SENTO INFOMATION

SENTO INFOMATION
通巻 490 号 発行所 天理教泉東分教会 e-mail:[email protected]
2015 年 2 月 21 日発行
暮らしの中からわき出る喜び
平成 27 年
3月
躍動の泉
堺市立みはら歴史博物館(さかいしりつ みはら れきし はくぶつかん)
平安・室町時代に美原地区とその周辺に優れた鋳物技術集団・河内鋳物師(かわちいもじ)
が住んでいたことが銘
文考証されていた。しかし阪和道築造工事の発掘調査で遺構・遺物の発見で解明され、歴史博物館が誕生する。
2015・2・14 武田勲史
■ CONTENTS
■ 3 月の予定
年間活動予定一覧
21 日 泉東分教会月次祭
pm 1:00 〜
教理随想 「ひながた」の一考察(4)
23 日 髙安大教会月次祭
am10:30 〜
インフォメーションほか
25 日 定例にをいがけ(
am 9:00 〜
26 日 本部月次祭
am 9:00 〜
27 日 本部春季霊祭
am 9:00 〜
年間活動予定一覧
教祖百三十年祭三年千日活動仕上げの本年の行事や活動予定です。
月
日
たくさんの活動が予定されていますが、その中でも特に、
「うちわけ会別席団参 」 6 月 日 と
この二本柱に真実を込めてつとめさせていただきたいと存じます。
2月 日 修養科志願
3月1日 大阪教区鼓笛コンクール出演(泉東・眞隆)
3月3〜9日 学生生徒修養会・大学の部
3月 〜 日 春の学生おぢばがえり
3月 日 少年会髙安団総会
4月 泉東直轄巡教
4月1〜 日 青年会ひのきしん隊入隊
4月 日 教祖誕生祭
4月 日 婦人会第 回総会
5月 日 泉濱分教会六代会長就任奉告祭
5月6日 泉東おとなバンド大海実ゴーゴーまつり出演
5月5日 髙安女子青年「こかん様に続く会」
5月3日 髙安青年会「徒歩団参」
5月2〜3日 髙安青年会「あらきとうりよう入門塾」
4月 日 全教一斉ひのきしんデー
97
日
29 25
29
24
「泉東分教会五代会長 就 任 奉 告 祭 」 月
11 10
27
31 27
29 19 18
6月 日 うちわけ会別席団参
6月 日 泉東ジャンプ総会
6月 日 教祖お入り込みおぢば伏せ込みひのきしん
5月 日 修養科志願
5月 日 髙安婦人会総会
28 21 18 27 24 17
28
7月 大教会巡教
7月 日〜8月4日 こどもおぢばがえり
8月9〜 日 学生生徒修養会・高校の部
8月8〜9日 少年会髙安団「練成会」
26
8月 日 修養科志願
15
9月6〜 日 青年会「全分会布教推進週間」
9月6日 婦人会「母親講座」
9月 泉東直轄巡教
8月 日 髙安青年会総会
30 27
9月 日 泉東分教会五代会長任命お運び
13
9月 〜 日 全教一斉にをいがけデー
29 27 27 25 28 26
月 日 うちわけ会別席団参
30
月 日 第 回青年会総会
11 11 10 10
日 泉東分教会五代会長就任奉告祭
その他・詳細は教会、各会にお尋ねください
髙安青年会「全部内巡回」3月〜6月
泉東青年会「直轄巡回」3月
(備考)
月
月 日 修養科志願
91
教理随想 「ひながた」の一考察(四)
物への執着が強い場合もあり、物がな
え っ て 形 の 上 の 貧 に あ る 人 の ほ う が、
みますと、物に恵まれた人よりも、か
ると思いやすいのですが、よく考えて
放せば、それで執着をとることができ
私たちは物への執着は、物に恵まれ
ているから生じるのであって、物を手
い、 ほ し い と い う 物 へ の よ く と な り、
それが対物、対人関係において、をし
が、 執 着 心 の 根 底 に 深 く 潜 ん で い て、
(M ・5・ )
において戒められています高慢な自我
……
あ る よ う な も の。 先 は 見 え て 見 え ん。
で、おふでさきに、
利用する事になりますので、より悪質
八つのほこりのほかにうそと追従も
教えられていますが、この二つのほこ
村 上 道 昭 くても執着が簡単になくなるわけでは
またにくい、かわい、うらみ、はらだ
これからハうそをゆうたらそのものが
りは人をだまして、自分の慾のために
号 )
うそになるのもこれがしよちか
(
( 号 )
月日にハうそとついしよこれきらい
このさきなるわ月日しりぞく
112
識であり、利己的な自己、つまり、
に対する我がもの意識、排他的自己意
物への執着とは、単なる物へのとら
われであるのではなく、その本質は物
通して、結局自己への執着をとること
に集約され、物への執着をとることを
根底にある自己への執着、高慢の二つ
で、八つのほこりより厳しく自己を見
な「 人 め ど 」 の 信 仰 に な り や す い の
「 神 め ど 」 で は な く、 上 の 立 場 の 人
の顔色をうかがい、ご機嫌をとるよう
113
10
を教えられたと悟ることができます。
なく、より強くなって生じてきたりし
ちという自己中心の高慢のほこりと
と い う は、 薄 紙 貼 っ て
ますので、物を手放せば執着を取るこ
なって現れてくると考えられます。
く
とが出来るとは単純に割り切ることが
…… 俺 が
できません。
八つのほこりとは、このように考え
ますと、物への執着である欲と、その
12
12
24
固たる生命の根源を教えられたと悟る
によって示されたとの解釈が成り立つ
条になることを「貧におちきる」こと
の思召どおりにすること、つまり神一
案でもありますから、これを捨て親神
た「人間思案は一切要らぬ」の人間思
神一条とは、このように「人間生命
の根を培う」つまり人間の根拠、在り
~3頁)であると思案できます。
条の道」
(
『諸井慶徳著作集』第7巻1
生命の根を培うこと、これがこの神一
め て 行 く 上 の 神 一 条 」 で あ り、
「人間
を会得させ」
、
「最も人間を価値あらし
「 人 間 の 真 実 の 生 き 方、 本 当 の 在 り 方
らしい」人間、存在の根拠から遊離し
きのみを関心の対象としている「いぢ
ろ に 行 方 知 れ ず た だ よ い、 目 で 見 え、
らず、いわば根無し草のごとく、うつ
人間の生命の根底については、何も知
て前提する「あざない」人間、つまり
それだけで実在する、自明のものとし
は人間の存在、自己そのものを、ただ
うに思われがちです。
ように思われます 。
方を明示する道であり、この限り「貧
て、虚しい自己を絶対化し、異常な欲
つめ、反省しなければなりません。
ことができます。
しかし先述しましたように、神一条
といいましても、本教独自のものでは
におちきる」ことによって教祖が私た
望と執着のとりことなって、ニヒルな
しかし本教におきましては、従来考
えられてきました、また他宗において
なく、その内容が明らかにされない限
ちに示された根本精神であるというこ
気分にむしばまれているこの人間をた
ところでこの自己への執着とは、教
祖が嘉永七年(母屋とりこぼちの翌年)
り、「 貧 に お ち き る 」 こ と の 解 釈 と し
とができます。
拠を開示され、しかもその根拠が「唯
「 貧 に お ち き る 」 と い う 日 常 性 を 破
壊する徹底した御行為によって、教祖
て不十分であると 思 わ れ ま す 。
つまり「貧におちきる」ことによっ
て、
「人間の生命の根」
、私たち人間は
一 の 大 い な る 奇 蹟「
( 滝 沢 克 己 著『 宗
見 ら れ る よ う な 立 場 で あ る で は な く、
では神一条とは 何 で し ょ う か 。
一般に神一条といいますと、人間思
案、 人 間 性 を 否 定 し た 神 の み の 立 場、
親神によって生かされているという厳
教を問う』 頁 三一書房1976年)
のをびや許しをはじめる際に仰せられ
そこでは人間が無に帰してしまうよう
粛な、全ての人間に無条件に存する確
すけられるに先立ち、人間の生命の根
手で触れることのできる様々な形や動
な主体性なき立場が意味されているよ
170
(同書 頁)であり、「ただ感謝してこ
る こ と が「 絶 対 無 償 の こ の 神 の 恵 み 」
であり、人間にとっては生かされてい
頁)とちがって、私たちは健康に生
言うて苦しんでいる人……(
『教祖伝』
食べるに食べられず、水も喉を越さん
…… 枕 元 に 食 べ 物 を 山 ほ ど 積 ん で も、
実的な身体感覚に立脚し、生かされて
地であり、しかも「水の味」という現
とらわれず、それらを相対化しうる境
に立ってはじめて理解されます)等に
教祖が母屋とりこぼちの後に通られ
た赤貧のどん底の生活の中で仰せられ
されたと悟らせて い た だ き ま す 。
い、生かされていること自体が第一義
て、生かされていること自体が有り難
かされている」ことにポイントを置い
すいのですが、それにとどまらず、
「生
康」にポイントが置かれて理解されや
かされている、
だから有り難い、
と「健
れたものではなく、まさに
単なる精神的な救い、魂の救いを示さ
わかるとか、物への執着をとった後の
「 水 を 飲 め ば 水 の 味 が す る 」 と は、
したがって単に生かされている喜びが
からであります。
いることを第一義的に享受する境地だ
れを認めるほかな い 」
(滝沢克己著『現
た、
的な最高の御守護であることを意味し
ここはこのよのごくらくや
代の事としての宗教』 頁 法蔵館昭
和 年)事実であることを教えようと
……水を飲めば水の味がする。親神様
ていると思うのであります。
なぜなら「水を飲めば水の味」の境
地 は「 貧 に お ち き る 」 こ と に よ っ て、
(四下り目、九ツ)
の境地であり、神人和楽の陽気ぐらし
まゐりたい
が結構にお与え下されてある。……
ぐ
自己への執着をとり、心澄み切った末
とは何かを、つまり人間にとって救済
わしもはや
とのお言葉の真意は、そのような観点
に到達される境地でありますから、も
の完成、成就とは何かを端的に示され
頁)
から理解されなければならないと思わ
は や 健 康 や 病 気、 苦 楽、 貧 富(
「どれ
たお言葉なのであります。
(『教祖伝』 ~
れます。
位 つ ま ら ん と て も、 つ ま ら ん と 言 う
普通このお言葉 は 、
「水を飲めば水の味」とのお言葉を
検討してみましょ う 。
「 水 を 飲 め ば 水 の 味 」 に よ っ て 示 さ
41
281
40
268
な。乞食はささぬ」の意味もこの境地
40
52
れていることは、人間は親神によって
生かされていることと、生かされてい
ることが最高のご守護であるとの、こ
れまでの人間観、救済観を根本からく
つがえす教えなの で あ り ま す 。
「 水 を 飲 め ば 水 の 味 が す る 」 と 一 見
赤貧のの中で淡々と物静かに語られて
いつも泉東おとなバンドを陰日なたから支えてくださり
誠にありがとうございます。
昨年 月6日、伊丹市にある特別養護老人ホーム あそ
か苑にて慰問演奏を行いました。
対外演奏を通じてバンドメンバーも元気をもらい、人前
で演奏する喜びを一層深く感じることができました。
皆さん歌って頂き、演奏後、涙ながらに感想を話して下
さった方もおられました。
代劇メドレー」、「青い山脈」を演奏しました。
、楽器
「きよしのズンドコ節」、「ドリフ大爆笑のテーマ」
紹介、「演歌メドレー」、「上を向いて歩こう(ソロ)」「時
12
泉東おとなバンド
慰問演奏
いるように思えますが、教祖はそれに
よって燃えるような「生命の讃歌」
(飯
田照明氏『ムック』四号 頁)を朗々
まさにこの点にあった、と思われます。
二 十 五 年 も の 長 き に わ た る 御 苦 労、
い や「 ひ な が た 」 五 十 年 の 御 苦 労 も、
いのである。
んと御苦慮されたように思えてならな
づけ」、「元の理」を通して人間に伝え
と歌い上げられ、それを「つとめとさ
33
そろそろ春も近いので練習をして
いこうと思います。今後とも泉東お
となバンドをよろしくお願いいたし
ます。
なお、随時メンバーを募集してい
ます。見学大歓迎です。