいと思います。まず人は土から造られ、神によっていのちの
息(ルアッハ)を吹き込まれたゆえに生きたものとなったと記されています。(創世
記 2:7)。そこに人が生きているために霊というものが必要であることがわかります。
また死ぬとその霊が人から離れるといわれています。(創世記 6:3、伝道者の書 3:21)。
そしてまたこの霊に関して、人は他の動物とは違います。創造のとき、動物は種類
にしたがって造られたと言われているのに対して、人だけがいのちの息を吹き込ま
れて生きたものとなったと言われています。さらに死んだときに人の霊は上に上り、
動物の霊は地の下に降りていくと区別されています。(伝道者の書 3:21)
すなわち生きるということに関して、人と他の動物は「霊」という面において違
っているのです。そして決定的な違いは、人に与えられている霊は神と交わるとい
う人にのみ与えられた特徴として説明されているという点です。そして人の霊は人
に固有のものではなく、神が与え神が守られるゆえに、人の内にあり、人を生かし
ているのです。(ヨブ 10:12、詩篇 90:3)
「ネフェシュ」はもう一つの霊と訳される言葉です。これは息、いのち、心、霊
魂とも訳されています。ここでもこれが神から与えられたゆえに人を生かすという
意味あいがあります。これは肉体に宿りますが、肉体と共に滅びるものではありま
せん。
そして神との関係が正しくない状態から本来のあり方に回復されていくことが新
しい創造であり、主の霊に生かされるという状態です。(イザヤ 32:15、ヨエル 2:28
―32)
さらに悪い霊という概念が旧約聖書にはあります。サウル王を苦しめたのは「神
からの悪い霊」でした。それが下ったとき、サウルは狂いわめき、またダビデを槍
で突き刺そうとしました。(Ⅰサムエル 18:10-11)さらに偽りの霊による偽りの預言
がなされる記事が記されています。
(Ⅰ列王 22:21、22)しかし両方とも神の支配の
下で、その許しをもって初めて行動できるように記されています。それはヨブに苦
難をもたらしたサタンの場合にも共通です。(ヨブ 1:6―2:6)また「姦淫の霊」とい
う表現で偶像礼拝をする愚かさが表現されています。唯一の神に真実を尽くさない
のも悪い霊によるまどわしと考えられているのです。(ホセア 5:4)
具体的な能力も霊によるものと言われています。イエス・キリストの預言におい
て「知恵と悟りの霊、はかりごとと能力の霊、主
主を知る知識と主を恐れる霊」とい
う表現がなされています。(イザヤ 11:2)また預言者に関してその能力が霊によるも
のと言われています。「エリヤの霊」(Ⅱ列王 2:15)、「霊の人」(ホセア 2:7)という
ように預言は霊的能力と考えられていました。神の霊が与えられてこそ神の御心を
知りそれを伝えるという預言の働きをするのですそれに対して人間の考えから判断
する預言者を「自分の霊に従う愚かな預言者」(エゼキエル 13:3)と表現しています。
新約聖書における「霊」
新約聖書においては「プニューマ」というギリシャ語が霊を意味する代表的な言
葉です。そして新約聖書においてはまず肉と対比されることのなかで霊ということ
が言われています。また人間の本来の霊ということよりも、聖霊について語ってい
ることが多くあります。そして人が神と交わるときに非常に大切な要素として占め
25
ています。霊があって人は生きています。
(ローマ 6:23、ヤコブ 2:26)
また魂あるいは霊魂とも訳され、肉体とは区別され、人間が神から受けた霊的な
自我としての意味を持っています。(Ⅰコリント 7:34、ヘブル 4:12、12:9、黙示録
22:6)
聖書によれば生まれながらの人は霊的に死んでいると言われています。それは罪
と罪過の内に死んでいるということで、神の霊と敵対する霊に従って歩んでいたと
言われているのです。(エペソ 2:1-3)しかし、御霊によって生まれ変わるとき、神
との関係が回復し、新しい歩みが始まると約束されています。(ローマ 8:1-17)
それは神の御霊の働きによるものです。(ローマ 8:14、Ⅰコリント 12:3)
。さらに
神との交わりが深まり、本来神の似姿に作られていた者が、もういちど栄光から栄
光へと主と同じ姿に変えられていくことも御霊なる神の働きによると言われていま
す。(Ⅱコリント 3:17、18)
「プシュケー」という別のギリシャ語も霊を表すのに使われていますが、このこ
とばが心理学にあたる“Psychology”や精神医学にあたる“Psychiatry”の接頭語
“Psycho-”の語源です。魂として訳されている部分では、精神的な信念あるいは平
安ということと関連付けられています。(マタイ 10:28、11:29)
これはむしろ霊よりも精神や心にあたる部分とも考えられます。(Ⅰテサロニケ
5:23)ですからこれは、プニューマとは違って精神的・心理的な面をさしていると
考えたほうがよいと思えます。(マタイ 22:37、ヘブル 4:12)
また旧約と同様に悪い霊という意味で霊の問題に言及がなされています。まず人
となって来たイエス・キリストを告白しない霊は神からのものではないというその
起源の違いがはっきりと言われています。
(Ⅰヨハネ 4:3)さらにそれが反キリスト
の霊と言われ、来ることがあらかじめ言われていたという預言と今来ているという
時期が言われています。ですから新約においても、悪い霊は預言のなかで時期がさ
だめられ活動しているということが明らかです。すなわち神のゆるしの中でしか活
動していないということです。それはイエス・キリスト自身がその地上での御生涯
の中で悪霊を追い出されたということにはっきりと示されています。悪い霊は病気
を引き起こし、占いをさせ、複数で存在し、人を縛るものとされています。(マルコ
9:17、ルカ 11:26、13:11、使徒 16:16、ローマ 8:15)
だからこそ霊を見分ける必要があり、見分ける能力が御霊の賜物として与えられ
ているということが言われています。(Ⅰコリント 12:10)聖書の御言葉に耳を傾け
るかどうかが真理の霊か偽りの霊かを見分ける基準になるとも言われています。
(Ⅰヨハネ 4:6)
以上のことから本来人が霊的に生きるためには神との関係が必要不可欠なのは明
らかです。ですから神との関係が失われていることを霊的に死んでいると聖書は表
現しているのです。(エペソ 2:1)その関係がイエス・キリストにおいて回復される
というのが聖書の救いであり新生です。(ヨハネ 3:5-8)さらに神ご自身が霊である
ので、霊によって礼拝するということが求められます。言い換えれば、形式的な宗
教儀式ではない、本当に生きておられる神との交わりを可能にする、霊的な礼拝が
本当の礼拝であると教えているのです。(ヨハネ 4:23、ローマ 12:1)
また神からの霊とそうでない霊があるので、霊を見分ける必要があるとされてい
ます。その見分ける能力が特定の人に与えられるということと、またイエス・キリ
ストと聖書のみ言葉に対する態度の中にその判断の客観的な基準があるということ
が解ります。
これらの霊の問題に関わることがスピリチュアルケアです。そのためには霊が神
26
からのものかそうでないのかという霊の起源、人は霊をもっているがゆえに生きる
者とされているという事実、神と交わるものとして造られているという人間の根本
的なあり方、また生まれながらの人は霊的に死んでいるという事実と霊において新
しく生まれなければ神との交わりを回復し死の問題を解決することはできないとい
うことをまず知っておく必要があります。
以上のことを踏まえた上で、まずチャプレンをはじめとしてクリスチャンの医療
スタッフが病棟内でどうスピリチュアルケアに関わるべきか、その原則を説明して
いきたいと思います。
すべての人に必要なスピリチュアルケア
宗教的ニーズ
宗教的ニーズとスピリチュアルケア
ニーズとスピリチュアルケア
まずスピリチュアルな飢え渇きをすべての人がもっているということから宗教的
ニーズは人間に根本的なものと言うことができます。最近では人がみなスピリチュ
アルペインを持っているということが一般的な共通理解となってきています。すな
わち合理的には説明できない人生の目的や死の恐怖に対する納得できる解答が求め
ても与えられないような状況では人は非常な苦痛に直面するということです。そし
てそれは宗教的ニーズと深く結びついています。人は宗教的なニーズに対する答え
を宗教的信仰に求めていきます。身近な者を失ったときあるいは自分自身が大病を
患っているときに宗教にすがるという言い方で表現される行動がその典型的な例で
す。すがる宗教が組織的な信仰体系をもった宗教であろうとあるいはアニミズム的
な民間信仰であろうと、宗教的なものからの解答を得たいと人は皆思っているとい
うのは否定できない事実なのです。
以上のことから次のように言うことができます。本来人は合理的には説明できな
いものに関する意識をもっており、また自分の人生に関して宗教的な事柄を本来的
に考えています。具体的には「自分の人生とはなんだろうか」と問います。また何
が自分にとって価値があるだろうか、何のために生きているのだろうかと、意識し
ていなくとも、自分の価値観や人生の目的を見出そうとします。さらに死生観をそ
れぞれ持つことによって今の命を生きることを納得しています。あるいは具体的に
は解らなくても超越的なものへの思いを持っています。ですから「苦しいときの神
頼み」というのが人間にとって一般的なあり方でもあるのです。また罪責感情とま
た赦されたいという願いが人にはあります。ですから多くの宗教において罪につい
ての罰の理解があるのです。身近なところで閻魔大王がそうですし、また輪廻転生
において罰として動物に生まれ変わるというような考え方を受け入れるのです。さ
らに永遠という思いを持っています。私たちが経験もしたことが無く具体的に説明
もできないのに永遠という思いを持っているのは不思議です。聖書が「神はまた、
人の心に永遠への思いを与えられた」(伝道者の書 3:11)と言っている通りです。ま
た人生の苦しみの理由を求めます。因果応報が多くの場合その理由として言われる
ことです。
これらの人間共通の宗教的問いに対して、それが組織的な宗教であれアニミズム
的な民間信仰であれ人間の側から答えを出そうと言う試みが行われています。文化
人類学においてそれは文化を超えて共通していることと理解されています。ですか
ら、近代人の非宗教的な世界観を考慮に入れるまでは人の世界観はすなわち宗教観
であると定義されていました。もちろん今でも宗教と言う定義を拡大し人が自分の
根本的な人間存在の問いに答えを与えようとする信仰とするならば、無神論もヒュ
ーマニズムもみな宗教的なものであり、やはり人の世界観はすなわちその人の宗教
27
観であるということができます。以上のことを踏まえてそれぞれの民族・文化の民
間信仰を見ると宗教的ニーズが普遍的なものであることが解ります。そこにまずそ
のような領域でのケアが必要である客観的な理由があるのです。
人にニーズがありそれが満たされることを願っているような状況の中でケアする
ということは本来当然愛の行為でなければなりません。しかしそこに付け入るよう
な宗教団体もあります。さらに民間信仰でもユタのように恐怖感をあおり、そして
財産も費やさせてしまうという悲惨な結果になる場合もあります。藁をも掴む思い
ですがったものが偽りであったら悲惨な結果になるのは当然です。ですからそれぞ
れが信じたいものを信じれば良いというのは全く無責任な考えです。必要を満たす
ものが客観的な事実でなければ本当に必要を満たすことはできません。物理学者、
数学者、また文学者としても有名なパスカルは「人の心の中には、神のかたちにか
たどられた空洞がある。それは、どんな被造物によっても満たされることはない。
ただイエス・キリストによって知らされた創造者なる神による以外には」と言いま
した。宗教的ニーズとしてすべての人が持っているニーズは唯一で真の神のみが満
たすことのできるものなのです(図 2)
(図 2)宗教的ニーズの満たし
神からの解答
啓示
唯一の真の答え
神の側
----------------------------------------------------人のレベル 人の側からは行けない
神が啓示をもって与える答え
宗教的ニーズ
様々な宗教による答え
民間信仰による答え
ですから宗教的ニーズを単に宗教的ケアをもって満たそうとするならば決して本
当の解決はありません。宗教とは自分の属する文化の宗教的ニーズに基づいて形成
されてきた民間信仰やあるいは教祖がその宗教的理解に基づいて組織立てたものに
他ならないからです。それは人が自分の必要を満たすために考え出した想像の産物
に過ぎないとも言えます。もちろん背後には悪霊の惑わしがありますがその事に関
しては別に論じるとして、ここでは宗教学的な説明を続けたいと思います。
文化の中での宗教
文化の中では、普遍的な宗教的ニーズに対する答えを求めて民間信仰や特定の宗
教が形成されているので、それぞれに宗教的ニーズへの答えがあります。別の言葉
で言えば各文化にはそれぞれでそれなりに宗教的ニーズに対して一貫した自己完結
的な答えを持っているのです。特に中心を占めているのが死生観やこの世とあの世
での苦しみの理由、そしてそれらからの救いに関する答えです。そして各個人はそ
の人生の中でそれなりに答えを得て生きようとしています。文化的な伝統を受け入
れそれである程度の安定を得ています。あるいは特定の宗教によって提示されてい
る答えを受け入れて安心感をもっています。ですから病院に入院してきた時点でも
人はもちろんそれぞれの答えを一応はもっているのです。しかしそれが客観的な事
28
実に基づいた答えかどうかは全く別の問題です。民間信仰も特定の宗教も人の普遍
的なニーズに答えようとしている人の営みであり、人によってあるいは文化の中か
ら生み出されてきた組織的なあるいは自己完結的な答えです。しかしそのような答
えは本当の意味で罪と死の問題に満足できる答えを与えることはできません。そし
て厳しい罪と死の現実に対峙するとき、それまでの解答は意味をなさなくなってし
まいます。スピリチュアルペインを支えきれないのです。そこで本当の答えを提示
していくということが必要であり、それがスピリチュアルケアの過程で重要な意味
をもっています。それは別に単に他の宗教的な答えを与えるというのではありませ
ん。新しい教理や信条を受け入れさせるのではなく、神から啓示された霊的真理を
伝えイエス・キリストという生ける救い主を紹介し、その本人がイエス・キリスト
との人格的な関係を持つように導いていくことです。
ですからスピリチュアルケアにおいてイエス・キリストを伝えるということは、
単により良い答えを与えるというのではありません。また答えが無い人に可能性の
ありそうな答えを与えると言うのでもありません。他の答えは単に必要を満たそう
とする人間の側からの試みであったのに対して、イエス・キリストを伝えるという
のは本当の唯一の答えを知らせるということなのです。
本当のスピリチュアルケアには、霊的な領域における客観的な事実が誤りの無い
神の言葉である聖書を通して啓示されているという理解が不可欠です。そしてその
聖書は人間による様々な検証のなかで必要十分にその客観的正当性は証明されてい
るということを理解しておく必要があります。その論理的一貫性、写本の正確さ、
また聖書に従って救われ人生が変えられたという証し、さらに歴史の中での疑いの
余地の無い預言の正確な成就、またイスラエル民族の特異性などから私たちは聖書
の正しさを受け入れることが、それを疑うよりも信じるほうがずっと理に適ったこ
とであるということを納得することができるのです。しかし「キリスト教」という
宗教をもってケアをしようとするならば自ずと限界があり、本来のスピリチュアル
ケアはできないばかりか、結局はどの宗教でもよくそれぞれの心の平安があればよ
いというような主観的な結果に終わってしまいます。そこにはイエス・キリストと
の人格的な交わりをとおしての神との和解が伝えられなければならないのです。
心理的な側面からのスピリチュアルニーズ
心理的な側面からのスピリチュアルニーズに対するアプローチ
ニーズに対するアプローチ
スピリチュアルケアの対象は人生の目的とか死生観などのような宗教的事柄です
が、もし聖書を通して神から与えられている啓示を無視するならば単なる心理的な
側面からのケアでしかありません。ですから心理的ケアと宗教的ケアは何ら変わる
ことはありません。宗教的ケアはその対象とする事柄が宗教性に関わるものという
ことで宗教的ケアと言われるわけです。
そこには心理的ケアと同じ限界がありますし、さらに悪いことにもし根拠の無い
答えを与えるならば、最もひどい偽りの心理的ケアということになります。嘘でも
慰めとなり事を荒立てなければよいということになるのです。とくに日本人はこれ
までの心理的ケアにおいてこのような方法を取ってきました。まだ癌の告知が一般
化していない頃は最後の最後まで病名を伏しておき、別の病名、はっきり言えば偽
りをもって治癒の可能性を伝え、死とは直面させないでなんとか希望を持たそうと
するのが一般的でした。告知するようになってきたのはつい最近のことです。心理
的ケアという領域では主観的な慰めが優先されて、客観的な事実に対峙できない場
合にはそれを避けてとおるどころか、嘘をもって事を荒立てないということがなさ
れてきたのです。
しかしスピリチュアルケアの名の下で今でも同様なことが行われています。たと
29
えばイエス・キリストによる以外救いはないとは言えず、宗教的ニーズに対してす
でにもっているそれぞれの答えを単に肯定し、その場かぎりの慰めを与えることを
善しとしているのです。しかし病名を伏して心理的ケアをしていたときと同じよう
に、客観的な真理を伝えないでスピリチュアルケアをしようとしても限界にぶつか
ります。なぜならば聖書以外には筋のとおった納得できる答えが無いからです。罪、
赦し、そして死の解決に論理的一貫性をもって答えを出している宗教はありません。
神の啓示である聖書にしかその答えはないのです。
宗教的ケアの限界
それぞれがすでにもっている信仰をもってケアをしようとする宗教的ケアは、遭
難しているときにそれぞれがつかまって浮いている木切れをそのまま肯定している
ようなものです。たしかに今は浮いているでしょう。しかし木切れはやがて水を含
み沈んでしまいます。また穴のあいた救命ボートを沈まないと思って乗っている人
もいるでしょう。しかしそれは浸水して港までは持たないのです。イエス・キリス
トにある救いのみが沈まない救命ボートで天の御国という港まで導いてくれるもの
です。ですからいつか人は救われるために木切れから救命ボートに移らなければな
りません。しかし木切れでよいと信じ込んでいる人あるいは穴の空いた救命ボート
に乗っている人をどう沈まない唯一の救命ボートに乗り移させるのでしょうか。な
んとか先に沈まない救命ボートに乗っている人はこちら側に乗り移るように説得し
ます。そのようなときに、私たちは愛をもって呼びかけます。まさにパウロが次の
ように言っている通りです。
こういうわけで、私たちはキリストの使節なのです。ちょうど神が私たちを通
して懇願しておられるようです。私たちは、キリストに代わって、あなたがたに
願います。神の和解を受け入れなさい。(Ⅱコリント 5:20)
私たちは神とともに働く者として、あなたがたに懇願します。神の恵みをむだ
に受けないようにしてください。(Ⅱコリント 6:1)
私たちは同じように心理的必要を満たすための宗教信仰から神の啓示であり客観
的な救いであるイエス・キリストへの信頼を持つようになるための導きをしていく
ことがスピリチュアルケアの始まりであり究極的な目的です。しかし信仰は神の前
におけるそれぞれの主体的な決断です。言い換えれば木切れや穴の空いた救命ボー
トから沈まない救命ボートに乗り移る決断をするのは本人です。そこで私たちは熱
心に伝道すると同時に神の選びと召しを信じてゆだねることをしなければなりませ
ん。なぜならば救いは人によるのではなく神の選びによるからです。
宗教的な救いには結局のところ人間の知識や経験などの限界を超える解決はあり
ません。それはそれで自己完結的なものをもっています。死をどうとらえるか、罪
をどう解決するかなどという宗教的問いに対して確かに、全体としてまとまった答
えを与えています。しかしそれは全体としてまとまっているだけで、言い換えれば
一つの世界観を形作っているだけで、本当の解決は与えていないのです。結局のと
ころそれらの与える答えは心の安らぎで終わり、またその安らぎの根拠は主観的な
ものにすぎないのです。他の宗教において真剣に人生の問題の解決を求めた人がイ
エス・キリストに出会いクリスチャンになるということは、そこに本当の解決を見
つけたという証しでもあります。
30
生きる目的とは何かを見出そうと、私は自ら望んで僧侶の道に入ったのです。
大学では仏教を研究しました。… 山に行ってさまざまな修行もしました。
そのような私が人生の問題の解決を得たのは、仏教ではなく、聖書によってで
した。私にとってまったく縁のないものと考えていたイエス・キリストとの出会
いが、人生を変えました。…
それまで学び、求め続けていた仏教からは多くの知識を得ました。しかしそれ
らは頭だけのもので、まったく私の生きる力とはなっていませんでした。仏を礼
拝しても、極楽浄土に思いを馳せようとしても、それらを信じられない自分に気
づくだけでした。ところが、イエス・キリストが私の罪のために十字架にかかっ
たことを信じ、心を神に向けた時、人生を新たにする救いの手がさしのべられた
のですそれは頭だけの知識でもなく、思い込みでもなく、確かな体験でした。
そして同時に、「私は天国に行ける」という確信も与えられました。私の人生は
目的のない、どこに行くのかわからないものではなく、神の国である天国に確実
に向かっている、という揺るぐことのない信仰が神から与えられたのです。
(松岡
広和著トラクト「もと僧侶いま牧師」より抜粋)
それゆえに、私たちの負うべきスピリチュアルケアは神の啓示としての聖書が霊
的な事実を教えているという前提から始められていなければならないのです。それ
は科学的な事実が自然界の対象の観察と実験によって導き出されるのと全く同じで
す。(図 3)
(図 3)科学的事実と霊的事実を知る方法
一般啓示
自然
知性
特別啓示
聖書とイエス・キリスト
神存在の承認
知性 聖霊の照明
科学的事実
霊的事実
上の図(図 3)のように自然を観察し実験をとおして科学的事実が導き出されるの
は、知性と神存在の承認によります。神存在を否定するとき知性も暗くなり科学的
事実に関しても大きな間違いに行き着きます。その典型的な例は進化論を証明され
た科学的事実と誤解していることです。
神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された
時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、彼
らに弁解の余地はないのです。というのは、彼らは神を知っていながら、その神
を神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その無知
な心は暗くなったからです。(ローマ 1:20、21)
また霊的な事実に関しても知性と聖霊の照明によって聖書から導き出されるとき
に私たちは本当の真理を知るに至るのです。そこからスピリチュアルケアがなんで
31
あるのかが解ってきます。
キリスト教宣教と全人医療
医療と宣教の定義
宣教は、Mission (使命)として、神に召されて、神に遣わされて、神の業をす
る事と定義します。 Mission と言う言葉が、ラテン語「送ること」の意である
mittere から来ており、聖書では、イエス・キリストの大宣教命令と、イエス・キリ
スト自身が父から遣わされたように弟子たちを遣わすということから、それは、召
命と派遣と事業を含む広い概念です。それに対して、伝道は、Evangelism として、
良き知らせ(福音)を宣言するという事を意味し、イエス・キリストが、全人類の
罪のため十字架にかかり、信じる者には、罪の赦しと永遠のいのちが与えられると
いう、罪と死からの解決の良き知らせを宣言し、それを聞いたものが信じて救われ
ることと定義されます。
イエスはもう一度、彼らに言われた。「平安があなたがたにあるように。父がわ
たしを遣わしたように、わたしもあなたがたを遣わします。
」 (ヨハネ 20:21)
「主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる」のです。 しかし、信じたこ
とのない方を、どうして呼び求めることができるでしょう。聞いたことのない方
を、どうして信じることができるでしょう。宣べ伝える人がなくて、どうして聞
くことができるでしょう。 遣わされなくては、どうして宣べ伝えることができる
でしょう。次のように書かれているとおりです。
「良いことの知らせを伝える人々
の足は、なんとりっぱでしょう。」 (ローマ 10:13-15)
キリスト教主義の医療では、神に召されて、神に遣わされて、神の業をする宣教
の働きとして位置づけられます。そこでは、もちろん肉体的ないやしがまずなされ
なければなりませんが、葦の会における医療は、全人医療として理解され、そこに
は、肉体的いやし、精神的、社会的いやし、そして霊的いやしが含まれる、全人的
な業と理解されます。もちろん、医療福祉機関としての第一義的役割は、肉体的い
やしにはじまりますが、人自身が全人として存在している以上、肉体的いやしとと
もに、肉体的いやしがより良いものであるために、精神的、社会的、さらには、霊
的いやしが伴う必要があります。また霊的いやしをもって、全人医療が完成すると
いうのは、淀川キリスト教病院の創立者、ブラウン博士の次の言葉に語られていま
す。 「淀川キリスト教病院は、いやしの奉仕により神の栄光と人の救のためにさ
さげられた病院です。この病院は、人がキリストの愛を通して神と健全な関係(原
文は和解 Reconciliation)におかれたとき、はじめていやしの業が全うされるという
信念に基づいて建てられた病院です。当病院の活動や職員によって示された愛と思
いやりとわざを通して、キリストにある生きた信仰へと導かれるように願うもので
す。」
キリストこそ、神との和解の唯一の道です。それが最終的に至る所である以上、
宣教は、医療も伝道も含むものでなければならず、また、医療と伝道を分離して行
うべきことではありません。
私たちの肉体は非常に重要なものです。私たちは自分自身の肉体をケアしなけ
ればなりません。
(エペソ 5:29)
、そして、他の人の肉体的必要に応えなければな
32
りません(ルカ 10:27)
。しかしそれに執着するべきではありません。肉体は聖霊
の宮であり、神の栄光を現す手段です。(1コリント 6:19-29)
。肉体的からだを
超える永遠のものがあります。それこそが、私たちと神との人格関係を維持する
部分なのです。神は私たちのいのちを構成する肉体とその他のすべての部分を最
初から造られてこられました。(詩編 139、イザヤ 43:1)
、神は私たちが持ってい
る感情の思いをご存じであり、私たちとともにそれを経験されています。
(イザヤ
43:2)。私たちの肉体、感情、そして人間関係の部分がお互いに深く関わりあって
いますが、それに加えてさらに何かがあるのです。(ピリピ 3:20、21、1テサロ
ニケ 4:13、18) それが霊的な領域です。それが私たちの存在の各部分をすべて
つなぎ合わすものなのです。(詩編 16:8,9、イザヤ 55)(Shelly2000:24)
キリストこそ私たちの平和であり、二つのものを一つにし、隔ての壁を打ちこ
わし、 ご自分の肉において、敵意を廃棄された方です。敵意とは、さまざまの規
定から成り立っている戒めの律法なのです。このことは、二つのものをご自身に
おいて新しいひとりの人に造り上げて、平和を実現するためであり、 また、両者
を一つのからだとして、十字架によって神と和解させるためなのです。敵意は十
字架によって葬り去られました。 それからキリストは来られて、遠くにいたあな
たがたに平和を宣べ、近くにいた人たちにも平和を宣べられました。
(エペソ 2:14
-17)
また、神様ご自身が分離できないように、神様の働きの種類には種々あり、いや
しや説教もありますが、しかし、それらを分けて行う事にはならならないと考えま
す。病気をいやすことは、人間が神様に至る一つの在り方であり、キリスト教主義
でなされるならば、どの分野も神様に至ることが目的なのです。教育において、清
教徒によるキリスト教主義の学校として建てられたハーバード大学の最初のモット
ーは、ヨハネによる福音書 17 章から「神とその子キリストを知る」が目的として掲
げられていました。また、各分野においても、強調点の違いはありますが、至る所
は同じです。キリスト教の教派の神学においも強調点の違いがあります。しかし至
るところは同じキリストです。このようにキリスト教主義による事業は、各々強調
点の違いがあっても、宣教と分離できないものとして形成されています。
大宣教命令
イエス・キリストは、その昇天の前に大宣教命令を与えました。
イエスは近づいて来て、彼らにこう言われた。「わたしには天においても、地
においても、いっさいの権威が与えられています。 それゆえ、あなたがたは行っ
て、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によって
バプテスマを授け、 また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守
るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あな
たがたとともにいます。
」
(マタイ 28:18-20)
それから、イエスは彼らにこう言われた。「全世界に出て行き、すべての造ら
れた者に、福音を宣べ伝えなさい。 信じてバプテスマを受ける者は、救われます。
しかし、信じない者は罪に定められます。 信じる人々には次のようなしるしが伴
います。すなわち、わたしの名によって悪霊を追い出し、新しいことばを語り、 蛇
をもつかみ、たとい毒を飲んでも決して害を受けず、また、病人に手を置けば病
33
人はいやされます。」(マルコ 16:15-18)
この命令に従った弟子たちとそれ以降のクリスチャンたちによって、初代教会か
ら現在に至るまで、宣教においては医療宣教と教育宣教が重要な役割を果たしてき
た。それは良きおとずれを伝えるという伝道と一体としてなされてきたのは、聖書
の記述からも、歴史からも、確かなことです。また、イエス・キリストがその模範
を示されました。
イエスはガリラヤ全土を巡って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、民の中
のあらゆる病気、あらゆるわずらいを直された。
(マタイ 4:23)
日本の宣教においては、まさに医療と伝道が一体としてなされました。日本の開
国前後に活躍した医療宣教師のベッテルハイムやヘボンは、医師であり、教育者で
あり、そして伝道者でした。最近でも、教師が全員クリスチャンである東京基督教
大学には、神学部の中に介護福祉科があるように、一つの土台の中にリベラルアー
ツ教育、キリスト教学、福祉学があります。これがキリスト教主義教育の本来の在
り方といえるのです。
歴史を遡っても、オックスフォード大学やパリ大学(古代の大学)
、ハーバード大
学、イェール大学、プリンストン大学(植民地時代の大学)においては、教育と宣
教が一体化されており、さらにそこに医療の働きも含まれ、神学、法学、医学の三
学が学問の中心としてその体系が成り立っていました。
イエス・キリストと全世界の在り方
人となったキリストご自身がその肉と霊に分離できないとの同じく、医療と宣教
は分離できないという事が言えます。キリスト自身も肉体的癒しと魂の救いを分離
して行ってはいません。それはイエス・キリストの生涯において明らかです。罪の
赦しと中風のいやしの話では、罪の赦しと身体のいやしが同時に発生しています。
ゆえに宣教から医療を分離して行うのでは無いことが分かります。
そのとき、ひとりの中風の人が四人の人にかつがれて、みもとに連れて来られ
た。 群衆のためにイエスに近づくことができなかったので、その人々はイエスの
おられるあたりの屋根をはがし、穴をあけて、中風の人を寝かせたままその床を
つり降ろした。 イエスは彼らの信仰を見て、中風の人に、「子よ。あなたの罪は
赦されました」と言われた。 ところが、その場に律法学者が数人すわっていて、
心の中で理屈を言った。 「この人は、なぜ、あんなことを言うのか。神をけがし
ているのだ。神おひとりのほか、だれが罪を赦すことができよう。」 彼らが心の
中でこのように理屈を言っているのを、イエスはすぐにご自分の霊で見抜いて、
こう言われた。「なぜ、あなたがたは心の中でそんな理屈を言っているのか。 中
風の人に、
『あなたの罪は赦された』と言うのと、『起きて、寝床をたたんで歩け』
と言うのと、どちらがやさしいか。人の子が地上で罪を赦す権威を持っているこ
とを、あなたがたに知らせるために。」こう言ってから、中風の人に、 「あなた
に言う。起きなさい。寝床をたたんで、家に帰りなさい」と言われた。 すると彼
は起き上がり、すぐに床を取り上げて、みなの見ている前を出て行った。それで
みなの者がすっかり驚いて、「こういうことは、かつて見たことがない」と言って
神をあがめた。(マルコ 2:3―12)
34
さらに、神の天地創造は、キリストご自身によるものであり、そこには一体性が
ありました。
すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらず
にできたものは一つもない。(ヨハネ 1:3)
御子は、見えない神のかたちであり、造られたすべてのものより先に生まれた
方です。 なぜなら、万物は御子にあって造られたからです。天にあるもの、地に
あるもの、見えるもの、また見えないもの、王座も主権も支配も権威も、すべて
御子によって造られたのです。万物は、御子によって造られ、御子のために造ら
れたのです。 御子は、万物よりも先に存在し、万物は御子にあって成り立ってい
ます。(コロサイ 1:15-17)
近年、聖書の「神」を創造者として訳した「創造主訳聖書」が発行されましたが、
医療においても、まず、神が創造主と言う考えがなければなりません。創造主とし
ての認識がキリスト教には不可欠なのです。創造は「はなはだよかった」(創世記
1:31)と言われています。しかし、人が罪を犯し、神のいましめを破った人を滅ぼ
さないで、むしろ神の家族をつくろうとして下さいました。そこで、神抜きで医療
をしたら、科学的根拠のない進化論に頼らざるを得ないのです。
さらに、被造物におけるすべての権威はその方の下にあります。大宣教命令にお
いてキリストはすべての権威を与えられていると言われました。イエスは近づいて
来て、彼らにこう言われた。「わたしには天においても、地においても、いっさいの
権威が与えられています。」(マタイ 28:18)
その権威には、政治も医療も含まれています。
「人はみな、上に立つ権威に従うべきです。神によらない権威はなく、存在し
ている権威はすべて、神によって立てられたものです。」(ローマ 13:1)
すなわち、すべての権威は神によるものです。逆に言うとすべての権威は神のし
もべという意味です。すべて立てられた権威が神のものであるという以上、クリス
チャンも上にある権威に従います。しかしその権威が神に反逆する時には、反対す
べきなのです。イエス・キリストがすべての主であるという事の意味は、次の問答
に教えられています。
パリサイ人たちが集まっているときに、イエスは彼らに尋ねて言われた。 「あ
なたがたは、キリストについて、どう思いますか。彼はだれの子ですか。
」彼らは
イエスに言った。「ダビデの子です。」 イエスは彼らに言われた。「それでは、ど
うしてダビデは、御霊によって、彼を主と呼び、 『主は私の主に言われた。「わ
たしがあなたの敵をあなたの足の下に従わせるまでは、わたしの右の座に着いて
いなさい」
』と言っているのですか。 ダビデがキリストを主と呼んでいるのなら、
どうして彼はダビデの子なのでしょう。」 それで、だれもイエスに一言も答える
ことができなかった。また、その日以来、もはやだれも、イエスにあえて質問を
する者はなかった。(マタイ 22:41-46)
世界に、神の定めた法則が無ければすべて存在しえません。神の法則があるから
35
科学の法則もあるのです。
主はこう仰せられる。「もしわたしが昼と夜とに契約を結ばず、天と地との諸法
則をわたしが定めなかったのなら、 わたしは、ヤコブの子孫と、わたしのしもべ
ダビデの子孫とを退け、その子孫の中から、アブラハム、イサク、ヤコブの子孫
を治める者を選ばないようなこともあろう。しかし、わたしは彼らの繁栄を元ど
おりにし、彼らをあわれむ。」(エレミヤ 33:25、26)
神のことばは、すべて純粋。神は拠り頼む者の盾。神のことばにつけ足しをし
てはならない。神が、あなたを責めないように、あなたがまやかし者とされない
ように。(箴言 30:5、6)
天文学でも、神に栄光を帰することが言われています。ケプラーは「宇宙と言う
書物は数学的法則をもって記されている。
」と言い、そこに神の創造の栄光が現され
ています。私たちの生活もその一部であり、生活そのものが、神の示された宇宙の
中にある被造物の在り方。人間の生活そのものが、被造物の中で営まれるものです。
それ故に、人間は神の栄光を現すべきものです。キリスト教は単に一つの宗教では
ありません。人生の目的は「神の栄光を現し、永遠に神を喜ぶこと」と言われてい
ます。 「私にとっては、生きることはキリスト、死ぬことも益です。」(ピリピ 1:21)
すなわち、キリストこそが人生の目的であって、神の栄光を現し、永遠に神を喜ぶ
ことなのです。(ウェストミンスター小教理問答)また、イエス・キリストは、私た
ちの命について、神が絶対に必要であると教えています。人はパンのみで生きるも
のではありません。
イエスは答えて言われた。「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出
る一つ一つのことばによる』と書いてある。」(マタイ 4:4)
人とは何者か
全人医療とは、からだとこころとたましいが一体としての人間をいやす医療です。
その対象となる人間が全人として分離できない存在なのです。
医療も宣教から分離されるなら、科学も政治もすべて分離されてしまいます。医
療の対象である人間は神に似せて創られた存在であり、動物からの進化ではなく、
神の姿にかたどって作られたものですから、キリスト教主義による医療では魂の救
いを取り除いて行うことはできないのです。
わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。だから
わたしは人をあなたの代わりにし、国民をあなたのいのちの代わりにするのだ。
(イザヤ 43:4)
そこで、イエスは彼に言われた。「『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くし
て、あなたの神である主を愛せよ。』 これがたいせつな第一の戒めです。 『あな
たの隣人をあなた自身のように愛せよ』という第二の戒めも、それと同じように
たいせつです。 律法全体と預言者とが、この二つの戒めにかかっているのです。」
(マタイ 22:37-39)
この二つの命令は、一つです。神を愛すると同時に隣人を愛することが求められ
36
ています。その時の隣人は、単なる隣人ではなく、神の被造物だから愛するのです。
ヒューマニズム(人間中心主義の意)との違いがここにあります。科学者も同じく
自然界は神の被造物であることを認めざるを得ないはずです。
また、良きサマリヤ人のたとえにおける隣人は、律法の専門家、すなわち当時の
律法主義者であったパリサイ人たちが律法を中心に据えており、イエス・キリスト
を落とし込めようとして質問したことに対する応えです。イエス・キリストが何が
大切か大切でないかと答えるならば、荒さがしをし、軽んじているものがあると非
難しようとしたのです。なぜなら、当時の律法主義者たちは、何百もの義務や禁止
項目を作り上げていたからです。しかし、神を愛する事が第一、次に隣人を愛する
事が大切と教え、そのたとえとして、良きサマリヤ人のたとえを話されました。す
なわち、パリサイ人は律法を守っていると言っていても、隣人を愛することを忘れ
ていたという事を教えるためのたとえでした。
歴史的展開
これまで述べてきたように医療と教育は、宣教の重要な役割としてイエス・キリ
ストに命令され、教会の働きとして初代教会の時代から始められ、現代まで続けら
れてきた。近代医療においても、医療は宣教の働きとしてなされてきており、日本
のヘボンや沖縄でのベッテルハイムの働きからそれは明白です。
キリスト教禁制の下の本邦におけるプロテスタントの伝道は、1846 年琉球の那
覇において彼の手で始められた。ベッテルハイムは、日本におけるプロテスタン
ト伝道の先駆者であるだけでなく、日本プロテスタント系の聖書翻訳史上で、彼
が那覇で翻訳した聖書は、K.ギュツラフや S. W.ウィリアムズに次いで 3 番目に
古いという栄誉が与えられている。さらに彼は幕末の日本において、西洋医学の
導入者の一人として銘記されている。このようにベッテルハイムは、日本のキリ
スト教史・聖書翻訳史・医学史・言語学史・幕末外交史などにその名が出てくる
人物である。(図書ベッテムハイム:19 世紀の琉球に伝道した英宣教医)
台湾における医療宣教においても、同様な事実を見ることができます。台中の彰
化キリスト教病院は 1896 年にイギリスの医療宣教師デイビット・ランドバーグ医師
とキャンベル・ムーディ牧師によって設立され、現在、台湾の中部に唯一百年以上
の歴史を持つ医学センターとなっています。病床数 1,600 床、専門医療看護スタッ
フ 3,000 人、毎日の外来患者数は約 5,000 人、毎月の急診患者数は約 8,000 人の大
病院ですが、その初期の出来事に次のようなものがあります。
1928 年、少年チウ (周金耀)は右膝がひどく損傷しており、医学的にはなす術もな
かった。そのようなときにランドバーグ夫人は、自分の皮膚をはがし、移植するよ
うに願いました。一年間にわたる手術と介抱によって、その少年の命は救われ、そ
の後、彼は牧師となりました。チウ牧師は一生足を引きずっていましたが、誇りと
感謝をもって歩き言った。「膝の手術は失敗しましたが、私の心の手術は成功です。
」
ここでは、犠牲を伴う医療的肉体のケアと、魂のケアが同時に行われた証を見るこ
とができます。
しかし、19 世紀後半の科学主義によって影響を受けて形成された自由主義神学に
よって、信仰と言うものが主観的なものとされ、医療宣教が批判され、医療と伝道
が分離されてしまいました。しかし、それまで近代医療は伝道と一体として、宣教
に含まれるものとして、宣教師たちの犠牲によって全世界に広げられていったもの
でした。その根底にあるのが、聖書に基づいて世界を見、考え、決断し、実践する
37
というキリスト教世界観でした。
キリスト教世界観
世界観と言うものは、私たちの物の見方、考え方、そして行動を規定している枠
組みです。その世界観の形成においては、文化や信仰、そして家庭や職場における
教育が大きな役割を果たしています。そして、それは医療における実践を導く価値
観です。
聖書に基づく本来のキリスト教世界観においては、この地上におけるクリスチャ
ンの営みは分離されてはおらず、宣教の働きとして、医療があり、教育があり、そ
して伝道があります。それぞれの役割があったとしても、それらは有機的に連なっ
ており、分離して行われるべきものではないと考えられています。
特に、キリスト教主義教育においては、すべての学問が聖書に基づき、さらにキ
リストを知り、知らしめるための教育であると考えられています。
「バイオラ大学は、すべての教職員と学生がクリスチャンで、聖書中心の学問
を目指しています。看護学部では、キリスト教信仰と統合された学習者中心の研
修が、根拠に基づく論理的内容と多様な臨床の機会と統合されています。
」 (米
国バイオラ大学)
「神の言葉である聖書は、礼拝と学問の土台です。聖書は科学や医学の教科書
ではありませんが、すべての学問の視点と洞察に関する知恵の源です。」(韓国高
神大学)
「リバティー大学医学部は、キリスト教的環境の中で医師を教育するために設
立されています。キリスト教倫理と専門職としての意識を教え込み、倫理意識、
同情心、高い能力、そして患者中心の医療を提供できる医師を育てます。」
(米国
リバティー大学医学部)
クリスチャンの世界観を形成するためには、この世からの分離、神への献身、神
による取り扱いが必要になります。それはまさにローマ人への手紙 12 章 1 節と 2 節
に記されているとおりです。
そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがた
にお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供
え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。この世と調
子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何
が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の
一新によって自分を変えなさい。(ローマ 12:1,2)
わたしたちキリスト者が本当のキリスト教的価値を選択するならば、それはこ
の世的には意味の無いものに見えるでしょう。この世は、キリスト教倫理の根本
は「キリストの弟子としての生き方と行動と言う、教会の異常な目標に忠実であ
るかどうか」であるととらえています。(Shelly&Miller2006:32)
看護と保険医療は変革の時に来ています。その過程において、これまで長く保
たれてきた価値観は揺るがされています。一部の保険医療機関における看護師、
38
医師、病院経営者は、同じ価値観を共有してはいません。キリスト者は自分の価
値観が嘲笑われ、無視されていると感じるでしょう。また経験を積んだ看護師は、
若い世代が自分と同じ価値観を共有していないと感じるでしょう。
(Shelly&Miller 2006, 34)
葦の会創立者田頭政佐の設立の思い
葦の会創設者田頭政佐は、病院がキリストの心を伝えるところでなければ行わな
い、他の人にさせればよいと考えていました。それは、次の御言葉の実践です。
私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのでは
なく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が肉にあって生きて
いるのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰に
よっているのです。(ガラテヤ 2:20)
しかし私には、私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが
決してあってはなりません。この十字架によって、世界は私に対して十字架につ
けられ、私も世界に対して十字架につけられたのです。(ガラテヤ 6:14)
さらに、具体的に、医療は宣教に含まれ、伝道と一体としてなされるべきことを
田頭政佐は次のように語っていました。
「真の神様に対して自分の罪を認め(告白して)神様に赦してしてもらい、神
様を信じること。これは、究極的には、魂の救いである。永遠の世界の問題であ
る。治療もそこに向かっていけばいいのです。死を目前にした人たちの死の問題
の解決にはキリスト教しかない。ホスピスはキリスト教を標榜する病院にとって
の使命だと考えたからです。」
「私たち医療者は、病気を治すことに対しては一生懸命になる。(頻回に訪室した
り、励ましたり・・・)が、しかし、病院には治らない病気の人もいてその人た
ちは本当にケアを必要としているにも関わらず、医者を初め他のスタッフもその
患者の部屋に行く回数を減らしたり、近寄らないようにしていた。そういうこと
を反省してもっとしっかり関わりを持たねばならないと思ったためです。
」
このような実践は、決して未信者にキリスト教信仰を強いるのではありません。
また、このような働きを、医療をだしにして伝道しているというのならば、逆に、
キリスト教をだしにして医療をしているとも言えるのです。すなわちキリスト教理
念を利用して評価を得ている医療ということになってしまうのです。
以上の事から言えるのは、「キリストにあって医療もある」という心です。そこで
は、伝道は義務ではなく、喜びなのです。世界を作った神を発見することです。科
学も神が作った自然を知ることです。その点でユダの王、アサは間違いを犯しまし
た。神の力と医療を分離して、人間的な知恵に頼ったのです。
そのとき、予見者ハナニがユダの王アサのもとに来て、彼に言った。「あなたは
アラムの王に拠り頼み、あなたの神、主に拠り頼みませんでした。それゆえ、ア
ラム王の軍勢はあなたの手からのがれ出たのです。 あのクシュ人とルブ人は大軍
39
勢ではなかったでしょうか。戦車と騎兵は非常におびただしかったではありませ
んか。しかし、あなたが主に拠り頼んだとき、主は彼らをあなたの手に渡された
のです。 主はその御目をもって、あまねく全地を見渡し、その心がご自分と全く
一つになっている人々に御力をあらわしてくださるのです。あなたは、このこと
について愚かなことをしました。今から、あなたは数々の戦いに巻き込まれます。」
すると、アサはこの予見者に対して怒りを発し、彼に足かせをかけた。このこと
で、彼に対し激しい怒りをいだいたからである。アサはこのとき、民のうちのあ
る者を踏みにじった。 見よ。アサの業績は、最初から最後まで、ユダとイスラエ
ルの王たちの書にまさしくしるされている。 それから、アサはその治世の第三十
九年に、両足とも病気にかかった。彼の病は重かった。ところが、その病の中で
さえ、彼は主を求めることをしないで、逆に医者を求めた。(第二歴代誌 16:7-
12)
Ⅳ 全人的ケアの一つとしてのスピリチュアルケア
肉体的、精神的、社会的ケアとの関わりの中でのスピリチュアルケア
全人医療というときに単に肉体的な必要に答えるだけではありません。それぞれ
の特徴を簡潔にまとめると次のようになります。
肉体的ケア
精神的ケア
社会的ケア
霊的ケア
:
:
:
:
医学的な処置が中心
心理的なサポート
経済的・法的また家族関係におけるケア
人間の存在に関する根本的な問いに対する答え
そしてまず、肉体的、精神的、また社会的ケアはこの地上において必要なものと
して精一杯の努力をしていかなければなりません。またスピリチュアルケアはこの
地上においての一度かぎりのチャンスが永遠に関わるという切実さをもってなされ
なければなりません。この地上において、すべての領域において神はかけがえの無
い一度かぎりの生涯を与えてくださっています。
その意味において、肉体的、精神的、また社会的ケアはスピリチュアルケアを目
的に、それぞれの目標をもってなされていくケアとも言えるのです。これはもちろ
んケアに優劣をつけているのではありません。それぞれのケアにおいて最善を尽く
すのが本来のケアです。もしスピリチュアルケアが永遠に関わり、その他のケアは
この地上の生涯におけるものであるからないがしろにしても良いように考えるなら
ば、それは人間の存在を二元論的に考える間違いを犯していることになります。ヤ
コブの手紙でも同様な間違いを指摘しています。
私の兄弟たち。だれかが自分には信仰があると言っても、その人に行いがない
なら、何の役に立ちましょう。そのような信仰がその人を救うことができるでし
ょうか。もし、兄弟また姉妹のだれかが、着る物がなく、また、毎日の食べ物に
もこと欠いているようなときに、あなたがたのうちだれかが、その人たちに、「安
心して行きなさい。暖かになり、十分に食べなさい。」と言っても、もしからだに
必要なものを与えないなら、何の役に立つでしょう。それと同じように、信仰も、
もし行いがなかったなら、それだけでは、死んだものです。
(ヤコブ 2:14-17)
40
ですから、この地上において、私たちのもっている肉体、精神、そして社会性と
いう領域での必要をみたす、それも神がそなえておられるものをもって、聖書の倫
理の範囲の内で満たすように努力することは、クリスチャンとして当然のことなの
です。ですから医療行為においても、心理的サポートにおいても、社会的ケアにお
いても、最大限の努力をする必要があります。それと同時に「聖書の倫理の範囲」
ということも注意深く考慮する必要があります。人工妊娠中絶や際限の無い不妊治
療や延命治療、臓器移植、そして安楽死など、医療の現場では人間の飽くなき欲求
とできることは何でもするという倫理観のない技術追求のなかで、人が何をしてよ
いのかが考えられなくなってきているからです。どのような場合であっても神の御
心が第一であり、神を心から愛し自分を愛するように隣人を愛するという教えを実
践するときに全人医療にとりくむことができるということなのです。
病院という場所は確かに医療がなされる場所として存在しています。しかし入院
される方々は身体だけを切り離されて治療をうけるわけではありません。他の必要
もそのままかかえたまま入院され、そこで生活するのです。それはすなわち入院し
ている方々の立場に立てば、全人医療がなされなければならないのは当然のことな
のです。
そしてその模範はイエス・キリストにあることは明らかです。現代の医学という
方法ではなくとも、イエス・キリストは神の子として直接的に人々の身体的な病を
癒されました。また精神的なケア、社会的なケアをなされました。傷ついているも
のを受け入れたのはイエス・キリストの働きの特徴です。スカルの井戸のほとりで
声をかけられた女は拒絶される痛みを負っていました。姦淫の現場で捕えられてき
た女性は社会的な制裁を受けようとしていました。また多くの病人が社会から拒否
されたような生き方を強いられていました。ですからイエス・キリストの働きはま
さに身体的なケア、心理的なケア、さらに社会的なケアであったと言うことができ
ます。
そして、究極的に神との交わりの回復が語られ、スピリチュアルケアがなされて
いったのです。中風の人には「子よ、しっかりしなさい。あなたの罪は赦されまし
た」(マタイ 9:2)と宣言しました。またスカルの井戸辺で出会ったサマリヤの女に
は命の水について教えました。(ヨハネ 4:14)さらに霊とまことによる礼拝こそが真
の礼拝であることを教えました。(ヨハネ 4:23)さらに姦淫の現場で捕えられた女性
には「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。今からは決して罪を犯しては
なりません。」(ヨハネ 8:11)と赦しの宣言と新しい生き方を教えました。
これらのことから言えるのは、イエス・キリストの働きはすべて全人的なもので
あったと言うことです。さらに最終的には霊的なケアに導いていかれたということ
です。罪の問題や礼拝の問題はまさに霊的な問題であり、具体的なことから、ある
いは身体的なことから、あるいは精神的、社会的なことから霊的な事柄に導かれて
いったのです。
スピリチュアルケアへの関心の高まりとその位置づけ
スピリチュアルケアに関しては、最近注目されてきた領域で、最初は終末期医療
すなわち「ホスピス」に必要不可欠なケアとして考えられるようになって来ました。
それは「死」という問題の前に人間の深い存在の意味や目的が問われる中で霊的な
関心が高まることは明らかであることからも説明できます。前述したようにそのよ
うな状況に対してクリスチャンやキリスト教的土台のある欧米の医療関係者が積極
的に答えをもとめたのがすなわちホスピスムーブメントであったという歴史的な背
41
景もあると言えます。
本来のキリスト教信仰においては、病気は因果応報の結果でもなく輪廻転生の中
で甘んじなければならないものではなく、神の愛によっていやされるものとして考
えられてきました。また旅人をもてなすことの大切さが教えられてきました。です
から、天国を目指す人生の旅路の中で、隣人に愛の手を差し伸べることこそが神を
信じる者にとっての責任として問われているのです。ですからホスピスの起源には、
巡礼者、旅行者、他国人、貧困者、病人たちを休ませ、歓待する家という意味があ
ります。そしてその原形は中世の修道院などから始まったといわれています。ある
いはもっとさかのぼるという考えもあります。しかし確かにそれらに共通して言え
るのは、そのような場所が旅人に安らぎをあたえる憩いの場所であったということ
です。
このような背景のなかでもう一度考えてみると、現代のホスピスという状況以外
でも身体的なケア以外のケアがなされなければならないことは明らかです。そして
それには当然のことながらそこにはスピリチュアルケアも含まれるのです。
それではそれぞれのケアのお互いの関係はどうなっているのでしょうか。次頁の
図(図 4)にその関係があります。まずこの地上で肉体をもっている以上、私たちの
この地上における存在の基盤は肉体すなわち身体です。それゆえ身体的ケアが他の
ケアの土台となります。身体の調子によって私たちの心の状態や社会性は大きく左
右されます。身体があっての基本的な存在である私たちが身体的ケアを大切にする
ことはもちろんのことなのです。
しかし身体的な機能が損なわれている中でも、人間は尊厳をもって生きることが
できますし、また身体的な重荷がある中ではじめて人間が何であるのか考え、人間
は単に物質的な存在ではないという、心理的問題や社会的問題に本来の意味を見出
すようにもなります。さらに霊的な問題、すなわちより深い永遠の問題や人生の究
極の目的を考えるようにもなります。ですから全人医療の中ではこのような、むし
ろ身体的な問題を抱えるなかで、より人間本来のニーズに気がついたという面を肯
定的に、積極的にとらえ、それを神のめぐみとして受け止めることができるのです。
それは簡単なことではありませんし、無責任に第三者が言えることでもありません。
しかし事実としてそのような中でこそ神の恵みを知ったというあかしがあるのです。
ですから逆に健康なままで、物質的な必要を満たすことで満足し、現実にはある
にもかかわらず、物質的なニーズ以外の必要、特にスピリチュアルなニーズを無視
し生きている場合が多くあります。しかし身体的なケアが必要な状況となり、病院
に入院するという状況の中で、本来の人間としてのニーズに目が開かれる可能性が
大きくなります。そこに全人医療の大切さがあるのです。またそこからそれぞれの
ニーズがどう関係するかという問いにも答えがあるのです。
まずスピリチュアルケアが直接的に関わる霊的救いが最終的なすべてのケアの目
的と言えます。しかしそれぞれのケアの中でのそれぞれの目標があります。ここで
目的というのは最終的な到達地点であり、目標はそのための過程の中で成し遂げて
いかなければならない必要のことを言います。それでそれぞれのケアは霊的救いと
いう最終的な目的に向かいつつも、この過程の中で目標を達成できるように、誠心
誠意なされていかなければなりません。さらに目的に至らしめるのは神ご自身であ
って、人はそれぞれのケアに携わるなかで、目標に向かって努力する責任が問われ
ているのです。
またお互いのケアがそれぞれのケアを支えあっています。たとえば身体的ケアで
処置をする場合、大きな不安がある場合があります。手術前やあるいは薬による様々
42
な影響があります。その様なときにベッドサイドで聖書を読み祈る事は大切なスピ
リチュアルケアです。そしてそのことによって本人に平安が与えられ、身体的処置
に大きな助けになります。また薬の量を減らせる場合も多くあります。あるいはそ
の逆でスピリチュアルケアがなされるために意識レベルを保たせるという身体的な
処置が必要になります。特に緩和ケアでの痛みのコントロールがその例といえます。
その他、精神的ケアも社会的ケアも含めてお互いのケアがより良いものになるよう
に援助しあっています。
(図 4)
(図 4)各ケアの相互関係
スピリチュアル
ケア
精神的
ケア
社会的
ケア
身体的
ケア
私が植えて、アポロが水を注ぎました。しかし、成長させたのは神です。それ
で大切なのは、植える者でも水を注ぐ者でもありません。成長させてくださる神
なのです。植える者と水を注ぐ者は、一つですが、それぞれ自分自身の働きに従
って、自分自身の報酬を受けるのです。私たちは神の協力者であり、あなたがた
は神の畑、神の建物です。(Ⅰコリント 3:6―9)
すべてのケアの限界
身体的ケア、精神的ケア、社会的ケア、そして霊的ケアにおいても人間がすると
いうことには明確な限界があるということをはっきりとわきまえておく必要があり
ます。医者は病気をなおし人を救うことはできません。カウンセラーは心の傷を癒
すことはできません。また牧師は人の罪を赦し永遠の命を与えることはできません。
どの領域においても人はいやしのプロセスにおいて一部の手助けをしているに過ぎ
ないのです。
たとえば医療において、外科手術と車の板金修理とは全く異なります。外科手術
で縫合してもその部分がなおっていくのは身体の治癒力によるものです。車の板金
では板金工による修理が終わったらそれですべて完了です。車のへこみや傷は治っ
ているのです。しかし身体的なレベルではそうではありません。外科手術はなおっ
ていくプロセスを助けているに他なりません。その他の医療行為もほとんど同じで
す。治癒していくプロセスを助けているという働きです。
それは霊的なレベルでも同じです。どんな人も他の人を救うことはできません。
43
それはイエス・キリストの十字架の血潮によるもので、クリスチャンは他の人に救
いを伝え、イエス・キリストのもとに導くということがスピリチュアルケアの最初
の段階なのです。そして救いはイエス・キリストご自身の贖いによるもので、人が
イエス・キリストとの人格関係をもってその救いに入るとき、スピリチュアルケア
の次の段階に入っていくのです。
一般病棟におけるスピリチュアルケア
神のわざがこの人に現われるためです。(ヨハネ 9:3)
病気が回復することや長期療養になるケースが中心なので治療を目的にした身体
的ケアに重点がまずおかれるべきですが、同時に病気でない場合以上にスピリチュ
アルケアに重点を置く必要があることは明らかです。
まず本人が健康と言われる状態にくらべてスピリチュアルなニーズを感じる者に
なっています。
医者を必要とするのは丈夫なものではなく、病人です。「わたしはあわれみは
好むがいけにえは好まない。」とはどういう意味か、行って学んで来なさい。わた
しは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。
(マタイ 9:12、
13)
このたとえを病気になっている方々はよりよく理解できる状況に置かれていると
言えます。ですからこの方々がスピリチュアルな必要が人間にはあると言うことを
自分の問題としてより敏感に感じるような状況におかれているのです。そしてそこ
に神の栄光と力が現れる場となりうるのです。(ヨハネ 9:1-4、Ⅱコリント 12:9)
そして、病気になった「社会的弱者」と言われる立場に置かれている方々に対し
てクリスチャンはイエス・キリストのいやしの業をもたらす責任が問われています。
イエス・キリストに愛された愛をもって出かけていくのはクリスチャンのこの世に
おける生き方の原則です。イエス・キリスト自身が病むもののいやしをその働きの
重要な働きとしておられ、また弟子たちをそのために遣わされました。 すなわちス
ピリチュアルケアと身体的病気の治療は深く関わっているのです。(マタイ 8:16、
10:1、他)
。
夕方になると、人々は悪霊につかれた者を大ぜい、みもとに連れて来た。そこ
で、イエスはみことばをもって霊どもを追い出し、また病気の人々をみなお直し
になった。
(マタイ 8:16)
イエスは十二弟子を呼び寄せて、汚れた霊どもを制する権威をお授けになった。
霊どもを追い出し、あらゆる病気、あらゆるわずらいを直すためであった。
(マタ
イ 10:1)
ここで安易な混同は避けなければなりませんが、スピリチュアルケアと身体的ケ
アは切り離せないほどの密接な関係にあることに目をとめなければなりません。た
とえば悪霊の問題と精神病の関係をこれからもっと学んでいかなければ、よりよい
身体的ケアもスピリチュアルケアもできないことは聖書と現代社会の問題を冷静に
また熱心に学んでいる者にとってはますます明らかなものになってきています。
44
特に霊的な問題が身体的な問題と関わっているということはイエス・キリストの
地上でのお働きの中にも見られます。中風の人に「子よ、しっかりしなさい。あな
たの罪は赦されました」
(マタイ 9:2)と宣言したということは、身体的ないやしだ
けでは問題は解決せず、究極的には霊的な救いの問題があるということを示してい
ます。ですからイエス・キリストはその後で「起きなさい。寝床をたたんで、家に
帰りなさい」と身体的ないやしをされるのです。
また精神病であれ認知症であれ、魂の問題としてスピリチュアルケアは救いを目
的にして真剣に取り組まなければなりません。安易に「理解していない」、「判断力
がない」、「嘘をつく」、「躁状態で受け入れた」という言い方をしてはならないこと
なのです。ここでは信仰に関する問題以前の問題があります。それは医学的にも確
立していない判断を常識として読み込んでいる初歩的な間違いです。むしろ聖霊に
よるのでなければ、だれも、「イエスは主です。」と言うことはできません(Ⅰコリ
ント 12:3b)というみ言葉の客観性から始めて判断すべきことなのです。
いやしの祈り
やはり身体的な病いを持っている人としては、いやしを求めるということは自然
なことですし、聖書の中にはいやしの多くの記録があり、神ご自身が「私は主
主、あ
なたをいやすものである」(出エジプト記 15:26)と宣言されています。
しかし同時に身体的なレベルのいやしだけがいやしではないということも知って
おくべきです。パウロのいやしに関する祈りが聞かれなかったのは霊的なレベルで
は神の栄光が現されるために他なりませんでした。それゆえに、信仰があればいや
され、いやされないのは信仰が無いからであるという考えは聖書全体からは導き出
されないのです。
(Ⅱコリント 12:7-10)
そのような前提を踏まえた上で、もしこの身体的なやまいが無かったとしたらと
考えるときに一概によかったとは言えないということが明らかです。もし健康であ
ったら人の弱さも分からなかったであろうし、また人間の能力を無批判的に信じて
いた危険性もあったと考えられるのです。
罪の問題
スピリチュアルケアの中心は罪の問題の解決です。本質的に私たちの身体的なや
まいと死は罪の結果です。それは個人の因果応報的な意味ではなく、人の罪ゆえに
死が全人類に入り、地はのろわれてしまったという意味でそう言えるのです。です
から罪の問題を避けてはスピリチュアルケアは不可能と言えます。前述したように
イエス・キリストが霊的ケアまで導いていかれたとき、そのきっかけが身体的、精
神的、あるいは社会的な問題であろうと、最終的には罪の問題の解決に導かれた事
実からそれははっきりしています。なぜならばそれがスピリチュアルケアの中心に
他ならないからなのです。
信仰決心
人にはそれぞれ人生の歩みの中で独自の背景を持っています。その様な中でいく
らスピリチュアルケアの究極の目的がイエス・キリストにある救いであっても、そ
れぞれの背景を十分にわきまえることが求められています。ただ福音の内容を受け
取る側の受け止め方を考えないで伝えようとしても伝わらないばかりか、相手を傷
付けたり、心を閉ざすきっかけをつくってしまったりしてしまいます。聖書におい
ても相手の背景や立場を考えた上で、どう福音を語るかがおしえられています。
45
弱い人々には、弱い者になりました。弱い人々を獲得するためです。すべての
人に、すべてのものとなりました。それは、何とかして、幾人かでも救うためで
す。(Ⅰコリント 9:22)
ですから、まず私たちは相手の立場から始めなければなりません。それはどのよ
うな伝道の時にも共通して言えることですが、特に身体的な重荷を負っている病気
の人々に伝道するときには特にこの事に注意しなければなりません。もうすでに病
気によって身近な者から拒否されているという感じを持っている方もいます。また
挫折感や絶望感に打ちひしがれている人たちも多いでしょう。その方々にとって、
立つ瀬が無いような気持ちを抱かす事は決して福音を伝えるのに助けにはならない
どころか、新たな壁を作ってしまいます。
そのためにはイエス・キリストが人々をそのまま受け入れたように、スピリチュ
アルケアにおいてもそのまま相手を受け入れることが求められます。特に身体的な
問題の中でより深く罪責感に悩む場合も多く、また病気の原因を因果応報的に捕ら
えるような状況に陥っている場合もあるのです。その様な時にスピリチュアルケア
に携わる者は、決してヨブの 3 人の友人のような間違いと罪を犯さないように注意
する必要があります。彼らはヨブの試練を常に因果応報的に説明しようとし、ヨブ
に慰めを与えることが決してできませんでした。ヨブに最初に語り掛けた友人、エ
リファズが以下のように言っています。
さあ思い出せ。
だれか罪がないのに滅びた者があるか。
どこに正しい人でたたれた者があるか。
私の見るところでは、不幸を耕し、
害毒を蒔く者が、それを刈り取るのだ。(ヨブ 4:7、8)
これは私たちが苦難の理由を見つけようとするときに、一般的に陥りやすい考え
です。悪いことをしたから、その罰があたったのだという考え方です。しかし、こ
の事に対して、イエス・キリストは明確な答えをだしています。
またイエスは道の途中で、生まれつきの盲人を見られた。弟子たちは彼につい
てイエスに質問して言った。「先生。彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯
したからですか。この人ですか。その両親ですか。」
イエスは答えられた。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。
神のわざがこの人に現されるためです。」
(ヨハネ 4:1―3)
信仰告白
聖霊によるのでなければ、だれも、「イエスは主です。」と言うことはできませ
ん。(Ⅰコリント 12:3)
特に病床にあるものにとって、救いが切実な問題であるとき、信仰告白をするこ
とは決していいかげんな気持ちや人をだますためにするようなことはできないよう
な状況にあります。そして何よりも上に引用した聖書の言葉は信仰告白が人間の思
いではなく聖霊の働きによるのであるということを、はっきりと示しています。
たとえば意識レベルにおいて低いと思われる人も、まず聴覚はあると考えられま
46
す。さらに言葉でなくともうなずくなり手を挙げるなりして答えることができます。
あるいは驚くことにあまり声を出さなかった人が、大きな声ではっきりした信仰告
白をする場合もあります。
どのような病気、特に意思疎通の難しいと思われる末期の方、重病の方、精神疾
患や認知症の方などに関してどう信仰決心に導くことができるのか、十分にスピリ
チュアルケアをするものはわきまえておく必要があるということです。しかし同時
にどのような状況にあっても、信仰決心に関してはその人の人格を尊重し、意思疎
通に問題のないと思われる人と同様に、あるいはそれ以上に決心の真実さが尊ばれ
なければなりません。
まず、信仰告白は本人の自発的な決断であって強制や圧迫感、あるいは脅迫など
の結果であってはなりません。とくに病床にあるものにとって、家族との関係や遺
産などの決断でそのような状況に追い込まれるようなことも多いので、信仰告白に
おいてそのようなことがあってはなりません。しかし多くの人が、強制や脅迫的に
なるのを恐れるために、逆に信仰決心のために必要な励ましや説得をしないという
ケースもあることも多いのです。強制や脅迫的になるのを避けるためと言っても決
して消極的になってはいけません。
それではどちらにも間違って偏らないためにどうすべきでしょうか。福音のメッ
セージを正しく理解し正しく伝えるということが最初になされることが大切です。
そこには決して強制では本当の信仰をもつことはできないことが明らかにされてい
ます。信仰そのものがイエス・キリストを救い主として告白しすべてを信頼してま
かせることですから、強制では信仰にはなり得ないのです。ですから、まず福音の
メッセージをわかりやすく提示することが前提になります。福音のメッセージを受
け入れることは、自分の罪を認め悔い改めることから始まりますから、御利益的に
信じることはそこで不可能になります。さらにすべてを主に委ね、救い主として受
け入れる必要を伝えます。そこで自分の心に主としてイエス・キリストを受け入れ
るかどうかは、その人の自発的な決断ですし、同時に聖霊によるものです。ですか
ら個別のケースにおいて、まわりが驚くほどのはっきりした自発的な信仰告白をみ
ることができるのです。
A さんのケース
アルコール依存による精神障害があり子どもは反発しお見舞いに来ないような状
況。妻がクリスチャンだが教会には行かなくなっている。はっきりと信仰告白をし
て、バプテスマ式には妻も子どもも参列し、ほとんど感情表現をしなかった本人が
バプテスマを受けた後、顔をくしゃくしゃにして泣いていた。
神の主権のもとで聖霊にゆだねつつ、信仰決心とバプテスマに導くようにスピリ
チュアルケアはなされるべきなのです。そしてそれは、最終的に神ご自身の御業で
あり、神の選びによるものですから、人はその救いの業そのものをするのではなく、
神に委ねられた領域で委ねられた責任を全うする働きをするのです。
緩和病棟におけるスピリチュアルケア
さて、過越の祭りの前に、この世を去って、父のみもとに行くべき自分の時が来
たことを知られたので、世にいる自分のものを愛されたイエスは、その愛を残ると
ころなく示された。(ヨハネ 13:1)
47
医学的には、末期の状態の QOL を高めるための痛みのコントロールが中心であり、
むしろスピリチュアルケアが最大の優先課題となります。その他の処置ははっきり
とそれに従属したものとしておかなければなりません。もちろん身体的ケアに費や
す労力と時間がほとんどであっても、それはすなわち QOL のためであり、短い時間
でも、福音を聞き、受け入れることを主体的に判断し、告白できるような環境を作
れるようにすることが非常に重要になります。そのために一致した認識をもってそ
れぞれのスタッフはケアにあたることが求められています。その意味では緩和病棟
における身体的ケアは霊的・精神的ケアがよりよくできるための従属的ケアという
こともできます。また意識がなくなっているように見える状態でも常にみ言葉や讃
美歌また祈りを傍らですることができるような状況を提供する努力をする必要があ
ります。
B さんのケース
医療担当者が疑問があるといい、ケースワーカーによれば信仰を強制しているの
ではないかという疑問を抱いているらしい。患者さんに精神障害があるということ
からでもあると思える。最初に福音を伝え、導いたときにはイエス・キリストを受
け入れたが、バプテスマを受けますかと聞くと飛び上がって「今日ね?」と驚いて
いた。「今日である必要はない、備えましょう。」と言ってその時は終わりにした。
その後、再び導き、バプテスマの説明をして「バプテスマを受けましょう」と言う
とはっきりと「はい」と答えた。またさらにバプテスマのときの誓約を一つ一つ説
明し、
「信じるならばアーメンと言ってください」と言うと、はっきりと「アーメン」
と言った。以上のようにそれまでにもう 3 回も確認しているので、バプテスマの時
点では誓約を繰り返さないで、「あなたの信仰告白のゆえにバプテスマを授けます」
と宣言してすぐにバプテスマを授けようと考えていた。しかし疑問をもっているス
タッフのために信仰告白をはっきりさせたほうがよいとの意見があり、祈りつつ、
誓約を求めると、通常あまり感情表現をしない当人ははっきりと四つ信仰告白の誓
約に「はい」と答え、大きなあかしとなった。
いやしの祈りに関して
スピリチュアルケアにあたるものは緩和ケアの意味を踏まえて安易ないやしの祈
りをするべきではありません。むしろ思慮深く、御国の希望にあふれるように導い
ていく必要があります。特にいやしを祈るのが牧師やチャプレンの責任と感じて、
あるいは信仰があればどんな状況でもいやされるとの誤った考えから、緩和病棟に
おいてもいやしの祈りを中心としてしまう場合も見られました。いやしを祈ること
は間違いではありませんが、聖書はどう語っているのか、また神がその人を緩和病
棟に置かれたのはどういう意味を持つのかを熟慮した上で、何を祈るか、どう祈る
かを正しく判断しなければなりません。
C さんのケース
クリスチャンとして末期の癌で入院した。牧師が来ていやされるようにと祈りつ
づけ、果たしてチームワークとして死に向かってよりよい時をすごさせるというホ
スピスとしてのスピリチュアルケアができたのか疑問である。
48
病状や告知に関しては、特に御国の希望に導いていくための一つの条件としてス
ピリチュアルケアにあたるものもわきまえておく必要があります。死が近づくこと
を知っているならば当然そこには不安と恐怖、また寂しさなどの感情が高まってき
ます。しかしそれを飲み込んでしまうほどの神の恵み、特に御国の希望があふれ出
てくるように、聖霊の導きの中でスピリチュアルケアがさらに深められていく必要
があるのです。それにこたえる霊的な判断力がチャプレンを始めとする特にスピリ
チュアルケアに当たる者には求められているのです。
そこでは医学的にも延命のための処置はしないことが共通の理解であるように、
スピリチュアルケアにおいても、この地上の命の回復ではなく、この地上の生涯で
走るべき行程を走り尽くし、もはや義の冠がまっているという段階での、御国の希
望にあふれていくように支えていくことが中心となるのです。
それはいやしを否定することではありません。むしろ神が本人を置かれた場所を
認め、神の御心を知って、すべてのケアにあたるものが地上の命に関して共通の理
解をもってチームとしてケアにあたるということなのです。
牧師が度々お見舞いに来るのはよいのだが、ターミナルケアの立場からすると
困ることが一つある。末期がん患者の枕許に来た牧師は、決まったように次のよ
うなお祈りをする。『○○さんの病気が早く癒されて、元気で退院し、一日も早く
教会員の皆様と一緒に礼拝を守ることができますように。
』ホスピスの患者は自分
の病気が決して治癒することなく、必ず間もなく死亡し、元気で退院することは
あり得ず、ましてや教会の礼拝に出席する可能性が無いことを百も承知している
のである。
(村上 2005:278)
欧米など人間にとってはスピリチュアルケアが根源的な必要であるという理解が
一般的な文化では、チャプレンに対する専門教育も行われており、特に神学校修士
課程には病院実習も含む CPE (Clinical Pastoral Education 臨床牧会教育)のコー
スが置かれています。日本においてもこのような教育の充実が図られる必要があり
ます。さらにその必要性は病院のみならず、まずは軍関係、警察、消防などという
人の生と死に関係する場に働く人のスピリチュアルケアと支えとして、さらに学校
という死生観も含む教育の場で当然のこととして覚えらえています。
また、チームケアとしてのスピリチュアルケアを行う場合、医療が終末期医療を
行っているならば、スピリチュアルケアも終末期のスピリチュアルケアとなり、チ
ームが一丸となって、全人的ケアができるようにならなければならなりません。
また、身体的治療に向けてチームケアが行われている場合には、もちろんのこと
チャプレンによる癒しのいのりが必要です。チームは人として疾病の治癒に向けて
努力をしますが、同時にチャプレンを中心に人による治療における神の助けと神ご
自身による癒しを祈る必要があります。また、神のよる直接的な介入と癒しは、人
による治療の努力を否定するものではなく、薬や手術を否定するものではありませ
ん。むしろお互いに補完し合い、また神ご自身が人による治療の努力を成し遂げて
いるという理解が必要です。まさに、“God cures, we care” (神が癒し、私たちはケ
アをする)という理解を共有するチームケアが求められているのです。
臨終の際のスピリチュアルケア
臨終に際して医学的には死期が間近であるという状況に際してもスピリチュアル
ケアは大切です。むしろ緩和ケアなどで医学的には処置をしない状況になってもス
ピリチュアルケアは必要です。
49
意識がないと思われる状況において、医学的に意識がないとはだれも言い切るこ
とはできません。意識があっても意思表示ができないという状況である場合もあり
ます。ですから正確には意識が無いというよりも意識をもっているということが表
示されていないという方が正確な場合もあるのです。
そして生きている限り、その人の霊はそこにあります。さらに聴覚や触覚は最後
まで残っています。それで手を握り、祈り、神の変わらない平安を保てるように支
える必要があります。讃美歌を歌ってあげるのも大切です。私の母は集中治療室で
全く意識を表示できないような状況にあって、讃美歌を聞かせると身体状態を示す
モニター表示が明らかに安定しました。
ですからイエス・キリストを信じて受け入れている者には、イエス・キリストに
ある平安と慰め、そして御国の希望を確信できるように、そばで聖書のみ言葉を読
みます。詩篇 23 やヨハネ 14:1-4 がふさわしいみ言葉です。
まだイエス・キリストを受け入れたことがはっきりしていない方には最後までチ
ャンスを与えることが必要です。福音のメッセージの中心を伝え、信じるならばイ
エス・キリストを救い主として受け入れるように伝え、そばで一緒にイエス・キリ
ストを受け入れるお祈りをします。霊的な問題ですから、それを聞いて本人が神の
前で受け入れうるならば、救われるのです。意識が表示されないので周りの者は解
らなくても、神の前にチャンスが与えられたであろうことは言えるのです。中心的
な福音のメッセージは以下の聖書のみ言葉にあります。
私があなたがたに最もたいせつなこととして伝えたのは、私も受けたことであ
って、次のことです。キリストは、聖書の示す通りに、私たちの罪のために死な
れたこと、また葬られたこと、また聖書に従って三日目によみがえられたこと(Ⅰ
コリント 15:3、4)
さらに、どうしたら救われるかということも聖書ははっきりと語っています。
もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中か
らよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。
(ローマ
10:9)
以上の聖書の約束を語り、信じるならば心の中でアーメンといってくださいと言
い、以下の祈りを耳元でします。
「天の父なる神様。私は罪人です。私の罪のためにイエス様が十字架にかかっ
てくださり、よみがえられたことを信じ受け入れます。私の罪を赦し神の子とし
てください。イエス様の十字架の血潮により私の罪が赦されたことを信じます。
復活と永遠の御国の希望で満たしてください。この祈りをイエス・キリストの御
名によってお祈りいたします。 アーメン」
意識が表示されない場合でも、その人の霊は神の前で救いを受け入れるならば救
われています。それはすべて主の御手の中です。私たちは委ねられた責任を果たし、
本人が神の前で決断する場を与えることができたなら、後は神の主権にすべてを委
ねることができます。もしそうしないのなら、私たちはスピリチュアルケアの領域
で最後まで責任を取ったと言うことはできないのです。たとえ本人が安らかに人生
を終えたと外からは見えたとしてもです。
50
スピリチュアルケアの核心
結局のところ人の宗教的ニーズに答えるのは本来のスピリチュアルケアでなけれ
ばなりません。 そうでないと主観的な慰めで終わってしまいます。このことに関し
て、シャロン・フィッシュとジュディス・シェリーはスピリチュアルケアの中心を
イエス・キリストを信じる信仰による創造主なる神との個人的な人格関係として説
明しています。
「この赦しは、自動的・機械的にすべての人に与えられるのではない。それは
自分も赦しを得たい、と、心から願う人にだけ、与えられる。赦しを受けるには、
自分の反逆の罪を告白し、罪に対する自分の無力さを、認めなくてはならない。
それから、自分を救い、自分に神との生きた人格関係を回復してくださる唯一の
方として、イエスを信じなくてはならないのである。
神との関係が、イエス・キリストを信じる信仰によってできると、人はキリス
ト者になる。そして、神の家族の一員になる。このさい生じる新しい親子関係に
は、数多くの祝福がともなう。その最大のものは、神との平和であり、死後にも
つづく永遠の命である。
」(Judith Allen Shelly&Sharon Fish, 邦訳窪寺俊之、福
嶌千恵子訳「スピリチュアルケアにおける看護師の役割」2004:61-62)
但し前述したように、初版の訳は原文で Spiritual となっているところを宗教的と
訳していたため本意が伝わりにくくなっていました。原著者はスピリチュアルケア
の中核また究極の目的を、聖書に示されたイエス・キリストにある救いとしていま
す。それは単に一つの宗教的慰めではなく、客観的な事実に基づくイエス・キリス
トとの人格信頼関係をとおしての唯一の神との交わりの回復として語られているの
です。再版(2004)においては、その点がそのままスピリチュアルケアと訳されて
おり、原意が伝わるようになっています。
スピリチュアルケアとは聖書による人の霊的必要に対する啓示をとおしての答え
から導き出されるケアに他なりません。それは聖書が教える「知る」という枠組み
からはっきりしていることなのです。一般啓示をとおして、私たちは神の永遠の力
と神性を知ることができます。それは被造物に表されている創造の秩序の素晴らし
さを知ることでもあります。ですから科学的な探求によって、人間の身体の機能を
知り、またその治療のための様々な医療の方法を論理的に推察し、見出していくこ
とができるのです。どのような人間による科学技術の発展も、まず神の創造の秩序
があってのことなのです。
それに対して霊的な事に関しては一般啓示の知的な探求によってではなく、神か
らの特別啓示によってしか知る事ができないのです。しかしそれは知性を否定する
盲信ではなく、知性によって納得した上で、聖霊の助けによって知ることができる
ものなのです。(Ⅰコリント 15:2)
しかし、科学的な知識を得ることのできる一般啓示の知的な探求も、霊的な事を
知ることのできる特別啓示を聖霊によってわきまえることも、両方とも客観的な真
理であることには違いありません。ここで多くの誤解が生じていることがスピリチ
ュアルケアの説明において混乱が深まっている理由でもあるのです。
ムーディー科学院作成の科学と信仰シリーズのビデオ、「超感覚の世界」で興味深
い鋭い洞察がありました。それによりますと、結局のところ科学的な領域では客観
的な科学的法則に従って現代社会では大きな発展を見てきた。しかし霊的な領域で
51
は無知蒙昧のままである。そして科学者が私には私だけの原子量の表がありますか
らと言うとナンセンスであるのに、霊的領域に関しては平気で私には私の宗教哲学
がありますと言う。もし霊的な領域でも客観的な法則に従うことができるのならば、
科学の領域と同じように飛躍的な進歩をとげられるはずだ、と説明がされているの
です。そして確かに聖書の言葉は誤りの無い神の言葉として客観的な霊的法則を示
しているのです。しかし人は自分の罪とサタンの惑わしのためにそれを受け入れよ
うとしないどころか、主観的な考えをまことしやかに言って自分をも他の人をも誤
魔化そうとしているのです。
Ⅴ スピリチュアルケアの究極の目的
スピリチュアルケアの究極の目的は、本人がイエス・キリストを救い主として信じ
救われ、罪の赦しの確信と永遠の命の希望を持つにいたることに他なりません。そ
のためにまずイエス・キリストを信じる決心にいたるまでに必要な福音のメッセー
ジを伝えることがなされなければなりません。そして本人の選択として、イエス・
キリストを信じ、バプテスマを受けるかどうかを決める決断の場を備えてあげるこ
とが必要です。その時に受け入れるようにという励ましも必要です。そして決断し
たならば信仰告白とバプテスマに導いかなければなりません。さらにバプテスマを
受けたならば、その救いの喜びを分かち合う時が必要です。そこからバプテスマの
後のフォローアップが始まります。それは聖書のみ言葉を学び、救いの確信を深め、
信仰の友として祈り合い、さらにみ言葉を守る者となるように励まし合うような交
わりを持っていくことです。聖餐式を持つことによって、常に十字架を思い、再臨
を期待する信仰を持ち続けるように導かれなければなりません。
私たちは、この地上に永遠の都を持っているのではなく、むしろ後に来ようと
している都を求めているのです。(ヘブル 13:14)
主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天
から下って来られます。それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、
次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き
上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主と
ともにいることになります。(Ⅰテサロニケ 4:16、17)
けれども、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い
主としておいでになるのを、私たちは待ち望んでいます。(ピリピ 3:20)
スピリチュアルケアの究極の目的は、まさにクリスチャン皆が切に待ち望んでい
ることに他ならないのです。それは罪からの解放と永遠のみ国の栄光です。この世
の現実がわかればわかるほど、この世の問題はこの世だけの解決では解決できない
ことに目が開かれていきます。そして切に神の国の現われを待ち望むものとさせら
れるのです。
今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比
べれば、取るに足りないものと私は考えます。被造物も、切実な思いで神の子ど
もたちの現われを待ち望んでいるのです。
(ローマ 8:18、19)
52
最後に、ジュディス・シェリー “Values in conflict: Christian nursing in a
changing profession” から引用してこの冊子の主旨のまとめといたします。
結局のところ問われているのはこれなのです。私たちがこの世と妥協する安逸か
ら抜け出して、神によって私たちの価値観を変えていただけるほどのイエス・キリ
ストに対する忠誠心が私たちの内にあるかどうかということなのです。看護師とし
て、私たちは結果を恐れずに私たちの文化的価値観よりも神の価値観を主張し行動
するだけの意思があるかどうかなのです。もしそうであるならば看護に偉大な希望
があるのです。(Shelly1991:17)
53
参考資料
オリブ山病床洗礼(バプテスマ)の時の誓約
せんれい
バプテスマ( 洗礼 )について
せんれい
しんやくせいしょ
めい
バプテスマ( 洗礼 )は
新約聖書
においてイエス・キリストのお 命 じ
せいれいてん きよ ぎしき
しん
もの
になった 聖礼典 ( 聖 い 儀式 )であり、イエス・キリストを 信 じた 者 が
あた
いのち はい
あたら
あゆ
イエス・キリストとともに 新 しい 命 に 入 り、 新 しい 歩 みをするめぐ
あらわ
ふくいんしょ
みを 現 すものです。
(マタイの 福音書 28:18-20)
つみ ゆる
かみ かぞく
きょうかい くわ
えいえん
それは 罪 が 赦 され、 神 の 家族 である 教会 に 加 えられ、 永遠 の
いのち う
かみ くに
いただ
しめ
命 を受け、 神 の 国 に入るめぐみを 頂 いたことを 示 しています。
(ヨハ
びと
ふくいんしょ
てがみ
びと
ネの 福音書 3:1-8、ローマ 人 への 手紙 6:1-1、ガラテヤ 人 への手紙 3:26
さず
もの ぼくし
う
もの しんじゃ
-28)ですからバプテスマを 授 ける 者 ( 牧師 )と受ける 者 ( 信者 )は、
しゅくふく せいれい みちび
けいけん おも
キリストの
祝福
と 聖霊 の 導 きにより 敬謙 な 思 いをもってバプ
しと はたら
しき あず
テスマの 式 に 預 かります。(使徒の 働 き 2:36-42)
しんこうこくはく
信仰告白
てんち そうぞうしゅ
い
かみ
しん
一、「あなたは、 天地 の
創造主
なる 生ける 神 のみを 信 じますか?」
しん
( 信 じます。
)
しゅ
つみ
じゅうじか
二、「あなたは、 主 イエス・キリストがあなたの 罪 のために 十字架 にかか
つみ ゆる
すく
かくしん
ってくださり、あなたの 罪 が 赦 され 救 われていることを 確信 しますか?」
かくしん
( 確信 します)
しゅ
こころ
したが
い
ねが
三、「あなたは、 主 イエス・キリストに 心 から 従 って行きたいと 願 い
ねが
ますか?」
( 願 います)
54
根拠に基づく医療学会 2011 英国ロンドン
オリブ山病院発表「根拠に基づく信仰と医療の統合」
EvidenceLive 2011, London, U.K.
55
根拠に基づく医療学会 2015 英国オックスフォード大学
オリブ山病院発表「根拠に基づく宗教的ケアの適切性と効果」
EvidenceLive2015, Oxford, U.K.
56
参考文献
大下大圓(2005)『癒し癒されるスピリチュアルケア:医療・福祉・教育に活かす仏
教の心』.東京,医学書院.
岡本拓也(2014)『誰も教えてくれなかったスピリチュアルケア』
.東京,医学書院.
柏木哲夫監修(2001).『緩和ケアマニュアル:ターミナルケアマニュアル改訂第 4
版』.大阪,最新医学社.
神田健次(編)(1999).
『講座 現代キリスト教倫理 1 生と死』 pp.191-192
キッペス、ヴァルデマール(2012)『心の力を活かすスピリチュアルケア』.川崎,
弓箭書院.
キッペス、ヴァルデマール監修(2003)『NHS におけるスピリチュアルケア:医療を
委託する関係機関と、委託されている関係機関へのガイド』
.サン パウロ.
キッペス、ヴァルデマール(1999)『スピリチュアルケア:病む人とその家族・友人
および医療スタッフのための心のケア』
窪寺俊之(2008)『スピリチュアルケア学概説』
.東京,三輪書店.
窪寺俊之・井上ウィマラ(2009)『スピリチュアルケアへのガイド:いのちを見まも
る支援の実践』.東京,青海社.
下稲葉康之・下稲葉かおり(2003)『癒し癒されて:栄光病院ホスピスの実録』.い
のちのことば社,東京,フォレストブックス.
シェーファー、フランシス・A(1979)稲垣久和(訳)
『それではいかに生きるべき
か:西洋文化と思想の興亡』.東京,いのちのことば社.
高木慶子(2014).「現場から見たパストラルケアとスピリチュアルケア、グリーフ
ケア」鎌田東二(編)『スピリチュアルケア』講座スピリチュアルケア学第一巻,
ビイング・ネット・プレス,pp.42‐68.
図 書 ベ ッ テ ム ハ イ ム : 19 世 紀 の 琉 球 に 伝 道 し た 英 宣 教 医 ,
http://manwe.lib.u-ryukyu.ac.jp/library/biblio/bib37-2/01.html(閲覧日 2015 年 6 月
30 日)
浜崎盛康(2011).「スピリチュアルケア」浜崎盛康(編)
『ユタとスピリチュアルケ
ア:沖縄の民間信仰とスピリチュアルな現実をめぐって』.ボーダーインク,pp.
193‐199.
ムーディー科学院(1998).
『自然の驚異シリーズ:超感覚の世界』.東京、いのちの
ことば社.
村上國男(2005)『ターミナルケア・ガイド』.大阪,(株)関西看護出版.
山岡義生(2010)、記録集(第 2 回医療と宗教を考える研究会)の詳細ページ、
http://www.peace-life.org/p010_detail.html?num=3.
(閲覧日 2015 年 6 月 30 日)
.
Koch, Kurt E. (1970).Occult Bondage and Deliverance.Grand Rapids,Kregel.
Shelly,Judith Allen&Fish,Sharon (1978)
.Spiritual Care: The Nurse’s Role.
Downers Grove, InterVarsity.
シェリー,ジュディス・アーレン,フィシュ,シャロン,窪寺俊之、福嶌千恵子(訳)
(1994)「看護のなかの宗教的ケア」(初版),(2004)
「スピリチュアルケアにおけ
る看護師の役割」
(再版)
.東京.いのちのことば社.
Shelly,Judith Allen (1991).Values in conflict: Christian nursing in a changing
profession.Downers Grove, InterVarsity.
Shelly,Judith Allen(2000).Spiritual Care: A Guide for Caregivers. Downers
Grove, Interversity. Shelly,
Shelly, Judith Allen & Miller, Arlene, B.(2006). Called to Care: A Christian
57
Worldview for Nursing. Downers Grove, InterVarsity.
* 聖書の引用は断りの無い限り「新改訳聖書第 3 版」からの引用です。
* 参考文献および引用の形式は APA スタイルに準じています。
著者
田頭真一
特定医療法人葦の会オリブ山病院 理事長
1958 年沖縄那覇市生まれ
私立学校法人関西学院大学神学部、宗教法人聖書宣教会・聖書神学舎卒業。バプ
テスト教会牧師。宗教法人沖縄福音伝道会により按手を受ける(牧師資格)。米国フ
ラー神学校、バイオラ大学、神学大学院基金をとおして英国オックスフォード大学
に学ぶ。神学修士(Master of Theology)、教育学博士(Doctor of Education)、心理
学博士 (Ph.D. in pastoral counseling)
インドネシアと米国の神学校での教鞭、カリフォルニア州およびオレゴン州での日
系人教会牧師を経て、1997 年帰国、学校法人沖縄クリスチャンスクールインターナ
ショナル理事、読谷バプテスト伝道所牧師、沖縄クリスチャン学園園長、特定医療
法人オリブ山病院チャプレン、同事務局長を経て現在に至る。
58