第 8 号平成 2 3 年新春号

平成二
’
近隣の助け合い
各団体間の横の繋が
公園緑化につい
慶応側プランターの
害しblIIl
お祝い品を、地区長よ
福祉については、毎年行われている敬老祝い品の配布の他、 新たに小生
一十四名の新入学幅
力を合わせ¥活気あみ町作り唇取症緩んでい
日吉町ではお子様から高齢者
未加入の方は是非ご入
了さを﹄こ一八/会意一富こう三軒謡・隣違動﹂匡舞毒一二:岩:琴た一・苧と一岩珍
唇
入
発行
日吉町自治会
編集
日吉町自治会
広報委員会
平成23年1月
発行:
第8号平成23年新春号
日吉神社の由緒と沿革
日吉神社の由
宮司相原鎮雄
当神社の創立年代は不詳ですが、
古くから武職国橘樹群矢上村の総
鎮守として、かっては﹁お伊勢原﹂
と呼ばれる丘の上に鎮座し﹁神明
社﹂と称しました。
江戸時代後期に編集された﹁新編
武蔵国風土記稿﹂には﹁矢上村古く
は谷上と響きけり、村の北丘の上に
神明社あり、入口に鳥居二基あり、
社頭に古松樹生茂りたれば古き宮
居なることをしらる﹂と記されてい
ます。
小田原北条氏の時代、現在慶応高
校野球部になっている場所に、かっ
て中田加賀守某が居城とした矢上
城があり、川崎市中原区木月井田か
ら港北区池辺町にかけての広
い地域を支配しておりました。
当時、中田加賀守を開祖とする保
福寺と同じく、神明社と称した日吉
神社も中田氏の手厚い保護を受け
たと思われます。
御祭神は伊勢の大神様﹁天照坐皇
大御神﹂︵あまてらしますすめおお
みかみ︶様です。
つ つ
厘吃
なへと洗洗かみ亡ら弓天を
め名横蕊
日吉は文教の町と言われており、面に掲げてあります。
横浜、日吉の歴史散歩︵五︶
ロ・・且。“一釘八戸・・一・・|﹂j〃﹄一壱F一・宮一京一一〆、ロロ︵一壱一寺己一︵”一一一二﹄一画・・口呂
明けましておめでとうございます。
﹁横浜・日吉歴史散歩﹂を今年もよ
められている﹁都市型﹂河川として
下流に流す機能を果たすことを求
都市に降った雨を集め、すばやく
の旧地名﹁上ノ町﹂と川崎側の﹁井
﹁上田橋﹂。この橋の名は、日吉側
て、上流に向かうと、二つ目の橋が
綱島街道の通る新挙雫橋をくく診
海岸線は後退していくが、この川は、
縄文・弥生・古墳の各時代を通じ、
注いでいたと考えられる。
I流れではある力こ,海岸付近に
の役目だ。
これを追うように流れを伸ばして
いた﹁矢上堰﹂は歴史的にも古く、
川崎市域に入り、再び横浜市域と接
矢上川は、この上田橘から上流は、
堰によって汲み上げられた水は、
︵東名インター付近︶では一米ほど
り、川崎市宮前区の東急宮前平駅傍
恩田川に合流してからこの川は鶴
口語訳すると﹁・・・佐江戸村で
な記述があるのを見つけた。
﹃新編武蔵風土記稿﹄に次のよう
ていく。
いき、やがて本流の鶴見川に合流し
田﹂に由来するという。
近隣の村に稲作用の水供給という、
する噸はない。
﹁根溺み﹂のすぐ上流に作られて
矢上川は、旧地名﹁根捌み﹂︵ね
大変重要な役割を果たした施設と
ろしくお願い致します。
がらみ・・矢上小学校の襲手に当た
一言えるだろう。
出して、絡み合っていたことからそ
矢上用水路を通って矢上︵宮前︶・
上流に行くに従い、川幅が細くな
る場所で、丘の斜面に、木の根が露
う呼ばれた︶という岡の突起に沿っ
されている箇所はほとんどなく、救
しかし、この川は、階渠の形態に
樹群の鳥山川・矢上川、この四つの
なり、都築郡の大熊川・早瀬川、橘
鶴見川になってから川幅も広く
川もみな、鶴見川に合流する。
これらの川はみな小さい川で、別
に取り立てて挙げるべきほどの川
ではない﹂。
たしかに、川の長さは、多摩川の
丘が幾重にも重なり、又、町を囲む。
まさにその通りの地形で、小高い
生活を営んだ人々があり、そして、
るが、昔からこの川に依って、農耕
四キロ弱の中小河川、矢上川ではあ
十分の一、鶴見川の三分の一で、十
矢上川の源流といわれる場所は
屈曲の多い流れは、頻繁に洪水を発
もたらしたが、一方でその地形は、
複数あるが、いずれも源流のひとつ
丘に降り注いだ雨が、一つの流れ
豊かな生態系が、育まれる環境を有
生させ、流域の村々に大きな災いを
を作って、谷戸間を流れていく。や
伊藤鈴太郎記
第五地区長
しているとも言えるのだ。
だったとされており、古矢上川は短
川崎市高津区子母口付近が海岸線
縄文中期︵四五○○年前︶には、
がて川となって海にそそぐ。
と考えても良いのではないか。
峠を意味するという。
で、低い、狭いに通じ、蔵は山地・
この辺りの地名、犬蔵の犬は宛字
れが消えた。
川道のすぐ脇︶、この地点で水の流
川崎市宮前区犬蔵一丁目︵尻手黒
われる思いがする。
見川と呼ばれる。
繁輪・南北綱島の、村々の田嗣を潤
矢上小学校下の矢上川の流茸
の幅になる。
て、九十度に近く流れを変えて南に
した。
堰の管理は関係凹村で取決めが
向かい、鶴見川に向かって流れてい
くが、この根溺みから矢上橘までは、
行われた。この堰も昭和期には機械
一
一部岩盤が灘出していて、その岩は
一﹃
一口一
一
式に変えられパワーアップされた。
現
瀬を作り、川崎の中原、木月方面か
ら流れてくる渋川と合流し、流れは
勢いを増す 。
岸辺には草木が生い茂り生き物
一
にとっては、結構良い環境である。
二
篭喜
同
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岩盤の存在もあってか、敢えてこの
仏
幸彦
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一
風興4.6曹
一 一 一 一
鍵
付近は改修の手が加えられなかっ
たのか、昔ながらの景観を多少なり
とも残しているのではなかろうか。
ここから上流は、流れはほぼ直線
的。これは源流近くまで基本的に変
わらない。かって″九十九曲がり〃
と呼ばれ屈曲の激しかったこの川
は度々洪水を引きおこした。
大正から昭和にかけて改修工事
が行われ、今は、放水路のような真
っ直ぐな流れに変わっている。
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昨年後半のトピック鼠︾
◆昨年のお祭りは〆月こふ″::
二十九日に行われましたが、お天気
に恵まれ、多くの人で賑わいました。
例大祭式典後行われた輪踊りでは、
恒例の盆踊りの他、横浜市歌を音頭
に編曲した﹁横浜アラメヤ音頭﹂が
矢上婦人会民謡部の皆さんによって
披露され、氏子達も、熱心に踊りに
参加しました。
毎年輪踊りの定番となりそうです。
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︼手
タ
一
展風
害時の、要援護者安否確認を目的
◆当自治会では平成二十年、災
たる家族の負担も大幅に軽減できる
ことで発症者だけでなく、介護にあ
症も遅らせることも十分可能という
近くは、川崎の日本医大武蔵小杉
とする﹁自主防災検討委員会﹂を
たしましたが、名簿を充実させる
病院でも検診を行っているそうです。
との事です。
為、この度、見直しを行う事とし
検診は一回二千円程度で短時間で結
立ち上げ、要援護者名簿を作成い
ました。
必要を感じる方は下記に躯話して
果が出るとの話です。
しの高齢者②高齢者夫婦のみの世
みて下さい。︵○四五’一三・’九五
要援識者の対象を①ひとり暮ら
帯③障害のある方で、手助けが必
七五︶
区域を練り歩きました。記録的猛暑
しみ、永年、公園美化に貢献した
いながらも工夫を凝らして花を楽
◆日吉町二丁目公園愛護会は、狭
ています。
隣近所の助け合いが大切といわれ
方も多いと存じます。
謹賀新年日吉神社で初詣をされた
|編集後記一
要な家庭に限らせて頂きました。
近く、町内限りの新名簿を作成し、
役員・民生委員が管理いたします。
にも拘らず、お父さん方も多数参加
ことが評価され、横浜市公園愛護
災害時には、特に常日頃からの
され、汗みどろになって親子共々元
会より表彰されました。
謝します。
れていましたので、紹介させて頂
の記事で、興味深い情報が記載さ
筆者旧知の某中小企業振興財団
んはじめ神職の方々のご努力にも、
さんのご協力の賜物ですが、宮司さ
これは、氏子総代はじめ氏子の皆
ご同慶の至りです。
行事を蒜なく、挙行されている事は、
ながら、古来の文化を継承し、年中
日吉神社は、時代の流れに順応し
気な声を響かせました。
昨年の日吉公園愛護会の表彰に
◆十月十六∼十八日、日吉町婦人
所﹂が開発した脳波計は、痴ほう
ョンセンターにある﹁脳機能研究
横浜国立大学のインキュベーシ
なっている事は、大変残念です。願
ますが、最近その思想が薄れ勝ちに
氏神様に対する思いもそれに繋がり
神道の特徴の一つは、先祖崇拝で、
深く敬意を表します.
きます。
花を添えましたが、出展作品は、
症の早期発見に有効ということで
今年は自治会長も特別出品され、
昨年を上回る立派な作品ばかりで、
す。社長は横浜国立大学の名誉教
りたいものです。
授で、退官後も自らの研究を天職
癌と同じで早期発見すれば、発
らし、又神社の良き伝統を、永く守
皆さんの隠れた才能には、来場者
からの賞賛は頻りでした。
婦人会、自治会の行事として、
さらに発展されんことを願います。
として企業化を図っています。
わくはこの地域の皆さんが、我々の
先祖即ち氏神様に感謝し、仲良く暮
第二回作品展を開催しました。
会では昨年に引続き、会員による
皆様のご協力をお願いします。
演芸大会は老若男女、多士済々、
日頃の芸をお披露目し、磯り上がり
手でした。
の﹁和太鼓﹂は圧巻で、大変な拍
⋮亭“宣くだ“さる警乗︲言︵い、.﹄ご−・﹄:苧二︽会
メ
Z
続くもので会員皆様のご協力に感
子供神輿は、今年は日吉台小学校
Ⅸ二、
v
、
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あがりましたが、特にお嚇子を担当
子供神輿の一場蚕