私 の 人 生 だ も の 是 か ら を 大 切 に 生 き る た め に

私の人生だもの
是からを大切に
生きるために
大
庭
薫
お
せ
ろ
鎌倉武家政権の始まる前、石橋山の戦で
源頼朝を破り頼朝を房総に逃がした。大庭
三郎景親が治承四年(一一八〇年)一〇月
二六日兄大庭景義によって固瀬川の辺り
で首が討たれたとされているが。
亊実は、大庭三郎景親は一族を従え難を
逃れて落ち延びた。
甲斐の国(現山梨県)
上野原市和見地区八一五番地館跡地に綺
麗に色づいたもみじ。(このもみじは昭和
五十二年頃植えられたもの)館跡地は、当
時を偲ばせる形が残されている。
平成二年まで子孫がこの地で生活を営
んでいた。
現在では上野原市上野原本町に居を構
えている。
うちみや
大 庭 家 で 守 り 神 と し て い た 大勢 籠 大 権
現神社の家宮が建立されている。
目
次
自己を見つめて・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・一
甲東小学校話見分校の記録と想い出・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・七
昭和二十四年(一九四九年)頃の山村生活から・・・・・・・・・・・・・・十六
生きるための知識と知恵・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・二十一
己の生き方を決めた背景・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・三十
地方公務員としての記録・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・四十二
本庁勤務になってからの心の変化・・・・・・・・・・・・・・・・・・・四十八
上野原町の技能士会の職業訓練校の講師になった時の思い出・・・・・・・・六十
借家生活から新居を構えてからの生活・・・・・・・・・・・・・・・・・六十三
町長部局から教育委員会に出向しての一年間の思い出・・・・・・・・・・八十二
私が担当した学校施設整備事業の思い出・・・・・・・・・・・・・・・・・九十
組織の機構改革・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・九十六
その他の学校新増改築工事の思い出・・・・・・・・・・・・・・・・・・一0二
記(私が携わった部所を記載)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・一 八
0
職務以外の思い出
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・一一二
自己を見つめて
それぞれ
しゅばつ
ぎ
拝殿に入り、祭典総理、氏子総代が夫夫の席について神前を見つめる。
神官が大太鼓の前で時計を見つめている。やがてドンドンドン・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
と神官が打ち鳴らす太鼓の音が鳴り響く、拝殿の扉が開くと参道に詰めかけていた参拝
者の鈴を鳴らす音、二拍手を打つ音が次から次にと繋がる。
つつがな
神官が「ただいまから歳旦祭を執り行います」修祓の儀から始まり祭儀が終わり、神
は
ま
や
官から「あけまして、おめでとうございます。本年の歳旦祭が恙無く終了致しました」
祭典総理、氏子総代一同が「おめでとうございます。本年もよろしくお願いいたします」
お神酒が廻され、一同が乾杯をし、七つ締めでの手締めが行われて、平成二十五年
(二〇一三年)の新年が始まった。
山梨県上野原市上野原に鎮座する牛倉神社の参道は人人の列で一杯である。牛倉神社
の氏子総代の一人である私はこれから他の総代と共に、参道に沿った一角に設けられた
接待所で参拝者の方々にお神酒と甘酒を振る舞い、参拝者の皆様に「健康、幸福、商売
繁盛、開運厄除、家内繁盛、交通安全」を祈りながら「新年の挨拶を」する。
昭和十三年(一九三八年)五月二十六日生まれの私は、七十四年と八か月を生きてき
た我が人生の反省をし、これからの生き方をどのように生きるかを決断するべきだと思
いつつ帰り際に神官から「お年始代わりに」と頂いた「破魔矢」を手に我が家へと足を
1
はかま
すそ
さんさん
そそ
は
運んだ。とても寒い年明けである。空には雲一つなく月光が燦々と降り注いでいる、足
せった
み
き
元から 袴 の裾を伝わって冷たい寒風が膝のあたりをチクチクと刺激する。履いている
かじか
雪駄から足が抜けそうになるし、歩くのもいくらかふらついている、お神酒を少々戴き
そでぐち
過ぎのかも知れない。手袋の無い手は 悴 んで痛みを感じる、破魔矢を持つ手は兎も角と
かじか
して他の手を和服の袖口に入れて歩いた。わずかの道のりであったが玄関に着いたとき
つ
には、ほっとした玄関のドアのノブを回そうとしたが、 悴 んだ片手ではノブを回す力が
出なかった。やむを得ず片手に持つ破魔矢を壁に立てかけ両手を使ってドアを開けて、
は
中に入った。明かりは点いていたが家族は既に休んでいるようだった。自室に入り羽織
袴を脱ぎ捨てパジャマに着替えベッドに這入る、出掛ける前に電気毛布にスイッチを入
れておいたので心地よい暖かさになっていた。午前二時を少し回っている。
床に就いて直ぐ眠ろうとしたがなかなか眠れそうになかった。
七十四年と八か月か?母親は七十二歳で亡くなっている。もう母よりも長く生きたの
か?欄間を見ると父母の写真が掲げられている。二人とも澄ました顔をして私を見下ろ
している。父は八十一歳でこの世を去った。考えてみると親不幸の息子であったように
2
思えてならない。あと何年生きられるのか?昨年末は十二月十二日から体調不調で年賀
状を書く気力も出なかった。考えてみると父母は二人とも十二月下旬に亡くなっている。
我が家では十二月は鬼門月かな?などと考えてくるとますます眠れなくなったしまっ
た。私は定年退職の後直ぐ(一九九九年七月)に脳梗塞を患い、二〇〇六年八月には心
筋梗塞で薬剤溶出冠動脈ステント留置の手術を受けている。更に二〇一〇年九月に大腸
癌が発見され、同年十二月十日手術で患部を摘出した。
(ステージⅠ進行で、術後の定期
観察を受けて下さい)で三十日後から四十日ごとに定期観察を行っている。脳梗塞、心
筋梗塞の定期検診は上野原市立病院で四週毎に検診を受け、癌手術後の観察は東京医大
八王子医療センターで行っているが、果たして父の八十一歳まで生きられるかは疑問で
ある。
五月末からは法律上後期高齢者の仲間入りになるが、自動車免許証の更新はどうしよ
うか?生きている間に何が出来るのか?七十数年の間に何をやって来たのか?果たして
人間として恥ずかしくない生き方をして来たのか?「後悔先に立たず」である。
親には不幸、家族にも不親切、貧乏暇なし、運の無い男、仕方がないさあ・・・・・
才能が無いんだから、等々考えていたら夜明け近くになっている。
昔から年越しの夜は寝てはいけない。眠ると白髪になると言われているが、もう既に
白髪になってしまっている。少し眠ろうと考え眠る事にした。
3
しょうろうびょうし
翌朝目が覚めたのは九時を大きく回っていた、病気治療の為と金が無く正月食品が用
意出来てないので普通食で済ます。食後直ぐ寝室に入りベッド上でテレビを付けるがた
いして面白い番組は無くチャンネルを何回も切り替えた。午後過ぎ年賀状が数十枚配達
された。返信賀状を書こうと考えたが体が動こうとしない如何したことだろう?
昨夜の寝不足か?体に力が入らない。仕方がない。ベッドに座り、座禅でも組もう。
座禅では無想にならなければいけないが、座って七十四年を振り返ってみる事にした。
仏教の教えでは人間は誰でも平等に四つの苦を背負っていると云う。先ず生きること
の苦しみ、老いることの苦しみ、病に侵されることの苦しみ、死ぬと云うことの苦しみ、
あい べ つ り く
おんぞう え
く
これを四苦( 生 老病死)と云う。冨者貧者、貴賤、強者弱者、老若男女の全てが平等に
ぐ ふとく く
ご う ん せい く
背負っている苦である。更に愛別離苦(親愛な者との別れの苦しみ)怨憎会苦(恨み憎
む者に合う苦しみ)求不得苦(求めているものが得られない苦しみ)五蘊盛苦(心身を
形成する五つの要素から生じる苦しみ)の四つの苦しみが加わって八苦を背負って生き
ねばならぬこれを人生の四苦八苦と仏教では教えている。また人生は塞翁が馬の譬えど
おり、災いが福となる事もあり福が元で災いを招くこともある。
私は、三方を山で囲まれた山里の大きな家で生まれた。家から外に出ると南東の一角
に低い山がありその山の向うに遥かに遠い彼方に霞んで見える平地らしきものが見える。
4
ひ
家は大きかったが、生活は大変に貧乏であったように思える。四歳か五歳ごろ隣の家
には四角い箱から音楽が聞こえたり、人の喋る声がしたりする不思議な箱があった。私
ね
だ
はこの箱に大変な興味を魅かれたことを覚えている、ラジオである。我が家には無かっ
しつけ
た、とても欲しかった、親に欲しい欲しいと相当強請った結果だと思うが、母親がミカ
ン箱を大きな風呂敷きで包んで「これがラジオだよ」と云って私の背中に背負わせてく
れたことを思い出す。毎日それを背負って家の中を「ラジオだ、ラジオだ」と叫びなが
ら歩き回ったと叔母や叔父から聞かされたことを思い出す。
昭和二十年四月に現在で云う小学校に入学した、父は戦争で出兵していた。私が生ま
れた家は二年前に壊されて屋敷には壊した材木が山と積まれていた、毎日大勢の人足で
車(荷車)に積まれ運び出されていた。町まで運ばれ軍事工場になるとの事であった。
私たちは、近所の小さな家に引っ越して生活していた。祖母が二人、母、私、妹の五
人暮らしの生活だった。祖母が二人とは可笑しいが、一人は東京の御祖母さん、もう一
人が家の御祖母さんと区別していた。今の私には東京の御祖母さんは、父の義理姉(除
籍謄本で調べて判明した)であったのだと判断できるが当時は理解できなかった。東京
ますます
の御祖母さんは大変に、 躾 が厳しい御祖母さんに思えた。朝起きて洗顔をし、枕元に行
き「お早うございます」と正座して両手を付いて挨拶をしなければならなかった。そう
すると枕元に小さな箱が用意されていてアメ玉やミカンを呉れるのだ。戦争は益々激し
5
おそ
くなり、南東の山の切れ目から夜は遠い彼方で東京か、横浜が爆弾か焼夷弾の空襲で燃
たんしょうとう
えているのだと母が恐ろしそうな顔をして指をさして教えてくれた。その方向を見ると
空が赤く染まっていた。
たかざすやま
また、下方からは何本かの黄色く見える探 照 燈(サーチライト)が左右に動いて見え
る。こんな日々が続く中で叔母一家三人が疎開してきた、我が家は狭く同居出来なくて、
近所にある臨済宗江月寺の奥の間一室を借りてそこに住んだ。
家の御祖母さんと母は毎日畑仕事に出たり、野山を歩いて食料となる物を採って生活
さかい
の糧にしていた。ある日家の前にある山(高指山)擦れ擦れに火煙を吐いて飛行機が落
ちるのを見た、その飛行機が日本軍の物か、敵国アメリカ軍の物か小学校一年生の私に
は判断が出来なかった。この数分の前和見の上空では飛行機の飛び交う物凄い唸り音が
数回していた、大人の人たちが上空で飛行機と飛行機が空中戦をしているのだと話して
いるのを聞いた、小心者の私は怖くて震えた。
ね
この空中戦で日本軍戦闘機は高指山の棚頭側に墜落炎上し、操縦兵士は脱出したが 境
お
尾根(和見の人たちは「さきおね」と発音している)の棚頭側の権現山登山道の近くの
林の中で死亡していた。アメリカ軍機は西原山に墜落炎上し搭乗者全員が死亡との報道
を大変歳をとってから知った。
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第二次世界大戦の恐ろしい体験の記録を筆者が平成二十三年三月末日を以て市立甲東
小学校和見分校は休校となった和見分校記念文集・・休校に寄せて・・に寄稿した内容
を掲載する。
甲東小学校和見分校の記録と想い出
氏
名
大庭 薫
昭和二十年八月十五日正午ラジオから流された昭和天皇の玉音放送は大日本国民に大
きな衝撃を与えた。第二次世界大戦(大東亜戦争、太平洋戦争)の終結を天皇自らの肉
声で発表されたからである。記録を調べると、この放送は十五日に次のように六回放送
がされたようである。
・午前七時に十一分から【九分間】
・正午【三十七分半、玉音放送を含む】
・午後三時【四十分間】
・午後五時【二十分間】
・午後七時【四十分間】
・午後九時【十八分間】
当時我が家には、ラジオさえ無かったし、私の年齢では理解できない内容であったろ
う。
昭和十三年五月二十六日生まれの私が、甲東小学校和見分校に入学した年である。当
7
時は日本国内が戦場になっており、都会から疎開していた方々が多く分校に入学した児
童は八名であったように記憶している。今は名前さえ忘れてしまっている。
当時の分校は、明治初期に学令が公布されて、
(明治六年十二月一日、江月寺を借用し
て桑久保学校所属の分教場を設立開校した。明治十一年年に部落の中央(溝呂木氏所有
地)に敷地を求めて新校舎を建設し、江月寺から移転した。明治二十三年一月火災のた
め多年苦心経営してきた学校が焼失した。同年三月二十二日和見部落総代大庭景平外二
名連署のうえ、早急に校舎新築のための建議書を村議会に送り、校舎建築の要請をした。
同年学校敷地を大庭景平が大庭吉右衛門から買収した土地〔中和見九百五十五番地〕に
移して建築された。)
()内は上野原町誌から引用、この時に創られた校舎であったろう。
一棟の中に教室と先生の宿舎が入った建物であった。教室は一教室で一年生から四年生
までが一緒に一人の先生から教えてもらう方式で、机は二人用を一年生は一列に、二年
生、三年生、四年生とそれぞれが縦一列に並び、先生は、一年生から二年生、三年生、
四年生えと順々に教えてくれた。一年生が教えてもらって居る時は、二年生、三年生、
四年生は自習をしていた。先生が他の学年に教えているときの一年生は『書き取りの』
練習をして過ごした。
先生の名前は網野先生と言う方であった。棡原村用竹墓村 当(時は町村合併はされてな
く に)住んでいた男のかなり老齢の方だった。甲東村、棡原村、大目村等々で上野原町、
現在のように上野原市ではなかった。入学した当時は戦争中であった、飛行機の飛来す
8
る音がすれば、先生から一年生は家に帰された「飛行機が見えたら物陰に隠れろ、畑の
作物の中や木の陰に隠れるのだ」私の家は分校から五〇〇mぐらいであったが、大変遠
く感じられた。震えながら麦畑に潜り込んだ記憶は今でも覚えている。今考えると網野
先生は、自宅に居られる時、ラジオからの放送で戦況の把握をしておられたのであろう
電話も無く、ましてや携帯電話なんて現在の道具である。戦況状況の連絡手段は無い中
での児童の安全を守る判断をされたであろう。大変なご苦労をなされたと感謝を申し上
げたい。
もう一つの想い出、戦争も終わり、教化書が現在の新聞紙状の物が配られ、自宅で父
母に切断をして貰い製本した記憶と、四年間網野先生に教わった中で、先生が病気で学
校を休んだ時、四年生に連れられて用竹まで全員の児童で先生を迎えに行ったことがあ
る。道程にして四キロメーターはあるだろう尾根越えをして先生のお宅を訪ねた。奥様
から「今日先生は体の具合が悪く学校まで行けない様です。皆さんで自習をして下さい。」
と全員が飴玉を頂きそれを舐めながら帰ったこと、今考えると楽しい想 い出である。最近
所用で墓村を訪ねた時、当時を思い出しながら、近所の方に尋ねてみたら、網野先生のお宅は留守に
なっていて(空家)寂しい限りであった。
五年生からは本校に行かなければならない。四年生になったときには同級生は四人に
なっていた。疎開していた方々は、戦争が終了してから徐々に都会へと帰っていった。
和見分校は、私たちが入学した校舎が現敷地では初代の校舎で、昭和三十年に立替が
行われ二教室、職員室及び教員宿舎が建設された。
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更に昭和六十一年に二階建て鉄筋校舎になり、特別教室や音楽室兼多目的室、教員宿
舎が整備された。
子供さんたちが少なくなる事は寂しい事である。故郷がだんだん遠くなって行く様な
感じがする。地方においては文化の拠点は学校である。学校施設を地区の文化施設とし
て、文化の発信施設として活用できるよう強く望みたい。文化は人間形成に必要不可欠
の栄養素である。
最後に、私の先祖が大きな関わりを持った学校の改修工事に私自身が役場の担当者と
して当たることが出来たことは、私の一生の尊い思い出である。
こんな内容の文書を載せて貰った。
終戦となって父は直ぐ復員した。
復員した父は直ぐに自宅の建築に着手してくれた。我が家は兼業農家であった、農閑
期の父の商売は大工であった、経済面のこともあっただろうと思うが、敷地の東側に西
向きで細長く長屋敷の二階建ての建物だった。将来は養蚕室として使うつもりの様であ
った、この家で三人の弟が生まれた、私と妹、三人の弟で子供五人祖母、母(東京の御
祖母さんは昭和二十二年二月の大雪の日に亡くなった、この時は未だ借家であった)
子供五人と妻そして母親の七人の扶養家族を養う父親の苦労は大変な事だったであろ
う、まして戦後の混乱期である。
このような中で育った私は、
「生きる事は働くことである」ことを体で学んだ、小学生
10
し ょ い こ
低学年であったが、学校から帰ると直ぐに家の手伝いや畑の草むしり(草抜き作業)を
父や母の作業を真似て一心に手伝った。友達たちが楽しそうに遊んでいる時でも家の手
伝いを選んで働いた、体は小さく力も無かった、蛇が嫌いであった、
五年生になると本校に通わなければならなかった、山道を四キロメートルも歩かなけ
ればならない最初のうちは大変に疲れたことを思い出す。
毎日の行動は、人間を強くする。暫らくすると疲れるということを感じなくなった、
本校の同級生との友達も増えてきた。上級生からのいじめもかなりあった。よく泣かさ
れた。でも、現在社会のような「学校でのいじめ」問題のような深刻な考え方はしなか
ったし先生に申し立てたり、家に帰って親に報告したりするような事はしなかった。い
じめはあちらこちらと一杯に行われていたので「嫌だな」
「辛いな」とは思ったがそれ以
上の感情は無かった。いつかは終わる。
「悔しかったら」喧嘩をして勝てば良いんだとい
つも心の中で考えていた。喧嘩を応援してくれる仲間もできたし、バリケード役をして
くれる仲間も出来て学校に行くのが嫌になることはなかった。
通学に慣れてくると、他の友達がやっている様に、家から大麦や小麦を背負って学校
のすぐそばにある農協に運び精麦や製粉をしてもらう役目を父から言い渡された。父が
私の体に合う背負子を用意してくれた。重さ十五キログラムの雑穀と掛カバンを背負子
に括り付けこれを背負って四キロメートルの通学路を歩くのである。最初は大変に疲れ
たが慣れるということは恐ろしいことだ。何時の間にか当たり前の日常生活になってし
11
ふ
まった。当然帰路は、精麦された麦や小麦粉を背負って山の坂道を登って家路を辿るの
だ。辛いと思ったことはない。これが生きるということであると考えていたからであろ
う。当時の昭和二十四年(一九四九年)頃の山間部における集落の環境社会施設整備は
そこに住む人々の人力共同作業で行われており、道路幅員はニメイトール未満であり、
かつ坂道未舗装雨が降れば道路の真ん中が水路状になり、歩くのにも大変苦労を必要と
していた。大雨が降ると道路補修作業の義務人足の触れが区長(現在で言えば自治会長)
から出され組長を通じて各戸に人足の要請が出されるのであった。山奥の集落は、町場
に近い集落までの道路の維持管理を自分たちの力で行わなければならいのであった。
家に人手が無くて人足に出られない場合は、近所の家に手の空いている人を見つけ、
手間返しという方法で人足を確保した。(これが結制度)
和見集落に於いては、生活道路が二方向に分かれていて、町に出る方向と学校や役場、
農協、診療所等に用事があるときに使う道路が分かれており、両方の道路が必要であっ
た。区長が要請を出す道普請の作業は生活道路で、町へ出る道の方が多く、通学路に当
たる方の生活道路の維持管理は、主に生徒、児童が担当した。月に一度は道路整備の日
が決められていて、その日は学校の授業が終われば中学生男子は、トンガやスコップで
路肩や路面の凹凸を修復する事を担当し、中学生の女性と小学生(五年生、六年生)は
竹箒を用意して、路面の清掃を担当した。今思い出して見ると通学路はいつも綺麗にさ
れていたなと思い出される。六十余年前のことだ。現在では小中学校生はスクールバス
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で通学しているそうである。又、二年ほど前には桑久保まで自動車で通行が出来る様に
森林組合事業で林道として開発をしたそうである。全く夢のようだ。いつか徒歩で見学
してみたいと考えているがなかなか実行できないでいる。話は変わるが、和見分校は休
校となり、甲東小学校は上野原市立西小学校に統合された。上野原市立西小学校は、私
が上野原町役場施設課に勤務していた時に担当責任者としてコモア団地の開発に伴う人
口増加の為旧四方津小学校を同団地内へ移転改築した同町立四方津小学校である。町村
合併で上野原町と秋山村が合併し上野原市となり、少子化が進み沢松小学校、四方津小
学校、大目小学校、甲東小学校が合併統合して上野原市立西小学校となった。私個人の
思いとしては複雑なものがある。この合併した小学校各々に全て増改築の担当責任者と
して関わりを持って来たからである。和見分校は一時児童が増加をする現象が起こり、
木造校舎を不燃化と耐震化するための改築工事を行い、沢松小学校は水泳プール建設を
行い、屋内運動場の増築を行ったし、甲東小学校は水泳プールの建設を行った。大目小
学校は、水泳プールと多くの問題と話題をもつ中で屋内運動場の増改築工事を実施して
来た。
それが、小学校増改築の最後に手がけた市立西小学校(町立四方津小学校)に合併す
るとは思いもしなかった、時代の流れと時の変化に驚くばかりである。
小中学校の増改築には、五年先の児童数や生徒数を自然増、社会増等を教育委員会で
精査した結果を受けて、首長が地域、PTAの意見を反映して決定したものである。
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決定した内容と実施した結果と社会の動きの変化には大きな差が生じていた。それは、
市町村合併の促進が余りにも早かったこと、少子化のスピードの速さが大きかった事が
大きな原因かも知れない。
中学校の増改築工事を思うと更に大きなショックを覚える。私の母校である平和中学
校、この学校の増改築工事の遅れから年度内完成が難しいと判断された時に私は倉田町
長から町長室に呼ばれ「平和中学校の工事が年度内の完成が難しくなった、このままで
行くと国庫補助金が交付されなくなる恐れがある。是非君が行って何とか纏めて欲しい
四月の移動で教育委員会事務局に行ってくれ頼む」三月の半ばである。
(当時は、教育委
員会事務局が直接学校建築を担当していた)私は当時簡易水道の担当をしており、町内
の集落の一部に赤痢が発生して、この対策の為に正規な手続きをした簡易水道施設と手
続きなしでの地域の人達が協力して築造した小規模水道施設が町内に数多く存在してい
た。赤痢の発生で此の事が新聞発表されたことから倉田町長と私が山梨県に呼び出しを
されて「水道法に基づく手続きを整理すること、小規模水道については条例化をし、水
質管理は行政の責任で行うことを」強く指導された。水道法に基づく手続きの必要な規
模の施設についての手続きの実施、小規模水道の条例化と現状調査、水質管理の行政直
営化及び施設の改良工事の実施がほぼ完成し、簡易水道係としては施設管理、水質管理
に専念すれば良いところまでやっとたどり着いたところだった。この係に五年滞在した。
山崎君(現上野原市副市長、平成二十六年六月十七日現在)、河内君には、色々の知恵を
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授かった事に御礼を申し上げたい。ありがとうございます。
四月一日に出向辞令が出た町教育委員会事務局への出向である。私が教育委員会事務
局へ行ってから事務局の組織変更が行われた。それまでは、学校教育係りと社会教育係
の二係りであったのが、庶務係りが新しく加えられた。私の担当は庶務係りである。
文書整理、陳情の処理、施設台帳の管理、教育委員会事務局事務、教育財産の管理、
教育財産の取得等々が事務分掌である。安藤君、酒井さん、長谷川君の三人がよく頑張
ってくれたと今でも感謝をしている。
さて、中学校の校舎新増改築の件に戻ろう。と思ったが、今記述しようとしているタ
イトルを振り返ると「己を見つめて」であって小中学校の校舎新増改築事業の経過報告
ではない、私が小学校五年生時代の世界に戻らなければならない。
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昭和二十四年(一九四九年)頃の山村生活から
大戦終了後四年の山村生活は、今現在の(二 一
0 四年)小学校五年生には到底理解し
てもらえるようなものではなかった。特に和見集落は三方を山に囲われた山間に住戸を
開いた地域であって、平坦な土地がなくアクセス道路も前出の通りであった、徒歩か馬
の背に跨がってでなければ、町や村役場、農協、診療所、学校(分校はあったが四年生
まで)平坦地がないのと水利が集落の一番低いところの和見沢であって棚田すら数枚が
見られた程度であとは南面の傾斜の緩いところを畑として耕地をしていた。職業として
は農業として生活をしていたが、実際には自給自足で現金収入を得なければ生活は成り
立たないのが実情であった。その多くは林業、職人、土工であて、会社員や勤め人の数
は無かった。現在のように働く場所が(工場や事務所、商店等)が少なくインフラ整備
も全く無かった時代であったからである。電灯だけはあったが、電話等は役場、学校或
いは相当の大金持ちの家にしかなかった。山林所有者は、山の立木を売って、そうでな
い者は立木を買って炭焼き(木炭製造)を行うか、杉、檜、松は建築材料として市場へ
出荷するちゃぼ車引(荷車)をして、又は、この頃から始められた林道開発の道路工事
の人夫として賃金を得て生計を立てていたのである。中学校を卒業した女性のほとんど
が機織りの女工として、年季奉公して住み込みで桑久保や上野原の個人経営の機屋さん
に努め家計の助けをしていた。この時代高校に進学できるのは、機屋さんの家の子供か
16
し ょ い こ
財産家の子供ぐらいであった。私が小学校五年生の時和見の集落で高校に通学している
人、あるいは寄宿舎に入って高校に行っている者は居なかった。
通学の途中で呼び止められ「誰々さんの家から炭を一俵買って来てもらえないか?前
から付き合っている家だからここの家名を言えばどの炭か向こうも解っているから」と
数百円を渡され依頼をされた。大変びっくりしたが、友達もよく炭俵を背負って通学し
ているので皆もこの様にして頼まれているんだなと納得が出来た。指定された家は私の
家のすぐそばであったので帰りがけにその家を訪ねて頼まれた内容を話すと「解ったよ、
明日の朝には用意をしておくよ」炭俵は正味が四貫目(十五キロ)風袋を含めると約十
六キロ程度の重さになる。翌朝は少し早く背負子を担いで家を出た。依頼した家に行く
と炭俵と釣銭が用意をされていて「炭は一俵の時はこう縦に背負子に括りつけた方が良
いよ」と括りつけまでしてくれた。その荷物の上に掛カバンを結付け登校へと走り出し
た、思っていたよりも軽く感じた。重心が高いところに有るからであろう。依頼を受け
た家は通学路に面した家で、家のお婆さんがすぐ出てきてくれた。釣り銭を渡し荷物を
降ろし背負子を帰りまで預かって貰えるよう頼むと、
「ここに置いとけばいいよ、これは
お駄賃だよ」と三十円を手渡された。私は大変驚いた、貰って良いのか?普通十円か二
十円だと聞いてはいるが、戸惑っていると、
「気にしなくて良いんだよ。あんたは知らな
い か も 知 れ な い が 、 私は 和 見 の 「 増 原 の 中 」と 親 戚 で あ ん た の 家 は「 中 」 と 親 戚 だ ね 、
「中の家」であんたの話はよく聞いているから、とても真面目な子供さんだと言う事を、
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気にしないで持って行きな、そしてこれからもちょくちょく頼むからお願いだよ」と言
われてホットして「ありがとうございます。頂きます」握っていた三十円をポケットに
収めた。
荷物を運んで駄賃を貰うのは、この時が初めてであろうと思う。小遣いなら叔父や叔
母から貰った記憶は数多くあるが、自分の労働での対価としてのお金としては生まれて
初めての事だった。嬉しくてたまらなかた。
今まで、学校から帰りがけに友人たちが農協の前にある雑貨店で「コッペパンにいち
ごジャム」を塗ってもらい食べるのを見てとても羨ましかった。どんなに美味しいのだ
ろうかと?一度食べてみたいと何度思ったことだろう。今日は学校が終わったら必ずコ
ッペパンにいちごジャムを塗って貰ったパン食べるぞと朝から学校が終わるのが待ち遠
しかった。待望の学校が終わった。直ぐに行こうと思っていたらその日は掃除当番であ
った、何でこんな日に掃除当番なのだ!掃除当番が恨めしかったのをよく覚えている。
七十年も前の昔のことを覚えているとは食べ物の恨みは恐ろしいものだと我が身を疑う。
十円でジャムを塗ったコッペパンを買い店の前に設えているベンチに腰掛けて食べたパ
ンの味はとても美味しく忘れることができない味だった。なんか一人前になった気分で
あった。現在の私の朝食も毎日がパンである。健康食である世界の食事の中でも有名に
なった日本の一汁三菜の食事は我が家では無理のようだ。パンはパンでもそれに添えら
れるジャムはいちごだけではなく数種類のジャムが用意されている、バターであったり、
18
かた お
す
チィズであったり、クリームであったり、つぶあん&マーガリン、ぶどうくるみパンと
かぶどうパン等々が用意されている。
通学での荷物運びはそれから数年続いたが、それが辛いとか苦しいとは思わなかった
が、中学生になると学校が野田尻に移り甲東村だけの仲間だけではなく、大目村の仲間
が加わった。大目村甲東村両村立の中学校で校名が平和中学校となった。
生徒数も多くなり自分自身の体も心も成長し、
「色気が芽生えてくると」毎日の背負子
あかし
運びは学生服の肩の部分が「てかてかに」肩緒の擦れで光り、これがとても恥ずかしく
山の中に住む友達の姿は皆同じであったが、皆の友達が同じ思いであったのだろうと思
うが一人減り、二人減り通学での荷物運びはなくなった。と同時に道路整備も進んで農
協での集配達も進み通学での荷物運びの必要性が無くなった。
中学校での放課後は、専ら部活に専念するようになった。私は陸上部に加入し、長距
離を目出して練習をした事を覚えている。
背負子での荷物運びで貰ったお金(お駄賃)は大事に農協の預金に預けた、今もその
口座が残っているが、通学時に荷物運びをして駄賃を貰った金を預金した口座は引き続
き 生 き て い る 残 高 は 少な い が 思 い 出 の 証 と し て又 和 見 の 財 産 を 管 理 する 費 用 の 出 納 簿
と利用している。
戦後の日本の復興は都市部を始めとして地方においても早かった。地方においては道
路整備に力が入れられ、徒歩からの脱却が図られた。バイク、オートバイ、三輪自動車、
19
軽自動車、が農山村に普及した。地方の行政も生活向上は道路整備からと、どのような
山間部へも、どの家にも自動車が入るように取り組まれた。
インフラ整備はさらに進み、電話、光ケーブルで瞬時に世界中の情報を手に入れるこ
とが出来る様になった。産業も全くよう変わりをし、山間部でも農業を営む人々が少な
くなり、山林の手入れをする人の姿が見えなくなり、人々の都市部への移動が始まり、
限界集落の危険が起こりはじめた。
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生きるための知識と知恵
すみつぼ
中学校を卒業する間近になって、己がこれからの生き方について、真剣に考えた。
父の跡を継いで大工職になるのが最も簡単な選択であったが、どうしても踏ん切りがつ
かないでいた、父は跡を継いで貰いたいと願っていることは、口に出しては一言も言わ
なかった。が父の親方の方から大工道具の「墨壷」を手製で作ったものを贈られた時始
めてはっきりと父の気持ちが理解できた。私自身の気持ちは教員になりたいという気持
ちがどうしても断ち切ることができずにいた。しかし、我が家の貧乏暮らしで高校に進
学することは夢のまた夢である。当時は高校といえば大月にある県立都留高校が我が家
から一番近い学校であった。四方津駅まで徒歩で十キロを超える道のりを朝晩通学がで
きるか?上野原駅を利用すれば十五キロを超える、考えただけでも到底無理だ。そこで
考えたのが、今通っている平和中学校で「都留高校定時制平和分校」が開校されている。
四年制であるがそこで勉強をしよう、既に和見でも二人の先輩が通学している。ここな
ら昼間は父の手伝いで大工の勉強も出来るし、農業も出来るし、炭焼きの手伝いで日当
も稼げる。父に相談すると即答で「勉強は続けたほうが良い」と承諾が出た。父一人の
働きで祖母、母、私、妹、次男、三男、四男を養っている生活は、大変に苦しいもので
あった。これはこの集落のどこの家の生活もおなじようなものだった。生きるためと己
の希望の一部を保存するための知恵であったと今考えると思えてならない。
さて、知恵とは何か?改めて考えてみたい。浅学である私に判断する力はない。
21
すうようとく
改めて、広辞苑を調べて見ることにした。その概要は次のとおりである。
知識・・①ある事項について知っていること、また、その内容
②仏教では、物事の生邪などを判別する心のはたらき、正しく教え導いてくれる指導者、
高僧、善知識、寄進すること、また、その人たち
③知られている内容、認識によって得られた成果。厳密な意味では、原理的・統一的に
組織づけられ客観的妥当性を要求し得る判断の体系。④知己。しりあい。⑤ものしり。
知恵・・①物事の理を悟り、適切に処理する能力。②仏教では、真理を明らかにし、
まつばんしょう
悟りを開く働き。(智慧と書く)。③哲学では、四つの枢要徳の一つ。古代ギリシャ以来
さまざまな意味を与えられているが今日では一般に、人生の指針となるような、人格と
深く結びついている哲学的知識をいう。とある。
これらから判断して、私が己の生きる道として判断をした知恵は結果してどうあれ間
違ってはいなかったと判断して良いだろう。
物を書くとき、どうも理屈ばかり先行してしまうのが私の悪い癖である。話をしても
理屈ばかりと、多くの人に嫌われる原因になってしまった。御免なさい。
私の祖父も大工職でその弟子に「溝呂木姓」で松 番 匠 と言う人がいて、その方の弟子
として私の父は修行をしたのである。当時の職人さんは七年間親方の家で住み込み修行
をしなければならなかったようである。父は修行が終わってからだと思うが「帝国工業
教育会」の通信教育で「西洋家屋構造」「日本家屋構造」「規矩術」「建築数学」「建築製
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図」
「施工法」
「鉄筋混凝土」
「鉄骨構造」
「建築材料」
「建築法規」
「暖房換気」
「電気設備」
「衛生設備」「請負制度」「住宅」「茶室」「社寺建築」「商店」「学校建築」「図書館」「病
院」「社会事業建築」「活動館及劇場」「工場及倉庫」「西洋建築様式概説」科外講義「装
飾概論」を受けて勉強をしていたようである。私が中学校を卒業して直ぐに父から前記
の教科書を手渡された。当時の私は教科書を受け取ったがあまり興味を持たなかった。
教員になる事が頭から抜け去った訳ではないからである。それに毎日が昼間働き夕方は
五キロの山道を徒歩で野田尻まで通学をしなければならいのである。定時制高校は、平
和中学校の教室を借りての授業であるので、今まで通い慣れた校舎なだけに中学校の延
長線みたいのものであった。ただ教員室が別棟であるところが違った。
山間地の生徒を集めての学校であるために、始業時間が午後六時からで四時間午後十
時でなければ終わらない。夜の山道を歩くのはいくら慣れた道のりであってもと最初は
懐中電灯を用意して出かけたのだが、先輩から「そんな物を持って歩くのは反って、歩
きづらいよ」と注意され鞄の中には入れておいたが、使う事はしなかった。
家に帰宅する時刻は午後十一時三十分である。毎晩祖母が待って居てくれた。出掛け
る前に夕食の仮食を食べているが、往復十キロの道のりを歩けば大変にお腹がすいてし
まう、祖母が煮込みうどんを作って食べさせてくれた。今七十六歳になっても煮込みう
どんが大好きである。今の我が家では煮込みうどんを食べることは絶対無理だ、何故な
らば、妻が日本料理を好まないからだ。昨年ユネスコで日本料理の味が無形文化財遺産
23
お
せ ろ ざ ん だいごんげん
に登録された。その事を考えてみても、日本の一汁三菜は世界中の方々から賞賛される
に至った素晴らしものなのに、特に味噌、醤油、昆布の発酵ものから作られた味は、人
間の体に与える栄養の働きを有効にし、世界の中においても、他に真似の出来無い一品
であると称された訳である。味噌や鰹節や煮干から作られた汁に生うどんを煮込んだも
のは何とも言い難い味である。食べ残した物を翌朝温めて食べることは最高の幸せであ
った。
「おべっとお汁」と当時呼んでいた。うどんが味噌汁にどろっと溶け込んで何とも言え
ない特別な味である。こんなことを書いても、理解してもらえないと思うが、貧乏農家
に生まれた方なら理解してもらえると思います。平和中学校での同級生が八人で「平和
会」と言う会を作り時々うどんを食べる会食を行っている。女性陣が手作りで作ったう
どんを煮込み、昔話を楽しみながらうどんを食べる味は特別なものだ。
こんな時私は必ず祖母の事を思い出しながら食べた。祖母は幼い時から大庭家に雇わ
れた女中さんの一人で、三人ほど女中さんが居たそうである。文盲であったが、計算や
物覚えは大変に素晴らしく「我が家の口承文学の大部分は」祖母からのものである。
我が家には守り神として「王勢籠山大権現」社が奥の間に祀られており、この神社へ
のお参りの仕方やお供えの仕方等全てが祖母から教わった。奥の間は男性しか入ること
が許されていないから、手前の部屋で教えてもらい、ご飯等は切り火(火打ち石を打ち
合わせて火花で清める行為)を行ってから、暗い部屋であったが、恐る恐る奥の間に入
24
ざる
り、言われた通りに拝礼を行い、お供えをし、灯明を消して奥の間から出るのであった
が、これが、大庭家のしきたりであった。五歳か六歳だったか定かに覚えてはいないが
大変怖くて緊張する任務であったように覚えている。祖母は手料理するのが好きだった
夏は酒饅頭をよく作った。精麦をした大麦で己の知恵で「麹」を作り、味噌の発酵に使
ったり、酒饅頭の発酵に使った、この発酵途中でとても甘い味のする時期がある。この
時に搾り取った液体を甘酒と称して瓶に詰め山からの湧水を檜木や杉を溝型に削って作
った掛樋で導水した水に付けて冷やし野良仕事の休憩時間午前は十時頃と午後は三時頃
飲ませてくれた。当時は甘味料が貴重な時代であったから、この休憩時間がとても待ち
遠しかった。この甘い味のする時期は非常に短い時間で、そこを過ぎると酒に変化しこ
のエキスが饅頭の元になるのだ。饅頭の餡は味噌餡が普通であったが、盆や秋祭りには
い
ろ
り
甘い小豆餡が作られて大きな笊に山盛りになっているのを見ると大変幸福な感じがした
ものだ。
又、祖母は、焼餅を作ることも得意とした。茶摘みとか、麦の脱穀、刈り入れ時とか、
結制度で大勢の人が我が家に集まるときには、午前、午後のお腹入れ(休憩時間の食べ
物)には大抵は焼餅が用意された。焼餅は事前の支度が少ないからであろうか?
小麦粉をお湯で練り、中に餡を仕込んで丸く三センチぐらいの暑さにし、鉄鍋で底浅の
大きな鍋(「ホウロク」と呼ばれていたと思うが、正確な名称が今思い出せない)直径が
八センチぐらいの大きさ餅を一度に八個ほど狐色になるまで焼く、それを囲炉裏のオキ
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(薪を燃やしたあとに残った赤赤した炭火のこと)周りの灰の中に差し込み香ばしくな
るまで焼く、これも田舎の味で懐かしい食べものである。
祖母のことで思い出すのが、私が三歳か四歳ころ手を引かれて近所を訪問したときの
ことだ。「足元に気を付けて石を拾いながら歩かなければ転んでしまうよ」「石を拾って
どうして持っていくの?」と私「石を拾って歩くとは、石の無いところを選んで歩くこ
とだよ」と祖母の説明であった。祖母から説明された事柄で現在でも良く理解できない
のは「石を拾う」という言葉である。広辞苑、ことわざ辞典、国語辞典等々で調べてみ
ても出てこない言葉だ。
「三つ子の魂百までも」で何時までも心に残る言葉である。昭和
十五~六年頃の田舎の道は狭くて坂道で小石がごろごろした道であった。
幼い頃から定時制高校を卒業するまで随分とお世話になって、いろいろな事柄おも教
わり、来年は喜壽を迎える年齢になっても祖母の面影は脳裏から離れない。
定時制高校の四年間は、よく勉強をしたなと今でも思い出す、昼間の仕事で疲れた時
でも「頑張らねば大学に行けない」と己の体に鞭を打ちながら、遊びは徹底して避けた。
当時遊廓制度が廃止になる法律が成立し、同級生の多くが遊廓に遊びに行ってきてその
成果についていろいろ語り合っている姿を見ても、一向にその様な事に興味を持つ事も
なかった。土工人夫、大工の手伝い、木こり、野良仕事で汗を流しながら「山中鹿之助」
ではないが「我に七難八苦を与え給え」の心境で毎日を過ごした。
やがて妹が中学校を卒業すると、東京都の小金井にある会社に就職をすることになり
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卒業と同時に家を出て行った。この時から私の考え方が少し変わり始めた。前にも書い
たがこの地区の多くの、いや全ての家の子供は、中学校を卒業すれば機織りの女工とし
て働きに出かける。
「生きることは働くことなのだ」
「家族を守ることは働くことなのだ」
と男女を問わず皆こう考えていたのだ。妹のことを考えると己の考え方は余りにも自分
本位ではないか?考え方を変えなければいけない、悩んだ、長男の責任もある。三人の
弟達のこともある。
「大学に行くのは諦めなければならない」何度も何度も考え直したが
結論は大学を諦める事しかなかった。当時の山梨県立都留高等学校定時制平和分校で三
羽烏は二級上の故守屋胸雄氏、一級上の和智杏一氏と私であった。守屋氏は既に芝浦工
業大学へ、和智氏も大学への進学を決めていた。
こんな時、平和分校の責任者であった水上静夫先生から防衛大学校に入学することを
勧められた、
「君なら合格するだろう、合格すれば公務員として資格を貰え給料を貰いな
がら勉強ができる。家計の負担にならなくて済む、但し、数年間は自衛隊勤務を命じら
れる。ちょっと心配なのは身体検査だ、身長がもう少し大きければなあ・・」私は悩ん
だ勉強はしたいんだが、その目的が教員になりたい、身長も百五十三センチで小柄な体
型であった。卒業して即教員になれない、等を考えた結果、先生には大変有難いことで
心遣いを頂いたけれどもこの話はお断りをすることにした。水上先生には一年生から四
年生まで四年間国語、文法、漢文等を教えていただいた。同先生は数年後山梨県高校教
師を辞めて、群馬大学教授になられた。著書も多く書かれておられて、同大学で文学博
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うっとう
士になられ中国古代文学においては、大変活躍をなされたようです。高校卒業後も同窓
会には必ず出席され本当に気さくなお付き合いを頂き大変幸福な思い出が心に刻まれて
いる。先生の書かれた本で今現在私の書棚に並んでいるのは、
「岩波国語辞典」と大変分
厚い「甲骨金文辞典・上巻」
「甲骨金文辞典・下巻」及び「甲骨金文辞典別巻」だけであ
るが、私の宝物である。私はとうとう教員には成れなかったが、地方公務員として生き
てきた(このことについては後刻に述べる)上野原土地改良区参事として六十九歳迄努
めたが、晩年は、脳梗塞や心筋梗塞を患い、更に大腸癌までも患ってしまう始末、家で
お お ば みくりや
ぶらぶらしているのは家族から見れば非常に鬱陶しい限りであると言う雰囲気を感じて、
パソコンを使い、随筆、短編小説、過去の写真を整理しながら思い出を俳句にして写真
帳を作ったり、思いつく事柄を文章にしてみたり、和見における「大庭性の由来」を文
書化する中で、ペンネームを考えた結果、大庭性は桓武天皇の別れの一族であることが
分かり、その中で大庭御厨の始業者鎌倉権五郎景正坂東八平氏の一人「鎌倉党」或いは
「大庭党」と書かれた歴史書もあるが、ここから「鎌倉」を性とし、名を「靖」と定め
た。作家 井上 靖先生から頂きました。先生の先品は何作か読まして頂きましたし、い
まは故人となられた水上先生の大作の「甲骨金文辞典」上巻三頁に「甲骨金文辞典」の
上梓を喜ぶ 作家 井 上 靖を読むと水上先生の長年の研究を大変に評価している。改
めて水上先生の偉大さに感激し、井上先生には大変申し訳ありませんが、名前だけを拝
借させていただきました。
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今まで書きました書物は、今書いているのを含めると十四本(短編が多いが)になり
ますが、出版する価値も無いし、お金もなく読んでいただける方がおれば、その時点で
己の手で印刷をし、製本をしてお届けを致しております。水上先生も故人となられ平和
分校の同窓会で野田尻の熊埜山西光寺にある霊園に平和観音像を建立して先生の安眠を
お祈り致しております。
29
己の生き方を決めた背景
高校生活も残すところ一年を切った時、父親の態度に変化が感じられた。大工仕事の
中でも墨つけ作業は、相当年季の入った者だけに任せる仕事を私に手伝わせる様になっ
たり、曲がりくねった木材や、凸凹の面白い形をした木材に真墨の出し方を教えたり、
また反面町役場に就職出来るような手蔓を探したり、現在の大学三年生が行なっている
ような就活まがいの動きを始めたのだ。私の心は己の生き方に焦りと心配と父の心境を
考えると一刻も早く己の態度を明確にしたほうが良いと判断をして、父から渡されてい
た前出の「帝国工業教育会」の通信教育で「西洋家屋構造」「日本家屋構造」「規矩術」
「建築数学」「建築製図」「施工法」「鉄筋混凝土」「鉄骨構造」「建築材料」「建築法規」
「暖房換気」
「電気設備」
「衛生設備」
「請負制度」
「住宅」
「茶室」
「社寺建築」
「商店」
「学
校建築」「図書館」「病院」「社会事業建築」「活動館及劇場」「工場及倉庫」「西洋建築様
式概説」科外講義「装飾概論」を時間の許す限り使い読破すると共に、当時父が加入し
ていた日本建築士会連合会の機関誌で募集していた「通信教育講座」建築士教室に入学
した。この教室は随時入学ができ、前期六ヶ月がテキストで勉強し、後期六ヶ月が模擬
試験添削で試験に合格すれば一年で終了であった。学費も年払いすると二千六百円で済
んだ。当時の大工の賃金は、父の支払明細書の記録を見ると、父本人の日額支払いは一
30
日当たりが六百円とあり、弟子たち(年季明けや、職業訓練所卒業者)が日当五百円、
私が一番下で三百円の記録が出て来ている。因みに私は大工での日当は手にしていない。
恐らく生活費に回ったものだろう。大工仕事の暇なときには、道路工事の人夫として働
いた、この日当は一人前の人夫で二百四十円であった。
「一般にニコヨン」と呼ばれてい
た。私などは、定時制高校に通うために、五時で終了のところを四時半で仕事を上がら
せてもらうために四十円割り引かれて日当二百円で働いた。道路工事の日当は直接私の
手に渡るのでこれらの金で学費を賄った。定時制高校での学費は日本育成会の助成金を
受けていたので大変に助かった。これも水上先生のご配慮であったことは言うまでもな
いが。雨天の日は道路工事も、大工仕事も休みが多かった、こんな日は朝から勉強に励
んだ、高校の勉強より建築の勉強の方が遥かに難しかった。私が学問で一番苦手なもの
が、造形である。建築で一番手を焼いたのが設計製図であった。
大工仕事では、設計図と言えば大きな平板に平面図を描いた物だけで、矩形図など描
かないで、三十三ミリ角(又は四十五ミリ角)の尺棒に全てが書き込まれており、棟梁
の頭の中に有り(父の考えがどの様な建物を描いているのか判断に苦しんだ)現場で尺
棒に手を触れるのは、兄弟子の手前慎まねばならないし、建築士教室から送られてくる
テキストは建築設計製の理論的なものばかり、毎日の仕事は田舎作りの家屋ばかり、今
考えれば私自身の応用力が欠けていただけのことだが、当時は大変に悩んだ。
「だが、悩
むことは成長を促す」
31
自宅の縁の下には、父が過去に請け負った家の尺棒が何本も眠っていることを発見し
たのだ。雨天の日にはこの尺棒(尺杖とも言う)を引き出し、記入されていることを細
かく調べることにした。この印が敷居の高さ、一階の床高、二階の床高、この印が鴨居
の高さ、これが貫印、これが鴨居の印、と分かってみれば何のことはない、矩形図の全
てが一本の尺棒に明記されているのだ。図面を持ち歩いて墨つけをするより、合理的だ。
この頃水上先生から「多くの本を読みなさい、特に小説は人の心を広くしてくれる」
と指導された。教科書は全体を一読し、通信教育のテキストは理科が出来るまで何回も
読み直した。その合間を見て学校の図書室から長編小説を選んで何冊も読んだ。特に記
憶に残っているが谷崎潤一郎の「細雪」だ、思春期の私に大きな刺激を与えてくれた。
大学に進学することを諦めた私に、一つの目標を示唆してくれたのが、幸田露伴の「五
重塔」だ、大工の職人として、
「根性」と「意地」を持って、体を張って「五重塔」の建
設に取り組んだ姿に我が身を置き換える幻想を覚えたのである。「柔よく剛を制す」「五
重塔」の真柱の理論に心酔したのである。嵐の夜寝ずに塔の安全を己の考えを信じて塔
に登り「この塔が壊れた時は己の命が終わる時だ」と見守った大工の「のっそり十兵衛」
に惚れ込んでしまったのであった。もう学校の教員になる考えは私の心のどこにもなか
った。もう建築構造の事でいっぱいであった。今現在でも構造計画には心が引かれてし
まう。東京のスカイツリーが安定している事の重要な考え方は「真柱の理論」に基づい
ていることは多くの人が認めているとおりであり、だから成立しているのだ。
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くさび
定時制高校を卒業して約一年間は父と二人での大工仕事が多かった、
精米、精麦、製粉は前出のとおり、農協で行われるようになったが、地域によっては水
力を利用した水車小屋を大事に考えている地域があった。芦垣地区では上車、下車と二
箇所の水車小屋があった。当然使う人々は分かれていたが、この二箇所の水車小屋の大
輪巻工事を父が請け負った。大輪巻工事は、杵や引き臼を回す原動力を生み出す水圧を
受け回転軸に伝える大きな水車の事だ、全ての材料を松材で作る、松は常に水に浸かっ
ていれば非常に強く長持ちがする。水に浸かったり乾燥させたりを繰り返すと、直ぐに
腐食をしてしまう。木材を使っての車輪であるから、幅の広い大きな板に円弧を描いて
切り抜いて作ればそんなに難しい工事ではないと素人の私は考えていた。しかし、父は
松林を歩き回り幹の曲がり工合と太さを選びその樹を求め山から切り出し、これを製材
し円弧にしたのである。車輪は水圧を受ける為のものであるから両面の板の間に水圧を
受ける升状の装置が必要である。車輪と回転軸の繋ぎは松材の角柱を使い、回転軸は正
八角形である。従って繋材は十六丁必要であるし、車輪の円弧材も十六枚これらを金物
無しで 楔 締めて大輪にするのだと言う。父はこう言った「こんな仕事は今後必要なこと
は無くなるけれども、先人たちが考えた技術でもあり、知恵でもある。今度の二箇所の
仕事で終わりと思うが、覚えておいても重荷にはならないから、よく覚えておけ」
今から考えると大変貴重な教えであったと考えている。この件で付記したいことが最
近出来た。平成二十六年(二 一
0 四年)二月十四日から十五日早朝まで降り続いた記録
33
的大雪は上野原の自宅でも一メートル二十センチは積雪していた、数日間は自宅周りの
積雪処理に当たらねば生活が出来無い状態であった。この積雪でこの付近の車庫が潰さ
れて自動車までも被害が出ている。和見の家のことも心配になるが、標高が高いので積
雪量はもっと多いであろうが、道路の除雪が終わらなければ行くことができない。数日
後道路の除雪が出来たとの知らせで和見に行ったが、屋敷入口で屋敷内には積雪のため
自動車を入れる事は出来なかった。一日掛りで入口の除雪作業を行い漸く車を屋敷に入
れた。
プレハブの物置の屋根が壊され中の農具は水浸しになっていた。更に私が育った家は
全壊状態に潰されていた。その日から数日間和見に毎日通い、家の解体工事をしなけれ
ばならなかった。この工事の廃材の中から見つかったのが、父と私で工事をした芦垣の
上、下水車小屋の大輪巻工事の原寸施工図版だ。これは、積雪での損害よりも私にとっ
ては大変に大きな宝物を得た価値のあるものだった。最近は観光施設として田舎へ行け
ば見かける施設であるが、私には大変興味のある構造物である。
「父からよく覚えておけ」
と言われたが、その技術を今できる自信は全く無い。山村地域の土産物として水車小屋
のミニチヤを開発しても素晴らしいことであるし、又、その技術を継承することも大切
であるし、水力を日々の暮らしに利用した証拠を子孫に伝えることも大変に意義のある
ことだとも考える。見つかった施工図版は、松材の車輪の円弧材に墨付された物で、実
際に使われた板そのものだ。松材の幹の曲がり具合を見極め、木材の木目を有効に活用
34
よ
そ
した気取りには先人たちの知恵が生き生きと反映されている。一般の方々にはたかが田
舎の昔の水車小屋と思われるかもしれないが、私にとっては途轍もない宝物を授かった
思いがしてならない。埃を払い水洗いをし、壊されなかった物置に丁重に保存した。
今の大工さんに水車小屋を建築してくれと発注しても何人の大工さんが「私が請け負
いましょう」と言える人がいるでしょうか?木取り、木目の利用、材質等々考えれば恐
らく数人になってしまうでしょう。大輪は鉄製にしてしまうとの可能性が大きい感じが
いたします。父が残しておいてくれた円弧の原寸図を得た私には実現できる可能性を強
く感じております。
話は変わるが、父は私が大工になると心を決めたのを他所に、昭和三十五年二月に上
野原町役場の職員採用試験受験の準備を整えていた。同役場には定時制高校の一年上級
の先輩水野さん(女性)が就職をしていた。また、普通科を出た同級生の和智さん(女
性)も就職していた。父の本当の心は私が跡を継いで大工になることを望んで要るはず
なのに、なぜ?と思いながらも受験した。受験は、第一次試験は学科試験で、第二次試
験は面接であった。結果は第一次試験の学科試験は合格であったが、面接試験は不合格
であった。同年四月十日付けで臨時職員としての採用通知が来た。当時の私は労使関係
の問題は全く解らなかった。今考えると現在の(平成二十六年、即ち二 一
0 四年)契約
職員と同じ扱いの採用であった。
同じ試験を受けての採用者は、既に職員としてスーツの襟元に職員バッチを付けて担
35
当職場で活躍をしていた。十日間の差が大変大きな違いを感じながら務めなければなら
ないのと正規職員ではない立場の差を痛感しながらの勤めが始まった。
仕事場も庁舎ではなく、別棟の消防車庫の二階でであった、仲間は五人、男性二人、
女性三人の計五名であった。皆同じ試験を受けた人たちだった。仕事は土地名寄帳再整
備であった。当時は上野原に法務局区の上野原出張所があったのだ。町民の方には登記
所と呼ばれていた。そこに行き登記簿の閲覧をし、一筆ごとに大字名、小字名、地目、
地積、所有者名、同住所の個票を作成する仕事である。書物には慣れていたが、文字を
書くことが仕事になった、今までの仕事としては全く共通点がなく一日が途轍もなく長
く感じられたことを思い出す。正規職員は五時で終了し、五時十五分のバスで帰宅する
ことが許されていた。臨時職員は、終了時間は法規通り五時十五分迄まで仕事をしなけ
ればならなかった。次のバスは六時過ぎで約一時間の待ち時間があった。でもホットす
る部分もあった、前のバス乗れば、同じ甲東地区から来ている役場職員の皆さんと顔を
合わせないで済むことだ、臨時職員で通勤している身分の違い視たいな感じを受けるの
は耐えられない屈辱感を私はもって居たからだ。天気の良い日には歩く事にした。一時
間歩けば芦垣下の和見入口迄行き着ける。和見入口から自宅まで約四キロこれを約四十
五分で歩いた。朝は和見入口からはバスを利用した、朝のバスは大変な混みようであっ
た、大倉下では完全な満杯状態になり、足を踏まれたり、人の足を踏んでしまったりの
通勤でいくら若いときの事でも自宅に帰ればくたくたに疲れたことを思い出す。
36
五人の仲間は、私が昭和十三年生まれ、木下君は十四年、女性三人は十五年生まれで
あったが、皆が同級生のような感覚で付き合えた。登庁して出勤簿に押印して百五十メ
ートル程離れている登記所に行き事務所内の掃除をして登記所職員の方の登庁を待った。
登記所職員の方々は二人であったが、皆国中地方(甲府盆地)のから通勤者であったか
ら登庁時間が多少遅かった。私たちの掃除が終わる頃の出勤である。
土蔵造りの書庫が開けられ私たちの仕事が始められる。仕事は難しいものではなかっ
た。ただ氏名の中には変体仮名で書かれたのが時々あることだった。
仕事は順調に進み、庁舎別棟の消防車車庫の二階事務所には登記簿を基にした土地所
有者個票の山ができた。今度はこれを所有者名別に集計する仕事が待っていた。
現在であればパソコンを使ってエクセル等のソフトで簡単に仕訳が出来るが、昭和三
十五年にはパソコン其の物がなかった。大変時間のかかる仕事であった。
五人は協力し合ってこの編集に励んだ。年が暮れ新年が始まった、ここでおきな変化
が生じた、三人の女性の二人が正規職員に採用になった。残った女性は他の職場を求め
て辞めてしまった。残った木下くんと私の土地名寄帳再整備の仕事も二月一杯で終了し
た。この仕事の所管は税務課であった、仕事が片付いた日の午後税務課長から「これか
ら一緒に食事に行こう」と誘われ近くの料亭に連れて行かれた。
「二人には大変頑張って
もらった、なんとか年度内採用が出来るよう頑張ったが、わしの力ではどうにもならな
かった、申し訳ない。新年度の採用試験も行われてしまった。もうすこし頑張ってみる
37
が当てにしないで欲しい」と言われて二人共愕然としてしまった。返す言葉も無く目の
前が真っ暗になってしまった、一年には満たないが準公務員として働いてみると今日で
この仕事から離れねばならないと思うと寂しさと無念さが込み上げてきてやり場のない
気持ちをどの様に処理していいのか解らなかった。家に帰り此の事を話したが父母は何
も言わなかった。祖母だけは、
「勤め人だけが仕事じゃないよ」と言い、寝間に入ってし
まった。
それから数日の間、もやもやした気持ちで過ごした。人間とは不思議な動物だな、僅
か一年足らずの生活が、己の体に染み付いてしまうとそれがあたかも既得権である様な
錯覚を起こしてしまい手に負えない感情を抱いてしまう。
小さな集落であるから直に地域の話題になるだろう!こんなことを考えながら、焚火
置き場を覗いて見ると、私が勤めている間、薪集めを母が集めており、日曜日に私が手
伝うだけだったので少量の薪しか保存されていなかった。当時は「もう戦後ではないよ」
と言われ始めていたが、燃料は薪が主体で、プロパンガスも無く電力も乏しかった。
当時の甲東地区のおいては家の周りに薪が沢山積まれた家が「工面がいい家」と言わ
れていた。工面がいいとは・・金回りがいいと言う事だ。女性が山で薪を集めるという
作業はそう簡単なことではない。大概が近くの杉山で杉の木の枯れ枝が落ちたのを集め
るぐらいだ。
「そうだ、大工の仕事を始める前に薪を集めなければ、夏になれば薪集めは
難しくなる。今ならば雑木林で枯れ立木を集めるにはもってこいに時期だ」と考え薪集
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し ょ い こ
なた
めをすることにした。背負子へ手曲がりノコギリと鉈を差し込んで家を出てさき尾根(正
しくは(堺尾根)和見地区と野田尻(棚頭)の境にあたる尾根を和見地区の人は皆さき
尾根と呼ぶ著者の作品「松姫物語」では、和見峠と名付けて扱っている。片道一時間ほ
どかかった。
(現在では県営林道が開発をされ十分で行けるが)そこまで行くと県有林で
広い雑木林があり、林の中には立ち枯れをした木が沢山ある往復の時間は掛かっても枯
れ木を集める時間が短くて済む、又、峠から見る上野原町の風景が素晴らしい。十日ほ
ど前まで通った街を見ていると懐かしく思えたり、切なく思えたり複雑な気持ちになっ
た事を思い出す。枯れ木を一箇所に集め、長さを六十センチに揃え直径五十センチ程度
の束をクズ藤蔓でまるき、これを三個作る。これを背負子に括りつけて家まで運ぶ、こ
れが半日の仕事である。
一日で六個の巻束が家に貯まることになる。家の仕事には休み日はない。こんなこと
を数日して過ごして居たら役場から採用通知が届いた。
昭和三十六年四月一日職員集会が第一会議室で行われた。新採用者は八人ぐらいだっ
たと記憶している。木下君もいた、集会が始まる前に人事担当者から呼ばれて「今日大
庭さんに代表して宣誓書を読み上げてもらいたい。」と言われて先に提出してあった私の
宣誓書を手渡された。採用者の姿を見ると私と木下君以外は皆この春高校を卒業した者
ばかりである。だから一番年配者に宣誓の役割が回ってきたのだという事が判断できた。
職員集会においては本庁職員は全員と支所関係や他の出先職場では各職場長が参加を
39
薫
印
義務付けられている様である。最初に辞令交付が行われた。
新採用者は、前列に八名が横列に並ばされた。
個々に呼ばれ採用辞令が手渡された。次に宣誓書の朗読である。
宣
誓
書
私は、ここに、主権が国民に存することを認める日本国憲法を遵守し、かつ、擁護す
ることを固く誓います。
私は、地方自治の本旨を主体するとともに、公務を民主的かつ能率的に運営すべき責
務を深く自覚し、全体の奉仕者として誠実かつ公正に職務を執行することを固く誓いま
す。
昭和三十六年四月一日
大庭
と朗読し、本書を町長に手渡し 一礼 三歩下がる。
辞令拝命者は回れ右をし、全職員と互礼を行う。
この後、昇任昇給辞令及び配置替え辞令の交付、町長訓示等々で職員集会は終了した。
私は、甲東支所に任命され、条件付採用で六 ケ月間(新規採用された者は全て六ケ月間
の条件がつき、勤務成績、勤務状態の条件がつく)従って十月一日には昇給辞令が出て
正規の職員になる。この後は、四月組、六月組、十月組、一月組に分けられて一年に一
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号の昇給が発令される。辞令を見ると月給が七千円とあった。
臨時職員の時は、月当り出勤日数で金額が決まり六千円以下であった、随分と違う。
わたしは、早速甲東支所長の尾形支所長を探し、挨拶に行った。支所長から「次のバ
スで一緒に甲東に行こう」と言う事で甲東支所へと向かった。
これで己の進路が決まった。長い道程であったような気がする。定時制高校で一年の
ロス、大工仕事や道路人夫、その他諸々の事でのロス、臨時職員の期間のロス、考える
と大変遠回りをしてきた、今回採用の同期生は私よりはるかに若い、しかし、この遠回
りの中で身につけた知恵は必ず私の人生の中で役に立つはずだ、必ずそうなるとプラス
思考で行こう等とバスの中で考えながら、甲東支所に着いた。
この当時の甲東支所は、支所長の尾形さん、主任クラスの和智さん(女性)、業務員の
雨宮さん、と私で四人体制であった。それに森林組合の白倉さん、養蚕指導員の名島さ
んが同じ事務所の中で仕事をしていた。それぞれの方に挨拶をし、前任の守屋さん(女
性)から事務の引き継ぎを受けた。職歴は守屋さんが当然先輩であるが、守屋さんは私
の妹と同級生である。平和中学校で言うなら私の二つ下の後輩である。
住民登録事務、衛生関係の事務、この年から始められた拠出性国民年金事務、老齢国
民年金事務、一般窓口事務等々かなり多くの事務の引継ぎを受けた。喜寿を来年に迎え
る私の記憶からは全てを思い出すのに時間がかかる。
私の人生の多くの時間を費やした職場の第一日目の記憶である。
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地方公務員としての記録
甲東支所は、甲東小学校のすぐ傍に有り、同校の隣が甲東農業協同組合であり、民家
が一戸あってその一段上がった所に位置していた。町村合併で上野原町になったが、合
併前の甲東村役場が甲東支所に為ったのだ。通勤は徒歩で通った、ちょうどこの頃妹が
東京の勤めを辞めて、小学校に隣接している渡辺家で編み物機での編み物教室が行われ
ており、これに通っていたので、兄妹が揃って通勤、通学をした。
本庁職員は、通常採用されて暫くの間は、上野原町例規集の分厚い冊子を与えられて
これの勉強をしながら先輩職員の指導で担当事務を覚えるのが通常の様であるが、支所
職員は員数が少ないので、上野原町例規集があっても、担当する仕事が発生し例規集を
手にする時間が無かった。それに、この年から拠出制の国民年金の保険料納入の施行が
始まり、これへの実施を実行する作業が住民全体に認知されていない部分と更に、終身
全額納入制度があって、被保険者手帳をどのように扱うかについて、前任者も全てを理
解していない部分もあり、私も窓口事務の未経験者であったことから、その戸惑いは非
常に大きかった。「国民年金事務取扱説明」を自宅へ持ち帰り夢中で勉強をした。
昭和三十六年当時は、現在のような情報通信技術(ICT)は無く、連絡手段は電話
のみで、ファックスさえ無かった。本庁の年金担当をしていたのが、木下君と同級生の
42
阪本氏であった。彼は順調に就職できた組で既に数年の経験者であって、更には大変頭
の良い方で、年金事務に精通していた。電話で教えて貰ったり、私の手違いで迷惑をか
けた事を思い出す。懐かしい思い出である。最近は年金の保険料納入は社会保険事務所
からの国民年金保険料納付書でどこの金融機関でも、更にコンビニでも納入出来るよう
になったので国民の皆さんに取っても大変便利になった。五十三年間の経過の中で社会
の変化は大きく変わった。昭和三十六年当時の保険料納入は、個人が己の年金手帳を持
参し、役場で年金印紙を購入し(三十五歳以下は月百円を三十五歳から六十歳までの人
は百五十円の年金印紙を購入して手帳に張り付けて)検認を受ける。実際には、手帳と
現金を窓口に提出して、担当職員が出納職員(支所の場合は支所長)から年金印紙を頂
き手帳に張り付け検認を押印し、検認票の作成をし、被保険者に手帳を返して保険料の
納付手続きが終わるのである。検認票には、被保険者名、被保険者番号、納付月名、月
数、金額等々間違いの無いように点検をしなければ大変な事になってしまうので大変な
神経と時間を必要とした。現在の様に情報通信技術(ICT)が進歩すれば金融機関で
も、コンビニでも全てバーコードで処理が出来、更に、間違いなく処理が出来てしまう。
今朝の山梨日日新聞の「風林火山」(平成二十五年五月十八日)「急速に進む教育のデ
ジタル化に不安も覚える。ただでさえ、スマートホン所有が低年齢化し、ゲームに興じ
る。そんな一日を想像すると心配になる。成長期の目や脳への影響は大丈夫か。十三年
度学校保健統計調査によると、裸眼視力一・ 0未満の高校生の割合が六十五%と過去三
43
すべ
十五年間で最悪という。十分な検証がないまま、幼少期からデジタル漬けになれば、使
いこなすつもりが、逆に支配されかねない」又、
「情報通信技術(ICT)教育普及には、
節度を守り、便利な道具を有効に使いこなす術から身に付けさせたい」とある。私も同
感であります。著者作「自己反省から出た言葉」に一言として「人々を取り巻く環境の
中で自然を取り除けば、科学の中に埋もれている。それが良い事でもあり、悪い事でも
あるのに、己の力で脱出することは出来ない」私の生きてきた人生の反省として己の力
ではどうにも出来ない一つであります。
さて、社会が日々進歩する事は、誰しも望むことであるが、この進歩についていけな
いのが、年を得た老人たちである。これに対処するためにと、国、政府、行政は種々の
政策を研究、検討を考え打ち出してはいるが、社会の変化や、現象に対応が出来かねて
いるのが実情であると思える。
就職当時の一部を思い出しただけでも、現状から見ると大変に大きな変化がある。
保存しておいた資料を基にした内容で記憶を辿るが、甲東支所は尾形支所長を始め森
林組合の白倉さん、養蚕指導員の名島さん、和智さん、雨宮さん皆さんが家族同様の付
き合いで日々の仕事を処理していた。私は、ここに三年間滞在した。その間和智さんと
守屋さんが入れ替わる人事異動があり、更に守屋さんが再び本庁に配置替えとなり、新
任採用の中村さん配属となって、私の仕事が和智さんや、守屋さんがしていた戸籍事務
を中心とした仕事に変わった。この間私は父の手伝いとしていた大工の時勉強をした建
44
築の勉強も公務の勉強と合わせて続けていた。父に送られてくる機関誌「建築士」の中
での二級建築士試験案内を見て受験を試みた。試験日は暑い夏日の日であった。
試験場所は甲府の県立「甲府工業高等学校」の教室で行われた。
合格発表は秋になったが、右記のとおり昭和三十八年十月十五日二級建築士免許証が
45
登録となった。これに先立って、幼子の時から可愛がってくれたり、色々教えてくれた
り、バックアップしてくれた。祖母の大庭ハルが昭和三十八年六月二十三日に亡くなっ
た。戒名「萬涼院霊光治静大姉」享年七十四歳だった。私にとっては淋しい年でもあっ
たり、又、祖母が天国で応援してくれたのかもしれない二級建築士の資格取得の年とな
った。祖母は前年脳梗塞で倒れ、甲東診療所の医師の往診で治療を受け、帰郷をしてい
た妹の看護で自宅での治療であった。その頃は上野原町には入院治療は私立の三浦病院
ぐらいしかなく、自宅で往診をしてもらい、後で私が役場の帰りに、診療所で薬を貰い、
自宅で妹の看護であった。当時は救急車もなく患者は、戸板か篭に乗せられて医院まで
運ばれて治療を受けた。病人が出ると隣組の人々が集まり、戸板に病人を乗せ、或いは
篭に乗せて代わり番で篭を担いで近くの医院まで運ぶのだ。著者も一度だけではあるが、
篭を担いだことがあるが、身長が低いので坂道を上がる時は、前棒を担ぎ坂道を下る時
は後棒を担いだ、篭を担ぐ時は篭の揺れを少なくするために、前棒と後棒は互いに掛け
声を掛けながら、呼吸と足運びに細心の注意が必要である。この作業も「結制度」で行
われていた。
祖母は寝たきり病人になり、口も聞けなくなり、看病は大変であったと思う、妹もよ
く頑張って祖母の面倒を見てくれた。妹がいなければ祖母の意思が何を望んでいるのか
他の者には判別が付かなかった。食事から「下の世話」まで全てが妹の担当になってい
た。約一年の闘病生活であった。父は軍隊では「衛生兵」であった、妹に色々アドバイ
46
スをしてくれた。父が祖母の背中を撫ぜながら「般若心経」を唱えながら涙声に変わっ
たのを聞いて私は祖母の最後を悟った。午後九時頃であったと記憶している。医師を呼
ぶような状態では無かった。無性に涙が流れた。祖母は天国へと旅立った。家族全員が
祖母の周りに集まっていた。現在のように電話もない。他所への連絡は明日になる。父
が妹を指導しながら祖母の遺体の頭を北向きに変えた。
この年の十二月町議会で町営住宅管理の問題で管理不十分が指摘され、当局答弁で町
職員の中に建築士試験合格した者がある。建築知識の豊富な者に、住宅管理の担当に当
たらせるとの答弁がされた。これは尾形支所長から「大庭君、君が二級建築士に登録さ
れたことが県広報に載ったのを人事担当者が見ての町当局の議会答弁だ、従って四月に
は本庁に異動される。心の準備をしておく様に」と言われて異動が行われること、次の
仕事の内容がはっきりと判断できたこと、事務職から技術職に職種変更される危険性が
あることが判断できたこと、技術職に職種変更されることだけは、御免被りたいと祈る
ばかりであった。私は二級建築士登録をしたことについて、任命権者に報告をしていな
かった。職種変更を恐れたのだ。
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本庁勤務になってからの心の変化
予測通り、昭和三十九年四月一日本庁財政課財務係りに異動が発令された。財務係の
事務分掌に町営住宅の管理が含まれていたのだ。職種変更は免れた。①職務は物品等の
調達及び発注、契約、②町営住宅の管理である。
驚いたのは、町営住宅入居者組合が結成されていたことである。前任者からの事務引
き継ぎで幾つかの問題点があることを認識した、公営住宅法、借地借家法の勉強を早急
にしなければならない事、住宅管理の実態の現地確認を早急にしなければならない事、
日常欠かすことの出来ない飲用水が井戸水であったこと、私が就任した時には上水道に
切り替わっていたが、水栓が認められているのは、台所と風呂場の二箇所だけであるが、
住宅そのものに浴室が設計されていない事、台所側にある出入口の狭い場所に、風呂桶
を置き浴室としている状態であって、排水設備の不十分な設備である事等、前任者に連
れられて各団地を視察した時、住宅管理の問題点と多さに驚いた。父と一緒にやってき
た住宅建築と町営住宅の規模の小ささと、柱の細さに驚かされた。昭和三十年代になっ
て、もう戦後ではない、と前に書いたが、住宅問題はまだ別であった。戦後と言わなく
てはならない状況そのものである。低所得者で住宅困窮者を救うために定められた公営
住宅法に求められた地方自治体営の住宅であって、第一種、第二種住宅の区分に分けら
れており、床面積の大きさに違いがあった。田舎大工の父が私に跡を継ぐのを積極的に
進めなかった理由も、この辺にあったのか?父の考える建築は、二百年や三百年は使用
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に耐える建築物であって、耐用年数が二十年や三十年の建築物は父の好む建築物ではな
かったのだ、時代の変化を見据えた父の判断が私を役場に就職するよう働きかけたのか、
と自分が現場を持つときになってようやく理解できた気がした。
住宅入居者組合との話し合いがあり、更に重大な問題を抱えていることが、あること
に気付いた、それは、建物の耐用年数の二分の一を経過した団地の払下げ要求だった。
この件は、既に、町当局と組合とが合意されていて、実行が成されていないことであ
る。法律や地方自治体が定める条例等は、情勢適応の原則、応益負担の原則に基づいて、
常時改正が行われなければならないが、国民や住民が此の事をよく理解しているのかと
言うと、事実は全く知らないでいると考えた方が良い。
町当局と組合が合意をして実行がなされていない理由を調べてみると、公営住宅法の
解釈の違いにその原因があった。公営住宅法は昭和二十六年六月四日法律一九三号とし
て公布され、その後昭和二十七年八月、同三十四年五月、同三十五年四月に改正がされ
ている。当然それ以後も改正が行われているが、私が前任者から引き継がれたのが同三
十九年四月一日であるから、既に三回の法律改正が行われているのだ。入居者は公営住
宅法が制定される当時の世評の知識で判断をして、十年以上そこに住んで居たのだから
無償払い下げがされる物であると考えていたのであろう。ところが現実は、土地は不動
産鑑定士が鑑定した価額で建物は、推定再建築費を基準とした物でなければならないと
なり、物別れになり、未解決になってしまった。組合側からこの解決を強く迫られた。
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必要は発明の母での諺とおり、この問題の解決に向けての研究に取り掛かった。公営
住宅法の猛勉強をしなければならなかった。古い町営住宅の老朽状態を調べれば相当に
疲れた住宅が出てきた。住宅の維持管理については、父の友人から大変助けられた。
親の七光りとでも言うか、余り金にもならない汚い、台所の改修、トイレの改修等快
く引き受けてくれた。払い下げの件についても、当時は建設大臣の認可が必要であった
が何回かの指導を受けながら、建設省への説明をも同省に出向きなんとか得る事が出来
た。どの団地も五戸から十二戸の小さな団地ばかりだった。思い出してみると、鶴島団
地五戸、桜ヶ丘団地五戸、関山団地五戸、大塚団地十二戸、下新町団地八戸、本町団地
十二戸、外城団地十二戸、羽佐間団地十戸だったと思うが記憶に誤りがあれば御免被り
たい。前任者からの引継ぎの一番大きな問題の解決はこの払い下げ事務が完了した事で
一応解決したが、この払い下げの条件として新しい団地の建設が義務つけられていた。
これらの事務処理を行う中で役場の内部では機構改革が行われ、町営住宅の管理や建
設は財政課から建設課へと変わった。用地の選定と土地買収そして設計、目が回る様な
日々であった。この生活の中で法律とは、不易流行であり、情勢適応の原則、応益負担
の原則について身をもって勉強した。そして保健衛生課の簡易水道係へと配置替えで移
動しその経過は、前述下とおりである。
この間に、職場における仲間たちが、高卒後大月市立短期大学の二部に進学し、更に
はそこを卒業して東京経済大学へ編入学して学位を得ている事を知り、己の怠慢を反省
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した、既に定時制高校を卒業後数年の歳月が流れていた。今からでもと思い、幸い高校
でお世話になった、水上先生が上野原に住まいを構えていたので、先生を訪ねて相談を
した。先生曰く「大庭君、勉強は早い、遅いはないよ、私だって、今も勉強を続けてお
るよ、大月短大なら、私が推薦状を書いてあげよう、大庭君なら大丈夫だ!」とここで
も水上先生のお世話になった。昭和三十九年四月入学手続きをして大月短期大学に入学
した。経済学部経済科だった。同期生は、高卒したばかりでの皆さんで、皆さんからは、
どこかのおじさんが入ってきたと思われたことだろう。二年間自宅、役場、大月短期大
学そして自宅をバイクと電車で通った。
昭和四十一年三月同学を卒業、この頃山梨県内で一番給料が安いと言われていた上野
原町役場での自治労上野原町職員組合役員の一員に加わった。私の年齢も二十九歳にな
ろうとしていた。当然青春時代は終了していた。結婚を前提に付き合っていた女性もい
た、又、私を好いている女性の居る事も知っていたが、私には、付き合っている女性以
外の人のことは考えられなかった。私は長男であり、家も貧乏ではあるが、遠い昔から
の歴史ある名家でもあるので、家を出て和見以外で生活をする事なぞとんでもない事と
考えていた。
今現在来年は喜寿を迎える年齢になると、当時の己が器の小さい人間であった事かと
思えてならない。三十六年前には、限界集落なんて言葉もなかったし、経済成長が進み
益々田舎は、生活に最も適した場所になると考えていたのであった。
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すみか
上司で課長の小俣さんから再三に渡り、結婚についての話がされる中で、遂に私の腹
の中を打ち明けて、どうしても、彼女と結婚をしたい。と打ち明けた。
早速小俣課長は行動を起こしてくれた。私も彼女に話をした。小俣課長からの報告が
あった。
「大庭君本人には問題がない。だが和見に住むことに問題がある。相手側のお母
さんが和見で無ければ問題が無いが」と言う事だ。この報告を聞かされても私はまだ和
見に拘った。その翌日私は、彼女と連絡を取り車で彼女の家まで送ることを約束し、車
の中で色々話し合った、彼女は「お母さんに反対されては結婚できない」との結論にな
ってしまった。私は悩んだ挙句、この話を小俣課長にした、小俣課長は、見合いの話を
既に用意してあった。見合いをした。でもこの話は見込みのない話であった。邪魔をす
る人が居たからだ。直ぐに次の見合いが待っていた、この話は、小俣課長の親戚の方で
こだわ
やはり、住処が和見では困ると云う事であった。小俣課長の「大庭君、女は結婚すれば
変わる。子供ができれば、和見でもどこへでも行く、心配するな」私は悩んだ挙句見合
いをする事にし、見合いした。その相手が今の妻である。見合いして話がまとまると、
トントン拍子で挙式までの日程が決まってしまった。
私の方は、住まいを見付けるのが、大変に忙しかった。幸い役場の隣接地にあった真
新しい住宅を借りることが出来た。私の父母も反対もなく、
「これからは、田舎じゃ駄目
だよ、街場でなければ」なんて呑気なことを言って喜んでいた。私の方が唖然としてし
まった。父の考えがそうであったならば、なで私は、和見に 拘 って居たんだろう?町に
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むな
住むことが許されるなら付き合っていた彼女だって問題なく結婚できたのに!私は何ん
で無駄なことを考え自分の幸せを犠牲にしなければならなかったのか?考えれば考える
ほど己が虚しかった。がもう後戻りは出来なかった。昭和四十四年三月十七日上野原町
上野原に鎮座する牛倉神社神殿にて(現在平成二十六年六年目の本町一丁目を代表して
の氏子総代を務めている神社)中村宮司の祭司のもと結婚の儀式を挙行した。
上野原駅前の河内屋旅館で披露宴を行い、その夕方から新婚旅行に出発し、東京に一
泊新幹線で関西へ行き四国を一周し、帰路は大阪空港から羽田空港まで飛行機で帰り新
婚生活に這入った。月給手取り二万四千五百円、家賃が月額八千円、収入の三十三%が
家賃で消えていく生活だった。役場まで一分足らずの通勤は、自分の家の延長みたいな
物であったが、仕事優先と、労働条件改善の勉強会で多くの時間を費やし、決して家庭
孝行の生活ではなかった。職場では仕事と労組の活動、忙しい日々ではあったが、己の
心に隙間風が入っている感じを常に感じた。焦りを癒すもの何か?同じ年代の職員と比
べ己の号給が相当に低い事だと気付いた。仕事でも負けては居ないはず、もう少し勉強
し、一歩でも二歩でも前に出るように努力そうすれば、多少己に自信が持てよう、考え
財団法人日本建築文化事業協会、通信教育日本建築大学講座に昭和四十五年四月に入学
し、勉強を始めた。昭和四十二年の一級建築士試験に挑戦した、当時は山梨の場合試験
会場が長野県長野市でなければ、試験会場が無かった。一日前に長野市に泊まり試験を
受けた。
53
試験は、学科四科目、建築計画、建築法規、建築構造、建築施工と建築設計製図の実
技の五科目である。結果は、建築計画、建築法規、建築構造の三科目だけの合格であっ
た。翌年の試験への挑戦をしたが、結果は、学科の建築施工の一科目だけの合格に終わ
った。己の実力の無さを痛感した。そこで、前記の財団法人日本建築文化事業協会、通
信教育日本建築大学講座での勉強になった訳であるが、昭和四十六年に再々受験に挑む
ことにした、この頃になると、試験会場が東京会場で受験出来る様になっていた。
公務員生活も十一年目になる。公務員として生きるならば、町の人々為には、建築主
事の資格を取得しておけば役立つのではなかろうか?と考えた。建築主事の受験は、一
級建築士試験と建築主事資格検定の併設申請をしなければならないが、考えた結果併設
申請をすることにした。建築主事検定は、建築士試験の五科目に行政考査(一)行政考
査(二)の二科目がプラスされた七科目をパスしなければならない。
この頃は、父の二級建築士の資格で二級建築士事務所の登録をし、父の知り合いや、
父のお弟子さんが請負う住宅の建築確認申請書の業務を夜間や、土曜、日曜日を利用し
て行っていた。従って木造の建築物についての図面は書く多くの機会があった。以前の
試験でも設計製図が駄目で合格に至らなかった。試験での設計製図はフリーハンドでも
良いとされているのであるから、設計の意図と法的違反が無く、完全に受験者の考えが
試験官に伝わるものであれば合格と成るはず。でも私にはこれが出来なかった。
図面は、明細にして正確に、更に詳細な説明を付す。これが私の生れ付きの性格で簡
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単には治すことの出来ない性分なのだ。この年の試験結果次のとおり。
建築主事検定には合格したが、一級建築士試験の合格は無かった。残念であるが事実で
ある。造形には不向きな人間なのだ、大工に成らずに良かった。とつくづく思う。思え
ば絵画も大変下手である。この辺の言葉で言うと「ぶきちょな」人間である。
その証拠に、その後も諦めずに建築士試験に臨んだが結果は、学科合格は何度も成し遂
げたが、設計製図の合格はなかった。参考に昭和四十八年の試験結果を参考に示します。
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この通りである。もう設計製図の試験を受ける気力も無くなっていた。
一に努力、二に努力、三、四が無くて五に努力も限界に達していた。子供も三歳と五歳
の男の子が二人になっていた。少しはパパの役目をしなければならない。
父の事務所の仕事もかなり多くあった。他の事務所であれば一件の建築確認申請を処
56
のしぶくろ
理すれば十五万から二十万円を請求されるであろう。父の場合は知人とか己の弟子から
の依頼であるので、金額の請求はしなかった。気持ちだけを頂いていた、大概が一万円
か二万円を熨斗袋で「御礼」と書いて持って来てくれていた。
甲東支所にいた頃、上野原町消防団甲東分団第二部に入団しなければならない事にな
った、しかし、四十四年からは、上野原に住居する身になったので、地域活動ができな
くなってしまった。そこで相談の結果当時各分団から本部員を出すことになっていたの
で、この本部員として務めることを認められた。
このことで、精神的な負担がかなり、軽減したことは、言うまでもなかった。
本書を書くに当たって、過去の要らないと思っていたものが、随分と役立つものだと
57
「捨てるものは三年取っとけ」の諺通りであると、先人たちの教えに感謝であります。
建物管理に必要となる資格取得の講習を受けたものを参考に示します。
これは、大規模の建築物の防火管理者になることが出来る証明になります。
次に示すのはLPガス配管特別講習会の終了証で建物内配管の主任技術者になれる証
明書です。
58
昭和四十九年三月三十一日財団法人日本建築文化事業協会、通信教育日本建築大学講
座を卒業する事ができた。
59
上野原町の技能士会の職業訓練校の講師になった時の思い出
昭和五十年春だったと記憶しているが、参考資料がなく、明確な年月日が記載出来な
い。望月技能士会会長ほか数名の役員さんの訪問を受けた。私が保健衛生課簡易水道係
を担当しているときのことだ。訪問内容は上野原職業訓練校の講師を引き受けてくれな
いかとの要請であった。実技の技能は各職場の親方が教えるから、学科について、教え
てもらいたい。講師料は山梨県から出る。いろいろ調べた結果大庭さんは、建築主事検
定にも合格している適任者であると判断してのお願いだ。
「私で役に立つことであれば協力は惜しまないが、地方公務員は地方公務員法で金品を
頂いて他の仕事に従事することは、禁じられているからね」
「そのことについては、今から町長に陳情をして許可をもらいますから」
こんなやりとりの後、人事担当者から「本人の許可申請書を出してもらえば許可しま
すよ」と電話があり、申請書を出し、許可証を頂き講師を引き受けた。教室は前町民会
館の会議室である。今現在はその建物がなくなって、市立病院のアプローチ道路や、駐
車場になっている。
毎週月、水、金曜日の夜二時間の講義を、用意されたテキストを基にして行えば良い
と云う事である。(基本的には二級建築士試験に合格出来る力を付けて欲しい)
初めて教室に入ってびっくりした事は、多勢の町内の建設会社の社長さんが参加をし
ていたこと、若い大工のお弟子さん達が、私が教室に入ったとたんにその方たちが全員
60
教室から抜け出したこと、授業日は訓練校の事務局の女性職員が同席する事になってい
ると聞いていたが、その事務員の方が慌て飛び出したこと、私自身としては、招かざる
客になってしまったのかと不安を覚えたのである。
暫くして、女性職員が教室から出て行った受講生を連れて教室に戻ってきた。そして、
職員の方から私に事情が説明された。「前任の講師が玄関に来て、受講生を呼び出した」
との事であった。
「私は、技能士会の役員さんからの懇願を受けて、引き受けたのですけ
れども、前任の方が続けてくれるのならば、私は、身を引いても構いませんよ」
「それは困ります。前任の先生は、講義態度も悪く、机に腰掛けて講義をするなど、役
員の皆さんから、評判が悪く困っていたんですよ!気を悪くなさったことはお許し下さ
い。学校長から前任者によく話をさせますから」
こんなハプニングがあって、漸く講義を始めることになった。多数の建設会社の社長
さんは仕事の関係上全ての方が知り合いである。多少の恥づかしい気持を覚えながらの
挨拶から話を始めた。技能技術面では私よりはるかに上だ、強いて言えば、法的解釈や、
構造物理の解析については、多少私の方に利が有るか?であろう。
いづれにしても、受講生の皆さんと一緒になって、勉強をしなければならない。本当
に身の引き締まる思いで取り組まねばならないと、心に強く刻み込んだ。
自宅に帰ると、次の講義の内容を整理し、二時間の講義のために四時間の予習をする
よう心がけた。仕事の関係の調べ物もある。それらを考えると、睡眠時間を減らすしか
61
ないと考え、私生活の再計画を検討した。
あっという間に三年間が過ぎた。役場の仕事に大変な任務が待ち受けていた。
大変に広大な用地買収の仕事だ、過去に町営住宅用地小沢団地の買収を担当したこと
があったが、今度取り組むのは、
「甲斐路国体卓球会場となる上野原中学校の移転新増改
築工事」の用地買収である。この仕事をやり遂げるには、職業訓練校の講師はとても勤
まらない。と判断をして技能士会に退職を願い出た。
振り返ってみるとこの三年間に大変多くの勉強をさせて頂いた、受講生の中から二級
建築士の合格者が出たとの話も聞いたし、なんにしても、私自身が大変に大きく育てら
れましたこと。上野原技能士会並びに上野原職業訓練校関係役員の皆様に心から感謝申
し上げます。
この三年間に己の心に刻んだことは「知識は己の身に詰め込んだだけでは何の役にも
ならない。人様のため、又、己のために利用、活用して、初めて知恵となり、人様のた
かて
めにもなり、己の生きる糧となるものなのだと」
62
借家生活から新居を構えてからの生活
し きた
昭和四十四年三月一日から水越(偉)先輩の手助けを頂いて、役場に隣接いている一
戸建ての新住宅を借りることが出来た。
今の月の半ばには、結婚式の挙式が待っている、私の荷物は衣類ぐらいで、書物も大
量にはなかったので自分の軽四トラックを使い少しずつ運んだ。当時は和見から役場ま
での通勤を中古の軽四トラックを利用していた。やがて花嫁の荷物が搬入されて漸く住
居らしくなった。父母も訪れて「ここなら役場に近いし、親戚の市川家にも、バス停に
も近いいい場所だ」と喜んでくれた。生まれてから三十年と九ヶ月過ごした和見を後に
して上野原の街に住むことになった。結婚式については、前述したとおりであるが、新
婚旅行から帰れば、和見地区の皆さんを招待しての披露宴を和見の実家で行わなければ
ならなかった。これが、四月十九日に行なわれた、
「大庭家」においては、仲人は増原の
中「溝呂木家」で無ければ成らないと、長い歴史の中で決められている。上野原で行わ
れた神前の儀式や披露宴での媒酌人は町で三役の古家さんであったが、和見地区の中に
入れば和見の仕来りに従わなければならない家柄であった。これは、鎌倉武家政治の始
まった頃からのものだと思われる。溝呂木の性は「大庭御厨」区域の川崎市溝の口から
の出身者であると著者の研究ではっきりしている。
「大庭御厨の溝の口地域の有力者の地
位を持った」家の流れであると判断できる。
こんな経過の後で二人の新婚生活に入った、翌年二月に長男が出生、同四十六年十二
63
月に次男が出生し、共に羽佐間幼稚園に入園した。二人の子供たちが小学校に入学する
時期になって「友達と同じ学校に行きたい」と言い出したのを聞いた時から、私はもう
和見に帰ることは、難しいと考えるようになった。そこで考えたことは、父が大工で請
負をしている時に父の下で移動製材をしていた、大倉の石井さんが川合の久島さん、尾
続の山口さんの三人で不動産業を始めたのを知って、石井さんに電話で宅地の斡旋を依
頼した。石井さんは、早速三ヶ所の物件を持って来てくれていた。其の一は「羽佐間で
今住んでいるところから五百メートルの場所であったが、アプローチ道路に難点があっ
た。其の二は原地区で傾斜を造成した場所で石積みが高く、中央高速度道の近くで石積
みの高さと騒音が心配になった。其の三は土地の価額が高くなるが、工場の跡地を四区
画に分割しての販売だと言うことだった。早速案内してもらい、その場で結論を出した。
工場の跡地を選んだ。石井さんから、
「大庭さんは、専門家だからこの場所を四区画に
分けて呉れないか?」
「区画図の作成は私がしましょう、但し、私の名前での申請は出来
ないからそれはそちらの名前でやって下さいよ」となり、すぐに土地売買契約書の締結
になった。区画図の作成は時間を要するものではなかった。土地代及び住宅建築費を考
えると建物の建築費を出来るだけ安価にしなければならない。早速新居の設計に取り掛
かった。工場生産で作られている二階建ての軽量鉄骨のフレームを利用したら安くなら
ないか?構造的問題は、構造計算をやってみるとOKである。屋根はルーフデッキ、外
壁はモルタル塗り、内壁はラスボードに塗り壁等で設計図は出来た、直ぐに建築確認申
64
請を提出する。今度は資金の準備だ、山梨中央銀行から住宅ローンを申請し五百万円の
ローン契約成立、山梨県市町村職員共済組合から退職金を担保した住宅ローン契約の締
結で四百八十万円の確保、父に相談して山林の立木を売却した清算金が九十万円を確保
できた。自分の預金が五百万円、合計一千五百七十万円の中で全てを賄う計算で住宅新
築工事に着手した。土地代金についても父の顔で石井さんの力で随分安くしてもらい、
建築工事は、同級生でもあり、母方の親戚でもある上條君の計らいで八王子市の建設会
社を選び昭和五十二年十二月四日に請負契約をして昭和五十三年三月三十一日完成の四
ヶ月で完成する計画で進めた。工事監理は当然己で行った、現場に訪れる時は、二人の
子供を連れてきた、鉄骨のフレームは工場生産であるから建前はすぐ出来た、二人の子
供は、立ち上がった骨組みを見て、これが僕らの家になるのだと今住んでいる家から見
ると大変大きく高く見えたのであろうか?自宅に帰ると「ぼくたちのいえ」と題してノ
ートに絵を描いて見せてくれた。これを見たとき私は心の中で大変に感激をした。
こんな小さな子供でも自分たちの家という意識は十分に持っているのだなと、この子
達のためにどんなに苦しくても頑張らねばならないと、大きな借金を抱えてもこの子達
が幸せになるのであれば、それでいいと勇気が出てきたような感じがしたものだ。
工事は順調に進んだ。翌年四月上旬には完成した、約束の工期よりは少し遅れたが数
日間だった。簡易水道係の職員と小俣課長の息子が役場に就職していてその小俣君等が
お祝いをしてくれたり、引越しの手伝いをしてくれた。
65
しょうへい
荷物の整理や片付け、職場に勤めながらの合間にやることだから、かなりの時間がか
かった。漸く落ち着いて、昭和五十三年四月二十二日に仲間を呼んで新築祝いを新居で
行なった。この年の秋から父母が和見から我が家に越してきて一緒に生活をすることに
なった。父は三和工務店の手伝いをすると言って、建築現場で若い人たちの手伝いをし
ている様だった、朝早くから出掛けて行った。母は従兄弟の紹介を受けて和服の仕立て
をしたりして、父母二人は和見で生活しているよりも楽しい生活をしているように見え
た。私の子供達も小学生になり、学校行事等へは妻と母が揃って参加をしている様子で
あった。一家揃って海水浴へ行ったもりした。ただ私の職場は日々忙しさが増す状況に
なりつつあった。奥平簡易水道組合が給水区域以外の地区と給水契約を締結し、これが
ふ
み
こ
裁判となり、私が参考人になり浦和裁判所に 招 聘 される様な予定外の仕事が入り、更に
は町立上野原中学校の移転新増改築事業の話等と私個人としてはあまり嬉しくない話が
耳に入り、精神的な負担が心の重荷なった。そして、昭和五十四年四月一日付で教育委
員化へ出向、同五十五年(一九八0)四月には、仕事を伴って建設課に配転しなければ
ならなく成る等めぐるましい環境変化があり、同年の六月九日父和一が交通事故で入院
する(ムチ打ち)昭和五十七年(一九八二)十一月二十二日朝早く父が階下から階段を
這い上がってくる音を聞く「薫起きてくれ、福海子の様子がおかしい」私は今書斎とし
ている部屋を寝室と書斎に分けて使っていた。私は急いで階下の父母の部屋に行った。
母が、何かを訴えているが、何を言っているのか全く解らない。体を動かそうとして
66
おしっこ
いるようだが動かないようだ、父が「どうも脳梗塞を起こしたようだ」といった。
妻も起きてきたようだ、私は、
「救急車を呼ぶ」父から「救急車では何処の病院へ運ば
れるかわからない、これは入院させなければ成らない、川原先生にお願いしろ」父は母
の心拍数や血圧を測定していた。私は急いで車のエンジンをかけ暖房機を回転させ、家
に入り河原医院に電話をした。早朝であったが先生が出てくれた、先生に状況を説明し
た、先生から「状況はわかった。車で静かに連れて来い」父と私で母を毛布で包み三人
で母を車に乗せ、百数十メートルの距離を運んだ。川原医院では玄関を開いて待ってい
てくれた。直ぐにエレベーターで個室の病室に運ばれ入院させてくれた。
川原医院は、父が高血圧の治療でいつも通院している顔なじみの医院だ、父は医師に
今朝の状況をつぶさに説明した、既に看護師(当時は看護婦さんと呼んだ)が母に点滴
を施していた。父から「二人は家に帰って、朝食を済ませたら、どちらか一人交代に来
てくれ」私も妻もパジャマ姿だった、二人は家に帰り、妻は朝食の支度と子供たちの学
校への支度に取り掛かった。
私は、朝食を済ませ妻に「おふくろは、小便が近いようだ!出かける前も下着を取り
替えたのに、医院に着いた時には既に濡れていた。看護師さんが紙おむつと交換して呉
れたが、紙おむつがあれば大変助かるが、どこかの薬局で紙おむつを取り扱っているか
調べてくれるか?今日はタオルをたくさん用意したが、タオルではあとの洗濯が大変に
なるだろう!今日は私が付きそうが、職場を毎日休むわけにはいかない」
67
おしっこ
私は、事情を電話で役場に連絡して休暇を取った。紙袋にタオルを数十枚押し込んで
家を出た。三分ほど歩けば川原医院だ。病室に入れば父が「意識はしっかりしている。
体を動かすことが出来なくなっている。膀胱炎を起こして居るのかも知れない、口は聞
き取りにくいが、注意して聞いてやると意味がわかる。入院は長くなると思われる」
と言って父は帰った。この医院は、新築したばかりで上階では、内装工事が行われてい
た、職人さんたちが仕事を始めたようだ。ガタン、コトンとか金槌を打つ音が聞こえて
くる。母は片手だけが動かせた、どうもおむつを替えてくれと合図をしている様子だ、
おむつを変えようとした時気がついたが、既に紙おむつの十枚入りの袋包みが用意され
ていた。おむつを替えてやると母はすやすやと寝始めた。
この日から母の看病が始まった。相談や協議をした訳ではないが、何時の間にか昼は
父と妻が付き添い、夜は私が付き添う様になった。医院でも簡易ベッドを用意してくれ
た。昼間は職場で働き、夜は医院で病人の付き添い、疲れているのでつい深眠りになっ
てしまうと、母の呼び声を聞き漏らしてしまう。そこで考えたのが、母の動く手首に紐
を付けてその先を私の手首に結んだ、そして、母に「小便が出たらこの手を動かしてく
れ、そうしたら私もすぐ気がつくから」と説明したら、母も頷き手を動かして納得して
くれた。夜何回も起こされると、一週間もすると、体がくたくたになる。集中力がなく
なる。兄弟たちが見舞いに来た時、一週間に一晩交代で変わって貰えないか?と相談し
たら全員から賛成された。一ヶ月が過ぎた母の口の利き方もかなり回復をした。院長か
68
みずから
ら退院を通告された。
「これ以上の改善は見込めない、自宅治療をして貰いたい。変化が
あれば直ぐに電話をして欲しい、往診は必ず行うから」
兄弟で相談して、八王子で看護用のベッドを買い求め、自宅で看護をすることにした。
同年十二月下旬に母は退院して自宅療養をする事になる。
昼間は父と妻が介護に当たった、夜間は私が担当することになった。母の寝室からケー
ブルを階段室に張り、ベッドに手に握れるボタン式のスイッチを取り付けた、母が人を
呼びたい時には、ボタンを押せば階段室のブダーが鳴る仕組みだ。階段室は家の中心に
位置しているのでどの部屋に居てもブダーの音は聞こえる仕組みにした。軟式のテニス
ボールを購入し、動かない手指の屈伸運動をさせた。母も真剣にこのリハビリに挑戦し
てくれた。ボールを動かない手のひらに置き、動く手を添えて両の手でボールを握る練
習を意欲的に挑戦した。時には、ボールが手から外れて床に落ちれば直ぐにブダーが鳴
った。父が戦時中衛生兵で身につけた経験が大変に役に立った。座布団を何枚も用紙し
ておいて、母の寝ている姿勢を、上向き、左向き、右向きと随時代えさせた。私や妻に
はこんな知恵は全く無く大変良い知恵を教わったと今でも感謝している。寝タコを作ら
せないための方法だ。もう一つは、いくら消化の良い食べ物を与えていても、長い間寝
ふん づ ま り
たきりでいると排便が難しくなる、これに対しても父が自ら薬局から、薄手のゴム手袋
を何枚も買い求めてきたことだ。
「糞詰りで死亡させるわけにはいかぬ」と母の腹を手で
触りその状況で、母の肛門からゴム手袋をした人差し指を差し込み、便を取り出す方法
69
い
と
こ
だ、この方法を妻に実技で教えてくれた。夜は私がブダー鳴れば、すぐに階下に行き父
母の寝室に入り、父を起こさないように気を付けながら、母のおむつを取り替えた。
こんな生活を約三ヶ月経過した頃、父も、妻も、私自身も心身共に疲れが出てきたの
かも知れない。
その日は、施設維持課に勤務して(課の名称は変わっても業務内容は全く変わっては
いない、組織変更で課名が変わっただけです)沢松小学校学区内に沢松幼稚園を新設す
る仕事を行っていた。上野原町にはその当時、各小学校区毎に保育所又は、幼稚園が設
置されていた。殆どの小学校区が保育所であったが、幼稚園は大鶴小学校区だけだった。
沢松幼稚園は二つ目の幼稚園となる、用地買収から取り付け道路の開設、設計、建築
工事を進めて町の完成検査を受け、県の施設課の検査を受けてOKが出れば、事業が完
結する日であった。沢松小学校の先生が息を弾ませながら現場に駆けつけてきた。
「大庭さんに、大至急家に電話を入れて下さいとのことです」私は、一瞬もしやと思っ
た。現在のように、誰でも携帯電話を所持している時代ではなかった。当然私も持って
いなかった。私は、県の検査担当者に理由の説明をして、後の事は、部下に任せて町の
あつ
車を使い、近くの公衆電話のあるところに急いだ、家に電話をすると従姉妹の房子が出
た「早く帰ってきてよ、家の中が大騒ぎだよ!」
「何があったんだ?母に何か起こったの
か?」
「伯父さんと敦ちゃんが大変なんだよ、早く来て」「分かった」急いで車を自宅へ
向けて走らせた。
70
とう
自宅に着いて家に入ると、父、妻、房子が黙ってバラバラの位置に座って居た。
険悪な雰囲気であることは直ぐにわかった。私は、先ず父母の寝室に入った。母の様
つら
子を見ると涙ぐんでいた「おれがこんな体になって、皆に世話を掛けるから、父ちゃん
が疲れてカリカリして、敦ちゃんを怒鳴り飛ばして、かおる父ちゃんを怒らないでくれ」
とまた目から涙をポロポロ流しながら動く方の手を差し出した。私は差し出された手を
固く握り締めて「大丈夫だよ、みんな疲れているだけなんだ。おふくろを早く、治して
やりたいだよ、三月ももうすぐ終わる。暖かくなれば体も動かせるようになると思う、
い か よ う
オヤジの言うように、手を動かしたり、足を動かしたり辛くても頑張ってくれなきゃ!」
握り締めていた手を放し寝室を出て、居間に入り、
「病人がえらく心配しているじゃんか
みんな疲れてるから、イライラするんだよ。オヤジも敦子も我慢をして貰って病人に心
配を掛けたんじゃ何にもならないよ!兎に角たまには気晴らしが出来る様に、静子に来
てもらい、オヤジも一日和見に行って気晴らしをしてこよう」と話かけて何とか険悪な
み
と
雰囲気を和らげた。現在高齢化対策で国、県、市町村は、財政難も絡んで如何様に制度
改正するか悩んでいるが、在宅看護を強いるにしても、過去に父母を在宅看護で看取っ
た経験から家が分解してしまう恐れがあることを著者は経験している。もう一言を述べ
させてもらうと、私は、兄弟(妹)が五人居たので大変助かった。兄弟(妹)が其々に
助けあって何とか困難を切り抜けたが、現在のような少子化では、兄弟の数は少なく、
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夫婦二人で両方の父母を看取るのは、経済的にも、体力的にも不可能であると思われて
ならない。
母の頭はしっかりしている。父が一生懸命看病してくれているのを理解がされている。
次の土日を使って私は、父を和見に連れて行った。私は夜の看護があるので一旦帰り日
曜日に迎えに行った、二日間住み慣れた家に帰り、近所の人たちと雑談や近況を語り気
分が晴れたのかすっきりした顔色で上野原の家に帰った。妻とのわだかまりも全く無く
なっていた。父は自分の持っている知恵の全てを母の介護(看護)に当てた。毎日膝や
足の関節が固まらないように屈伸を行ったり、寝ダコの手当をしたり、食事の工夫を妻
に教えたり、私などには、真似のできない努力をしてくれた。
おそらく地区の民生委員さんからの推薦であったと思われるが、父の看病について、
昭和五十八年十月
日に上野原町社会福祉協会長から第三十三回老人福祉週間に際
し表彰された事は、父の励みになったことだと考えています。
寝たきりの病人の体力は、食事や看護に相当の気配りをしても、衰えるのも早いもの
だと思われる。昭和五十八年十二月二十一日母は帰らぬ人となった。
法名 福徳院慈海妙栄大姉 享年七十二歳 発病して十三ヶ月の闘病生活であった。
72
73
母が亡くなった後の父の生活は、毎日が部屋の中で読書やTVで過ごすようになった。
「時折、薫、和見に行って見たくなった?」土曜日か日曜日には必ず和見に行くよう私
も心がけた。川原医院での検診は忘れずに受けていた。日記帳は毎日書いていたようだ、
数年が過ぎた。ある時父の言動に不信を感じたので、川原医院を訪れ医療相談を申し込
んだ。
「父の言動に変なことがあるが、もしかして痴呆症ではないかと?」先生の答えが
「気付かれましたか、痴呆症の症状が出ています、既に薬は処方してあります。薬はこ
れです。毎日服用しているか気を付けて見守って下さい。この薬で痴呆症を治す事は出
来ません。痴呆症の進行を遅らせる薬です」私は、礼を言って帰宅した。
私は、書斎に入ってしばらく考えた。一人で毎日部屋の中で過ごしていることは、痴
呆症を促進させてしまうのかもしれないと、誰かと雑談や遊びを楽しむような事をしな
いといけないのではないかとも、妻とも相談をして、和見に行けば友人が沢山いる。父
を和見に連れて行って、私が和見から役場に通う、そして近所の人に父の状況を話して
協力をして貰う、兄弟たちにも出来るだけ和見に来てもらい、父の話し相手をして貰う。
兄弟たちに電話で相談をすると、全員から同意を受けた。
早速行動に移した、次の土曜日に食料を十分用意して和見に行った。衣類等は和見に
沢山あるので持って行くのを避けた。父は大変喜んでくれた、和見に着くと早速野良着
に着替え庭先の畑を耕し始めた。私は近所の方に事情を説明してお願いして歩いた。
火の始末だけは、確りと私がしなければならい、私も畑仕事の手伝いをした久ぶりの
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畑仕事だった、二晩を二人で過ごした。月曜日は五時起きをして一日分の食事の用意を
して、
「俺は今日から和見から役場に通う、飯も炊飯器に出来ているし、味噌汁も作って
おいた、おかずは冷蔵庫に入れてあるから」と説明すると父から「そんな子供扱いはす
るな!、帰りには酒を一升買ってきてくれ」
「解ったよ」こんな会話をして家を出て自宅
に帰り、風呂を浴びて、出勤をした。仕事は山積みになっているが、事情があるので職
員の皆に協力して貰いなんとか凌いだ。兄弟たちも一週間に一晩は誰かが来てくれた。
近所のおじさんやおばさんに父の様子を聞くと「薫ちゃん、和一さんはボケてなんか
いないよ、なんの話をしても、変なところはないよ」という答えが多かった。
しかし、和見での生活が三ヶ月程経過した頃から、父の様子に変化が出てきた。酒を
買ってきてくれの回数が増えてきたこと、朝調理した食事を、グシャグシャにして別の
鍋に入れ替えて、
「薫が食べるように用意をしておいたよ」と澄まし顔でいること。とて
も私が食べられるような物ではなかったが、
「後で食べるから、どうもありがとう、助か
るよ」と父に礼を言い、父が寝付いてから前庭の畑に穴を掘ってそこに捨てた。
そんな日々の中で職場に和見の近所の家から電話が入った「和一さんが暴れて、縁側
のガラスを何枚も壊してしまった、止めようとした私も手に怪我をした」との事である。
私は急いで和見に走った。ひどい惨状であった。詫びを言い「治療費は私が負担します
から、急いで病院の手当てをしてください。ガラスはすぐ手配をして修復をいたします
から」家に帰り父の様子を見ると床に入って眠っていた。電話で町の建材屋にガラスの
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修理を依頼して、今日の内に実施してくれる様懇願した」
さて、この状況では、今の生活を続けることは難しい、どうしようと思案に暮れる。
上野原に連れて帰ろう。父を呼び、眠っているのを起こして、
「今日何かしなかったか?」
「何にもないよ」と何も覚えていなかった。「今日は上野原へ帰ろう」と私、「嫌だ、あ
んな牢屋みたいな小さな部屋へは帰らないよ」と父は言い張った。私の心は混乱し始め
た兄弟たちは、東京、埼玉、横浜で直ぐには来られないし、私がここを離れなければ次
の手段が打てない、考えた末が近くの親戚のおばさんに一日手伝って貰うことにした。
電話で依頼すると「分かりました。私が行って話し相手をしてましょう」と快諾をして
くれた。東京の妹に何日か泊まれる支度できてくれないかと連絡を入れるとこちらから
もOKが得られた。翌朝早く親戚のおばさんは来てくれた。おばさんに昨日の概要を説
明して、話し相手の依頼をした。「今日昼ころまでには、妹も来る事なっていますから」
電話で職場に休暇の手配をし、川原医院を訪問し介護相談の申込をした。先生はすぐ
対応してくれた。
「先生、近くの施設に入所出来るところはないでしょうか?」と昨日の
状況から最近の父の状況を出来るだけ詳しく説明をした。先生から「大庭さんの立場が
あるから、言いにくいけれども、三生会病院なら直ぐに紹介状を書けるよ」
「私の立場は
関係ありません。三生会病院の院長岩渕先生はゴルフで何回もご一緒している方ですか
ら、紹介状を書いて頂けたら、直ぐに三生会病院に行ってお願いをしてみます」
「分かり
ました、今すぐ書くので、待合室で待っててください」待合室で暫く待つと窓口から呼
76
そく ざ
び出された。紹介状を頂き、その足で私は、三生会病院を訪問した。三生会病院の窓口
で自分の氏名を告げ訪問の目的を話し、院長先生に面会を求めた。
岩渕院長はすぐに面会をしてくれた、紹介状を読み「大庭さん、入院しなくても自宅
介護で十分対応できるよ。いま薬を処方するから、この薬を飲ませると、必ず大庭さん
の言うことなら、何でも言うことを聞くようになる。錠剤であるが、今まで処方されて
いる薬も飲まないような事が記載されていたが、そうであれば、粉砕して上げるから味
噌汁等に混ぜて飲ませてください、これからは、想像しない行動が起こるかもしれない
が、大庭さんが対応すれば必ず言うことを聞くから、家族の方で一番面倒を診てくれる
人の話は必ず聞くようになるから、頑張って介護をして下さい」処方された薬を頂き自
宅に帰り、考えた己の親でも、食物に薬を添加して与えることに、何とも言えない罪悪
感を覚えたのである。名倉の従兄弟に立ち会って貰おう。電話で連絡をして来てもらえ
るようにした。其々の車で和見に行った。遅い昼食時期であった。妹に味噌汁を作って
もらい。皆で軽い昼食を取った。父の味噌汁には私が薬を混ぜてたものを渡した。父は
大勢の人が一緒に食事をすることで、大変上機嫌で食事を取った。私は従姉妹の健一君
と顔を見合わせた。お互いに緊張した面持ちだ!父は一人で上機嫌で話し続けている。
本当に私の言うことを聞いてくれるのであろうか?私は思い切って父に言った。
「おやじ久ぶりに、上野原の家に行こうじゃないか?」
「おお、そうだ、上野原へ行こう」
と即座に答えると共に立ち上がり、出かける様子になった。健一君と私は又顔を見合わ
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せた、私は「健ちゃんの車におやじと静子、上手のおばさんは、乗ってくれないか?上
手の家の前でおばさんを下ろして、頼む」妹が「おやじの格好がみっともないなあ」
「車だから構わないよ、着いてから着替えさせれば、私は後片付けや戸締りをして帰る
から」手伝ってくれた車内のおばさんにお礼を言って、車を出発してもらった。
私は、迷惑をかけた家を訪ねて、お詫びの挨拶と怪我の治療費や交通費の費用の精算
について話をしたまだ何日か通院をしなければならない様である。建具の修理は出来上
がって居た。当分和見の家には来られないであろう?寝具等は、押入れに片付け、鍋、
釜、炊飯器、食器を洗い、残飯は庭先の畑に穴を掘りそこに埋めて処理し、施錠をして
帰路についた。車の中で考えた、人間にとっては、孤独とは辛いものなのだ、会話をす
ることは如何に大切なことなのか?又、薬の進歩と言うか役割、活用、作用、とは恐ろ
しいものがある。その使い方によってはとんでもない事が起こる。
家に帰ると、健一君はもう居なかった。妹は「今日帰るから」と帰って行った。
妻に昨日今日の出来事を細かく説明をして、これからの父の介護について説明をした
岩渕院長の指導による介護の仕方や、投薬の仕方、出来るだけ会話をする機会を作る事
などお願いをした。私も三ケ月間和見から通勤して、夜な夜な父の独言に悩み、夜眠る
ことが出来無い事もあって、この日は早く床に着いた。これこそ、心身共にくたくただ
った。この日から自宅での父の介護が再開された。季節は秋めいていた、父は、幻視や
幻想、幻聴が起こっているらしく言動に不可思議な事が多く現れた。が咎めることはし
78
なかった。此の事を咎めたり、注意したりすれば、益々病状を悪化させてしまうとのア
ドバイスを岩渕先生から受けていたのでそれに従った。夜中や夕方の放浪も始まった。
ある夕方など姿が見えなくなった、私は、和見にでも行こうとしたのか?と考えバス
停を調べることにした、妻は近くにある親戚に電話で紹介をさせ、二人の子供には(二
人共中学生になっていた)一人は家で電話番をさせ、もう一人は自宅の周りの路地を探
す、それどれが時々家に電話を入れ連絡を取り合う事を申し合わせて家を出た。
私は、新町から田町、原、本町一丁目から三丁目のバス停を探し、顔見知りが居れば
人相や服装を話し、見かけたら電話を頂けるよう依頼して歩いた。現在のように携帯電
話やスマホなんて物はなかった。いよいよ警察署にお願いをしなければならないか?
家に電話を入れた。
「見つかったよ、山本さんの家でお茶をご馳走に成っていたよ」と
子供の声、ホットして家に帰る。山本さんは甲東地区の出身で奥さんが芦垣の安藤さん
の娘さんである。父と芦垣の安藤さんは、昔からの長い付き合いのあった人だ。私の方
がそんな事をすっかり忘れていたのだ。安藤さんの家は三階建てで屋上に出れば和見の
山々がよく見える。人と言うものは、いくら痴呆症に成っていても故郷は脳裏から離れ
ないものなのだ。又、ある晩庭で何か変な音がした、慌てて外に出てみると、父が血だ
らけで外に倒れていた。家族全員で寝室まで父を抱き込み、傷の応急手当をした。
傷跡をアカチンキで消毒をして(現在アカチンキは製造されていないが、当時は怪我
の消毒にはアカチンキが用いられていた)絆創膏を貼り、翌朝川原先生の往診をお願い
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し、治療をしてもらった。もう初冬に入っていた。父の体力も相当に衰えていた。
平成二年十二月十六日の朝、父の様態が急変をした。川原先生に往診してもらい「今
日の午後が峠だ、兄弟や親戚に連絡をしなさい。何か起こったら電話をしてくれ」
父の兄弟は、厚木に住む敬叔父さんと名倉のはつ叔母さんだ、私の兄弟四人は、全て
短縮ボタンで繋がる。妻の実家と親戚への連絡は済んだ。孫たちも集まった。
父は目をつむったままで、呼吸は静かであった。いよいよ父との別れが来たのかと思
うと涙が出てきた。我慢しなければならないと己に言い聞かせた。夕方には連絡した皆
さんが集まった。それどれが父の名を呼んだ「??????」父からの応答は無かった。
呼吸はしているが、手を握っても反応はしなかった。父の体がピクと動いた。
川原先生に電話した。すぐに来てくれた。脈を診て、瞳孔を見た。
「何時何分ご逝去です」と告げられた。今告げられた時刻を覚えていない、頭の中が真
っ白だったに違いない。私は先生を送り出しながらお礼を述べたが鳴き声だった。
父の周りに集まった人々も、目頭を押さえながら、末期の水を父に施していた。
父の告別式は、平成二年十二月十八日、自宅で行った(現在のように上野原には葬祭
場が整備されていなかった)
多くの人達が参列してくださった。
導師は、臨済宗熊埜山西光寺の住職が付僧一人を連れてきて執行して下さった。
法名 福音院和道一輝居士 享年八十一歳 母が逝って七年後の事だ。
80
昭和四十二年に和見地区は大きな台風に襲われた。和見の江月寺も被害を被った。
この時、父の働きに臨済宗大本山建長寺の管長からの表彰状と副賞載せる。
81
町長部局から教育委員会事務局に出向しての一年間の思い出
昭和五十四年(一九七九年)四月一日付で、出向辞令が出されて教育委員会事務局の
学校教育の庶務係の担当者となる。
そこに待ち受けていた仕事とは、①倉田町長の心配していた平和中学校増改築工事を
出納閉鎖の期日前に完成させ、物件の引渡しを受けること、②町立上野原中学校の移転
及び新増改築事業の移転先の決定をする事(当時は、PTAが中心の同校建設委員会と
上野原町町議会議員が中心となる同校建設委員会があり、予定候補地が三箇所あり、両
委員会の意見を一致させる事ができないでいたのだ)③同年度の事業で、町立島田中学
校校舎新増改築事業と、町立棡原中学校校舎新増改築事業、更に、町立大鶴小学校の水
泳プール新設工事業が計画されていた。しかも、この夏には新設水泳プールを利用でき
るように同校PTAと約束がされていた。④同年五月一日までに、学校施設台帳の整備
及び提出が待っていたのだ、これを、私と新任の長谷川君と二人で処理しなければなら
ないと云う事だ。安藤君と酒井さんは既に職務を抱えている。当然職場が変われば、新
職場の勉強をしなければならないが、前任者が処理できなかった平和中学校校舎の工事
を何としても早急に完成引取りをしなければならない。昼も夜も働かなければ間に合わ
ない。事務処理についは、安藤君と酒井さんに長谷川君の指導を受けながら進めてもら
い、私は、現場の平和中学校に跳んだ。現場で驚いた事は、材料は無い、職人は少ない、
工程管理は設計事務所任せ、請負会社社長は、材料も職人も建築物のブームで単価が上
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がってしまい手の打ちようがない。と訴えるばかり。この状態でよく今まで捨て置いた
ものだと驚くやら感心するやら、呆然としてしまった。この状態ではとても間に合わな
い。設計事務所に電話をしてすぐに現場に来てもらうよう手配をし、私は私の力で手配
ができるところと連絡を取り、建材屋には、コンパネと鉄筋の手配についてお願いをし
た。町の建設業界事務局には、型枠大工の手配を依頼、施工図の書ける職員が居る会社
には、職員の派遣を要請し、現場管理をしてある設計事務所には、現場管理の徹底を強
く指導をした。電話で要請した設計事務所から所長と担当者の二人がやってきた。直ぐ
に現場会議を開催する旨を請負会社社長に命じた。二人共顔見知りの人物であった。
「ご
無沙汰をしておりまして、申し訳ありません。この現場には大変ご迷惑をおかけしてお
ります。内容については教育委員会には現場に訪れた帰りにお邪魔して逐一報告をして
おります」「教育委員会の担当者は、現場には立ち会わなかったのですか?」「全て私共
に任せきりです」
「今日現場を見せてもらい、大変驚いておりますよ、工期は既に経過を
してしまった。上野原町に取っては、大変迷惑なことだ、国や、県にも迷惑を掛けてし
まっている。諸般の事情はあったにしてもこの状況は許されない。工期の延長願いを出
し、工期変更契約の締結をやらねばならないが、これについて、教育委員会から何らか
の指導があったのか?」「教育委員会からは、困った、困った、何とかして貰わないと、
とんでもない事になる」と何回も注意をされている。と設計事務所長の説明、
「単価の問
題や世情の問題があったとしても、工期の問題は契約違反であり、違約金の請求を受け
83
はや
る事にもなりますよ、単価の差金どころの問題では無いはずですよ、兎に角、一日でも
早く完成検査を受けられるよう全員の知恵を絞って、完成させる事以外に道は無いよ、
残工事の工程表を大至急作ってください、どうですか所長さん?」と私、「分かりました、
残工事量を直ぐに調査し、それを消化する職人の員数、養生期間を計算して総合的な工
程 表 を 作 り ま し ょ う 、資 材 の 方 の 手 配 は 大 丈夫 で し ょ う ね ? 」 と 設計 事 務 所 長 の 答 え 、
「資材の方の手配は、役所からの連絡のおかげで何とか手配ができたと先ほど建材屋か
ら電話を貰いました。役所にお願いですが、工事発注の時期を早くしてもらえないかと
思います。工期が厳しい中で更に、公共工事が多量に発注されて、資材不足や職人の取
り合い合戦が行われては、中小建設会社の力では手の打ちようがないですよ」
「四月、五
月、六月は公共工事の発注準備期間で職人さんの手が空いている期間です、何としても
町や県に迷惑を掛けないように努力してください。今年度から私が担当者になりますの
で、発注時期は一日でも早くするように努力を致します。本来は請負会社が工程表の作
成をしなければならないのですが、今回は事情が事情なので設計事務所さんにお願いを
致しました。二日後に工程会議を開きますので全員の参加をお願いいたします」
私は、役所に帰り教育長、同次長に内容の説明を行い、事業認定申請の手続き書類の
作成に取り掛かる。手引書を開き要点を理解するよう努めるが、今まで経験をしたこと
のない用語に戸惑いながらの仕事は思うようには捗らない。心が逸れば正しい理解がで
きないと思いつも、心の乱れは、なかなか正常に戻らない。
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ちまた
毎日の日課が夜遅くまでの残業である。幸いに平和中学校の校舎建築工事は順調に進
んでいる。
教育長から、上野原中学校の建設委員会を一日も早く一つにまとめて欲しい旨の支持
を受ける、管内地形図を開き三ヶ所の地形を既に何回も読み直したが、どの箇所もアプ
ローチとなる道路建設に莫大な建設費が必要となる場所である。更に三箇所中の二箇所
は都市計画法で定める風致地区である。町の中心地から考えるとこの二箇所のどちらか
にすれば合理的であるが、三ヶ所全てが尾根を切り取り、切り盛りしなければならない
場所である。言い換えれば、馬の背中を平らにして学校を作る様な場所だ。切り盛りす
る土量を考えると、建物が盛り土の上にのってしまう、グランドは四百メートルの正規
トラックが作れることが条件である等、考えれば考えるほど気の遠くなるような恐ろし
い計画だ、大きなグランドを作るためには、大変な盛土の部分が出る。記録にないよう
な大雨があった場合、この盛土が崩壊したらどうなる、街の中心部は全滅だ。何度も地
形図を眺めたが、良いアイデアは出てこない、 巷 の噂だと多くの人達が望んでいるのが
この二箇所のどちらかを望んでいるという。既に日大付属明誠高等学校がこの予定地の
隣接地である。同校は安全に運営されている。多くの人たちは、この実態を見ての判断
であろう?しかし、私の考えは、同校が建設をされた地形とこれから計画を立てようと
している場所に大きな違いがあることを、全く理解していないことだ。住民の願いを無
視するような提案を私はしなければならないのか?夜も眠れなかった事を今も思い出し
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だる
て原稿を書いている。何故私はこんな辛い仕事ばかりに当たるのかなあ?明誠高等学校
の建設地は、山地の凹んだ場所だ、盛土部分もあるが三方が山で確りと安定をしている。
盛厚もたいして高いものではない。安全率は非常に高い。一般の方々には此の事が理解
されていないのである。こんなことを自問自答しながら、
「人の命は、地球の重さより重
い」数知れない人間の命に関わることだ、悩むより現実を選ぼうと最終案を結論づけた。
それは、上野原宿中心地から見ると北西にあたる尾根、三候補地の一番西側に位置し
ている場所である。悩みに悩んだ末の結論だった。私自身の体も自律神経失調症状況を
覚えるくらいになっていた、夜眠れない、昼間は体が怠く睡魔に襲われる。これではい
けない正常心に戻らねばと子供の頃教わった「おまじない」の「いろは歌」を心の中で
何度も何度も唱え、己の出した結論が正しいだと我が身に言い聞かせ、建設委員会の説
明資料の案分を作成した。説明用の資料の原稿を安藤君に渡し、大きな模造紙に図表化
して貰い、二つの建設委員会を合同建設委員会として、開催することを教育長及び教育
次長と協議して決済を貰った。
「合同建設委員会を開く準備として、先ず二者の代表者に
集まって頂き内容の説明を行い、二つを一つにするのであるから、双方から二名の議長
を推薦してもらう、会の運営はこの四名の議長団に委ねる。議題の提案、説明、質疑は
全て大庭が担当する」この内容についても、了解を得られた。二者の代表者への根回し
は、教育長があたる事も了解を得た。この内容で合同建設委員会の開催準備が進められ
た。三十五年前のことだ、私の持ち合わせの資料、日記を見つけたが、今の書斎の中か
86
らは見つけ出すことができなかった。羽佐間から本町一丁目に引越しする時に書類等の
一部はダンボール詰にして、和見に運んだか、或いはこの屋の倉庫の奥に積み込まれて
いるかであるが、見つける気力が出てこない、今書いている内容は、私の脳裏に焼き付
いている記憶の範囲である。
とにかく暑い日であった、町民会館の大会議室で「町立上野原中学校建設についての
合同建設委員会」が開催された。町議会の議員さんの出席も多く、PTAの関係者も多
数の参加者があった。教育次長の司会で、教育長の挨拶で、会議開催の趣旨が説明され
議長団が選考された。議長団から指名を受けて、事務局職員が大きな模造紙を数枚、全
面の壁に張り付ける。提案、提案理由、経過の報告、建設地の選定理由、選定した場所
について、議長団指名により、私が演壇に立ち、議長団から指示された順序により説明
を行なった。少し長すぎたのかもしれないが、九十分ぐらいかけての演説になってしま
った。終わった時には体全体が汗で下着が濡れていたのを覚えている。
この後、質疑応答になったが、
「諏訪、塚場地区の生徒の通学距離が長くなりすぎない
か?」との質問があり、私から「向風、八米地区や大鶴地区からの通学する生徒の事を
考えて頂ければ、ご理解頂けるものと考えております」と答弁、他に質問、意見、討論
らしき発言はなかった。
議長団から「建設予定地は、提案された場所に決定することに意義ありませんか?」
参加者全員の拍手がされた。議長団から「建設予定地は提案された場所に決定されまし
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た」再度の拍手アリあり、議長団「現在までPTAを中心とした建設委員会と、町議会
議員さんを中心とした建設委員会の二つの建設委員会が存在しましたが、その違いの最
大の問題点は、建設予定地の違いでありました。先程建設予定地が全員の皆様の賛成を
頂いて大同小異の状況になりました。従って議長団から次のとおり提案を致します。
提案「町議会議員さんを中心とした建設委員会は解散し、PTAを中心とした建設委
員会に統合をする」以上ここに提案いたします。このことについて、御異議御座いませ
んか?」
「異議なし」の声多数あり。議長団「異議なしと認めます、従って上野原中学校
移転新増改築事業建設委員会はPTAを中心として結成をすることに決定されました」
参加者全員の拍手があり、本会議は終了した。
これで②の課題は処理できた。①の課題も請負会社や現場管理者として委託した設計
会社の協力を得て、倉田町長が危惧した問題を何とかクリヤーする事ができた。
③が本番である、安藤君、酒井さん、長谷川君の協力を得ながら、施設台帳整備と本
年度の学校施設整備国庫補助金事業認定の申請事務の処理に当たった。長谷川君と私は
二回ほど県庁の審査のために夜中の十二時まで審査や訂正で時間を費やし、更に不足資
料が出たりして、夜中車で帰郷して、二時間ほどの睡眠をとり、翌朝は暗いうちに出勤
して、不足している資料を整備して再度県庁へ出張することがあった。
「長谷川君こんな
辛い仕事をさせて申し訳ないね」
「僕は若いから平気ですが、係長は、奥さんや子供さん
がいるのでもっと大変でしょう?」互いに励まし合って車を飛ばして県庁へ急いだこと
88
を懐かしく思い出している。
「山梨県の斉藤」
「上野原の大庭」県庁に付けば斉藤リーダーから、こんな揶揄が飛び
出した。恐らく県職員も文部省(当時の名称)に出張すれば、何らかの皮肉を言われて
いるにちがいないと私は心の中で斉藤さんに詫びた。早速審査をうける、他の市町村は
昨日の審査で全てがパスしたのであろう、今日審査を受けに来たのは上野原だけであっ
た。
審査はすぐに終わった。昨夜は夕食を県庁で出してくれたのだ、申し訳ない事をした
とここでも心で詫びを入れた。県内市町村で二校の移転新増改築事業の事業認定申請を
するところは無いのではないか?と私は判断した。確かに上野原の学校施設整備は遅れ
ている。町村合併で学校数も多い、小学校が九校に一分校、中学校が六校、人口に比較
して考えれば学校数は大変に多いと判断されてしまう。
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私が担当した学校施設整備事業の思い出
前項で上野原中学校の校舎及び屋内運動場新増築事業の思い出の中で上野原中学校の
件は全て記述しようとしたが、同校の場合は、大変な用地買収の件があるので、年度別
に整理しないと私の頭の中がぐしゃぐしゃになってしまうので、項目を変えさせていた
だく、①は解決した。②も一応は解決した。④も今年度は無事終了を遂げた。③は二校
の事業認定申請書を提出ところだ、まだ大鶴小学校の水泳プール建設の事業認定の申請
をしなければならない。この申請は、県教育委員会の担当部所に申請しなければならな
い。初めて訪れる場所だ、申請書式も全く違う書式であった。職場へ帰れば、町教育委
員会宛の文書の確認をしなければならない。受付は、酒井さんに文書処理簿への記帳は
行ってもらえるが、受付文書の内容確認は全ての文書に目を通さねばならない。この仕
事もかなりの負担になった。幸いなことには、島田中学校の校舎、棡原中学校の校舎の
基本設計書は前任者の方が済ませてあったことだ。早期発注をする覚悟をしている私は
出来る限り事前に出来ることは、早く進めておきたいと考えた。それと地元の意見を設
計の中に取り入れていきたいと考えていた。地元PTA及び学校教師からの意見を聞く
事を重視した。学校側に此の事をお願いしたところ、今までは無かった事だと、大変に
喜ばれた。この時代、中学校においてはLL教室、視聴覚教室の特別教室が叫ばれた時
代であった。当然これらに関係する担当の教師の方には、PTAを含めて、先進地の視
察や勉強をしていただき参考となる知識を得て頂き、設計に対して参考意見として提案
90
をして頂ける様に要請をした。実施設計に着手、基本設計をした設計事務所が実施設計
をすることになっていた。
設計事務所で基本設計図を基にした設計案を図化した物を提出してもらい、これを元
に地元建設委員会や現場を担当している教師の代表者に集まって貰い、設計者を交えて
意見交換を行った。私はこれを「設計協議」と名付けた。設計担当者からも「学校現場
の生の声が聞けて参考になり、勉強にもなる」と喜ばれた。数回これを繰り返し、最終
的に教育委員会に提案をし、承認を受けて実施設計業務に着手して、山梨県からの事業
認定書を受理した時には、校舎新増改築事業の工事が執行出来るよう準備をした。
幸いに、三工事の(島田中学校校舎新増改築工事、棡原中学校高写真増改築工事、大
鶴小学校水泳プール建設工事)入札、契約締結は無事に進んだ。
大鶴小学校水泳プール建設工事は、地元建設委員化のご協力もあって、この夏の利用
が可能になって、地域との約束が果たされた。
島田中学校校舎新増改築工事は、基礎工事で難問に出会った。ここの敷地は、桂川河
岸段丘の一番低い部分で田圃として利用していた場所を、相模湖ダム建設工事で水没予
想地として買収し、その後護岸施設を完備し埋め立てた場所を上野原町が神奈川県企業
庁から買い受けた場所であった。校舎建設位置を横軸に一直線を引き、この線上を三点
選びボウリングにより地質調査を実施して、地下の支持層を想定した。この想定に基づ
いて杭長の決定をしたが、実際杭打ち地業に入ると、設計通りに杭が入るところと、杭
91
いくすじ
長が余り、現場に杭の林が出来た事だ、地元関係者からの避難のご意見を多く頂いたこ
は ま っ て
とを思い出す。これは、桂川の長い歴史の中で流れを幾筋も変えた事を物語って居るも
のであるが、此の事を理解してもらうのに苦慮した。
棡原中学校校舎新増改築工事につての思い出、この建設場所は、簡易水道給水区域で
は無かった。小規模水道組合の地域であった。従って学校で利用する水道は学校単独で
施設を建設しなければならない。山間地であるので谷間には湧水場所は各所にあるが、
必要な水量が確保できるかが、問題であった。地元建設委員会の役員でもあり。又、町
議会議長であった故和田勇夫様の協力を得て、一日がかりで、沢歩きをして、水源を見
つけた思い出だ。沢に入り湧水を探しながらいつしか二人は別々の方向に分かれてしま
った。私は本流を辿った。大きな治山堰堤が立ちはだかった。十数メートルの高さだ、
水通しからの越流は無かった。水履き口からの水量は豊富である、土砂により完全に濾
過されている、上流に人家も工場もない、廃棄物の捨て場もない。この水ならば水質検
査を受けてOKは出る。問題は取水方法だ?どんな工法を用いたらよいか?「おーい、
おーい、大庭君」と私を探している声が聞こえた。私もこの声に応えた「おーい、おー
い、ここにいますよ!」暫くして和田議長さんが下から上がって来た。
「いたか!良かっ
た、淵にでも嵌ってしまったかと、心配して、淵を覗きながら見つけたよ、ああ無事で
良かったよ!」「ご心配をかけて申し訳ありません」と謝り、「私はここで、この水を使
えないかと、取り入れの方法を考えていたところです。この水ならば、上流に人家もな
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し、工場もなし、廃棄物の捨て場もなし、水質にも、問題がないと思います。水量はご
覧の通り豊富です」
「なるほど、確かにその通りだ、ここならば、直ぐこの下に棡原小学
校の取水施設があり水槽もできている。この水が利用できれば、小学校の水の問題も解
決できるぞ、これで水源は決まった、じゃあ、今日はこれで帰ろう、家で飯でも食って
行け」私も水源が決まれば後は工法を検討すればよい、誘われるまま和田宅に寄った。
和田宅では、食事が用意されていた。
「今日はご苦労さんでした、棡原小学校でも水量
が少なく、PTAでも心配の種だった、これも解決ができる、今日は大仕事をした、ゆ
っくり休んでいけ」と酒や魚での持て成しとなってしまった。
帰路は、公用車は和田家に預けて和田家の車で家迄送って貰う始末であった。簡易水
道係の山崎君の協力を得て導水管の管路の縦断測量を行い、配水池の位置決めや校舎ま
での排水管路の決定をして、これらの用地交渉は地元建設委員会にお願いをして、学校
で使用するに足りる飲用水の確保を完了した。
何の仕事についても同じことであるが、事業を完成することは幾多の問題を解決しな
ければならないが、心配をした三工事は、地元建設委員会との約束通りの年度内完成を
果たすことができた。
前記の事業を、こなしながら上野原中学校の移転用地の準備をしてきたわけであるが、
関連する用地面積は十万平方メートルを超える莫大な面積になった。
私が担当する庶務係の事務分掌の中には、教育委員会を運営すること。が明記されて
93
おり、この莫大な用地中得に関することを、早急に教育委員会に提案をしなければなら
ない任務があった。私は、当時現場主体に動き回り、教育委員会に関する法律につての
勉強に精通する時間が取れなかったのが実情であるが、此の事が私を大きな淵の中に突
き落とした。教育委員会の議題に「上野原中学校移転用地の買収について」提案した。
教育委員会を開催し、提案説明をした。ここで、教育委員長から、お目玉を食らった。
「何ゆえに、教育財産の取得を教育委員会事務局が行うのか?」中村教育委員長は長年
上野原小中学校の校長を歴任した大ベテランだ!この方にこう詰め寄られると、私は、
答弁に詰まってしまった。横瀬教育長、中村次長、共に無言だ。他の教育委員の方たち
も無言であった。私は、己の無学さに体が硬直してしまったままであった。
暫くして、横瀬教育長が「これは、上野原における長い間の惡い恒例が残っている為
だ。本来教育財産を取得する権限は教育委員会に無い、教育財産の取得は、町長(首長)
部局の権限だ。この状態は法律違反をしている状態である。大庭君が悪いわけではない、
大庭君条例改正の起案をしてもらえないか?機構改革をして本来の姿に変える必要があ
る」私は、己の不勉強に背筋を汗が流れ落ちるのを感じた。
「私の不勉強のため、大変な
ご迷惑を、おかけ申し訳ありません」とお許しを乞うた。これでこの教育委員会は閉会
となった。自室に帰り自席に付いて頭を抱えた。常時は現場を駆け巡っており、教育関
係の法律を勉強していないことを悔やんだ。そこえ中村教育委員長が現れ私の後ろに立
ち私の両肩に手を置いて「大庭君先程は悪かったね、この問題は前から何回か指摘をし
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てきたが、取り組んでくれ無かった。積極的に取り組んでくれる大庭君だから敢えて、
追求をしたのだ、建設委員会の件も大庭君が上手に纏めてくれた。本当に感謝している。
どうか頑張ってくれ!」ポンと肩を叩いて立ち去った。私は、大変バツが悪かった。
私の前任者は、私の席の隣に席がある中村次長になのだ。トイレに行くふりをして私は
席を立った。
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組織の機構改革
組織の機構改革の起案に着手した。条例改正の起案は生易しいものではない。以前条
例改正は、町営住宅管理条例の改正を案何回か経験しているが、これは、本法が改正さ
れたための改正であって、県から改正案文が示されたものを参考にしたので容易く出来
た。町には条例審査委員会が設置されていて、この会の審査を受けねばならない。使う
用語も厳しく定められている。今回は教育委員会の事務分掌を一部削除して、この削除
した事務分掌をどこかの課に付け替えねばならない。本庁の課との調整もある。本来な
ら総務課となるはずだが?用地買収だけならそれでいいと思うが、造成工事、建築工事
を伴うもの である か ら建設課が いいの か 、或いは新 しい課 の 新設を考え た方が い いの
か?等々課題が多い。今からでは十二月定例町議会には間に合わない。
関係課と協議の末、建設課に施設係りを設けることで同意を受ける。この係に「教育
財産の取得に関する事柄」の事務分掌を位置付ける内容で関係課との協議が纏まった。
この内容を骨組みにして、条例改正案文を起案し、昭和五十五年(一九八0)三月定
例町議会へ提案し、可決を得て、同年四月一日に教育委員会事務局から建設課施設係り
に、長谷川君と私は、転任となった。
このときには、上野原町長が倉田町長から加藤町長に変わっていたが、私は倉田町長
との約束は果たしたと実感した。平和中学校の校舎新増改築工事の工期は多少の遅れは
出てしまったが、国庫補助金の問題に影響することなく、町の恥、しいては県の恥にな
96
いと
ることを何とか防いだ事だ。これは、私の力ではなく、町の建設業協会、請負業者、設
計事務所、そこで働いていた職人さんが一体となって昼夜を厭わず汗を流して頑張って
呉れた成果であって、私はただ旗振りをしただけの事であるが、一年間の出向で、又、
町長(首長)部局へ帰った。
この日から、二人は上野原中学校の移転先開発区域の用地の詳細を隈無く調査し、所
有者、地積、地目、を一覧表に整理、所有者別の土地の明細、土地取得の価額の積算の
為に不動産鑑定士の専任事務に着手した。先ず所有者別土地明細書を基にした土地立ち
入り承諾を得るための家庭訪問を開始、三十数戸の訪問を行なった。
不動鑑定士との契約が決まり、開発区域の全ての土地が公平な価額決定が出来るかに
ついて鑑定士と競技した。土地価額の鑑定とは「特定された土地一筆の価額を算出する
ものであって、鑑定料は算出された土地価額の何%とで決定される」
このことは、買収する取得面積は莫大な面積であることは既に記述してある通りであ
るから、全ての土地について鑑定を依頼することはできない(莫大な鑑定料になってし
まう)。買収予定区域の基準となる点を三ケ所選びこの土地の鑑定を依頼した。①路線価
での評価が最も高くされる土地 ②地形的に誰が考えても最も安いと考えられる土地、
③①と②の中間であると評価される土地を選んだ。この三地点を基準にして、プラス点
○○点、マイナス○○点と詳細な分析をして各筆の価額を決定しようと私は考えた。
これは、命をかけた真剣勝負だと心に秘めた。いづれにしても馬の背状の地形であり
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平坦地あり、崖地あり、農耕地あり、崩落地ありだ。里道に接している土地、盲土地(囲
繞地)等々をつぶさに調査し点数を付けて、誰から見ても文句を言われることの無い価
額の決定をしなければならないと決意した。
以前にも建設課に席を置いたことがあるが、今回は新しい分野を持ち込んだ係りとし
ての為か?他の職員とのつながりが全く持てなかった。長谷川君には手伝ってもらうが
己が黙々と頑張る以外はなかった。野帳を持ち現場を歩きメモを取り、自宅に帰ってか
ら整理をする。地元の説明会は、地元住民全員に集まってもらい二回ほどこれは教育委
員会事務局の時に行っているが、地権者に直接挨拶をしたのは、土地への立ち入り許可
の承諾書にサイン押印で訪問しただけである。具体的な土地買収への戸別訪問を始めな
ければいけない、こんな考えを始めた時長谷川君と富岡君が入れ替わった。土地取得価
額の明細が出来上がった。買収予算の計上を財政担当課と協議を始めなければならない。
大変な予算額になる、土地取得交渉は単年度で完了できる仕事ではない、この事業は
継続事業として取り組まねばならないと判断して、課長に相談したが「係長に任せる」
で終わってしまった。執務室もプレハブの別棟で都市計画係と施設係の二係は、建設課
長からは列外視の感があった。予算担当は企画課の財政係りが担当していた。
財政担当と継続費設定に協議を始めたが、財政担当係長は全く継続費事業についての
見識が無かったようだ。事業実施担当課がどんな思いで、又、どんな苦労をして事業遂
行をしているのか?少しも理解されていなかった。町の年間予算の三分の一の予算を費
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うよきょくせつ
やすような大きな仕事を計画しておることは、
「町の総合司令塔である企画課が認知して
ないでどうする」と怒りたくなるほど腹が立ったが、先輩格の係長だ、怒るわけにはい
かず予算解説書を持ち出し、用地造成工事においても同じ事が言えるので継続事業とし
て取り組まねばならないと丁寧に説明して、漸く、継続事業として取り組むことに同意
を得た。土地買収と造成工事の実施設計をも進めないと甲斐路国体会場の卓球場が上野
原中学校の屋内運動場が決定になっているので、甲斐路国体が開催される前年までには
全てが完了していなければならないと私は考えた。この考えに基づいて工程計画を立て
た。土地買収では「先祖代々受け継いだ土地だ、手放したくはない」「単価が安い」「隣
の土地より例え千円でも高く買ってもらいたい」等々の意見が出されたが、絶対に売ら
ないという意見は無かった。土地買収が九十%程進んだ時に山梨県庁の学校施設課の斉
藤リーダーが現地視察に来町した。現地を案内した「大庭さん、こんな場所に学校を立
てるのか!」
「ここでしか、ほかに立てる場所がないですよ」と私は、頭を書きながら答
えたことを思い出さずにはいられない。
紆余曲折はあったが、用地買収は地権者の皆様に大変なご協力を頂いて、予定通りに
終了出来た。人間が生きていくためには、幾多の難問が待ち受けている。
「我に七難八苦を与え給え」と若かりし頃の心懸けを忘れたわけではないが、造成工
事の設計で、地質調査はボウリングの他、弾性波試験をも実施した、地形は山である。
地球が出来上がって何十万年の経過を得て現在の形を形成しているのだ。山を切り取
99
あしかせ
ると言う事は大変な冒険を行うと同じことである。綿密な事前調査の必要性を感じた。
先ず、私の頭から取り除く事が出来なかった一つの事があった。それは、同校の建設
な
む
お
せ
ろ だいごんげん
委員会から要望の正式四百メートルトラックのグランド建設である。これが大変な足枷
になった。地形図上で描けば、買収した用地で十分建設可能であるが、地質調査のデー
ターを基に設計をしたところ大変な工事費が積算された。「ああ!七難八苦はもうやめ
て!」我が身が我が身でない心境である。企画課長に相談をした。その内容は直ぐに加
藤町長に知らされた。このことで、町長が心労の為に床に付いてしまったとの情報が私
お
せ
ろ だいごんげん
ざんげ
の耳に入った。私自身が失神寸前であった。
「南無王勢籠大権現、南無王勢籠大権現、南
無王勢籠大権現」私自身が頑張らねば、私の知り合いの土木技術者にお願いをして工法
の検討についてのレポートを依頼した。六人の方々から六案のレポートを手に入れた。
このレポート及びアドバイスを素に設計事務所に積算をやり直してもらった。お陰様
で工事費を三分の一に縮小することができました。と同時に私自身の土木技術の知識と
知恵が習得できましたことに心から感謝申し上げます。レポート、アドバイスを頂いた
皆様には何のお礼もできませんでしたが、本文を書く事でお許し下さい。本文が世に出
るか、或いは私のパソコンの中で眠って仕舞うかも知れませんが、此の事を書く事で協
力を頂いた皆様と王勢籠大権現に懺悔いたします。「誠に有難うございました」
いろいろの経過がありましたが、無事上野原中学校は完成して、甲斐路国体にも間に
100
合いました。
101
その他の学校新増改築工事の思い出
建設課施設係は、昭和六十一年(一九八六)四月一日組織変更で施設維持課と名称が
変わり、更に平成三年(一九九一)八月一日組織変更で施設課となる。
平成九年(一九九七)四月一日水道課に配置替えとなり、昭和五十四年(一九七九)
から十八年間小中学校の校舎、屋内運動場、水泳プール建設工事に携わって来た。
其々の学校に関する工事には、難問、珍問、トラブルが思い出されるが、逐一記述す
るには、過去の日記帳が必要となる。最近の日記帳は書斎の書棚にあるが、古いものは
ダンボールに詰め込み物置に積み込んでしまい見付けるには困難である。
従って学区ごとに記憶にしたがって記述することにする。
この十八年簡の建築工事関わった教育施設の多くが今は廃校や休校になってしまって
いるが、私の人生は無駄なことをしてしまったのか?私は其の様に思いたくはない。
その時代には必要であったからこそ大切な国民の税金を使い、町の税金を使い、地元の
財産区の金を使い、PTAや建設委員会の努力を強要して出来上がった大切な文化施設
である。各地区の文化の拠点としての役割は十分に果たすことが出来る施設であると考
えております。行政においても地区住民もこの施設の活用を図り、利用して下さること
を強く要望を致しております。過疎化が進む中ですが、人間が住む環境は、地方の自然
豊な場所が最も適していると思います。今現在の地方は、インフラ整備も完璧に近い状
況であります。欠けているのは、文化であります。文化があってこそ人間の進歩が図ら
102
きぞう
れるのです。この文化の拠点を廃校になった施設を有効活用して頂けます様要望致すと
ころであります。
私が関わった学校新増改築工事で上野原小学校については、故「奈良泰蔵翁」の一生
涯をかけた上野原用水開発事業の成果が大規模校建設に当たっても学校用水の心配を何
等致すことなく進められたことや、「学校財産八重山」が存在したことを特記致したい。
この学校財産八重山が有ったからこそ財政困難な上野原町で校舎増築、屋内運動場、
水泳プールの作り変え、駐車場、給食棟の建設が可能になったのであります。
「学校財産八重山」とは上野原小学校百年史の一二九ページに次のように記されてい
る。
学校林・学校財産として、特筆すべきは水越八重さんの美挙である。お八重さんは、
死期の近いことを悟り、小学校の基本財産として、山林二十九町七反十八歩(約三 00
万
平方米)を町に寄贈した。昭和四年十二月、町当局は「上野原小学校基本財産林管理規
定」を制定し、永く小学校の基本財産として管理することになった。
昭和六年、細田賢作町長はお八重さんの美挙を永遠に顕影するために、山梨県知事平
田紀一氏の筆になる。「八重山之碑」を建立した。(碑陰文は佐々木文太郎氏等)。
顕彰碑は、当時、学校の正門をはさむように大欅と桜の木があり、その奥に藤村記念
館が威容を誇るように建った左前の位置にあったが、現在は運動場の上に移転された。
(八重山の碑、碑陰文評訳)
103
・
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・
自分のことを倹約して世の人たちに与え施すということは、一番大きな「かくれた徳」
・
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人に知られないよいことです。まして立派な人を作るもとでを投げ出して、世の中のため
・
・
・
になる人をそだてるみなもととするのは、その心はほんとうに美しく立派なものです。
水越八重さんは、明治十九年十一月二十二日、この上野原町西シ原に生まれた人で、
生まれつきおとなしくてすなおな性質で自分からつとめはげんでやまない人でした。
明治三十四年上野原小学校の高等科を卒業してからというものは、家の仕事を全部自
分が引き受けてやっていました。時々おむこさんを世話する人があってもどうしても聞
き入れませんでした。いつでもこういっていました。それは「人間というものは、この
世の中に生まれきて、ただ何にも役にたつことをしないで生きているだけなら、一つも
せんこう
人間のねうちがありません。世の中のためになる仕事をしてそのほまれを子孫に残して
こそ生まれて来た甲斐があるというものですよ」というものです。
八重さんのなくなった先考(意味=亡父のこと)は義行さんという名前で、若いころ
から産業を盛んにおこし、郡や町の議員さんとなって北都留や上野原の政治がうまくゆ
くようにつとめました。又このお父さんは俳句がうまく、
「楊花」という名前で俳句を作
おじい
っていました。八重さんの祖父さんの善七さんもまたぜいたくをせず真心のあついひと
で、朝から晩まで家の仕事に一生懸命でした。おじいさんやお父さんがなくなってから
104
は、八重さんは誰の力らもかりないでひとりで、大きな家の仕事や財産をきちんとよく
整理して、大変うまく生活をたてていました。
昭和四年五月病気になって寝ていましたが、だんだん病気がおもくなっていきました
八重さんは、常日頃考えていた「立派な人をつくるために何とかしたい、生き甲斐のあ
る一生を送りたい」という志をほんとうにやって見たいと決心したのです。
(八重さんが
病気でたおれた昭和四年の五月五日に今の新校舎の落成式があげられました)。八月の三
日、八重さんは自分のもっている山林二十九町七反十八歩(今の学校の校地の約二十倍
の広さ)を「学校の大もとの財産にして下さい」と寄付をねがい出ました。ところがそ
のあくる日の八月四日ばったりなくなってしまったのです。そのときの八重さんの歳は
四十四でした。
一体、世の中には、沢山のお金や財産を持っていると、中々人のため社会のために投
げ出す人は少ないものです。それだのにこの水越八重さんは世の中のお役にたてたいと
いう美しい立派な心をもち、それを実際にやりとげたのです。全く八重さんのような人
は、高い所から、世の中がどうなっていくか、どんなにうつりかわっていくかというこ
とを、大きな広い心でちゃあんと見て知り、それじゃあどうすればいいかということを
考え、自分のことは出来るだけ倹約をして、世の中のため、他人のためにつくした人、
偉い人、すぐれた人、立派な人ということが出来ます。こういう人こそ、のちのちの世
の人たちのお手本といわねばなりません。
105
せきひ
ああ、この八重さんの心や行いはすぐれた立派なもので、八重さんが生きていた時「人
のため世のためにつくして、ほまれを子孫にのこそう」と心がけた通り、千年も万年も
伝わって光りかがやく人ではないでしょうか。昔の偉い聖人は「立派な徳のある人は決
して一人ぼっちにはならない、必ずこの人を助ける人や見方になる人があるものだ」。
といったが全くその通りです。ほんとです。
町は早速町会を開いて、八重さんのこの学校のための寄付をありがたくいただき、そ
の山林に「八重山」という名前をつけました。又これを記念するためこの学校の運動場
の上に石碑をたてて、八重さんの立派な心としごとを永く永くつたえます。
(近藤百之先生の解釈)
百年史
上野原小学校からの引用
ここに、示した「学校財産八重山」が上野原小学校の校舎の老朽したのを増改築や屋
内運動場、水泳プールの改築、給食棟建設等々に大変に寄与されましたことは、同校建
設委員会の皆様方や同校PTAの皆様方にはご理解を頂けるものと考えております。
特記したいのは、この「学校財産八重山」はゴルフ場へ賃貸借契約により貸し付けら
れておりました。当然「学校財産八重山積立金」として管理されておりましたが、前記
の事業費が莫大な金額になりますので、貸し付けた山林をゴルフ場に買収して貰い、お
八重さんの美挙を永遠に顕影するために、上野原地区財産区の山林と交換して貰うと言
う案をPTAの役員であって建設委員会の役員でもありました。活動家の方が居りまし
て、財産区役員のお宅を毎晩の様に訪問をして趣旨説明をして、財産区の役員さん全員
106
の賛成を取り付けて頂いたことは、事業を担当している私にとっては神様以上に有難い
方でありました。この方の働きで、今京浜地区や近県からの八重山ハイキングコースは
有名になり、休日ともなれば多くのハイカーが訪れ上野原の名勝地として、観光資源と
して脚光をうけております。又この八重山には、多くの珍しい植物が自生しており、児
童や生徒の学習の場としても最適であるとある専門家からも喜ばれております。
お八重さんは、永遠に多くの人びとに愛されるものと確信をしております。
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記(私が携わった部所を記載)
小学校の部
大目小学校区
大目小学校 水泳プール 同屋内運動場・・・・・・・・廃校
甲東小学校区
水泳プール・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・廃校
同和見分校
校舎 教職員宿舎・・・・・・・・・・・・・・・・・・休校
大鶴小学校区
水泳プール・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・廃校
四方津小学校区 校舎 屋内運動場 水泳プール・・・西小学校として活用されている。
沢松小学校区
屋内運動場 水泳プール・・・・・・・・・・・・・・・廃校
島田小学校区
校舎 屋内運動場 水泳プール・・・・・・・・・・・・活躍中
上野原小学校区 校舎(増築部分)屋内運動場 水泳プール 教職員宿舎 給食調理場
及び食堂・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・活躍中
棡原小学校区・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・廃校
西原小学校区
屋内運動場 水泳プール 給食調理所・・・・・・・・・一部利用中
中学校の部
平和中学校区
校舎(仕上げ部分)水泳プール 屋内運動場・・・・・・廃校
西中学校区
校舎 屋内運動場 水泳プール・・・・・・・・・・・・活躍中
島田中学校区
校舎 屋内運動場 水泳プール・・・・・・・・・・・・廃校
上野原中学校区 校舎(増築部分) 給食棟 屋内運動場 水泳プール・・活躍中
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棡原中学校区
校舎・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・廃校
西原中学校区
校舎 屋内運動場 教職員宿舎・・・・・・・・・・・・小学校とし
て利用中
幼稚園の部
沢松幼稚園
園舎・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・活躍中
以上の建設事業に携わった事を思い出す。
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水道事業の責任者としての思い出
平成九年四月一日から定年退職をする平成十一年三月末日までの二年間は水道課に勤
務した。簡易水道担当としての五年の経験はあったとしても責任の大きさは比べ物にな
らない重さがある。一万人の生活用水を安全、安価、安定給水を図るのは、そう容易な
ものではない。源水を導水する導水路が棡原の桐壷地内の落盤事故で三二山水源の水が
止まってしまった時の苦しみは忘れる事が出来無い。黒田沢補助水源、向風下の補助水
源、月見が池の水を上手に活用しながら賄ったが、一日だけどうにもならない日があっ
た。課員全員を二手に分け二十四時間対応で対処しながら、防災放送を利用して何回も
の協力要請のお願いをして深夜のみの給水停止を図った。
私は、二十四時間勤務をした。十二月二十四日であったので出来る限りの給水時間を
延長した、飲食店への迷惑を考慮したのであるが、配水池の水位は下がるばかりである。
水道技術管理者の「もう限界だ」との判断を受けて元栓を締める事を指示した。数分
後から苦情電話が出始めた。地盤の高いところから住民からだ、都心部に通勤している
人々は朝早く家を出たので「断水のお願いの協力要請放送」を聞いていないのである。
職員が丁寧な対応をしているが、なかなか理解を得られない状況である。やがて電話は
私に回ってくる。私はお詫びをする以外に方法はない。「告訴するぞ」と怒鳴られる。
技術職員には、浄水施設をフル活動してもらい、明日の給水量の確保に全力で当たって
貰った、翌朝四時に配水開始の作業に取り掛かって貰った、これも技術職員が主役にな
110
る配水管には、水垢が必ず付いている。配水弁を一挙に開くと水垢が剥がれて飲用水が
濁ってしまう。人間の血管におけるコレストロールと同じである。不整脈によって起こ
る脳梗塞や心筋梗塞と同じ理屈である。ベテランの技術者にこの作業には担当してもら
った。給水区域の一番低いところの消火栓の放水もゆっくりと開けてもらい濁り水を捨
てることにした。五時になると苦情の電話が掛かり始めた。洗顔をしようと水栓を開い
たら濁った水が出てきたどうしてくれる?というものである。
「昨夜の断水で、水道管が
空になり、そこに、水が流れたものですから、水道管の水垢が流れているのです。その
まま少しの間流しておいてください。濁りが無くなってから水を止めてください。
今月分の水道料金から差し引いた金額で請求させていただきます」と説明して納得を得
た。水道事業が住民生活に密着していることが、この隧道落盤事故を通じて身にしみ染
みこまされた。
臨時職員を含めて三十九年間上野原町職員として、務めた期間は長いようでもあり、
あっという間に終わった気がしてならない。平成十一年三月末日で定年退職となった。
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職務以外の思い出
ほんこん
たいわん
外国への旅行、香港、台湾の二カ国へ友達との観光旅行をしたことが思い出される。
初めての外国は、香港で合った。この時初めてカジノというものを見た、体験もしてみ
た。二回目が台湾である。台湾では、殆どの日本語が通じた。建物を見なければ日本に
いるのと同じ感覚で観光することができた。
今考えるとこの時代は、円が安かった。三百円を超えていたとおもう。
三回目の外国は、上野原町職員組合の皆さんのご協力で、自治労関東甲地連第四回国
際交流団に派遣されて参加した事です。一九八四年(昭和五十九年)十月二十八日成田
空港からフランクフルトへ飛び同年十一月十日成田空港着の二週間の旅である。
次ページから、経路図、日程表を示します。参加者は自治労旅行センター職員を含め
て十六名でした。(名簿については個人情報の関係がありますので省きます)
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経
路
図
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日 程
表
航空機
大庭 薫
十月二十八日 成田空港 二十一時三十分発 LH六五七 航空機にてフランクフルトへ
十月二十九日 フランフルト
マインツ泊
十月三十日
バスでローテンブルグ市内視察
ローテンブルグ泊
十月三十一日 ローテンブルグ ハイデルベルク フランクフルト
ハイデンベルグ泊
十一月一日
フランフルト発 LH0一六 航空機 ストックホルム
ストックホルム泊
十一月二日
ストクホルム
交流(SKAF)
ストックホルム泊
十一月三日
ストックホルム~コペンハーゲン~東ベルリン 航空機にて 東ベルリン泊
十一月四日
東ベルリン バスにて視察
ポツダム視察
東ベルリン泊
十一月五日
東ベルリンからバスにてベルリンへ交流
(FDGB)西ベルリン泊
十一月六日
西ベルリン AF七六七
航空機にてパリへ
パリ泊
十一月七日
パリ市内視察
パリ泊
十一月八日
パリベルサイユ宮殿視察 午後交流(FGF、FO)
パリ泊
十一月九日
パリ~フランクフルト 航空機LH一一一
フランクフルト
LH六四二
機中泊 カラチ給油
十一月十日十四時成田空港に帰国した。
この国際交流団に参加してこんな感想分を投稿しました。
古建築の群に感激
自治労関東甲地連ヨーロッパ交流団の一員として、機会を与えてくれました関係機関
の皆様に心から感謝致します。
私にとって、今回の交流団に参加できましたことは、大変有意義でありました。過去
二回海外旅行を経験しておりますが、いずれも観光旅行であり日数も五日程度のもので
114
した。今回は重要な任務をもっての二週間と言う長旅のため、出発の前には何かと不安
でいっぱいでしたが、今ふりかえって考えてみますと十五名の仲間の皆様に温かく支え
られながら無事任務を果たす事ができましたことを心から喜んでいる次第です。
交流した各国の組織代表からの意見で多くのことを学びましたが、各担当班報告と重
複することになるとおもいますので、特に印象の深かったことについて報告します。
一、スウェーデンSKAFの交流から
スウェーデンにおける老人福祉の考え方。社会を作ったのは老人たちである。從って
老人の生活は保障されなければならない。仮に社会保障の切り下げがあっても、その影
響は受けないようにしている。
二、東ドイツFDGBの交流から
資本主義社会と社会主義社会との違いによって労働組合の性格が全く違う。
労働組合が立法権を持っている。
三、フランスのFGF、FOの交流から
日本と同じように長期的不況と言う構造的な矛盾が拡大し、失業者の増大は著しく、
労働者、勤労国民へのしわ寄せは益々強められている。とりわけ公務員労働者への攻撃
は人員削減、民間委託などが進行しており、新聞が公務員攻撃を続けている。
組合交流以外で特に感激したことは、訪れる全ての都市に歴史があり、歴史の重さを
感じさせられました。私は職場における業務の内容が、建築に関わる関係から、特に建
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築物については、宝の山と言った感じがしてなりませんでした。
宗教戦争、世界大戦の戦禍を受けながら、なお歴史は保存されている。古建築の美、
それは深みのある濃い味わい、汲めども尽きぬ熟成した味がありました。ゴシック建築、
バロック建築の本流を目の辺りにして、大変感激をしたところです。
これからも頑張ります。
以上が私の帰国後の感想でした。
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定年退職後の再就職での思い出
だる
定年間際に上野原町土地改良区(町村合併後)上野原土地改良区に名称変更をする。
理事長の市川先生から「大庭君は、水について詳しいから、土地改良区を手伝ってく
れないか?」との話が有り、妻に相談したら「退職して、家でブラブラされると目障り
だから勤められるなら、勤めてもらいたい」と言われた。参事待遇と言う事であったが
給料は安かった。全く別世界の仕事であった。農業は若い時飽きる経験したが、それは
全てが畑仕事であり、私の生まれた家には田圃なんて物はなかった。
先ず、土地改良区とは如何なる団体なのか?過去の運営は同処理されていたのか?現
場はどこにどうあるのか?勉強しなければならないことが山とあった。前任者から概ね
のことは教授された。兎に角積極的に取り組む以外に道は開かれないと考えた。
上野原開田史なる書籍があった、これを続覇する。過去の会議録を読み解く、実に素
晴らしい会議録である。古いものまでよく整理ができている。先人たちの苦労が滲み出
している。これはよほど確りと頑張らないと務まらないぞ!と肝に銘じた。
初夏になると、体が怠くなって体調がおかしくなった。環境変化のせいかとも思った
が、廊下を歩くのにも右側の足が前に出ない。そうかと言って歩けない訳ではない。
出勤して事務所前の道路の白線を平均台のようにして、歩いてみた。左足は白線の上
に運べるが、右足はどう頑張っても白線の上に足を運ぶ事が出来なかった。
昼飯を食べ昼休みが終わった役場に電話して保健婦さんに状況を話相談した。
「今すぐ
117
病院に行ってください」「でも午後だと受付をしてくれないでしょう?」と私、「私が手
配をしますから、必ず行ってください」病院は事務所のすぐ上の段の敷地にあるのだ、
私は帰り支度をして、病院へ向かった。数分で着いた。受付窓口に顔を見せると脳神経
外科に案内された。医師の前に座るといきなり両手を挙げてください。私は両手を肩の
高さにあげた。「両目を閉じてください」目を閉じた。「あなたは、脳梗塞を起こしてい
ます。
「すぐ入院してください」「CTの検査をします」看護師が車椅子を用意した「私
は歩けますから」
「病院で倒れられたら困りますから、乗ってください!」私は施設課に
在職中病院の維持や耐震検査や一部改装の相談に立ち会っていたので病院内部はよく理
解していた。車椅子で運ばれるのが恥ずかしかった。CT検査を終わり診察室へ帰ると
私の脳の断層写真が医師の前のスクリーンにずらっと並んでいた。医師から「ここの所
が詰まっていますと」説明された。「二週間入院して点滴で治療してみましょう」
事務長が挨拶に来た、
「自宅の方には検査入院だと電話を入れてあります」数ヶ月前ま
では職場仲間である。有難かった。病室に案内されたパジャマに着替え、ベッドに横た
わると点滴が始まった。妻が下着やタオルを用意して訪れた。朝からの体調のことや
保健婦さんにお世話になったことを説明し、脳梗塞であることも説明した、幸いなこと
に保険婦さんが私の説明で直ぐ病院に手配をしてくれたので助かった。と経過を説明し
た。
「検査入院だと言われたから、どこが悪いのかと心配しながらきたよ」と妻が言った。
「脳梗塞でも手足は動くの?」「右足が少しおかしいが、歩くことはできる」「口の利き
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つくづく
方が少し変なところがある感じがする」と妻に言われてみると確かにその通りだ。
妻はかえった。考えてみると早く気づいて良かったと熟熟思う。これが倒れて救急車
で運ばれるようになってからだと、大変なことになった。反省をした。
夕方総婦長が見舞いながらの挨拶に来てくれた。大変嬉しかった。
夜になると院長が見舞いと、検診をしてくれた。
「両手を上げて目をつむって」言われ
るままにした。結果は、来院した時とおなじであった。右腕はだらっーと落ちていた。
翌日から、兄弟たちが脳梗塞と聞いて次々に見舞いに来てくれた。大勢の人に大変な
迷惑をかけてしまったなと、己の健康管理には、十分な注意が必要であると再反省を改
めてした。
二週間が過ぎた。CT検査を実施した。結果は脳内の傷は全てが治癒してなった。影は
薄くなっていることは確認できたが、傷は残っている。医師からもう一週間リハビリテ
ーションと点滴治療をすることにした。最終的にアンギオ検査を実施して退院した。
国内の農業政策は行き詰まりを感じ始めていた。山間部に遊休農地が出始めたのだ。
ここで、始められたのが「全国土地改良区事業団体連合会」が二十一世紀土地改良区
創造運動である、私は早速飛びついた。上野原土地改良区事務所に隣接する町立上野原
小学校に呼びかけ、自然や、農地、水、溜池の役割と人間と関わり方について、勉強会
をしませんか?学校側からすぐ回答が出てきた。学校から「今地方の学校で、池上 彰
さんの自然に関するお話が、大変わかりやすいと評判です。この方の講演会を開きたい
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かんなん し ん く
が、経費について面倒を見てくれますか?」
「分かりました。実施した状況写真、参加者
数、講演内容等報告をして頂けるなら結構ですよ」と話は簡単に決まりました。
今現在は池上 彰さんは、大変有名人になり、私も数冊同氏が書かれた冊子を購入し
所持しているが、現在であれば、とてもこんな田舎町へ来て小学生相手の講演会を引き
受けては貰えないだろう。上野原土地改良区は、二十一土地改良区創造運動初年度から
参加し、その第一回目に池上 彰さんの自然に関するお話であった。その後は、毎年学
校側からこの運動を続けてくれるかとの問い合わせが来るという好条件ができて、私は
平成十九年四月一日で上野原土地改良区を退職したが、退職後五年間は同改良区の依頼
を受けて「上野原用水の学習」と称して上野原小学校四年生に出前教室と施設案内の講
師を務めてきた。少子化現象が市街化地域にも現れ、施設案内のバスに半日の空きが出
た時には町内の一般人に呼びかけて参加者を集め施設案内をした。参加者からは「参加
して大変良かった。知らず知らずに日々使っている水が先人の方々の艱難辛苦のおかげ
で現在の生活が成り立っていることに気付きました。大変有り難い事です」
現在では、この教室もなくなり、日々パソコンで雑事の情報を入力しながら三病息災
の生活であります。
最後に生涯で全国の関係機関からの表彰状を掲載致します。
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著者の略歴
一九三八年生まれ(山梨県上野原市和見)
大月短期大学経済学部経済科卒業
財団法人日本建築文化事業協会、通信教育日本建築大学講座卒業
上野原町役場施設課長、水道課長を経て平成十一年三月三十一日定年退職
退職後上野原土地改良区参事を務め平成十九年四月一日退職
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平成二十六年七月○○日
著 者
大庭 薫
発行者
大庭 薫
山梨県上野原市上野原一八五二―五
電話
〇五五四~六二~五八七九
携帯電話
〇九〇~九八〇三~三八五三
印刷製本
大庭 薫
手作り印刷製本
非売品
訂正とお詫び、この文章は、原稿を書くことなく、いきなり入力したものです。校正
もしておりません。文中には「の」を「に」と入力した部分と、逆に「に」を「の」と
入力した部分があることと思います。老齢のため指先がうまく動かず、キーボードの「I」
と「O」が隣り合わせている為に、人差し指と中指の打ち間違えが原因であります。文
中このような箇所については、読替えをして頂けます様訂正とお詫びを申し上げます。
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