①飛鳥大仏

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飛鳥の仏像シリーズ
飛鳥の仏像シリーズ
*飛鳥仏とはなに?
我国に仏教が伝来した頃(6C中)、朝鮮半島では高句麗・百済・新羅の三国が互いに
領土拡大で争っていたため隣国・倭の軍事支援を得ようと当時の最新技術を伴った仏教
文化を競って我国にもたらした。
当時の我国には仏像製作技術は無かった為に全て輸入品であったが同時に工人も渡
来してきており、彼らを師として技術習得し国産化が可能となってきた(7C初)
国産の金銅仏第一号が飛鳥大仏で鞍作鳥(くらつくりのとり)により製作され(606 年)、
これを止利様式としてこの様式の仏像及びその後初唐様式を取り込んだ白鳳仏を飛鳥
仏と呼んでいる。
*どんな特徴があるの?
当時の仏教文化は半島三国を経由して我国にもたらされたが、基本は中国で南北朝末
期に当っており北朝・北魏は分割され,南朝・梁~陳への移行期で朝貢(ちょうこう)
先の都合で高句麗は北魏系の仏像を、百済は南朝系の仏像を伝えてきた。
鞍作鳥は南朝・梁から百済を経由して渡来した帰化人の孫にあたり南朝・梁様式の技
術を習得していたと考えられるが、通説では飛鳥仏は北魏様式であるとされている。
これは中国で現存する南朝・梁様式の遺品が皆無で、北魏様式の仏像が多数あるため
に比較対象としているにすぎず、基本として北魏は胡人の建国で漢人文化を吸収する為
南朝の技術を採り入れており、北魏仏も梁様式を取り込んで製作されたと考えられます。
止利様式の特徴は①仏像の顔の輪郭が細長い②眼は杏子(あんず)の種形③唇は両端
反上り仰月型(ぎょうげつがた)、アルカイックスマイルとも称されている④耳が板状
⑤紳帯式(しんたいしき)結び目あり⑥裳懸坐(もかけざ)形成⑦鰭状衣文(ひれじょ
うえもん)等が挙げられる。
その後隋、唐により中国全国統一が久々に達成され、中国文化も成熟していくことに
なるが、全国統一の基本となった律令制を我国では遣唐使を通じて、これを導入すべく
大化改新以降律令国家の形成に努力していたが、同時に導入された仏教文化も我国の仏
像様式に大きい影響を与えたのは事実で初唐様式を国産化したのが白鳳仏で止利様式
とは大幅に変化しているのが認められる。
白鳳様式の特徴は正面観+側面観の二面性を持つ丸彫り、肉体表現も写実性が進み直
立不動から腰を振るポーズ像が多く、髪型も垂髪から宝髺へ、顔は面長から丸顔に、眼
は杏仁形から瞑想するような半眼に。衣も厚着から薄着へと変化してきており、典型的
な事例として法隆寺の救世観音(止利様式)と夢違観音(白鳳様式)を比較して頂けれ
ば一目瞭然でしょう。
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飛鳥大仏
*飛鳥大仏は誰が作ったの?
仏教は中国から半島三国を経由して伝来したが、当初は百済からの請来物としての仏
像と経典であったと考えられるが、半島との交流の中で仏教を信じる渡来人たちにより
仏教公伝以前にもたらされていたと考えられている。
継体 16 年(522 年)に渡来して明日香村坂田に住みついたとされる司馬達等(しば
たっと)が草堂に本尊を安置し帰依礼拝したのは渡来仏だったのでしょう。
司馬達等は鞍部村主(くらつくりのすぐり)の氏姓を与えられ娘の嶋を出家・修行さ
せ善信尼として我国最初の尼僧として仏教流布に貢献し、孫の鳥(止利)を仏像製作者
として育て我国の国産仏像製作の基礎を築いた。
鞍作鳥の代表作として飛鳥大仏と法隆寺金堂・釈迦三尊像が挙げられるが、法隆寺等
には「止利様式」と称される仏像が現存するが白鳳仏と並んで飛鳥の仏像を代表するも
のである。
*なぜ飛鳥大仏
なぜ飛鳥大仏と云うの?
飛鳥大仏と云うの?
飛鳥寺は推古 4 年に創建されたとされるがその後増設され三金堂一塔様式の壮大な伽
藍が完成するには推古 14 年とされ、この時期に作成されたのが鞍作鳥による我国最初
の国産仏・釈迦如来で創建時に建立された中金堂の本尊として祀られた。
この釈迦如来像は丈六仏と呼ばれる当時としては最大の金銅仏であったが、その鋳造
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法は全く記録に残されておらず不明で、150 年後の東大寺大仏からその製法を類推する
しかない。
丈六仏は高さが立像で一丈六尺=4.8M以上、座像で八尺=2.5M以上とされこ
れに当てはまる仏像を大仏と称している。
従って飛鳥寺の釈迦如来坐像は高さが3Mあるため飛鳥大仏と呼ばれている。
*飛鳥大仏は創建当時のものなの?
飛鳥寺の三金堂の中金堂に安置されますが、建物が先に完成していて後に製作された
金銅釈迦像搬入時の逸話が残されており、仏像が大きすぎ戸口から入らぬ為困っていた
ところ鞍作鳥が巧みに搬入し、推古天皇から褒賞として近江国坂田郡水田20町を賜っ
たと日本書紀にある。
東西金堂の本尊は敏達 13 年に鹿深臣(かぶかのおみ)が百済から請来した二尺の石
造弥勒像で創建時の中金堂から東金堂にうつされ、西金堂には壁掛けの刺繍丈六仏が完
成時に安置されていたとされる。
それ以後も飛鳥大仏は中金堂の台座からは動いてはいないが建久 7 年(1196 年)に火災
に遇い、その後何度も火を被っておりそのたびに補修を重ねているがその補修が稚拙な
ため仏像全体としてバランス悪く異様な形で現存しており、創建当時の姿が残っている
のは右手中央の三指、目元周辺、左耳程度で有るとされてきた。
飛鳥寺は平城遷都で元興寺として奈良市内に移転しましたが、建物、飛鳥大仏はその
まま残され建久 7 年(12世紀)までは創建当初の三金堂一塔式伽藍配置の偉容を残して
いたと考えられます。
現在飛鳥大仏が安置されている安居院(あごいん)は江戸期の建物で創建当時の中金
堂の基壇の上に建てられたものですが中金堂を復元したとは考えられません。
調査で台座は当初から竜山石製であることが確認されており、金銅仏像の台座に石造
が使われる例は無いとする後補説は否定され、当時の土木技術として飛鳥大仏の重量を
支える工法として石造台座が使用されたのでしょう。
従って現状の安居院の飛鳥大仏は創建当時より動いていないと云える。
*現存の飛鳥大仏はなぜ国宝でないの?
我国最初の国産金銅仏であり当然国宝に指定すべきところ、被災による被害範囲が大
きく飛鳥仏としてのモデルにするには問題ありとして重要文化財に留めてきた。
止利様式の代表作としては法隆寺・金堂釈迦三尊像がありこれが国宝に指定されてい
る。
飛鳥大仏の頭部については面長で目元、口元,耳等には飛鳥仏の面影を残しており、
胸元紳帯式結び目もあるが全体的には稚拙な補修結果であるされてきた。
しかし歴史的には貴重な存在であり約1400年間に渡って大切に保存され続けて
きたのは宗教面もありますが、飛鳥の地が仏教伝来を祈念する我国最初の飛鳥寺で国産
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第一号としたのは金銅仏の重要性を認めていたからではないだろうか?
平成 24 年に早稲田大学・大橋教授による蛍光X線分析による金属組織の調査が行わ
れた結果、鎌倉期以降の補修とされている部分と創建当時残存しているとされている部
分の金属組成が近似していることが判明して、仏身の殆どが飛鳥時代当初のままの可能
性が高くなり従来の見解を覆すことになるかもしれない。
従って歴史的な観点からすれば国宝に値しますが、造形的な観点からすれば代表作に
は成り得ないことに要因があるといえます。
<註>
くらつくりのとり
鞍 作 鳥 :中国・梁からの渡来人とされる司馬達等の孫に当り、父は用明天皇のために
丈六仏を作ったとされる多須奈で、飛鳥仏の代名詞・止利様式を確立した
ちょうこう
朝 貢 :中華思想に基づく中国との交流関係で周辺国は全て属国として定期的に貢物を
献上する義務を課したが代償として官位や最新文化・技術を与えた
裳懸坐:仏坐像が在坐上にある時仏の裳が在坐側面に垂れ下がる様式
鰭状衣文:仏像の衣文がヒレ状にギザギザしている様式
三金堂:飛鳥寺は塔を中心に中・東・西金堂を有する一塔三金堂形式の伽藍配置
石造弥勒:蘇我馬子が石川精舎に祭ったとされる渡来石造仏
金銅仏:銅鋳物で本体を作成した上に塗金された仏像、飛鳥・白鳳仏に多い
蛍光X線分析:非破壊検査の手法で金属組織分析に活用される
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