﹁河越抹茶﹂ブランドの 確立、そして

抹茶フリーク〝十吉〟が行く!
﹁河越抹茶﹂ブランドの
確立、そして⋮
(同上)
埼 玉 県 川 越 市 ︱ 蔵 の 街、 ま た﹁ 九
里 四 里︵ 栗 よ り ︶ う ま い 十 三 里 ﹂ の
㈱十吉
さつま芋の特産地として知られるが、
近年にわかに注目されているのが同
市周辺で生産される抹茶﹁河越抹茶﹂
(埼玉県狭山市加佐志 201 ☎ 04 ‐ 2959 ‐ 1815)
狭山碾茶工房 明日香
︵商標登録申請中︶だ。
すでに市内の飲食店など約150
店が﹁河越抹茶﹂を使用して商品化、
川越の新たな特産物としてブランド
の確立をめざしている。
そ の 活 動 の 中 心 に い る の が、 布 目
雅人さんと林真太郎さんという2人
の若者だ。
か つ て 武 蔵 河 越︵ 現 在 の 川 越 市 周
辺︶は天下の茶処として知られてい
たという。
平成に﹁河
銘茶﹁河越茶﹂にならい、
越抹茶﹂として蘇らせた彼らの取り
ページ参照
NPO 法人「河越抹茶の会」
▼河越抹茶パンフレット。
黒の表紙は蔵造りの街をイ
メージしたもの
が﹁河越︵川越︶藩領﹂だったと
いわれている。
大正 年の市制施行時の市域は
現在とは異なり、昭和 年に9ヵ
広まって、宇治茶に劣らぬ品質の
茶の製法を確立し、生産が盛んに
村が合併し現在の川越になった。
開く﹂とは一度閉じた茶作りを再
る が、﹁ 重 闢 ﹂ す な わ ち﹁ 重 ね て
れた﹁重闢茶場碑﹂が残されてい
出雲祝神社︵入間市宮寺︶には
天保3年︵1832年︶に建立さ
後述する川越出身の抹茶フリーク
抹茶﹂として現代に蘇らせたのが、
て河越茶を新たなブランド﹁河越
立ち上げ、こうした歴史を紐解い
NPO法人川越PLUS︵後に
N P O 法 人﹁ 河 越 抹 茶 の 会 ﹂︶ を
河越茶の石碑
の2人、布目雅人さんと林真太郎
開することを意味している。
さんである。
郷︶
﹂と
江戸時代後期には現在の狭山
市、所沢市、上福岡市の一部など
領土が点在。
呼ばれ、鶴ケ島市、日高市などに
河 越 は﹁ 河 越 荘︵ 河 越
を誇った鎌倉時代や南北朝時代の
市域を指している。河越茶が全盛
旧河越領とは、かつて河越︵川
越︶と呼ばれたことがある領土や
られたものと定義づけられている。
された高品質の茶葉を厳選して作
とし、それらの茶園で丁寧に栽培
中心とした﹁旧河越領内茶園限定﹂
なお﹁河越抹茶﹂は埼玉県西部
地区︵川越、狭山、所沢など︶を
のである。
て復活させる経緯が記されている
退していった河越茶を狭山茶とし
おり、戦国時代の混乱とともに衰
碑は﹁州の北、河越の野に狭山
あり∼﹂という一文から始まって
なっていった。
狭山丘陵から加治丘陵にまたが
る茶の栽培に適した地域に急速に
川越︱河越茶︱河越抹茶について
人気を博した宇治茶は江戸にも
運ばれるようになり、やがて江戸
ようになった。
江戸時代中期になると、宇治の
永谷宗円によって煎茶が作られる
消滅していった。
ともに茶産地も荒廃し、その名も
その後、戦国時代になって栽培
していた寺院、武士が衰退すると
土している。
天目茶碗、茶壷、茶入れなどが出
河越館跡からは石臼︵抹茶を作
る 際 に 使 わ れ た と さ れ て い る ︶、
まっていったと考えられる。
が茶を嗜み、以後栽培や製法が広
平安時代末期には現在の川越市
上戸に館を構えた有力武将河越氏
碑も現存している。
で栽培したという説があり、その
た際に京より茶を持ち帰り、境内
中院には最澄の弟子であった円
仁がこの寺を創設︵830年︶し
ている。
無量寿寺︵現在の中院︶が記され
居寺、駿河の清見寺、武蔵河越の
仁和寺、大和の室生寺、伊勢の河
当時、茶産地形成の役割を担っ
たのが寺院であり、京都の栂尾、
記されている。
茶の産地として﹁武蔵河越﹂が明
河越茶に関する記述は南北朝時
代﹃異制庭訓往来﹄に初見され、
(埼玉県川越市小仙波町 4 ‐ 16 ‐ 8 ☎ 049 ‐ 270 ‐ 7213)
に近い狭山地域で河越茶が復興。
30
11
組みを紹介する。
カラーは
取材協力
河 越 抹 茶 の リ ー フ レ ッ ト。
観光案内所等においてもらっ
ている
61
104
2016.4 製菓製パン
2016.4 製菓製パン
2016.4 製菓製パン
105
33
和菓子編
和菓子編
▲
▲