Nara Women's University Digital Information Repository Title 製墨史考 Author(s) 奥谷, 道夫 Citation 奥谷道夫: 研究紀要(奈良女子大学文学部附属中学校・高等学校), 1968, vol. 10, pp. 1-12 (最後から) Issue Date 1968 Description URL http://hdl.handle.net/10935/2243 Textversion publisher This document is downloaded at: 2016-03-26T06:03:09Z http://nwudir.lib.nara-w.ac.jp/dspace 製墨史考 奥谷道夫 だのは、ただうつくしさを今にひろめるばかりではたく、さらにう つくしさを後につたえんためであったと思われる。そのかみの晋店 蝿は日本の発明品でなく、中悩より伝わったものである。脚本で の製鍋は、早く抑令の職口令に記峨があるから、舶峨品だけに依存 せず、自国で造ることも早くから行なわれていたらしい。しかし、 何分にも中国を師とするわけであるから、製畿法などについては、 である。商深甫が『墨の上手なもちいかたは、質は軽いものをえら てしまう。だからこそもちいる聖はよいものでなければならないの っかりなくなり、二三年にもならないうちに墨の色がはやくもあせ (|) 中国における方法の学習を前提としたもので、江戸時代後期の古梅 び、煤は滑らかなものをえらび、嘆いてもかおりがなく膳っても音 の櫛や米元の画はみな数百年のあいだ伝わってきても、墨の色は楼 園においてさえ、中国の古製墨法に学び、さらにより進んだ方法を い水をそそぎ、力をいれないようにして膳る。いそいで膳ると熱く のしないものをえらぶ。あたらしい硯(古い硯の誤りか)にあたらし んでしまうし、もちいかたが淡ければ扱只をやりなおすと神気がす わるいものであったならば、もちいかたが鰹ければ水にあうとにじ のようで、神気はそのおかげでもとのままのこっている。もし鍋の 試みようとしている。本稿は、日本の製墨史研究の過程において、 中風および日本の製墨について行なった若干の考察を順序不同で櫛 きとめたノートである。 て、勝ったの左ながらくそのままにしておいてはいけない。峡で鯉 なり、熱くなると沫ができるのを忌む。使うはしから膳るようにし にこころがけ、墨の稗を一ぱいつけておいてはいけない。ながらく (一一) むかしの中旧人は、どのように蝿を、あるいは鍋の色を愛玩して 貯蔵しておくと膠が枯れて、墨の作用がよくなるものである。」とい がよごれ、膠でどろどろになる。使ってしまったら洗っておくよう きたか、これについて、たとえば、折の屠陸の「考繋余事」には、次 っているのは、まことに塞墨三昧のことばである。古今の墨のつく りかたは墨経、墨薔につまびらかである」霊一) のように記している。 「むかしの人が墨をもちいるのにかならずよいしなものをえらん 1 というふうにあるのによって、墨に対する伝統的な考えを知ること ができる。ここにあげられた書名中、「墨書」は不明であるが、「鶚 経」は末の晁貫之の箸にかかり、製墨についての代表的な古典とし て有名なものである。晁貫之は、二1---世紀の北宋の人で、愛 墨家として知られ、自分でも「晁季一奇寂軒造」の銘を入れたすぐ れた墨を作った人物である。中国における製墨研究の著述ば、「墨 経」からはじまり、その後幾多の著述がなされたのである。 (一一一) 墨の起原については、股の青銅器文化に先行する彩陶文化に使わ れた赤墨の顔料に、その原始形を求めるべきだといわれている厘 三。続いて、股代にも、墨で書かれた甲骨片や陶器が出土してい るし、さらに周代の竹簡にも、墨香がみられる。これにより、殿代 かを実証することはできない。 以降は、墨や筆があったことが確認されるが、どんなものであった 春秋戦国時代の鵠は、漆墨であり、漢の杠林が、漆書きの「古文 尚書」を手に入れたとか、漢の宮殿の蘭台の蔵書に、漆杏きの経書 でつ瞳く があったというのも、みなこれであって、漆に黒さを与えるため に、墨の汁をまぜたものだという(注一二)。また、「周害」に、浬墨 の刑というのがあり、罪人の顔に入れ墨をさせ、犯人である声」との 目じるしをしたので、これにも墨汁を用いたものであろう(注四)。 もっとも、これにより先に石墨で文字を書いたこともあり、「括地 志」の次の文素がその証拠だとされる。 「東都寿安県の洛水の側に石墨山あり。岩石尽く黒し。以て疏を 書すべし。故に石墨を以て山に名づく」(注五)。 なお、漢代の硯は、いくつか出土しており、多くは墨池を持たな いが、安徽省大和県税馬鎮出土のものは、一一個の墨池を持つものが ある(注六)。また、広州市竜生岡の漢の墓から、まゆずみ用と思わ れる棒状の墨が発掘されているから、このころ既に固形の墨が作ら れていたものであろう。 ゆぴ 前引の「墨経」には、その冒頭に、次のように記している。 「古用松煙石墨一一種石墨自習魂以後無間松煙之製尚突漢貴扶風臓 醍終南山之松察質漢官儀曰尚書令僕丞郎月賜醗襲大墨一枚小墨一 枚」(注七)。 すろ これにより、漢代に松煙墨があったことが知炉つれる。扶風。険座 峰いずれも映西省にある地名で、終南山は秦嶺ともいわれる名山 である。「鶴林玉露」には、著書が少年のころ錨陸で安覚という ここで、墨を一枚二枚というかぞえ方をしており、さらに晋の「東 日本僧に会い、かれが墨の声」とを日本霊叩で蘇弥といったと記してあ り、ここから、日本語の墨の語源は隙畷だという説が出されてい る。隣鴎はそのころ、墨の代名詞となっていたのである。 宮旧事」に、皇太子の初拝に、香墨四丸を袷すとあるから、このこ ろの墨は、丸い形であったと考えられる(注0。なお、墨の成立に 大きな影響を与えたのは、紙の使用であろう。伝説では、後漢の察 倫が、一○五年に発明したことになっているが、前漢の蕊と推定さ れる古墳から紙が発掘されているので、もっと測りうるらしいが、 まず漢のころと比定してよいようである。 三国のころの史料としては、「墨史」「墨海」などに引用されて いる次の文があげられる。 「蒲子良答王僧度曰仲将之墨一点如漆」。 ただし、仲将は章誕の字で、魂の)」ろ能書をもって聞えた人であり、 2 ており、松煙墨ならばそのような古墨は背墨でなければならない 蒲子良、王僧虚は、ともに梁の人であるから、約一一五○年を経過し から、「漆のごとし」という形容はおかしいという考えもある(注 九)。 このころの墨は墨汁だという説もある。たとえば、次のような説 明がなされている。 「支那の昔、魂や晋の頃に、墨丸というものがありました。之は 漆を煉らせた煙と、松を燃やした煙とを混ぜて作りました。奈良の 正倉院御物にもありますような凹心硯、即ち中心の凹んだ硯に入れ て墨汁として使用しました。それが貯えて遇くと腐敗するものです から、石榴の皮を搾って防腐剤としました。是が非常に貴重なもの でありまして『金壷汁』『銀壷汁」と称し、金或は銀の壷に貯えた ものであります」。(注一○)。 しかし、現に晋代の硯が出土しており、墨池をもっていて、固形墨 を磨るのに用いたと考えられるので、右の説が認められたとして も、固形墨の存在を否定する』」とはできない。また、一九五八、九 年には、この》」ろの顔氏の墓から、墨が発掘されており、成分は現 在の墨と同じと報告されている。 なお、「墨経」には、このころの墨について、次のように記して いる。 「晋貴九江庫山之松衛夫人筆陣図曰墨取魔山松煙」(注二)。 唐代の墨については、元末の陶宗蟻の「報耕録」に、次の文があ る。 (注三一)。 「上古は墨なし。竹挺漆を点じて書く。中古は石の磨汁を以て す。或は是を延安石液と云う。魏晋の時始めて墨丸あり。乃ち漆烟 と松煤を央和して之を為す。晋人多く凹心硯を用いる所以は、磨墨 貯藩を欲するのみ。後、螺子墨あり、亦墨丸の遺製なり。唐、高麗 松煙墨を歳貞す。多年の老松煙を用い、塵鹿膠を和して造成す」 これでみると、唐のころ、高麗から松煙墨がもたらされたよう で、その作り方から見て、良質の墨と考えられる。いつぼう、「墨 経」には、次のように記されている。 「唐則易州淵州之松上党松心尤先見貴」(注一三)。 上党の松はすなわち、太行山脈の松である。また、「墨史」には、 易水の製墨家の名が見える。易州の松は、かれらによって使用され あらわれるようになっている。 たものであろう。李白の詩に、「蘭爵凝珍墨」とあるのは、上党の 松に薬を入れた(注一四)ということである。声」のころ、墨工も多く 遣唐使がさかんとなった唐のころには、多くの墨が日本仁迎ばれ たものと思われる。正倉院御物の中に、唐代の船型墨が現存してい る。表には腸刻で「皇極貞家墨」とあり、裏に朱書で「開元四年丙 辰作貞□ロロロ」とあって、七一六年へすなわち玄宗の初期のころ のものと知られる。約三○センチの大きな墨である。やはり正倉院 ろうかという疑問が残る。 これによると、晋のころには、九江の廠山の松からとったことにな るが、衛夫人の筆陣図は晋のころのものでなく、梁のころのもので あり、したがって術夫人の作ではないと考えられる。この点につい て、李家正文氏の「筆談墨史」は、不用意にこの史料を引用してい いる。 これに関連して、「正倉院文書」には、次のような記録が残って にのこっている硯の大きさから考えて、このまま用いられたものだ るとのそしりをまぬがれない。 3 「天平十八年九月二日写後経所解案 写後経所解申請筆墾事 合講筆一滴墨弐廷」 「天平二十年識千部料墨筆帳 正月十一日目内裏給出鹿毛罐二十筒墨五十廷並千部 科」 造東大寺司牒紫徹中台 「天平宝字二年六月Ⅱ一日写千巻経所移雛築 講銭壱捻捌質玖拾弐文 四質三百廿文菟毛筆一百八管直料管別冊文 二質一百文墨七十廷直料廷別冊文Ⅱ文 鹿毛簸廿笹直料管別一文」 正倉院の船型墨は一二本あり、丸棒のものも二本ある。「新羅楊 家上墨」「新羅武家上墨」の陽刻のあるものもあり、朝鮮産の墨が まじっていることがわかる。いずれも松煙墨である。文献の上で は、日本へ紙墨がはじめて伝わったのは、推古天皇の一八年という ことになっている(注一五)。「日本書紀」にあげられている間麗燗畿 徴は、伝説上の人物で実在したかどうかは不明であり、推古一八年 という年代もたしかなものではない。しかし、五、六世紀は、大陸 文化がさかんにとり入れられた時期であり、高麗は前述のように墨 の名産地でもあるから、この時期に、大陸より墨がもたらされたこ とは、まちがいない。だが日本に鰻も早く墨が伝えられた時期とい 凸冷う うことになると、大陸と日本との交渉峰既に弥生時代からはじま っているから、文献にあらわれたものよりも、もっと古く湖りうる のではないかと思われる。 五代のころになると、安徽、宣州、欽州の松が便.われる。この)」 ろ中原は戦乱の巷となり、易水に多かった墨工哺平和な南唐に移 り、欽州の地に定着した。欽州は朱のこる徽州と改名、その後千年 にわたる徽州墨の名声の基がつくられたのである。南店初期の名工 として伝えられているのが李廷珪で、その父李超の作品とともに李 家墨といわれ、米のころ非常に珍亜されたという詔が残っている。 この廷珪の墨の一つは、民国一九年刊の「故宮周刊」に紹介されて いる。その後、日本との戦争および国共内戦の時期を経ているが、 い}つo おそらく現存するものと考えられる。季廷珪の墨は、「堅き》」と玉 のごとし」(注一六)などといわれ、非常に堅いものらしい。かれは、 墨をつくるたびに、真珠三両を使い、杵で一万回もついて作ったと 末代になると、松煙墨が引き継ぎ作られるが、北宋後期から南末 にかけて、油煙墨が作られるようになった。ただ、油煙は松煙に比 べて高価なので、多くは作られなかったであろう。 末代の松については、「墨経」に次のような記事が見られる。 「今尭州泰山楓採山島山蝿山肝州亀山蒙山密州九仙山登州牢山鎖 府五台刑川脇州太行山鑑州抵陽山汝州寵君山随州桐柏山術州共山碕 州阿山池州九津山及宣欽諾山皆塵松之所菟肝識密之間山総訓之東山 鎮府之山即日西山目普東山之松色沢肥賦性賛況工品惟上上然今不復 有今其所有者織十余歳之松不可比西山之大松兼西山之掻与易水之松 相近乃古松之地与黄山灘山羅山之掻品惟上上遼陽山遜君山桐柏山可 甲乙九華山品中共山河山品下大蘂松根生決苓穿山石而出者透脂松歳 所得不過一一一一一株品惟上上根幹肥大脂出若珠者曰脂松品惟上中可掲而 起視之而明考曰掲明松品惟上下明不足而紫考曰紫松品惟中上砿而挺 適者日鐘松品惟中中明不足而焚者曰黄明松品惟中下無膏油而漫若糖 質然者曰糖松品惟下上無奇油而類杏者曰杏松品准下中共出歴青之余 4 これでみると、前代から続いている産地もあるが、新しくとり上 者曰脂片松品惟下下其降此外不足品第」(枇一七)。 煙墨が中心となった。ことに明末の万勝年代のころ、徽州の方干 かなり遺品があり、日本でも好叩家に蔵されているものがかなりあ 荊代には、乾隆年間を頂点とし、以後おとろえた。澗鍋は、今も 磐、程君房を肢高峯として製興業が栄えた。 》②。 げられた土地も多い。末は文迎のさかんな時期であったから、墨の り、墨にも多くの等級があったことと思われる。 製造も急期したものであろう。また、松の簿級をこまかく分けてお 末のころの名工として涌谷があげられる。藤東城の時「孫霧老寄 末のころの名工として涌谷があげられる。燕東城の時「孫零 塁」中に、次のようにかれをほめている。 「但線無老松揚水無老工珍材取楽波妙手惟禰翁 史料はない。ただ、「令義解」に次のような紀蛎があるところから、 見られる。 図諜察の造畿手が作った墨については、「延菩式」に次の記駆が 春昼水三殿明腸枕金篭瀧飛白瑞識紫長虹」 末滅州の人で、「桐華煙」と名づける油煙墨をつくった。漆のよう 「几造し塾長功日焼得烟一石五升煮烟一斗五升拒魂摩”繩鴎熟成墨九 十一一一廷塞錘射亟凧中功日焼得烟九斗煮烟九升成墨八十廷短功日焼得烟 七斗五升煮烟七升五合成墨六十六廷」 に黒くて堅い製品を作ったという。「墨史」の文を次に引用してお く。 廷の技術が、いつしか民間に伝えられたものであろう。製迪の典態 平安時代に入ると、各地で鍋が作られるようになったらしい。宮 挺の墨を作ったということになる。 升とし、これを二日二夜煮て一斗五升とし、これを原料として九一一一 これによると、図榔擬の迭墨手は、叉には日に焼いた燗を一石五 単九十三人」(注二○)。 服各庶布一段其食人別日米一升六台塩一勺六搬海藻二両替津一合惣 一ハ尺騨紺布四端阿膠小六斤八両席一枚食醐一一枚騨造手四人袷衣 すこし 「九年料所造畿四百廷嘩極射絹七尺八寸蛎孤綿八両鰄鋤調布一丈 末代の油煙墨の墨工としては、胡景純が有名である。かれは、南 を入れたり、紅花墨を発明したりしたという。 にすすんで、墨の製法をも研究し、海南松煙で東城法墨を作って銘 祁令制成立期には既に製鍋がはじまっていたと考えられる。 「図諜祭……造鍋手四人。戦し造し蝿」(注一九)。 日本での製鍋がいつからはじまったか。それについてのたしかな 四 來埴は、非端な墨の愛好家で、名墨を多く収架した。そして、さら 触胞熟万杵凧角錐双竃墨成不敢用進入蓬莱宮蓬莱 、ン 「胡景純潔州人専取桐油焼煙名曰桐華煙共製笹堅薄不為外飾以眩 俗眼大者不遇数寸小者園如銭大毎膳硯間其光可鑑画工宝之以点目瞳 子如点漆李彦穎云長沙多墨工唯胡氏墨千金獺髄者掻著州之大街西安 業坊有煙墨上下巷永豊坊有煙上毯今有椰子儀目訓得胡氏法俊臣俗名 熟胡院子」(注一八)。 末に続く元のころは、末のころの手法を踏襲しただけで、大した 明代になると、南贋・末代とならぶ、中風製繩史上の筑金時代と 発展はなかった。 なった。そして、前者では松煙を主としたのに対して、明代には油 5 '■、 について記されたものはないが、いくつかの賢料に、製郷について 切一統志」にならって、山城の国の地雑として杏いたものである。 の国に関するいくつかの藩杏がある。「難州府志」は、中川の「大 墨談」「古梅園墨話」「古梅園墨譜」を著わし、また、和泉の橡を 司徽州の程舟木、汪君彦らに会い墨法を交換した。かれは「古梅園 古梅園六世の松井元泰は、一八世紀の中ごろ、長崎で婿国の御墨 こりである。 よって、油煙墨の製墨法をうちたてたのである。これが古梅園のお はじめた。かれは、造墨式の李家製鍵法と空海二編坊油煙墨遺法に 天正年間(一五七三-一五九一)に、松井道珍が、南都で墨を作り の伝統も江戸時代にはまだ続いていたものと思われる。 かれば同杏の中で京都でも名墨を産するといっているから、平安墨 その中の「土産門」の部で、南都の墨にも説きおよんだのであるが、 の記救がある。 「顕戒論縁起」には、大宰府で作った鑑を、最澄が唐に持参した か駅喧ら ことが妃されている。「新独楽妃」には、淡路の蝿が、「大和木軍」 には、江州武者墨についての記赦がある。その膣か、丹波の柏原墨、 播磨の墨、あるいは京都の平安墨などもあったらしい(注二一)。 平安末期、紀州縢代墨についての「古今署川染」の記珈は、あま りにも有名である。 「後白河院御熊野詣に藤代の宿につかせおはしましたりけるに、 国司松煙をつみて御前におきたりけり。花山院左府、中山太政入道 殿共時右大将にて御前に僕はせ絵ひたりけるに、此墨いかほどの物 賜わってや御墨を製造した。つぎの七世樫井元桑は、束城流の紅花 鍵を作り、非術な成功を柚した(注二四)。 江戸時代後期になって、南都油煙墨がさかんに製造されるように なってのちも、中国の墨への愛好は続いた。たとえば》奈良に近い 「墨は学歴鯉が墨よし、されど中轆にてさへ半挺さへありがたし 郡山に住んでいた柳里恭は、次のようにいっている。 牛膠一而製レ之是南都抽烟墨之始也今偶存爾後南都土人微し之取二油煙 と見えたり。奈良墨の古きよし、中々もろこしも及び錘し。中国の ても五、六十年以前は格別、共外三十年以来の墨は唐紙にあほぬ他 「墨は油煙よりも松煙にて椿へたるがよし。日本にて南都などに よし。程君尻十二竜撤もよし。足も此頃渡ろば懇しぎ也。」 墨も漱金家蔵といふ墨惣てよし、此頃の渡り墨也。呉天術が此君墨 ]造し之今洛陽称一一墨所一者亦其製造精密而不レ槐’一中華之所声作也」(注 一一一一一)o 「雍州府志」中の、型に関する紀駆はこれだけである。もともと かれは、林羅山に儒学を学んだ医師で、はじめ浅野家に仕えたが、 のち京郷に移住し、元禄二年に死んだ人物で、ほかにも京都や山城 6 ぞ、心みよと勅定ありければ、おとど右大将にすすめられたりけれ の定也けり。左府見とがめて、しきりに感喚のけしきありけり」 ば、硯を引よせて蝿をとりてすらせ袷ひけり、そのざま除目の執躯 、-夕 。 奈良の油煙墨のはじまりといわれる、典補寺二諦坊の製墨は、一 一 「墨近江武佐丹波貝原丼洛下太平墨之製造目し古有し之然其色淡黒 五 一 「推州府志」がある。 グベ il: 而施簿中世南都典補寺二締坊取頑持仏堂焔火焔之燕二洲麗字一者血和》| 、-’ 二 四世紀末のことと考えられる。これについての文献に、黒川道佑の 戸、 (五六十年間の墨はよしたども、古人は論じたる辮あれども)油煙にて も中華より渡る古墨は違ひあり、日本一と一口にて言ふくからずと もいふ人.あり」(注一宝)・ 右の文の中で、柳里恭が、最近渡来する中国墨は悪いといっている のは、このころ情において、粗悪な坊製墨がさかんに作られたため である。 つぎに、書家として盛名を馳せた市河米庵についてみると、 「余モ亦墨癖アリ。末ノ播衡、明ノ羅小華ノ墨ヲ始トシテ蔵スル トコロ四十余挺一一及くり。然しドモイマダ譜トスルー一足ラズ。故に 墨品諸書併一一今存スル古墨等ニテ見トコロ且近時舶来二至マデ姓氏 八十七人ヲ集録シ同好ノモノ一一示ス」(注一一六)。 「拭古墨法 此方所伝ノ古墨末元ノモノ絶希ナリ。明墨程君房、方干魯、其名 高シトィヘドモ、今見ルトコロ多クハ贋造ノモノニシテ、其中真墨 トヲモハルルモノハ、湿気ヲ含ミ、香気ナキノミナラズ、墨色モ灰 色ヲナシ、不当用モノ多シ・偶全墨ノ伝ルモノアルモ、拭墨ノ法ヲ 得ザレバ知レサルナリ。古今秘苑試墨法一一 将二各種墨]磨在一一退光漆器上一侯し乾放一一水盆内一於一一日中一着し之・与 二漆色一無し二者上也。帯二青色一者次し之。帯二灰色一者為し下・高低錐一一 極不官等大略不し外一一於此] アリ。余蔵墨五十余丸、所謂与二藤色一無し二者〈僅力一一羅小小華ノ 竜柱墨(五雑俎一一見1)程君房ノ墨宝墨、葉向栄ノ竜九子墨(漫堂墨 砧二見1)呉去塵ノ高碑墨(通雅調書二見「一)四丸ノミナリ・佳墨ノ 難得コトシルヘシ。試墨法此論ノコトキモノ諸書ニナシ・因テ此一一 抄出シテ好事者一一示ス」(注二七)。 とあり、収集の対象として唐墨だけにしか関心を持っていない・前 者は文化九年、後者は文政一○年のものであるから、南都製墨業の 繁栄していたころであるのに、和墨についての関心は薄く、中国 墨、ことに古墨尊重の傾向が強いのは、米庵だけでなく、一般的な 風潮であった。 このような傾向に対して、和鵯を尊しとする謎もないではない。 いる。 幕末の復古思想の高まりを反映したものとも思われる。たとえば、 文政七年に刊行した「良山堂茶話」の中で、阿部謙州はこういって 「八木巽老人之。紙墨〈吾邦ノ物ヲ以テ段上品トス。唐土ハ之一一 次グ。朝鮮琉球ハマタ其次ナリ。(中略)彼方(支那)墨工一一於一プハ 名匹代二乏シカラズシテ明ノ方氏墨譜、程氏墨苑等一一至テハ其紋式 精巧一一シーア細ナルコト廷髪二入ル。然しドモ唯其書ノ人目ヲ悦パシ ムルノミーーシテ墨品〈但古今伯仲ノ間多ク優劣ヲ客ズ。夕トヒ精エ ノ手ナルモ国土ノ膠気弱キヲ如何スペカラズ。其墨ノ日久シクシテ 亀斫ヲ為シ或〈砕裂一一至ルモ皆コノ所以ナリ。謝在杭云。墨ハナハ ダ陳ケレ.〈膠気尽キテ字、光ヲ発セズ。ハナハダ新シヶレバ膠気重 クシテ筆多ク縄帯ス。惟々三五十年ノ後最モ用フニ合フペシ。方正 が墨、今之ヲ用プレ・ハ己一一煤土ノ色ヲナス。知ラズ仲将何ヲ以テ一 点漆ノ如キ、或ハ曰ク、古墨ハ漆ヲ用1、故一一堅ニシテ光、今ハタ ノ失無シ。」 ダ膠ヲ用1故一一数々徽湿ヲ経レバ則チ敗スト。此方ノ墨〈此ノ如キ 中国製の古墨の愛玩は、近代日本になってのちも続き、いわゆる名 墨は高価をよんでいるわけだが、これらは果して骨董としての価値 7 だけでなく、磨る墨としての価値を持ち続けているものだろうか。 「古梅園墨談」には、墨の新古について次のように書いている。 「術夫人は十年以上の墨を用ひ陳眉公は新墨一一一夏を過ぎざれぱ用 7  ̄ ゆるに堪ずといへり。凡燃久しく成れば黒く紫の色を出し膠久しく 成れば其性消くして光あり古錐の世に賞せらるは是なり余が六世の へきにあらす。」 祖道珍慶長年中仁製せる塾今に残れり其色紫鵠光彩ありて新墨の及 るc 新墨より年数を経た墨の方がよいという理屈はわかる。それで は、墨は古ければ古いものほどよいのかどうか。これについて、前 記「良山堂茶話」に引用している謝在仇曜墨のあまり古くなった ものはよくないといっている。この点について、墨の粒子を電子顕 微鏡でしらべた結果にもと.つき、宮坂和雄氏は次のようにいってい 「墨汁を限外顕微鏡で見ると二間度に分散している微小粒子は、い つでも不規則の巡動を続けている。これはブラウン述動とよばれる が、これが活性カーボン、いわゆる生きた粒子に臆かならない。こ のような粒子を多く含む程、墨は生きていると認められる。大きい 凝雄状態をしている粒子は、ほとんど述動せずに沈み易いものであ る・これが不活性カーボン、いわゆる死んでいる粒子である。死ん でいる粒子を多く含む塾ほど、死曇化するのはいうまでもない。 (中略)墨が古くなるに従って墨色が変化するのは、死んだ粒子の 影響によるのである。鍵の粒子が大きい程、表面効采が強調され、 墨色が濃く見えるものである。骨壷品ならいざ知らず、大抵のもの は新しい程、良いのが普迦である。鶏が古く枯れていて良いなどと は、どうしても考えられない。前にも云ったが、私は古坐の多くは 見る蝶で、使う墨ではないと思う。この場合、墨の劣化がどの程度 まで進んでいるかが問題であることは、いうまでもない。墨が枯れ ると、死墨化するのは避けられない。鍵は時々刻々仁死鍵への変化 を辿っているものである。墨の生命は無限のものではない。製墾の 技術や保存の方法などによって著しく祁違するが、墨の生命は私た そして同氏は、著名な中国古墨の粒子を顕微鏡で観察し、その劣 ちの考えている程、長いものではなさそうである。五○年か、せい ぜい一○○年位のものであろうか」(注二八)。 化の甚しいことを実証している。科学的な古墨観察は、名のある古 懇でも、それは骨泣的な価値をもつだけで、鍵そのものの生命は既 に失なわれたものであることを証明したようである。 (一〈) 製畿技術は、どのように進んだか。これを知るために、こころみ に「墨経」と「古梅園墨法十三条」とを対照してみた。前譜は一二 世紀初の作、後者は一八世紀中期の作である。くらべてみて、墨の 製造が、伝統的手法にたよる要素の大きいことを揃感するのであ る。なお、両者の内容を対照するために、順序をかえ、あるいは省 略した部分がある。 8 煤 「墨経」 「古梅園墨法十三条」 油煙燃 当時耐郁膳て油煙を当つば煙宝鰻 一文三尺Ⅲ一丈鮖向の尚さ七尺歴恨 を強にて蹄く箪中の三力に棚二蚊あ り棚のⅢ二尺棚恢の上を土にて蛾リ 熾議を並へ土僻を共上に慨ひ螺を受 く熾誰と土僻との間二寸凡一室の煉 工一人燈の数上剤六十中剤七十二下 剤八十二一Ⅱに雌を収を郡上刑十両 中剤十五両下剤十八両上刑は砿をし けく折によって煙沸くしてすぐなし 燦の色は製陞汁を雑るを上とす紙恕 は次なり赤に白を雑るは又次の汝な り燭中には煙気室に擬て燃の色濁る 鶏中には室内の熱に戦すして蕊工勤 作に労し此煤も溺れり二三九十月を 上の畔とす 松煙煤 六日を紙て煙の陣子に岡りたるを創 広大寸中剤催耐八寸広八寸下刑健商 一尺広-尺障子の内四尺四カ両五尺 五寸松の細木上剤は水川七分処二寸 中剤は木仰一寸蛙凹寸下剤に木凹一 寸奨六寸一小腿に蝋工二人怯取二人 四斤下剤六斤雌鍋家に迦川する灘の 羽にて船ふ凡一Ⅱの燃上剤三斤中剤 法なり 膠 腰を川ゆる邪肚折しかるへし唐土 の諺に涌谷の媒は滞れとも塾の漏行 椹及ざるは稲谷か滕なきゆへとはこ れ膠法の能をいへり煤今按ろに牌土 は#ら新膠を用れども本棚腱は古膠 をよしとす無とも至て方きば霧の性 一膠を川へから十両膠三露を交へ和 かわるゆへ仁家法仁は三年膠を用ゆ して用ゆこれ墨徒の税にして経験あ り膠は墨の繍神といへは最選ふへし 凡騒の性水に応して甲乙あり南都を 他川に拠るか故なり膠汁ば細細にて 第一とするは揃祁の水の澗烈なる獅 よく漣へし 9 古川立密汁哩人余拠晒寛胆小回不川 突於廠而斑以五斗盤又益以近遜大小 為溌大腿Ⅲ乗亦視大小為錐耀胸泥鹸 惟密約遡小繊叩化火以珂羽柵取之或 為五仙或為二州二mm不収竝光一器今 川臥窪挫石衆砿取間揃高下形勢向行 而或健百尺深五尺祁高三尺口大一尺 小項八尺大孤四十尺胡日赤曰咽口口 身之末日頭毎以隆三枝或五伎徐鍵之 五技以上烟暴馳以下Ⅲ煙緩煤細枝数 些少益良有白灰去之凡七品夜而成名 曰一会侯寵冷探煤以頃煤為二器以頭 煤為一器頭煤如珠如纏絡身煤成塊成 片頭燦深者曰遠火外者曰近火煤不堪 用凡燦貴軽旧東山煤軽西山煤並今川 西山煤軽東山煤並凡器大而軽者良器 ←哩戸者艮凡以手拭之而入人紋理難洗 小而並者否凡振之而応手者艮撃之而 者良以物拭之自然打光成汁者典凡鰯 布野限老調之疹眼煤雑濡病也旧審打 虫鼠守蕪及搭衣露虫維征燃中奥龍榔 介唯唾多可弧之然終不能無 当時熊野川にて股煙をとろは蝋室 竪十川棚三川杯口の高さ七尺段恨を 笠にて姉く雄を一小脇と云古仏を取 るに便ある所冬阻小肚を腓へ土池十 四をこげに蛾へ脳一つ宛に紙障子を 胆力と上に圃ひ肋の陣子に小ざnt あけ共、より綱に切たる怯むかなし やくしにて入る髄の内上剤は溺六寸 撹当良Ⅲ成赤汁1町何以庶誤明隆鶴蝿正行水 之菰剃牛以鮮JItjH膠米者以謬這黄膠在之不凡 繩lii職雛搬騨繩継澱撒總巌 乎捌毛1,膠水膠潤一減入謬所鹿於113之多ドリ為 父火水」'二之七注水細日家鹿黄几膠赤凡之法11 lltZ以水投祇今店法七墨但lii藤鹿麗妙イ『膠大 鱗蝋繊鰐繍ili lliMl糊織繩屏総iii鱸砿辮鰈 ,瞥術可jIjl之Ⅱ!(去/11帖之膠蝋世一取膠コニ及処加 悦以太皮下之皮焚牛血11法及人豹胤飢紀行乢竣 之箆IIiMl当将及濃皮作光釧多黄IU月1日羽播狐 以候厚薄肛玉一条如術為腫共脈服不 可峨川或以牛膠煎騒阿膠参和之党人 一生膠圷当以爪加者為焚 旧以十月煎膠十一月造墨今旋煎旋用 殊失之故涌谷一見陳相鋼曰借銭共用 燃を膠に和十るは密室をかまへ仮 和 敷両二尺蝿工の腿する前に魁を切入 和 几和煉当纐柳密小室内不可逝瓜仇 }』綴八両失煤一斤を坂の上椹ひらけ かきませ探合共次に香具を加へ入て 慨然解せる熱膠汁を共中へ画き入れ 又力を出して擁めは吹第猩光出て掴 凡ゆる時一剤を三シに分ニッを恨中 に世一シを又能挾む唐土の法は臼に 入れ杵を以て譜くと記せり溢仲将の 墨は鋏臼の中にて祷小三万杵又質思 ポボ鵡鰯織薬 印 薬 木刺弘治年中膣製せる伽府の瓢 を試なるに龍蝿の其譲あり府土椹も むかしよりて番を胴ると見へたり拳 狩嘩が蹄に側嚇珍搬炬艦るとあり蝿 玉君徳は万梱駆角鴎謹の三物を脇ゆ 紐に鍬中将は典珠閉獅の一一物を剛小 李廷砿は藤茄真珠等の十二物を脇ゆ 木刺の墨は只川脂叫番滕脂等を川や く船に入て轡あり照呑殊に弁しかた 加脂畷穆とも共性を能弁別十へし下 等の施脂は木埋参し足を而木と精つ し偽物妓多し共に上輔の符を進へし 馳符の多からんよりは其呑のすぐな からんにはしかし明の方子魯一菰の 鑑蛾を仰てより艇益を勝れり天下に て製し鮒脂は鵬番稗皮黄蓮離水膳脂 称せらる余唖年共霊虹を孝へ法に依 と此霊草を合せて七物を用 印 墨の形むかしは鋏椹て造る南部二 又二枚形なり 槻文字箙を彫付る之三枚形と我つく 撒坊の形今椹磯れり足を鉄形と云当 理鍾二四三四二 凡底版徴乎直寧大不小平版上勝下 平寧肛不軽凡庇版鍛為上面印牙為上 ーIヨ如等鞭脳懸蝿 巻イブ白十雌癖香呑 時の形は枇杷鯉梨の木にて造る形に 大小厚薄の戯あり板三枚にして中に 繊晶瓢鵬ボ 尋術庇版用案平版用杷蓋庇版而印栫 以松良与煤為立几印大里以水拭之以 某外説珠臓水白鳳 板を墨の厚さとし上下二枚の板に絵 ;鱗蝋 紙按之無用印凡印方直最錐用用多 難茶不jillIl徳思尚 潴之用藤枠用鴎爽 裂扮水磯辺印多力肛稀拠剤熱可知 10 微火を蓄へ共上に三尺四方の松板を 腰板の上にて膠と煤を和す几煤一斤 羅於燦中央瓜久使Ⅲ流然後衆力忽和 之賢潤沢而光明初和如変鮫許捜之有 声乃良膠初取之和下等煤再取之和中 輔砿最後取之和上鞭燃几煤一片古法 川膠一斤今用膠水一汁水居十二両膠 店四阿所以不善然賀思遡墨法煤一斤 用膠五両蓋亦未尽善也汎騨多利久膠 少利新匠潴以共速僻故秤川豚少硯鰯 水英氏飲州李氏併用一躍所以養鍋時 大膠墨紙黄小膠思紙微黄其力以走為 強几大膠必厚厚薙於和和之柔則剛則 裂若以漆和之凡煤一斤以生漆三旗熟 捲二鐘取澗汁投膝中打之匂和之如法 工只一人に主かせて探しむいかでか 醐の法は三万杵に限るへからす杵多 くして益よしと十王潜徳か法は而臼 を用ゆ其揖辨多して光り人を照寸を 座とすといへり然るに今の墨家は蝿 能熟和するに到らんや祖父而臼にて 鍔ことを琴しかとも只幾度も脂探む にしくぱなしとて家法脛は墨工一人 椹工子一人を派へ刑を分け同室して 孫しむ 然沿物物物物物 不麺今李王唐後几 鰯瀦細騨美艫11 餓鋤繩Miili蝋織 女蔭晶i:t惟変灰児之弗慢灰 被老夜児均Ini灰瓜哨混多斐 硬鎚侯夜不隣上亦騨其lUl糠 iii臘鰹鵬鵬i1i澱箭 乾於風火逆架紙HliW厚灰灰 者鰔繊ポili蝋芝澱 凡研墨不服通古謡云研処如病凡研 吹研為上右研乃見匝色不扣艇鰐円附 則低俗菰野往来右瓜以助放色乃非鍋 研 :鰄鰯蕊鐸 薩 廠中の灰を毛怖にて土灰の脇を除 六分紐に蚊共上に厚紙を政又薄紙叩 きとりて蝿三尺拙一尺五寸深三寸の 灰柑をいくらも般椚の中に灰を〃さ 紙を世其上に灰を厚さ七八分ほとに 掴ひ瓜のなき所に趾なり躯Ⅱ二度つ つ腰を僻る他を灰博と云初一Ⅱはし ぬり灰を川ゆ次の日より残さ』柁灰 を川へⅢひ三Ⅱ側に墨の角侶形のは 糸川しあるを小刀にて削り取り又灰 に埋な如此する耶凡五Nにして灰よ り出す厚大の躯は七Ⅱ八日を経て出 す但乾灰にて急にしめりをとれは墨 砕け製るなり珊温の節は冷ろ所に髄 極寒の畔は駈辺又は二菰墜扱の所枢 箆を麺て歴く粉温には薫て砕けやす く寒気には鞭て裂やすきかゆへなり 灰より出して墨のゆか熟を能直し二 十挺種かさね両方に小板をあて苧織 にて能しめ瓜なき所に掛置邪五六Ⅱ して十挺つつ紙糸にて縞承四方より 風通ふ所に釣乾す汁瓜に当れば鎚ゆ かむ凡釣極く邪十ヶ月を経て桐の樋 に入れ吐く毎年〃雨の後瓜を当て温 む放十 f , 澱を肌には典を半臥』こせて虹に冊 れば鍋の締をためず鵬の典文を顕十 に研れは従来にて瓜を含て紐の煎色 之其色惟瞥聖者円研若邪研則水術椰 其半而其半不及先所用者惟俗人邪研 几型戸不工於製作而工於研鵬拠所似 鍋川使圃研之常健一茄凡燦細研之乾 迦煤麓研之乾疾凡恕墨研之加研泥 を助れとも其色にあらす洞天研録に 云日川の硯Ⅱ毎に献処敗水を機ひ去 れば醜光潤ふて蝿の典色狐ろ一二Ⅱ も過れば腿気渥て派に滞るといへり 古脱尤よし新硯も下ノ側赤間が側商 蝿の好否を拭るに埋十 川轆の爽硯左巡ふへし席上の肌硯は 色 て渦ふ処を紫無光といへり皿》を試む を合見るへし熱して瀞ならす明にし 色 几騒色紫光為上鍋光抜群光又次之 日光為下凡光与色不可鹿一以久而不 (〒千》 几鍋の色紫熱光を上とす光と色と 強潴為慨然忌膠光古墨多狗色無光満 以蒸湿敗之非古狸之善調共有諜者野 り又謬の色を見るにも朱坂の上に孜 るには失漆の仮に出て日にうつして 見るに漆の光と何しきは避純煙墨な 以墨比墨不若以紙比墨或以研拭之或 而不浮明而有艶沢而無淌是訓紫光几 以描甲試呰不佳 臓晄川瓜なき時を逆らむ の水を緋へ世術に腰を爪する川と十 も極寒の時は益無して惑多し但し喉 承仲将は墨法一一月九日を以て上の 時とす然とも典域時候の緋りある故 か木朝にては正二月十月十一月を上 の時と十世に職月製をよしといへと Ⅱ 寺 ひ白を瀞ふるは又共次の次なり 耐ならへ肚白下にて日に背て堀ふに 櫛無色を上とす黒色は次なり赤を術 時 凡墨雌賢及時隼仲将墨法不御過二 月九月質思趨曰温時敗央寒時極榴当 十一月十二月正側為上時十月二月為 下時余月無益布譜既時菰択哨川無風 之日或当筋夜着焼煤之時当以二月三 七日水灘土湿十一川十二月風断水寒 川四月為上時八月九月五月十凡六Ⅱ 勝不利 11 = ̄ 宇野雪村「古墨」一九六七年。 小Ⅲ卯批卿「文具沿玩二」膳よる。 李家正文「擢淡墨史二九六五年男 則#9 1鋪1 伺普○ 前掲、「古難」。 テキストに柵家路綱「大源四譜」民国五十一年刊を用いた。 前拙、|飛淡捌史」椹よる。 ヨョョョ風一一 証文古文、古飛 談冴鯉風司鵠淡 墨四一四Tl『宅捌 史譜に鑑墨史 宅宅よ完及世 「文尻四識」 宍、「故宮周刊」の解説。 錘進一一眼破輪二千足時一嗽。」(「所打墹揃国史大系」姉一巻下)。 一二、「日本漕紀」鰯二二巻に、淡のように記されている。「十八年半一一一凡。 間服王武上佃嚢、微法定。暴微知第五繩。几能作二彩色及紙鍋。壺外造砿砿。 西、前掲、「韮談墨史」。 「古鯉」による。 福永暇帆、「古墨及び墨絵の謡」。 前掲、「古鵠」。 iiiiiiiiiiiii福iilIiiii 掲拙拙掛永描Ⅲ 、、、、畷、、 注 iii司 掲故 も丘一 二 六 六、何弼・ 鞠二二巻。 禿、「新訂端補国史大系」 一九℃「》 、、 藤田祥光「奈良名産史」(「奈良の木」所収) 松井藤次「奈良の鍋」(「大和クイムメ」所同)一九六八年。 されたい。 一一画、近世および近代の奈良、製朏楽の典態侶ついて陰、次の紺箇文を参照 勢鳳栗谷、参河国神代山、紀伊国熊野川などの産地があったと記している。 なお、》 なお、近世初期の径煙墨については、「古榔圃塁談」臣、丹波国貝原、伊 圃史大系」鍬一九巻。 一一一lb「← 「新訂湘補圃史大系」鍬》 ’’三、「》 「新修京稲濃掛」鍬三巻。 一一『同、 この項は、前掲「施淡黒血 前掲「施淡墨史」悟よった。 一一一、》」( 巻 二・■& 拙協「製繩業の発展」(「奈良巾史」述史三所収)近刊。 奥西一夫「鯉」(大和タイ‘式〆綱「大和百年の喉火」所収)一九六七 〃J 拙稽「朱墾‐’(同右) Ⅲ「奈良の朱」(「社会科教室」所収)一九六七年。 何「奈良の製紐」(「教赤Ⅱ木新川」所載)一九六七年。 一九六八・九・二七) 一一三、「独寝」の校訂本としては、「燕石十煎」所収のもののほか程、石川 蟻校訂の「完本独寝」、水木直而校訂の「ひとりね」などがある。 美、「米庵紐縦」。 一壱.「統米服坐淡」。 一六、宮坂和雄「墨の活」。 12 勺、、、、もも、可、、、、 三三==九八七六五四三二一 亡=伯苣
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