たった一人の講座講師の紹介 - eutマーク Emotion Unification Training

たった一人の講座講師の紹介
古野 宏和 はじめに
この文章は、僕の実際の経験談や役に立つ心についての知識を勝手に語る場とさせてい
ただいています。僕について知ってもらうことが目的としてありはしますが、この文章には,
きっとそれ以上に何かを知ることができる言葉が込められていると自負しています。
これから始まるのは、誰もが通るであろう心の記憶。自分だけが今大変な思いをしている
わけでなく、自分だけが助けを求めているわけではない。そんな世の中で、僕が見つけた叡
智は誰にでも役に立つ可能性がある。
その叡智といっていい自分が与えられた経験を、一人でも多くの人に共有してほしい。そ
して、その知識がやがて誰かの役に立ってくれることを祈って、始まりとさせていただきたい
と思います。よろしくお願いします。
自己紹介
僕は父の仕事の都合上様々な場所に転勤する機会があったので、いろいろなところで幼
少期や青年期をすごしていました。日本はとってもきれいで豊かなところですよね。四季
折々の自然。これほど多彩で、この自然を大切にして生きてきた文化はそう多くありません。
それは人類の叡智といってもいいと思います。
豊かな自然に囲まれて暮らした僕には、その自然の豊かさ、美しさと、幼少のころの遊び
場であった場所たちの記憶が心にしっかりと刻み付けられています。今その自然の遊び場
を生活に取り戻すのが難しい状態ですが、いつか必ず実現させたい僕の夢になってます。
僕が子供のころ好きだった遊びに、「割り箸鉄砲」というのがあります。僕が勝手に命名し
たのですが、割り箸に輪ゴムをくくりつけ、テープで張ったものを用意し、どれだけ高く飛ば
せるか競争するというもので、勝手に自分で作った遊び道具の楽しさに兄弟ともども(僕に
は弟がいます)夢中になったものでした。
週末には隣近所のおばあちゃんの家で、友達とゆったりテレビを見たり遊んだりしたことも
ありました。
自然界には様々な生物がいて、それぞれの関わり合いで生態系を形成しています。僕の
家の裏には空き地があって、そこには季節に応じた様々な虫達がいました。夏にはよくカマ
キリとバッタが出没し、それらを同じ虫かごにいれ、カマキリとバッタの関係を観察したり(子
供は時に残酷ですね(笑))、バッタがコンクリートでからからに焼け焦げているのを持ち帰っ
たり。
自転車の練習をしてこけまくったのもいい思い出です。
その地域は秋には秋の素晴らしい景色を見せてくれることで僕の心を豊かにしてくれまし
た。美しい黒色の薄い羽を持つトンボや大空一面を覆う赤とんぼを追いかけ、遊びまわりま
した。ススキの生い茂る空き地に秘密基地を作ったはいいものの、ススキのせいで皮膚が荒
れ、その秘密基地を使うのを断念せざるを得なかったこと(作るのに一ヶ月近くかかったの
に!)、すごい霧が前面を覆いつくした登校路を少し不安な気持ちで登校したり、裏の空き
地に成る渋柿を干した干し柿を食べたりした記憶が、今も僕の中には確かに残っています。
僕の世界にはいつも自然の美しさが友となって存在していました。
冬になると大自然の驚異ともいえる雪が大量に降りましたが、僕達の心を占めていたのは
遊ぶことだけ。雪が降ろうが多少寒かろうが家にとどまらず外で遊びまわっていました。雪に
「かきごおりじゃああああ!!?」といってかじりついたり、雪合戦の雪に石を入れて投げてたの
を親に見つかって叱られたり。裏の空き地では家と同じくらい雪が積もり、その雪山でそりを
使って遊んだり。全長1メートル以上のツララを折って「剣士、爆誕!?」したり。雪かきして
る両親を無視して(ごめんね!)もはや必死になって遊んでいました。
・・・今思うと、それらの記憶すべてが、ぼくの過去の美しく、喜びにあふれた記憶の集大成
であり、すべての終着点になるであろう場所なのだと感じます。
だからこそ、いまの成人を過ぎた僕の目標は、豊かな自然に囲まれて生きることなんで
す。そしてそれはそう遠くない未来に叶うことでしょう。
赤い空、夕凪 ひとつの思い出
ひとつ、ぼくには小さいころから持っていた夢がありました。それは「医者になる」というもの
です。この夢のきっかけは、僕が幼いころテレビで放映されていた医療番組で医者が人を
助ける姿です。その取材地域ははっきり覚えていませんが、青年海外協力隊での外国の医
師の奮闘を描いたものだったのは覚えています。
・・・かっこいい。
僕は、大人になったら人を助ける仕事に就きたいとずっと思っていました。そして、人を助
けるためにできることなら何でもできる覚悟を持っていました。それが多分小学校2年のこ
ろ。それから僕はかなりまじめに勉強するようになりました。「お医者さんになるにはすごく頭
が良くないとだめよ。」という周囲の言葉を信じ、小学校ではいつもトップであろうとしました。
実際トップでした。そして、その言葉を信じ続けて生き、だんだんと勉強に時間を費やすよう
になってから、僕の遊ぶ時間はめっきり減っていきました。
中学校では、楽しそうなテニス(母に勧められたのが一番の理由)に見学に行き、少しボー
ルを友達と打った後その楽しさに没頭し、学校が終わったら誰よりも早くすぐコートに行って
ボールを友達と打って遊んでいました。同時に勉学にも励み、ノートをぐちゃぐちゃにして勉
強していました。
・・・そこから僕の人生に影が差し始めます。
白い鳥、鐘の音 僕の故郷
僕の生まれは富山県。僕の母方の祖父母と父方の祖父母が富山県内の少し離れたところ
に住んでいたので、たまに両方に家族で訪れるようにしていました。僕が楽しみだったのが
おじいちゃんとおばあちゃんと一緒に遊ぶことで、特におじいちゃんは大好きでした。多分
根っからのおじいちゃんっこでした。本当に今考えるとおじいちゃんには感謝しかありませ
ん。
ただ一緒に遊べるだけで幸せだった僕は、おじいちゃんとおばあちゃんが実家から自分
の自宅に来てくれる前の一週間、いつも眠れないほどその日を待ち通しにしていました。周
囲は、おじいちゃんとおばあちゃんが好きなものを買ってくれるからそんなに待ち遠しいの
かなと思っていたようですが、​僕はただ来てくれるだけで本当にうれしかったのです​。
だって、うれしさ、楽しさ、喜び、遊びを共有できる人が、僕の弟以外にも一時的とはいえ増
えるのですから。こんなに素敵で、こんなに楽しみなことはありません。
僕は幼いころよくおじいちゃんにチューリップ畑に連れて行ってもらっていました。その
チューリップ園でなぜか僕の目をよく引いたのがコスモスで、チューリップではありませんで
した。チューリップは植物として少し違和感を幼いながら感じていたのです。自然に咲くコス
モスがふわっと広がっている景色のほうが僕はお気に入りでした。よく走り回ってたのをなん
となく覚えています。
故郷というものは、その人の心に残り続けるものです。その故郷には必ず、その人が経験
した感覚がセットになっています。僕の故郷は、やっぱり、自然・家族だったのです。
青い星、大空 楔
僕の中学校の話に戻ります。僕は放課後テニスをするのと同時に勉強にも精をだし、いつ
もトップの座を独占し続けていました。はっきり言って勉強の成績において僕に勝る存在は
同じ学年にはいませんでした。でも、そんなトップの座にいつづけたのも別に一番になりた
かったからではなく、小学校からの「医者になる」という夢を叶えるため、人を助けるための必
死な努力の成果だったのです。
僕の生活の場は、中学校から基本的に学校を中心としたものとなります。中学校で遊びは
変化し、テニスが僕の遊びの中心の場になりました。中学一年間はその遊びに純粋に夢中
になれたのですが・・・ここからその人生に苦痛が忍び寄り始めます。
僕は生徒会の人となぜか親しくなり、様々なことを頼まれるようにもなりました。大勢の人の
前で発表するのもその一つの役目でしたが、その時初めて感じたのが、人の前で発表する
ことへの​漠然とした、でも決して逆らえない恐怖​です。
自分の人生でわけの分からない苦痛にはっきり直面したのはこれが初めてで、本当に動
揺したのを覚えています。一応その発表は乗り切ることができましたが、その後なかなかそ
の恐怖が収まらなかったのを覚えています。
この章のタイトルが楔なのも、人間が感じる漠然とした感情的苦痛が「楔」として表現できる
ものだと感じたからです。それは本人が意識していないのに本人の行動に大きな悪影響を
与える楔でもあると同時に、本人にとって直面するのが本当につらい記憶でもあります。
その「楔」は部活にも忍び寄ります。
僕は基本的に人と競うのが得意でなく、競争という概念に嫌悪感を持っていました。そして
逆に「部活」という特性上、現在の教育的な部活の形として「大会」に出場するのは基本中
の基本です。
僕の「楔」がものすごい苦痛を僕に与えるようになったきっかけが、この大会における「人と
競うこと」でした。競争をする直前に僕が毎回陥るのが、​わけの分からない「怒りと恐怖」​でし
た。
そしてぼくはなぜかミスを連発し、監督にも叱られ、それにも怒りを感じ、わけの分からない
苦痛を感じ、僕はここから次第に苦しみ始めます。
緑の森、豆の木 ほどけない苦痛
「楔」の厄介なところは、​本人がその苦痛の原因にほとんどの場合気づけない​ということで
しょう。ぼくが本当に困ったのもこの点でした。
何に対して恐怖や怒りを感じているのか分からないのに、特定の状況や何か特定のパ
ターンに遭遇すると、必ず苦しみ、怒り、胸のつかえが襲いかかってきます。それは僕にとっ
てもう本当にやめてほしい、止めてほしい、逃げたい苦痛でした。
その苦痛から逃げたいという思いから、ぼくは部活をできるだけサボりたいと思うようになり
ます。
毎日朝のテレビで天気予報を確認。「よし、きょうは降水確率30%・・・。これはいけるん
じゃないか?」 ・・・はっきりいってバカです(笑)
・・・まあ、それだけ苦痛から逃げたいという思いが強かったのも理由だったのかもしれませ
ん。
この苦痛はまるで、常に何かが巻きついていて、ことあるごとにそれが僕を締め付けるよう
な、そんな苦しみでした。
そんな苦痛を抱える僕に、人生における大きな大きなターニングポイントが襲いかかりま
す。
ぼくには弟がいます。昔から仲が良かった兄弟だったと母にも言われたこともありますが、
少なくとも僕が中学二年の初めまでは一緒に良く遊んでいたのを覚えています。
それまでの僕と弟の関係は、なんというか、お互い素直になれないけど互いに大好きなの
が周囲には伝わっているような関係だったようです。今思うとそれは完全に当たっているの
ですが。
おこずかいをもらい始めたぼくは、弟の誕生日に何かプレゼントを買ってあげたいと思い、
自分の手で初めて一人でお使いのようなことをしたことがあります。かなりドキドキして、その
時はやっていたカードゲームの300円ぐらいのパックをたった一つ。それだけしか買えるお
金が無かったので、それを買って家に帰りました。
そのプレゼントをなんか気恥ずかしい思いで弟に渡して、弟もなんだかんだでうれしそう
で、とてもうれしかったのを今でも覚えています。
いつも一緒に遊んでくれるのは僕の弟でした。どんなときも、一人で暇になることなく、さび
しくなることもなく、一緒に遊んでくれた。そばにいてくれた。時にはけんかしたりしたかもし
れないけど、すぐに仲直りできた。やっぱり本心では互いにけんかしても大丈夫だとわかっ
てたから。
今思うと、なんだか、僕は恵まれていてよかったなと思います。
ぼくは、この弟と中学2年のころまたけんかをします。でもこのけんかは、僕が自分の問題
でいらいらして弟に当たってしまったのが原因にもありました。
僕と弟は空手を少し習っていたので、それなりに殴ることもできました。そしてたまたまか、
弟のパンチが僕のみぞおちに完全に当たりました。
・・・ぼくはそのあまりの痛さに悶絶打って床を転げまわり、痛すぎて涙を流していました。
そしてここで一つ大きな勘違いをします。
​自分がかかわると、かかわった人が傷つく​・・​僕は、人に受け入れてもらう資格がない​という
勘違いです。
この勘違いは、そこから僕を長きに渡って苦しめ続けます。
金の糸、夕焼け 届かない思い
ぼくの夢は「医者になる」というものでした。それは幼少期に見たテレビ番組に影響された
ものでもありましたが、僕自身の最も叶えたい願いは「人を本当の笑顔にしたい」というもの
で、それは今も変わりません。
高校入試後、県内でも有数の進学校に入学しました。そしてそこで勉強をしだすのです
が、やはり有数の進学校である分勉強もできる子もたくさんいて、ぼくは今までのトップだっ
た自分と異なる形で成績が下がるのをみていくことになります。
・・・まあ、実はそこはあんまり問題ではありませんでした。
一番の問題は、僕自身が西洋医学について詳しく知れば知るほど、​医者になりたいという
昔持っていた意欲がしぼんでいってしまった​というところでした。
西洋医学は基本的に対症療法です。対症療法とは、原因を解決するのではなく、結果と
して出た症状を除去、抑制する療法のことです。実際この療法で解決する問題もあるので
すが・・・僕自身の経験談を交えてお話したいと思います。
ぼくは幼少期のころから鼻炎(蓄膿症)をわずらっていました。その蓄膿症の治療のため
耳鼻科に結構長い間通っていたのですが、1年以上たっても症状が良くなりませんでした。
鼻に気化した薬を注入し、薬を飲み、抗生物質も飲んだにもかかわらず、まったく良くならな
い鼻。見かねた母が、東洋医学で使われるという少し高価な漢方薬を購入してきます。
苦い。あまりおいしくない。ですが僕はもう正直鼻炎に悩まされるのは嫌だったので、しっ
かり3週間飲み続けました。そして面白いことに、ご飯を食べたり、普通に生活しているとき
に舌に香水のような強いにおいがする液体が流れているのに気づきだします。
最初僕はご飯の中になんか入っているのかと思っていましたが、これ実は鼻にたまってい
た化学毒素でした。
しばらくして、今度は大量に鼻水が出だします。尋常じゃないほどの粘ついた鼻水をかむ
ために二日間でティッシュ箱2箱は使いました。
・・・そして、鼻水が出終わると、ぴたっと鼻炎の症状が治まったのです。これには僕も母も
びっくりしました。
最近の観察の結果からも、植物の苦味に含まれる成分は、鼻に余分に蓄積された粘液や
毒素を排出する効果があることが僕には分かりました。春の七草(ふきのとうとかとくににが
い(笑))を日本人が食べる習慣を持っていたのも、冬の間にたまった重い粘液を排出しリフ
レッシュするためだったとも言われています。
この経験が、まず僕が西洋医学に疑問を持ち出した一つ目の出来事でした。
この件以来医学という体系に興味を持ち、様々な医学の初歩の知識に触れてみようと思
い、伝統医学について調べだした僕は、様々な現象の裏にある​真の原因を追究する​ことの
重要性に気づかされ始めます。
そして、多くの西洋医学の治療は真の原因にフォーカスできていないという事実にも気づ
き始めます。これは西洋医学を否定しているわけでもなんでもなく、事実として、原因と結果
がずれている治療が平然となされているということが多々あるということを知ったということで
す。これは5年以上たった今では確信に変わっています。
どんどん西洋医学を扱う医師になることに嫌気が差してきた僕ですが、家族や多くの人に
言った目標である以上あきらめるのは駄目だという勝手な思い込みから勉強をしつづけま
す。しかしまったく集中できず、最終的にストレスで十二指腸潰瘍になりました。
十二指腸潰瘍になったとき胃カメラを鼻から入れてもらったのですが、あの感覚はなかな
かのものでした。もうやりたくないです。
黄の土、流砂 しずむ心
夢に対する心の支えが失われるにつれ、僕自身勉強に対しての意欲がなくなっていくと同
時に、僕の興味も他に移り始めます。それは、​第一次産業の農業​です。それはなぜか。
人体の健康の学習をするにつれて、食べ物の重要性を認識せざるを得なかったため​でし
た。
僕は最初農業自体には関心はなく、食べるものはある程度健康を保てれたらいいと思っ
ていました。しかし、食べ物に興味を持ち始めると、現在の食生活の形に隠れた様々なず
れ、毒、等々が見え始めていったのです。
まだ一応医師を目指して学習をしていた頃になりますが、僕は農業の農法である自然農
法に関心を持ち始めます。自然農法は、耕さず(最初の農作業上の整地を一度だけ行いそ
れからは農地は耕さない)、肥料を与えず、農薬も使わず、除草さえせずに農業を行うという
もので、まるで原始的でありながらこれからの未来の考え方にも参考になる農法です。
有機農法についても知っていたのですが、有機農法で使われる肥料に問題があることが
多く、その肥料の多くは大量の薬や抗生物質を食べさせられた家畜の糞であることからも、
作物の腐敗性(腐りやすさ。体内で毒になる作物が作られるということ)に大きな差が出てし
まうことが実験でわかっています。
自然農法に近い形で、より多くの人に食料が回るようなそんな暮らしはないのか・・・
僕が次に興味を持ったのはその考えでした。
僕が自然農法に興味を持ったのは、自然界が常に自然物のバランスをとり、異常な生命
体を除去しようとする働きであるホメオスタシスを保持していることも理由にあります。この仕
組みは人体にもしっかり備わっていて、デトックス、下毒としても知られます。
害虫といわれる虫が作物を食べるのは、実は、食べたいから食べてるのではなく、汚物を
掃除するために食べているとしたら・・・害虫が全て益虫だとしたら・・・​私たちは何をやって
いるのだろうか​?
今考えると、僕が興味のあった分野の学問や技術は、世間的に認められていなかった、研
究費用がまったくといっていいほど捻出されていなかったという事実があったのだなと思い
ます。自分の興味のある分野をほとんど学べないこの大学のシステムを知るのはもう少し後
の話になります。
自分の勉強したいことの知識もあまり得られない大学生活で、僕は何をしていていたの
か。今思うと、(そのときはわかっていなかったのですが)自分自身で知識を選択して学び、
常識​というものに立ち向かう知恵と知識を勝ち取り続けていたのがこの時期だったのでしょ
う。
心が乱れ、自分のかつての夢に興味を持てなくなった後に、この農業というものに関心を
持てたことは僕にとって良い刺激になりました。すこし苦しかった気分も晴れ、自分の学問に
精を出せるようになったのもこれのおかげだったと、今になって思います。
紅の心、暗闇 わけがわからない
その後僕は大学で農学部に進学します。自分の興味のある分野や、自然農法についてな
にか良いことを学べないか、それらを仕事に生かせないかという考えで農学部を志望したの
ですが。
・・・まあ、コトはそううまく運ばないもので。
僕は農学部に進学した後、農学部の勉強が最初の頃高校の総復習のような学習ばかり
だったのに飽き、いつも寝てばかりいました。正直、高校の内容は飽きるほどやっていたし、
面白くなくてまったくやる気がおきなかったのです。
大体の授業に興味が持てず、せっかく大学に進学したからには一生懸命勉強しようと思っ
ていた意欲も次第に薄れていきました。
・・・なぜ、ぼくはここにいるのだろうか。
大学に進学してからの興味・関心は、どんどん自分自身興味のある心理、哲学、暮らしの
知恵に向いていきましたが、学校の勉強はどんどんおろそかになっていきました。
正直これで大丈夫なのかという不安はいつもありました。せっかく大学に入学して、学費を
払ってもらっているのに、こんなぐうたらな生活してていいのか。
しかも僕自身の問題としてずっと抱えていたのが、人に対して心を開くことができない自分
でした。一度人と仲良くなっても、最終的には仲良くなった人とかかわるのをできるだけ避け
ようとする自分。一度親しい関係ができそうになると、僕はものすごく恐くなって毎回逃げて
いました。
多分周りから当時の僕をみたら、「近づかないで・・・。」と態度で言っているように見えたか
もしれません。僕はこんな自分が嫌で、人と積極的にできるだけ仲良くなろうとしましたが、ど
うしても恐怖、苦痛がぬぐえず最終的にはかかわりを避け引きこもってしまっていました。
そして、自分の子供の頃からの「人を助けられる仕事」につけるような未来図がまった
く描けなくなっていく自分に、一種の絶望を感じ始めました。
虹の光、始まり はじけた思い
僕は一人暮らし(学生寮)しながら大学生活を送っていました。当然家族とは離れ離れ。
家族四人全員が様々な地にばらばらに住むという状況でした。
そんな中、かかってくる電話に出るのが次第に怖くなり、親身にしてもらっていた人からの
電話さえもできるだけかけ直さないように、知らない人からの電話もできるだけ出ないように
していた僕は、家族からの少ない電話さえ無視しようとします。
当然怒られます。
その当時の僕は携帯というもの自体持ちたくないと思っていました。誰かと接触することが
苦痛になっていた僕は、できるだけ引きこもっていたいと思っていて、その引きこもりの世界
から外に連れ出されることをかなり強く嫌っていました。その要因となる携帯を持ちたくない。
こうして勝手に電話に対しての嫌悪感を自分の中に募らせながら、それでもどうしても外界と
のかかわりを避けることができず、苦痛にさいなまれながら暮らしていました。
・・・僕は、いらないのではないだろうか。僕は、この世界にいる価値がないのではないだろ
うか。僕は、ここにいてもいいのだろうか。
そんな自己否定の思考が頭のなかで渦巻き、​それでも、誰かを助けたいと願う自分​。
それは完全にずれている考えだったのかもしれません。そんな状態では誰も助けることなん
てできないことを当時の僕は知らなかったのでしょう。
・・・でも、今の僕がこうしていられるのは、この当時の僕が、本当に苦しんだ中を精一杯生
き、自分の信念を失わず努力し続けてくれたおかげなのです。
母と携帯を持つことについてけんかをした僕は、その後も家族の電話さえ無視しようとしま
す。しかしたまたま、母からかかってきた電話に学校にいたときに出る機会がありました。音
を止める方法が思いつかなかったのが理由でしたが、この電話が僕にとって大きなターニン
グポイントになりました。
赤い炎、灯火 怒り
僕は以前から心理に関する著書や理論に興味があり、特に高校時代は老子の思想に夢
中になっていました。老子は無為自然を最上とする思想体系であり、無為自然とは「あるが
ままの自分、最も自然な自分、最も自然的な形の自然」です。
水は上から下に流れ、柔らかいのに、大量に勢いよく流れれば大樹でさえ根こそぎ倒し流
します。柔は剛より強く、​形のあるものの中でも形のない部分の大切さを説く​この思想はなか
なか特殊なものでした。すべての源である道(タオ)についての考えも興味深いものです。
そんな風に心理学・哲学への関心を持ち続けた僕でしたが、僕の母は、自分の内面に取
り組むための催眠療法、退行療法に関する知識と経験を持っていました。
僕が大学でたまたま母から電話を受け取ったとき、母が「催眠療法やってみる?」と言い出
します。僕はこのとき少しどうしようか迷いましたが、実はこの療法には昔から少し興味を
持っていて、母に手伝ってもらって試しにやってみることにしました。
この催眠療法でよく経験のない人が勘違いするのが、「催眠療法でははっきりビジョンが
みえる」という点です。経験すると分かりますが、ほとんどの場合ビジョンは非常にぼやけピ
ントが合っていません。見えない、はっきり見えないというほとんどの人はちゃんと見えている
ことも多く、これに関しては多くの経験を積むのが一番なのかなとも思っています。
家に帰った僕は寝そべって、携帯を枕元におき、母の誘導のもと催眠療法を行います。
・・・まず見えたのが、幼い少年が電車に乗っている風景でした。その少年はどこかに旅に
出かけようとしています。正直意味が分かりませんでした。
少しすると風景が変わっていきます。見えてきたのは、騎士のような若い男性がいろんな
貴族のような人に囲まれている情景でした。ワインをもっていろんな人と楽しそうに談話して
いるその男性。この男性が誰なのかはその時僕にはわかりませんでした。
また場面が変わり、今度はその男性の両親が内密の話をしている情景が浮かびました。
そして場面は変わり、今度は先ほどの騎士のような男性が牢屋に閉じ込められ、苦しんで
いる情景に出くわしました。壁には血だらけの手でひっかいた痕が残り、はいつくばる男
性。その男性を見ている僕は、次第にこれが自分自身だということに気づきだしました。
そして母の誘導で目を覚ました僕でしたが、今見た情景が忘れられず、この催眠療法を自
分でもっとやってみようと決意します。
橙の炎、ランプ 自己嫌悪
母の催眠療法の後、自分自身で退行することができないかをやってみると、以外にすんな
り過去の記憶が見れることに気づいた僕は、自分で催眠療法を試し続けます。
方法は簡単です。深呼吸をし、体全体をリラックスさせた後、ただ寝そべりただ目をつぶっ
て何かが出てくるのを待ちます。・・・僕がやったのはこれだけです。
もし何か目的をもって見たいのなら、心の中で質問をしてみるのもいいでしょう。たとえば、
「もし今感じている心の苦しさが過去に関係しているものなら、その原因をみせてください」
など。
勘違いしないでください。​誰にでもできます​。これは特殊な人だけにできる能力ではありま
せん。​ただのスキルであり、練習により上達するものです​。
それでは僕が見た次の記憶についてお話します。
見えたのは、誰かがベットに寝ているシーンで、その人の手を握り締めている女の自分が
見えたシーン。
・・・この時僕はわかっていなかったのですが、この療法を進める上での一番の感情的問題
がこの記憶に隠れていました。それは正真正銘、​自分を殺すほどの罪悪感​でした。この記
憶については後ほど説明させてもらいます。
僕は小学校や中学時代よくおなかを壊していました。いつも困っていたのでお母さんに腹
巻買ってと何度もお願いしていたのですが、いつも買ってもらえずにすねていたのを覚えて
います。何で買ってもらえなかったのかいまだに理解ができないのですが(笑)、多分腹巻
をしても僕の腹痛はよくならなかったのだと今になってはわかります。
人間には、自分を否定してしまう側面が存在します。自己を否定するとたいていの場合お
なかが痛くなるということを僕は観察と自分の経験によって学びました。これはチャクラという
概念で説明できます。
自分の側面を嫌悪するということは、自分の一部を自分のものではないと考えることでもあ
り、やり続けるとやがて肉体に大きなダメージが加算されていきます。結果として様々な疾患
(ひどい場合癌にまでなる)が発生するのです。
癌細胞は自らを破壊する細胞です。宿主である人体が壊死した場合、癌細胞は生き残る
ことができません。なのになぜ彼らは増殖を繰り返し、人体を破壊し続けるのでしょう。
これはまるで自己否定が形になったようなものではないでしょうか​。
自己を否定する。自分の一面を否定する。自己を嫌悪する。この感覚、この痛みは実際経
験してみなければわからないものがあります。
・・・ただ。どれほど慈悲深いと思われていようと、大きな罪悪感をもったことのない人は共感
性が不足しているということが、僕には見て感じ取れるのです。
​痛みを感じる経験をすることで人は強くなる​。この事実にその時僕は気づいていませんで
した。
琥珀の涙、一粒 悲しみ
またまた過去退行の話になります。すこし長い話ですがお付き合いください(笑)
この催眠療法では、過去生というものと、幼少時代の二パターンが基本的に見えるのが特
徴です。まずその説明をしたいと思います。
過去生・・・輪廻転生というシステムについて聞いたことはありますか?​このシステムは実際
に存在する​ということを僕は今までの人生経験から信じています。この転生というシステムは
「​魂ともう一つの別の意識体​が様々な経験を通して自己を知る旅をする」というのが特徴で
す。
転生については様々な宗教で述べられており、実際転生に触れている宗教は全世界でも
80%にのぼるといわれます。それほど良く知られたシステムでありながら、謎に包まれてい
るのが現状です。
幼少時代・・・幼少期には僕たちはひ弱で、ほとんど自分ではなにもできず、保護者の助
けを常に必要としていました。助けてくれるかどうかは親の気まぐれ。助けてほしいときにそ
の声が否定されるという体験も幼少期にはたくさんします。​親は子供のことをほとんど知るこ
とができない​のです。「私は子供のことをわかってあげてる」という単純思考をすることがどれ
だけばかげているのか。子供と自分は同じ一つの生命であり、その関係性はパートナーや
友人と同義であるという事実に気づかず、子供は自分のものだと考えることは愚か以外の何
者でもありません。
そんなちょっとどころではないばかな親の保護下で生きる子供は苦痛にたくさん直面しま
す。その苦痛から逃げる、その記憶を封じることで痛みに対処するのが普通の子供がするこ
とです。そして、​逃げた、封じた記憶は実はずっとわたしたちを苦しめ続けます​。これは過去
生に関しても同じで、過去生で受けた苦痛の記憶が解消できなかった場合その記憶は残り
続け、私たちの現在の身体にさえ悪影響を及ぼします。
ぼくの幼少時代は、母と仲良くできなかったことに対する苦痛でいっぱいでした。僕の母
は、弟を出産するときに僕を祖父母へと預けていたのですが、それが僕には「あなたはわた
しにちかづかないでね」と言われているようでものすごく苦痛だったのです。
弟が生まれてからも母自身が抱えていた問題によって、僕は母と親しく遊んだりしてもらっ
たことがありませんでした。僕が一緒に遊ぼうといろんなことを考えて試しても、僕の母は僕
の相手をしてくれませんでした。どうしても一緒に遊んでくれない。どうしてもこっちを見てく
れない。そんなことを何度も何度も何度も繰り返し、最終的に心が痛くて痛くてたまらなく
なった僕は、こう自分に言い訳して、母に笑顔を見せることをやめます。
お母さんは僕を見てもちっとも楽しそうじゃない。ううん、いつも苦しそうだ。
・・・僕はここにいちゃいけない子なのかもしれない。ぼくはここにいてもいいのだろうか。​ぼく
は生きていていいのだろうか​。
こんな苦しい思いを持っていたことに気づいたのは大人になってからでした。それまでは
まったくそんなことに気づきもせず、​気づかないのに​母に腹が立ったり、弟とかかわることを
避けたりしていました。この後もずっと意味もわからず逃避し、感情的苦痛を感じていて、引
きこもりの症状もエスカレートしていったのです。
紫の雲、流転 恐怖
またまた過去退行のお話です(笑)
僕が持っていた過去生の記憶に、僕自身がシスターになって教会で演説しているという
シーンがありました。記憶を思い出すとき毎回左のほっぺたがズキズキと痛むというのがこの
記憶の特徴でした。
演説している自分のシーンだけではよくわからなかったので、「ほっぺの痛みの原因となる
記憶が見たい」と念じると場面が変わり、僕が黒尽くめの何者かに演説中に押し倒され、
ほっぺに刃物を刺されて死んでいる情景が見えてきました。
・・・記憶としてはぼやけているものの、その凄惨な情景はなかなかこたえるものがありまし
た。そしてなんとなくですが、この傷は過去に刺され死んだときの痛みなのだろうという検討
がつきました。
過去の記憶と同時に、過去の未解決の痛みが催眠療法では軽い形で蘇ることがよくありま
す。これは、痛みに付随した記憶の問題がまだ終わっていないよというメッセージになると同
時に、過去の傷、肉体的痛み自体が解消できていないものでもあります。痛みは、基本的
に過去の記憶にしっかり対処すれば耐えられる軽い範囲で浮上し、勝手に消えていきま
す。このときも、最初にこの刃物を刺されている情景を見ているときにはほっぺが結構痛
かったのですが、しばらくするとその痛みは消えていきました。
それよりもこの記憶で問題だったのは、​僕自身が人前で何かをするときに感じていた恐怖
とこの記憶が完全にリンクしていた​ことでした。
先ほど触れましたが、僕は中学時代の大衆前での発表時に、自分でもわけの分からない
恐怖で足がすくみ、発表が終わってもその恐怖がなかなか消えなかったことがありました。こ
の中学時代の状況が、このシスターのときの記憶と強くリンクしていた​ということです。
もう少し詳しく説明すると、記憶と感情を抑圧したとき、抑圧した状況と似たような情景に出
くわしたとき無意識的にトラウマがよみがえってしまうという現象があります。これは​アンカリン
グ​と呼ばれる生物的な記憶と感情の結びつきで説明できます。一般的定義は過去の記憶と
感情に限定されていますが、実は過去生の記憶と感情さえこのアンカリングの例外ではな
いということです。だからこその「意味の分からない」苦痛なのです。
僕が抱えていた恐怖とは、このとき殺された経験、感じた恐怖がまだ記憶に残っていて、
それが似たような状況(演説≒人前で発表)でよみがえってしまったということになります。
銀の刃、刹那 痛み
またまた過去生のお話です(笑)
僕はこの退行療法を継続して行い続けたのですが、最初のころなかなか大変だったの
が、自分の記憶とその時受けた痛みがリンクして浮上する現象でした。その現象については
前回触れましたが、記憶の想起が連続して行われたとき、それぞれの記憶で受けた強い痛
みが​軽い形である​とはいえ蘇るのはなかなかこたえるものがありました。
2時間程度で10近くの過去生を見たときには、顔、頭頂部ぬ、胸、手、足のそれぞれに痛
みを感じたこともありました。突き刺すようなじくじくした痛み、切られたような痛み、殴られた
ような痛み、毒を頭からかけられ頭がドロドロ溶けるような感覚。痛みにも種類が様々あり、な
かなか大変な最後を僕はむかえてらっしゃる(笑)とよく思ったものです。
一番ひどい痛みだったのは直近の過去生で頭を銃で殴打されて死んだときのもので、こ
れは正直かなりひどく、頭痛で吐き気をもよおし、実際に何度か吐きました。
記憶を思い出すということは簡単な作業ではなく、時には苦痛も伴います。しかしその苦
痛にはやがて終わるときがやってくるし、それは意外に早いものです。そして、記憶を抱え
続ける苦痛と、記憶と向き合い手放す一瞬の苦痛を比べてみると、やはり僕は記憶に向か
い合うことを人にも勧めたいと思っています。​なぜなら、記憶に向かわない限り、その痛みは
ずっとあなたの体に残りあなたを長い間苦しめるからです​。
僕自身徹底的に本当に多くの記憶と向かい合った経験からこの言葉は生まれています。
記憶に向かうという旅はあなたにたくさんのものを届けてくれるでしょう。
時の力、逆行 過去回帰
私たちはこの世界で、時計、時間を元に生活しています。この時計や、時間、年号や世紀
といった概念により、過去に起こった出来事を過去とし、未来起こると予想する出来事を未
来として​概念化して​生活しています。
過去と未来という概念はとても便利で、時間を形作り、人が効率的に同時に動くためには
欠かせないものです。とても有効に使えるものでもあります。
過去に起こったことや過去の人物が残した書物は、私たちに技術や叡智を与えます。
未来を予想し行動を計画することで、実際の現場でより有利、効率的に私たちは動くことが
できます。
この過去と未来という概念は便利なものです。そして便利なものであるがゆえに、私たちの
中には、「今という連続した瞬間しかない」という事実を忘れてしまう人が多くいます。いえ、
ほとんどの人が忘れています​。忘れている人。過去の後悔や未来の杞憂でいつも頭の中が
一杯な人が当てはまるでしょう。
まあ、「後悔や杞憂をするな」といわれても、それをする原因が過去に形成された記憶にあ
る以上、その記憶を解決しない限り「後悔や杞憂は消えない」のですが。
「今しかない」という言葉は様々な精神世界の人々が用いる言葉でもありますが。
この言葉には大きな注意点があります。それはやはり上で言っているように、「​今しかないけ
ど、今起こっている苦痛の原因は過去にある​」ということがほぼすべてだということにありま
す。
ただ何も考えない、ただここにあろうとする。そういった瞑想が良いとされ、そういった瞑想
に励むのも良いかもしれませんが、一つ注意です。
本当の瞑想は​内部対話​であり、会話を無くすことでも、痛みを麻痺させ無感覚になること
でもありません。過去の問題に取り組む。内面の自分の一面と会話する。感覚を最大限に
研ぎ澄ます。​イメージの世界、創造の、記憶の世界を旅するのが本当の瞑想です​。​瞑想と
は、動的なものなのです。
新しい敵、内向 記憶と感情
過去退行療法を続けていくと、今の自分の体のどこかに、なにか自分でありながら、自分と
は思えないほどのぼやっとした小さな人を体の中に見つけることがあります。
僕は、この自分の体内に形成される人を「ペルソナ」と呼んでいます。
その人は(人にもよるのですが)とても融通が利かない、頑固な人です。僕の体内には、​引
きこもっている人、自分を叱責している人、人の怒りに怒り返す人の三人​が存在していまし
た。
ペルソナについてはこの場では詳しく触れることができないのですが、簡単に言うとこの人
は「自分を守るために記憶として作った、防衛者」といった所でしょう。
ペルソナは、特定条件下で必ず発動する記憶に染み付いたパターンを持っています。彼
らの目的はただ一つ、「宿主を守る」ことのみ。
彼らが動き出すと、宿主は彼らの思考行動パターンに縛られます。そのパターンは本人が
気付かないうちに発動し気付かないうちに終わるので、本人がペルソナの存在に気付くまで
にはかなりの努力が必要になります。ペルソナは、僕が見た限り、​ほぼすべての人の心の中
に存在しています​。意識的に努力しペルソナを統合しない限り、そのペルソナは主導権を
宿主に返すことはありません。
例ですが、僕の自分を叱責するペルソナは、自分に脅迫的な努力を常に押し付けていま
した。そうすることが「自分」を守るために役立つと、そのペルソナがかたくなに信じていたた
めです。そのペルソナが僕を叱責している間は僕は休まることなく、「努力しなければならな
い、勉強しなければならない」と自らを奮い立たせ続けました。
勉強には集中力が必要です。集中力には、正しい食事と十分な休養が必要です。そのす
べてが足りなかった(特に食事)高校時代、眠くて眠くて仕方ない状態で、僕は自分の強迫
観念に叱られ続け、恐怖の念にせきたてられるように勉強をしていました。そしてまったく効
率が良くありませんでした。
渦の彼方、複線 知らなかった
突然ですが・・・夢の話から。この夢については心理学でも様々な手法を用いた問題分析
が行われ続けています。・・・ちなみに僕には少し変な癖がありました。
以前(大学時代です)、僕は大体朝の6時ぐらいに起きて、その後7~8時まで2度寝する
という変な癖を毎日繰り返していました。この変な癖は、「早起きして、勉強しなければならな
い」という強迫観念からなる僕の、目覚ましを何個も使った無理矢理の習慣改善によって身
についたものです(笑)
ぼくはどうしても2度寝を克服することができず、克服できない自分をいつも責めていまし
た。実際それだけこの癖はなくならなかったのですが、この2度寝のときによく変な現象が起
こるのを目撃していました。
毎回ではありませんでしたが、2度寝をするとよく夢をみました。それはほとんど意味の分
からないぼやけたものから、​はっきりとしているけども夢の意味がまったくわからないもの​まで
幅広しでした。
その変な、はっきりしているけども夢の意味がまったくわからないものに、「僕が有名なゴル
ファーになってゴルフ用具のドライバーで野球をしている」というものがありました。
そのとき、これもなぜかわからなかったのですが、有名な野球選手が出てきて「なぜか年
間200本安打を野球選手が達成しているのに、ゴルファーである自分は100本安打を達成
した」というちょっとしょぼい結果のようなデータが夢に浮かびました。
目が覚めた僕は、このわけの分からない夢について考えました。
当時、僕は自分の心理に関する技術が少しずつ形になるのを感じていました。その時僕
がこの夢を分析して考えたのが、「心理に関する技術的能力が現在多分プロの半分程度に
まで高まったという合図ではないか」というものでした。
今思ってみるとまったく的外れだったのですが(笑)
僕には、自分の幸せが、ある特定の状況にあるという少し強迫的な考えがありました。それ
は、原因と結果という宇宙の法則の​結果にのみ焦点を合わせた​、ゆがんだ考え方でした。
僕はいつのころからか、未来の結果に向かって努力することだけが生活のすべてになって
いました。結果が、幸せを得るための鍵だ。結果さえあれば、自分は今より良くなれる。その
ための努力であり、そのための今なのだ。
そうやって、中学、高校時代を乗り越えてきた自分は、大学時代にもその傾向を持ってい
ました。​そしてそれがまったくの間違いだったということに後になって気づきました​。
幸せ。安心感。感謝の念。喜び。笑い。楽しみ。自分を叱責せずとも安寧して暮らせる。
そんな状況は、外面の何かを築くだけでは永遠に訪れません。
僕は大変でした。​苦しかった。​人に何かをしたいと思いながらも、自分の苦しみがそれを邪
魔した。その痛みがそれを邪魔した。社会的な思い込みがそれを、恥という恐怖がそれを、
わけの分からない苦痛がそれを邪魔した。
僕はいつも、ただ一心に人を助けたいという、痛みにもだえ、自分を封じながら、楽しめな
い、笑えない、泣けない、自分を素直に表現できない人を助けたいという、その思いを忘れ
ず生きてきました。どうしても忘れられなかった。どうしても。何をしても。痛みを麻痺させよう
と食べ物にしがみついても。性的な快感で痛みを消そうとしても。一人引きこもって耐えて
も。
その思いが叶えられないのなら、楽にならなくてもいい。自分は苦しんでも良い。
母は、僕が見ているときには一度も素の笑顔をみせてはくれなかった。どれだけ努力して
も、どれだけ一緒に時間をすごしていても、ただの一度も、たった一回でさえ、僕は本当の
意味で、おかあさんと笑い会うことができず、そんな、なにもできない自分に腹が立ち、で
も、やっぱり、ずっと人を笑顔にしたかった自分。
僕は、自分を強く封じることで、なぜ、人と、母と笑顔を共有できなかったのかを学びまし
た。
さきほど書いたように、僕は、中学2年のころ、弟に強く殴られたことから、その全ての喜び
としての自分を心に封じ込めます。これは僕自身後になっても全く忘れられない出来事にな
りました。
このとき僕は、自分の一番の最高の性質だった、​「喜び」​を忘れてしまったのです。
自分はそれに値しないと思ってしまったから。
自分は、ここにいてはいけないと思い込んでしまったから。
私たち人が直面する苦しみ。その​すべての苦しみは、自己否定から生まれています​。どん
なに誰かのことに怒りを感じたとしても、憎しみを誰かに持ったとしても、耐えられない苦痛を
受けたとしても、そのすべての苦しみは、自分を否定しているその心から生まれるのです。
そして「自分を否定する」ということは、自分の一面を否定するということでもあります。自分
の一部を自分から切り離し、なかったことにしようとすることでもあります。自分の喜び、笑
顔、楽しさ、感謝、愛を、私たちは自分のものじゃないと切り離すのです。
それがどれほどの苦痛なのか・・・。
僕は、喜び、笑顔、愛、子供としての自分を切り離すことで、その苦痛を経験しました。
開く扉、気づき 届かなかった思い
僕には、人を助けたいという強い思いがありました。それは、もう、どうしようもないほどの願
望で、誰に否定されようが、僕が唯一信頼できた本当に変わらない願望でした。
ですが、​この願望を達成させることが、かつての僕にはどうしてもできませんでした。
人は人の助けなしには生きながらえることができません。誰もが赤ちゃんの時代を通る以
上、これも面白いことですが、​誰もが誰かに世話されます​。その時誰もが通る道には、保護
者との世代連鎖的関係がつきものですが、僕もこの保護者との関係について様々な経験を
したと思っています。
・・・僕の母には問題がありました。
僕の母は、ペルソナであるヒーロー(自分を完璧にしなければならない、完璧でない自分は
安全でない)を持っていると同時に、子供時代の自分を封じ込んでいました。
僕は生まれてから、いつも遊んでばかりいました。どんなことでも楽しく、弟が生まれても、
おじいちゃんやおばあちゃんが来ても遊ぶことばかり。いつも仕事でいなかったお父さんと
もどうやって遊ぼうかという作戦をいつも考えてばかりいました。当然、愛しいお母さんに対
して「一緒に遊びたい」と思わないわけがありません。
でも、僕はここで大きな壁にぶちあたります。
僕の母には先述したように、心に問題がありました。それは、母の経験した多くの過去生
と、自分の喜びの側面である子供時代の自分を封じていたことに起因しました。
これも特徴的ですが、子供時代の楽しみ、喜ぶ自分を封じてしまった人は、必ず原因と
なった苦しい過去の痛みを心に一緒に封じ込めています。そして・・・この過去の痛みは、子
供のように遊ぶ人を見るだけで、封じている人の心からあふれ出そうとするのです。それは
意味の分からない、耐えられない苦痛です。あふれだそうとしているときに、この痛みを、涙
を​完全に​開放できない限り、その苦痛から逃れるすべはありません。
ぼくはお母さんとどうしても一緒に遊びたかった。ぼくはいろいろな作戦を、なにもわから
ないながらに一生懸命立てます。女の人はおままごとが好きだという幼稚園の入れ知恵で
お母さんに泥団子を持っていこうとしたり、お母さんにいろいろ自分が好きなものを持って
いったり、悲しそうにしてたら笑わせようとしたり、言葉が分からないときにも自分のあふれる
思いを伝えるために一生懸命絵を描いたり。
・・・そんな僕の努力は、母の心の問題によってすべて拒否されました。
ぼくは、自分の思いが否定された事実に(実際に否定されたのではなく、母が苦しそうにし
ていた)耐えられませんでした。どうしても、ぼくはお母さんを笑顔にできない。ぼくが楽しま
せようとしたら、お母さんは苦しそうにする。どうしても。どうしても。何をやっても、努力して
も。弟と一緒に何か作戦を立てたこともありました。でも。通用しなかった。
僕は、自分には何か問題があるのではないかと思うようになります。一緒に遊ぼうとすると
苦しそうにする母を見るたびに、僕の心に痛みが走ります。
最後の最後に、僕は、あきらめます。
どうしてもお母さんを笑顔にできないのは、僕に問題があるからだ。僕が喜びを表現すると
お母さんは苦しそうにするのなら、僕は喜びをお母さんの前で見せては駄目だ。
​ダメなんだ・・・​。
そうやって僕は自分の喜びを制限し始めます。でもその喜びをお母さんの前では表現で
きなくなっても、他の友達との遊びや弟との関係では表現していました。できていました。
・・・そして、中学2年、僕は弟に強く殴られたことから、その全ての喜びとしての自分を心
に封じ込めます。
最近まで、僕には喜びとしての自分がいませんでした。
開く扉、硬直 思い込み
思い込み。この言葉について聞いたことがある人は多いのではないでしょうか。
固定。硬直。よどみ。麻痺。操作。パターン。洗脳。
僕が思い込みから思い浮かべる連想ワードです。
思い込みとは・・・​この世界は流動的で、変化しないものなどない​のに、変化しないものが
あるとかたくなに信じることから思い込みは生まれます。それは、常識、生活習慣、人との関
係性、自分の仕事の仕方、自分のあり方と様々なものがありますが、全てに共通しているの
が、その硬直性です。
たとえばですが、僕は最近ほとんど何も食べていないのですが、身体は健康体です。
一日三食。思い込みです。​実は、食べなければ食べないほど次第に健康になっていきま
す。
僕は最近お風呂に入るときに石鹸、シャンプーの類を使いません。​清潔=洗剤で洗う。思
い込みです​。基本的に、私達の身体は水だけでほとんどの汚れが落ちます。落ちないの
は、​肉の脂​とか、油脂系、薬品や化粧品ぐらいです。石鹸やシャンプーは、私たちの皮膚を
守るのに必要な皮脂さえ根こそぎ洗い流します。合成洗剤は肌に付着しある層を作ります
が、その層の固さは並大抵のものではありません。
・・・とまあ挙げてみれば、日常生活にある思い込みにはキリがありません。そしてそれと同時
に、人間関係によって作られた人間関係間の思い込みも強力です。
たとえばですが、​親は子供の所有権を持つ。年上には常に気を配り続けなければならな
い。歳をとっているほうが人として上だ。子供はみな純粋だ。・・・全て思い込みです​。
これらについてはこの場ではすぐ説明できないものばかりなので省略させてもらいますが、
思い込みとは、いかようにも事実をゆがめてしまうパワーを持っています。
硬直=思い込みとも言っていいでしょう。そしてこの思い込みをしていると、人生に自由が
本当に少なくなります。
僕が様々な医学について学んだり心理面に関心を持ったのは、この思い込みのひどさに
ついて最初にしっかり知ることができたからだったと、今になって思います。
思い込みが本当に少ない人生は、素晴らしいものです。最終的に思い込みはすべて自己
否定だとも言えるのですが、これは少し難しいので自分で考えてみてください。
動かぬ扉、重荷 動かない心
かつて、僕は自分自身についてのたくさんの思い込みを抱えていました。
その全てをここに書きましょう。
私は自分を愛してはならない。私は自分の身体を愛してはならない。私には愛を表現する
資格が無い。私と親しくなった人は危険な目にあうか、殺される。私には人を愛する力が無
い。私は生きる価値がない。私の喜びは誰にも届かない。私を見てくれる人なんていない。
私はここにいてはならない。私のせいで大切な人が死んだ。私のせいでたくさんの人が死
んだ。私のせいで人が苦しんだ。私は自分の欲求を口に出す資格が無い。私は断っては
いけない。私は楽しんではならない。私は笑えない。私は未熟で、常に努力しなければなら
ない。私は暇な時間を作ってはならない。私は人を攻撃してはならない。私は泣いてはなら
ない。私は怒ってはならない。私には大切な人を守る力が無い。私はいつも一人でいなけ
ればならない。
・・・私は自分の夢を追っては・・・ならない?・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・・・・いや、違う!!!!!!!私は、人をどうしても、助けたい!!
僕には、「人を助けたい」という唯一の、​たった一つの人生​を書き換えることだけはできませ
んでした。誰に何を言われようが、どんなに罵倒されようが、殺されようが、このたった一つの
人生だけは、誰にも、自分にも変えることができなかったのです。というわけで、最後の一つ
は思い込みではありません(笑)
それでも、僕はこれほどの思い込みを抱えていたことに、​後になって気がついたのです。
・・・つまり、初めは気づいていなかったのです。ひとつも。
滝の傍、困惑 逃げるな!
僕は自分の思い込みに過去退行療法(催眠療法含む)で向かい合うことで、記憶と感情
の密接なつながりについて知っていきました。自分自身の内面にどす黒い塊のような感情
が堆積している。そんなビジョンも何度か見ました。そして、自分がいつも苦しかった原因に
はこの感情が関係があったのだということに少しずつ気づいていきます。
僕には、一つだけ、過去退行療法でいくつもの記憶と感情に向かい合い、統合した後も
一つだけ、どうしても解決しない記憶を持っていました。それは、先ほども少し触れました
(女性の手を握っていた女性の自分)が、自分が本当に愛していた人を2人自分のせいで
殺したと信じた罪悪感の原因である過去でした。
僕は、過去退行療法の「自分の記憶に取り組む」という性質と、「自分の視野を広げ思い
込みを手放す」という二つの性質をメインに用いて過去に向かい合いました。
「自分の記憶に取り組む」は、自分の考えるレベルがメインとなり、他者の意見などを引用
するのが少し難しくなりますが、「自分の視野を広げて思い込みを手放す」という手法は、
もっと強く自分の思い込みを手放すのに効果があります。なぜなら、​過去に出会った人物が
会いに来てくれるからです。多分何言っているかわけわかんないと思いますが、自分で経験
しないとこれは多分分からないでしょう(過去生を見ること含め)。
僕は、最後の大きな罪悪感の記憶を、自分の記憶に取り組む性質を使って、要するに自
分の力だけで解決しようとしました。しかしまったくその試みはうまくいかず、いろいろやって
みた結果として、過去に出会った、つまり見殺しにしたと思っていた2人とイメージの世界で
再開します。
その過去で二人と出会った僕は、「ごめんなさい。わたしのせいで・・・」と何度も何度も謝り
続けます。​そう、誤り続けたのです​。記憶の中の二人が見せるのは、さびしそうな、なんとも
言えない表情。僕は自分のやっていることがまったくの間違いだと気づかないまま、自分の
記憶に向かい続けました。
滝つぼ、切羽詰まり 無駄な闘い
僕はいつも、自分が何か強迫観念のようなものにさらされているのを感じていました。それ
は結局は自己否定が原因のものでした。「やらなければならない、頑張らなければならな
い」と自分を鼓舞し、叱責し、何かともう戦っているかのように毎日を過ごしていました。いつ
も自分の身の安全を感じられず、なにか恐い、苦しいと感じる言いようの無い感覚にさいな
まれ、正直そんな状態をこれ以上続けるのは苦しく、つらくて、耐えられそうに無かった。
苦しく、つらいということだけには自分で気づくことができました。
しかし、「悲しみを、怒りを、恐怖を抱え、その感情を​手放すまい​と自分でしがみついてい
た」という重要な事実には気づくことができませんでした。
蓄積、抑圧された感情は、絶対に、開放しなければ苦しみを除去できません。たとえるな
ら、体の中にある異物を吐いて、もう本当に吐くように感情を吐き出さなければ、感情を取り
除くことができないのです。そして、吐くように感情を一個取り除けたとしても、複数人の経験
ですが、この感情の汚染は一個どころか数十個に及びます。つまり最終的には、本気で取
り組むなら、鬱のように泣かなければいけないのです。​本気で、誰の目も気にすることもな
く、声の大きさを気にすることもなく、ただ悲しみに圧倒されなければならないのです。恐怖
で震えなければならないのです​。これが、心の問題を解決する上で最も難しい部分だと僕
は思います。
湖の底、ひとり 耐えられない
僕は「自分は泣いてはいけない」と、社会的にも、自分でも強く、かたくなに思い込んでい
ました。
過去退行療法を潜り抜け、自分の過去生を思い出した。でも僕は自分に変化があるとあま
り感じられませんでした。自分の中の苦しみに対応できたとは思いませんでした。
ちなみに、僕は自分の経験上、自分の過去の記憶を見るということが誰にでもできるという
性質も含め、「自分で自分の過去を見れるようにならなければ真因は絶対に解決しない」と
断言したいと思います。​なぜなら、苦しみの真因は、心に積もった自己否定、つまり感情に
あるから​。僕は人の過去をいくらでも見ることができます。しかし本人自身で見なければ意味
が無いと思っているので、多分見ても簡単には伝えないと思います(笑)
僕は過去退行療法を続け、身体的な痛みを取り除き、過去、過去生を思い出し、「こういう
問題を自分は抱えていた」と分析しました。でも分析しただけでは足りませんでした。現状は
変わらず痛いままで、僕は一人行き詰ってしまったのです。
どうしたらいいのか分からなかった僕は、ただただ生活をこなす屍のようにしばらくすごしま
した。
結局思い込みは解決せず、僕はただ生き、人とかかわることは前よりはできるようになった
ものの毎回苦痛を感じ続け、自分の過去の硬直したパターンにしがみつき、動きを止めて
いました。
一筋の光、ふたり 助けに来てくれた人
僕は、自分の力だけでは、どうしても「泣いてはならない」という思い込みをはずすことがで
きませんでした。自分がどれだけ泣きたいかを知らず、胸のつまりに、胃の苦しさに圧倒さ
れ、それでもその悲しみを無意識で押さえつけようとしていました。​自分の力ではどうしようも
なかったのです​。誰かが助けてくれなければ、今の僕は存在しません。僕は幸運です。僕を
助けてくれる、ずっと愛してくれる人を身近に持つことができて。
僕は、自分がどうしても助けたかった、自分の愛を否定されたと思い込んだ母に、助けら
れました。救われました。
母は、僕にある「機会」をくれたのです。
僕は自分の苦しみがどうにも抑えられなくなっていることに自分で気がついていませんで
した。本当に苦しいのに、「自分は大丈夫だ」と思い込み続ける自分。泣けない。悲しめな
い。それがどれだけつらいことかを知らず。
ある日、僕の母は僕に電話をかけ、いつものように話しかけてくれました。
感情に取り組むと、誰かの感情を感じることのできる一種の超能力的な感覚が身について
きます。
僕の母は泣くことに対するブロックを先にはずしていたので、僕が泣きたくても泣けない、
苦しみと閉塞感を抱え込んでいることに気がつき、こうぼくに話しかけます。
「ひろ。つらかったら、泣いてもいいんだよ。・・・泣いてもいいの。」
その言葉を、誰にももらえなかったその言葉を聞いた瞬間、どこかから一筋の光が降り注
いできました。
僕は、​母を助けられなかった自分​を否定し、​母を変えられなかった自分​を責め続けていま
した。​だから泣けなかった​のです。
でも僕は不思議なことに、本来なら母のそんな​「白々しい」言葉​では泣けないはずなのに、
ある「機会」を得ることができたのです。
僕はその光に、何度も助けられてきましたが、そのことに気づけたのは最近のことでした。
僕は、その光の中で、その光を全身に浴び、僕の目から涙がこぼれ出し、僕は携帯を持っ
ていることができなくなり始めます。
「まだ我慢してるの? 意地っ張りねえ。・・・泣いていいの。泣いていいのよ。」
僕は、みじめに、床にはいつくばり、その時初めて号泣しました。
本当に泣くとすっきりします。体の締め付け、緊張が解かれ、泣く前とは別人のように楽に
なります。僕はやっぱり幸運でした。この苦しみを抱え続けるのは僕にはもう無理です。
そこから僕は次第に泣くということがどういうことかを、怒るということがどういうことかを知り
始めます。恐怖についてもしっかり実践的に学習した僕は、感情の、ほとんど誰も知らない
ような性質を見つけ出し始めます。そして、感情を排出し、自己を統合するためのイメージン
グスキルを見出します。
母には感謝し切れません。あの瞬間がなければ、今の僕は無かったのですから。
白い光、じぶん 再会
じぶん。本来の喜び。愛。
僕は、自分の「喜び」を中学校2年生のころに完全に心臓の中にしまいこみ、しっかり鍵を
かけました。その鍵は頑丈で、誰もその鍵を壊すことができない。そう、多分そう思っていた
のでしょう。
僕の鍵はなかなか壊れませんでした。ただ、この鍵は誰にも壊すことができないのではあり
ません。数々の努力の結果僕はこの鍵を壊し、その中にいる自分と再会することができまし
た。
ひとつ。​自分の喜びを封じたことのある人が、自分と再開する​ということは、つまりこれは​自
分を封じたことの無い人は経験のできないことだ​ということを先に述べておいてから僕の体
験についてお話します。
心臓に封じられた子供としての、喜びとしての自分。その子供は、準備ができて、本人の
体の中に邪魔な記憶が無くなってから顔を出します。
僕は自分の過去に取り組み、ペルソナという自分の仮面を統合させることに成功しました。
その後に「ハートヒーリング」を母にしてもらったとき、僕の中の喜びが顔をのぞかせたので
す。
それはまるで、何か自分に欠けていた、愛していた大切な何かが、自分を満たすかのよう
なそんな感覚でした。
喜び、うれしさ。楽しみ、遊び。そんな表情で、そんな姿でその子供は僕の前に姿を表しま
した。彼は、僕の周りを飛び回り、はしゃぎまわります。
僕はまたまた号泣してしまいました。彼は、彼女は、僕にこう告げたのです。
「あなたは、人を助けるために生きている。あなたは、人を助けるために苦しんだのよ。」
僕は、自分のMISSIONである、「人を助けたい」という願いだけは忘れられませんでした。
でもその言葉をきいて、僕は本当に安心しました。
​自分がやっていたことが、やってきたことが間違いではなかったと確信できたから​。
茜色の空、外向 叡智
僕はそれからも過去退行療法に取り組み、一つ一つの記憶と感情を統合させていきまし
た。その中で、やっぱり、ひとつだけ、自分の力だけではどうしようもない記憶が存在しまし
た。​愛している2人を自分のせいで殺したと思い込んだ過去生​です。
僕には、謝るしか脳が無かったので(笑)すこし、今度は一人ずつ話しかけて、どう思って
いたのかを聞いてみることにしました。
当時の状況を少し詳しく説明します。
その時僕はある宗教の信者。父は教会の神父ポジション(上司)で、母、姉の4人暮らしで
した。僕は小さいころからなぜか、人に手をかざしてしばらくしているだけで、その人が抱え
ている苦痛を一時的に和らげることができました。「この能力で困っている人を助けたい」と
思っていた自分でしたが。
当時の母は、病気で亡くなりました。それは当時の「私」がまだ幼い少女だったとき。このと
き私は、母を自分の力で助けようと必死になりました。だけど、全くその力は病気に通用しま
せんでした。
このとき強い罪悪感を抱え、そのままシスターとしての道を歩む私でしたが、ここで、大好き
で仕方なかった姉が病気になります。
自分の「人を癒す能力」に磨きをかけていた私。今度こそ、姉を助けてみせる。姉に対し、
エネルギーヒーリングを何度も何度も行いましたが、病状は一向に良くなりません。
次第に弱っていく姉。その姉を助けるために、私は本当に様々な文献(西洋、東洋問わ
ず)を読みつくし、滝業でも瞑想でも何でも行いました。それはただ、姉を助けたかった唯一
の望みから行われた尋常ではない努力でした。
しかし、最終的に姉は衰弱死します。
わたしは、家族を2人「​自分の力が足りなかったせいで​」失いました。
自分の弱さを呪いました。自分のせいで、愛する人たちが死んだ。喪失の壮絶な痛みに
耐えられなかったわたしは、完全に頭がおかしくなっていたのでしょう。その当時のわたし
は、姉が死んだときに、石に自分の頭を自分で強く打ち付けて血を流していました。
その後、シスターとして活動していく中で、「教会の裏」を様々な形で見せつけられ、聖書
の内容に行われている膨大な改変を知り、「このままでは多くの人が苦しむ」と思ったわたし
は、自分で演説をするという計画をつくりあげます。
その計画の途中で、暗殺者に殺害されます。
このような記憶です。
このような記憶の​罪悪感を手放すため​(そのときはそんなこと知りもせず)、僕は記憶を過
去退行療法で復活させていきました。・・・そして、最終的に、当時亡くなった二人と会話す
ることに成功しました。
まず、最初に亡くなった当時の僕の母。彼女は、「私(母が死んだとき私は少女。)のことをど
う思っていたの?私を許してくれる?」という言葉に対し、こう答えます。
「・・・なにいってるの。あれはあなたのせいではないでしょう?
許すも何も、どうして私があなたを許すことができるの?
わたしはあなたを愛していたのに?」
情けなくも、まあこの言葉で僕は号泣しました。
そして、僕の大好きだった、大好きだったお姉ちゃん。彼女と過ごした日々は今でも僕の
宝物の記憶です。僕は、彼女が死んだとき、サイキックなヒーリング能力で彼女を助けること
ができなかった(母と同じく。)自分を殺したいほどうらみ、実際に、傍にあった岩で自分の頭
を強く殴りました。顔中血だらけで、それでも気を失わなかった私。目はうつろで、何を見て
いるか分からず、それでも、ただ愛する人の亡骸を見つめ続け、その手を手放そうとしな
かった。そんな私が、彼女に、母にした質問と同じ言葉を問いかけました。
彼女は、わたしのことを殴りました。
別にイメージの世界なので痛くはないのです。ただ、僕は呆然としました。
「あなたに言葉で言っても伝わらないから、殴ったわ。」
「まだ自分のせいで私が死んだと思い込んでいるみたいね。」
「い・い・か・げ・ん・にしなさい!!」
「ばかでしょ。まぬけでしょ。なんなのよ。どうしたらいいのよ。どうしたら、あなたは自分を許
してくれるのよ!!」
「もう何度も言ったけど。もう何回もいったけど。」
「自分のことを許してあげて。愛してあげて。」
彼女の渾身の思いに。彼女の愛に。僕は多分全ての人生で一番、これ以上ない、異常で
はないかと思うぐらい、​喪失の悲しみのために泣きました​。
一つの思い、思い出 Mission
僕には大きな願望がありました。
「誰もが幸せに、愛し合って楽しく暮らせる、そんな世界を作りたい。」
でも僕は、喪失を、苦しみを、痛みを、人生の仕組みを学びました。そして、​誰もが愛し合
える世界など作れない​ということに気がつきました。
この世界は二極に分かれています。寒さと暑さ、喜びと抑圧、分離と統合、陰と陽、快と不
快、生と死、その他様々な二極が存在します。
この世界は、自分の源である愛を学ぶための場です。自分を愛せるように、完全に愛せる
ようになるまでこの試みは続けられます。
私は気づいてしまったのです。自分が経験した苦しみが、自分が経験した抑圧が、自分
が経験した過去が、自分が経験した出会いが、気づかせてしまったのです。
・・・この世界は元々完璧で、
・・・自分はこの世界にただ生かされ続け、
・・・これからもそうだということに。
僕は、「人を助けたい」という一つの思いにしがみついて生きてきました。そして、今、やっ
と、自分がなぜその思いを持ちながらも人を助けられなかったのか、喜びを封じ続け、苦し
んだのかをようやく理解しました。
​私は、望みがあったからこそ、願いがあったからこそ、思いがあったからこそ、
「いま、ここ」にたどり着けたのです。
僕はもう躊躇しません。自分の願いを忘れることなんてできなかったし、これからもできませ
ん。ただ、自分の願いを、夢を叶えるために生きます。​それが僕の人生です​。
ちょっとした小話 母の愛情
僕は他の人の過去生をビジョンとしてみることがあります。その中でも特に印象に残ってい
るものについて語りたいと思ってここに書いています。
皆さんは親の愛情というものについて知っていますか?ちょっと前のほうで、親は子供をわ
かってあげられないという辛劣な表現をしたこともあります(事実としてありますが)が、子供
が親の愛情に気づかないというパターンも実は存在しています。そのちょっとした参考にな
るかと思い、この過去生のお話をしたいと思います。
主要な登場人物は、子供とその母、母の妹の三人です。
母が子供を妊娠した後、父が不慮の事故で無くなり、母の妹は妊娠している母を
支えるためにも一生懸命働きます。母はそんな妹に感謝し、申し訳なく思いながらも
これから生まれてくる自分の子供に会うのが楽しみで仕方なくて、いつもおなかに話
しかけていました。その姿をいつも見ていた妹。「この人は自分の子供のことを愛して
いる」と疑いもなく自信を持って言える。そのことが妹に誇りを与えていました。
そして出産の日。事態は思わぬ結末を迎えてしまいます。
出産には出血がつきものですが、この日の出産で母は大量出血してしまいます。
それは自分の命を奪うのに十分な量の出血。自分の命がもうあと少ないと知った母
は、固唾を呑んで見守っていた妹にこうささやくように話します。
「・・・もう、自分が助からないのは、わかってる。
でも、自分の子供の面倒が見れない、自分の子供と遊べないのは、本当に、
・・・・・・・・・くやしいなあ・・。
わたしが死んでしまったら、この子の面倒を見てくれる人は、誰もいなくなっちゃう。
私の代わりに、この子の面倒を頼んでもいい?
・・・・いつも世話ばかりかけてごめんね。
・・・わたしの愛は、この子に、ちゃんと届いたかなあ?」
母の人生の最後の言葉を聞いた妹は泣き崩れ、そして、この子を立派になるまで育
てることを約束します。その約束を聞いた母は、妹にお礼を言った後、息を引き取り
ました。
妹はそれから、自分の子供のようにその子の面倒をみるようになります。
妹の口癖は「あなたのお母さんは、貴方のことを愛していたのよ。」
自分は母にはなれない。母の代わりでしかない。でも、母の愛をこの子が受け取って
くれるように、自分は母に大事にされていたのだと知ってほしいために、妹はこの言
葉を子供に話し続けました。
妹が一番心配だったのが、この母の愛を子供に伝えるという自分の使命でもあった
のですが、面白いことに、その子供は、母の愛についてははっきり知ることはできな
かったけど、妹から伝わる一途な愛をしっかり受け取っていたのでした。
その子供が一番好きなのは妹で、妹が一番好きなのも子供。そんな二人の関係。
母の愛に加え、妹の愛が子供にしっかりと注ぎ込まれていたのがわかります。
子供が母の愛に気づくのはもう少し後の話になりますが、ここでこのお話を終わらさせてい
ただきます。
僕は愛という言葉について自分なりに定義をもっています。それは、人間関係の形にある
のではなく、​人間関係の中で生まれる愛​としかいえないものです。パートナーという関係に
愛があるのでは無く、家族という形に愛があるのでは無く、どんな社会的な結びつきのその
形の中に愛は無く、​本当に愛があるのは結局人の心の中なのだ​。 これが僕の愛の定義で
す。
ちょっとした小話 字
僕は昔、とりあえず字を早く書くようにしていたので、書いた後はいつも鉛筆の跡がぐちゃ
ぐちゃで、誰が見ても多分汚いようにみえるノートを毎回書いていました。
子供のころはその汚さについてまったく気にしていなかったのですが、高校や大学時代で
はその自分の字の汚さがかなりコンプレックスになっていました。
字の訓練をしようかとボールペン字の練習帖を100均で買って練習しようとしても一字も書
かず、「安かったから・・・できなかったんだ!そうだろう俺!」と1000円以上の練習帖を大
学時代買って、少し練習して・・・放置。
そんな僕の字はなかなか上達せず、上達しない自分にもフラストレーション。
僕が自分の字がどうしてもきれいに思えなかったのは、自分の過去生が関係していまし
た。
その過去生で、僕は女性生活の中に入って、毎日暇をもてあましていました。その暇な
日々に実りを見出すために練習したのが、漢字とひらがなです。他にこれといってやることも
なくかなり立場的に恵まれていた僕は、字の練習を毎日し続けました。その期間20年以
上。その当時の天才といわれる達筆家の残した文書の筆跡をほぼ完全にコピーし続け、最
終的にその達筆家といわれる(空海や親鸞など)方々の文字にさえ満足できずに自分で美
しい字を作り続けた。そんな僕には、字の美しさでは誰にも負けない自信がありました。
現在の僕の字は、その当時の僕にとっては絶対に満足できるものではなかったのでしょ
う。もういっつも自分の字にうんざりしていました。
「憧れ」という感情は、実は、​自分が過去にかつてできた、持っていたスキル​を他人が見せ
たときに表れる感情です。それは、人の前で素直に自分を表現する、自分に正直に生きる、
子供らしくあるなどの​心のスキルと、身体的訓練で身につけたスキル​に直結しています。僕
の字に関する「憧れ」は身体的スキルとしての特性が強いものでしたが、他にも、昔から憧れ
をもっていた人たちには共通して、​「なにがあっても人を助けたい」という信念​が存在してい
ました。
このような「憧れ」を持つのは、その「憧れ」が本人のこれからの人生にとって重要な鍵とな
るからです。ぼくの「字」に対する憧れは、人前で自分の字を書かなければならない、表現
者としての僕のスキルの向上につながりました。
どんな「憧れ」にも意味があります。その意味を分からなくても、憧れている人のようになる
ために努力することは・・千金の価値あり!
おわりに
長い間お付き合いいただき本当にありがとうございます。僕自身が歩んだ経験の一部でも
皆さんに伝われば、その経験が皆さんの役に立てば本当にうれしいと、いえ、僕の思いが伝
わっている人にはきっとこの文章は役に立つと信じ、終わりとさせていただきます。
最後に、母に、父に、弟に、祖父に、祖母に、僕の友人に、僕の恩師に、僕とかかわってく
れた全ての人に、僕とこれからかかわる全ての人に、この一言を伝えたいです。
「あなたの、心の底からの夢は絶対に叶います。ただ、信じられなくても、苦しくても、どんな
に辛い目にあっても、あなたはきっと最後にはその経験の意味を知ります。
ただ、精一杯、もがき、あがき、それでも生きているあなたたち。私は、あなたたちを
ずっと、ずっと、ただの一瞬も途切れることなく、愛し続けていますよ。」
・・・これは僕の言葉ではありません。 ふふっ。