ばっくとぅざぱすと その36

ばっくとぅざぱすと その36
ドンケツアン先生コンニチハ
当史料館は近江の名所、と私は考えています。近江の各地には、古くから息づくさまざまな精神があり、そ
れぞれに形をなし、その地の今の風光を支えています。この館の前に立たれて、ナニカアリソウ、と感じられ
るなら、それはおそらく、地元と本学とのあいだに数十年にわたって築かれた信頼を背景に、自家や自村に
伝わる古文書を寄託しようと決断された方がたと、お預かりしようと決意した研究者の精神が寄り合っている
場所であるからでしょう。
どなたにも見てほしいのは、展示室に入って左手奥のケースにある木版刷りの長者番付です。日野や八
幡の商人たちを相撲取りに見立ててのもの。19世紀前半に湖東中郡で出されました*。ランキングは今も
盛んですが、たいていは単純に数値化して順位付けた一次元配列です。しかし、相撲見立て番付ですと、ま
ず東と西に分けるため、二つの次元が用意され、微妙な競合は避けられます。そして中の柱をなす欄に、順
位を付けがたい名前を、興行主や行司の役で据えますと、三次元構成となります。この番付方式は、江戸期
なかば、18世紀以降しだいに広まり、19世紀の江戸や大坂では、医家、儒者、絵師はもちろん、織物、饅
頭、鉢植にまで優劣を競わせては、楽しまれたり、スキャンダルを起こしたりしました。人名を並べる時は版
元も気をつかい、「ただいま改版準備中」との逃げ口上を脇に付けたものでした。
ところが、史料館に展示してある番付は違います。19世紀前半の湖東の目利き精神の結晶と申しましょう
か。特徴のひとつは、資産の大小による配列を基本としながら、質的な評価も欠かせないと、別次元をから
ませていることです。その意図は、絵や字で作った九種の目印を各人の名前の上に付けることで果たしてい
ます。「宝」字入りの打出小槌、枡に「久」字といったものです。それらの意味が欄外に解説してあり、それと
つきあわせれば、各商人の金の使い方、器物の備え、家宅や庭の手入れ、家の持続などについての評が
伝わってくるのです。打出小槌は「長者随一」の印でしたが、必ずしも大金持に付くとは限りません。中柱の
下の「裏土俵」欄もユニークです。そこに囲われた大金持に、ある印が付いています。ご自分の目で確かめ
て下さい。
いまひとつの特徴は、逃げ口上なしの姿勢です。欄外に作者の弁 ― ざっとご覧になれば順
がかなり違うと思われるかもしれません。しかし、相撲は数多の秘術があって勝負が決まるもの。そうお考え
下されば、ご異見も大方なくなるでしょう。また、何かの噂があれば再検討もしました。それでもなお残る見方
の違いはお許しを、と。
一次元のランキングと、この周到な番付との違いは、居並ぶ人々それぞれの個性が見えてくるか否かとい
うことではないでしょうか。前者では、上位のみに目が移りがち。後者では、各地のさまざまな旦那衆が全体
としてどのような賑わいを示しているかが見えてきます。このようなタイプの番付は、近年出版された古番付
集を見渡しても、類例が無く、近江独特のものではなかったかと考えはじめました。近江では、この版の一部
を改めたものがほかに見つかっていますし、長浜のさる家で、人名が少ないながら同じような多次元配列の
ものを見たこともあります。
古代以来、近江は、水運、陸運の要として、人やモノや情報がつねに脈動、各
所に一風ある町が大胆かつ繊細な文化を醸し出しています。この番付のような目利き精神が育つのは、近
江ならではのことかもしれません。思えば、18世紀の八幡の人、伴蒿蹊の『近世畸人伝』も、百名の人物を
選ぶにあたり、儒学者は高島の中江藤樹と弟子の熊澤蕃山、そして筑前の貝原益軒のみ。よほど広角の視
野と判断への自信なしにはありえない人選です。
それにしても、この番付を作った人「呑穴菴茶楽斉」とは誰だったのでしょう。2年前にイギリスで行った講
演では、近世安定期日本の自足洒脱な暮らし向きを話題にして、この番付作者にも触れました。その六字の
意味にドンケツとかシャラクサイとかの俗言をかけた味わいを英語で伝えるのは至難のこと。思案のあげく、
Insatiably Tea-drinking Nonchalant Scholar at the Bottom と、お茶を濁しました。
*「湖東中郡日野八幡在々持余家見立角力」(真崎家文書)
(附属図書館長 横山俊夫)