IBM Research-Tokyo The World is Our Laboratory 好奇心と探究心に満ちあふれる IBMの研究員たち ― IBMの基礎研究所の開発ストーリー 今回は、IBM Research の開発ストーリーを 2 つご紹介します。1 つは祖母の一言が研究員のキャリアと画期的な 成果につながるきっかけとなった話、もう1つは失敗から偶然生まれた発見についてです。 祖母の一言に触発され研究開発 されたプライバシー保護技術 彼女の住むコミュニティーでは多 データが漏えいの危険にさらされる くの人が畜産を営んでおり、彼女が ことはありません。このような個人 署名したことを知られることに不安 情報保護を実現するため開発された 400人にも満たない小さなスイス を感じたからでした。自分の活動を のが、 「Identity Mixer」です。 の村では、 「○○おじさんが飼って 理解し署名してくれるだろうと思っ 研究者たちは、 Identity Mixerの いる牛から村一番の牛乳が搾取でき ていたヤンはとてもがっかりしまし 開発にあたり、 「ゼロ知識証明」と るようになった」とか、 「△△さん たが、このことがきっかけとなって、 いう手法を取り入れようと考えまし と□□さんの間でロマンスが生まれ さまざまな場面においてプライバシー た。ゼロ知識証明をルービックキュー たようだ」といった があっという をできる限り守れる技術を開発した ブという立方体パズルにたとえてみ 間に広まります。 いと考えるようになりました。 ましょう。スクランブルされたルー 1980年代のある日、 動物の権利に その後、ヤンは暗号研究者となり、 関する署名活動に精力的に取り組ん 当時インターンとしてスイスのIBM 知っていることを証明するのに、そ でいたヤンという若者が、 スイスの小 チューリッヒ研究所を訪れていた現 ろえるまでの過程を見せる必要はあ さな村に住む祖母を訪ね、署名活動 米国ブラウン大学アナ・リスヤンス りません。そろえた状態だけ見せれば、 への支援を求めました。祖母は、 自分 カヤ教授と匿名属性認証システムの ルービックキューブをそろえられる が署名したことを第三者が知ること 研究開発に取り組みました(図1) 。 ことを証明できます。 ができるかと尋ねました。ヤンが、 署 例えば、ビデオ・レンタルのサイ Identity Mixerはこのような手法 名リストは自治体の職員がレビュー・ トで、生年月日や住所といった情報 を用いることで、デジタル署名、e 認証し、スイスの首都ベルンに郵送 を入力することなく、ビデオをレン キャッシュ、電子投票などにおいて、 されるようになっていると答えると、 タルできる年齢であることやレンタ 個人情報をむやみに開示することな 祖母は署名を辞退してしまいました。 ル対象地域に住んでいることを認証 く身分を証明するのに役立ちます。 できればどんなによいでしょう。ま Identity MixerのWebサービス た、レンタル料金をクレジットカー お試し版は、 「IBM Bluemix」上で ドでオンライン決済する際に、ク 提供する予定ですので、ぜひ試して レジットカード番号や有効期限と みてください [1] 。 いった情報を一切開示することなく、 カードが有効であることだけを確認 してくれる技術があれば、万が一ビ 図 1. IBM の暗号研究者、ヤン・カメニッシュ 66 ビックキューブをそろえる方法を P ROVISION No.87 / Fall 2015 うっかりミスから生まれた 新しいポリマー デオ・レンタル・サービスのサイト ポリマーの研究に日々取り組んで がハッキングされたとしても、個人 いるIBMアルマデン研究所の研究 員は、 ある日、 ビーカーに複数の化学 くり放出されるような仕組みへの応 抗生物質とは異なる作用をするため、 物質を入れて混ぜていたところ、 うっ 用などが期待されます。 真菌が進化して薬剤耐性を持つこと かり試薬を入れ忘れてしまいました。 さらにこの夏、IBMアルマデン研 試薬を入れ忘れたことに気が付かず、 究所の研究チームは、新種のリサイ また最近では、当研究チームが使 ビーカーを熱して棒でかくはんして クル可能な特性を有する自己修復 い捨てコンタクトレンズを溶液に浸 いると、ビーカーの中で混ぜていた オルガノゲルを発見しました(図3) すだけで透明な抗菌ポリマーのフィ を防ぎます。 ものは塊と化し、塊から棒を抜き出 [3] 。冷やすと固まり、再加熱する ルムでコーティングされる技術を開 せなくなりました。塊は乳棒とすり と液状に戻るという化学的に架橋さ 発しました [4] 。これは目の炎症や こぎを使ってもすり潰せず、 ハンマー れたゲルです。例えば、この液状の 目感染症のリスクを低減することが でたたいてもびくともしません。 物質で型を満たし冷やした後でミス できる可能性を秘めています。 この新しい材料が一体何なのか、 に気が付いたとしてもやり直すこと IBMは半導体材料の研究開発に長 当初見当もつきませんでしたが、量 ができ、希望する形状になったとこ 年携わっていますが、半導体の性能 子力学コンピューター・モデリン ろで紫外線を照射してプラスチック 向上に向けた触媒の研究がきっかけ グなどのさまざまな手法や、さらな のように固めることができます。試 で、生分解性ポリマーの合成に有機 る実験や計算を行い、ようやくPHT 作品の廃棄量削減など、3Dプリン 系の触媒が有効であることに気付き (polyhexahydrotriazine:ポリヘキ ターや積層造形技法への応用が期待 ました。常に視野を広く持ち続ける されます。 ことで新分野への応用の可能性を見 サヒドロトリアジン)という物質で あることが分かりました(図2) [2] 。 これらの新しいポリマーの発見以 いだし、うっかりミスから生じた偶 PHTは丈夫で軽量、耐溶剤性や耐環 外にも、 「IBMが?」と思わせるよ 然の恵みも見逃さず探求する―― 境応力亀裂を備え、リサイクル可能 うな研究成果を上げています。 IBMの研究員の好奇心、探究心が です。複合材料に加えることができ 例えば、PET ボトル由来の廃プ るため、今後、自動車や飛行機、半導 ラスチックのリサイクルでは、通常、 体製造などへの応用が期待されてい PETボトルを機械で粉砕し、衣類 ます。 やカーペット、公園の遊具などに再 もう一つ偶然発見されたポリマー 利用しています。IBMの研究員はこ があります。PHA (polyhemiaminal: の廃プラスチックを抗菌薬に転用可 ポリヘミアミナール)というネバネ 能な全く新しい分子に転換しました。 バした物質で、PHTに近い新しい 水虫、真菌性血液感染症、MRSA 種類のポリマーです。このポリマー など毎年多くの人々が感染している も軽量・リサイクル可能で弾力性が 感染症は、薬剤耐性が大きな問題と あるため、強力な接着剤のように作 なっています。IBM Researchと 用します。接着剤や塗料、マニキュ シンガポールの研究所の研究員たち アなどへの応用や、薬の成分がゆっ が開発したナノファイバー抗菌剤は、 図 2. 骨より丈夫で自己修復・リサイクル可能な新種のポリマー 尽きることはありません。 波岡ジューン直子 [参考文献] [1]http://www.zurich.ibm.com/idemix/ [2]Recyclable, Strong Thermosets and Organogels via Paraformaldehyde Condensation with Diamines, Science, DOI: 10.1126/science. 1251484 [3]Melt-Processable Dynamic-Covalent Poly (Hemiaminal)Organogels as Scaffolds for UV-Induced Polymerization, Advanced Materials, DOI: 10.1002/adma.201502033 [4]Broad-Spectrum Antimicrobial/Antifouling Soft Material Coatings Using Poly (ethylenimine)as a Tailorable Scaffold, Biomacromolecules, American Chemical Society, DOI: 10.1021/acs.biomac.5b00359 図 3. オルガノゲルの弾性 P ROVISION No.87 / Fall 2015 67
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