2015/1/9 第 13 回ミクロゼミ ハーバーマス『公共性の構造転換』⑦ 担当

2015/1/9 第 13 回ミクロゼミ
ハーバーマス『公共性の構造転換』⑦
担当班:浅田、白石、杉本
問 1 p.326『 公 論( 世 論 )は 集 団 過 程 の 社 会 心 理 学 的 分 析 の 表 題 と な り 、そ の 分 析
の対象はつぎのように規定される。
「 世 論 と は 、人 々 が 同 じ 社 会 集 団 の 成 員 で あ る と
き に 特 定 の 問 題 に 対 し て と る 態 度 を 引 照 し て 定 め ら れ る も の で あ る 」。』 と あ る 。 公
論が社会心理学的分析の表題となるとはどういうことか。またそれに対するハーバ
マスの考えを述べよ。
【引用】
p.321 むしろ公共性の―批判的および操作的という―二つの機能は、明瞭にことなってい
て、反対方向へむかう社会的作用連関の中に立っている。
p.322 すなわち一方の形態は、すでに紹介した区別にそっていえば、公共的意見に狙いを
つけ、他方の形態は、非公共的意見に狙いをつけている。
p.323 その一つはリベラリズムの立場へ立ち帰るもので、分解しつつある公共圏のただ中
で、公共性に堪えて意見を形成する代表者たちの内輪のコミュニケーションを、すなわち
単に拍手賛成するだけの公衆の核心部に論議する公衆を温存しようとした立場である。
同上 もっともヘンニスがこの事態を確認しているのも、実は通俗の見解に対抗して「相
対的に最善の情報と知性と道徳をそなえた市民たちが代表する見解」としての公論に傾聴
し聴従する特別の方策が切要であることを述べるためなのである。
p.324 ・・・合理性や代表性のような実質的基準を全く度外視して、もっぱら制度的基準の
みに問題を限定する公論概念への道を進む。
同上 「人民投票的民主制においては、積極市民層の多数派の意志がその時この人民の総
意と同一視されるが、それと同様に、機能している政党政治的民主制においては、政府と
議会においてそのつど多数を占める政党の意志が一般意志(volonte generale)と同一視さ
れるのである」。
p.325 もっとも、それでは逆に公論の制度的側面を無視することになり、たちまち公論概
念そのものを社会心理学的に解消してしまうことになる。
同上 こうして現代にとっては、何か新しい事実と気分転換の要求とが決定的なものにな
ってきたので、民衆の意見は歴史的伝統の堅固な支えを失ない、かつて原理を信じてこの
ためにすべてを犠牲にした偉大な人々の思想的工房での独特な行動力をもった準備作業を
も欠いている。
p.326 ・・・「公論というものは存在しない・・・・・・或る一グループもしくは一組のグループ
の活動を行動的に反映し表現する活動のみがある」ということになる。
同上 まず第一に、公論の主体である公衆(public)は大衆(mass)と同一視され、つぎに二
人以上の個人の意志疎通と相互行為の過程の社会心理的基体としての集団(group)と同一視
される。
p.327 個々の集団成員は、自分の意見や態度の重み―すなわち、他の成員たちのうち何人
が、そして誰れと誰れが、彼の代表する習慣や見解に賛同もしくは反撥するか―について、
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彼なりの(もしかしたら間違った)観念をもっている。
【解答】
本来の公論は、民衆が自律して生きていくことができるという意志に基づき、権力者の
支配体制を聞き入れ、民衆がもし異なった意見を持っているとすれば、権力者を批判する
ことである。しかし現代の公論は、それぞれの意見を数値化し、権力者と民衆の境目があ
いまいになることによって大衆化を招いている。つまり多くの人間が集団として集合した
際、彼らは自らの意見を持たず、共有せず、他の意見を持つ人々とコミュニケーションを
とらずに集団としての態度を統一する。例えば、民衆がある法律が定められる際に、権力
者の示威的操作により、自分の意見を持たず、人々が固まって統一の意見を出すことであ
る。つまり一つの集団の中にいる彼らは、その集団の中の権力者に賛同せざるを得ない、
といった理由から、それが結果的に彼らにとって正しいものだと認識してしまうのである。
権力者の意見が正しいか正しくないかということを考えずに、権力者の意見は絶対に正し
いという認識があるために、自分自身が正しいという強い意志を持つことがない。そのこ
とから、そもそも自分自身の考えを生み出そうとしないのである。この事例が大衆化であ
り、現代の示す公論である。社会心理学的分析の表題となるのは、自分の意志を持たずに
他人に合わすことにより、さらに多くの人が同じ意見を持つことでそれを公論としている
ことである。そして多数決を行い安易に多数決などの民主主義的な要素を持ち得ることで
ある。それは現代の政治についてもいえる。ある問題や、政治家を決める上での選挙は、
反対意見を持つ者がどれだけ正当な意見を持っているとしても多数決の原理で決定してし
まう。本来、公論というのは個々人が意志を持ち公的な場で共有し相手の意見も考慮する
ことだったのに対して、現代で意味される公論は自分で強い意見を持たず、集団として意
見を一つにまとめてしまったという解釈ができる。このことに関して著者は正しいことだ
と認めておらず、現代以前に認識されていた個々人の意見を持つことを意味する公論を正
しい公論である主張している。
さらに著者は、大衆化によって社会問題が起きるということも論述している。現代以前
に認識されていた公論は、人々が「代表する習慣や見解に賛同もしくは反撥するか―につ
いて、なりの彼なりの(もしかしたら間違った)観念をもっている。」
(p.327 引用)からも
見られるように一グループではなく、一個人としての意志を持っている。換言すれば、現
代で認識されている公論の解釈から、大衆化が進むと一個人としての意志を失ってしまう
のである。それによって、公論概念そのものを、社会活動(ここでは権力者の意見)から
個人が影響を受けることにから、社会心理学的分析による表題であると表現された。
問 2 p.333「 こ れ に 対 し て 厳 密 な 意 味 で の 公 論 は 、こ の 二 つ の コ ミ ュ ニ ケ ー シ ョ ン
領域が批判的公開性というもうひとつの広報性によって媒介されるかぎりでのみ形
成 さ え う る 。」と あ る 。厳 密 な 意 味 で の 公 論 と は 何 か 。問 1 で 扱 っ た 公 論 と の 違 い を
述べつつ答えよ。
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【引用】
p.140 …政治権力の行使は、
「いくたの誘惑にさらされているので」、公論による恒常的な
監査を必要とする。議会討論の公開性は「公衆による監視」を保証するものであり、公衆
の批判能力は疑う余地がないとされる。
p.298 もっとも、そうなると私的自律は、派生的なものとしてのみ可能であるにすぎなく
なる。安全、報酬、自由な発展を求める社会的権利、もしくは社会福祉国家の立場で機能
変化させられたこれらの権利も、もともと市民的な商品取引の利害関係によって安定化さ
せられた法治国家体制にもとづくものではなくなり、むしろ社会福祉国家の要請によって
そのつど民主主義的に遂行される(国家にかかわって行動するすべての組織の)利害調整に
依存しているのである。
p.321 一様に「公論」という言葉を使っても、政治的社会的な権力執行について規範的に
要請される公開性との関係において「公論」を批判的審延として活用するのか、それとも、
人事や制度、消費財や番組のために示威的操作的に流布される広報活動との関係において
「公論」を受容的判延として利用するのかによって、その語義もことなってくる。
p.330 モデルとしては、二つの政治的に重要な交渉領域を対照させることができる。すな
わち一方には、非公式で個人的な、非公共的な意見の体系、そして他方には、公式的な、
制度的に公認された意見の体系がある。
p.332 非公共的意見の交流領域には、擬似公共的意見の流通圏が対立している。…これら
の擬似的公論は、広汎な公衆に訴えることがあるけれども、リベラルなモデルによる公開
論議という条件を充たすものではない。それらは制度的に権威づけられた意見として、ど
こまでも特権的な意見であり、そして「公衆」という未組織大衆との相互的応答には決し
て達しない。 p.333 もちろんこの二つの領域の間には、マス・メディアを経由する不断の連絡が成り立
っており、しかもそれは示威的操作的に展開される広報活動による連絡である。政治的な
権力執行と権力均衡に参与している集団は、この広報活動を利用しながら、従属化された
公衆の人気投票的追随を求めて争うわけである。
同上 民間人の議論するコミュニケーションの連関は、たち切られてしまった。かつてそ
の中から出現してきた公論は、一方では公衆なき私人たちの非公式的意見へ分解され、他
方では広報的に活動する諸機関の公式見解へ集中された、組織化されずにいる私人たちの
公衆は、公共的な意思疎通によってではなく、公共的に表明された意見の共通化によって、
示威的もしくは操作的に展開される広報活動の激流の中で使役されるのである。
同上 もとより今日では、このような媒介が社会学的に問題になるスケールで可能になる
ためには、組織内部の公共性を通じて流れる公式的コミュニケーションの過程へ私人たち
が参加するという方法がどうしても必要である。
p.335 これに反して、福祉国家的民主制の条件下では、公衆のコミュニケーション連関は、
「擬似公共的意見」の公式に狭く閉ざされた循環が、それまで非公共的である意見の非公
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式領域と、組織内部の公共性において育成された批判的広報性をつうじて媒介されるとい
う仕方でのみ形成されるのである。
【解答】
今日における公論は、メディア、行政機構など権力者の利害関係により操作された意見
を、市民が受動的に利用するものとなっている。これは資本主義社会の成熟に伴い、貧富
の格差の拡大が生じたことに起因する。それに対抗して市民が、参政権の拡大を背景に労
働組合や労働者政党を結成し、格差の是正を目指したのである。換言すると、過剰な自由
主義社会は福祉国家を生み出し、それにより市民の社会的身分保障が確約されたのである。
しかし福祉国家の誕生は、私的領域への公権力の干渉とも解釈できる。これにより市民的
公共性に変化が生じ、本来の市民への公権力に対する主体的な態度は失われ、市民が行政
政策の受取手へと変化し、公共的討論と合意に基づく政治構造は完全が変化した。この公
私領域の基本構図の崩壊により、公論は「公共的な意思疎通によってではなく、公共的に
表明された意見の共通化によって、示威的もしくは操作的に展開される広報活動の激流の
中でのみ使役される」(p.333 参照)ものへと変容することとなる。ここでの政治はもはや、
権力者が公権力の傘下となった広報活動を利用することで従属化された公衆の人気投票へ
と成り下がり、公共の議論からは乖離しているため、公権力と市民との相互的応答の域に
は到達しえない。また、このように公権力は市民からの批判という足枷から解放されたこ
とにより、権力者の利害関係が政治に進入する結果を引き起こし「何をどのように行いた
いか」が政治の争点となった。
これに対して厳密な意味での公論とは、市民による公共的な意思疎通が公権力の支配に
対する政治的批判としての立場が期待される政治的主張であった。これは問題文で提示し
たように「二つのコミュニケーション領域が批判的公開性というもうひとつの広報性によ
って媒介されるかぎりでのみ形成さえうる」(p.333 参照)とされる。ここでの二つのコミュ
ニケーションとは、公的な議論である公式的コミュニケーションと、私的な議論である非
公式的コミュニケーションである。この公私のコミュニケーションという異なる二つの立
場を広報機関が公開性に基づき媒介することで、全市民が正しい情報に基づき議論に参加
することを可能とする。また公権力と市民による均衡関係が保持されることは、権力者に
おける利害関係の進入を拒み、「どうあるべきか」という政治的正義の追求を可能にした。
著者は、今日における福祉国家体制において、公権力の私的領域への侵入という事実を
踏まえ、「組織内部の公共性を通じて流れる公式的コミュニケーションの過程へ私人たちが
参加する」(p.333 参照)ということを問題解決の糸口としている。つまり政治的決定の場や
諸組織内に批判的判断力を有する市民を参加させることにより、公権力の独占的な政治的
意思決定に対する批判的対立軸の生成し、政治を公共議論に基づく理性的判断へ留まらす
ことを目指したのである。
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問 3 本 書 の 主 題 で あ る 公 共 圏 ( 公 共 性 ) の 構 造 転 換 に つ い て あ な た の 考 え を 述 べ た
う え で 現 代 、ま た は 未 来 に お け る 公 共 性 の あ り 方 を 評 価 、あ る い は 予 想 し て 論 じ よ 。
【引用】
p.31 ハンナ・アーレントは、私生活圏に対する公共圏の近代的な関係を、その古代的な関
係から区別して、前者を「社会的なもの」の成立によって特徴づけているが、それは「市
民社会」(Zivilsozietät)という、公共的意義を帯びてきた私有圏(民間の圏)を指してい
るのである。「社会とは、人間がただ生活のために人間仲間に従属する関係が公共的意義を
帯びてくるような共同生活の形態であり、したがって、ただ生存の維持に奉仕する諸活動
が、公共性の中で出現するだけでなく、公共的空間の相貌をあえて規定するに至るような
共同生活の形式である」。
p.48f とはいえ文芸的公共性は、生まれつき市民的なものというわけではなく、国王の宮
廷の具現的公共性の中から伝えられてきた由緒を保っている。教養ある中産階級の市民的
前衛が、公共的論議の術を習得したのは、「優雅な世界」――宮廷貴族の社交界――とのコ
ミュニケーションにおいてであった。・・・「都市」は、経済的に見て市民社会の生活中枢で
あるだけでなく、「宮廷」との文化政策的対立関係からみれば、それはとりわけ初期の文芸
的公共性を指す名称であり、それが喫茶店やサロンや会食クラブという形で施設化される
のである。
p.173 公論と理性の収斂を標榜しつつ政治的に機能する公共性のモデルは、自然的秩序に
よって(同じことに帰着するが、厳密に公益を志向する社会組織によって)利害の衝突と
官僚的独善を最小限に削除し、これらがどうしても避けられない場合には、それを信頼で
きる公開判定の基準に従わせることが、客観的に可能なことであると想定しているわけで
ある。
p.175 自由競争の秩序は、いわゆる私有財産取得の機会均等によって、政治的公共性への
参加権をも人民に開放するのだという約束を、もはや十分な実感をもって実現しえなくな
っている。政治的公共性の原理は、むしろ直接に手工業労働者階級や財産と教育のない大
衆の参加を要求する――それがまさに、政治的平等圏の拡張によって要求されるのである。
p.249 公共性の原理の諸変化は、公共性の圏そのものの構造の変化にもとづいている。こ
の点を、公共性の主要な機関である新聞の変遷にそって辿ることができる。
p.256 たしかに、新聞産業と映画産業は、だいたいにおいて民間の自由経営にゆだねられ
ていたが、それでも新聞が資本集中へむかう傾向がしばしば経験されたために、・・・発展す
ることは防止された。イギリス、フランス、ドイツでは、これらのメディアは公営もしく
は半官半民的経営体として組織されたが、それはそれらの公論的機能を私資本主義的機能
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に対抗して十分に保護するためには、そうするよりほかはなかったからである。
同上 f それ以前には新聞は、公衆として集合する私人たちの論議を仲介し助勢することが
できるだけであったのに、今や公衆の論議は逆にマス・メディアによってはじめて形成さ
れることになる。
p.300f 干渉政策をとる行政の「新重商主義」にたいする組織化された私的利害のこのよう
な競合は、文化的宗教的勢力の政治的に有力な代表者たちとともに、社会の「再封建化」
の道へ通じていく。
【解答】
本著で主として論じられている公共性は市民的公共性であり、それは私生活圏において
形成される。けれども一口に公共性といっても、本著の序論に述べられているように、本
来公共性という言葉には、様々な意味合いが含まれており、その語義は異なる歴史的局面
に由来する。市民的公共性も同様、その意味合いは近代以降複数生まれ、変容している。
その市民的公共性の構造の転換を把握するためには、伝統的に区分される公共圏とその対
となる私生活圏との関連をみることが必要となる。
古代ギリシアにおいて公共性は、公共圏(公的領域)であるポリスで形成されるもので
あった。ポリスの領域は、人間が自然的欲求から生まれる共同体から解放され、自由にな
った平等者がつくりだす政治領域である1。ポリスへの参加はそれ自体が目的となりえるよ
うな最も人間的な能力を必要とすることであった。それは個性の確立であり、ポリスの領
域では、すべての人々が個として存立し、かつ互いに支配非支配の関係になることは決し
てなかった。当時の価値観では、家族の関係は、ポリスにおける人間的能力を奪われた状
態を示し、その中だけで生きることは奴隷として生きることと相違なかったのである 2。
古代で明確に区分されていた公共圏と私生活圏の対立は中世の時代には存在しなくなる。
封建社会に代表されるような中世の社会構造のなかで公共性は、代表的具現(具現的公共
性)という君主や貴侯と人民の相互関係によって維持された。君主は、私利私欲を捨てて
支配する国そのものとなり、風貌や所作からひときわ高い位置にいる威光を示す3。人民は
またそれに影響を受け、君主との関係を形成する。教会内にも見て取れるそれらの共同関
係によって公共性は維持されていたのである。
近代にはいると再び公共圏と私生活圏の区分が明確になってあらわれた。初期の金融お
よび資本主義によって定期市場が発生し、私生活圏で行っていた経済活動は、商品流通形
態をとる。経済活動の拡張によって人民の中の一部の人は、商人として台頭する。それま
で家長として私生活を維持していた人民は、ブルジョアという新しい公衆を形成し、公権
1
2
3
アレント『人間の条件』p.53 参照
同掲書 p.60 参照。
ハーバマス『公共性の構造転換』p.18 参照
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力社交界で関わりをもつ地位を獲得する。しかし、都市を代表とする市民社会の経済的生
活中枢が発達するにつれて「宮廷」から近代国家の機能が自立していく。その結果、かつ
ては宮廷貴族の社交の場において維持されていた文芸が市民一般に開放され、喫茶店やサ
ロン、会食クラブという形で施設化されるようになり、市民は、政治に対する公共的な議
論をすることで、自己啓蒙的な過程を経て文芸的公共性を形成した。
文芸的公共性を先駆けとする市民的公共性の成立は、市民を政治的論議へと駆り立てた。
成立後初期に市民は、政治的論議に批判的かつ自律した公衆として参加していた。しかし、
徐々にその参加形態は変貌し、公権力に代わる政治的共同体として政治的機能をもつ集合
体へと変化する。
近代以降、市民が公権力から独立したことによって、彼らは自律しながらその権力に対
抗するべく教養をたくわえ、批判的論議を身分の差なく教養人たちと行った。ところが、
公共性を維持する公論的機関そのものが商業化されると、自由競争のもと競合していた個
人が技術的に組織化されるようになる。その結果、自由経済でありながら多くの集団が複
合体として権威的組織を形成し、市民的公共性そのものを自らの都合の良いかたちへと変
容させるようになった。特に新聞がその影響を受け、またそれを助成していった。公衆の
論議を助成する公衆のための機関であった新聞は、組織を拡大し、より利潤を追い求める
ようになり、マスメディアとして公権力に影響を与えるようになる。マスメディアとして
台頭するようになると経済的特権を持ち、情報を操作する立場をとるようになる。新聞は
公論を伝える批判的公開性の機能を持つ民間企業であったにも関わらず、組織自体が私的
利害のもとで一種の政治的共同体となったのである。
民間組織は、政治的機能をもつようになった後も、民間の自由経営のもと組織を維持し
ていた。しかしその体制が公権力にとって脅威となったため、国は政治的民間組織を公営、
あるいは半官半民経営体として再組織する。それによって公権力はその効力を取り戻し、
民間企業と協力しながら市民に対してより強い効力を持つようになった。国家の民間市場
への介入は、公共圏と私生活圏の境界は曖昧にし、再封建化の道をたどる。それはかつて
の封建社会の再来のように思えるが、中世のような公権力の威光はなく、マスメディアや
公権力と癒着した民間企業に従属する国家がただ国民にサーヴィスを提供するだけの私利
私欲を前提とした社会体制に過ぎない。また、自由市場の本来の目的であった自由な競合
と市場全体の公益の拡大は、国家の介入によって不可能となり、私人たちによる経済活動
と批判的能力は公的サーヴィスが充実していく中で喪失する。
以上のことは、本著における公共性の構造転換の大まかな概要として論じたものである。
この構造転換自体に私が何らかの評価をすることはできない。ただ、その構造の変化を知
ることは現代の社会の問題を考え、また今後の社会構造の変化に対応するために重要なこ
とであると考える。
現代の社会はハーバマスが最後に論じた社会福祉大衆国家の体制によって維持されてい
る。それは私人の自律を奪うとともに、社会領域というあいまいな全体構造のもとすべて
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の人々を包括する。一見充実したサーヴィスを提供する現代社会の構造は、実は個人の能
力を奪い、他者とどう共同していくべきかを考えさせる機会を与えない。そのため個人は、
ますます孤独に陥っている。
そんな社会の中で公共性が維持されるためには、もはや個々人がまた私人としての能力を
取り戻し、公共性をつくりだすほかない。自分の活動の選択肢も多様化しており、個々人
が思い描く公共性も多様化している。その際公共性を普遍的な概念として高めるためには、
自分の思考や行動を常に批判的に省みなければならない。多様化が進むとともに個人化が
進む社会では、自分の活動を批判的に評価してくれる他者がほとんどいないのである。多
様化と個人化の二重性を最も感じる現代で、個人がもう一度他者との関係性を意識するた
めには、私生活圏の中で公共性について構想し、全体の利益を求めることが必要となる。
全体の利益とは自由主義における目的合理性でもなく、福祉国家における公共サーヴィス
の提供によってもたらされるものでもない。それが何であるのかは具体的に述べることが
できないが、本著が著した公共性の概念とその変遷を把握することがまず答えをだすため
の大きな一歩であろう。公共性は、個人でありながら全体のことを考えることのできる人
間独自の概念であり、その構造の転換を把握することは、一つの答えが出せるわけではな
い現代の問題を考えるうえで大きな意味を持つ。公共性の追求は、どこまでも尽きること
のない学問の探求である。公共性は、尽きることのない課題を私たちにつきつけると同時
にそれが終ることのないからこそ、人間が常に前進できる可能性をそなえているように思
う。
近代人が思い描いた自立した私人としての気概を持ちながら、生きることが重要である
ことを前節までで述べた。しかし実際の社会はそんなに甘くはなく、日々の繁忙に追われ
て仕事に追われることが精いっぱいであろう。また、このまま研究の道を進んだとしても、
それが必ずしも自分の思い描くように研究に没頭できず、他の雑事に手間を取られるかも
しれない。けれども、いつか自分が研究の中で獲得した玉手箱はいつか現代のような社会
構造が変化したときにきっと力を発揮する。その玉手箱がほこりをかぶり、力が発揮でき
なくなることがないように社会にでても常に自分の考えをまず批判的に見て、その上で社
会を批判的にみる姿勢を忘れないようにしたい。
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