先日,南部郷厚生病院で看護師として働いている小池宜子さんから,全校生徒を対 象にお話をしていただいた。彼女は,緩和ケアのお仕事をされている。その経験から の話は,“生きること”について改めて考えるきっかけになった生徒も多いと思う。 小池さんは,今まで多くの講演をしてきたが,大人か高校生が対象であり,中学生を 対象にしたのは初めてだったとのこと。しかし,生徒たちが熱心に聴いていることが 小池さんにも伝わり,『実感のわきにくい話なのに,本当に良く聴いてくれて感心し た。』と講演会後に話をされていた。実際,生徒の感想文にもそのことがうかがえる 記述がたくさんあり,読んだ側もかなり感激した(学校だより11号に記載)。 さて,黒澤明監督の『生きる』(1952 年東宝)という映画がある。主人公は,役場 に勤める初老の男性。まじめではあるが,仕事を事務的にこなし,働くことに喜びや 生きがいを感じているという風ではない。その男性は,ある時,医師から余命数ヶ月 と宣告される。残された時間をどう使うか考えた主人公は,まじめに働くことをやめ てお酒を飲んだり,今まで蓄えてきたお金を様々な方法で使ったりする。 しかし,残された人生で,最後に彼が情熱の全てを注ぎ込んだことは,貧しい地域 に住む人々のために,小さな公園を作ることだった。彼は,難しい交渉の末,ようや く公園を完成させる。そして,ある晩,誰もいなくなったその公園のブランコに乗っ たまま息絶えていく…。 小池さんのお話の中で,人生の最期を看取った方々のエピソードがいくつかあった。 最期まで食べることにこだわりをもっていた人,自分一人では歩いて行けない場所に 「どうしても行きたい」と病院のスタッフに頼んだ人…人が最期に願ったことは様々 だった。一見すると,人は最期に自分自身のわがままを通そうとする様に思えるかも しれないが,そうではないと思う。人は最期に,少しでも社会の,あるいは他の人の 役に立ちたいと願い,その実現に向けて行動する場合が多いように思える。食べるこ とにこだわった人も,食べることで人間らしさを取り戻し,最期は家族のために尽力 した。また,看護実習に来た学生たちの為に,最期の力を振り絞って一人一人に声を かけた方も,「自分が少しでも何かの役に立つなら」という一心からの行動だった。 人は,最期に,「自分のやりたいこと,やりたかったことをしたい」と望むように 思えるかもしれないが,それはわがままを通そうとすることではない。そして,やり たいこととして最期に想うことは,『社会や他の人の役に立つこと』であることが多 い気がする。そのことは,人生の最期だけにあてはまることではない。何かの最後, 例えば退職や卒業,部活動の引退といった節目でも同じような気持ちになり,行動し ようとするのではないか?それが,人間らしさであるように思う。 ~H25年7月23日 1学期終業式講話より~
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