Session 1 10:00

発表要旨
6 月 27 日(土) Saturday, June 27 10:00-11:30
Room 6201 Panel 大学院生パネル
Student Panel
コミュニケーション学に萌芽する未来
司会: 河合 優子
(東海大学)
レスポンデント: 師岡 淳也
(立教大学)
発表者: 伊藤 夏湖
(東京大学)
坂田 史 (西单学院大学)
本パネルは大学院生によるパネルである。現在、日本コミュニケーション学会には大学院の会員も多数所属
している。そこで、大学院生が発表論文を持ちより、年次大会で発表する場として「大学院生パネル」を開催
する。近年では、年次大会でも大学院生による質の高い発表が行われるようになってきた。時には、彼らの真
摯且つ大胆な研究姿勢が経験豊かな研究者以上の成果を発表させることもある。しかしながら、多くの大学院
生にとって、既に教員となった研究者と同様に肩を並べて発表するのは未だに敷居が高いこともある。この敷
居を低くすること、及び大学院生同士の交流をはかり、コミュニケーション学を奨励する為に、多種多様な専
門分野の大学院生が参加するパネルを開催する。
本パネルでは2名の大学院生が研究発表をする。
このパネルでは、それぞれの大学院生が個人の研究成果を発表し、レスポンデントがコメントを述べた後、発
表者とフロアーによる議論の時間を設ける予定である。コミュニケーション研究に関わる根源的な問題につい
ても同様に、
「聞き手」の皆様の学生の勇気を讃える質疑応答によって、活発な議論が行われることを期待して
いる。様々な分野の同世代の大学院生にもフロアーから積極的に参与してもらうことを切に願っている。今後
のコミュニケーション学の発展を担う学生達が集い、既存の伝統的な研究を乗り越え、新たなコミュニケーシ
ョン学を切り開いていく斬新な視点が呈示されることを期待しよう。
1) 伊藤 夏湖(東京大学)
「彼らの東北、俺(お)らだの東北(とうほぐ)―東北イメージの生産と消費―」
映画「スウィングガールズ」
(2004)のヒットは、記憶に新しい。
「ジャズやるべ」というキャッチコピーは、
この映画の重要なポイントである“ギャップ”を指し示している。田舎くさい東北とおしゃれなジャズという
組み合わせが、多くの観客の目には新鮮にうつった。
「東北の片田舎」は、選ばれるべくして選ばれた舞台だっ
た。
近代国家としての日本が、その文化・経済・政治の基盤を固める上で、中心的な役割を果たしてきたのは、
東京をはじめとした中央の都市部であった。中央集権的な体制はマス・メディアにも反映され、
「中央」からの
眼差しのもとで、
「東北」は他者化・周縁化されてきた。本研究では、第二次世界大戦以降発展した、映画や歌
謡曲、テレビ番組などのメディアに着目し、年代ごとに特徴的な言説を分析した。さらに、29 名の東北出身者
たちへのアクティブインタビューを通して、メディアのイメージがどのように消費され、東北出身者達のアイ
デンティティといかに相互作用しているのかという点を考察した。
本研究で示された「東北」という地の複雑さ(complexity)
・雑種性(hybridity)は、
「東京」に立脚した一
方的な視線を解体する。明治時代以降、日本が近代国家/国民国家として成立する過程で、沖縄や大阪、東北
などの地方は、
「内なる他者」として描かれてきた。
「私たち=日本人」とは違う「彼ら=他者」の存在が、言
語や風景、身体の表象を通して繰り返し描き出されることで、アンダーソンが言うところの「想像の共同体」
としての「日本」がより強固なものになってきたのである。周縁化された「東北」から湧き出る多様な「日本
人」の姿は、卖一の言語を共有する均質な「日本人」という幻想を打ち破る契機を提示しているといえるだろ
う。
2) 坂田 史(西单学院大学)
「
「外人/gaijin」の「語り」
:境界線への交渉と抵抗」
本論文の目的は、日本社会において「外人」ということばによって呼びかけられる人々が、その呼びかけに
応えることを通して自己を語る場を獲得する可能性を探ることである。
「外人」ということばが日本社会におい
て主に白人を指して使われることを前提に、日本人 14 人と日本在住の白人 16 人との対話式インタビューを行
い、日本社会における「外人/gaijin」という文化的空間が構築される文脈を批判的に分析する。ここで「外人
/gaijin」を漢字表記とローマ字表記とに区別するのは、
「外人」ということばが白人を抑圧的に表象するカテ
ゴリーとして構築されるだけでなく、日本社会に生きる白人が積極的にその呼びかけに関わっていくことで、
漢字表記で表される「外人」が、より肯定的な意味形態を構成するローマ字表記の「gaijin」へと変換されて
いく可能性を探るためである。本論文はインタビューにおける白人参加者の「語り」を議論の中心に据えるこ
とにより、彼らの「外人/gaijin」を取り巻く社会的状況の多様性と複雑性を描写する。そのような作業を通し
て、
「外人」という排他的空間を構築する境界線への交渉と抵抗の「語り」を批判的に読むことを目指す。そし
て、
「外人」が「gaijin」へと変換される文脈を「外人/gaijin」による具体的「語り」のなかで分析すること
で、そこで繰り広げられるアイデンティティ交渉の条件や政治性を明らかにしていく。
Room 6202 Presentation 《日本》
<Japan> as Problematique
日本的コミュニケーション・スタイルのマクロ的再解釈
―日本人集団主義説をもとに―
古家 聡 (武蔵野大学)
本研究の目的は、日本人集団主義説に基づいて説明されてきた日本的コミュニケーション・スタイルの再解
釈を行うことである。これまでの多くの日本人論で、
「日本人あるいは日本社会が集団主義的である」と主張さ
れている一方で、最近の実証的な研究では、日本人集団主義説を支持しているものは極めて尐ない。このギャ
ップをどう捉えたらよいのか。この疑問に答えるためには、その行動原理を考察してみなければならない。本
研究では、心理学者のマズローが提示した 5 つの基本的欲求を含めて、人間には自分の利益、欲求、願望など
を実現したいという行動原理があると想定し、それを「我利追求」と名づけた。心理学の「社会的交換理論」
や社会学の「合理的選択理論」
、そして、社会生物学の知見からも、そうした行動原理を想定することは可能で
あると考える。この行動原理を想定することによって、強い個人と弱い個人とか、進んだ社会と遅れている社
会というような比較の対象としてアンバランスな前提ではなく、対象が対等に位置づけされて比較ができるだ
ろう。日本人が一見集団主義的行動と見えるコミュニケーション・スタイルを取っていても、それが、従来、
日本人集団主義説で言われてきたような「個人の利益よりも集団の利益を重視しているから」ではなく、歴史
的・社会的に熟成されてきた文化的要因によって、日本人はアメリカ人と違う選択をして、目標実現を図ろう
としている。無意識的であれ、意識的であれ、
「我利追求」がその行動原理の核となっていると想定することに
よって、例えば、アメリカ人からみて「個人主義的」ではないとすれば、自動的に「集団主義的」とみなされ
ていたコミュニケーション・スタイルが、アメリカ人の考える「集団主義」とは違う「利己的協調主義」のよ
うなパラダイムとして浮き上がってくることになる。
日本人の対人コミュニケーション能力とメッセージデザイン
-構成主義コミュニケーション論からの考察-
小山 哲春 (京都ノートルダム女子大学)
本研究は、米国で発展した構成主義コミュニケーション論(constructivists view of communication)の枠
組みを用いて、「対人コミュニケーション能力」と「言語メッセージデザインに関するする個人的傾向」との関
係を概観し、
この理論的枠組みが日本人話者のコミュニケーションを上手く説明できるかを検証する取り組みで
ある。
構成主義コミュニケーション論では、人は対人場面や相手の視点を自らの認知フレームとして再構築し、これ
を用いて外界・対人理解や、メッセージ産出・解釈を行っているとされる。ある場面での言語メッセージの効果
は、よって、対人コミュニケーション認知構造やその複雑さ、洗練度に大きく依存するのである。この対人コミ
ュニケーション認知構造こそが、
対人コミュニケーション能力の礎であり、
「コミュニケーション場面の主観的、
情意的、そして対人関係的側面を複雑に認知し、コミュニケーションの目的に鑑みて、言語メッセージをそれら
に適応させていく力」の基盤であると考えられる。
こうした理論的枠組みを日本人話者において検証するため、対人コミュニケーション認知構造の構成要
素である「認知的複雑性」
と個人的なメッセージ産出・解釈傾向である「メッセージデザインの理論(MDL)」
に着目し、この二つの変数が日本人話においてどのように相関するのかを観察した。日本大学生220名(女
性150、男性70)を対象に、RCQ (Role Category Questionnaire)と呼ばれる自由記述式質問紙票(日本語版)に
よる「認知的複雑性」の計測と、Elicitation法(質問紙)による「MDL」の計測を行い、日本人と英語話者のMDL
の分布の違い、および日本人における認知的複雑性とMDLの相関を分析した。本発表では、統計的分析の結果を
報告し、「能力(認知的複雑性)」の高い日本人のメッセージデザイン傾向について議論する。
Room 6203 Presentation 医療/福祉現場
Medical & Welfare Providers
医師・患者間の情報提供および意思決定における認識ギャップ
―医師と医療消費者の結合データによる実証分析―
塚原 康博(明治大学)
日本の医療の問題点として、医師と患者間で十分な意思疎通がなされていないこと、患者中心の医療が十分
になされていないことがあげられる。このような状況を改善するためには、医師からの患者の情報提供や治療
方法、薬の提供などの意思決定において医師・患者間の認識ギャップを解消し、患者中心の医療に近づけてい
くことが必要であろう。
本研究は、患者中心の医療に近づけていくための第1歩として、医師・患者間の認識ギャップに関する実態
把握を行う。具体的には、医師からの患者の情報提供や治療方法、薬の提供などの意思決定において、実際に
医師・患者間の認識にギャップがあるといえるのかどうか、あるとすれば、それがどの程度あるのかを医師と
医療消費者の結合データを用いて検証する。
本研究で使用するデータは、筆者も参加した医薬産業政策研究所による研究プロジェクト「医療消費者と医
師とのコミュニケーション」で 2004 年に実施した2つの調査から得られたデータである。1つめの調査は、医
療消費者(一般生活者)に対して行った調査『患者さんの「医療への参加」に関する意識調査』であり、もう
1つの調査は、医師に対して行った『医師と患者のコミュニケーションに関する調査』である。
デイケアの世代間コミュニケーション
野中 昭彦 (関東学院大学)
ますます進む尐子高齢化に伴って、デイケアやデイサービスは高齢者を抱える家族の需要を一手に担い、そ
の需要は増え続けている。デイケアとデイサービスの大きな違いは、前者がリハビリテーションを行うことを
主眼においていることである。例えば脳梗塞で倒れ、後遺症が残った高齢者の四肢の運動機能回復を行えるの
がデイケアなのであるが、その他は両者ともほぼ同じサービスを提供している。待遇としては決して良いとは
言えないこの業界に対して、多くの若者が希望をもって従事しているが、体力的にもかなり大変な仕事である
ため、従業員の多くがまだ若い理由の一つである。従ってデイケアやデイサービスは医療現場に並んで最も頻
繁に世代間コミュニケーションが起こっている現場なのである。違う世代が交流する時、生活習慣、世代によ
る価値観などに起因する違いが見られるが、これによって起こる問題はカルチャーショックと同様のプロセス
を経る。従って世代は文化であり、世代間コミュニケーションは異文化間コミュニケーションと捉えることが
できる。本研究は介護福祉に携わる若い従業員とそれを利用する高齢者との間のコミュニケーションの様態を
探ることを目的とした。著者がボランティアとしてデイケアで働き、エスノグラフィーを行うことにより、介
護士が日々の業務の中でどのように高齢者に接し、また高齢者が介護されることをどう考えているかを、特に
従業員が見せる態度、言葉、また高齢者のそれに対する反応を間近で注意深く観察した。高齢者に対して異な
った接し方をする介護士たちに現場で著者が直接感じた印象を述べるのと同時に、今後の高齢者介護でコミュ
ニケーションの要素がいかに必要かを考察する。
音楽療法士の調節的コミュニケーション行動
―共同注意の視線分析を通して―
舩本 菜穂(兵庫県立大学)
宮本 節子(兵庫県立大学)
超高齢化社会の中で、認知症高齢者を対象とした音楽療法は、記憶や意識を活性化するものとして(能見他,
2005 など)
、デイケアセンターや老人介護施設などで普及してきた。しかし、重度の認知症の場合、
「音楽を音
楽として受容すること」
、あるいは「受容を表現すること」が困難な場合が多い。このような時、音楽療法士は、
意識的あるいは無意識的に、認知を助ける調節行動をとっていると推測される。本研究では、そうした音楽療
法士のコミュニケーション行動に着目し、その支援によってクライアントがどのように症状改善していくのか
解明したいと考えた。
そこで、2007 年 5 月から 2007 年 7 月週 1 回、兵庫県下の老人介護施設において行われている音楽療法セッ
ションに、セラピスト助手として参加し、フィールド調査を行った。セッションは 7 回にわたって行われた。
クライアントは 10 名であり、認知症の症状を呈していた(介護度3~5)
。ただし、本研究では、認知症高齢
者として典型的なクライアントのAさんを分析対象とした。許諾を得て、毎回 3 台のカメラで録画した。終了
後、音楽療法士、スタッフに聞き取り調査を行った。録画データから、音楽と音楽の間に行われる、音楽療法
士の「トーク」を取り出し、
「共同注意」
(遠藤,2005)の観点から、音楽療法士とAさんの非言語行動につい
て分析した。
その結果、1)初回は共同注意が成立しなかったこと、2)中盤のセッションにおいて、音楽療法士とAさ
んの間に共同注意が成立したこと、3)最終回では、Aさんが自発的に、場における中心人物の方に視線を向
けたこと、が明らかになった。音楽療法士の調節的コミュニケーション行動は、他者への関心を促進する手が
かりとなり、Aさんの症状改善へ結びついたと推測される。
6 月 27 日(土) Saturday, June 27 13:00-14:30 Session 2
Room 6202 Panel 支部大会パネル
Chapter-Proposed Presentations
司会: 中林 眞佐男 (千里金蘭大学)
発表者: 関西支部 桂木 聡子 (神戸市薬剤師会・武庫川女子大学)
東北支部 小林 葉子 (岩手大学)
九州支部 兼本 円 (琉球大学)
1) 桂木 聡子(神戸市薬剤師会・武庫川女子大学)
「医療現場におけるコミュニケーションの現状」
〈目的〉医療現場という場所ほどビジネスという言葉から遠い場所はないと現場に働くものは思っていること
が多い。確かに理念は利潤の追求ではない。しかし医療を提供するものと受ける者の間で金銭の授受がある限
りはビジネスの側面も有していると言える。つまり支払った金銭に見合うサービスが受けられない場合には、
クレームがあると言うことであり又そのような状況では安心で安全な医療を提供することは出来ない。患者Q
OLの向上と言いながら、医療行為の質の向上と安全対策に重きをおかざるをえない医療サービスの現状にお
いて患者のクレームを分析することで医療現場におけるコミュニケーションの現状を知りその解決策を考える。
〈方法〉保健所の医療安全相談窓口に寄せられた、相談件数、相談内容を分析することにより、医療サービス
の現状を把握する。
〈結果〉平成 19 年度の相談者総数は 1331 人と年々増加傾向にある。相談内容で最も多いのが職員(医師・看護
師等)の対応が 17.7%。しかしその相談内容から「説明が全くなかった」
「説明が不十分」
「気軽に質問できな
い」等インフォームドコンセントに問題有りと思われる相談が、全相談件数の 48.5%であった。又アドバイ
スやコメントで対応を終えたが全体の 71.5%であった。
〈考察〉アドバイスやコメントで対応を終えた方が 71.5%と言うことは、相談者の多くがそれぞれの医療機
関では納得できずに帰られたという事を示している。しかし医師からの説明が全くなかったと当薬局で言われ
た方について直接医師に確認した場合、きっちり説明をしたと言われることが多い。医療機関を訪れる患者や
家族は何らかの体の不調を抱えており、更に医療機関という場所は他の場よりも心理的に緊張や圧迫を与えや
すい空間である事を医療者が理解し、
通常会話とは違った視点を持った説明をしなければならないと思われる。
2)小林 葉子(岩手大学)
「コミュニケーション教育と英語コミュニケーション教育―多学問的考察―」
日本社会・グローバル社会において今後ますます必要となる能力として、自己表現力としてのコミュニケー
ション能力、異文化への寛容な態度、そしてグローバル社会に対応できる英語力、などが挙げられることが多
い。いずれの能力・態度もコミュニケーション学や外国語教育学(特に英語教育学)に深く関係する概念であ
る。しかしながら、Smith, Paige and Steglitz (2003)や Sakuragi (2008)が指摘するように、コミュニケー
ション学と外国語教育学間の交流は非常に限られている。本発表ではそうした認識に基づいた上で、両分野で
も盛んに議論されている「コミュニケーション能力」
「コミュニケーション教育」に関する先行文献(理論的研
究、実証研究、実践報告など)を概観し、学問分野を超えての議論の意義とその可能性について考察する。
まず発表前半では異文化態度(cross-cultural attitudes)研究からステレオタイプやホワイトネスに関する
知見を踏まえ、英語教育学領域における「グローバル社会のコミュニケーション能力・態度」育成の限界を指
摘する。また、国内企業や海外の日本企業で行われた研究結果(岡部、2005; Clark, 2006)を概観することで、
コミュニケーションのあり方を問う場合、組織構造(所属学会、機関、社会)にまで踏み込んだ議論を避ける
ことができないことを確認する(Kobayashi, 2007; Zielenziger, 2006)。
しかしながら、以上の先行文献だけを概観すると、社会構造の壁、企業文化の壁などを前に、一個人として
取り組むことができる教育活動や研究活動の限界だけが強調される形になってしまう。そこで本発表の最後に
一例として、発表者の所属機関・所属部署の学生たちのコミュニケーション態度と、一教育者が行っている英
語学習支援の取り組みとその成果(Kobayashi & Onaka, 2009)について報告する。
本発表を通じ、学問の枠を超えて交流することの意義だけでなく、コミュニケーション学・外国語教育学研
究者が教育者として実践することの意義とその可能性を再認識できればと思う。
3) 兼本 円(琉球大学)
「沖縄のオバーの魅力とその源泉―コミュニケーション学的考察―」
沖縄は長寿社会として注目を浴びているが、それは健康の観点が主だったところでコミュニケーションとの
関わりはさほど論じられていない。我々は一生を通じてコミュニケーションに従事していくわけだが、その研
究対象の中心は若者と現役で活躍する者たちに絞られてきた。本発表の目的は沖縄のオバーの魅力をコミュニ
ケーションとの繋がりで概観し、コミュニケーションを一生という長いスパンで捉える試みである。
Room 6203 Presentation 表象としての大統領制
Rhetorical Presidency
バラク・オバマが築きあげたレトリカル・ヴィジョン
―2008 年大統領選挙のファンタジー・シーム批評―
加藤 拓也(神奈川大学)
本稿の目的は、2008 年米国大統領選挙におけるバラク・オバマの演説を、ミネソタ大学教授であったアーネ
スト・ボウマン(1925-2008)が提唱したファンタジー・シーム批評を用いて分析することである。オバマの演
説を研究した論文では、そのほとんどは一つのスピーチ分析に留まっており、多くの一般書では演説の技法や
スタイルばかりに焦点が当てられている。しかしながら、オバマの政治的レトリックは、
「ヴィジョナリー・リ
ーダーシップ」
(Visionary Leadership)と形容されるべきスタイルで、説得力のあるアメリカ(人)像を提示
し、そのヴィジョンの実現を国民に訴えることが、大統領候補表明以降の演説における中心的なテーマであっ
た。そのため、大統領立候補表明から大統領に選出されるまでの演説の中で、繰り返し語られたファンタジー・
シームやレトリカル・ヴィジョンを見出すことが、オバマの演説批評では重要である。
本稿では、大統領立候補表明演説、ニューハンプシャー州予備選挙後の演説、大統領候補指名受諾演説、そ
して勝利演説の四つを分析対象とする。これらの演説を分析した結果、三つのファンタジー・シームがオバマ
のレトリックの中核をなしていることが分かった。普通のアメリカ人の物語、アメリカ再生の物語、そして分
断から統合への物語である。そして、これらのファンタジー・シームから浮かび上がるレトリカル・ヴィジョ
ンは「普通の人が偉大なことを成し遂げられる社会としてのアメリカ」と「多様でありながらも統一された社
会としてのアメリカ」である。
以上のような考察を経て、表面的な技巧やスタイルだけの問題としてではなく、アメリカ人の「現実」を構
築する力をもった象徴行為として、
「オバマのレトリック」を論じる。
形成されるナショナル・イメージ
―米国大統領テレビ討論会における音声、映像、作成資料―
松本 明日香(筑波大学)
本報告は、メディア政治における施政者の説得行動の中で、国家像がいかに形成されるかを、カルチュラル・
スタディーズの視座と近接領域の手法を用いることで明らかにする。
政治コミュニケーション研究とカルチュラル・スタディーズは互いに影響を与えながら発展してきた。カル
チュラル・スタディーズの系譜には諸説あるが、そもそもその分析の射程に政治を含んでいる。そして、研究
対象もナショナリズムやマイノリティから、
メディア研究にまで広がってきている。
大石裕が指摘するように、
コミュニケーション過程自体が権力行使過程であるとも導き出せる(大石 1998)。そうした場合、メディア政治
におけるコミュニケーションは、その権力行使過程の最たるものと言える。
このような背景のもと、本報告は、メディア政治における歴史的転換点と言われる説得行動に着目し、史上
初の 1960 年米国大統領候補者テレビ討論を事例として扱う。
テレビ政治における説得行動を明らかにするため、
音声と映像の重なりと差異を、メディア(司会者、質問者)、ケネディ候補、ニクソン候補の 3 者を比較しなが
ら明らかにする。第 1 に、音声面で説得に有効な「レトリック」をスクリプトから、第 2 に、映像での説得に
有効な「非言語行動」を DVD 映像から分析する。第 3 に、レトリックと非言語行動の分析を補強するため、選
挙戦略を史料から検証する。
最終的に、世論、メディア、対立候補の影響を受けながら、映像と音声が複雑に組み合わせられ、1960 年第 1
回テレビ討論会が形成されたことを指摘する。ケネディによる隠喩的大統領像とジェスチャー、ニクソンの実
務的大統領像と適応動作、それらに強弱をつけるメディアのカメラワーク、コメント、質問が、それぞれ視聴
者の各層が共有するナショナル・イメージを前提にしながら、提示されているのである。
6月28日(日) Sunday, June 28 9:00-10:30 Session 3
Room 6201 Panel レトリック研究会
Japan Society for Rhetorical Studies
「統合のレトリック」
「アーティキュレーション」
「ネットワーク理論」
― コミュニケーション学とレトリック研究を接合(節合)するものを探究して ―
司会: 中西 満貴
パネリスト: 花木 亨
是澤 克哉
田島 慎朗
(岐阜市立女子短期大学)
(单山大学)
(関西外国語大学)
(ウェイン州立大学大学)
本企画パネルは、基本的に、コミュニケーション学におけるレトリカルな視点の重要性について論じること
をねらいとしている。本年度年次大会では、いわゆるカルチュラル・スタディーズの問題意識(ひとつの概念
としてとらえることは難しいが)を参照しつつ、
「統合のレトリック」
「アーティキュレーション」
「ネットワー
ク理論」という3つジャンルのアプローチによって、コミュニケーション学とレトリック研究についての議論
を展開したい。
花木論文は、バラク・オバマによる人種問題に関する演説(
「A More Perfect Union」
)を分析することをつ
うじて、米国における多文化的現実や人種をめぐる統合と抹消のレトリックに対して、差異を乗り越えた文化
的統合を目指すオバマは、どのように戦略的に向かい合ったのかを記述する。是澤論文は、夏目漱石の『ここ
ろ』を研究素材として、19 世紀後半の日本社会における言語、イデオロギー、文化の分析を行うに当り、S.ホ
ール、A.グラムシ、ラクラウ&ムフ等によるアーティキュレーション(節合)理論が、
「自殺」をめぐるエスノ
グラフィックな調査研究にどのように適用できるかの可能性を探る。田島論文は、M.フーコーや G.ドゥルーズ、
さらには批判的レトリックの枠組みを参照して、いわゆる「ツリー型」権力構造に対するネットワーク理論の
権力像を、
レトリシャンとしてどのようにとらえ批判することが可能か、
という問いを設定し論考を展開する。
本企画パネルでは、コミュニケーション学とレトリック研究の接合(節合)の可能性について論じるととも
に、本年度年次大会のテーマにも掲げられている「カルチュラル・スタディーズ」が呈する問題射程を再吟味
したい。
「聞き手」の皆様による積極的な質疑、発議などによって活発な議論が行われることを期待したい。
1) 花木 亨(单山大学)
「バラク・オバマは人種を語る -「A More Perfect Union」演説をめぐる考察 -」
2008年アメリカ合衆国大統領選において、民主党候補バラク・オバマは史上初の黒人大統領に選出され
た。この快挙を可能とした最大の要因がオバマの卓抜な演説家としての才能であることにほとんど異論の余地
はない。オバマは人種、年齢、階級、性別、宗教、党派などといった差異による分断を乗り越え、多様な文化
的背景を持つ人々が共に生きるアメリカ社会を目指そうと聴衆に呼び掛けてきた。しかし、その選挙活動は彼
と親交が深い黒人牧師ジェレマイア・ライトの発言によって危機に瀕する。ライト牧師が黒人教会で行なった
説教の一部が、無料動画共有ウェブサイト「YouTube」などによって世間の注目と批判を集めたのだ。インター
ネットをとおして無限増殖する説教の動画の中で、
ライト牧師は白人社会アメリカを戦闘的な言辞で批判する。
人種問題を自己の選挙戦の中心的論点にすることを避けてきたオバマだったが、
「ライト牧師事件」に対するメ
ディアの関心が高まる中、2008年3月、
「A More Perfect Union」と題された演説を行ない、自分とライト
牧師との関係、そして人種問題に対する自らの立場を言明するに至った。本考察では、このオバマによる初の
人種問題に関する演説を吟味する。オバマは果たしてこの演説によって人種問題解決への具体的道筋を提示し
ているのだろうか。あるいは、アメリカ国民の関心を人種問題から逸らせ、その解決という仕事を先送りして
いるのだろうか。この演説はオバマが掲げる「統一されたアメリカ」という理想をどのように補強し、あるい
はそれに失敗しているのだろうか。本考察はこれらの一連の問いに対する一つの応答を提示する。
2) Katsuya Koresawa (Kansai Gaidai University)
A study of the Japanese classic novel "Kokoro": Language, ideology, and culture
This study will critically investigate the Japanese classic novel, Kokoro, (Natsume, 1972)
using the articulation model of meaning by Stuart Hall (1986). The model posits how an ideology discovers
its subject rather than how the subject thinks the necessary and inevitable thoughts. Descriptions in
the classic novel are well understood through a theoretical framework of the articulation model. Thus,
this study employs a textual analysis, which identifies social reality and discovers ideologies and
cultural factors affecting meaning in the novel.
The paper makes two arguments –a theoretical argument and an empirical argument– for the
articulation model of meaning. In theoretical part, I first render a framework of the articulation model,
and second analyze language, ideologies and culture behind the late 19th century of Japanese society
–how these concepts create meanings and how people share their meanings in the novel. Under the framework,
I analyze the meaning of suicide, a main theme of this novel. In terms of the empirical argument, I
apply the articulation model to an interpretive study of Japanese readers that demonstrates meaning
we can share now and revisit why the novel is worth to read beyond generations.
My argument is that the meanings of the suicide in the novel are believed to be more complex.
The forces of society are considered to be overdetermined, or caused by multiple sources of readers
past experience. Every element of the context is similarly overdetermined (Grossberg, 1986). Therefore,
no element has an identity that can be isolated and taken for granted. The same is true for ideology.
Multiple ideologies exist next to one another in dynamic tension. The media are extremely important
because they directly present a way of viewing reality.
3) 田島 慎朗(ウェイン州立大学大学院博士課程)
「ネットワーク理論を通して批判的レトリックを再考する ―権力から管理への変化を中心に-」
ジル・ドゥルーズ=フェリックス・ガタリ(Gilles Deleuze & Felix Guattari)やブルーノ・ラトゥール
(Bruno Latour)から今日の批判的メディア理論家へと受け継がれたネットワーク理論は、①権力(power)か
ら規制・管理(control)へ、②規律社会(disciplinary society)から管理社会(control society)へ、③
階層的、中央集権的な権力構造から、脱中心化(decentralized)の構造へ、そして④メッセージとしてのコミ
ュニケーションから、記号(code)としてのコミュニケーションへという 4 つの推移を基調として、コミュニ
ケーションの新しい捉え方を提示する。ネットワーク理論の元でのコミュニケーションは-記号という極度に
卖純化されたアナロジーを用いられつつも-構造全体に影響された一例として捉えられ、ネットワーク中の各
要素の一貫性を検証出来る可能性を提示する。
以上を踏まえ、本稿では理論的介入としてのネットワーク理論がどのようにレトリック研究、特に批判的レ
トリックに寄与するのかを探る。この目的に沿い、まずはネットワーク理論を概観し、ミシェル・フーコーか
らドゥルーズ=ガタリへの権力・管理構造の変換に焦点を当てつつレトリック理論との接点を探る。次に実際
の言説の例をあげながら、
ネットワークを枠組みとして捉えられるコミュニケーションがどのように分析され、
その分析が批判的レトリックに対して寄与できるかを探る。
Room 6202 Presentation 発 話 / 談 話
Utterance
フェイス・ワークとディスコース・マーカーの用法拡張
―若者言葉としての「じゃん」の考察から―
福原 裕一(東北大学)
本研究は、文末表現「じゃん」をディスコース・マーカーの一つとして捉え、このディスコース・マーカー
が新しい用法を獲得する際に、フェイス・ワークがその駆動力となることを、若者言葉をデータとして実証し
たものである。
若者による「じゃん」の新しい用法は、従来の用法と深く関係しており、この従来の用法を拡張したもので
あるといえる。本研究が示した従来の用法では「じゃん」に先行する部分は、一般性の高い情報であり、聞き
手のフェイスを脅かさないことから、話し手は自分のフェイスを保持しなくても良いものであった。このよう
にフェイス・ワークが行なわれないものを従来の用法とした。この従来の用法が、これから話す内容の前提と
なる知識を聞き手に提供し、発話内容への理解を促し、会話全体に貢献するテキスト的な話題導入によって使
用される用法へと拡張した。さらに、話し手の聞き手に対する否定的な評価を暗示する、対人的な用法へと拡
張したと考えられる。この拡張の過程は、Traugott の主張する文法化の過程とも一致している。
最近その使用が話題になった若者言葉「じゃん」の特徴は、
「じゃん」に先行する発話内容が話し手の個人
的な情報だということである。これは「じゃん」の従来の用法からの拡張であると考える。話し手は自分の個
人的な内容であっても、形式上は一般論であるかのように語り、聞き手が容易にアクセスできる情報のように
振舞うのである。個人的な情報であっても、誰もが容易にアクセス可能な一般論にしてしまうことで、聞き手
に反論させない方略であろう。聞き手である私たちがこの用法に違和感をおぼえるのは、本来必要である聞き
手のフェイスに対する配慮が行なわれずに、話し手のフェイスのみ保持されているためである。
相互行為上で各発話の効力を決定づけるものは何か
―「社会的コンテクスト」と「参与者」の協応に基づく論考―
水島 梨紗(北海道大学)
名塩 征史(北海道大学)
1960 年代初頭に発話行為理論が発表されて以来、
「人はことばによっていかに事を為すか」という問いを巡
る議論は、語用論の分野の発展とともに大きな広がりを見せてきた。過去数十年に渡る研究の流れの中で、当
該の理論も様々な観点から批評を受けてきたが、本研究はその中でも J. Mey による社会的アプローチに注目す
る。彼(および他の多くの研究者)が問題視するのは、旧套の発話行為理論が言語形式と語用論的意味や効力
との関連づけに主眼を置き、社会的なコンテクストから切り離した形で発話を捉えてきた点である。Mey (2001)
は、個人の発話に予め効力が内在し、行為を遂行するという従来の発話行為のイメージを否定した上で、参与
者は相互行為の場において発話を卖に「実践」するに過ぎず、その発話が元になって生じる効力とは、その場
の状況の下で受け手が見出すものであると主張した。Mey がそのような議論において強調するのは、相互行為
を規定するのは個人ではなく社会的コンテクストであり、
発話の効力もまた社会に由来するということである。
Mey のこのような思想は、相互行為についての一定の真理を我々にもたらすものであるが、そこでは常に「個
人」の上位に「社会」が置かれ、相互行為に携わる各参与者は、あたかも社会的コンテクストから賦与される
状況を受容するばかりの存在であるかのように描かれている。しかし、人々は卖に社会に操作されるばかりで
はなく、時にやりとりの展開に対して潜在的な影響力を及ぼそうとしたり、状況からそのような働きかけを積
極的に知覚し、行動を起こしたりする、能動的な存在でもある。
このことから、本論は Mey (2001) におけるマクロな視点への極度な傾倒に検討の余地を見出し、
「社会的コ
ンテクスト」と「参与者」が協応することで相互行為を機動させる力が生じるということを、実際の会話デー
タの分析から立証するものである。
お詫びの言葉に対する望ましい応答
―大学生を事例として―
古川 典子(兵庫県立大学)
宮本 節子(兵庫県立大学)
対話において、聞き手の果たす役割は大きい。浅野(2006)は、相手の主張を確かめる聞き手の応答を「確
認的応答」と名づけ、この応答が聞き手に好感を与え、人間関係の構築に効果的であることを明らかにした。
しかし、これらの探索的研究では、場面が限定的で、過失や被害の大小の影響は明らかではない。
土井・高木(1993)によると、加害の程度や責任の有無により、加害者と被害者の贖罪評価と感情評価がな
されるという。加害者の謝罪が受け入れられるかどうかは被害者である聞き手の対応次第といえる。そこで、
本研究では、被害の段階を設定し、加害者が被害者に謝罪した際の被害者の応答が、加害者の気持ちを緩和さ
せるのにどのくらい有効かを検討する。
応答は、浅野(2004)に従い、確認型応答と反応型応答を用いる。
「確認型応答」とは、相手の主張を確かめる
応答で、反応型応答とは、相手の発言に対し自分の考えや感情を表現する応答を指す。肯定的な応答と否定的
な応答では、聞き手の受け止め方は異なるため、反応型応答を「肯定」と「否定」に分ける。
質問紙の作成に際しては、杉本(1997)
、土井・高木(1993)より、加害と過失の程度が異なる謝罪場面を 4
場面設定した。被害者(聞き手)の応答としては、確認型、反応型(肯定)
、反応型(否定)を用意した。よく
使われそうな応答を型毎に5つ作成し、
「非常に好感がもてる」
「やや好感がもてる」
「あまり好感がもてない」
「全く好感がもてない」の 4 件法で回答を求めた。調査は 2007 年 1 月実施し、有効回答数は 80 名(大学生:
男子 35 名、女子 45 名)であった。
その結果、1)反応型(肯定)
、確認型、反応型(否定)の順に好まれる、2)確認型と反応型(否定)の間
には差がある、3)謝罪度の影響はほとんどみられないことが明らかになった。また、男女差はなく、男性も
女性も、自分を受け入れ、肯定してくれる応答を求めていると推測された。
Room 6203 Presentation 異文化
Intercultural Relations
医療通訳者の異文化仲介者としての役割について
水野 真木子(金城学院大学)
近年の外国人住民の増加に伴い、医療の現場での通訳に関する関心が高まっている。その中で、通訳者の役
割についての研究も多く行われてきており、人間の健康と生命を守るという目的を中心とする医療の現場にお
ける通訳者の役割の特殊性も明らかになってきている。Angelelli(2004)や Hale (2007)は、医療の現場にお
ける doctor-patient relationship の重要性について論じ、通訳者が介在することで患者と医療提供者との間
の言語コミュニケーションがうまくいき、患者からの情報量が増加し、正確な病歴把握や診断につながるとと
もに、患者の治療への協力もより得やすくなるとしている。本研究の目的は、インタビューやアンケート調査
をもとに、医療通訳たちが現場で遭遇する文化の差に起因するトラブルの特徴や、それへの対処の仕方を明ら
かにし、通訳者たちが自らの役割についてどのような考えを持っているかを知ることである。
調査の結果として、通訳者の役割については、回答者のほとんどが、話された内容を正確に伝える「導管」
としての役割を一番重要だとし、次に重要なのが異文化仲介者としての役割であると考えていることがわかっ
た。そして、多くの医療通訳者が検査や投薬、入院、手術などをめぐって文化の違いに起因するトラブルを経
験しており、その解決に向けて、文化の差異について説明するなどの努力をしていることも明らかになった。
通訳者の仲介によって問題が解決したケースもあったが、医療提供者に対しては文化の差異についての説明が
しにくい状況があり、説明しても、患者の文化を理解し尊重してもらうのは難しく、結局双方の譲歩が得られ
ず、転院などの結果に終わったケースもあった。回答者の多くが一番限界を感じているのは、医療提供者側の
理解の欠如という点であった。
The Expressive Dimension of the Kamigakari:
A Study of Religious Act of Expressing
Takuya Sakurai (University of Oklahoma)
Although religious rituals in Japan are generally acknowledged as originating from shamanic
possession-trance (kamigakari), the kamigakari today is seemingly reduced to a mere choreography with the loss
of authentic possession-trance, as is described in the phrase “a showing of the sacred.” Being defined as “a text
in motion,” the kamigakari has turned out to be a functional ritual event. Thus, it is manifested in terms of such
modern functionality as psychological fulfillment on the individual level and community-tie builder on the
societal level. However, even if the kamigakari has certain religious functions in a community and if it can be a
ritual text to examine, it has to be an act of expressing at the outset. In this paper, therefore, treating the
kamigakari as a mode of expressing, I explicate the expressive dimensions of the kamigakari from the vantage
point of nonreductive awareness, and demonstrate that the kamigakari is itself expressive. More specifically, I
first bracket the modern rationality that comprises the conditions for promoting functional understanding of
the kamigakari. Then I seek an interpretive “context” of the very act of expressing the kamigakari, a context of
awareness that sustain and support the kamigakari. The purpose of this paper is to reveal the kamigakari in their
“deficient mode” insofar as their manifestation will have to be through another mode of awareness. Hence, the
present paper intends to challenge the singular mode of discourse, which reduces the kamigakari to a mere
signalic sign system. Revealing what sustains this reduction would open a means of “appreciating” the
multiple modes of discourse.
6 月 28 日(日) Sunday, June 28 13:00-14:30 Session 4
Room 6202 Presentation 対人関係
Interpersonal Relations
コミュニケーションの意欲維持にかかわる諸要因
町田 佳世子(札幌市立大学)
良好な対人関係を構築していくためには、他者とコミュニケーションしようとする意欲が不可欠である。し
かしその意欲を持ち続ける人とそうではない人がいる。そのような違いを生み出す要因の1つとしてコミュニ
ケーション能力の豊かさが考えられる。またコミュニケーションにおいて感じるストレスに適切に対処するこ
とも意欲の維持につながると考える。そこで本研究はコミュニケーションの意欲維持に影響を及ぼすコミュニ
ケーション能力の諸側面とストレスコーピング方略を明らかにすることを試みる。
コミュニケーション能力、意欲、ストレスコーピング方略に関する質問項目で構成された質問紙による調査
を行い、結果を因子分析し、コミュニケーション能力については 4 因子(社交性因子、相手志向性因子、自己
表現因子、傾聴因子)、意欲については 2 因子(肯定的態度因子、否定的態度因子)、ストレスコーピング方
略は 3 因子(積極的対処因子、認知的緩和因子、関係放棄因子)を見出した。肯定的態度因子を目的変数、コ
ミュニケーション能力 4 因子とストレスコーピング方略 3 因子を説明変数として重回帰分析を行い、コミュニ
ケーションしようとする意欲に相当する肯定的態度に対して、社交性、傾聴、積極的対処が有意な影響力をも
つこと、一方で相手志向性、自己表現、認知的緩和は影響力がないことが明らかになった。
社交性の他に傾聴の能力も意欲につながること、相手志向性が意欲に影響しないことから、コミュニケーシ
ョン能力のどの側面が意欲とかかわるのかをより詳しく捉えることができた。
ストレスコーピングについては、
ストレス反応の低減や関係満足感を向上させる解決先送りコーピングに相当する認知的緩和が意欲に影響しな
いという結果がでた。この結果はストレスが低減することと意欲を維持できることは別のことであること、新
たなストレッサーになりうるとしても積極的に問題に取り組むことが最終的にはコミュニケーションの意欲に
結びついていく可能性を示唆している。
How Socio-Cultural Relationships are Constructed/ Reconstructed
through Communicative Strategies?
Kiyomi Tanaka (Meikai University)
This study investigated how Japanese EFL students in a particular setting bring their socio-cultural
relationship built outside the classroom into the classroom and reconstruct it while engaging in classroom
activities requiring interaction and cooperation. As for a research method, I applied ethnography in this study,
for it would allow me a close examination on their behavioral and conversational interaction outside and inside
the classroom.
Recently, a great deal of research on students’ verbal and non-verbal behaviors has been conducted from
socio-cultural points of view. These studies, however, have mainly dealt with cross cultural-communication
across languages inside the classroom. However, it may also be significant to pay attention to how students of a
language who have different socio-cultural background affect activities and performances in English class.
Because, how they are construct their socio-cultural relations in the classroom probably affects their
performance on classroom activities. This may be followed by questions, 1) “How does socio-cultural
relationship among students constructed outside the classroom affect their performance on classroom
activities?” 2) “How do students reconstruct socio-cultural relationship constructed outside the classroom so as
to perform classroom activities requiring interaction and co-construction of meaning?”
In this study, first, I examined how students would construct their socio-cultural relationship outside the
classroom. Second, I explored how socio-cultural relationship among students constructed outside the
classroom would affect activities in English class. Finally, I explored how they would reconstruct their
socio-cultural relationship so as to perform classroom activities requiring interaction.
This study revealed that classroom activities requiring interactive communication strategies possibly
reconstructed the students’ socio-cultural relationship built outside the classroom. It can be concluded,
therefore, that, while students’ socio-cultural relationship built outside the classroom may influence their
classroom activities, it may be also possible that classroom activities requiring communicative interaction
reconstructs students’ socio-cultural relationship built outside the classroom.
親密化の要因としての対人魅力、自己開示および非言語行動
―同性友人二者による日本人同士と異文化間の関係の比較―
内藤 伊都子(日本大学)
対人魅力や自己開示、非言語行動は、対人関係の親密化において重要な役割を果たしている。一般に親密な
関係になるにつれ好意は高く、開示量は増し、うなずきや相槌、笑み、視線活動など一部の非言語は増大する
傾向にあるとされる。また、これらの要因は卖独で親密化に影響するだけでなく、要因間も密接な関係をもち
ながら親密化と関連している。一方で、これらの要因や要因間の関係は、文化背景が異なる他者との関係にお
いても有効であるのか、コミュニケーション行動の文化差や比較文化研究はあるものの、異文化間の関係を対
象とした親密化研究が尐ないため、明らかにされていない点は多い。
本研究では、お互いに一定の親密さが存在すると考えられる同性友人関係を対象に、対人魅力、自己開示、
好意と関連する一部の非言語、さらに開示と非言語の知覚された他者行動についても測定し、これらの要因と
その関係について日本人同士と異文化間の関係を比較検討することを目的とした。質問紙調査を実施し、同性
の日本人および同性の外国人の両者を友人にもつ日本人大学生 205 名を分析対象とした。対人魅力、開示、非
言語の各尺度を因子分析し、抽出された各因子について日本人同士と異文化間の関係の差や因子間の関係につ
いて分析をおこなった。
その結果、日本人同士の友人の開示は、異文化の関係の友人よりも自他行動の差が有意に小さく、差が小さ
いほうが対人魅力と関連する傾向が認められた。要因間の関係は、対人魅力を目的変数、自他の開示量、開示
の相互差、自他の非言語、非言語の相互差、性別を説明変数として重回帰分析をおこなったところ、対日本人
と対異文化の友人ともに有意であった。有意な説明変数となったのは、対日本人の友人が開示、開示の相互差、
非言語、性であり、対異文化の友人は開示、非言語、性であった。また、変数による影響はいずれの関係も非
言語がもっとも強いことが明らかとなった。
6 月 28 日(日) Sunday, June 28 14:40-16:10 Sessions 5
Room 6202 Presentation 批判理論
Critical Theory
沈黙の声
-多声化するコミュニケーションの矛盾-
小坂 貴志(立教大学)
文芸批評家/哲学者ミハイル・バフチンの提示した概念である「多声性」は現代社会を読み解く上で重要な
キーワードであると考えられる。バフチン理論以外にも、文芸批評家でメディア論者のウォルター・オングが
説いた声と文字の文化の理論、発達心理学者 L.S.ヴィゴツキーの内言論といった、いずれも声を中心に据えた
理論を参照し、現代社会を読み解こうとするプロジェクトを筆者はここ数年展開してきた。その結果、多声性
が社会を考察するためのひとつの概念として導き出された。バフチンの提示した多声性はいくつかの特徴があ
げられ、その中の代表的な考え方として、矛盾し合う複数の声がともに発せられるというものがある。矛盾し
合うとここで形容されているのは、コミュニケーション・スタイル上のミクロ的なものから、イデオロギーと
いったマクロ的な側面までにその対象は至る。本論では、多声性が前提とする「声」とは存在的に矛盾する「沈
黙」が発生する場をとりあげ、沈黙の中に声を聴き取る努力が必然的にいかにして払われるかの過程を考察す
る。沈黙分析の対象として、カルチュラル・スタディーズが頻繁に参照するポピュラーカルチャーの典型であ
るジャンルの中でも、極めて大衆性が高いとされるミステリー小説をとりあげる。選定においては、ある特定
の作家に偏ることなく複数の作家・作品を通して、いかに沈黙が作中で扱われ、登場人物や作者によって表出・
演出されるかを沈黙の場によって分類する。分析の結果、表層レベルでは声の欠落が場を満たしてはいるもの
の、物語全状況を踏まえて解釈すると、多くの場合、登場人物や作家による複数の声によって沈黙の場が満た
されていることが明らかである。卖なる声の欠落としてだけでは解釈できない意味のやりとりが場に満ちてお
り、沈黙は常に複数の声を帯同している。このように、存在的に矛盾する沈黙と声の関係を通して、多声性に
ついての考察をおこなう。
「国境なき医師団」による「人道主義」の構築
―北朝鮮における人道援助活動の事例から―
久保田 絢(目白大学)
1995 年から深刻化した北朝鮮における飢餓は国際的な注目を集め、日本を含む周辺諸国や米国、世界食糧計
画(WFP)などの国連機関、数多くの民間人道援助団体が支援に乗り出した。しかし、北朝鮮政府は、北朝鮮側
が同意した通訳者しか同伴を認めない、状況調査を監視し行動を制限する、援助の効果を援助者が査定する際
には一週間前までに通知しなければならないなど、援助者の活動を厳しく制限した。WFP や赤十字をなど多く
の団体はこれらの条件を受け入れ、援助活動を継続した。一方、
「国境なき医師団」
(MSF)などいくつかの援助
団体は北朝鮮における援助活動からの撤退を決め、1998 年には援助活動を打ち切った。MSF の撤退に関する言
説のレトリックを他の援助団体の言説と比較しながら分析することにより、(1) MSF のレトリックの特質と(2)
活動中止の背景にある MSF の意図を明らかにすることを目的とした。本研究は、人道主義(人道援助)の葛藤
を明らかにし、援助団体がレトリックを用いて葛藤に対処していくプロセスを明らかにする試みの1つと位置
づけられる。
分析の結果、以下 2 点が明らかになった。(1)北朝鮮に対する援助者は、活動原則を犠牲にし、活動そのも
のが危険にさらされるリスクを負うか、それとも活動原則を尊重し、援助を中止することで、困窮している人
びとが援助を受けられない状況を容認するかという深刻なジレンマに直面しなければならなかった。
(2) MSF の北朝鮮からの撤退は、援助物資を必要な人に分配するという役割以上に、メッセージの発信という
人道主義運動のメディアとしての機能を強く意識した行為である。北朝鮮の事例において、MSF が発信したメ
ッセージとは、北朝鮮政府により援助が掌握され、人びとに害を与えるものに転用されたことに対する憤りで
あり、それへの抵抗こそが MSF のアイデンティティの核となっている。援助活動の継続により、平和構築を目
的とする WFP や赤十字とはこの点で大きな違いがある。
前期ベンヤミンにおける言語論的理論枠組みの検討
―そのコミュニケーション/システム論的受容に向けて―
首藤 天信(立教大学)
近年、メディア論領域を中心に、ヴァルター・ベンヤミンを理論的に再評価する動きがある。なかでも切り
口として注目されているのが、ルーマンの社会システム理論(特にそのコミュニケーション概念)と、ベンヤ
ミンの言語理論との間の、類似性である。コミュニケーションの技術的な基礎に関して理論的な「盲点」をも
つとされる、ルーマンの社会システム理論だが、複製技術論に代表されるベンヤミンのメディア論的思考との
接合は、両者に理論的な相補性をもたらすかもしれない。
本研究では、こうした関心のもと、ベンヤミンの言語論の枠組みを再検討していく。ただし、ベンヤミンの
言語理論は、その歴史哲学と深く結び付いており、両者の交差点において解釈を進めていくことが妥当である
と考える。
ベンヤミンの歴史哲学は、歴史的事実の客観的把握を目指すものではない。ベンヤミンが〈歴史〉概念のも
とで探求するのは、そこにおいて歴史が解釈可能となるような、ある種の認識上のカテゴリーである。こうし
たカテゴリーはまた、
〈神話〉と呼ばれる。
〈神話〉とは、いわばそこからあらゆる経験が生成するような、先
験的な場である。
こうした認識カテゴリー(
〈神話〉
)を、意識構造と関連付けて理解してはならない。それは言語構造をもつ
ものとして考えられている。ベンヤミンは、言語を精神内実の伝達を目指す原理として規定しているが、これ
をたんなる記号作用と同定することには否定的である。ベンヤミンが強調するのは、言語のもつ先験的構造=
〈媒質〉性である。
前期ベンヤミンの理論的考察は、この〈神話〉=〈媒質〉構造のメカニズムを究明することに向けられてい
るようにみえる。美学的なカテゴリーの研究を通して、その形式論的側面や理念論的側面が論及されていく。
こうした過程を経て、ベンヤミンはその後期における“
〈神話〉にとって〈複製技術〉とは何か”という問いの
発見へと、向かっていったようにみえる。