広岡浅子と - あだむ書房 AdamPublishing

ヴォーリズ新書
あさが来
あさが来た
広岡浅子と
満喜子 と ヴォーリズ
びっくりポン
びっくりポンの物語!
三浦 三千春
あだむ書房
あだむ書房
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エピロー グ
満喜子とヴォーリズの結婚
きよき宣教者 ヴォーリズ
道を捜す後輩 一柳満喜子
あさ 広岡浅子の真実
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あさ 広岡浅子の真実
「びっくりポンやわ!」――。軽やかな、紙飛行機を乗せた風のように、一陣のブーム
を巻き起こしたN HKの、朝の連続テレビ小説「あさが来た」(二〇一五年九月末から半
年の放送)。そ のなかで、ヒロイン「あさ」が、みずみずし い、好奇心いっぱ いなこころ
で、驚いた時に言うセリフがそれでした。
実は、「白岡あさ」には実在のモデルがいたのです。その名は広岡浅子(ひろおか・あ
さこ。一八四九~一九一九年) 。明治から大正時代まで、大阪を舞台に活躍した実業家で
す。江戸時代の終わりに生まれ、明治維新で世の中が全く変わってしまう大変動のなか、
嫁ぎ先の加島屋(ドラマでは加野屋)の傾きかけたのれんを建て直し、炭鉱事業に果敢に
挑戦。加島銀行、大同生命保険を創業させ、日本女子大学の創設に尽力したスーパーレ
ディーです。
ドラマのあれもこれもホントのこと
ドラマは、波乱万丈のできごとを、軽やかに明るく、ユーモアいっぱいに描いていまし
た。そこに描かれていた場面は、おおむねホントにあったことを元にしています――。
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あさ 広岡浅子の真実
子どもの頃からおてんばで、そろばんや勉強を、男の
子と同じように習いたくてたまらなかったこと。若くし
て、商家どうしの政略結婚で嫁いだが、やがて夫に頼り
にされ、親しい愛情を結ぶようにもなったこと(夫が玉
木宏ばりのイケメンだったかは定かではない)……。
新選組に、加島屋が四百両貸したのも事実。しかし
それは、浅子が十七歳で嫁入り後すぐの話です――。
けれども、浅子が宇和島藩邸に乗り込んで借金返済を
求め、荒くれ男たちの部屋に通されても頑張って、目的を達したのは本当の話なんです。
それだけではなく、加島屋のおもな生業(なりわい)が大名貸しであったのが、時代が変
わり、「資金の回収」「融資の断り」などを断行せねばならなくなったなか、その難しい仕事
を浅子は引き受けていたのです。その結果、加島屋における浅子の発言力は絶大でした。
炭鉱事業のため、九州の炭鉱に単身乗り込み、護身用のピストルをふところに入れてい
たこと(ドラマのように暴発して鉱夫をおののかせたかは不明ですが)や、銀行や生命保
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あさ 広岡浅子の真実
険会社、日本女子大学のことも大筋の事実です。
そして、暴漢に刺されて、九死に一生を得たことも……。
ドラマでもいわれていたことですが浅子は、「九転び十起き」のスピリットで困難を乗り
越えました。常人なら「七転び八起き」というのを上回る粘り強さというわけですね!
還暦を過ぎてクリスチャンに
さて、浅子は「九転十起生」(きゅうてんじゅっきせい)というペンネ ームで、「一週一
信」という本を出しています。六十九歳で世を去る少し前のこと。その本の序文にこう書
いているのです。「キリストに救われてここに十年」――。
なんと、浅子は六十歳の時、クリスチャンになったのです。まさに、「びっくりポンや
わ!」の事実ですね。それは、責任の重い、孤独な決断を迫られる事業家として生きてき
た浅子が、自らのこころの安らぎや、生きる意味を求め続けた帰結としての事実だったの
です。そのいきさつはこうでした――。
ドラマでは成沢泉として登場した、日本女子大学創設者・成瀬仁蔵(なるせ・じんぞ
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あさ 広岡浅子の真実
う)との出会いが、大きなきっかけです。成瀬は当時、牧師でもありました。その出会い
は、浅子が四十六歳の頃。それは、事業家としてあぶらの乗りきった、しかしまだまだ本
業の事業も安定していない時期でした。そんななかで情熱を傾けて、女子大設立に尽力し
たのです。それから十年以上経って、浅子はクリスチャンになったのですね。
天はなお自分にいのちを貸した
六十歳になる年のはじめ、浅子は乳癌(がん)の手術を受けました。実は三十歳過ぎ
から胸にしこりがあったのです。
手術の前に浅子は、事業について引き継ぎをし、心にかかることの処置もして「死ぬ準
備」をしました。麻酔で意識を失う瞬間、「心の雲が 全て晴れ、何 ものに も犯されない
『偉大な力』を感じた」といいます。手術は成功し、目覚めた時、「天は、なお何かをせ
よと自分にいのちを貸した」と浅子は感じたのでした。
「偉大な力を再び味わいたい……あるいはこれが、人の言う神ではないか」と思い、こ
の時から、神にあこがれを覚えるようになったのです。
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あさ 広岡浅子の真実
そんな時、ある会合で成瀬と再会します。女子教育を巡る議論になり、そのとき成瀬
は、隣にいた大阪在住の牧師、宮川経輝(みやかわ・つねてる)に、「このお婆(ばあ)
さんはどうも仕方がない。君教育してくれんか」(これは浅子が自伝に用いている表現で
す。ユーモアのこもった言葉です)と言ったのですね。それがきっかけでした。
数日後に牧師の宮川が訪ねて来ました。共通の話題から話をするうち、宗教や、今日
でいうとスピリチャリティの話題になります。宮川は、こころの通わないような理屈だけで
あなたは満足できるのですか?と問いかけます。そして、これまでそういう問題を学んだこ
とがないのだから、謙遜な生徒になって学んだらどうかと勧めます。浅子の求道生活が始ま
りました。もちろん、ドラマのなかで何事についても、「なんでどす?」「なんでどす?」と連
発したように、宮川牧師に質問をして、納得がいくまで追究したことでしょう。
教会の礼拝で、牧師が説教を話すのに、「罪人(つみびと)」という言葉が出、「不正な
ことをした覚えのない人に失礼だ」などと思ったと、正直な気持ちを記しています。しか
し、牧師が神に向かって祈る言葉を聞く時に、神がいらっしゃることが本当でないならば、
あんな言葉は出せないと、心に深いものを覚えたのでした。
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あさ 広岡浅子の真実
それで一生懸命自分も家で一人、祈りを試みてみるがうま
く行かない。そこで宮川に、どうやって祈ったらいいか質
問するのですね。宮川は浅子の話を聞き、「幼い子ども
がお父さんに甘えてものを言うように、あなたの心にあ
る願いを言ったらどうか」と勧めます。それが浅子のこ
ころに響いたのですね。なぜなら、それまで人に甘えた
経験がなく「父も母も、夫までもが私を頼りにしていたか
ら」というのです。
祈って神様が分かり、新しい生涯に入る
づいて一生懸命やっていました。日本でもそうです。その伝道を通じて、庶民階級の人々
めに、今日でいえばボランティア活動や社会福祉事業ですね。それをキリスト教精神に基
す。救世軍はイギリスで産業革命の時代におこりました。困窮のなかに置かれた人々のた
そんななか、救世軍のリーダー、山室軍平(やまむろ・ぐんぺい)の指導も乞うていま
写真提供 大同 生命
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道を捜す後輩 一柳満喜子
る、朝霧の晴れる様子や、山鳩の歌、うぐいずのさえずりが、違うものに感じられたとい
うのです。そんな信仰を残る生涯、こころに抱いて生きた浅子でした。
浅子は宮川牧師から洗礼を勧められ、洗礼式(バプテスマ)は孫のような年齢の若者た
ちと一緒に授けられました。浅子はそれを喜びます。なぜなら、「新しいいのち」を頂い
て、「これからの生涯を神に捧げ」て生きると思っていたからです。牧師も、これまで浅子
が成し遂げたことを神に感謝し、これからも過ちなく、世のため人のために生きられるよ
うにと、祝福を祈ってくれました。
社会で活躍する女性の後輩、満喜子のこと
さて浅子は、「女の子に学問は必要ありません」と阻まれて悔しい思いをしました。し
かし独学を続け、学びを自らの生き方や仕事に活かしたのです。女性の社会的地位が低い
なかで、女性も一人の人間として尊重され、男性と共に、社会で活躍していくことを願い
ましたが、目をかけた後輩たちのなかからそのような人材が続々と登場しました。
その一人が、今回紹介する一柳満喜子(ひとつやなぎ・まきこ。一八八四~一九六九
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道を捜す後輩 一柳満喜子
年)です。浅子より三十五歳も若い人生の後輩です。東京で生まれ、結婚後は滋賀県近
江八幡市で、大正から昭和四十年代まで、教育者として活躍しました。
浅子が商家の娘であったのに対して満喜子は華 族(子爵=ししゃく)の娘です。しか
し、浅子が時代の波に翻弄(ほんろう)されて、そのなかで自分の道を切り開いていったの
と同様に、満喜子も、教育事業を通して自らの使命を達成していきました。
満喜子は、ウィリアム・メレル・ヴォーリズ(一八八〇~一九六四年)の妻としても知
られます。ヴォーリ ズは、関西 学院大 学キ ャン パス(兵 庫県)や、大 阪の 大丸心 斎橋
店、東 京・山 の上 ホ テル、多く の 教会 堂 や個 人宅 など、全国 千 以上 の 名建 築 があ る
ヴォーリズ建築事務所でその名を知られます。アメリカから一九〇五年(明治三十八)
に来日した時は二十四歳の若さでした。
結婚は、ヴォーリズが三十八歳、満喜子は三十五歳の時です。当時としては晩婚です。
夫婦で終生、近江八幡を本拠地に活躍しました。ヴォーリズは、建築だけではなく、塗り
薬「メンソレータム」(現・メンターム)の近江兄弟社、ヴォーリズ学園(旧・近江兄弟社
学園。幼稚園から小中高校を擁する)、ヴォーリズ記念病院、福祉事業など多方面の事業
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道を捜す後輩 一柳満喜子
の創設・経営者としても知られ、またパイプオルガンを弾きこなし、詩集を出すという多彩
な人物だったです。
華族に生まれ、深い孤独。兄が広岡家の婿養子となり……
浅子がいなければ二人の結婚はな
二人の結婚も異色のものでした。恋に落ちての結婚でしたが、結婚に至るまでの困難は
大きく、長い忍耐を強いられました。
実はその結婚に、浅子が大きく絡んでいるのです!
かったと言っても過言ではないでしょう。
何が困難であったか――。まず国際結婚自体が当時、たいへん珍しいものでした。しか
も、満喜子は華族の娘。それが、海のものとも山のものとも知れない平民と結婚すること
などあり得ませんでした――たとえ、事業で頭角を現しつつあったにせよ。満喜子の家族
もヴォーリズの家族も大反対したのです。そのなかで、浅子だけは、二人の後ろ盾となっ
てくれたのでした。
さてここで、満喜子と浅子の関係について説明しておきます。
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道を捜す後輩 一柳満喜子
ドラマでは、浅子の娘と東柳啓介(実際は一柳恵三)が結ばれます。実は、恵三は満
喜子の実の兄なのです。そして、婿養子として広岡恵三となり、浅子の采配(さいはい)
のもと、加島銀行頭取や、大同生命保険二代目社長などとして経営の責任を負っていまし
た。そんなわけで満喜子は女学生時代から、広岡家に出入りし、家族の一員としても暮
らしたのです。実はそのことが満喜子にとって、こころの安らぐことであると同時に、教
育者としての自らの使命感を見出すきっかけともなったのでした。
その辺りから話を進めましょう――。
満喜子は実は、深い孤独を感じる少女時代を送りました。そのことを最晩年に回顧し
ています。家柄が良いから、それで幸せというわけではない。人間、どんな境遇に生まれ
ても、苦しみや悩みがあるものだと思わせられます。そして、その苦しみが逆に、人生を
切り開くかぎになることもあるのだと……。
満喜子は生を受けて、東京の一柳家の邸宅に住んでいました。父、一柳末徳(すえの
り)は小野藩(現在の兵庫県小野市)最後の殿様だったのです。末徳は十八歳の時、廃
藩置県で子爵となりその後、東京に移ります。西洋文明にいちはやく関心を示し、結婚
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道を捜す後輩 一柳満喜子
という思いにまでなったのでした。
満喜子は幼時、ミッションの幼稚園に通いました(そのことも後日、満喜子が自ら幼稚園
をおこしていく伏線となったでしょう)が、官立の学校に進級していました。
そんな時代のことを満喜子は、「愛のない寂しい長いながい間でした。放課後、家に帰る
のが嫌な時は、校庭にひとり残って時間を費やしました」と記しています。「やっと校門を
出て進まない足で水道橋の上まで来ると、真っ正面に日没の太陽が真赤に西の空に燃えてい
ました。我に返って遅くなったことに気づくと……父の家に帰るのでした。しかし家には誰ひ
とり待つ人もなく、私は黙って夕食の膳に向かうのでした」。そのように、他のどの事柄よ
りも色鮮やかに、当時の心境を振り返っているのです。読むと涙が出そうになります。
十八歳の頃、東京を離れ関西の、兄の広岡家に身を寄せます。「愛をもって迎えてくれ
る兄の家は、その働きがいかにきつく、心遣いがいかに激しくても、私にとっては嵐吹く海
原から波静かな港に入った舟のような心地でした」
兄の家には、三歳、四歳、五歳頃の姪たち(そのおばあちゃんが浅子!)の家庭教師と
して招かれたのでした。実はそこでの体験が、満喜子の教育事業を志す発端となります。
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道を捜す後輩 一柳満喜子
姪らが、自分で歯を磨くことさえできない様子を見て、自分のことは自分でするようしつ
けます。夕食の準備に役割を与え、友だちと仲良く遊ぶことを教えました。後日、満喜
子が結婚して近江八幡に来てから近代的な幼稚園を作っていく、自分自身の教育原理とそ
の実践を温め始めていたことになります。神戸女学院一回生の、ピアノ科ただひとりの卒
業生となったり、日本女子大に勤めて給料をもらったのもこの時期のことです。
渡米して、実践的な教育の醍醐味を知る
満喜子は二十代半ばに近づいて、どんな縁談が持ち込まれても「理想の結婚、純潔の
生活、社会を清める活動力の単位としての家庭経営」といった言葉が口をついて出て(自
伝)、結婚に至らないのでした。
家族は満喜子にアメリカ留学を勧めます。留学先で、彼女のお眼鏡にかなう日本人留
学生と出会うかも知れないと思ったからです。その時点で満喜子はキリスト教を拒んでい
ました。なぜなら日本で訪れた教会で、宣教師に協力する日本人が、宣教師の「いいなり
になりすぎている」と感じていたからです(滞米中に洗礼を受けます)。
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道を捜す後輩 一柳満喜子
アメリカに渡って、英語で高校の学びをやり直すクラスの時代、小児麻痺(まひ)の少
女と同じ部屋で生活を共にしました。フローレンスの、「満喜子は私の髪をとかしてくれ
ない!」という叫び声が学校中に響きましたが、満喜子は屈しませんでした。フローレン
スは、不自由なからだであっても自分で髪をとかし、ドレスの破れを直せるように援助し
たいという満喜子のこころを理解し、二人は生涯の友となったのです。
奨学金を得てカレッジに入学。独立心の表れとして家に、仕送り辞退の手紙を送ります。
その道を探っている時に、教育者のアリ
ところがその後で腸チフスに罹(かか)り、奨学金を返上せざるを得なくなったのです。
アメリカでどうやって自立して生きていくか?
ス・ベーコンという人物が助けの手を伸べてくれました。
ベーコン家は日本と縁が深かったのです。両親は、日本からの留学生、大山捨松を四年
近くホームステイさせ、自分の娘同様大事にしたのです(捨松の盟友が、後に津田塾大学
をおこす津田梅子です)。父は、いちは やく奴隷制に反対を唱えた牧師でもあ りまし
た。アリスも、キリスト教に立脚した先進的な教育に燃えていました。
実はアリスは、満喜子が官立学校で学んでいた時代、その学校で教えており、「ヒトツ
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きよき宣教者 ヴォーリズ
ヤナギ」という長い名前が印象に残っていたのでした。満喜子はベーコンの要請を受け、そ
の助手として生活を共にすることになったのです。そこで満喜子は、母と共にいるような
深い安らぎを得たのでした。そして大自然に抱かれたキャンプ場で、さまざまな民族、境
遇の人々が、一緒に汗を流し、力いっぱい遊び、共に語り合うなかで育っていくような、
教育事業を主催・運営する。そんな実践的な学びを受けたのでした。
アリスのもとでの学びを皮切りに満喜子は、当時のアメ
リカが、信仰を背景として、黒人解放、女性解放、障害
者自立など理想に燃えている情勢を色濃く反映した最先
端の教育を実践していることに学び、採り入れて、近江八
幡での実践に活かして行くことになったのです。
古き良きアメリカから来た男
さて、ヴ ォ ーリ ズ の 話です。一 九 〇五 年(明 治三 十
八)、二十四歳の 時、アメリカから客船に乗り、ひと り
写真提供 公益 財団法 人近江 兄弟社
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きよき宣教者 ヴォーリズ
太平洋を渡って来日しました(航空便はまだありません)。横浜に降り立ち、汽車で目
的地の滋賀県近江八幡に向かいます。二月の寒い寒い日でした。知る人もいません。それ
からほぼ六十年 に及ぶ年 月、そ の小さな町に住み、人々に親しま れ、仕事をなし続 け
て、そこに葬られます。
背は高くなく、物静かな印象の人物です。しかし、心底陽気でちゃめっけたっぷり。終
生、近江八幡のことを「世界の中心」と呼んで愛します。そして、世界からの風を呼び込
んで、さまざまな事業を展開していくことになります。
音楽を好み文学を解し、一緒にいると楽しくなる名コミュニケータ ーでもありました。
テニスなども好きですし、魅力的な人物です。大きな理想に燃えて、顧客や従業員が幸
せになることを追究し、そんな経営を試み実践しました。実業人としての才覚も光りま
す。また機会があれば、いろんな側面をご紹介したいと願います。
さてヴォーリズは、古き良きアメリカからやって来た人物です。
昔、「大草原の小さな家」というテレビドラマがありました。雄大な自然のなかにある
小さな町。開拓者精神に生きる正直者の両親。町の人々や大自然とふれ合いながら育って
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きよき宣教者 ヴォーリズ
いく子どもたち。ヴォーリズが産まれ育ったのも、正にそのような風土です。
精神的なバックボーンをなしているのはピューリタン(清教徒)的なキリスト教の信仰で
す。アメリカ人「だから」キリスト教徒であるわけではありませんが、その影響抜きにア
メリカを考えることもできません(良くも悪くも)。
十七世紀、清教徒たちは信仰の自由を求めて、ヨーロッパから新大陸アメリカに渡りま
した。ヴォーリズの祖先も そんな人々の一員だったのです。最初 は東部に住んでいたの
が、子孫らは、フロンティアスピリットの風に乗って西に移住して来ました。ヴォーリズ自
身、日本に来るまでに家族と共に二回、北海道から九州に匹敵する距離の引っ越しをして
います。日本の小さな町にまで来たのは、その延長線上ともいえましょう。
家庭には敬虔な母の祈りと、父の果敢な挑戦者精神がありました。音楽と、のびのび
とした教育がありました。グランドキャニオンで、子どもたちだけで小屋を造り、キャン
プファイヤーをするのを許すような環境だったのです。町には天文学者もいるし、世界中
から著名人がやって来て、そんな人々と触れあう機会も多くありました。町の小さな教会
に通い、信仰について語り合います。ヴォーリズ自身、「幼少時代。心に深く入った最初
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きよき宣教者 ヴォーリズ
の印象が、音楽、信仰、自然であったことは幸福なことであった」と記しています。
経済学者マックス・ウェーバーは、「プロテスタ ンティズムの倫理と資本主義の精神」と
いう本で、ピューリタ ンの信仰抜きに近代的な資本主義は起こらなかったといいます。です
から、さまざまな事業や大きな社会のあり方が、カネ儲け第一の自己中心なものではな
く、「神の栄光を表す」ような、他者の幸福を願うものであるべきだという考え方はアメ
リカに脈々と流れています。ヴォーリズの時代はまだ、そのアメリカの理想が強く根づい
ていた時代といえましょう。
生涯を神と人のために生きる決意
ヴォーリズは大学生の時代、クリスチャン学生の世界大会に参加します。時あたかも、
中国で義和団の乱が終結した翌年です。この動乱は、欧米による植民地化への怒りが爆発
したもので、いわゆる「キリスト教国」と呼ばれる国々の悪事への強い批判がなされるべき
です。一方、民衆と生活を共にしながら、純粋な魂の救いを伝えた宣教師たちや、中国
人クリスチャンたちがいたのも事実なのです(その流れを汲んで現在、中国には地下教会
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満喜子とヴォーリズの結婚
もはや二人の間を妨げるものは何もありませんでした。
二人の結婚式は、ヴォーリズ自らが設計した明治学院のチャペルで、大きな祝福を受け
て執り行われます。その時に、メンデルスゾーン作曲の賛美歌(讃美歌三〇番)の節に、
ヴォーリズがつけた詩を友人らが歌って祝福してくれました。しかし、浅子が出席するこ
写真提供 大同 生命
とはありませんでした。なぜなら浅子はその半年前に、すでに世を去っていたからです。
◇
最後に、ヴォーリズが浅子の逝去を悼んで作った詩を紹介しましょう。
朽ちゆく家を脱ぎ捨てて あなたは行ってしまいました
知っています あなたが死に負けたのでないことを
あなたのいのちは終わらない むくろは夜に残されたが
あさに向かってあなたは旅立つ――
前向きで 志あつく語るあなたのこころは消えはしない
吹く風のように
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エピローグ
三浦三千春訳
灯りが消えゆき 悲しむ者らのただなかで感じる
あなたは近くにいてくれるのだ 悲しみや喜びを共にしてくれている
父に祈ってくれている 我らが緑の牧場に帰るのを
待ってくれている 祝福の再会を
さて、ヴォーリズの事業がまだまだ始まったばかりのなかで、結婚後に満喜子が教育事
業をおこすのは、何もかも準備され、計画され、歓迎されてであったのではないのです。
近江八幡の町に来て、親が仕事で忙しく、劣悪な環境のなかに放置されている幼い子ら
を見、自分の財布をはたいて小さな託児所を開いたのがその最初です。町の娘たちを家に
招き、一緒にからだを動かしながら、家事や教養や生きるこころがまえを教えます。それ
も私塾のようになっていきます。近江兄弟社の仲間として受け入れられていきます。最初
は敬遠していた町の人々も、だんだんと慣れ親しみます。
絶えず人々に囲まれて、仕事に飛び回るヴォーリズに、寂しい思いを感じたのも、しだ
いに和らいで行きます。アメリカからやって来たヴォーリズの両親も同居します。
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エピローグ
アメリカと日本が開戦する一年前にヴォーリズが、日本に帰化して一柳米来留(ひとつ
やなぎ・めれる)となったのは、満喜子のためでありました。戦時中、敵性人と白眼視さ
れ、食べる物も乏しい軽井沢に住まざるを得ず、そんな苦難を共にしました。
夫を亡くした後、最晩年にインタビューした女性作家はこう記します。「満喜子はあま
りに熱心に仕事をし続けたので、八十歳になってさえ、休憩時間をほとんど取らず、過去
を振り返る時間もなかった。しかし時々、とても疲れた時、姿は見えないけれども近くに
いるメレルが、笑いながら彼女の横を歩いているところを想像した……とにかくメレルを感
じることが彼女の慰めだった……」
二人の生涯について、その仕事や事業や生きざまの、失敗、試練、そして成功。またそ
彼らの限界は何なのか?
私たちが未来を築くた
の今日的な意義について、わくわくしながらお話ししたいことはあまりに多くあるので
す。彼らが夢見たものは何なのか?
め、彼らに学べることは何なのかを、共に語り合いたいのです。
彼らのロマンスについてもまた――。機会があればお話ししたいと思います。
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