第ー童 脳科学は宗教哲学に何をもたらしたか

ると言えよう。
ト教神学は、新たな脳科学の進展にいか対応し'関係構築を行うかについて模索を始めつあ
「脳神経学」 (あるいは神経学) 、すでに一定の研究領域を切-開きつある.またキリス
般にとっても無関係ではない。ダキリとこユーベルグの研究などによって知られるようになった
教育学'哲、倫理学社会、経済学等を含めた幅広い学問領域を包括する学際的な研究が求 間についてのよ-包括的な理解のためには'こうした脳科学研究ともに'認知科学、心理学'
められることになるだろう」と指摘される通-である。これはキリスト教研究を含む宗教研究全
一九八〇年代以降、脳科学は周辺の関連領域を巻き込みながら急速な展開を示している。「人
第1章 脳科学は宗教哲学に何をもたらしたか
はじめに
(3)
(-)
(2)
19
芦名定道
か)との関わ-においてである。つまり、宗教経験あるいは宗教が非合理的な迷信であるとの宗
(超越的実在に関わる事柄を経験した人間が=らの経験を受け入れるのは たして合理的なことである
試みることにしたい。
答』で,宗教研究に対する脳科学の影響について,次のように指摘している。
りというよりも、むしろヒック宗教論のもう・つの中心テーマである、宗教経験の合理性の問い が,『人はいかにして神と出会うか』で脳科学に関心を向けられるのは、宗教多元主義との関わ
ジョン・ヒックは、近著『人はいかにして神と出会うか ー・ー 脳科学と宗教研究
ヒックと言えば、日本においては宗教多元主義の代表的論客として知られる宗教哲学者である
-脳科学をめぐる思想の現在
た議論に基づいて、脳科学が宗教研究にとってもつ意味をまとめ、今後のさらなる議論の展望を
ーン、清水博ルーマンなどの議論を参照しっつ論じられる。そして 「おわりに」 では、こうし
自然哲学の伝統に関わる論点であり'「2創発主義と宗教哲学」 において'デイヴィスクレイ
をめぐる思想の現在」 において、ヒックの議論を適して取り上げられる。それに対して後者は、
教」 の問題を整理するには、長い思想史的背景を念頭に置-ことが有益と言えよう。
設定する。前者は、西洋における 「宗教と科学」関係史の主要な論点の一つであり'「-脳科学
本章では'「自然主義と宗教」 と「創発性」 という∴つの視点を問題整理のため文脈として
こうした実験は西洋思想史の長い自然哲学の伝統と無関係ではない。したがって'「脳科学と宗
ょって、「亜酸化窒素」 などの吸引が宗教体験にいか関わるかについて実験が行われてきた。
ある。ジョン・ヒックが述べるように (ヒック' ㌧正)、`九世紀以来科学者や哲学者らに
注目するのは'「脳と宗教経験」 という問題がそれ自体の歴史的前提や背景を有するという点で
中で展開しっつあるこの動向をどのように整理するのか'ということである。そのために本章が
争点あるいは論点を整理しっつ、今後の研究を展望することにある。問題は'現在複雑な動きの
本章のテーマは、こうした宗教研究'宗教哲学とキリス-教神学における動向について、その
神経 済学や神経倫理学にまで向かおうとしている。(同君二〇) さらに神経テクノロジーを生みだし、また発展し続ける神経遺伝学産業にも関連しながら、 神経牛理学,神経内分泌学、神経薬物遺伝子反応学、神経薬理学、神経測定まで取-込まれ'過去五十数年のあいだに、脳の研究は神経科学の多方面に広がった。いまや神経生物学には
(1)
宗教多元主義から脳科学への応
20
2.I 耳目-I;乍 脳什闘士宗教f'-T字に何をもたらしたか
ら評価することができる。 論点を明らかにするには、まさに「哲学的な」考察が必要であり,ヒックの議論はまずこの点か る。本来哲学が果たしてきた役割から判断すれば、このような複雑な問題を整理し'その争点と 教研究に何をもたらした(あるいは,もたらしつ ある)のか、については憤重な分析が必要であ
先に指摘したように,脳科学と宗教との関係という問題は、近代の自然主義が提起した問題状
ャーナリスト) り夕・カータによる次の要約は、問題の現状をよ-示している (同書、三二)。
想であると志する芙な論拠」(同書、▲1)として活用される事態となっているのである。 て生じるとの説明がなされることになり、これらの脳科学の知見は、宗教経験とは「もっぱら妄
脳科学が引き起こした問題は多岐にわたり全体として複雑な様相をUEているため'それが宗 ー・2脳科学の暫学-脳神経神学?
3
こうして様々なタイプの宗教経験について、自然主義の立場から脳内の自然のプロセスによっ
が他方を別の実体と見るときに生じる。 神の存在あるいはそのほかの超自然的な存在の感覚は,「自我システム」を二分して嘉 すべての実在とのl体感は、個人の身体的な境界意識を遮断することで生じる。 を切断したあとにも残存する意識が原因で生じる。
「純粋意識」,空顔,空性(シューニヤタ-)の意識は、知覚から取り込むすべての入力
2 向精神薬はさまざ なかたちの宗教体験をもたらす。
- 「パーシンガのヘルメッー」 によるてんか発作と前頭葉刺激は宗教的幻想の原因とな
となりつ あるのである。
れだけに'自然主義は宗教研究にとって避け通れない問題であり、脳科学は現在の論争 点
るが'経験科学としての現代宗教学は、この自然主義と重なり合う部分を有しており、「自然主
義と宗教」の関係をめぐる対立構造は宗教研究自体の内部に存在すると言わねばならい。そ
ある。広い意味での宗教研究には、神学や宗教哲学以外に'経験科学としての宗教研究が含まれ
す必要はないとする立場を指しており'歴史主義と共に、近代的知の基本的信念と言えるもので
自然主義とは、人間の経験する諸現象は自然領域内部で説明可能であり'超自然的原因を持ち出
ぐる問題状況は近代に特徴的なものであ-、これまで天文学・物理、生学などとの間に多
-の論争を引き起こしてきた。それは、「自然主義と宗教」 とまめることができるあろう。
敬-組むことが必要である、これがヒックの問題意識なのである。このような宗教の合理性をめ
教批判に対して宗教を擁護しようとするならば、現在脳科学が宗教に対してなす挑戦に正面から
脳科学が宗教になす挑戦の内容は多岐にわたっているが、ヒックが紹介する科学作家(医療ジ
る。
(7)
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(L;)
22,
23 ?, 1 FLi1月紳rtfv:は',iて教f'-T'.7:に何をもたJ,したか
このデカルト的な二元論に対して、その後,近代以降の哲学において有力になるのが'唯物
的に検討することを通して'二元論を擁護しょうとするのである。 論を含めた何らかの仕方での二元論の三つの立場を区分し,前者二つの立場の論理的欠陥を批判 ヒックは,脳と心の関係論において、心脳一元論,随伴現象説,デカルト的実体論的な物心二元 ドとソフトの二種類の自然主義の区分を念頭に議論を進めることにしたい。以上をもとにして' る。しか 、本章では,細部については必要に応じて説明を行うことにして'さしあたり、ハ1 までもない.ソフ去自然主義には、機能主義,随伴現象説,創発主義など様々な議論が含まれ るものであるが,それぞ の立場に立つ論者において、さらに細かな差異が見られることは言う
ついて,議論の整理のためにも'こ で簡単に触れておきたい。
である。これは、現代思想における実体論的な形而1学全般に対する批判にも関連している。身体との関わりに関しては,「偉大なる錯尊者」「機械のなかの幽霊説」には従えないというわけ ることは不可能であると考える。デカ∼トの偉大さを認めることはやぶさかではない者も、心と の擁護を目指すヒックを含め,現在の心の哲学に関わる哲学者の多-は'デカル品二元論に帰た議論であり,哲学史的に重要な意味を有することは繰り返すまでもない。しか 、先の二元論
論・物理主義である。現代の脳科学の知見を宗教に適用しょうとする研究者においても'物理主
まず,デカルト的二元論であるが,これは近世哲学における典型的な問題状況の形成に寄与し
自然主義は、心の哲学で'還元的物理主義と非還元的物理主義と呼ばれるものにおよそ相当す
教体験を十全に論じ得ないとう点では、ハードもソフトも結局は同じである1。この二つ
然主義」と 「ソフトな自然主義」 (同書'四) とを区別することにする ー ヒックによれば'宗
的な理解にとどめておくことにする蛸,自然主義については,「ハードな,つまり唯物論的な自
細かな区分を行わねばならい。こでは宗教については、伝統的諸宗教という意味でや常識
-'複合的な諸立場の集合体である。したがって、具体的な問題状況の分析においてはう さらに
の論争において確認されてきたように、自然主義も宗教'実際にはそれぞ単一の立場ではな
代の宗教であるという感覚は確かにある」 (同書'四)0
論者である哲学者のジョン・サールは'実際に次のように発言している。「唯物論が私たちの時
「宗教的」信念なのであ-'脳科学の研究者多-はそれを素朴に信奉しているのであ。唯物
留意しなければらない。自然主義とは証明された科学的命題ではな-'一つの世界観'一種の
部の、つまりは1般社会内部での優勢な無批判的仮説なしは根本的なパラダイム」 であることに
世紀から今日に至る宗教批判が共有した 「根本的な信仰箇条」 にはかならい。これが「科学内
義は伝統的な宗教において合意された 「超自然的な存在」 の信念を否定するものであって'一九
というよなもの可能性を一切認めない考え」 「世界観」を意味している(同書、三)。自然主
況の文脈内に位置しているが、自然主義とは「近代の西欧思想の中心にあるもので、仮想の実在
脳科学と宗教 いう問題は、「自然主義と宗教」 の最新バージョンであるとしても'これまで
なお,以下の議論に関連する,デカルト的二元論,神経科学'リベットの実験といった事柄に
(8)
25 第1帝脳科学は宗教哲学に何をもたらしたか
2・4
なお、脳と意識との関係をめぐるこうした「哲学的問題」に関心があるのは'心の哲学などを
脳と心の関係をめぐる三つの立場のうち、ヒックがまず批判を行うのは'心脳完論あるいは 13 ヒックの心脳二刀論批判
から'リベットの実験は人間の道徳的責任性の議論などとの関連で論争されることになった。
かについては'次のヒックの指摘に留意すべきである。
ずれも可能であり,それは進化論がキリスト教思想にとってもつ関係に似ている。 すなわち,キリスト教思想にとって、心脳一元論(不可分)も二元論(別物)も、理論的にはい
科学批判の中でもっとも説得力ある部分と言える。以下、その要点を紹介してみたい。 かりやすい例である。この心脳一元論に対するヒックの批判はきわめて明解であり、ヒックの脳 る,ダニエル・デネットの「一口で言うなら,心とは脳のことである」は'単純ではあるが'わ い自然主義あるいは還元主義的物理主義(唯物論)に基づいて る。たとえば、ヒックも引用す の脳神経活動,つまり脳の電気化学作用に他なら い、とする理論)であり、それは、先に述べた強 同l論(Mind・brainldetiyThe0ry脳は何かしら特殊な物理的状態ないし過程であって'意識はそ
いるのであって,こ に、哲学者と科学者の意識の差を見ることができるであろう。 論に興味があるわけではない。脳科学者の多-は,いわば素朴な自然主義において研究を行って 専門領域とする哲学者たちであり、脳科学者の多-は必ずしも完論と二元論をめぐる哲学的議
るならば、自由意志の識は一種の幻想だとの解釈が成-立つかに見えることになり、その理由
活動が先行することを示している。脳内プロセスが決定論的なメカニズムによって生じると考え
は意識的志のさらに約〇・一五秒後に動き始める -'つまり、心に生じる意識に対して脳の
脳の活動開始(脳活動の電位変化=準備電位の始動) が約〇・五秒早-生じること - 手首の筋肉
も含め、繰り返し言及するものであるが'手首を動かすなどといった意識的欲が生じるまえに、
「神経学」 (neurothlgy)と呼ばれるすば'それは皮肉なネーミングと言うべきであろう。
の実験として知られる一連の実験である。これは'ヒックも著書の中で、自由意志論との関わり
なお'脳と心の関係をめぐる三つの立場が、キリスト教思想の視点からどのように評価できる
今日にいたるまで折り合うことな-,どちらも連綿として続いて る。(同書、九)
「実在する」 ことを脳科学的に示そうとするものであるとしても'こうした自然主義的な研究が
ーMRIなどによる脳機能画像分析によって特定化することを試みている。それは、宗教経験が この代表的かつ 「古典的な」研究者であり、宗教経験の脳内相関物(活性化部位) をPETや
義的な心の理解に立つ者は少な- い.アンドリュー二lユーベルグとユージ ン・ダキリは'
脳科学と宗教経験との関連性をめぐる以上の議論に対してインパクトを与えたのが、リベット
心身は不可分、あるいは反対に心身は別物という両方の考えは、キリスト教史の始まりから
(川)
2・7 第1申 脳科学は宗教桁芋に何をもたらしたか
2,6
のことと言わねばならない。 合、脳科学者が電気化学的過程を計測することによって意識現象を説明できると考えるのは当然 感覚的なクオリア)が脳内の電気化学的過程と同一視されるという前提に立って議論を進める場
ている。このようなことは、高名な心の哲学者としては驚-べきことである。思うに'これ
2・9
ると解することで、意識と脳活動が同じものであるのか、ないのか'という論点を先取-し
て反復しているに過ぎないのである(循環論法)。内観において自覚される意識現象(たとえば、 黙の内にであれ'脳と心の一元論が選択されているからであ-、前提をあたかも論証の結論とし
脳と心の相関 係が脳と心の同一性を意味するとの主張が可能になるのは、論証に先立って'暗
意識的な感覚および感覚的なクオリアが'感覚を引き起こす神経上の出来事と同じものであ
第1帝 脳科学は宗教哲学に何をもたらしたか
「相関係=同一性」 の主張と内観の無視に共通するのは'論点先取の誤謬である。つまり'
八)0
訴えることは、「日常言語の初歩的な心理学分類」 (チャー ランド)として退けられる(同書、二
生じる計測可能な物理的変化であって'「内観において私たちが直接に自覚する意識の流れ」 に
からの証言」は無視することが適切な態度とされる。脳科学において依拠されるべきは、脳内に
ように'脳科学においては、近世哲学に至る哲学的伝統で心を論じる際に通常用いられた「内観
るとおりであー「『相関係は原因いえな』こ明らか」(同書,二八)
心脳同一論者の議論問題は、「相関係=同一性」 の主張だけではない。ヒックの指摘する
「
二乍八)。問題は、この相関係を「同一性」としてつま-脳心壷諭論証
り
係として解釈自らの議論に説得性を持たせる法は,それ体よ-あレトリック(っき
する実験的事と解釈こによって生じな。相関係を同一あるいは因果
であり'脳の各領域活動に関するマッピング解析よって日々精密分されつ。こ
釈である。 ず'取-上げられるのは心脳=話者もちろん、ヒック自身認めと相関係の解
この脳内電気化学的過程と意識現象相関係は、-MRIなどによって観察可能も
ヒックの心脳完論批判は'理矛盾を指摘する仕方で行われ。そためにま
だけでな-、ほかのどような体験にも当てはまる。(同署、二七)
れに対応する変化が脳内のどこかで生じているもと了解され。このは宗教体験
実際に今日、ほかのことでは意見違いがあるしても識上生じ変化につ,そ
2,8
念の表明でしかないと言わねばならない。 テゴリーとのあいだに説明のつかないギャップ」が存在するかぎり,物理主義は自然主義な的いな、と信いうこと」(同書,三二であり,この「物理的な現象のカテゴリー主観的な現象のカ というほどに完壁な説明が得られたとしても,脳が関与する実際の意識的経験の説明にはいたらいう指摘である。つまり,問われているのは,「たとえ脳の機能について、これ以上はできなのい「意識」に対してどのように現れているか(コウモリ-のクオリア)を知ることはできないと ウモリの振る舞いや神経組織を完壁な仕方で調べたとしても,それによっては'世界がコウモリ られたのが,有名な「コウモリであることはどのようなことか」という問題である。それは、コ ならないと批判した-なお,ネ-ゲル自身は反物理主義者ではない1 。その際に'取り上げ
ヒックの心脳完論批判をヒック自身の言葉でまとめれば'次のようになる。
相関 係を同一性には変えられない。(同書'四二) 自然主義的な信仰の表明でしかない。(同書、三四) という信念は実験的に確立された-でも,論理的に説得力をもった論証でもない。そ成れすはると想定するなら,それは論点を先取-した誤-を犯すことになる。両者が同一である を、どのようにして言いきることができるかということである。もし相関 係が同一問性題をは構,意識的体験と脳内の物理的出来事とが相関ではな上岡一のものであるということ
ゲルは心脳同一論などによっては意識を物理過程に還元できるとす物理主義を論証したことに
と言えるo たば'有名なトマス・,早-ゲルの議論もそ一つである。九七〇年代に'ネ-
あり、ヒックの心脳一元論批判は'こうした英語圏における心の哲学問題状況を踏まえた内容
れた意識への現れにおけるクオリアの問題など、意識をめぐる謎の解明はいまだ途半ばの状況で
との相違なのである。
心が世界を表象する働きとしての志向性'自己知・自己意識のもつ自己参照構造'またすでに触
心脳同一論が 理的問題を伴っていることについては'すでに多-の批判がなされてき いる。
書'三 )。この点はもちろんヒックも認めている。問題は'この主張と心 脳の同一性の主張
この脳活動がなければ意識的な体験はありえないだろうと、述べることにも意味がある」 (同
得ないというのが'ヒックの批判の要点である。
同様の論点先取は、心脳同1論に関連して様々な形で登場する。たとえば、「真偽はともか-、
れと計測可能な物理過程との同一性主張は'じめからこれを前提とするこなしには成立し
自覚すること」 であって、この内容は私たちの物理学の知識有無とは関係である。意識の流
しか'ヒックも述べるように'「内観とは'私たちの意識内容、つま-視覚などのクオリアを
(同書、三一)
はチャーランドの強い教条的な自然主義によってのみ説明がつけられるものであろう。
30
3Ⅰ 第摺脳科学は宗教哲学に何をもたらしたか
にして,こ では,い-つか特徴的な論点に絞って考もあ察るすがる,こヒとッにクしのた鷺(はa心)0脳完論の場合に比べ唆味な点が少な-ない1次項で論じること
物理的随伴現象であり,「脳内の出こ来の点事には物理的と心的という二つの異なる性質があり'両
-元論とも言える随が伴現象説(性質についての者を表述するためには別々の嘉が必要」
二元論),意識は脳の活動を反映するだ-三四)で非あることを認める立場である。
に基づ-心脳岡-同軍四 )I.それは、物理的性質けにすぎず壷レべ∼においては完論(
と心的性質とを記述する二つの言 同で二義の-性質諭にははかならないまず,ヒックは二性質論を取り1げる。二性-は,麓が脳の働きによって生み出された
しかし,心-は複雑な神経系において創発された系の全体論的なレべ∼での性質であるとの 心脳完論同様に、論点先取に陥っていt訳可B能.で同じ対象の指示という議論が最初から前讐語れがて互いるに点翻で訳,こ可の能二で性あ質り論,同もじ、先対に象みをた指示していることによって保証される。しかし'この翻
ヒックはこれによっても意識の存在を説明したことにはならないと批
脳の複雑さによる創発的性質として心的
ついているという性質、生きているという性質が例として挙げられよう」
ヒッ 判する。ヒックが引用するように,
性質を位置づけた1で,と「述べているが'
この意味でいう創発的性質については,
固体であるという性質'チャーチランドは,
色が 議論がなされるとしても,
この二性鷺は,次項で論じる創発性の問題としばしば結びつけられて展開されることがある。
随伴現象説批判についてのヒック議論の問題点については -問題自体が込み入っていること
同1論とじ論理的欠陥を抱えている(あいは、結局同一論に帰着する) ということであるo
して行-が'結論は随伴現象説はよ-洗練された自然主義ではあるもの'しかそれも心脳
こエンス(supervnice) の原理-.ヒックは、随伴現象説に分類される諸説を個々に検討
め-までも心的なのは物理もに一方的依存するものと考えられる -スーパヴィ-
書'二六) は残されることになるが'しか心ら脳への影響・効力(心的因果) は認められず'
-らい実在的」 であるとされ。こによって、「非物質的な実体が存在するという可能性」 (同
的で非物理的なものとする説」 であり、「非物理的な精神過程は脳機能の電気化学的過程と同じ
とは、「創発性'複雑化、二重性質'機能主義」 (同書'二七)などを含む'「意識は脳活動の一時
であるが'ヒックは随伴現象説(Epihenom alism)という名称でまとめている.随伴現象説
へと議論を進めて行-。取上げられるのは非還元主義的物理主義として分類される一連の議論
動いてお-、様々な新た 理論的提案がなされている。これが次に取-上げるべき問題である。
心脳同一論に続いて'ヒックはもう一つの自然主義、いわゆる弱い・ソフトな自然主義の問題
-・4 ヒックの随伴現象説批判
こうした批判を受けて、その後心哲学は'「心脳同一論を修正する方向」 (同書、四三) に
(‖)
32・
ぅぅ 別辞脳科学は細哲学に何をもたらしたか
しかし,これを随伴現象説的に解釈するとしてもー意識は社会の産物、社会摘のし随て伴現い象るでよあるうに、「-は社会と文化に結びついている」(同書,四九)こがと嘉には結明びらつかいでてあいるる。こと自体は疑い得ない。またすでにフォイエ∼バッハ'マらルぬク人ス間らのも意指識が生じるための必要条件だ」とするものであり、確かにか私らたもちわ人か間るレベよルうのに意心識と脳の関係論にも無関係ではない。それは,「社会的相互う作慧用ではあ、るほがか、こなれは,ジンガ-(マックス・ブランク研究所長)における「脳の環境の形モデ態ルに」おいても知られている。たとえば,ヒックが取り上げる「社会的産物としての意識」とい
I ,それによって,意識を説明したことにはならない。
る。
こうした随伴現象説は、最近の脳科学や心の哲学の議論にかぎったものではな-'さらに別の
ックは次のように説明する。
けで,この存在を説明するものでも、意識が何であるかを明らかにするもの連でもプなロいセ、スと)批に判対す る付随現象にすぎないのである。ヒックは、これは意義識にのよ存れ在ばを,こ述のべ心るのだ状態は行動の原因となるものなのではな-、身体的な出い来う事行全動体」(とこいのう一一連のプロセスには,痛みの感覚という心の状態が含まれる。しかし、機能主
たとえば,「手の痛点を活性化する熟の感覚入力1脳の特定領域の活性化-手を引っ込めると
のではな-、意識が生命体の行動において果たす役割という点で論じようとする立場であり、ヒ
を持ちうるかという点にも触れるが、この間題は次項で論じたい。
機能主義は意識を脳と対比される実体であるとか、心の特定性質や状態という視点から論じる
な論点の先取-」 であるということになる。同様の問題として'ヒックは'コンピュータは意識
点」が先取りされているからであ-、創発性に基づ-二性質論も「〓冗論を受け手とする初歩的
のは'「意識は'どのようなものであれ、身体的な脳の性質であるかどう という、基本的な論
の性質であることを意味しない、とうわけである。チャーランドのような議論が行われうる
発的性質が生成することは、その創発的性質が心的性質であること、あるいは意識が身体的な脳 発的性質であることを示すものではない」 (同書'五九)と指摘する。つまり、複雑系において創
クは、「これらの性質は物理的な創発的性質の何であるかは説明しているが、意識物理的・創
また二性質論とは別の仕方における一元論の修正理論として'機能主義を挙げることができる。
同一である'と主張している。(同書'三六)
ろ変化してやまない心のあ-方が、計知れないほど複雑で変化してやまない脳のあり方と
これは、心の特定状態とニューロンの特定出来事を同一であるとすのではな-、むし
人間が社会的存在であることによって,人間の-レベ∼はいまのようになりえたとい '
34
粥
第1帝脳科学は宗教哲学に何をもたらしたか
ば、論者には次のヒックの議論は明らかに論点先取を犯しているように思われる。ヒックは、脳
証) も、その積極的主張においては、論点先取に容易陥ってしまうといことである。たとえ
(あるいは悪の現実に基づ-宗教批判・神の非存在論証) も、宗教的な二元論(あるいは神の存在論
ック自身が当然気づいて しかるべき (気づいてるはずの) 問題である。自然主義の一元論
宙の唆味さ」をめぐる自然主義と宗教の相互論駁不可能性についての議論から考えるならば、ヒ
の、創発概念に関しては'ヒックが行っている以上に精密な分析を要するのは確かである。
ける論点先取も指摘すべきであろう。この論点先取は、ヒックが従来から行ってきいる、「宇
物理主義の諸理論が錯綜した状況にあることにもその理由一端があると言わねばならいもの
ヒックとの距離は決して遠-ない。ヒックの議論が唆味であるのは'随伴現象説や非還元主義的
また'ヒックの議論については'随伴現象説をめぐる議論の唆味さのほかに、ヒック自身にお
含める点に一つの原因があるように思われる。心的因果(下方因果性) を認める強い創発主義と
ては、次項で論じることになるが、ヒックの議論唆味さは、創発主義を一括して随伴現象説に
議論は'あるタイプの創発主義にきわめて近いと判断できるのではないだろうか。この点につい
が、しか 現在、心の哲学や脳科学において展開されている議論を参照するならば、ヒックの
ろうか。ヒック自身は、この代案は創発主義を含む二性質論とは異なると考えていると思われる
ー的二元論である」 (同書、七八) との説明を加えている。この非デカルト的二元論とは、何であ
トの二元論への逆戻りだろうか。否、デカルトではない」'「私が提唱していることは、非デカル
は
脳
し
は
い
ッ
で
意
ま
こ
1.5ヒック説の批判的検討
以
そ
合
ま
1〓l
37 第l群 脳科学は宗教桁′芋に何をもたらしたか
36
ような問いを投げかける。
のかもしれないと言うのはかまわない」 (同書、九八) と述べる。しか、ヒックはその上で次の
由意志はこうした幻想の7 つである」 との主張についても、「私たちは全面的に決定されている
要因によって規定され制約されていることを認める (同書'八三)。また、り夕・カータの 「自
ックは、自由意志が脳内の電気化学的プロセスや社会的相互作用、そして遺伝的因子など様々
制御する」) に言及する(同書'七三IL九)。こうした議論がめざすのは、心的因果の存在に基づ
-自由意志の擁護にはかならい -リベットの実験はこ連関で再度取り上げられる -。ヒ
し'その連関で仏教徒の隈悪達人にたいする実験的研究 (「仏教徒による正念の修行が扇桃体を
ある。意識が 「思考や行動を発する力」 を有することについて、ヒックは、脳の可塑性を指摘
が原因となって脳に働きかけるという状況を検討しなければならい」 (同書、六九) という点に
されるべき三九論の満たすべき要件(同l論批判のポイント) であるが'それは、「明らかに意識
論がなぜ可能かについては批判的吟味が必要である。
では、ヒックはなぜ二元論を選択するのであろうか。この理由は比較的明瞭である。まず選択
その理由は、おそら-妄想が生存価値の何らかの形態を持っているからであろう。(同書、
なぜ真理を探究する機械は決定されないとった種全体にわたる妄想に行き着-のだろうか。
て知るのか。(同書'九円)
この 「私たち」 が本当にだまされているなら、だまされているとうこを'どのようにし
いとう結論を導き出すのは理飛躍である。未来永劫に原的不可能ったタイプ議
ない」とう現状評価から、随伴象説に分類された議論すべてが今後も意識の明役立
からである。し、「随伴現象説のど形態っても意識存在についは明き
意味とは断絶しているった先行理解(定義)が存在,それを前提に議論組み立
を外部からプログラム与えれ動-機械であ、コンピュータが処理する情報は心解
ッ
確かに、「現時点おいては」これサイエンス・フィクショもしな。,ぜヒ
ピュータは意識することもな-'ただ人間の振舞いをぞけ」(同軍六一)であ主張
する。
タ白身がこうした感情を体験すると想定のはサイエンス・フィクショにぎない」、「コ
や心をコンピュータとの類比(「仝知能」アナロジ)で論じる議に対して,コンピュー
い。(同書、八六)
レ-ーするのではないとうら、それもやコンピュタにつて語っ
コンピュータ自体に意識があり'単プログラムよって的と見える振舞いをシミユ
((;I
39 第1中 脳科′判よ',J7叔析′.PL:に何をもたらしたか
38
Davies.4I7)・lその創発性の議論は,非平衡熱力学'複雑系'カオス理論'l般システム論' リストテレス、プロティノス、そしてヘーゲルについて創発性の背景を略述している(ClaytonJ 的自然理解(自然哲学)は'アリストテレスに遡る長い歴史を有している-クレイトンは、ア ョージ・(ンリー・ルイス(GeorgHenrylews)によると言われるが、そこに提示された哲学
論形成を可能にするという点に創発性という概念の魅力が存在しており、キリスト教思想におけ 識ふと脳」という問題領域もその中に含まれているのである。この実在の諸領域を横断した議 て,いまや,物理学から社会学、そして神学まで広範な領域にわたって論じられており'「意 心に展開されてきた。しか 創発性の問題は、有機的に組織された複雑系という問題領域を超え 自己組織化-オートポイエーシス論などの諸理論と結びつきながら、物質と生命との関係性を中
て、ヒックの立場は、強い創発主義と両立可能であることが論じられるであろう。
創発性(emrgenc)という用語が哲学的概念として最初に使用されたのは二八七五年、ジ 2・- 創発主義の射程
(創発主義)は追求すべき選択肢としてまだ生きているのである。これが'次項のテーマであっ
ヒック自身の議論もまた論点先取を行ってお-、ヒックの批判にもか わらず、創発性の議論
蕊(心が脳に影響を及ぼす'下向きの因果性'心的因果性)を擁護することを試みる。しか、この
クと創発主義との結びつきを考える手がかりとなるのである。
を批判し -ヒックはこの連関で弱い自然主義と強い自然主義の区別を行っていた -、自由意
九二) からである。自由や責任という問題を'心的因果を含めた因果性との関わりにおいてか
に追求すべきかは、哲学的な難問として残されている。しか'この自由意志擁護こそが'ヒッ
ィーブン・ロズが述べるように'「私たちはい-つもの決定論境界線上に生きている」 (同書、
自己の履歴、入手可能な情報ど、さまざな因子の範囲内」 で行われているものであり、ステ
に再考を要すると指摘すべきかもしれない。私たちの意識的な自由意志の行使は'「遺伝環境、
ある。
しか'この点についても、自由意志論と決定についての近世哲学的な問題設定自体がさら
本節の考察をまとめておこう。ヒックは'心脳同一論と随伴現象説という自然主義的な脳科学
2 創発主義と宗教哲学
機づけている基本的信念の一つなのであり'脳科学への批判的対論はこからなされているので
すべてを退け'自由で理性的な判断と誠実な道徳的選択を容認することが'ヒックの宗教論を動
は'「決定論は道徳性をしだいにむしばんでい-」 (同書'一〇二 からである。物理的決定論の
ヒックが自由意志論を擁護し'それを否定する決論の現在版である心脳同一論を批判するの
九九)
(16)
(_7)
41 第1車 脳科学は宗教哲学に何をもたらしたか
40
ニューエイジ的な全体論とは異なり'創発主義的全体論(eヨrgコisthol m) は制御された全体
上位のレベルが出現するという議論は、いわゆる全体論と呼ばれるものであるが、クレイトンは、
雑系を構成する諸要素における複雑度が一定レベルに達するとき'系全体に新しい性質が創発し
体」関係(part・wholer ations) において関連し合っていると述べる。下位の階層に位置する複
区別され、階層が形成されることを前提としてお-、その際に'上位と下 の階層は、「部分-全 要を指摘し、「3」 については、還元不可能性という規定が「物」 において諸レベルや諸秩序が
は、オコナ-の議論を参照しっつ'創発される性質の満たすべき条件をさらに詳細説明する必
論的一元論(ontlgicalmonis)という規定が適切であると提案する。また、「2」 について
理学的説明対象に限定されないより広義の 「物」(stuf)的と解すべきであり、その意味で、存在
表現したものであることを確認した上で、創発性が現象する存在は 「物理的」というよりも、物
クレイトンは、「-」 の存在論的物理主義について、この規定が創発理論の反二元論的傾向を
4 下方因果性(ロownardcusation)。よ-高いレベルの存在はその下位レベルの構成要素
に因果的な影響を与える。
レ
ょる規定は次の通-である。
らないかである。こは'クレイトンに従って創発性の概念規定を行みよう
ょ
で
たい。まず、創発僅概念であるが,多岐にわ諸理論おて展開され性の内容を
確定することは容易でない。うのも,自然主義につて強弱が区別され
このティリッヒ自然哲学構想を創発主義と接合するは不可能でないだろう。
化遠徳・宗教)という諸次元の生成(-統合体して人間的を論じるが、
ァリストテレと進化論いう二つの理を接合するこによって,物質、蓋心精神(文
る
2
ェルハニ/ぺレイラ(e↑=aniコdPr)による創発概念の四つ規定を修正す形で、ク
3 創発性の還元不可能性(Theirducibltyo〓hemrgnce)。創発的な性質はそれが創発
してきた下位レベルの現象に還元できないし、それから予想することもできない。
心と脳の問題に進む前'創発性概念説明生命へ適用ついて簡単触れおき
レベルに到達するとき、この複雑系において、純粋に新奇な性質が創発する。
によって認知された基本的粒子とその集合体である。
L'=ll
(川)
43 耶1串 脳科学は宗教哲学に何をもたらしたか
42
現象説でもない。 かるであろう。強い創発主義は二元論ではないが、心脳同一論でないのはもちろんのこと、随伴しない。この点から判断して前項で見たヒックの立場は,強い創発主義にきわめて近いことがわ に対して因果的影響を及ぼすことを認める強い創発主義の主張については、弱い創発主義ではき同な意いという点について,創発主義に属する諸理論は同意するが(非莞主義)、心が脳や身体
心は脳を含む神経系において創発する新しい全体論的秩序であり,脳の電気化学的過程に還元
物質から生命が創発し、生命から心が創発するということについては、想定はされ得るとして
ロジャー・スペリー、C・Dブロード) の区別について、さらに説明を加えておこう。
も,実験室レベルで検証されているわけでも理論的に十分な説明がなされているわけでもない。
領域が実りある相互交流を行い得る研究テーマとなる可能性を有しており、脳科学と宗教人の文問社題会科学分野の研究にとっても無視できない成果を提出しっつある。創発性は、多様な哩学,問宗教に対する大胆な発言もなされるようになってきており、生命や脳に関する地道な研究よがり,状況は大き-変化しっ ぁる。創発性概念を手がかりとして,科学者の側からのが,文近化年、,倫複雑系の諸科学(カオス理論、ネッ-ワーク理論,非線形系、自己組織系など)の登場にいのアナクロニズムであり、悪-すると生気論のなごりと見なされてきた」(Clayton/Davies・xi)る。デイヴィスが指摘するように,「多-の科学者にとって,創発性はせいぜいのとこ多ろ-の見階当層違を横断する仕方で描き出しているという点にこそ創発主義の魅力があるのは確かであ しかし,人間存在について、存在論的完論(単一の基体)における多様な形態の性質・秩序を
化・道徳・宗教) と名づけ、以下の検討を進めてゆ-ことにしたい。
こで、弱い創発主義(サミュエル・アレクサンダー)と強い創発主義(マイケル・ボランニー、
果的過程は究極的には物理的であると断言する。(ibd.㌔)
なると主張する。それに対して、弱い創発主義は、新しいパターンが創発するとしても、因
諸階層を'下から上に、ティリッヒの生次元論を念頭におきつ、物質生命、心精神(文
理解する立場であり'下方因果性をめぐって強弱に分かれることになる。お本章では'実在の
創発主義にわけられる。 特徴と言われるものであり、これを認めるかどうによって、創発主義は'強い創発主義と弱い
性質の創発性(部分-全体関係による階層性)'創発性の還元不可能性という諸規定において実在を
の下方因果性(全体が部分に及ぼす影響) は'強い創発性(strongem nce) のもっと顕著な
体的特性は何らかの因果性によって明確に規定される -であると論じている。そして、「4」
請(contrledhoism) - 物理的因果性に還元されない因果性の諸形式は存在するが、系の全
以上より'クレイトンにしたがえば、創発主義とは存在論的一元論(実体的な二元論の拒否)、
強い創発主義は'純粋に新しい因果的子あるいは因果的過程が進化の歴史において実在に
44
45 馴申脳科学は宗教桁学に何をもたらしたか
(二)不均質性に立つ秩序(生命システムを構成する要素はそれぞれ個性的・特異的であり1均質
な要素の警りである物質系とは異なる-要素間の関係や全体システムの状態によって変化
(一)秩序からの秩序(未分化である秩序構造から形態秩序が自己組織される。この秩序構造の源流
を用いながら'「生きている状態」 を次のように説明している。
を次の六つの特徴において説明している。 の諸システムが共有する普遍的なものとして「自らの内部に秩序を創り出す性質」を。あ、こげの、そ生れ成(相転移)を説明するために導入されたのが、創発性概念なのである。こ清の水よはう生な命「生きている状態」が物質からいかに生成するのかという問題が問われているのであ
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1
を得るに至っている。清水博は、プリゴジンの動的な秩序構造(散逸構造) についての議論など
な研究テーマなのである。現代の生命理論はこの間題に取り組む中で生命についての重要な知見
定するのは物理学の諸法則である -とは別の仕方で説明することであり、これが生物学の重要
は物質から化学進を経て生命がいかに生成するのかを物質構成する原子の変化 -これを規
異なる特殊なモノから成り立っているわけではな-'生命体は物質でもある。したがって、問題
ていること」 を念頭にお-必要がある (存在論的二九諭)。生命体は無機的物質を構成するのとは
きたい。
生命現象についてどのような考察を行うにせよ、「生命組織が全-通常の原子によって作られ
意しっつ、生命現象をめぐる創発性を概観することによって、創発性概念をさらに明確化してお
織化論の展開であった。創発性理論は元来生命体をめぐる議論から出発したものであることに留
マトゥラーナとバレーラ (一九七〇年代) に至る有機的複雑系(生命体) のシステム理論、自己組
は'まさにこ に位置しているのである。
述べた通りであるが、その発端となったのは、ベルタランフィ (一九五〇年代) からプリゴジン'
創発性概念に対する近年の関心高まりが複雑系の科学進展を背景としていることはすでに
2・2 創発性と生命
い-ようにその秩序を安定に維持するためには,エネルギーと物質の絶えざるそ流のれ秩を序必は要結晶に見られるような静的秩序ではな- 、動的秩序であり、これか生らき説明てしいてる状態にある系は,高い秩序を自ら発現し,それを維持する能力を要持素っのてい集る合。体(マクロな系)が持つ,グローバルな状態(相)である生。きている状態は,特定の分子や要素があるかないかということではな- '多-の分子や
とする。
をたどると、生命の起源の間題に至る。)
ヽノ
LTJI
(22)
46
47 馴-紺′芋は宗教析ILl78二回をもたらしたか
(先に述べた精神に対応) に対しても適応され、そによって、それらの諸システムが自律的であ
脳を中心とした神経システム、また心というシステム (心的システム)'さらには社会システム
トポイエーシス的 テムにおいて閉鎖性と開放 は相互補完的な関係にある。この閉鎖性は'
ができるのである。細胞の閉鎖系は環境への開放性の条件として機能しているのであって、オー
共に'まさ統一体であるからこそ、環境との接触・交流(エネルギーや物質の交換) を行うこと
足的(Autarkie) を意味しない。むしろ、細胞はその閉鎖性によって統一的な形態を維持すると
織化する閉鎖的システムであり'自律的(Autoコ○邑e) な存在である。しか、この自律性は自
ムの諸特性は'このオートポイエーシス性から導出される。たとえば、細胞は自己を継続的に組
る場合、それらは、この意味で解されている(クニール/ナセヒ、五-六)。以下で見るシステ
てこ では'クニール/ナセヒの研究を参照する。
る「オートポイエーシス的 テム」 であり'生命や心'そして社会がシステムであると言われ
ルーマンのシステム論によれば、システムとは自らの働きによってその組織を継続的に産出す
について'ルーマンのシステム論によってまとめてみたい。なお、ルーマンのシステム論につい
る。
は『全体論的』なものである」 (同書、一〇六)
まず、心の創発主義的理解(心・意識は物質と生命いう二つの系を基盤にして創発する) の概要
体は二元的な二つの成分ではな-、階層の異なる二つの概念である」 (デイヴ ス'一〇五)、「心
れることになるのである。
試
の
ぅ
N'3創発性と心
生
(
(
(
以
(
情報に応じて適切な対ができるよう操作を必要あ0)
ぞれどの場所に位置するかついて情報が必要な。)
縮弛緩し歩行運動が生じるなどの場合。)
する。この不均質なシステムに自己組織ざれ秩序を調和と呼ぶ0)
(23)
心の哲学における理論形成に寄与しっつあ
49 第1帝 脳科学は宗教哲学に何をもたらしたか
48
リングの議論である。
間で論争が展開中である。こうした問題に対して興味深いのは、ルーマンにおける構造的カップ 問題にも関わっており、心の哲学における 「心的因果」 「下方因果」 の問題として様々な立場の
が自由意志擁護として捉起した問い'意識が 「思考や行動を発する力」 を有するかどうとの
テム間の依存/非 をどのように理論的かつ実証的に解明できるのかにある。これは'ヒック
態と言える。
ルーマンの議論を含め創発主義の最大問題は'閉鎖性に基づ-開放性として表現されたシス
念で言い表している。構造的にカップリングされたシステムは'互いに依存し合っている
のこうした特殊な関係を'ルーマンは構造的カップリング(strukel Koplung)という概
意識と脳は'まった-重なり合うことな-はたらいてる。両者は融合しない。意識と脳
物質的・エネルギー的下部構造の特性からは説明されない。(クニール/ナセヒ、七二)
いると言う。創発性という概念は'新しい水準の秩序 出現を指すものであって'これは、
ルーマンは、意識は脳に対して創発的な秩序レベル (emrgnteOrdnugsebn)をなして
係
ネ
ぁ
脳の活動は署内容と同盲な-,自体思考しい。
は
テ
に
活
ニ
界
と
る
ス
り、他のシステムに還元できないことが示される。
以
こ
神
ー しかも同時に、互いに他 対して環境であ-続けている。(同書'七三)
(7))
第1帝 脳科学は宗教哲学に何をもたらしたか
50
(ArlhurPeaCO ke)は↑方因果を神と世界の相互作用のモデ∼として考察していることで知られ
(lheislicnaturalism)とも呼ばれる論点を含んでおり,それは本章でこれまで見てきた創発主義
として創発される実在として描かれることによって,創造や奇跡と結解びすつるいこたと-然が的でなき存る在。し者かし問題は,創発主義から提起される神は,世界の諸階層全体を前提 た生化学者垂者であるが,その立場は,時間有神論(1eヨpOra=heisヨ),有神論的自然主義
創発について論じる試みがなされている(Clayton/Davies・303-3をNZ視).野アにーサー・入れたピ悪がーコックなされているが、この階層をさらに延長して,宗教の創発あるいは神性の
って,論点を明らかにしたい。 ではない。しかしこ では,創発主義の立場からしばしば言及されるも神の概で念ありに,関心わがる脳問に題莞にさしれぼない実在性を有するというで義はあ宗ろ教う経か験。のす実で在に性議と論も無さ関れ係た自由-の間-は,宗教思想にとっても-な問題になり得
創発主義では、物質から生命、心を経て精神活動(-文化-にいたる諸階層の創発
創発主義は,宗教にとっていかなる意味をもっているのだろうか。宗教2.4神と創発性
思想に何をもたらすの
論として仕1げるためには,乗り越えられるべき大きな壁が我存在々すはる承こ知としはて疑いなえけなれいば。ならない」(ibld・,49)と述べているが,強い創発主義を説得的な理
からである」 (ibd.,48)。デイヴィス自身は、「物理学は完成した学問分野でないとう事実を
懐疑的である。なぜら'彼は現行の因果理論において力を追加する余地はないと信じている
過ぎない」 (ClaytonJDavies.37)とされる.したがって、「たいて の物理学者は下方因果には
的な力や法則を合意する必要はな-へ ただ開放系と閉鎖の相違についての明確な理解を含むに
う主張がなされることがある'現代の標準的な物理学においては、「創発的な振る舞いは創発
あって、開放系の場合や量子力学における波束崩壊の場合には'還元的説明は成り立たないと
見解を紹介しておきたい。還元的説明(決定論) が完全に適応できるのは閉鎖系に対してのみで
ついては、情報と表象との関係がボインーになるであろう。
ることはすでに論じたとおりであるが'最後にこの点をめぐる問題状況に関するデイヴィスの
創発主義の中に、下方因果(心・意識から脳へ因果的影響) を認める強い創発主義が含まれてい
構造的カップリングの問題についてこで十分な説明を行うことはできないが'心的システムに
どのように行のかという観点から'実証的によ-踏み込んだ議論が可能になるものと思われる。
接に関わっている。心的因果あるいは下方因果については、この構造的カップリングの理論化を
る依存性と非依存性の両面という特性を有するマクロな秩序の創発をいかに理論化するかに密
ムと環境の相互的構造変化の議論において導入した概念であるtA),システム相互の関係におけ
この構造的カップリングは、マトゥラーナとバレーラが'神経システムに関連して'システ
52・
53 別所脳科学はJ-,f教僻に何をもたらしたか
次のデイヴィスの議論は'創発主義が宗教思想に何をもたらすかをよ-示していると言えよう。
べることにしたい。 科学との連関における宗教研究が、宗教理解にとっていかなる意味をにもなつるかで,あにろつうい。本て章私を見閉をじ述るにあたって,現時点での研究状況という限こ定とつがき予で想はさあれるが。様、脳々な研究成果が現れ,宗教研究の広い領域に対して様々影響を及ぼすこと
み寧」とが、あるいは宗教経験が脳のどの領域と関わっているかが解明るさ必要れはるなといし,て冷も静、なそ対れ応で十分であると思われる。たとえ,脳の物理的活動が神イメージを生
においてはじめて批判的に検討され得るものなのであのる脳。科学が行っているような実験の範囲を遥かに超えた時間経過(場合にわよたっるて意は識、的人な生努の全力体の)プロセスにおいてもたらす結果(成果・実)クながの指で摘あすりる、よそうれには,、宗現教在経験にとって-なのは、短期的な経験のつ有脳無科で学は者なや-哲、学そ者れが素長朴期に考えるほど、神の非存在の証明は容易なもはの直でちはにな神いの。実ま在たの'ヒ否ッ定といったことにはならないからである。実際、還元-的物理主義に立
結論的に言えば,現在のところ,あるいは当分の間、宗教研究者が脳科学の成果に垂憂す
意識的自我が決断する事態というのは,より深刻なやりとり,熟慮を要する道徳的な判断、
55
馴FTf.脳科学は宗教11伸二何をもたらしたか
現在,脳科学と関連した宗教研究は,きわめて活発な状況にあり、今後もそおわりに1の動向は継続宗す教研究にとっての脳科学の意義
る
〇〇-三〇一)0
全体論的概念であり'人の心をおそら-はるかに越えたレベルの概念である。(同書'三
物理的全宇宙は、自然的な神の心を表すための媒体である。この意味において'神は最高の
ィス、三〇〇)
として存在する普遍的な心'超自然的でない自然的な神を否定するものではない。(デイヴ
それは神、すなわち創造主という考えを余計のもとするが'この特別な物理的宇宙の一部
図式を乗-越える試みは、伝統的な神理解の側に大きな変更を要求するものとなる。この点で'
けることができるあろう。しかいずれにせよ、創発主義によって'自然主義と宗教の対立
ヘッドの神理解(特に神の「原初的本性」と「結果的本性」 における世界との相互作用) にも関連づ
しれない。またこのような神理解は、伝統的に汎神論と呼ばれるものに接近し'さらにホワイト
2T6.319)'こうした試みは自然主義と宗教の対立図式を乗り越えるものと評価できるかも
弱い創発主義者であるサミュエル・アレクンダーにおいてもなされるが(claytonJDvies.
ではな-自然的な実在と理解されることになる'という点である。このような自然的神の議論は、 -4
りしておきたい。
抄訳) から引用される。
なお'本文あるいは註において引用文献と引用箇所を示す際にも、同様の表記を用いた場合があることをお断
あって、まさにこ 現代における宗教哲学が創造的に飛躍するチャンスがあると言えよう。
次の二つ文献は'本章で繰-返し引用されるが、本文中での引用は'(ヒック'l)や(CaytonJDavies.I)
PhilpCaytondPulDavies(d.),ThR・Emergncof eJThEmrgenistHypoh
jTomScientoRlign.OxfordUnivestyPr ,206.
などと略記することによって行われる。ヒックについては、特に断り書きがない限-、邦訳(原著第二版からの
文献引用について
学からの挑戦に対して、宗教思想また宗教哲学は、その根本に関わる再考が求められているので
学と宗教」いうテーマは近代以降の思想的文脈に位置しているのである。いずれにせよ、脳科
たとえば進化論や遺伝子工学との連関で、すに生じている事態であって、この点でも'「脳科
ジョン・ヒック『人はいかにして神と出会うか -宗教多元主義から脳科学への応答』法蔵館'二〇‥年。
Tfanscendent.Palgrave.20 6.)
(JohnHick.TeNwFrontifRelgonadScieTtCJRlgiousExpernc,Nuosiencadth
「
持
っ
論
す
の
で
か
い
自
主
し
も
(ヒック'九〇)
な
難
(27)
1加こ
57
第1帝 脳科学は宗教祈学に何をもたらしたか
小坂井敏晶『責任という虚構』東京大学出版会'二〇 八年、一四〇⊥ 二頁など'を参照。
(「自由や責任を因果関係の枠組みで理解するという発想自体を覆さなければならい」) は興味深い。
このリベット自身の著書がまず参照されるべきであるが'特に責任論との関わりで、小坂井の議論 204.(B・リベット『マインド・タイム ー脳と意識の時間』岩波書店。) リベットの実験については'
北樹出版'一九 四年'七一⊥二五頁、を参照。
(7)声名定道「自然神学の新たなフロンティア ー脳と心の問題領域」 (京都大学基督教学会『基督教学研
(8)たとえば、ヒックは、現代の思想的状況下における宗教概念の規定に関して'ウィトゲンシュタインの
(9)もちろん、宗教概念は決して単純あるいは自明なものではない。芦名定道『ティリッヒと現代宗教論』
(1)BenjamiLbet一MindTmeJ h TemporalFctorinC sciounes.Harv dUniverstyPes,
Responestohe7Tanscednt,YaleUniversityPres,198.p 3-5を参照o
「家族的類似性」 を参考に議論行っている.1ohnHickAJteT7・aionfRelgJHuman
究』第二七号、二〇 七年'一⊥九頁) を参照。
(6)自然主義と歴史主義とに関して、トレルチは、次のように論じている。「自然主義と歴史主義とは、近 (5)声名定道『自然神学再考 - 近代世界とキリスト教 - 』晃洋書房'二〇 七年、を参照。
四五頁) を参照。
(芦名定道ほか『科学時代を生きる宗教 -過去と現在、そして未来へ』北樹出版、二〇四年、一二-
ルダン社、一五九頁)。また経験科学としての現代宗教学については、芦名定道「現代宗教学への招待」
いものであった」 (E・トレルチ (近藤勝彦訳) 『歴史主義とその諸問題(上)』 トレルチ著作集四) ヨ
代世界の二つ巨大な科学的創造であり'この意味においてそれらは、古代にも中世にも知られていな
(
(
(
三五七号、二〇 八年'二 七-二四九頁)'を参照。
we〓→NOO∞.)
T)中山剛史-雅遺編『脳科学と哲の出会いー脳-ふ』玉川大学出版部、二〇八年、三頁。頭
二
p
八年'三7五⊥二四〇頁)・
註
ポ
するものと思われ。こプロジエク-成果については,次報告論集を参照
れ
も
学
こ
N
意義)南山宗教文化研究所'二〇七年。
弱総合研究センター編『脳研究の最前線上脳の認知-進化』講談社,二。七年,三 八
59 第l帝 脳科学は宗教哲学に何をもたらしたか
(S)in然主義と宗教とは、基本的に翌的な世界観であるとしても,この対比は、強い自然主義と超自然主
(弱い自然主義-莞論的自然主義)とヒックとの相違はかぎりな-小さなもののととななるる。将。同来様的にに,は心脳同義と「ヒック的」・完論とは明確に区別されるとしても'強い創発義
用語を用いることにしたい。 さらに諸概念の整理が必要になることが考えられるが,本章では,弱い創発-と強い創警義という
義的神諭との間でなされることが多-,弱い自然主義と汎神論的神論となると,両者の相違は微妙なも
(慧章において、創発性概念と創発主義に関しては,clayton/Davies(NO 6)が参警れるが'クレイ
(1 9)莞論に基づ-ティリッヒの自然哲学と創発性(1位のシステムは,先行する下位のシステムの創発的
paulDavies,GodandtheNewPhysics,J・M・Den-&Sons,1983・(P・C・W・デイヴィス『富
論と科学の問題」(現代キリスト教思想研究会『ティリッヒ研究』創刊号、二な〇秩序〇と年し、三て六生頁成)す。る)との関わりについては,次の拙論を参照。芦名産道「ティリッヒ1生の莞
はなぜあるのか1新しい物理学と神』岩波書店。)
phil pClayton・MindandEmergenCe:FromQuantumtOConsdownesS,OxfordUniversityPres 一
(20 6)imけるクレイトンの議論よ- 括的で詳細であり,次のデイヴィスの文献は創発性概念を
トンとデイヴィスについては,以下の文献も有益である。次のクレイトンの文献は、C書n\Daくies
宗教・神学との関わりにまで展開した先駆的な議論である。
道『自然神学再考1近代世界とキリスト教』晃洋書房,l一〇 -二六-ク二と同様〇の貢開。票走において、D・ダリフィンらによっても提出されている。次の文献を参照。芦名産
(17)強い自然主義と弱い自然主義の区別に相当する自然主義の内的区分は、「自然主義と宗教」 というヒッ
(16)小坂井敏晶『責任という虚構』東京大学出版会'二〇 八年、を参照0
(1)JOhnHick}A[nterp aionfRelgionJHumaRespon the7Tanscdet.YalUniversty
(15)「リベットの結論はこうである。私たちには監視する自由意志とでもいうのがあ-'それによって意
である。」 (ヒック'八八)
識的自我は脳を通じ'身体に関して普通は無意識自我が握っている指揮権を乗-越えることができるの
Pres ,1989,p ,lil-125,
(I)心脳同三脚が、論点先取であるということは'言い換えれば'そが近代科学について通常認られる意
うな科学的仮説ではないのである」 (同書、三八)0
れた理論であって'偽であるならば'その反証性を構成する要素が何であるかを考えることのできるよ
l論は科学的な仮説ではないことになる」 (ヒック'三七)、「同一諭は自然主義哲学を前提にして生ま
学の範囲ではこれを偽であると決定的に反証するための観測手段も実験手段もない。したがって心脳同
は純粋に科学的な仮説であるかどうとい疑問である」'「心脳同l論が偽であるとした場合'通常科
味での 「科学」 ではない、あるは 「科学的な仮説」 ですらないとうことにはかならい。「同一論
(12)ヒックは'随伴現象説を扱った章で、進化過程のおける意識の価値問題や'J・サールの生物学的自
章では省略。 然主義についても検討し'またリベットの実験についても再度言及している。これらについては'本
(‖)美濃正 「心的因果と物理主義」 (信原幸弘編『シリーズ心の哲学1 -人間篇』勤草書房'二〇四年、
についての分析哲学』世界思想社'二〇 八年'一五六L九三頁) を参照。 二五-八四貢)'「物理主義と心的因果 -キム説再考」 (中才敏郎・美濃正編『知識と実在 -心と世界
20 4.
60
61 9, 1中脳科学は宗教1n;,tru:に何をもたらしたか
前提としつ も脳科学の研究結果を受け入れる可能性について論じルる・フ0ランクルの霊的人間論に基づき,宗教体験を脳に還元するのではな-内の'神プ(ロ超セ越ス者に)すをぎないことを意味するか否かを考察する。さらに,精神科医で宗あ教る体ヴ験ィやクト関ー連領域の脳科学研究を具体的に紹介すると共に,こうした研究結果はが,宗教体験にをも脳および、宗教体験に伴う様々な脳の活動が明らかにされてきとたい。う本物章質で的はなレ'べ∼から説明可能であることを明らかにしてきた。さらに'こうした脳科学の
脳科学の進歩は、知覚,記憶,思考など,これまで心の機能と信じられてきた内はじめに
容が、実は脳
第2章脳科学や精神医学からみた宗教体験とその意味
(27)金承哲『神と遺伝子 -遺伝子工学時代におけるキリスト教』文館'二〇九年'二五- 三頁
など'を参照。
(24)心的因果をめぐる問題状況については'註(‖)に挙げた美濃論文を参照。非還元主義的物理主義
(26)マクグラスは'キリスト教啓示論との関わりで次のように述べている。「知覚という人間のプロセスは、 (25)U・マトゥラーナ'F・バレーラ『知恵の樹』ち-ま学術文庫'一九 七 (一九八七)年。
ある。
あり (「知覚は脳に基づ-」)、脳科学はこの点からもキリスト教神学にとって無視できないものなで
な意味を持っている」 (マクグラス'一四六)。この知覚プロセスにおいて中心的位置を占めるのが脳で
然の文脈中および自然を通じて人間へという仕方で、神の自己啓示が起こる方法を理解するのに重要
自然の神学的解釈を説明する際に、見過ごされたり端に追いやられることはできない。このとは'自
して指針となり得る実証的データの提供なのである。
キムは還元主義の方向へ転換を授起してお-'脳科学に求められているのは'こうした哲学論争に対
(no・reductivephysicalsm) - 本章で論じた随伴現象説や弱い創発主義なども含む1に対して、
(2)清水博「生命科学と宗教」 (『宗教とは』 (岩波講座転換期における人間9) 岩波書店'一九〇年)一
(E3)G・クニール/Aナセヒ『マン ー社会システム理論』新泉。(GeorgKn.AmiNash
NiklasLuhmars7teoriszalerSystem.WFinkLg93(20 ).
一〇-一一一頁。
(21)清水博『生命を捉え直す -生きている状態とは何か』 (増補版) 中公新書、一九〇年、九頁。文
体統一のために一部修正して引用。
杉岡良彦
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