ゆうあい通信

2015年
6月 10 日
第 279 号
発行所 石 井 記 念 友 愛 園
宮崎県児湯郡木城町椎木 644 番地
ゆうあい通信
〒884-0102 ℡ 0983-32-2025
それぞれの天
園長 児嶋草次郎
「人を相手にせず、天を相手にせよ」と言ったのは、西郷隆盛ですが、今、私
は、蒟蒻(コンニャク)にこっています。朝5時半から6時くらいの間にビニー
ルハウスに出かけて行き、コンニャク達が元気一杯、葉を天に向かって広げてい
る姿を見ることを楽しみとしています。このコンニャクを栽培するようになって
3年目です。1年目2年目は雑木林の中に植えましたが、あまりうまくいかず、
収穫量は少ないものでした。
今年度は、確実な収穫を狙ってハウスの中でも育てているのです。今年こそは、
同じ仲間の農家の方々に負けないように、本気で取り組んでいます。
同じ仲間と書きましたが、近所の農家の小泉正浩さんの誘いで3年前にこのコ
ンニャク栽培グループに私も入れていただき、昨年度には「木城コンニャクの郷
づくり事業協同組合」(理事長薮押南海夫さん)も正式に立ち上がり、私も逃げ
られない立場となっています。昨年の秋からは友愛社内に作った加工所で、商品
化にも取り組んでいます。栽培、加工、販売と一貫して取り組む、いわゆる6次
産業化を目指しているのです。
私のこの仲間に参加するねらいは何か。近い将来、このコンニャク作りを障が
い者の方々の自立訓練に役立てたいという願いです。同じ友愛社の中にある茶臼
原自然芸術館(障害者就労継続支援B型事業所)の就労プログラムの一つに加え
たいのです。そのためには、まず私自身でやってみて、その栽培法を確立する必
要があります。
この栽培に関しては、私なりのこだわりもあり、無農薬・無化学肥料でやって
います。そのために雑木林の中に種イモを植えてみたのです。最初は群馬県から
種イモを購入。生子(きご)と呼ばれる小イモから栽培すると加工できるイモに
まで成長するのに3年かかります(ソフトボールの大きさ)。2年目の種イモも
含まれていましたので、本来であれば加工所に回せるイモも収穫できてなければ
ならなかったのですが、昨年度は残念ながらダメでした。
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コンニャクはサトイモ科の植物です。サトイモは食欲旺盛というか、かなりの
堆肥を必要としますから、おそらくコンニャクももっと肥料をやらねばならなか
ったのでしょう。藪の中で雑草に負けたというのもあります。また、あまり日が
当たると葉っぱが焼ける、つまり日陰を好むと聞いていましたので、大木の木陰
でけっこう暗い所にも植えてみましたが、そういう所では茎は大きく伸びてもイ
モはほとんど大きくならないというのも発見しました。さらに、掘り上げるチャ
ンスを逃してしまい、冬場そのまま放置したので土の中で腐ってしまったという
のもあるようです。まあ、気まぐれで繊細な植物ではあります。
今年は成功させねばなりません。今年新たに種イモ(2年イモ)を買って、2
月中にはハウスの中に植えこみました。元肥には残飯堆肥をたっぷり土に鋤(す)
き込みました。友愛園の子ども達の食べ残しの残飯と庭の落葉の掃き集めたもの
等が混じり合ったものが残飯堆肥です。ハウスの中で早く植えれば早く芽を出し
てくれるだろうと予想したのですが、サトイモのように白くて太い根が伸び始め
たのが 4 月の中頃で、それからようやく芽が竹の子のようににょきにょきと伸び
始めます。5 月の中頃に4、5本が葉を広げ、現在はほぼ 90%くらいが大きく
傘を広げたように葉を天に向かって開いているのです。
先ほどサトイモ科と書きましたが、このコンニャクはサトイモに比べるとかな
り原始的な植物なのでしょう。立ち上げる葉は1枚だけです。サトイモは葉が虫
に食べられたり病気におかされたりすれば次の新たな葉を伸ばしますが、コンニ
ャクは一発勝負。潔(いさぎよ)いと言えば潔い。病気で枯れてしまえば、もう
炭酸同化する手段をなくしてしまいますので、来年までじっと土の中で待つしか
ありません。そのためでしょうかアクが非常に強く、虫をできるだけ寄せ付けな
いように自らを守っています。茎も太くまた軍人迷彩服のような模様が付いてい
て、薮の中であたりの風景に合わせてカモフラージュしています。葉はサトイモ
のように丸くはなく複雑に切れ込みはありますが、大地からスッと伸びて天空を
支えるように、精一杯大きく手の平のように広げたその姿は、孤高を感じさせる
し、「オレは天を相手にする」と語っているようにも感じられてもきます。不思
議で感動的な植物です。
時々はEM菌を散布し、肥料切れしてきたら、追肥もしてあげたいと思っていま
す。
次は人間世界の話です。木城町から資金的支援を受けて制作中であった紙芝居
「石井十次青春物語」が、この度完成しました。私が友愛通信2月号に書いた「石
井十次青春物語」を原案として、イラストライター松本こーせい氏が 22 枚に編
集して描いて下さいました。ほぼ満足するものができあがりました。木城町に
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50 部納め、石井記念友愛社が 50 部引き取りました。木城町は、西都・児湯地区
の小学校等に配り、石井記念友愛社は、県内のそれ以外の市町村の教育委員会に
寄贈させていただく予定です。100 部では量が少ないですので、近々再版して販
売もする予定です。まず紙芝居で石井十次の勉強をして頂き、その次「石井十次
資料館」で本格的に学ぶという流れができていけばと願っています。
失敗と挫折の多かった石井十次少年が、自暴自棄にもならず何度も立ち上がっ
ていく姿を現代の子ども達に示すことで、それぞれが勇気を持って自分の運命に
向き合ってほしいという願いがこめられています。作品解説にも書きましたよう
に、「勇気とあきらめない心、そして自律しようとする強い意志」を、子ども達
は見習ってほしいと思います。
「自分の運命に向き合う」とはどういうことなのか。それを十次に教えたのが、
医師の荻原百々平(おぎわらどどへい)なのでしょう。松本こーせい氏もその出
会いの場面をうまく描いて下さいました。荻原医師は、十次に次のように説教し
たと言われています。
「家は大工がつくり、時計は時計技師がつくるように、天地宇宙は神がつくら
れた。人はなによりもまず、その神を信じなければならない。」
こーせい氏は次のように解説しています。「人間を超えた宇宙や天地神を畏れ
ることを、教えようとしたのでしょう」。つまり、目先の人間達ばかりを相手に
しようとしていた十次少年に、天を相手にすることを教えようとしたのです。西
郷隆盛にあこがれていた十次ではあったのですが、ほんとうには理解できていな
かったのです。まさにコペルニクス的転回です。十次の世界観が変り始めたので
す。
石井十次がこの世を去る時、私達に残していった言葉が、「天は父なり、人は
同胞なれば、互いに相信じ相愛すべきこと」です。この「天は父なり」がその彼
の感性を現わしています。この言葉を私達は石井記念友愛社の理念にしているし、
その方針「自然主義」の中にでも具体化しています。コンニャクだけではなく、
すべての植物達のように天を仰(あお)ぐことを忘れないようにしたいと思いま
す。
最後にもう一つ、天を仰ぐ話。40 数年前の大学(明治学院大学)の一教室の
情景が今もまざまざと蘇(よみがえ)ります。なぜか忘れることのできない場面
です。「社会福祉特講」とかいう講義でした。黒っぽいネクタイと背広の講師が
ほとんど資料に目をやることもなく天を仰ぐようにして、とうとうとお話をされ
るのです。受講者は数名のみ。世間話をされたり冗談を言ったりして学生に迎合
するわけでもなく、ひたすら福祉哲学や思想に関するお話をされました。内容は
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すべて忘れてしまいましたが、そのお姿だけは私の頭の中にきわめて鮮明に刻み
込まれているのです。
この 40 年以上ずっと気になって来たことです。しかし、この頃ようやく分か
って来たように感じるのです。先生は我々つまらない学生を相手にしていたので
はなく、天を相手にしゃべっておられたのです。しかし、その先生の姿勢こそが、
福祉人としての私の人生を今までコントロールして下さったのかもしれないと
も感じています。その先生とは横須賀基督教社会館の前館長阿部志郎先生です。
今年の石井十次セミナー(8月 30 日)の基調講演をお願いしましたら、心よ
くお引き受け下さいました。石井十次生誕 150 年を記念するのに最もふさわし
い講師です。そして最近の御著書「人―わが師わが友―」を御恵贈下さいました。
その中に次のように書かれた所があります。学長をされていた神奈川県立保健福
祉大学での講義のようです。
「福祉の世界で生きようとするならば、何をしなければならないのか。『生き
る喜びと、明日への希望を伝える。ことです。それだけ。それには、『自分自身
が喜びをもって生き、明日をさし示す』、そういう存在でなければならないです
ね。
」
おそらく、今も天を仰ぎながら先生は学生達に語り聞かせておられるのでしょ
う。時を越えて、先生のお姿が私の眼前に蘇ります。先生は言葉で福祉の思想を
伝えようとされる。しかし、私達末端の福祉現場の人間達は、明日への希望をさ
し示される先生のそのお姿そのものに勇気や希望を与えられるのだと思うので
す。
梅雨に入り、空は雲におおわれていますが、園長室から天を仰ぎながら、この
大自然の中で残りの人生を謙虚に生きていきたいものだと自戒しています。この
天の下では、我々人間も、他の動植物達も、同じ環境の中で生きているのです。
「我れを知る者は其れ天か」。
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