乳房とホルモン環境 名古屋市立東市民病院 副院長 小林俊三 乳房は、いうまでもなく育児のために乳汁 を産生分泌する臓器であるが、その構造と機 *1 スパート 女児の身長スパートは11歳、 体重のスパートは11歳3ヶ月 頃である。乳房は9歳頃に 肥大が始まり同じ頃にスパ ートを経て15歳でほぼ成人 型に達する。 ● 乳腺の発達 10代はじめの身長、体重の急速な増加を 能には多くのホルモンが関与している (図1) 。 と呼ぶが、これに 1年余り 「思春期スパート*1」 これらのうちでエストロゲンを除く他のホルモ 遅れて初潮が見られる。乳房も外見上はこの ンは、主として乳汁の産生と分泌という機能 スパートに伴って発育し、思春期中期には成 的側面に関与しているが、増殖と分化によっ 人型に達する。しかし、未産婦人では乳腺その て構造的背景を与えられるという意味で、エ ものの発達はなお未熟で、腺管の分枝や腺房 ストロゲンの直接的あるいは間接的な支配下 の形成も不十分のままに止まっている (図2) 。 にあるといえる。本稿ではエストロゲンの影 ● 妊娠・授乳と乳腺の発育 響を中心に乳房の置かれるホルモン環境を眺 めてみたい。 月経周期中は視床下部、下垂体、卵巣を結 ぶLH-RH−LH、FSH系によって調節されて いたエストロゲンとプ ロゲステロンは、妊娠 図1 乳腺の構造と機能に関わるホルモン が成立すると胎盤か 視床下部 GRF CRF らのHCGによって分 泌が促進され、高値 PIF を持続する。このよう ネ ガ テ ィ ブ フ ィ ー ド バ ッ ク 下垂体 なホルモン環境は妊 プロラクチン 娠の中期以降特に顕 甲状腺 LH FSH ACTH TSH 著になるが、そのこと T3 T4 コルチコステロイド ER 小乳管の分枝と腺房 副腎 エストロゲン の 形 成 が 促され て、 プロゲステロン 卵巣 インスリン 膵 によって乳腺には細 乳汁の産生と分泌の 乳房 準備が整うことにな る。実際の乳汁産生 GRF:成長ホルモン放出因子 PIF:プロラクチン抑制因子 ACTH:副腎皮質刺激ホルモン CRF:副腎皮質刺激ホルモン放出因子 LH:黄体形成ホルモン FSH:卵胞刺激ホルモン TSH:甲状腺刺激ホルモン ER:エストロゲンレセプター は出産後になって起 こることであり、何ら かの理由で妊娠を中 断せざるを得なかった場合には、この過程は 図2 思春期スパートと乳房発達 頓挫することになる。すなわち、生理的な意 体格のスパート 味での乳腺の完成は、最初の満期出産を経過 することによってはじめてもたらされるのであ る (図3) 。 離 散 値 ● 女性の一生とエストロゲンの消長 女性の内因性エストロゲンは、ほとんど30 初潮 歳前にピークに達し、その後は次第に低下し ていく。40歳代にはその低下はとみに顕著と 思春期前の乳房 9 11 年齢 13 未産婦人の乳房 乳腺の構造は未熟な段階に止まっている。 6 乳癌診療 TIPS & TRAPS なり、やがて閉経を迎える (図4) 。一方、標的 細胞である乳管上皮幹細胞におけるエストロ に低下していく」 というホルモン環境は、ER 陽 *2 発現は、エストロゲンレ ゲンレセプター (ER) 性の乳管上皮幹細胞にER 誘導反応を惹起す ベルが下がるとアップレギュレーションされる。 る。体位の向上、動物性脂肪の摂取などで相 ERを介するエストロゲンの作用は、プロゲス 対的にエストロゲン高値であることは、誘導さ テロンレセプター (PgR)誘導など細胞分化をも れたERを介してエストロゲン依存性諸反応を たらすものと、上皮細胞増殖因子レセプター 促進する。 誘導など細胞増殖をもたらすものに大別され このような状況にある乳腺とは、 (未知のし るが、このER発現促進によってそのいずれも かしおそらく多様な) 発癌刺激によって傷つい が亢進すると考えられている。 た幹細胞が、エストロゲン依存性に増殖する ● 環境要因依存性乳癌 *2 エストロゲンレセプター(ER) α、βの2種類がある。互い に相同性が高く作用機序も 類似しているがβの機能に ついては不明な点が多い。 本稿では主にαの機能を想 定して記述した。 のに好都合な場となっていることになる。 ● 乳腺の萎縮と乳房の下垂 一般に環境要因に依存して発生する乳癌は 閉経後乳癌であるとされており、実際に日本に 加齢とともに乳腺は萎縮し、乳房は下垂す おいて最近急速に増加しているのも閉経後乳 る。構造的には腺房の萎縮と間質の脂肪への 癌である。しかし、死亡統計はむろんのこと、 置換が顕著となる結果である。しかしそのよ 罹患率統計から見てもその乳癌が発生した最 うな乳腺でも、ER 陽性の乳管上皮幹細胞は残 初の時期は多くの場合40歳代と考えてよく、発 っており、組織学的レベルでは100歳になって 癌そのものが閉経後であるとは限らない (図5) 。 も乳腺症病変が確認されているなど、ホルモ 前述の通り、この時期の「エストロゲンが急速 ン依存性に増殖する能力はいつまでも保たれ ているのである。 図3 妊娠によるホルモン環境の変化と授乳期乳腺 ヒト絨毛性腺刺激 ホルモン(HCG) プロゲステロン エストロゲン 卵胞刺激 ホルモン(FSH) 黄体形成 ホルモン(LH) 月経 排卵 授乳期の乳房 妊娠 満期出産によってはじめて乳腺の生理的完成が得られる。 図4 年齢別尿中エストロゲン排泄値(西田1972) 図5 発癌から死亡までの経過模式図 (μg/dL) 50 初潮 閉経 前臨床期 術後補助 療法期 再発期 40 顕在期 エ ス ト 30 ロ ゲ ン 排 20 泄 値 潜在期 ?年 発癌 10 0 5年 手術 3年 再発 死亡 術後無病期間よりも発癌から初回診断までの期間の方が長い と考えられる。 10 20 30 40 50 60 70 (歳) 年齢 40歳代での低下が最も顕著である。 7
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