ツバロン製鉄所建設と財務問題

ツバロン製鉄所建設と財務問題
(2012.10 川鉄昭和 37 年入社同期会会報記載)
矢部邦男(元川崎製鉄財務部)
既に読んでいる方も多いと思うが、最近「鉄のあけぼの」(黒木亮著、毎日新聞)という
本が出版されて、西山弥太郎社長の生涯が川鉄の千葉製鉄所建設を中心に描かれている。
その中で私に縁が深いのは““世銀借款”の章だが、1964 年の 6 月に千葉原料倉庫から東
京資金部に異動した時には、世銀借款はあらかた終わっていて、そのフォローアップの仕
事を色々やらされた。厳しい財務規制を守るための財務的・経理的対応や各種の財務報告
書作成等々である。まだ何も分からぬ新兵にも千葉製鉄所建設の最大の鍵が資金調達とそ
れに付随する財務問題にあるということだけは心に残った。
その後、長きに及んだ東京資金部~財務部での勤務中、私自身が渦中に置かれたもう一
つの一大財務プロジェクトは、何といっても“ツバロン製鉄所建設の財務問題”だろう。
会社がまだ初期段階にあった時代の世銀借款のご苦労とは比ぶべくもないが、ツバロン製
鉄計画の鍵を握るのもやはり資金調達問題であり、それなりの苦労があった。
1976 年 5 月、ブラジルのシデルブラス、イタリアのフィンシデルと川鉄の間で「ツバロ
ン・プロジェクトに関する基本協定」が結ばれ、それまでのパイロット・カンパニーが建
設・操業・スラブ販売を目的とする事業会社に改組され、ツバロン製鉄株式会社(CST)
が正式にスタートした。更に同年9月にはブラジルのガイゼル大統領が来日し、ツバロン
製鉄を含むいくつかの重要な日伯間プロジェクトがブラジルのナショナル・プロジェクト
として承認された。日本政府も支援姿勢を明らかにするため、ツバロン製鉄所のインフラ
となるプライア・モーレ港建設資金の一部として OECF を通じ1億ドル融資を用意する意
図を明らかにした。
本プロジェクトに川鉄が参加することを決めた 1973/10 頃は、総投資額は約 10 億ドル
とされていたが、第1次石油ショックの浸透の影響で、この頃には総投資額は 22 億ドル、
当時の円貨換算で約 6,500 億円程度に大幅に見直されていた。 更にその後建設に入って
から、1979 年の第2次石油ショックにより最終的予算は創業前費用や建中金利等含めた総
所要ベースで 34 億ドルとなった。これは当時の川鉄にとって大変な巨額プロジェクトであ
り、しかもブラジルという未知の土地での事業であるだけに、将に“社運をかける”もの
であった。出資比率はブラジルのシデルブラス 51%、川鉄、イタリアのフィンシデル各
24.5%で、夫々の出資比率に応じた資金調達責任を負うということになっていた。
上記のようにツバロンプロジェクトは、重なる石油ショックの影響を受けて、途中何度
も挫折しかかったが、何とか 1978 年 3 月には土地造成工事に着手し、同年 10 月には
川鉄~ツバロン間で「設備機器、役務供給基本契約(サプライヤーズ・クレジット付き)」
、
「製品売買予備協定」、「融資条件の調整に関する協定」等が結ばれ、いよいよ実行段階に
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入った。川鉄は鉱石ヤード、焼結工場、高炉、発電・送風プラント、酸素工場などを受注
し、1,300 億円程度の受注額となったが、これは後のエンジニーアリング事業拡大へと繋が
るものであった。またイタリア側は石炭ヤード、コークス炉、転炉、分塊工場などを受注
し、ブラジル側は、ブラジル国産機器と現地工事一切を受注した。
こうしてツバロン・プロジェクトが動き始めたが、最初の大問題はこの巨額の資金調達
をどうするかであった。ソブリン・リスクも決して小さくない当時のブラジルに対して、
日本の民間銀行だけでの調達は極めて困難と予想されたので、川鉄財務部は基本構想とし
て、日本輸出入銀行の制度金融に民間銀行団(第一勧銀主導)の協調融資を加えた資金調
達を主体に考えた。また、派遣者の住宅や子弟の学校、病院などインフラ関係には JICA の
低利融資も考えた。
当時すでに先行して PSC 向けの延べ払い融資を輸銀から引き出すことに成功していたの
で、パイプが繋がっていたのは大きな利点であった。
ツバロン建設に関する基本協定が
結ばれた 1976 年の 5 月、私は田中徳造常務(当時、のち副社長)にお供して日本輸銀の橋
本信夫担当理事にお目にかかった。そこでの話は「このプロジェクトはまさに資金プロジ
ェクトですね。」「ブラジルとイタリアが相手では大変ですね。とくにイタリアの抜け目の
ない商売上手には十分気をつけて下さい。」などという会話が交わされた。田中~橋本両氏
は若い頃からの知己でもあり、基本的な友好・信頼関係が既に出来ていたことから、好意
的な感触を得て帰った。
その後7月に入ってからの暑い盛りであったが、第1回目の出資金の原資融資に向けて
輸銀の審査が始まった。これはこのプロジェクト全体に対する日本輸銀としての基本姿勢
を決めるものとなるため、当初の出資金送金は小額ではあったが厳しい審査が約半年に亘
って続いた。財務部は実行部隊として、古谷課長、矢部掛長、中薗掛員の体制で対応した。
プロジェクトの目的、将来展望、世界のマーケットの現況および見通し、関係者の支援
体制、ブラジルに関する税務・経理他様々な情報、ソブリン・リスクに対する備え、基本
協定の法的な解釈、技術的な詳細構想とその得失、現地への派遣体制、等々、審査の対象
はありとあらゆる分野に亘り、川鉄ツバロン本部からも松永部長や竹蓋部長ほか技術・事
務を問わず大勢の方々に支援を仰いだ。
こうして、輸銀審査部の容赦ない質問、追求に
対応して説明に日参する半年が過ぎ、1977 年 2 月、ようやく輸銀理事会の承認が下り、改
組後のツバロン製鉄株式会社向けの最初の出資金送金に漕ぎ着けた。この輸銀の承認は、
その後のツバロン資金調達活動に大きな拠り所を与えてくれるものとなった。
丁度その直後、私のブラジル MSG(カパネマ鉄鉱山開発)出向が決まり、同年6月日本
を後にした。MSG のプロジェクトもツバロン製鉄所と密接な関係を有するため、長い間紆
余曲折があり、ブラジルの山の中で悶々とする日々もあった。リオデジャネイロ出張中に
川鉄の保養所ウルカ荘で、ツバロン・プロジェクトからの撤退を決意された川出副社長に
お目にかかったこともある。(結局は撤退を翻して前に進むことになったのだが)
MSG
のことは別の機会に譲るとして、私は 1980 年 11 月、4年弱のブラジル駐在を終えて再び
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川鉄財務部へと戻った。この間、ツバロン現地では漸く土地造成が始まったが、ブラジル
側は FINAME(伯国産業融資特別基金)融資の一部は確保出来たものの、自国内での資金
調達責任を十分果たせずに日本の民間銀行 22 行(東銀主導)から直接7億ドルの協調融資
を引き出す策に出た。これは川鉄の直接リスクではないが日本リスクを増やすという点で
問題はあったが、最終的には川鉄も協力して成功に導いた。一方長きに亘るツバロン・プ
ロジェクトの紆余曲折のために、日本側責任の資金調達活動もその間大した進展を見ずに
留まっており、私の帰国にタイミングを合わせるかの如くに再び動き始めた。
その主題は、設備機器・役務供給基本契約に対応する延べ払い融資問題であった。まず、
大蔵省・通産省等と輸出保険問題を解決し、再び日本輸銀からの延べ払い融資獲得のため
の第2次審査を受けることとなった。この審査も約半年を要し厳しいものではあったが、
すでに4年前プロジェクトの開始に当たって第1次審査が承認されていることでもあり、
色々な環境変化の中で心配される局面もあったものの何とか承認を得ることが出来た。輸
銀の方々も数年間にわたるツバロン・プロジェクトとのお付き合いで、すっかり親派が増
え、後にツバロンが稼動開始した時には、輸銀の曙橋迎賓館に川鉄関係者を大勢呼んでお
祝いしてくれた。中でも川鉄と一体となって融資実現に努力してくださった営業部の入澤
課長(のち輸銀理事)や安中担当には本当に感謝あるのみだった。
その後、ツバロンの建設は順調に進むかに見えたが、1979 年メキシコの金融危機に端を
発しその後フォークランド紛争等で拍車をかけられた中南米信用危機はブラジルにも波及
し、国内経済は悪化、海外からの融資は急激に滞るようになった。ツバロンへの資金調達
責任分は日伊においては既に確保されていたが、ブラジル側は義務を果たせず、建設に大
幅な支障を来すことが懸念されるに至った。製鉄所建設工事は既に佳境に入っていたが、
ブラジル責任調達分の資金はまだ約5億ドルが不足しており、日本からのこれ以上の資金
引き出しは無理と見て伊のフィンシデルの協力を求めたものの、成功しなかった。同じ頃
ミナスジェライス州でヨーロッパ連合の後押しを受けて建設中だったアソミナスは、早々
と建設凍結に入っていたが、ツバロンもこのままでは同じ運命を辿ることになりかねなか
った。
ツバロンが最後の段階で資金問題の壁に当たってもがいていたこの頃、ツバロン・プロ
ジェクトの陰の舞台回し役だった川鉄原料部長の加藤真三郎さんがリオに出張して来てウ
ルカ荘に滞在中だったが、ある日、日本長期信用銀行/サンパウロ支店長の中島寛氏(後
年、宝幸水産社長となったが早世。かっては日本有数のアルピニスト)の訪問を受けた。
私もたまたまブラジル出張中で、加藤さんに命じられて同席した。中島氏は日本リース
(長銀系)と一緒に検討したアイデアとして、セール・アンド・リースバックという方法
がこの際壁をぶち破るのに活かせるのではないか、と提案してきた。帰国後、このアイデ
アはブラジル側の事情でセール・アンド・セールバック(略してS/S)となったが、長銀
国際部門の大野木部長(のち頭取)のチームと日本リース(長野国際部長)によって推進
されることとなった。
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この構想は、ツバロン製鉄が建設中の工場および機器の一部を完成と同時に日本の買い
手に売り、操業開始後ツバロン製鉄が数年かけて延べ払いで再び買い戻すという方式で、
あと一息という必要資金をペーパー上の所有権のやりとりで何とか捻出しようという、い
わばウルトラ C とも言うべき強引な手法であった。通常の金融常識では、すでに最初の輸
出段階で延べ払いファイナンスが供されている機器類を、もう一度延べ払いというファイ
ナンス付き売買の対象とすることは二重ファイナンスであり、健全な金融原則に反するも
のであるとして、日本の銀行は猛反発した。このため、日本からのファイナンスがついて
いる機器類は対象に選ぶことが出来なかったが、イタリア側は自分らが延べ払いで輸出し
たコークス炉等がこの対象に選ばれることに何故か目をつむってくれた。そのお蔭でこの
ウルトラ C は成立し約5億ドルの資金調達が可能となった。これによってついにツバロン
製鉄所建設完遂の目処がはっきりついたことになる。まさに加藤さんの執念が実った訳だ
が、そこに至るまで川鉄社内では強烈な論争が巻き起こり、重役陣の間でも賛否をめぐっ
て恐らく前例のない激しいやりとりが行われた。この買い手には加藤さんの顔で商社や組
合船舶、農中などが参加する予定であったが、辞退する者も多く顔ぶれは途中かなり変形
した。結局、川鉄自らが参加を余儀なくされたうえ、川商をのぞく大手商社には保証に近
い念書を入れざるを得ず、また多くのリース会社には川鉄財務部首脳が一社一社訪問して
参加を懇願した。こうして、かなりの綱渡りではあったが、とにもかくにもS/S契約は
成立の目処が立った。しかし、問題はこれで全面解決した訳ではなかった。というのは、
S/Sでは日本の買い手が工場完成時に買い取ることが前提だが、工場完成まで漕ぎ着け
るための資金支払いは建設中に大半発生するからである。ここに建設最後のほぼ1年間を
支えるブリッジ・ローンの必要が出てきた。
川鉄財務部は、メイン銀行の第一勧銀に対し約4億ドルのブリッジ・ローンの協調融資
団組成を懇請した。第一勧銀は当初極めて消極的だったが、川鉄が社運をかけたツバロン
製鉄のピンチであることを理解してくれ、最後は積極的に乗り出してくれることとなった。
第一勧銀では小林久夫国際部長(後の副頭取)
、依田正稔課長(後のカルピス社長)らが担
当となり、結局邦銀11行が参加してくれることになった。このブリッジ・ローンは、S
/S契約そのものを担保に取り、1 年後の償還日には工場売却代金によって確実にツバロン
製鉄から返済を受けるものとの前提であったが、ローンが実行される段階では1年後に工
場が必ず完成するという保証はなく、厳しいブラジルの経済環境も考えると、銀行側は相
当なリスクを負うことになった。
1983 年の始め頃だったか、第一勧銀の依田課長と顧問弁護士にお供して、私はブラ
ジリアを訪れた。出来れば国庫保証を引き出せないか、償還時の送金が円滑に行えるよう
外資登録上の特別配慮を貰えないか、等が主目的だったが、肝心の当事者であるツバロン
製鉄のダルトン財務取締役は、ノトリアス・ダルトンと呼ばれたくらい調子は良いが無責
任な人物で、自らは丸で動こうとしない。結局、我々だけのブラジリアでの交渉で国庫保
証の取り付けは無理だったが、外資登録局の局長が MSG 時代の私の知己でもあったことが
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幸いしてか、登録許可証の欄外に最優先外資であるとのコメントを載せてくれた。これが、
法的にどれだけの効力を持つものかは極めて疑問であったが、依田氏は第一勧銀内やメン
バー銀行をうまく説得してくれ、ブリッジ・ローンが成立することになった。それまで、
S/S契約の買い手は、ブリッジ・ローンが成立しなければ工場完成の見込みがなくなる
として、契約調印を留保していたのだが、これで問題は一気に解決することになった。
1983 年4月ニューヨークのホテルで、日伯両サイドの関係者列席の下セール・アンド・
セールバックの契約調印式が盛大に行われ、川鉄財務部からは古谷課長が出席した。丁度
その日の夕刻突然、川鉄財務部で残業中の私に、ブラジルでスーパーミニスターと謳われ
たデルフィンネット経済企画大臣のスタッフ(デルフィン・ボーイズと呼ばれた)の一人、
パウロ横田氏から電話がかかってきた。デルフィン大臣が今帝国ホテルに滞在中だが、す
ぐ来て欲しいというものだった。直ちにツバロン本部の竹蓋部長と相談し、川鉄重役の中
でただ一人まだ事務所に残っておられた朽木財務担当取締役(当時)においでいただくこ
ととし我々も同行した。実は私にはポルトガル語の通訳をせよとのご下命もあり、そんな
偉い方の通訳などやったことはないし正直参っていたのだが、幸いのちにサンパウロ大学
の教授になる日系移民の二宮正人氏が同席されており見事な通訳を勤めてくれたのでホッ
とした。
デルフィン大臣からはS/S契約の調印につきブラジル政府を代表して御礼を申し上げ
たいので、川鉄の八木社長に会えるよう手配を頼みたい、というのが趣旨だった。数日後
無事その会見が実現し、デルフィン大臣からは「これから、ブラジルの扉は、川鉄のため
に常に開けておく」という感謝の念が述べられた。
S/Sに比べると、ブリッジ・ローンは余り人々の口に上らなかったが、私個人として
は、あの非常時の中でたとえ1年間とは言え大きなリスクを敢然と乗り越え、S/S実施
ひいてはツバロン製鉄所の完成に導いてくれた陰の立役者ではなかったかと思っている。
1983 年 11 月 30 日、幾多の困難を乗り越えて、ついにツバロン製鉄所の高炉の火入れ式
が行われた。祝典には、ブラジルからはフィゲレード大統領以下の要人、日本からも八木
社長をはじめ、銀行、商社、機器メーカー等々の首脳が参列し、全体ではおよそ 1,000 名
の参列者があったとのことである。
ツバロンの財務問題は、資金調達問題だけでなく、為替リスクの調整問題、更にF/S
では PCR(コストプラス適正利潤)で設定されていたスラブ価格を、マーケット・プライ
スに変えるべきか否か、など侃々諤々の議論がなされ、これはこれで大きなテーマとなっ
たが、紙数も尽きたのでここでは省略する。また操業開始後、ブラジル経済はさらに悪化
し、ついに対外債務につきモラトリアムを宣するところまで行ったが、ツバロン関係の融
資については遅れ気味ながらも最優先で返済される等、ブラジル側も誠意を見せてくれた
様である。(完)
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