ベートーヴェンのサポーター~クァルテットの献呈先を手掛かりに - So-net

ベートーヴェンのサポーター~クァルテットの献呈先を手掛かりに
(3月21日
Phoenix Hall)
Ⅰ:ベートーヴェンをサポートしたヴィーン
ベートーヴェンがボンから出て来た 1790 年代はじめ頃のヴィーンの人口は、城壁内は 5
万 5 千人で、12 の門の外を含め 20 万人(1830 年には 31 万 7768 人まで増加)。1782 年に
は、公爵プリンスが 21、伯爵カウンツが 70、男爵バロンが 50 家族で、総計約千人ほど。
1780 年代の改革で官僚制と経済の中心地になり始めていたといえ、聖職者を除く貴族(所
謂第二階級)と勃興する富裕中産階級(首都に於いて富を蓄積した平民で、19 世紀に入る
とビーダーマイヤーと呼ばれる)を合わせても、ヴィーンの上流階級は人口の 1%ほどの
2611 人であった。
既にハウスカペレ(宮廷楽団及び貴族が個人的に団員を雇用する楽団)の最盛期は過ぎて
いた。ハウスカペレに代わって、サロンが音楽の評価への影響力を増大させる。音楽聴衆
の 3 割が、中産階級のアマチュア音楽家やサロン主催者だったという。
1796 年のヴィーン上流階級音楽界(アマチュア音楽家、音楽パトロンなど)は総計で 164
名とされる。判明する限りの内訳は以下。
貴族:王族(Prinz)3 名、伯爵ら上位貴族(Marquis,Greve)19 名、男爵 1 名(ズヴィーテ
ン)、総計 23 名
下位・準貴族:男爵(Baron)8 名、男爵(Freiherr)6 名、準貴族(von) 66 名、総計 80 名
平民:宮廷官吏、医師、教授、法律家、画家、建築家、知識人ら 16 名、実業家 3 名、音楽
家 64 名
Ⅱ:ベートーヴェンから献呈を受けた人々
我々が普通手にする印刷楽譜の頭に、しばしば献呈の辞が書かれている。例えばベートー
ヴェン作品 18 なら、"Dem Fürsten Franz Joseph v.Lobkowitz gewidmet"とある。
初期から中期のパトロン貴族たちから、後期は友人や恩人へと、献呈相手がかわっている。
作品 18 ロブコヴィツ公爵 Fürst Franz Joseph v.Lobkowitz (cf 作品 18 の1未出版初稿は
当時ロブコヴィッツ邸に出入りしていた友人のカール・アメンダ Carl Amenda)
作品 14 の1弦楽四重奏編曲版 宮廷劇場監督夫人ジョセフィン・フォン・ブラウン Baronin
Josefine v.Braun
作品 59 ラズモフスキー伯爵 Graf Andreas Kyrillowitsch Rasumowsky
作品 71《ハープ》 ロブコヴィッツ公爵 Fürst Franz Joseph v.Lobkowitz
作品 95《セリオーソ》 ズメスカル男爵 Nikolaus Zmeskall v.Domanovecz(友人のチェロ奏
者)
作品 127、132、131 ガリツィン公爵 Fürst Nikolaus v.Gallitzin (cf 作品 133 として別に出版
された《大フーガ》は、ルドルフ大公 Cardinal Erzherzog Rudolph)
作品 131 シュトゥッターハイム男爵 Baron von Stutterheim
(甥カールが属した連隊の中将)
作品 135 ヴォルフマイヤーJohann Wolfmeier(友人の商人でアマチュア音楽家、唯一の平
民)
cf
交響曲第1番作品 21
交響曲第2番作品 36
交響曲第3番作品 55
ズヴィーテン男爵
リヒノフスキー公爵
ロブコヴィッツ公爵
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Ⅲ:演奏でサポートした人々
イグナーツ・シュパンツィック(1776 年-1830 年) 上京直後の作曲者のヴァイオリン教
師を務め、実質上ほぼ全ての弦楽四重奏曲を初演。世界ではじめて弦楽四重奏の演奏で飯
を喰った音楽家とされる。
ヨーゼフ・ベーム(1795 年-1876 年) ロシア滞在後、すっかり肥満してしまった晩年のシ
ュパンツィックより、作曲者からの信頼が篤かった。作曲者没後に作品 131 を私的に初演
する。若きヨアヒムを家に住まわせて教える。現代に至る弦楽四重奏団の系譜の最初にあ
る人物。
《別紙参考資料》
※1790 年代及び 1800 年代ヴィーンの主要音楽パトロン一覧(Tia DeNora"Beethoven and the
Construction of Genius" University of California Press 1995, pp20-23)
注:爵位(英独表記)の日本語訳は以下
Archduke, Erzherzog 大公(ハプスブルク家男子成員)
Prince, Herzog
公爵
Fürst, Markgraf 侯爵(君主が家臣に与える最高位爵位)
Count, Graf 伯爵
Countess 伯爵夫人
Baron, Freier Herr
男爵
Mme. 夫人
※1800 年頃のヴィーン地図(The Hebrew University of Jerusalem & The Jewish National
&University Library)
《サウンド資料》
※レオポルト・アントン・コジェルフ(Leopold Anton Kozeluch チェコ語表記 Leopold
Antonín Koželuh、1747 年プラハ近郊~1818 年ヴィーン)
モーツァルトがザルツブルクからやって来る3年前の 1778 年にプラハから帝都に上京、
最
初期のフリー音楽家として人気を博す。1791 年にモーツァルトが没すると、その後任とし
て新たに帝位に就いたレオポルドⅡ世の宮廷作曲家となる。100 作以上のクラヴィーア作
品があり現在でも時折演奏される。「ヨーロッパで最も人気ある現役作曲家」と称されて
いた頃の 1790 年から翌年に書かれた6曲から成るコジェルフ唯一の弦楽四重奏集作品 32
及び 33 は、「ヨーロッパ中で知られる」と当時の文献にあるが、今では殆ど知られていな
い(現在でも楽譜入手可能)。所謂 quatuor concertant のひとつの典型例。
・弦楽四重奏曲 変ロ長調 作品 32 の1(1790)
※パヴェル・ヴラニツキー(Paul Wranitzky チェコ語表記 Pavel Vranický、1756 年モラヴィ
ア地方ノヴァージーシェ~1808 年ヴィーン)
モーツァルトと同年生まれの親友で、多作な作曲家としても知られる。1785 年からケルン
トナートーア劇場、87 年にブルク劇場楽団監督となる。ベートーヴェンの第1交響曲の指
揮を担当する。弦楽四重奏も 70 曲以上書いたとされる。
・弦楽三重奏曲 ト長調 作品3の3(1793)
※ヨーゼフ・ヴェルフル(Joseph Wölfl、1773 年ザルツブルク~1812 年ロンドン)
1799 年にベートーヴェンが最後にピアノ対決をした相手。結果は弾き分け?
・弦楽四重奏曲 ハ短調 作品4の3(1798)
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