***【金沢大学教育学部を去られるにあたって】******************** “学び”とは何かを問い続ける研究者・チェロの響きを持つ黒上先生 ************************ ― プロフィールと赤い糸 ― 黒上晴夫先生は昭和34年(1959年)に 大阪で生まれ、昭和58年(1983年)大阪 大学人間科学部を卒業された後、同大学の人間 科学部研究科博士課程(教育学専攻)に進まれ、 金沢経済大学 岡部 昌樹 *** に黒上先生は、金沢大学教育学部付属教育実践 研究センター(現教育実践総合センター)に助 教授として赴任してこられたのである。 ― 先頭に立つコーディネータ ― 研究者としての道を歩まれた。金沢とのお付き 金沢大学に赴任した翌年から、各種の全国大 合いが始まったのはこの時期からである。先生 が技官や助手をされていた平成元年∼平成3年 会が待ちうけていた。以下は黒上先生がコーデ ィネートした代表的な学会等の全国大会である。 ごろは学校現場でもマルチメディアなるものが ・1994年:第20回全日本教育工学研究 注目を集めはじめたが、本格的なハイパーメデ ィア教材といえば「文京文学館」だけだった。 協議会全国大会(金沢大会) 赴任の翌年には日本教育工学協会が主催する 先生は教育システム工学講座の助手をされてい 全国大会が金沢大学で開かれることになった。 た関係で交通安全に関するハイパーメディア教 材の開発と実証研究に取り組まれた。黒上先生 石川県教育工学研究会は総力を上げて組織づく りにあたった。勿論、黒上先生は“学び”の研 が開発された教材を用いて、金沢の地において 究どころではなかったのではないかと思う。多 も三和小学校を拠点に本格的な授業実践を試行 することになった。当時の映像教育研究グルー 忙の頂点で、行動しながら采配を振るうという 神業を演じた。 プは吉田先生(石川県教育工学研究会会長)の ・1996年:日本教育工学会第12回大会(金 指導の下、総力を上げて実践に取り組んだ。こ の研究成果は、黒上先生の下でまとめられ「ハイ 沢大学) 日本教育工学協会主催の全国大会を乗り切っ パーメディアによる交通安全教育教材の開発と た翌年には工学会からの打診があり、一年おい 評価」(学会誌;視聴覚教育研究:第17巻)に 収録され、わが国にけるマルチメディア教材の て大会は金沢大学で行われることになった。吉 田先生も黒上先生がおられなければおそらく引 開発・設計に火をつける結果となった。 き受けることはなかったと思う。石川県教育工 この研究は先生のその後の研究テーマとなる “学習環境の創造“に少なからず影響したもの 学研究会だけでは到底不可能であった。それほ ど大きな学会だったのである。 思っている。当時、水越先生の指導のもと、共 ・1999年:日本教育メディア学会第6回大 に研究に携わった田中先生(現大阪教育大学)、 木原先生(現大阪市立大学)、山内先生(現東京 会(金沢大学) またまた、金沢大学での学会開催が決まった。 大学)、村川先生(現鳴門教育大学)も、今では 勿論、石川県教育工学研究会も総力を上げて取 日本を代表する教育学研究者になっている。 この研究成果は金沢の映像教育研究グループ り組んだ。しかし、黒上先生の采配なしにこの 大会を行うことは不可能であった。黒上先生の (現メディア教育研究グループ)に多大な影響 人格が為せる技でかり、まさに“チェロ”の響 を与え、その後のメディアミックスの授業設計 の原型になった。 きが人を動かした。 関西大学へ行かれても、石川県教育工学研究 この研究が一段落した平成5年(1993年) を導き、叱咤激励してください。
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