『最後の晩餐』 --聖餐式について-- Ⅰコリント 11:23∼29 はじめに. ルター

August 09, 2015 最後の晩餐(原稿)
2015.08.09. 泉キリスト教会礼拝
はじめに.
『最後の晩餐』 --聖餐式について-- Ⅰコリント 11:23∼29
ルターと共に宗教改革の働きに大きな貢献をしたジャン・カルヴァン(カルビン)
が、彼の名著「キリスト教綱要」の中で申しておりますが、生きている真の教会には
二つのしるしが見られます。
1)説教によって、神のみことばが語られ、聞かれている。
──目に見えないかたちでの福音の宣教──
2)聖礼典(洗礼と聖餐)によって。神のみことばが語られ、聞かれている。
──目に見えるかたちでの福音の宣教──
J.カルヴァンは、この二つをキリスト教会のしるしであると述べているのです。
<参考>→「キリスト教綱要」第4篇第1章9節
キリストの体としての教会を識別する目印としては、「神の言葉が真
に説教されまた聞かれ
る所、聖礼典がキリストの制定に従って執行されると見られる所」という二つの目印がある。
さて、今日は、二つ目の中の聖餐式について学ぶことにしたいと存じます。
聖餐式は、ローマ・カトリック教会では「おミサ」と呼ばれているものですが、先
ず、その由来について聖書のみことばから学ぶことに致しましょう。
(一)聖餐式制定の由来(→23∼25節)
パウロは、聖餐式制定の由来をコリント人への手紙 第一の11章23∼25節に書き記
しています。
→1コリント 11:23∼25
「私は主から受けたことを、あなたがたに伝えたのです。
すなわち、主イエスは、渡される夜、パンを取り、
(そこに同席していたユダの手引きにより敵対者たちの手に、
まさに引き渡されようとしていたその夜)
:24 感謝をささげて後、それを裂き、こう言われました。
『これはあなたがたのための、わたしのからだです。
わたしを覚えて、これを行ないなさい。』
:25 夕食の後、杯をも同じようにして言われました。
『この杯は、わたしの血による新しい契約です。
これを飲むたびに、わたしを覚えて、これを行ないなさい。』」
<参考>
聖餐式制定の由来については、Ⅰコリント11章のほかに、マタイ、マルコ、ルカの三つの福
音書にも記されています。→マタイ 26:26∼28、マルコ 14:22∼24、ルカ 22:19∼20
三つの福音書のこれらの箇所も、キリストが十字架の死を前にして十二弟子たちと最後の晩
餐をなさったときのことをしるしています。
1
August 09, 2015 最後の晩餐(原稿)
パウロは、これらのことを先に、コリント教会の者たちに告げ、今また手紙を書き
送ってこれを彼らに教えるのですが、これらのことは主ご自身から受けたことである
と、23節の冒頭に記したのです。
聖餐式は主イエス・キリストによって制定されたものです。
(二)聖餐式を行なう意味と目的
1)キリストを記念し、覚えるため
→24節、25節、→ルカ 22:19
「わたしを覚えて、これを行ないなさい。」(新改訳第2版)
「わたしを覚えるために、このようにしなさい。」(新改訳第1版)
do this in remenbrance of Me (NASB)
先週の聖餐式においても奈良崎満牧師から教えられましたように、キリストはその
晩餐の席上で、パンとぶどう酒をとり、これを弟子たちに与え、これによって、信仰
に生きるとはどういうことかを、ズバリ教え、示してくださったのです。
信仰とは食事です。見ているだけでなく、口に入れて食べることです。実際に信じ
て食べて、力といのちを得るのです。キリスト信仰とは、日々、十字架に付けられた
キリストをいのちのパンとして頂戴することです。
イエスさまがそのことをヨハネの福音書6章のパンの奇跡の後で、同じ6章の48∼
58節において、お弟子たちにハッキリと語っておられます。
<参考>→ヨハネ 6:48∼51、55∼57、58
48 『わたしはいのちのパンです。"
49 あなたがたの先祖は荒野でマナを食べたが、死にました。"
50 しかし、これは天から下って来たパンで、それを食べると死ぬことがないのです。"
51 わたしは、天から下って来た生けるパンです。だれでもこのパンを食べるなら、永遠に
生きます。またわたしが与えようとするパンは、世のいのちのための、わたしの肉です。』"
55 わたしの肉はまことの食物、わたしの血はまことの飲み物だからです。"
56 わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、わたしのうちにとどまり、わたしも彼のう
ちにとどまります。"
58 これは、天から下ってきたパンです。あなたがたの先祖が食べて死んだようなものでは
ありません。このパンを食べる者は永遠に生きます。』
弟子たちとの最後の晩餐の席上で、キリストはまずパンを取り、感謝をささげて
後、これを裂き、こう言われました。
→1コリント 11:24
「これはあなたがたのための、わたしのからだです。」
<参考>→ルカ 22:19
「これは、あなたがたのために与える、わたしのからだです。」
夕食の後、杯をも同じようにして言われました。
「この杯は、わたしの血による新しい契約です。」と。
2
August 09, 2015 最後の晩餐(原稿)
キリストがご自身のからだを十字架の上にささげて下さったので、いま、私共が恵
みのうちに生かされているんだということを、聖餐にあずかるごとに新たに覚えま
しょう。
キリストがご自身の尊い血を十字架のうえで流してくださったので、私共は新しい
契約のうちに入れられ、キリストとの生きた交わりに入れられ、神の子として生かさ
れ、愛されているのだということを、聖餐にあずかるごとに、新たに思い起こしま
しょう。
私たちは、キリストの温かい血の通っている交わりに入れて頂いているのです。
→1コリント 10:16 のみことばをも読みましょう。
「私たちが祝福する祝福の杯は、
キリストの血にあずかることではありませんか。
私たちの裂くパンは、キリストのからだにあずかることではありませんか。」
2)「あなたがたは、このパンを食べ、この杯を飲むたびに、
主が来られるまで、主の死を告げ知らせるのです。」(11:26)
katagge÷llw:NT中18回(うち11回はActs)「宣べ伝える」(to proclaim)
聖餐にあずかることにより、あなたがたは、ただ、自分の心の中でキリストの十字
架を覚えて信仰を告白するだけでなく、キリストの十字架を他の人々にも、宣べ伝え
ているのです。
私共は、主が再び来られるそのときまで、主の聖餐式を守り行ない、十字架の福音
を宣べ伝えようとしているのです。聖餐にあずかり、信仰の原点である十字架の福音
を改めて告白する者は、御霊さまによってその心を燃やされ、平凡な日常の生活の中
で、身をもってこの恵みを告白し、十字架の福音を宣べ伝えたく願うのです。
聖餐式は目に見える形での福音であり、説教は耳で聞くことのできる福音であると
言われていますが、聖餐式はキリストの十字架の死を覚えるためだけのものではあり
ません。
聖餐式は、キリストの十字架による贖いの恵みという信仰の原点に私たちを立たせ
るとともに、キリストの復活とキリストの再臨をも宣べ伝えるため、これを守るよう
に、いまも、主イエスさまが私たちにご命令しておられるものです。
むすび. ──聖餐にあずかる心構え(→27∼29節)──聖なるものに狎れるな!
→1コリント 11:27∼29
したがって、もし、ふさわしくないままでパンを食べ、
主の杯を飲む者があれば、主のからだと血に対して罪を犯すことになります。
:28 ですから、ひとりひとりが自分を吟味して、
そのうえでパンを食べ、杯を飲みなさい。
:29 みからだをわきまえないで、飲み食いするならば、
その飲み食いが自分をさばくことになります。
3
August 09, 2015 最後の晩餐(原稿)
ひとりひとり自分を吟味せよ。(→28節)
1)ふさわしくないままで聖餐のパンを食べ、主の杯を飲まないように。
コリント教会の交わりの中では、11:21∼22に見られるような問題がありまし
た。このような問題がコリント教会の中に持ち上がって来たのは、兄姉たちの間で、
思いやりと配慮が欠けていたからです。兄弟愛が欠けていたからです。他の兄弟たち
に対して配慮をせず、自分勝手に振る舞っていながら、何の自己反省や悔い改めもせ
ず、主の聖餐にあずかろうとする者たちがいましたので、パウロはきびしく警告した
のです。そういうことをしながら、霊的に信仰的に鈍くなって、何の反省もなく、悔
い改めもせずに、聖餐にあずかることがないようにと、きびしく戒めているのです。
2)みからだをわきまえないで、聖餐のパンを食べ、主の杯を飲まないように。
mh\ diakri÷nwn to\ sw!ma.
「みからだ」(to\ sw!ma)は、「キリストのからだ」を指す表現ですが、ここで
は「聖餐」、「パンとぶどう酒による聖餐」を意味していると思われます。ですか
ら、29節は、パンとぶどう酒による聖餐にあずかる前に、自分がこれから、ズバリ
「キリストのみからだ」をいただくと表現するしかない「尊い生命そのもの」の恵み
にあずかろうとしていることを、はっきり、わきまえなさいと勧めているのです。
私たちが、キリストのみからだと御血にあずかる資格があるとかないとかを云々し
ようとしているのではありません。捨てられ、さばかれ、滅びるしかない罪人である
私どものために、キリストがご自身のからだをささげて下さったこと、尊い血を流し
て下さったこと、この驚くべき恵み、このキリストの十字架の事実に感謝し、そこに
のみ、希望があることを認めることが、聖餐にあずかる私どもが取り得る態度ではな
いでしょうか?これこそ、聖餐に招かれている私どもが取り得る唯一のふさわしい態
度です。これが、みからだをわきまえることなのです。
終りに、1コリント 10:16 のみことばを読みましょう。
「私たちが祝福する祝福の杯は、
キリストの血にあずかることではありませんか。
私たちの裂くパンは、キリストのからだにあずかることではありませんか。」
祈 り
→詩篇 65:2∼3
祈りを聞かれる方よ。みもとにすべての肉なる者が参ります。
咎が私を圧倒しています。
しかし、あなたは、私たちのそむきの罪を赦してくださいます。
→ルカ 5:31∼32
そこで、イエスは答えて言われた。『医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、
病人です。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招いて、悔い改めさせるた
めに来たのです。』
4