菊 陽 町 合 併六 十周 年 記念 式 典 式辞 実 り の 秋 を 迎 え た 今 日 の 良 き 日 に 、菊 陽 町 合 併 六 十 周 年 記 念 式 典 を 挙 行 い た し ま し た と こ ろ 、御 来 賓 の 皆 様 に お か れ ま し て は 、公 私 と も 御 多 用 の 中 、多 数 御 臨 席を賜り心より厚くお礼を申し上げます。 御 来 賓 の 皆 様 を お 迎 え し て 、町 民 の 皆 様 と 共 に 盛 大 に 式 典 を 執 り 行 う こ と が で きますことは、私のこの上ない喜びとするところであります。 我 が 菊 陽 町 は 、昭 和 三 十 年 四 月 一 日 に 菊 池 郡 津 田 村 、原 水 村 及 び 上 益 城 郡 白 水 村 の 三 村 が 合 併 し 、菊 陽 村 と し て 誕 生 し ま し た 。合 併 初 代 の 村 長 は( 故 )松 岡 拓 平 氏 で あ り ま し た 。松 岡 村 長 は 、合 併 後 の 三 村 の 融 和 と 、昭 和 二 十 八 年 の 大 水 害 後の農業の復興、そして防災事業に尽力されたものであります。 合併による菊陽村の村名は、「菊池郡の南方に位置し、陽光さんとして輝き、 前 途 の 希 望 は 洋 々 た る も の が あ る 」と い う 意 味 を 込 め 、永 遠 の 発 展 を 願 っ て 付 け られたものであります。 当時の人口は、一万二千百十五人で田園豊かな純農村でありました。 合 併 の 時 か ら 、町 民 の 豊 か な 生 活 が 出 来 る 都 市 の 実 現 を 目 指 し て き た 六 十 年 を 振 り 返 っ て み ま す と 、高 度 成 長 と い う 時 代 の 中 で 、昭 和 三 十 九 年 の 新 産 業 都 市 と い う 地 域 指 定 に よ る 工 業 化 の 進 展 、昭 和 四 十 年 代 に 入 り 、村 か ら 町 へ の 町 制 施 行 、 九 州 縦 貫 自 動 車 道 の 開 通 、新 熊 本 空 港 の 開 港 、熊 本 都 市 計 画 区 域 へ の 編 入 、武 蔵 ヶ丘団地の建設等で町は急激に変貌しました。 こ れ は 、二 代 目 村 長 斉 藤 兼 亀 氏 、三 代 目 町 長 阪 本 貢 氏 の 時 代 の 潮 流 を 鋭 敏 に 読 み 、町 民 の 力 を 統 合 し て 、時 代 を 切 り 開 い て い く と い う 卓 越 し た 政 治・行 政 手腕の賜物であると、敬い、感謝をしております。 そ の よ う な 変 化 の 中 で 、昭 和 五 十 年 代 以 降 は 、農 業 基 盤 の 整 備 、教 育 基 盤 の 整 備 、道 路 整 備 、土 地 区 画 整 理 事 業 、下 水 道 整 備 等 、町 民 の 豊 か な 生 活 を 実 現 す る ための基盤整備に黙々と取組んでまいりました。その結果が、 平 成 の 時 代 に な り 、 公 共 下 水 道 普 及 率 九 十 九 .七 パ ー セ ン ト 、 菊 陽 バ イ パ ス 全 線 開 通 、大 型 住 宅 団 地 の 開 発 、セ ミ コ ン テ ク ノ パ ー ク・原 水 工 業 団 地 等 へ の 超 優 良 企 業 の 進 出 、大 型 商 業 施 設 の 立 地 等 々 の 成 果 と な っ て 表 れ て い る の で あ り ま す 。 そ し て 、こ の 様 な 都 市 的 な 発 展 だ け で は な く 、町 の 基 幹 産 業 と し て の 農 業 も 隆 盛 を 極 め て お り 、白 水 台 地 を 初 め と し て 、町 内 各 地 に 、米・野 菜・果 樹 そ し て 畜 産と、足腰の強い農業が根付いているところであります。 皆 様 方 、御 承 知 の と お り 、菊 陽 人 参 は 、西 日 本 に お い て 中 心 的 な 地 位 を 占 め る ほどの産地形成をしております。 こ の 様 な 活 力 の あ る 菊 陽 町 を 、先 頭 に 立 っ て 創 り 出 さ れ た の は 、本 日 、感 謝 の 意を込めた表彰をお受けいただいた冨永清次前町長であります。 松 岡 村 長 、斉 藤 村 長 、阪 本 町 長 、冨 永 町 長 、こ の 四 人 の 先 輩 の 知 恵 と 志 と リ ー ダーシップが今日の菊陽町を創ったのであります。 こ の 様 な 先 人 た ち と 同 様 に 、町 と 一 緒 に な っ て 現 在 の 菊 陽 町 を 創 り 上 げ た 町 議 会 議 員 の 方 々 の 功 績 も 忘 れ て は な り ま せ ん 。町 議 会 議 員 の 方 々 は 、時 に 役 場 職 員 と一体となって、国・県・町の事業を推進してこられたものであります。 そ し て 、今 、私 が 菊 陽 町 の 隆 盛 の 原 動 力 と な っ た も の と し て 、尊 敬 と 感 謝 の 念 を 抱 い て い る の は 、町 民 の 方 、お 一 人 、お 一 人 で あ り ま す 。そ の 、お 一 人 お 一 人 のたゆまぬ努力であります。 こ の 様 な 先 人 の 知 恵 と 志 、そ し て 町 民 の 方 々 の た ゆ ま ぬ 努 力 が 、昭 和 三 十 年 の 合 併 以 来 、永 々 と 続 き 、確 実 に 、確 実 に 積 み 重 ね ら れ て 、今 の 菊 陽 町 が あ る と 私 は考えております。 お か げ で 菊 陽 町 は 、町 民 所 得 、人 口 増 加 率 、平 均 寿 命 な ど 人 々 の 健 康 で 豊 か な 生 活 を 表 す 数 値 は 全 国 に 誇 れ る よ う な 数 値 を 示 し 、他 の 地 域 か ら 人 の 流 入 が 続 い て い ま す 。合 併 後 の 人 口 が 一 万 二 千 百 十 五 人 で あ っ た も の が 、現 在 で は 四 万 四 百 人に増加するという勢いのある状態が続いています。 私 達 は 、こ の 勢 い が 持 続 す る よ う に 、全 力 を 傾 け な け れ ば な ら な い と 考 え て お ります。 先 人 の 知 恵 と 志 を 忘 れ ず に 、町 民 の 皆 様 と 一 緒 に な っ て 、輝 か し い 生 活 都 市 ・ 菊 陽 を 創 り 出 す よ う 、新 た な 第 一 歩 踏 み 出 そ う と 、今 日 、決 意 を 新 た に し て い る ところであります。 何 卒 、引 き 続 き 御 臨 席 の 皆 様 の 御 協 力 と 御 支 援 を 、宜 し く お 願 い 申 し 上 げ ま す 。 結 び に 、菊 陽 町 合 併 六 十 周 年 記 念 式 典 に 当 た り 、今 後 の 菊 陽 町 が 陽 光 さ ん と し て 輝 き 、前 途 の 希 望 は 洋 々 と な る よ う 、併 せ て 、御 臨 席 の 皆 様 の 御 健 勝 、御 多 幸 を御祈念申し上げ、私の式辞といたします。 平成二十七年十月十八日 菊陽町長 後 藤 三 雄
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