会津領主加藤明成改易をめぐる諸認識 三 宅 正 浩 上という﹁公式理由﹂を、表面上の理由であって真の理由ではないと のように、堀主水事件︵※加藤明成の家臣堀主水が、加藤家を出奔し 収︵ 改 易 ︶ し た。 そ の 原 因 を め ぐ っ て、 例 え ば 新 井 白 石 の﹃ 藩 翰 譜 ﹄ 寛永二〇年︵一六四三︶五月、幕府は、会津若松四〇万石の領主加 藤明成が病気を理由に領地返上を申し出たことを受けてその領地を没 加藤明成改易の事情についても、 ﹁公式理由﹂を表面上の理由として顧 すなわち、 を問題視し、 大名統制における幕府の恣意性を否定している。 明した。そして、大名改易が幕府の既定の方針の実現としてある見方 笠谷和比古氏は、大名改易の決定過程について、秘密主義ではなく 諸大名への事情説明を積極的に行って合意を取り付けていたことを解 決めてかかっている先入観にあると考える。 た後幕府に訴訟し、寛永一八年に堀主水の敗訴で決着した事件。いわ みないのではなく、むしろ積極的に評価しつつ検討していく必要があ はじめに ゆる会津騒動。︶との関わりが近世以来指摘されてきている。 し、その上で、領地没収の原因をどう考えていくべきなのかについて、 そこで本稿では、幕府の事情説明によるところの加藤明成改易過程 を、幕府側の記録に諸大名家の一次史料を組み合わせて分析して復元 る。 ことが原因であると述べ、現在に至るまで、事典類や自治体史等にお 近 代 以 降 の 日 本 史 研 究 の 分 野 に お い て も、 戦 前 に 斎 木 雪 村 氏 が、 四〇万石に代えても堀主水を処罰したいと明成が幕府に申し出ていた いても堀主水事件を領地没収の主因として扱ってきている。一方、会 ところが、史料的制約もあり、ABCのいずれの説も、後世の二次 史料を参考としながら類推されているのみであって、まったくといっ た。この三日の事情説明がいかなる内容であったのか、複数の史料を 寛永二〇年︵一六四三︶五月二日、領地没収の旨が加藤明成に伝え られ、諸大名に対するその事情説明が翌三日に江戸城において行われ されている状況である。 てよいほど実証作業はなされていない。特にBについては、明成によ ︵二九︶ ﹂に記されている内容は次の通 まず、幕府側の記録である﹁寛永録 りである。 つきあわせて復元していく。 加えて、これまでの諸研究の最も大きな問題は、病気による領地返 うかすら史料的に実証されていない問題がある。 る会津若松城の修築が本当に幕府に無断で行われたものであったかど 一 加藤明成改易に至る過程 従来の諸説の妥当性を考察しつつ、見通しを述べることにする。 4 津若松城の無断修築や、苛政による百姓逃散等を、領地没収の主因あ るいは原因の一つとする説も多い。現状、A堀主水事件説、B会津若 2 1 松城無断修築説、C領内苛政説、の三説を中心に、諸説が様々に主張 3 6 5 2014 年 12 月 人間発達文化学類論集 第 20 号 100 一、加藤式部少輔事、日頃病者ニ付而、大地之仕置等不罷成之間、 会津領差上度旨、達而訴訟ニ付而、色々御穿鑿之処、以誓詞右 申上之趣無相違之由重而就令言上、望之通り被仰付、雖然父左 馬助御奉公達テ茂仕ニ付而、名字為相続被思召、式部少輔嫡男 内蔵助、於石見之国壱万石被下之、御目見御奉公茂可仕、式部 所ニ石見へ可罷有由候 ・﹁山内忠義書状﹂ ︵三〇︶ 一、去三日朝、御用之儀候間昼時分登 城可仕候由松平伊豆殿ノ 奉書を以諸大名共へ就御触、令出仕候処ニ、 上様ハ御表へ不被 次に、この事情説明を受けた諸大名が記した史料として、鍋島勝茂 ︵肥 前佐賀三五万七千石︶・山内忠義︵土佐高知二〇万石︶・池田光政︵備 この内容は、在江戸の国持大名二二名と譜代八名に伝達されたと記 載されている。 世悴内蔵佐ニ於石見国御知行一万石被下候条、内蔵佐ニハ尚々 其上重而七ヶ条之御誓紙御理申上候条、無是非会津を被召上候、 従 権 現 様 於 与 州 御 加 増 被 遣、 其 後 従 台 徳 院 様 会 津 へ 被 遣 候、 其筋目故、左馬助跡職無相違式部少輔ニ被仰付候、然処、病者 為 成、御老中不残御出、酒井讃岐殿・松平伊豆殿御両人を以 被 仰出候ハ、加藤左馬助事、先年治部少輔逆心之砌就致忠功、 前岡山三一万五千石︶のものを紹介する。いずれも同じ内容を伝えて 御奉公ニも罷出、又者右之知行を以式部少輔を養候へとの 上 一、昨日、松平伊豆守殿より以御奉書被仰聞候ハ、御用之儀候条、 ・ ﹁池田光政日記﹂ 一、御城へ諸大名被召上、讃岐・伊豆両人シテ被仰聞候ハ、加藤 式部病者罷成、其上仕置能可仕と主心ニ不存候条、是非あいづ 三月十六七日比ニ御耳ニ立申候、上意ニ、左馬介関ヶ原ノ刻御 被 召 上 可 被 下 旨、 去 七 月 よ り 何 も へ 被 申 候 へ 共、 何 も 不 申 上、 加 増 被 下、 其 後 相 国 様 会 津 へ 被 遣、 其 後 左 馬 跡 式 部 ニ 被 下 候、 より御侘言申上候ハ、其見病身之儀候故、御奉公難成候条、御 知行之儀差上ケ申度由、御老中迄数度被申上候付而、被加御異 と 申 き つ と 御 奉 公 可 仕 処 ニ、 右 之 申 分 御 ふ し ん ニ 被 思 召 候 由、 此中御せんさく被成候、主きつと仕置仕、御用ニ立可申と不存、 二三年已前家来申分候刻も、式部りうんに被仰付候ニ、年はい 見候へ共、無承引、当年東国衆 御暇前之儀候条、当三月ニ右 之段達而御老中へ申上、別ニ存候子細も無之、病者故如此申上 其上病者故気力も無之、左候共家老ニ成共しかと仕たる者も候 拝領候条、せかれ儀者御奉公申上、名字を残申候様ニと被仰出候、 会津之儀被召上候、さ候て子ニ候内蔵助へ石見ニ而一万石被為 被遣置候、就其式部儀も御懇ニ被 思召上候処、未年も寄不申 ニ 病 者 故 御 奉 公 不 罷 成 由 申 上、 殊 ニ 家 中 ニ も 人 無 之 故 ニ 候 条、 見へにも罷出候へと被仰付候、弟民部せかれ二本松被召上、関 候、式部ハ内蔵介知行所ニて養性仕候へ、又内蔵介ハ折々御目 ハ主申次第にと上意にて、石見ニてせかれ内蔵介ニ一万石被下 候事、盗人と存候、此外別儀無之由せいしヲ仕上ケ申候、此上 ハヽ可申付候へ共、其も無御座候上ハ、過分之御知行被下罷在 此段何もへ御聞セ被成候由被仰渡候、式部儀も、息内蔵助と一 候通誓紙を以被申上候付而、其段被成 御上聞候へハ、親ニ候 左馬助、関ヶ原ニ而致御奉公候付而御心安被 思召上、会津へ 加賀守殿、其外各同座ニ而被仰渡候ハ、加藤式部儀、去年時分 御城罷出候様ニと御触付而、諸大名不残登 城申候処、御三 人之御老中井伊掃部頭殿・土井大炊頭殿・酒井讃岐守殿・堀田 ニ 罷 成 御 奉 公 難 成 候 間 知 行 可 令 上 表 よ し、 去 年 七 月 よ り 訴 訟、 いるが、内容の詳細さには若干の差異がある。順に掲げる。 意 ・ ﹁鍋島勝茂書状﹂ 少輔者彼知行所令在住、病気可致養生之旨也 8 9 7 99 三宅正浩 : 会津領主加藤明成改易をめぐる諸認識 東ニて少御知行被下由、此旨何もへ申聞候へと上意ニ候由被仰 一、於分国新関立事、無其謂、第一也 御改易御穿鑿之條々 捕事、右大将以来無其例事 令蟄居、至彼徒類令死罪、不其耳、鎌倉討手指遣、理不尽令戒 一、堀主水正数年進諫言処、不承引、剰依為罪科、立遁鎌倉御所 一、諸侍召使様為一人不致不足者無之事、且対公儀不忠之事 一、越後銀山出来候処、号分国無故出入之事 一、家来吉利支丹多有之、不穿鑿令訴舎事 渡候、掃部・大炊・かゝ・豊後・つしま其座ニ被居候 これら幕府側の記録および江戸城での事情説明を直接聞いた当事者 ︵鍋島・山内・池田︶の記録をつき合わせていくと、詳細は煩雑となる ので略すが、結論のみを述べると、問題となるような大きな齟齬はない。 そこで、これらの史料に基づいて寛永二〇年五月三日の事情説明に至 る経過を時系列に沿って整理すると、次の通りとなる。 ①寛永一九年︵一六四二︶七月に加藤明成が老中に対して会津領返 上を訴訟した。②老中は家光に言上することなく明成を慰留したが明 ま領地を保有するのは家光に対して盗人同然である、というものであっ がなく政務を執れない、家老に適任者がおらず任せられない、このま したことを咎めているが、堀主水の訴えを退けてその処罰を命じたの 文書としては不自然である。その上、五ヶ条目で堀主水一類を死罪に 寛永二十癸未五月二日 ﹄において小林清治氏がこの文書の内容を検討してその ﹃会津若松史 信 憑 性 に 疑 問 を 呈 し て い る が、 そ も そ も 文 章 表 現 的 に も 当 時 の 幕 府 の 右悪逆、一而咎因不可遁、改易被仰付、為堪忍分於石州一万石被 遣者也 た ︵池田光政日記︶。④③と前後して明成の訴訟が将軍家光の耳に入り、 は幕府である。そのことは、諸大名への改易事情説明の中でも言及し 成は拒否︵﹁被加御異見候へ共、無承引﹂鍋島勝茂書状︶︶した。③翌 家光が領地没収を決断した。⑤会津領没収が五月二日に明成に伝達さ ている︵池田光政日記︶ 。したがって、この﹁御改易御穿鑿之條々﹂は 年三月、明成は誓紙を提出して再び領地返上を訴訟した︵﹁重而七ヶ条 れ、三日に諸大名に対して江戸城で事情説明があった。 あることは明白である。 之御誓紙御理申上候﹂山内忠義書状︶。その誓紙の内容は、病気で気力 さて、もしも、明成に落度があって幕府が改易を企図し、明成から の領知返上という形式を︵強制的もしくは半強制的に︶とらせたとす 幕 府 が 自 ら の 裁 許 を 否 定 す る も の と な っ て い る こ と か ら も、 偽 文 書 で あり、諸大名の了解を取り付けようとした行為であったと解釈するほ 地収公の処置が如何ともしがたいものであったことについての弁明で 笠谷和比古氏は、この事情説明について、﹁この自発的な領地返上と いう異様な事態に対して、諸大名の疑念と動揺を鎮め、幕府として領 由を考察していくべきであろう。 上、まずは幕府の事情説明の内容を前提にして、明成改易の背景・事 が明成改易を企図して、明成に領地返上させた形跡が認められない以 明成が領地を返上した経緯については、確認できる史料から得られ る情報の範囲では、幕府の事情説明の通りと考えるしかない。幕府側 かない﹂と述べている。実際、この事情説明の内容が虚偽であること ﹁御改易御穿鑿之條々﹂は、近世期にすでにある程度流布し ただし、 ていたらしい。例えば、 近世後期に米沢上杉家において編纂された﹁定 るならば、この事情説明は虚偽であったことになる。 12 をめぐり、様々な憶測がなされたことを示唆している。 ︵三一︶ 勝公御年譜﹂に、ほぼ同文の文書が載せられている。明成の領地返上 13 を示す一次史料は存在しない。 ﹂所収の﹁加藤家 幕府の事情説明と矛盾する史料としては、﹁会津鑑 譜﹂に、﹁或る記に曰く﹂として、次のような文書が載せられている。 11 10 2014 年 12 月 人間発達文化学類論集 第 20 号 98 97 三宅正浩 : 会津領主加藤明成改易をめぐる諸認識 ︵三二︶ 一、祝言相極り、式部少輔拾壱ニ罷成候年、左馬助召つれ大坂へ 次に示すのは、加藤家に伝来した文書の一部である。 加藤明成改易の背景・事由を考える前提として、まずは、領地返上 以前の将軍家光と加藤明成の関係を押さえておく。実は、明成は家光 のはしもよこし候間、秀頼御目見前後唯今初ニ而候、此已後大 候ハ、主儀ハ太閤御取立之紛無御座候、其方儀ハ上様之御つめ 置候寺川久右衛門、私せかれにて候へ共、二人を指置左馬助申 二 加藤明成の立場と主張 のお気に入りであったことが確認でき、少なくとも家光が明成を改易 坂之地へ船をも付申間敷候、直ニなから川より可罷上候、殊ニ 罷越、目見をいたさせ、大坂より伏見へ罷上り、式部少輔ニ付 光の御咄衆として江戸城へ出仕していたことを述べ、明成が﹁将軍権 しようとしたとは考えにくいのである。野口朋隆氏は、加藤明成が家 16 力に極めて近い大名﹂であったと指摘している。 成候、万事上様をハ大事ニ奉存候式部少輔儀ハ、世間之取沙汰 大 坂 ニ 居 候 衆 よ り 書 状 之 取 か わ し も 致 間 敷 候 と 申 ニ 付 而、 大 坂 からの特別待遇の事例をいくつか抽出していく。 前ニ御沙汰も可有御座候間、責而御目不違候様ニと奉存、か様 御耳ニ悪敷立候ヘハ、不届者と御上意も可有御座候、又、御取 茶屋での相伴にあずかった。 御 座 候、 右 申 上 通 被 存 候 衆 も 可 有 御 座 候、 偽 り を 申 上 候 ハ ヽ、 座候間、何様ニも被仰付被召仕被下候ハヽ、誠ニ可申上様も無 ﹁加藤明成覚書﹂とする︶は、差出・ ﹁覚﹂で始まるこの文書︵以下、 宛先・年月日を欠くが、 文中で﹁忰内蔵助﹂と、内蔵助=加藤明友を﹁忰﹂ 何様ニも可被仰付候 は 毛 利 秀 元 と 共 に、 譜 代 大 名 に 加 え て そ の 場 に 招 か れ て い る。 六 月 と呼んでいることなどから、加藤明成が記したものであることが判明 する。かなり長文の文書であり、引用したのはその最後の部分となる。 一 四 日 に も、 譜 代・ 毛 利 秀 元 と 共 に 明 成 は 知 恩 院 門 跡 の﹁ 法 問 聴 聞 ﹂ に同席した。 文書全体の大部分では、関ヶ原合戦の際の加藤嘉明の活躍、特に徳川 など、家光からの特別待遇は変わっていない。 たかを強調している。そして、関ヶ原合戦の翌年に伏見城において家 で は、 明 成 自 身 は、 自 己 の 立 場 を ど う 認 識 し て い た の で あ ろ う か。 引用部分では、一一歳の明成が嘉明に連れられて大坂城で豊臣秀頼 記載され、引用部分に続く。 康から嘉明に﹁御代続候間ハ左馬助子孫ニ被為対悪敷被成間敷候﹂と の上意があり、嘉明の子︵明成︶を家康の婿とする旨が伝えられたと 同じく家光から厚遇されていたことが確認できるのである。 このように、加藤明成は、しばしば三家や加賀前田家と共に家光か らの特別待遇を受けており、同じく特別待遇を受けていた毛利秀元と 家康に対する忠功を詳述しており、家康の勝利にいかに嘉明が貢献し 翌寛永一九年︵一六四二︶にも、九月一六日、明成は三家・前田光 高らと共に登城し、増上寺での﹁万部御経﹂が完了した祝いを述べる 四月二五日に江戸城において勅使接待のための能が催されたが、明成 一︶、三月に堀主水が幕府に訴訟をおこして審 翌寛永一八年︵一六四 議・ 裁 決 が あ っ た が、 そ れ 以 降 も 家 光 か ら の 厚 遇 は 変 わ っ て い な い。 立之式部少義ニ而御座候間、所をも上ケ候ハヽ、万事仕置等御 明成は、同年五月一四日、家光が紀伊徳川頼宣邸に御成した際に三 家や前田光高・毛利秀元と共に数寄屋での相伴にあずかっている。同 ニ罷成候、又忰内蔵助儀者、御旗本ニ被為置、左馬助孫ニ而御 15 年九月一五日には、品川に御成した家光の供をし、再び三家らと共に 御 陣 之 御 供 ニ 参 候 迄 ニ 御 座 候、 其 段 大 坂 ニ 居 申 者 共 ニ 御 尋 可 被 領地返上以前の明成と家光の関係を確認するため、 ﹃江戸幕府日記 ﹄ から、寛永一七年︵一六四〇︶四月の江戸参府後の明成に対する家光 14 忠義を尽くしてきたことを述べ、﹁上様﹂=家光を大事に思う明成とし に目見した後は、嘉明の命によって大坂方とは縁を絶ち、徳川将軍に 寛永一九年から翌二〇年にかけては全国的に飢饉状況にあり︵寛永飢 実は、明成が病気であったことを示しているのかもしれない。この間、 れる。﹁か様ニ罷成候﹂と、すでに領地返上は申し出た後と読める表現 過程において、明成が幕府に提出した文書の下書き又は控えと考えら 以上の内容から考えて、﹁加藤明成覚書﹂は、明成が幕府に対して領 地返上を申し出た寛永一九年から翌二〇年︵一六四三︶の改易に至る ことに偽りはないと結んでいる。 明友は、家光の側に置いて召し仕ってもらいたいと願い、以上述べた にならないようにしたいと述べている。そして、嘉明の孫である息子 に支配してもらうことによって、︵明成を取り立てた家光の︶眼鏡違い もしれず、家光に取り立てられた明成としては、領地を返上して家光 ては、﹁世間之取沙汰﹂が家光の耳に入れば明成が家光から叱られるか たのかもしれない。今後、 史料の発掘によるさらなる考証が必要であ う な 加 藤 家 に お け る 君 臣 関 係 の 動 揺 が、 領 地 返 上 の 一 つ の 理 由 で あ っ る と い う 俗 説 は 否 定 さ れ る べ き で あ ろ う が、 堀 主 水 事 件 が 象 徴 す る よ う。明成の領地返上が堀主水の処罰と領地を引き替えにしたものであ ないのであるが、明成と重臣の関係が動揺していたことは堀主水事件 明成が、政務を任せられる家老がいないと主張したとされる点につ いてはどうであろうか。これまた直接的な証拠を示す史料は見当たら 病気が理由であった可能性は高いのではなかろうか。 いた。それにもかかわらず、明成は江戸に在府し続けていたのである。 饉︶ 、諸大名は幕府からの指示もあって帰国して飢饉対策に取り組んで が象徴しており、その動揺が事件落着後も継続していた可能性はあろ があり、最初に領地返上を申し出た際のものではなく、その後の幕府 ろう。 三 加藤明成領地返上行為に対する諸認識 ここまで述べてきた領地返上以前の家光と明成の関係、明成の主張 からは、幕府が明成に領地返上を促した︵強制力をはたらかせた︶ふ るから、と述べられていた。実際に明成の評判が悪かったのかどうか 明成を取り立てた家光の眼鏡違いということになり家光に迷惑がかか ﹁世 前章で紹介した﹁加藤明成覚書﹂では、領地返上の理由として、 間 之 取 沙 汰 ﹂ が 家 光 の 耳 に 入 っ て 明 成 が﹁ 不 届 者 ﹂ と さ れ た の で は、 しはうかがえない。やはり、明成の領地返上の申し出は、明成が自発 は未詳であるが、明成は世間の評判を気にしていたようである。この 再度言上したのである。 功を強調しつつ、家光のためを思って領地返上を申し出ていることを に慰留していたことが推測できる。それに対して明成が、父嘉明の忠 の通り、領地返上を申し出た明成に対して、幕府は思いとどまるよう との交渉中のものであろう。この文書の内容からは、幕府の事情説明 17 的に行ったと考えるのが妥当であろう。 で は、 明 成 が 自 発 的 に 領 地 返 上 を 申 し 出 た 理 由 は 何 で あ っ た の か。 幕府の事情説明によれば、明成が病気で気力がなく政務を執れず、家 老に任せられる人物もいないからとされている。 して以降、寛永二〇年の改易まで一度も国元会津に帰国していない事 明成が領地返上を申し出た寛永一九年に病気であったことを示す史 料は管見の限り見当たらない。ただ、明成が寛永一七年に江戸に参府 ︵三三︶ のミ迷惑ニ存候へ者、御上り被成候儀、目出度御事ニ奉存候 然石見ニ御父子様なから御座被成儀も可有御座かと奉存候而、是 ①一筆言上仕候、私儀今月二日ニ罷上り候、御前様石見より爰許へ 御越被成候儀、誠ニ目出度奉存候、私儀十方無御座候ニ付而、自 ︵尚々書略︶ ことに関連して次のような史料がある︵※便宜上、丸数字を付した︶。 18 2014 年 12 月 人間発達文化学類論集 第 20 号 96 95 三宅正浩 : 会津領主加藤明成改易をめぐる諸認識 被遣候ハヽ、権現様・台徳院様、左馬助様御忠節之段私存仕候 在無御座候間、若爰元ニ無御座、式部少様と御一所ニ何方へも ②一、若松御上ケ被成候刻、私罷上罷帰候節、路次にて恒川又右衛 門ニ私申候ハ、式部少様ハ所をも御上ケ被成候、御前様ハ御如 日に初めて石見国への暇を賜り、石見国へ赴いたが、翌年四月には江 江戸であると判断できる。明友は、寛永二〇年︵一六四三︶六月一二 めでたいと述べている。文脈から、﹁御前様﹂=明友であり、﹁爰許﹂= 成と明友︶が共に居続けるのではないかと案じていたがそうではなく ︵三四︶ 間、私壱人罷出、上様へ御目安ヲ上ケ、何様ニも可相果と存候間、 代比定でき、改易から五ヶ月後に記されたものということになる。 戸にいたことが確認できる。したがって、この書状は寛永二〇年に年 様﹂が石見より﹁爰許﹂へ来るとあり、 もしや石見国に﹁御父子様﹂ ︵明 候へ、右之通ニ申聞置候間、定而忘申間敷と奉存候 其段又右衛門聞置候へと両度迄路次にて蒙御勘当申なうも御座 ②の部分は、守岡と恒川又右衛門が寛永二〇年四月一六日に明成の 招請に応じて江戸に赴き、同月二八日に会津に帰国した際のことを述 19 汰御座候、御殿中にても右之通御沙汰御座候ニ付て、何より以 汰も式部少様御仕置御家中の御あてかいもよく御座候由、取沙 被成様ニ御奉公被成候様ニと、乍恐御尤ニ奉存候、世間之取沙 届可罷上と奉存、たゝ今まて逗留仕候、万事被懸御心御せひ不 も不便ニ奉存、右之仕合ニ御座候、又御前様御上洛之究りも承 され、国元の重臣たちには事後に伝えた可能性を示唆している。 恒川に語ったとする。明成の領地返上申し出は、江戸の明成主導でな 馬助﹂ ︶の家康・秀忠に対する忠功を幕府に訴える決意を帰国の道中で 明友も明成と共に江戸から追放されるようなことがあれば、嘉明︵ ﹁左 べ て い る。 江 戸 に お い て 明 成 か ら 領 地 返 上 の 件 を 聞 か さ れ た 守 岡 が、 加藤家家臣が世間の評判を気にしていたことがわかり、世間の評判を く な い ︶ こ と を 伝 え、 江 戸 城 内 で の 評 判 も 同 様 で あ る と 述 べ て い る。 気にして領地返上を申し出たとする明成の主張と共通していることは、 来何共可被成候間、此御ひめ様御捨不被成候様ニ御分別御極候 申上候間、御分別御肝要ニ奉存候、御前様御噂も一段と御殿中 非常に興味深い。加藤家側に、領内支配と家中統制に関して世間の評 それでは、実際、加藤明成の領地返上申し出を受けた改易は、諸大 名たちにはどのように受け取られたのか。 が非常に気がかりであったことが確認できる。 ④ の 部 分 の 末 尾 に お い て も、 江 戸 城 中 に お け る 明 友 の 噂 が よ い こ と を述べており、③の部分と合わせて、加藤家としては、改易後の評判 連が推測される。 とって芳しくない噂が流れた事実があるのか。領地返上の理由との関 にてもよく御取沙汰御座候由承候間、先以目出度奉存候、此等 ︵花押︶ 守岡閑栖 判を気にするような実情なりがあったのか、それとも実際に加藤家に 十月二日 と思われる。この書状に年代記載はないが、冒頭の①の部分で、﹁御前 の嫡男明友付きであり、改易後も明友に仕えて江戸または石見にいた 加藤明成の重臣であった守岡閑栖︵主馬︶が、同じく加藤家家臣の 毛利九郎兵衛に宛てた書状である。毛利九郎兵衛は、改易前には明成 毛利九郎兵衛殿 旨趣御披露所仰候、恐々謹言 様ニと奉存候、此御子様悪敷被為成候へ者と存仕、涙ヲなかし たもとニ御座被成候ハヽ、以 ④一、八ら様御事、︵中略︶御前様御は 目出度奉存候 21 ③の部分の後半では、守岡が﹁世間之取沙汰﹂について述べており、 明成︵ ﹁式部少﹂ ︶の仕置や家中への宛行について、 世間の評判はよい︵悪 ︵中略︶ ③一、私儀、爰元早々罷上り度存候へ共、せかれおい共捨罷上り候 20 2014 年 12 月 人間発達文化学類論集 第 20 号 94 まず、改易の事情説明を聞いた鍋島勝茂は、﹁式部気替にても候ハん 哉、苦々敷儀と下々批判尤候﹂と述べている。領地返上を申し出た明 ている。いったい何を考えて明成︵﹁式少輔﹂ ︶が領地返上に及び、子 申候哉、天罰人罰共ニ相あたり候や、ためしすくなき事ニ候﹂と述べ 被召仕候家来之者共迷惑ニ及はせ被申候哉と諸人申事ニ候、気違と可 義は、﹁式少輔事、何たる分別にて右之通御訴訟被申上、子息又者久々 いることに同意を示している。また、同じく事情説明を聞いた山内忠 水事件と領地返上の直接的な関係を示す痕跡はまったくない。むしろ、 従来から疑問が呈せられてきたが、これまで考察してきた通り、堀主 まず、A堀主水事件説について、堀主水の処罰と引き替えに領地を 返上したという俗説は、事件から二年を経て改易となったことからも 張されている明成改易の理由について再検討を加えていく。 ここまで、限られた史料をもとに加藤明成の改易事情を考察してき た。これまで述べてきた内容をふまえ、はじめに紹介した現在多く主 おわりに 息や家臣たちに迷惑をかけることになったのかと世間の人々が噂して 明成改易後に両者が結びつけられて流布するようになったのだろう。 成︵﹁式部﹂︶の心境を訝しみ、明成の領地返上行為を世間が批判して いることを述べ、忠義は、明成の行為に対して、気が違ったのか、﹁天 もっとも、堀主水事件が象徴するような加藤家における君臣関係の 動揺が、明成領地返上の理由の一つであった可能性は残る。このこと 少ないことだと結ぶ。 に際して跡継ぎが幼いことを理由に領地返上を申し出た例などはある 例えば細川光尚︵肥後熊本五四万石︶が慶安二年︵一六四九︶の死去 たのかどうかを確かな史料を用いて検証することも今後の課題となろ である。そもそも本当に明成の会津若松城修築が幕府に無断で行われ た、あるいは問題化した事実は確認できない。この説は明らかな誤り 次に、B会津若松城無断修築説については、本稿で述べてきたよう に明成の領地返上を幕府側が促したふしはなく、無断修築が咎められ う。 だろう。 なったと理解できる。 こうした事情だったからこそ、笠谷氏も指摘するように、諸大名の 同意を取り付けるための幕府の改易事情説明は詳細を極めたものに い。苛政が事実であったとしても明成が直接主導したものではないし、 ︵一六四〇︶以降、明成は江戸に在府し続けていて国元に帰国していな ただし、明成は病気で領内支配ができないことを領地返上の理由と して述べており、寛永飢饉の最中、加藤家の領内支配が上手くいって 苛政が幕府に咎められた事実も確認できない。 藤家側も気にする状況が生まれていたのである。このあたりに﹁御改 いなかった可能性は残る。 さらにその領内支配の動揺が世間の噂となっ ︵三五︶ ていた可能性もある。それが、明成が自発的に領地返上を申し出た理 易御穿鑿之條々﹂のような偽文書が出回る素地があったといえよう。 しかしながら、それでもなお、明成の常識外れの領地返上申し出を うけた改易は、諸大名を驚かせ、世間に様々な憶測を呼び、それを加 最後に、C領内苛政説について、これまた幕府と加藤家の間で領内 苛 政 が 問 題 化 し た 形 跡 は 認 め ら れ な い。 先 述 し た よ う に 寛 永 十 七 年 の人々同様、鍋島勝茂や山内忠義にとっても信じがたいことだったの 認定済みであり、そのような状況で領地返上を申し出たことが、多く 明成の領地返上行為が当時の常識を大きく外れた行為であり、その ために世の人々が、その事情を様々に訝しんだことが判明する。当時、 23 が、明成の場合は、自身は壮年であり、世子明友も成人して幕府から を今後明確に区別して認識しつつ考えていく必要があろう。 罰人罰﹂があたったのか、と勝茂同様訝しみ、このような行為は例が 22 由の一つと考えられるかもしれない。 ︵ ︵ ︵ ︵ ︵ ︵三六︶ ︶ ﹃佐賀県史料集成 古文書編 第八巻﹄佐賀県立図書館、一九六四年。 ︵ ︵ ︶ ﹁山内家文書﹂長帳甲二四︵土佐山内家宝物資料館所蔵︶。 ︶ ﹃池田光政日記﹄山陽図書出版、一九六七年。 ︵ 結論である。加藤明成改易は、明成の自発的な領地返上申し出による ︵ ︵ ︵ をこれ以上深めることは史料的に難しいと思われるし、そこに大きな ︶ 近江水口加藤文書︵東京大学史料編纂所所蔵影写本︶。 ︶ ﹃江戸幕府日記﹄。 ︶ 野口朋隆﹃近世分家大名論﹄吉川弘文館、二〇一一年、二七四頁。 ︶ 藤井讓治監修﹃江戸幕府日記﹄ゆまに書房、二〇〇三年。 ︶ 前掲﹃会津若松史﹄第二巻。 ︶ ﹃上杉家御年譜 四 定勝公﹄米沢温故会、一九七七年、六七七頁。 ︶ 前掲笠谷﹃近世武家社会の政治構造﹄、三〇五頁。 ︶ 会津大系刊行会編﹃会津鑑一 会津史料大系﹄吉川弘文館、一九八一年。 21 20 19 18 17 16 15 14 13 12 11 10 9 ︵ ︶ 近江水口加藤文書。 ︵ ︶﹁柳営録﹂一九︵国立公文書館所蔵、内閣文庫一六三 一九二︶。 ︵ 世間の評判への懸念、があったと考える。ただ、明成改易の真相解明 明成の病気、家臣の︵明成の認識によるところの︶人材不足、そして ものと考えるべきである。そして、その領地返上申し出の背景としては、 ︵ ︵ 7 ︵ − ︶ 前掲﹁鍋島勝茂書状﹂︵﹃佐賀県史料集成 古文書編 第八巻﹄︶。 ︶ 前掲﹁山内忠義書状﹂︵﹁山内家文書﹂長帳甲二四︶。 ︶ ﹃江戸幕府日記﹄寛永二一年四月一〇日条。 ︶ ﹁会津旧事雑考﹂︵﹃会津資料叢書﹄会津資料保存会、一九一八∼二〇年、国 立国会図書館近代デジタルアーカイブを利用︶。 − 以上のように、これまでの諸研究で主張されてきた明成改易の理由 については、ほとんどが否定ないし修正されるべきというのが本稿の 8 学問的意義があるとも思えない。 むしろ、明成改易の理由をめぐって様々な諸説が、改易直後から偽 文書の創作も含めて流布し、近世中期以降の認識や近代史学に与えた 影響の大きさこそが、注目に値するだろう。この問題は、明成改易の ︵二〇一四年十月八日受理︶ 城下町の誕生│近世会津の開 幕│﹄。前掲大石学編﹃近世藩制・藩校大事典﹄。 房新社、一九八九年。前掲﹃会津若松市史 4 ︵ ︶ 笠谷和比古﹃近世武家社会の政治構造﹄吉川弘文館、一九九三年、第一〇章。 ︵ ︶ 国立公文書館所蔵、内閣文庫一六三 一九二。 ︶ ﹁人見私記﹂︵国立公文書館所蔵、内閣文庫一五〇 一一七︶もほぼ同文。 − 23 22 真相解明以上に、重要なのではなかろうか。 ︵ 4 註 ︵ 二〇〇六年。 社、一九九七年。﹃会津若松市史 城下町の誕生│近世会津の開幕│﹄会 津 若 松 市、 一 九 九 九 年。 大 石 学 編﹃ 近 世 藩 制・ 藩 校 大 事 典 ﹄ 吉 川 弘 文 館、 一 巻、 雄 山 閣 出 版、 一 九 八 八 年。 丸 井 佳 寿 子 他﹃ 福 島 県 の 歴 史 ﹄ 山 川 出 版 年。﹃新編物語藩史﹄第二巻、新人物往来社、一九七六年。﹃藩史大事典﹄第 ︶ 斎木雪村﹁会津騒動﹂ ︵国史講習会編﹃御家騒動之研究﹄雄山閣、一九二五年︶。 ︶ ﹃ 会 津 若 松 史 ﹄ 第 二 巻、 会 津 若 松 市、 一 九 六 五 年。﹃ 福 島 県 史 ﹄ 第 二 巻、 福 島 県、 一 九 七 一 年。 豊 田 武 編﹃ 東 北 の 歴 史 ﹄ 中 巻、 吉 川 弘 文 館、 一 九 七 三 ︵ 1 ︶ 前掲﹃会津若松史﹄第二巻。前掲﹃福島県史﹄第二巻。前掲豊田武編﹃東北 の歴史﹄中巻。前掲﹃藩史大事典﹄第一巻。﹃図説 福島県の歴史﹄河出書 2 ︵ 3 4 5 6 93 三宅正浩 : 会津領主加藤明成改易をめぐる諸認識 92 人間発達文化学類論集 第 20 号 2014 年 12 月 Views on the Confiscation of the Aizu Territory from the Feudal Lord Akinari Kato MIYAKE Masahiro In 1643, feudal lord of Aizu Akinari Kato forfeited his territory. This depends on Akinari’s proposal of return the territory and is not what the Shogunate aimed at. However, after the confiscation of the territory, too many views on this reason conflicted with each other. Therefore, it is necessary to think about the influence of this case on the basis of a clear understanding of a historical fact. ︵三七︶
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