鈴木貴之著 『ぼくらが原子の集まりなら、なぜ痛みや悲しみを 感じるのだろう』合評会 鈴木貴之氏(以下、敬称略)の著書、 『ぼくらが原子の集まりなら、なぜ痛みや悲し みを感じるのだろう』(以下、「本書」とする)は、いわゆる「意識のハード・プロブ レム」についての中級向け入門書という体裁で出版されている。しかし実際に中身を のぞいてみれば、粘り強く説得的な議論を通じて、おそらくは多くの人が意外に感じ るであろう結論が導き出されており、この手の話題にスレてしまった研究者にとって もきわめて魅力的な哲学書となっている。そこで今回、この書の批判的検討を通じて 意識の哲学の面白さ・難しさを再確認する機会を持つことにしたい。 心的状態は、思考や信念といった命題態度と呼ばれるタイプのものと、知覚や感覚 などの現象的特徴を備えた意識経験とに大別することができる。物理主義という立場 から心の解明に取り組むならば、この両者を何らかの仕方で還元的に説明しなければ ならない。命題態度に対しては、それらの状態を生物が持つ機能的状態として分析す ることによって説明を与えられるのではないかと思われる。しかし、意識経験 は、主 体自身にとってどのように感じられるかをその本質としているため、命題態度と同様 の説明をあたえることはできないように思われる。ゆえに、意識経験を説明するとい う課題は、物理主義者にとって「ハード・プロブレム」になる。 ハード・プロブレムに対する物理主義者の代表的な取り組み方の一つに、クオリア は意識経験の内在的特徴ではなく志向的特徴であるとし、命題態度と同様の機能的分 析を与えることができるとする、 「意識の表象理論」がある。本書の著者も、基本的に はこうした戦略を採用している(物理主義者によるほかの取り組み方については、丁 寧な批判的検討を通じて退けられている)。しかし著者によれば、従来の「意識の表象 理論」には三つの重大な問題が残されている。①、意識経験である表象とそうでない 表象の違いをうまく説明できない。②事物の物理的性質と経験される性質との関係を、 うまく説明できない。③意識経験には存在しないものが現れるという事実を、うまく 説明できない、この三つである。この問題を解決すべく、著者は「本来的表象」や「ミ ニマルな表象理論」、そして「自然主義的観念論」などの独自の論点によって「意識の 表象理論」をバージョン・アップする。その詳細については、著者自身の発表に譲り たい。 こうした鈴木の立論に対しては、さまざまな角度からの批判が可能であると思われ る。たとえば普通の物理主義者ならば、 「ミニマルな表象理論」や「自然主義的観念論」 といった論点に疑問を持ち、それらを利用すること自体が問題である、あるいはそれ らを用いれば「意識のハード・プロブレム」を解決できるとしても、それは「物理主 義」という立場を裏切るものになってしまうのではないかと批判すると思われる。一 方、著者自身によるこれらの論点は受け入れたとしても、それでもなおハード・プロ ブレムの完全な解決には至っていないという批判もありうる。今回の話題提供者のう ち、大雑把に言って金杉は前者の観点から、高村は後者の観点から論じる予定である。 もちろんこれ以外にも多くの批判がありうる。会場からの活発な議論を期待したい。
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