ふるさと探訪講座 大峰百番観音霊場 湯沢町諏訪 高橋正明 私と百番観音様 私が大峰山一帯に置かれてい る観音様達と出会ったのは8年 前の春で、山野草の写真を撮影 しようと思って湯元から大峰山 を目指し、荒れた山道を登り始 めた時の事でした。 石に刻まれた仏様がその道の 所々に、風雪に削り取られて置 かれており、そのお姿は長い歳 月の流れを私に充分感じさせる ものでした。一体一体に手を合 わせて進んで行くうちに、私は この仏様達に大変惹かれて行く のを感じました。それから2年 程の時間をかけて大勢の先達の 方々にお話をうかがい、山道に 置かれていた仏様大峰百番観音 様を研究させていただき、また 一体一体のお姿と、置かれてい る状況を撮影して大峰百番観音 写真集を作らさせていただきま した。 研究すればするほど、調べな ければならない事が多岐に渡っ て広がり、まだまだ道半ばであ ります。また私自身、宮城県仙 台市の出身で湯沢町にお世話に なってから17年ほどにはなり ますが、地元の出身ではなく、 ふるさと探訪の講師を務めるの は大変僭越だと思っております。 しかし貴重な文化遺産である大 峰百番観音様のことをより多く の町民の方々に正しく知ってい ただき、将来にわたって大切に 保存して行きたいという思いと、 研究不足の所を受講生皆様から お聞きしようと言う思いで、お 引き受けしました。講師という よりも道案内役として、ご一緒 にトレッキングもかねまして百 番観音様を巡礼してみたいとお もっております。 百番観音信仰 ご一緒に大峰百番観音巡礼に 旅立つ(だいぶ大袈裟です)前に 百番観音信仰についてお話した いと思いますが、私は宗教家と か郷土史家とか呼ばれる様な勉 強をしておりませんので 100% 理解して観音様のお話は出来ま せん。過去に読んだ本の受け売 りをお話します。多々、間違い があることでしょう。もし気が 付かれた点がありましたら、そ のつど気軽にご指摘をしていた だき、より良い講座にしていき たいと思っております。 宜しくお願いいたします。 本題に入りますが、中国の鳩 摩羅什というお坊様が法華経を 中国語に訳し、それが日本につ たわりました。その中の第 25 品 (章)に「観世音菩薩普門品」一般 的には「観音経」と呼ばれてい る経典があり、観音菩薩様のこ とが書かれております。1 度、目 を通したことがありますが、難 しい漢字ばかりで全く理解どこ ろか読むこともできませんでし た。 観音様は補陀落山におられる 殆ど悟りを得られた仏さまです が、時々私達人間を救ってくだ さるために三十三のお姿に変わ って、この世にやって来てくだ さるありがたい仏様との教えだ そうです。 6 世紀の末ごろ聖徳太子は法 華経を大変熱心に勉強なさいま した。しかし仏教それ自体鎮護 国家のための宗教であり、その 時代一般庶民には無縁のもので した。奈良時代 8 世紀には千手 観音、十一面観音などの修法を 行い呪術的験力で国家安泰が図 られました。その後、平安時代 始めの9世紀の初頭、遣唐使の 船に乗って最澄(伝業大師)と空 海(弘法大師)が中国、当時の唐の 国へ渡り、密教の勉強に勤め、 新しい仏教の教えや考え方をわ が国にもたらしました。その教 えは鎮護国家に留まらず、一般 大衆の中にもすこしずつ広がっ ていきました。特に弘法大師の お話は全国津津浦浦に残されて おります。2 人がおこした天台宗、 真言宗の教えは 10 世紀後半以 降、末法思想とあいまって観音 菩薩に対する信仰として貴族の 間に広がっていきました。一般 庶民の間にも難しい経典はさて おいて、困った時、危ない時に 助けてくれし、少々厚かましい 願いでも聞き届けてくれる仏様 として観音菩薩信仰は広がって いきました。 さて、現在は旅をすることは 交通機関が発展したり、旅行社 を利用したりしてそれ程大変で はありませんが、その昔は大変 な苦行をともなうものでした。 仏の慈悲にすがりたい、少々の 旅の苦行は厭わないという心か らの欲求が貴族・僧侶の間に自 然発生的に起き、数カ所の観音 様を祀っている寺院を巡る信仰 がはじまりました。数多く参れ ばそれだけご利益があると考え られたみたいです。今も同じで すね。平安時代の中期以降とさ れていますがはっきりと特定は されておりません。それが当時 の都京都を中心に三十三箇所の 寺院が巡礼されるようになりま した。もちろん伝説では徳道上 人が閻魔王の教えに従い、この 世に戻って三十三箇所巡礼をは じめたとか、花山法王がその妻 の死を哀れんで巡礼を行ったと か言われております。西国三十 三所観音の名もいつ頃誰が名付 けたかはっきりとは解りません が、平安時代末期になり東国の 人達が言い始めたともいわれて おります。 政治が貴族から武士へ移り、そ の中心が鎌倉になった頃坂東三 十三観音札所が起こりました。 仏教そして観音信仰が東国一帯 にも広がって行き、西国への旅 があまりにも遠すぎること、源 頼朝・実朝らの将軍の観音様に 対する信仰と理解などがあいま ってこの巡礼が起こったようで す。 室町時代 14 世紀になると一般 の庶民の三十三観音巡礼への参 加が多くなり、地方札所の開設 が各所で行われるようになりま した。越後を始めとし、南部、 出羽、信濃、武蔵など西国札所 に対する篤いあこがれを反映し て東国を中心に普及しました。 ここ魚沼では江戸時代初期に上 田三十三番観音巡礼が起きまし た。湯沢では十二番にこの宝珠 庵の聖観音様が、十三番に瑞祥 庵の十一面観音様が、十四番は 八木沢御堂の聖観音、十五番は 三俣御堂、十六番は滝ノ沢観音 堂、十七番に湯ノ沢薬師堂裏手 に祭られていた聖観音様が札所 になっております。 全国的には秩父の観音霊場信 仰が地元民、特に修験道たちの 篤い熱意が支えとなり、坂東霊 場と連帯した道順を考慮したり して多くの巡礼者を迎え易くし、 西国や坂東と同じ位に有名にな りました。そして 18 世紀初頭頃 に三十三箇所を三十四箇所とし 全国百番観音札所が出来上がっ て行ったのです。江戸時代にな ると自分の田畑を所有している 農民達が大勢、農閑期を利用し て巡礼に旅立つようになりまし た。新田開発や生産力の増加は 自立農民層にある程度の金銭的 余裕を生じさせ、又、馬・籠・旅 籠の整備が進み、銅銭以外に金・ 銀の通貨が流通をみ、そしてな によりも治安が確立されて旅の 心を起こさせるようになったよ うです。 ことだま 大昔から日本には言霊 という 考えがありました。今も結婚式 では「切れる」とか「分かれる」 とかはタブーになっています。 受験生のいる家では「滑る」と 言う言葉は禁物です。その言葉 が現実のものになってしまうの を恐れています。飛鳥の時代以 前には言葉は今以上の意味を持 っていました。お寺にお参りし た時、その心の発露として多く の和歌が作られ捧げられました。 いつの頃からかその和歌にメロ ディが付けられ大勢の人に唱え られるようになりました。それ がご詠歌の始まりです。和歌は 時代とともに淘汰されて、現在 唱えられているものが残ったよ うです。 百番観音霊場の起こりを簡単 に述べました。観音様に対する 信仰は大変深いものであると思 います。以上なような説明では あまりにも簡単過ぎるのでしょ うが、全体的な流れをご理解し ていただければ幸いです。それ 以上は私には話しが出来ません ので、ご自分で勉強されること をお願いします。 全国百番観音札所の寺名・住 所・本尊・開基・ご詠歌は別記し ておきました。観音様の三十三 化身や六観音も別記してありま す。ご参照ください。 ひとつひとつのご詠歌の解説 は現場で出来る限り行いたいと おもいます。 大峰百番観音霊場の歴史 昭和6年5月 6 日中村無外師 は神立村の宝珠庵の第 37 代住 職として42歳で晋山いたしま した。 当時の日本は前年に始まった 大恐慌の嵐が吹きすさび、満州 事変・第2次世界大戦へと歩ん でいくきっかけになった時代で す。しかし当地は上越線が全線 開通し、西山に温泉が掘られ、 今で言う観光地ブームが起こっ ていたようです。 その昭和 6 年に湯澤スキー小唄 が作られております。 清水峠のトンネルぬけりゃ 雪の越後よ情けの国よ 湯の香ほのぼの湯澤の里は 雪の花咲く銀世界 スキーかたげてホームに立てば 布場お山がアリャ呼びかける 布場か愛や朝日が唄や 屑雪やスキーの背に踊る 中村無外師は彼の筆による「白 道」その七(昭和 7 年 10 月 8 日 発行)に当時の様子を次のように 書いておられます。 「山々の風光も漸く紅葉を呈し て参り中旬から下旬にかけ上野 もみじがり から 観 楓 の臨時列車が 34 回往 復運転されるとか,実に清水トン ネル貫通に伴い文化の流れは 1 列車毎にドンドン当地方へ入っ てきます。湯澤も今夏72 度の新 温泉が多量に噴出し,既に新旅館 の建設も両3軒着工され更に又 数箇所の試掘工事も開始される 有様で、頓に活気を呈してきま した。鉄道開通後の沿線地方は 所謂文化の急激的侵入に遭ひて 数年間は非常に経済的変調を来 たすのが従来の事実だそうです が、当地方の識者は密かにこれ を憂いている様です」 このようななか、中村無外師は 青 年 相 互修 養 会・ 婦人 会 ・ 座 談 会・季節託児所等の事業を起こ しました。当地方の人々にはひ とつのカルチャーショックであ った事でしょう。 師は若い時から観音様に帰依さ れていたようです。又個人的苦 悩から観音巡礼も行ったようで す。師の書かれた「西国遍路に 立ちて」(昭和5年発刊)には師の 人生観・生きることの悩み苦し み・そして悟りへの努力が書き 記されております。 中村無外師は明治 21年に埼玉 県久喜市にあります足利氏ゆか りの甘棠院の次男(正確には三 男)として生まれ、鎌倉の円覚寺 で修行し、鎌倉市の職員として 生活をしておりました。部落開 放の水平社運動にも関係してい たようです。なお遷化は兄、物 外師の子、法瑞周保夫妻に看取 られて、甘棠院で昭和58年1 月6日にむかえられております。 話は戻りますが、昭和7年の 当初頃に観音菩薩の大慈大悲の 心がこの地にも注がれ、観音信 仰が普及することを願って、百 番観音霊場建設、先に申しまし た西国・坂東・秩父にある百番観 音様を大峰山を中心とする約 9 ㎞の山道に勧請しようとの提案 を檀家の皆様になさったようで す。 当時の人々にどのようなリア クションがあったかは分かりま せんが、その提案を受けて檀家 の皆様は発起人会を作りました。 発起人として中村無外師・下中 の元局の先々代岸野俊次郎氏・ 諏訪の大幅の親戚岸野英一氏 世話人には湯澤村から角屋の先 代樋口永雄氏・白滝酒造の先代 高橋藤三郎氏ら5名 神立村か ら七谷切の宮下栄作氏・荒戸の 角谷亮蔵氏ら5名合計 10 名が なっております。そして浄財を 集めはじめました。 どの位の浄財が集まったかは 決算書を見つける事ができませ んので分かりません。当時の日 本は未曾有の大恐慌の真っ只中 におかれていました。お金の価 値を調べますと最上層の自作農 の年間所得が約 555 円但し借金 は 837 円との統計があります。 米の価格がどんどん下がり、農 家は生活に困窮していたようで す。娘達の身売りの相談所さえ 作られていました。 当地方では、故高橋半左エ門 さんの著書「雪国野郎」に拠り ますと湯澤温泉一泊料金が約 2 円から 3 円 芸者を揚げて遊べ ば約 5 円だったそうです。 神 立村の村長さんの年間俸給が約 530 円(昭和 8 年白井忠太郎氏) との資料もあります。 全体でこの事業に対する寄付 は 5 千円から 1 万円の間の金額 が集まったのでしょうか。不況 で大変だった事は想像に難くあ りません。その中でお一人多額 のご浄財を寄付なさった方がい らっしゃいます。湯沢村谷地出 身の大橋かう子刀自です。刀自 とは広辞苑によれば、とじ、と うじとも言い炊事・洗濯・育児な ど家事一切をしなくても良い深 窓の大奥様を指すそうです。刀 自は 3,000 円をこの事業に寄付 なさいました。前述のように神 立村の村長さんの年間給与が 530 円だった時代です。その約 6 倍です。今ではどの位の金額な のでしょうか。物の価値観が大 分変わっておりますので、単純 に物価で比較をする事は出来な いので、私には良く分かりませ ん。受講生の方で当時家計を握 っていた方がいらっしゃいまし たら、実感として教えていただ きたいとおもいます。多額で実 感は湧かない金額なのでしょう か。なお大橋かう子刀自はそれ よりも先、昭和 2 年に湯沢村に 実父高橋新一郎氏の逝去に際し 5000 円の寄付をおこなってお ります。湯沢村はそのお金で新 潟県では最初となる消火用水道 しもしゅく (消火栓)を 下 宿 に作りました。 今でも愛宕は東電寮前・諏訪の 笛木商店上・幅下の田村正夫氏 宅上・下中の日東建設横・楽町は 中俣商店前に青い消火栓が当時 作られたまま設置されてありま す。 刀自は湯沢小学校入口近くに ありました大和屋様のご出身で 明治 3 年のお生まれです。明治 20 年に長岡藩士であった実伯母 の夫大橋佐平氏の次男省吾氏を 婿として迎えましが、明治 22 年 に夫の実家が東京で書籍の販売 会社「博文館」を創立するにあ たり、それを手伝う為夫婦で上 京しました。翌 23 年湯沢の実父 新一郎氏が「東京堂」を起こし 夫省吾氏が 2 代目経営者になり ました。 明治 24 年に協議のうえ大橋の 姓に戻ったようです。事業はそ の後も大成功をなされ当地に対 するご寄付の他、精神薄弱者の 特殊学校にも数年に渡り多額の 寄付をなさっておられます。昭 和 17 年に肺炎を患いご他界な さいました。 大峰百番観音霊場の建設は昭 和 8 年初頭から動き始めたよう です。 まず、石の観音様の製作は長 岡市本町にありました諸橋石材 店に依頼されております。製作 を担当したのは諸橋賢治氏です。 氏は昭和 11 年に亡くなってお り、又第 2 次世界大戦の長岡空 襲で諸橋石材店は総てを焼失し ており、当時の資料を入手する 事が出来ませんでした。折悪し く私が尋ねた時は賢治氏の弟様 がご他界なさったばかりの時で それでもその奥様が観音様は長 岡から舟で六日町まで運んだよ うだと話してくださいました。 六日町から湯沢までは馬車だっ たのでしょうか、それとも出来 たばかりの汽車だったのでしょ うか。 観音様一体の製作費はどの位 だったのかと言う疑問も湧いて きます。 数年前に地元の石材店様に聞い てみましたら、一体 300,000 円 位はかかるとおっしゃっていま し た 。 そ の 100 倍 で す か ら 30,000,000 円の仏様が大峰一帯 に置かれているのです。 少し不謹慎な表現ですね。 次に参道作りです。昭和 8 年 の雪解けとともに 70 名程の勤 労奉仕、今で言うボランティア を得ておこなわれました。潅木 の伐採・草刈とその年の秋まで かけて、湯元から大峰山山頂へ そこから下り七谷切を経て秋葉 山そして終着の宝珠庵まで 2 里 余約 9 ㎞の道程の参道が作られ ました。 現在 70 才代以上の方でこの参 道作りや次に話をする観音様運 搬に参加なさった方が大勢いら っしゃるのではないでしょうか。 是非当時の様子を私に教えて頂 きたいと思います。 さて、昭和 9 年の残雪が残る 5月と夏8月に石に刻まれた観 音様の山への運搬が行われまし た。500 有余名の勤労奉仕があ ったなか、運搬の一般競争入札 も行われました。落札したのは 神立村の故南雲福太郎氏で落札 価格は 620 円第 2 位は 800 円で す。氏の子供達もやかんに水を 入れて山まで運ぶ手伝いを何度 もしたそうです。その功に深く 感謝した中村無外師は後年2そ うの掛け軸を南雲氏に贈ってお ります。 仏様を背中に担いで山まで運 んだ力持ちの逸話も残っており ますが、基本的には丸太で枠を 作り、4 人で運んだようです。 大勢の方の努力と信仰心が感じ 取られます。 昭和9年9月18日宝珠庵に て大峰百番観音霊場落成法要が 執り行われました。なお毎月 18 日は観音様のお祭りの日だそう です。その時の記念写真があり ます。中村無外師を中心に大橋 かう子刀自、関興寺大原住職を はじめ湯沢村・神立村の主立つ の面々、そして観音様製作に関 わった人々が揃っております。 その中に1番若い島村勝彦氏が 最後列に写っております。氏は 2年ほどまえに他界なさいまし たが、当時は村営湯沢ホテルの 支配人だったそうです。隣の高 半ホテルに泊まっていた川端康 成がその名前を耳にして駒子の 相手役を島村と名づけた事はつ とに有名です。 戦前戦後を通じまして大峰百 番観音霊場は地元の人々に信仰 されました。子供達は山の参道 をこの地方の方言を借りれば跳 んでまわりました。道草刈りを 年に数度なさった方もいらっし ゃいます。中村無外師のご教導 と相まって観音信仰はある程度 この地に根着いて行ったとおも われます。 昭和 35 年にはスキー神社の 建設や観光施設の充実を図ると 共に百番観音聖域の整備の目的 で大峰開発協議会が発足しまし た。昭和 36 年にこの組織は大峰 百番観音後援会と改められ、後 に大峰観音講となり現在に至っ ております。60 年以上の歳月が ながれました。その間に大東亜 戦争いわゆる第 2 次世界大戦を 最大として、さまざまな激動が 日本全体にも、個々の生活の中 にもあった事でしょう。観音様 達は山の上からそれを見続けて おられました。 最後に、大峰百番観音様と小 説「雪国」との関わりについての 私の所謂、私見をお話いたしま す。気楽にお聞きください。 それは結論から申しますと、 小説「雪国」ができたのは観音様 りやく のご利益 であるということです。 観音様はこの地に百番観音霊場 を作られた事を大変に喜ばれま した。何かお礼、所謂ご利益を 与えようと思い川端康成を滞在 中の大室温泉から出来たばかり の清水トンネルを通してこの地 に寄越しました。(現実には日 本 100 名山で有名な深田久弥氏 の勧めがあったようです)そし て盲目の按摩星野さんを介して 松栄こと駒子と出会わせ、小説 「雪国」を作らせました。この小 説が越後湯沢をして日本全国に 温泉やスキーの観光地として有 名にした事は論を待つまでもあ りません。私がその様に考える 理由は川端康成が湯沢に始めて 来た時期が昭和9年の 6 月 百 番観音様の山への運搬たけなわ の時です。何日か泊まっていた 康成の耳にもその事が入ってい たはずです。 2度目の來湯は昭和9年8月か ら9月にかけてです。観音様の 2度目の山への運搬そして落成 を目の前にした時期です。百番 観音様に関係するような時に康 成は湯沢に来ているのです。観 音様が呼び寄せたと考えても無 理は無いと思われます。小説「雪 国」の中に駒子と出会うきっか けになったのは道普請の竣工祝 いで 12,3 人の芸者さんが総揚げ されたので、踊りの師匠の所に いる駒子を呼んだとなっていま すが、道普請ではなく時期的な ものからして百番観音霊場の落 成なおらいのパーティを想定し て書かれたのではないのでしょ うか。そう思うことによって当 時の湯沢に心に沁みるような暖 かいロマンと夢を感じることが 出来るのです。 先般、高橋伝左エ門氏にこの 話をいたしましたところ、氏は 「ちょっと待って下さい、実は 湯沢に来る前に康成が泊まって いた大室温泉(現在は上牧温泉ニ ュー上牧荘)のすぐ傍に、私は小 説「雪国」の駒子の名前がそこ から来たのだと思っているお駒 堂と言うものが有り、観音様が 祀られているのです」と話して くださいました。小説「雪国」が 作られたのは観音様のご利益と 考えている私には大きな味方を 得たような気がし、月夜野町小 川の嶽林寺を尋ねました。上州 において歴史深い名刹の境内に お駒堂があり、阿弥陀様や観音 様が祀られておりました。 月夜野から筏で木材を江戸ま で運び出していた市兵ヱはその 実直さと勤勉さが見込まれて白 木屋の婿になりましたが、妻お 常は夫にあきたらず、髪結いの 清三郎と不倫関係を持ち、お駒 をもうけました。彼女は 7 つ、8 つから器量よしと評判でしたが、 お店の傾きを直すため、500 両 の持参金付の婿彦七との政略結 婚を余儀なくされました。しか し、恋人才三を忘れられず仲人 の長兵ヱを殺害し、夫彦七をも 母達と共謀して、殺害しようと しました。彦七はそれを南町奉 行所に訴え、大岡越前守が裁き、 断罪に処せられました。しかし、 お駒の無罪を信じ、また彼女を 哀れんで、父やその実家の人々 がお駒堂を建立し、菩提を弔っ たといわれております。その話 は江戸時代から人形浄瑠璃で幾 度も公演されて来ており、又、 東海林太郎の「お駒恋姿」と言 う歌で、大変有名だったようで す。幾度かその地を訪れている 康成は当然その話を知っている と思われます、お駒堂も逗留し ていた宿からそれほど遠くはな いので、訪れていると考えて良 いのではないでしょうか。なお、 にも湯沢の自然の美しさを、こ の町に生まれ育った人たちはも ちろん、すべての湯沢の人々が 再認識するとともに、湯沢の先 達が作られたハイレベルの文化 をもっと良く理解し、それを誇 りに思い、赤い心を持って、来 て下さったお客様に熱くその話 たいほう 嶽林寺は大峰 山と言う山号です。 が出来るようにする事が大切で はないかと思っております。そ なんと百番観音様の大峰山と同 の事が他地の真似ではないオリ じ文字です。深い因縁を感じざ ジナリティにあふれる観光地作 るを得ません。 りの一助になると信じて止みま 「この指だけが覚えている」 せん。 芸者松栄とお駒がオーバーラッ 長く話しを聞いてくださり大 プして、小説「雪国」のヒロイ 変有難うございます。最初に申 ンの名が駒子となったと言う高 しました様に私は仙台の出身で 橋伝左エ門氏の説に私は共鳴す すので発音が悪く聞きづらかっ ると共に、群馬県月夜野の観音 た事とおもいますが、観音様に 様と湯沢の観音様が協力しあっ 免じましてご容赦下さい。 て、哀れなお駒の名を世に広め 大峰百番観音霊場が長く保存 ると共に、越後湯澤を全国的に されて、再びご利益が湯沢の町 有名にしてくださったのではな に下ることを願いまして話を終 いでしょうか。月夜野は隣町と らさせていただきます。 言っても良い所です。携帯電話 合 掌 が無くとも観音様達には簡単に 相談し合える距離なのです。 私はこれからの湯沢は唯、沢 山の観光客を呼ぼうとするので この話をするにあたり高橋伝 はなく、質の高い観光地、具体 左エ門、岸野長雄両先輩そして嶽林 的には町民憲章にも書いてある 寺の鈴木住職から暖かいご指導を 文化の香り高い、昔から与えら いただきました。心から感謝いたし れている美しい自然を大切にし ます。 た観光地へ移行しなければなら ないと考えております。その為
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