学科共通科目(2015年度) 第11回 倫理的な正しさとは何か リベラリズムの立場 質問に対する回答 正しさについて ・・・正しさは人それぞれではなくても、正しさの 基準は人によって異なるのではないか。例えば 、ある事に対してAさんは正しいと思っていて、 Bさんは正しくないと思っていたとする。その場 合、正しさの基準は人によって異なっているの で、正しさは人間の行為や制度の正・不正の評 価基準になるとは限らない。 (他にも同様の意見あり) • 「正しさの基準」という言葉が混乱を招いたか もしれません。これは「○○は正しいと判定す る基準」です。「正しさ」の基準になるより高次 のものではありません。個人的に何を正しい と考えるかはたしかに違います。それは個人 的判断です。しかし「正しさ」(正義)自体は普 遍的に成り立つものです。正しさ(正義)に内 容を与えると、正しさについての違った理論 が生じます。これが授業で扱うものです。 • もし「正しさ」が単に相対的なものであれば、 何をしても許され、社会は無秩序、無法状態 になります。「ひとそれぞれ」はある意味では リベラリズムを通俗化した表現(多元的世界 におけるリベラリズム)ですが、別の意味では 「それ以上考えることを放棄した、単なる自己 弁護」になってしまいますので、注意しましょう 。 正しさと善との関係 • 正しさとは普遍的であり、善とは個人的なも のである、という解釈で合っているのか。不安 になる。 • 非常に大雑把に言えば、こう言ってよいでしょ う。ロールズは人が個人的に考える善は異な っていることを認めた上で、最小限誰もが認 める善の枠組みとして正義を考えています。 • 私がこれまで正しさだと信じ込み、行ってきた 行動は個人的な善の押しつけだったのでは ないか。私だけではなく、世界の多くの人が 正しさと善の違いを考えたことがないままに 行動していることがありふれて〔あふれて?〕 いる。しかし、ただしさと善の区別をどうしたら いいのか考えたところで細かい境界線を引く のは不可能に近いだろう。しかし、不可能だ からといって考えるのを止めてしまうのは • 間違いだ。正しさと善が全く別のものだと認識 することで、なくなる争いは少なくともある。正 しさと善の区別の仕方をよく吟味する必要が ある。 • 正しさと善との関係は複雑です。両者が同じ に考えられる場合もあります。リベラリズムで は善は個人的なものと考えられますが、コミ ュニタリアニズムは共通善というものを考え、 共同体レベルで善を考えます。 嘘をつくことについて • 授業において、カントは正しさは善に優先し、 善とは独立に与えられるものと学んだ。では 次のような場合はどうであろうか。例えば、友 人が悪人に追われていて、その友人を自分 の家にかくまっていたとする。悪人が、家に来 て「友人がお前の家にいるのか」と聞かれた とき、どうするのか。「いない」と嘘をつき友人 を助けるのが一般的だろう。しかし、カントの 考えでは嘘をつくことは道徳的に正しいこと • でないとしている。確かに嘘をついて、友人を 助けることは善いことだろう。しかし、カントに 言わせれば、嘘をつくことは正しくないことで あり、正しさは善より優先されることである。 そのため、嘘をついてはいけないのである。 ただしこの場合矛盾が生じる。カントは、殺人 も正しくない行為としていたが、嘘をつかなか った場合、友人は悪人につかまり殺されてし まうのである。このときのどのように対処する • のが正しいのだろうか。また、嘘は人を傷つ けないためにもつくことや、楽しませるために 行うこともある。例えば、人を喜ばせるために 内緒でサプライズでパーティーを開くことも、 もらったプレゼントがうれしくないものだったと き、人は嘘をつくことがある。この場合でさえ 、カントによると正しくないことになってしまう のだろうか。 • これはカント倫理学の難問です。この問題は 古くはバンジャマン・コンスタンというフランス の思想家も問題にしていました。またナチス の突撃隊員がアンネ・フランクをかくまった家 を訪ねにくるという設定の問題としても論じら れています。マイケル・サンデルは、こういう 問題に対して「真実ではあるが誤解を招く表 現を使う」という解決策を提案しています。た とえば「一時間前、ここからちょっと行ったとこ • ろにあるスーパーで見かけました。」というな 表現を使うとよいと述べています。しかし、こ れはかなり苦し紛れの解決策であり、問題解 決にはなっていません。カントの倫理学に限 界があると考えた方がよいでしょう。 • この問題に関して興味のある人は次の本を 読んでください。 • マイケル・サンデル、鬼塚忍訳『これからの「 正義」の話をしよう』早川書房、2010年 • 中島義道『悪について』岩波新書、2005年 原初状態と無知のヴェール • ・・・「誰も社会における自分の境遇、階級上 の地位や社会的身分について知らないばか りでなく、もって生まれた資産や能力、知性、 体力その他の分配・分布においてどれほどの 運、不運をこうむっているかについても知って いないというものがある」とあるが、これは自 分の境遇や生まれもったものをはっきりと理 解し、それらをきちんと把握することができて いないということだろうか。もし、そうであれば 、 • 無知のヴェールをかぶるまでもなく、すでに無 知の状態にあるということなのではないだろう か。それとも、本当の能力を理解できないだ けで、他の様々な思いこみが入っているので 、全くの無知ではないことだろうか。 • 「無知のヴェール」はあくまで「思考実験での 仮説的設定」です。これを理解しないとロール ズの言っていることが分からなくなります。公 正な判断をするために、自分が実際に置か れている状況を度外視して、自分を仮説的状 • 況に置くのであって、思い込みをなくすために そうするのです。人間の理性は常に状況に左 右されやすいために、その影響を排除する方 法論的な操作を必要とするのです。 • ロールズの考えの中で「無知のヴェール」と いうものがあり、「無知のヴェールをかぶると 、実質的には誰もが平等の原初状態で選択 を行うことになる」と学んだ。しかし、原初状態 では自分の考えを確立する要素がなくなって いるので、それが公正な考えにつながるとい うのは疑問だ。 • ・・・講義内ででてきた「無知のベール」につい て知識がなかったので、話を聞いてもあまり ピントこなかったが、一時的に自分が何者か 分からなくなり、何の先入観も利害関係もなく 、直観だけが働くというのは、人間が生まれ ながらに備わっている「本能」であって、「無知 のヴェール」ではないのではないか。 • これも先ほどの回答と同じで、「直観」が働く のではなく、理性が働くのです。 • また、ロールズが個々独立した無知の人々を 構想しているが、人間は社会共同体の中で 自分自身、いわゆるアイデンティティを養って いるのでその考えは間違っているのではない かと私は思った。 • これはコミュニタリアニズムの思想になります 。
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