Title Author(s) Citation Issue Date Type Hermann Hesse/Thomas Mann : Briefwechsel 青木, 順三 言語文化, 5: 98-102 1968-11-03 Departmental Bulletin Paper Text Version publisher URL http://hdl.handle.net/10086/9164 Right Hitotsubashi University Repository 98 の読者にとって,このような関心はけだし当 Hermann Hesse/ Thomas Mann: B7」(iブz〃66hs6Z 然であろう一にとって,これはやはり興味 のあるドキュメントである。 ヘッセに宛てたマンの手紙は全部保存され ているが,逆にヘッセからマンに宛てた手紙 はごく一部が残っているにすぎないという。 これは7マンの亡命後,ミュンヘンのマンの 青木順三 家の全財産がナチス政府によって没収され, 文書類もすぺて散逸したこと,さらにその後 本書は,1910年4月1日付でミュンヘン のマンの住居が二転三転を重ねたことによる のマンからヘソセに宛てた手紙(r太公殿下』 ものである。ここにも時代の波の激動が感ぜ 評に対する謝意を表したもの)に始まり,1955 られるが,この点では,すでに数年前に出版 年8月13日,つまリトーマス・マンの死の されたEmstBertramやPau1Amam宛 翌日,ヘッセがスイスの新聞のために書いた ての書簡集に比較すれば,一応往復書簡を名 「別れの言葉」に終わる往復書簡集である。 のれるだけでも,まだ恵まれた状態にあると 共に20世紀を代表するドイツ作家,しかも いえよう。 共に生涯の半ばにして故国を離れることをや 総数118通におよぶ全体を通じて,単なる むなくされ,さらに共にノーペル文学賞を得 家族の消息や儀礼の域を越えて,内容のある た作家であるヘルマン・ヘッセとトーマス・ やりとりが行なわれるのは,ほとんどすぺて マンの間の往復書簡集であってみれば,大き 外的な事情,ことに政治的な事情に関連して な期待を持ってこり本を手にしたとしても当 いる。その最初は,プ・イセン芸術アカデミ 然であろう。 ーの会員になることを懇請するマンの手紙 「われわれは大いに緊張して,いやほとん (1931・11・27)一ここでマンは,きわめて ど幾分かの興奮をもって,この往復書簡の出 r政治的な」考慮に基づいて,熱心に説得に 版を待望していた」一今年3月22日付『ツ 努めている一と,これに対する,ヘッセと ァイト』紙に掲載された書評の冒頭で,ハン しては珍らしくかなり厳しい調子の,きっぱ ス・マイヤーはこう書いている。だが7すぐ りとした拒絶の返信(1931・12月初め)であ 続けて,r本書が出版された今,この文通を る。ヘッセは,ここでワイマール共和国の実 読んで,われわれは幾分の失望を感じてい 状に対する不満と批判を述ぺ,戦争の罪を知 る」とも彼は書いている。すなわち,ここに らぬのみならず,戦争をしたとも負けたとも は深刻な思想的精神的対決があるわけでもな 思っていないような平均的ドイツ人の考え方 く,また創作の秘密をうかがわせるような記 が,いかに自分の今の気持とかけ離れている 録があるのでもないということなのである。 かを説くのである。ヘッセのこの厳しさは, このような批評はたしかに当をえていないわ 平和主義者としての彼が,大戦中に体験した けではないが,しかし,二人の作家の作品や 幻滅によって,すでに多くを学んでいたこと 思想に,ことにあの多難な時代に耐えた彼等 からくるものであろう。これに比較すれぱ, の,時代に対するそれぞれの対処の仕方に関 大戦中は保守的なr非政治的人間」であった 心を持つ読者一『荒野の狼』や『ガラス玉 マン,そして今は兄のハインリヒと共に迫り 遊戯』,また『魔の山』や『ファウスト博士』 来るファシズムとの闘いにのり出していたマ 99 ンは,はるかにオプティミストであったとい うべきである。 を表明したことは,すで周知のとおりである。 ところで,この書簡を読んだヘッセがマンに さて,1933年4月21日,今や故国に帰る 送った手紙(36・2.5、),およぴそれに対する 道を閉ざされたマンに宛てたヘッセの手紙は, マンの返信(36・2・9・)は,時局的な問題に 真の共感に溢れた友情の書簡であり,彼等二 対する彼等二人の対応の仕方の差が浮彫りに 人の間の心のふれ合いは,この時をもって始 されていて,実に興味深いものがある。ヘッ まったといえるであろう。 セは,まずつぎのように,かなり激しく苦憎 「あなたが現在おかれている状況には,わ たしは,いろいろな理由からひじょうに心 を述ぺるのである。これはマンにとっては, あるいは幾分意外な反響ではなかったろうか。 を動かされています。おそらくその理由の r……本来ならぱ,あなたにお祝いを申し 一部には,わたし自身,戦争中に,はなは 上げるぺきところでしょう。しかし,わた だよく似たことを体験したことがあずかっ しにはそれはできません。あなたが踏み出 ているのでしょう。この体験から,わたし された一歩に対して,わたしはいささかも は公的なドイツとはいっさい縁を断つこと 否定的な批判を述ぺるものではなく,そん にしたぱかりではなく,精神と文学との機 なことは考えもしません。しかし,わたし 能一般に関する自分の考えを修正すること は,あなたがこの一歩を踏み出したという になったのでした。今のあなたは,当時の ことを心底から残念に、思います。それは一 わたしとは多くの点で異なっています。し つの信条告白でした。一しかし,あなた かし,精神的体験は共通なもののようにわ の立揚は,すでに誰の目にも明らかだった たしには思われます。自分が大いに愛して のです。……あなたが,ドイツ国内の読者 おり,また長い間自分自身の血で育んでき たちに幾分変則な形で与えていた慰籍と激 たさまざまな観念に訣別しなけれぱならな 励という影響力は多分失われてしまうでし いということなのですから……。」 ょう。一このことは,双方の側にとって これに対して,ルガノの寓居から出された マンの返事には,彼がヘッセの言葉によって どれほど勇気づけられたかがよく現われてい るo この後約2年間に交されたかなりの数に上 る手紙では,ドイツ国内における状勢の逼迫 がうかがわれ,マンが抱いていた帰国の希望 は徐々に薄れて行く。彼はヘッセに宛てて, 『ヨゼフ』創作の仕事がいまやすっかり滞っ てしまった悩みを訴え,また今や政治的立場 を鮮明にすぺきではないかといった疑いを述 損失です。わたしもまた損害を受けたので す。わたしは一人の仲間を失いました。こ のことを,わたしは,まったくエゴイステ ィックに悲しみます。大戦中にはロマン・ ロランがわたしの仲間でした。これと同様 に,1933年以来,あなたがわたしの仲間 だったのです。わたしは,あなたを失うつ もりはけっしてありませんし,不誠実にな ることも容易にはありますまい。しかし, ドイツ国内において,わたしは作家として まったく一人ぽっちになりました。……」 ぺている。そして,36年2月3日『新チュー ヘッセは,何に対して苦情を言っているの リヒ新聞』の文芸欄編集者Korrodiに宛て だろうか。彼のrエゴイスティック」な孤独 た公開書簡の中で,マンが自分の政治的立場 の訴え。これは理解することができる。しか を公然と示し・ナチスドイツとの完全な別離 し,マンが政治的行動の世界に足を踏み入れ 100 たことに対する反対の響きが彼の言葉の中に なくともマンは一度もこうした事実にふれて あるとすれぱ,ここには,やはり彼等二人の いない。僅かに,ヘッセの『書簡集』の読後 間の政治に対する姿勢の違いが現われている 感を書き送った手紙(この手紙には後でもう と見るべきであろう。この非難に対して,マ 一度ふれる)の中で,ほとんどありえないこ ンは次ぎのように答えるのである。 「わたしは,どうしても一度は旗幟を鮮 明にしないわけにはいかなかったのです。 第三帝国に対するわたしの関係についてま だいろいろとあいまいなイメージがはびこ っている世界のために。さらにわたし自身 のためにも。けだし,このような行動が, もうずっと以前からわたしには必要になっ ていたのですからg……あなたと共に7ま たあなたと同じような意味で,わたしの決 意を遺憾に思ってくれる人もいます。しか し,わたしは適切な時機に正当なことをし たのだと考えています。……」 自分の行為が苦しんでいた人ぴとを勇気づ とのようにちょっと言及しているだけである。 なぜであろうか。簡単に答えることはできな いとしても,その理由の少なくとも一部は, 以上に引用した手紙にも現われている彼等二 人の姿勢の違いの中にひそんでいるように思 われる。 この間題に閾連して興味深い箇所がある。 今述べた読後感的な手紙の中で,マンは「政 治的な事柄について,わたしたちの意見がま ったく一致しているので安心し,またカづけ られる思いがしました」と書いているが,こ のいまさらのようにr安心し,力づけられる 思いが」したと書いている手紙の日づけが 1951年11月であることを考えると,裏返し ていえば,マンの方では,この時点において けたことは,殺到した手紙からも充分裏づけ すらヘッセと自分との見解の相違について, られるし,また無関心な人々に対しては,人 幾分の疑念を捨てきれずにいたことを示して 間の人格とか強固な信念とかいうようなもの いるとも考えられる。この間題がもっとも明 が,今でもまだ存在している一つの例を示し 瞭に現われているのは,r精神の政治化」に たことになるだろう,と彼は誇らかに,また 関する1945年4月のやりとりである。戦争 今や良心の安らぎを持って断言するのである。 の末期には,約3年間にわたって3音信が途 マンは財産の没収は当然のこととして予期し 絶えている。アメリカに移住したマンと,ス ている。しかし,市民権の剥奪と著書の発禁 イスにあったヘッセという事情を考えれぱ, が多分行なわれることになるだろうが,一方, これも当然であろう。そして,rアメリカの 「何事も起きないということも,ぜんぜん考 西部に漂着した,精神上のあなたの兄弟一 えられないことではない」と書いているのは, ないしは従兄弟」からヘッセ宛ての久方ぶり 当時のマンの希望的観測が顔をのぞかせてい の手紙が,この1945年4月8日づけのもの るというぺきであろう。 である。この中でマンは『ガラス玉遊戯』へ ヘッセの手元には,マンを疑めることによ の共感を語り,目下執筆中の『ファウスト博 ってヘソセを讃える手紙が読者から何度も繰 士』の計画を打ちあけたあと,『ガラス玉遊 り返して届いたようであり,ヘッセはマン宛 戯』の主人公ヨーゼフ・クネヒトの用語であ ての手紙の中でも何度かこのことに不快を表 るr精神の政治化」という言葉を引いて,そ 明している(たとえば47・7・3・あるいは53・ の内容についてはっきりさせたいと書き,次 3)。しかし,逆にマンに宛ててヘソセをけな ぎのように述ぺるのである。 す手紙は読者から来なかったのだろうか。少 101 「今日,生命あるものは何一つ政治を避 イツ知識人のエリートたちが,愚かしい虚 けて通ることはできないとわたしは思いま 偽の呼ぴかけに名を連ねるように多かれ少 す。政治を否定することもまた政治であり, なかれ強制された時のような揚合,精神的 これによって悪しき政治を行なうことにな 人聞は抵抗せねぱなりません。」 ります。 わたしたちがやがて生涯を終わる時,わ たしたちが短い生をうけたこの星の上では, 文学的に難点がなくはないものがいろいろ と生じることはあるにしても,一つのこと, この上なく忌まわしいあのこと,徹頭徹尾 汚らわしいあの一事だけはやはり存立しえ ず,われわれがカを合わせて排除し了せた のだという体験を抱いてこの世から別れて いきたくはないでしょうか。わたし自身, このような結末をもたらすのに,幾分か貢 献できたのであってほしいと思います。 一もし,あなたのいわれる“精神の政治 化”とは,このことであるとすれば一。」 この問題に関するヘッセの回答はこれだけ である。「はなはだしい違いはない」かどう か。少なくとも,マンがこの言葉を字句どお りに受け取ってうなずいたのでなかったこと はたしかであろう。アイロニーすら感じられ なくもない。 第二次大戦後のドイツ国内の状勢や民衆の 一般的動向は,マンにとってもヘッセにとっ てもきわめて腹立たしいものであった。この 間の事情について,二人は完全な共感をもっ て慨歎している。そして亡命先アメリカにも 安住できず,さらにスイスに移住したマンは, 54年3月26日,チューリヒ近郊によい家を 見つけたことを報告して,願わくは,これが 戦争中の歳月を,たとえぱ例のBBCの対 わたしの最終最後の住所になってほしいと書 独放送や講演旅行等々の活動に積極的に打ち き,rわたしの後半生には,放浪の旅が幾分 こみ,今やっとナチスドイツの破局を目前に 多すぎました」と述ぺている。政治の世界の しえたトーマス・マンの,この時期の昂揚し 喧騒から離れた静かなヘッセの境遇を羨む言 た気分が,行間から読みとれるような口吻で 葉はすでに早くからしぱしば繰り返されてい ある。ヘッセの立揚が,自分の立揚よりも るが,初期の頃にはなかば本気,なかばは阿 r自由と距離と不可侵とを保証する」(36.a 談,加うるに一抹の非難のニュアンスと感じ 9)ものであることを認めていたはずのマン られても,最晩年のこの頃には,同一の言葉 が,ここではヘソセに対して,「精神の政治 がもっと切実な感懐をこめて語られているよ 化」を否定してよいものかどうかと幾分短兵 うに思うのは,われわれ後世の読者の無用な 急な口調で懐疑的質問を投げかけているので 推量というべきなのだろうか。 ある。 最後に本書の編集について一言。版権の関 これに対して,ヘッセは,この熱っぽい問 係から,本書はズールカンプ,フィッシャー いかけからあっさりと身をかわしている。 という二大出版社が共同出版した形になって r“精神の政治化”の問題に関して,わた いる。・きわめて珍らしい例と思われるが,そ したち二人の考えには,おそらく,はなは れにしては編集の杜撰さが目立つ。さらに, だしい違いはないでしょう。……,外から, これは編者(Anni Carlsson)の人選に誤り つまり国家や将軍たちや,権力保持者たち があったというぺきなのか、ハンス・マイヤ から命令を受けたり,あるいは圧力をかけ ーが指摘しているとおり,注がはなはだしく られたりした揚合,つまり,1914年にド 不備であり,内容的には,到底r決定版」と 102 は認めがたい。あとがきもけっして水準が高 いるかもしれない。r想像力」の流れが外部 いものではなく,ヘッセとマンとの平行関係 的要因によってとだえたとき,ある激しい暴 を強調したいあまりの無理が目立つ。二の二 力によって流れが拉致されたとき,一つの空 人の作家については,同質性と差異との微妙 白が生じる。心的作用のあらゆる要素がこの な関わり合い一そしてこ.の関係は,両者の 空白を,空間を埋めようとして殺到する。こ この往復書簡そのものの中にも,すでに時折 れが,感情の正体である。r感情」も,単な 顔をのぞかせている一を究明することこそ, るごくありきたりの「感情」であっても,想 研究者にとって大きな,また興味深い課題で 像力以前には存在しない。 あるだろうに。 「想像力」のかわりに,r経験」・r推理」あ るいはr記憶」といった言葉で説明しうるこ Hermann Hesse l T五〇mas Mann: Bγ好側80ん3θZンSuhrkamp Ver1,S,Fischer とがらばかりではないか,という反論がr想 像」される。しかしr経験」ののちにr想像 ∼7er1, 1968。 力」がr経験」を土台ないし素材にして働く ある想像力説のために だけではない。r想像力」はr経験」以前であ る。歩いた経験のないもの,「アンヨ」なる 一G.バシュラール著 名辞すら初耳で,したがって彼にとって名辞 r蝋燭の焔』 ではないrアンヨ」をする赤児を動かすカは r経験」以前である。人はここで「本能」を 持ち出す。しかしr本能」を本能たらしめる 河村錠一郎 のはr想像力」である。赤児は,右足を一歩 前へ出したらどうなるか「想像」する。その まず,筆者の独言から一 r想像力」ほどやっかいな代物はない。が, 時,彼は自分と空間の関係をr関係づけ」よ うとしているのだ。 これがなければ,人間は一歩も進めない。飛 「想像力」をもっとも豊かに持つものは詩 行機の発明以前に,ヒコーキなる映像が想像 人である。r詩」はr想像力」の産物だ。そ されていたからこそ,ヒコーキは飛行機とし れは「創造力」の産物だ,というに等しい。 て存在しうるようになった。r詩」はr科学」 r想像力」一r創造力」,これは日本語の美し に先行する,といった類の,このような高遙 い勝利の一例であり,日本人のr想像力」の にして平々凡々たる事柄を,いまさら繰り返 みごとな開花の一つである。なぜなら,言葉 すこともない。勤め先きからわが家へ向かう こそ想像力最大の産物なのだから。もう一度 人間の足取り,ただ歩くだけの動作,それさ つぎのことばを繰り返して,この独言をひと えr想像力」なしには行なわれえない,とい まず打ち切りたい一その時,彼は自分と空 えぱ,奇を街っているだろうか。この右足の 間の関係をr関係づけ」ようとしている。 一歩は,次なる左足の一歩を導くと人はr想 像」する。あの角を左へ曲がれば赤いポスト さて,G.バシュラール著渋沢孝輔氏訳の がある,とr想像」する。帰巣本能を形づく 『蝋燭の焔』は,詩人の魔力であるr想像力」 っているものは,こうして,他ならぬ想像力 の正体を明かしてくれるかのような,それこ である。そこにわが家がある,と想像して足 そ世界の秘宝の埋蔵してある,隠された金庫 を運ぶ。が,昼火事で跡形もなく消え失せて の鍵を与えてくれるかのような,魅惑の光と
© Copyright 2024 ExpyDoc