第2章 江戸時代の川と人のかかわり

第2章
江戸時代の川と人のかかわり
(1)治水事業
1)利根川の東遷
家康が秀吉に命ぜられ江戸に入府した当時、江戸は利根川と荒川が流入する一大河口地
帯であり、関八州を治めるため「国を治める者は水を治める」必要に迫られていた。
このため、直臣関東代官頭伊奈備前守忠次に命じて、武蔵国の大規模な治水・利水事業
を行わさせた(今ふうに言えば壮大なる河川総合開発)。伊奈氏は信州伊那の出身、忠次は
初め徳川家康の近習となり、家康の関東入国時、家臣の所領配置や入間川の「千住大橋」
架橋などの整備に当った。さらに関東天領の代官頭として検地・新田開発・関所設置・街
道整備に活躍して江戸幕府財政の基礎を定めた。
「利根川東遷事業」は文禄三年(1594 年)に第一次改修が始まり、羽生領上川俣で会の
川を締め切り、佐波地点で浅間川に引き、島川・権現堂川・庄内古川から太日川に導いた。
元和七年(1621 年)の第二次改修が始まり次男の忠治に引き継がれ、佐波地点から栗橋ま
での新川通り、栗橋から常陸川までは赤堀川が開削された。その後二度にわたる拡幅で新
川、赤堀川が通水して以来、完成までには孫の忠克まで 60 年の歳月を要したという。また
河川に堰を設け、上流からの排水を貯め溜井にして用水として利用する「反復利水システ
ム」の「葛西用水」も築造された。
荒川では、忠次により慶長年間(1592~1596 年)に着工・完成した工事として、荒川五
堰(後に成田堰を加え六堰)の設置、備前堤・土屋古堤の築造、川島囲堤の修固等がある。
寛永六年(1629 年)、忠治により元荒川が大里郡久下地先で締め切られた。工事は久下と大
里郡天水間を掘削して、久下に堤防を築き荒川の本流を和田吉野川に落とし、市ノ川から
入間川へと流下させた。
このように忠次、忠治は幕府の統治体制の確立に功績を上げると共に、伊奈氏の治水・
利水は 10 代に渡って続き伊奈家が伝えた河川技
術は「伊那流または関東流」といわれ埼玉県東部
低地開発の礎を築いた。
天正 18 年(1590)の 8 月 1 日、徳川家康は江戸城
に入り、関八州の支配についた。そして武蔵国埼
玉の開発に本格的に着手するとともに、治水対策
にも取り組んだ。
当時の利根川の流路は現在と全く異なってお
り、川俣(羽生市)付近まではほとんど今日の流路
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伊那忠次・忠治の墓
と変わりないが、それより下流は現在の会の川、大落古
利根川、古隅田川筋を流下し、現在の吉川市で荒川(現
在の元荒川筋)を合流して隅田に至り、ここで入間川
(現在の荒川筋)を合わせ、それ以下は隅田川と呼ばれ
て江戸湾(東京湾)に注いでいた。
文禄 3 年(1594)、忍城主である家康の 4 男松平忠吉は
小笠原三郎左衛門に命じ、当時利根川の本流であった
会の川を締め切り、利根川本流を東へ導いて浅間川筋
を本流とし、さらに島川づたいに権現堂川へ導いた。こ
川俣締切阯:羽生市上川俣
の改修は、一般的に利根川の第一次改修と称されてい
る。
しかし、この改修では、下流部が依然として水害を被
るため、元和 7 年(1621)、関東郡代伊奈忠治は新川を開
削して利根川を渡良瀬川に合流させた。これを新川通
という。
そして太日川(ふといがわ-当時、利根川の外に江戸
湾に注いでいた河川で上流は渡良瀬川であった)を利
根川の主流とした。
文禄 3 年(1594)の会の川締切から始まった利根川改
修は新川通の開削まで 60 年という長い年月をかけて進
められたが、当時、利根川は現在の加須市を縦断するよ
うに南流しており、水害が耐えなかったことから、利根
川改修工事には現加須市の大越地区住民を含めた周辺
住民の努力と協力によって進められた。
利根川旧堰堤阯:加須市外野
これらの大事業が完成した後、加須地区は水害が減り、新田開発も積極的に行われ、肥沃
な水田地帯となって農業が発達したという。加須市外野地区にある利根川旧堰堤跡に昭和 3
年に建てられた記念碑を見ると、当時をうかがい知ることができる。
太 日 川 を 利 根 川 の 主 流 に す る と 同時に利根川と渡良瀬川の一部流量を常陸川筋に導
く赤堀川を開削した。ところが赤堀川下流の常陸川筋の流路が未整備であったため、五霞村
(茨城県)で氾濫し、さらに庄内領にも流下したため、あたり一面水害によって荒廃するに至
った。そこで寛永 18 年(1641)、伊奈忠治は江戸川を開通させ、赤堀川の流量の一部を江戸湾
へ流下させた。
開削された江戸川は庄内領金杉村で庄内古川につながれた。このため、庄内領をはじめと
する近隣の村々は水害に苦しんだ。金杉村の名主飯島貞嘉の祖父はこの惨状に河川改修工
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事を幕府に嘆願したが叶えられず孫の貞嘉の代
にようやく念願が果たされた。享保 13 年(1728)、
庄内古川は江戸川から切り離され、江戸川と並
行して流れるように改修された。
これにより一帯は大きな水害から開放され、
その喜びを永く後世に伝えるため飯島貞嘉が中
心となって元文元年(1736)に碑を建立した。亀
の形に刻まれた台石(亀趺という)は形態的にす
ぐれ、石造美術としても貴重といえる。ち な み
に 、こ の 台 石 は 地 元 で 「 河 童 石 」 の 呼 称 で 、
多くの方々から水神としても親しまれて
いる。
江戸川の開通により水害で荒廃した五霞村や
庄内領は、治水上一応の安定をみるようになっ
たが、ここで幕府はさらに常陸川筋の河道整備
新利根川碑:松伏町金杉
を行った。承応 3 年(1654)、忠治の後を継いだ伊
奈忠克により赤堀川を切りひろげて利根川の主流を常陸川に流下させた。ここにはじめて
利根川の主流は流域をかえて銚子で鹿島灘(太平洋)に落ちるようになった。これがいわゆる
「利根川の東遷」である。
2)荒川の瀬替え
一方、荒川は吉川で利根川に合流していたが、熊
谷付近より下流は県東部の低地帯を流下していた
ため、氾濫のたびに流路を変えていた。現在はかな
り消滅しているが、かつての小針沼、笠原沼、小林
沼、栢間沼、柴山沼などはいずれも荒川が氾濫して
できた沼と思われる。
荒川は綾瀬川にも流入してその沿岸に大きな被
害を与えたため、伊奈忠治は寛永の初年、北足立郡
加納村(桶川市小針領家)地先に堤防を築き、綾瀬
川への流入を防いだ。いわゆる「備前堤」である。
この備前堤は、その後、上流側に湛水被害をもたら
すこととなって、下流側の村との争いを引起すこ
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備前堤御定杭:桶川市小針領家
ととなった。こ の た め 上 下 流 村 々 の 水 争 い を
調停するため御定杭を設けた。
このような堤防の高さ等による争いはあちこち
であり、利根川の上流域と下流域の村落が堤防の
補強による洪水の発生に端を発して、しばしば争
いを起こした。深谷市にある論所堤定杭は、文久 2
年(1862)に裁定がくだされた際、堤防の高さを定
めるために建てられたものである。
さて、備前堤等の整備だけで荒川の被害を免れ
た訳ではなく、寛永 6 年(1629)、伊奈忠治によって
久下村(熊谷市)で荒川を締め切られ、新たに荒川
の河道を開削して、当時入間川の支川であった和
田吉野川に導くことで、以来入間川の流路が荒川
の本流となり、ほぼ現河道を経て江戸湾に注ぐよ
論所堤定杭:深谷市江原
うになった。これを「荒川の瀬替え」という。
しかし、この瀬替えによって、新河道と入間川、市野川、市野川、和田吉野川との合流点付
近は、逆流により、たびたび氾濫が起きるため、これら支川の付替工事を行うとともに、上流
域では川島領大囲堤(比企郡川島町)、吉見領の荒川大囲堤(比企郡吉見町)など各所に大囲堤
(山地・堤防で領地を囲む一種の輪中堤)が築造され、洪水に備えた。
このような利根川、荒川の河道変更により、埼玉の東南部から江戸近郊にかけての低湿地
は、ようやく開発が可能となった。利根川と荒川の流路変遷は次図の通りである。
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図 1-2 利根川と荒川の流路変遷図
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(2)用水事業
1)備前梁用水
河川の整備とともに用水路の整備も合わせて行われ、著名な
用水路として備前渠と葛西用水がある。
備前渠は、利根川の支川烏川の流れを仁手堰(本庄市)で取り
入れ、これを小山川に落して矢島堰(深谷市)よりひき入れ、県
北の生産力の向上をはかるという目的で慶長 9 年(1604)、伊奈
備前守忠治によって開発されたもので、その役名をとって備前
渠とよばれる。備前渠は、妻沼町付近で一旦福川に落したが福
川下流で再度取り入れ、北河原用水や羽生領用水としても利用
したので、その影響はさらに埼玉郡地域にも及んだという。
7 万石余の耕田を潤していた備前渠が、天明 3 年、浅間山の
大爆発で降灰により取水口は跡形もなく埋没した。そして、爆
国利茲興:本庄市
発により寛政 5 年渠首を塞がれて以来流域の情勢は極度に険悪化し、紛争が止まなかった。
そこで、従来からの取水口である仁手村渠口を塞ぎ、利根川上流の久々宇村に引水用の石材
煉瓦閘と螺旋開閉鉄扉の新渠を築いた。
昭和 7 年、本庄市久々宇に建てられた国利茲興の碑には備前渠の立ち上がりから、本流の
変遷に伴う導水路を改め、明治 19 年に圦樋を上流 700 余間の所に移したこと、また、その後
の豪雨出水ごとの復旧や費用などが事細かに記されている。
備前渠改閘碑:深谷市矢島
備前渠再興記碑:熊谷市妻沼八木田
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深谷市矢島には浅間山大爆発により埋没した仁手村渠口に代って上流に新たな取水口を
設けたことを記した備前渠改閘碑がある。また妻沼町八木田には紛争解決にあたった吉田
市右衛門等の奔走努力と、石川遠山両勘定奉行の仁明な裁きによる和解などの功を伝える
ため、天保 4 年 3 月に建てられた備前渠再興記碑がある。
2)葛西用水
葛西用水は、万治 3 年(1660)に郡代伊奈忠克が
開発した。
伊奈氏は利根川、荒川の流路変更によって生じ
た用水量の減 少を河川の所々をせきとめ、そこに
溜井をつくって貯水しこれを利用する手段をとっ
た。現在、大宮、浦和台地の東方に広大な水田地帯
があるが、以前は見沼溜井といわれ、寛永 6 年
(1629)、三代将軍家光のとき伊奈忠治が八丁堤(約
900m)といわれる大堤防を築き、水路(芝川)を締
め切ってつくられた人口の沼であった。
この見沼溜井は二千町歩(約 2,000ha)余りにわ
たる広大なもので、下流域 221 町村で灌漑用水に
利用されていた。
八丁堤:さいたま市
伊奈氏はこの方法を旧河道にもとり、下流から
瓦曾根溜井、松伏溜井、琵琶溜井とつくった。しか
し、上流にいくに従い流水が少なく、貯水量が減る
ため万治 3 年(1660)、伊奈忠克は川俣(羽生市)付近
に利根川の導水口をつくり、これを利根川旧河道
の会の川に流して琵琶溜井に導いた。これによっ
て葛西用水といわれる用水系ができたのである。
葛西用水元圦之碑:羽生市本川俣
3)見沼用水
その後、八代将軍吉宗は米将軍と呼ばれるほど米の増収を図った将軍であったため、広大
な地域を占める見沼溜井を干拓し、水田にすることが得策と考えた。そしてこの工事にあた
ったのが紀州の土木技術者井沢弥惣兵衛為永である。井澤弥惣兵衛為永は寛文 3 年(1663)
に紀伊国(和歌山県)溝口村(海南市)に生まれ、土木技術に才能を発揮し、紀伊藩主 5 代にわた
り仕えた。将軍吉宗に招かれた弥惣兵衛は、享保 12 年(1727)から見沼の開発に着手した。
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弥惣兵衛は沼の水を排水路(芝川)を掘って荒川に落し、見沼
溜井を水田化するととも に今まで見沼の水を利用していた水
田の灌漑用水路を新たにつくる、といういわゆる用排水分離方
式をとった。この方式は従来、伊奈氏がとった溜井方式とはま
ったく異なるものであり、後年、伊奈氏の方式を「伊奈流」ある
いは「関東流」と呼ぶのに対して、弥惣兵衛の方式を「紀州流」と
呼んでいる。
弥惣兵衛によって開削された用水路は、即ち見沼代用水であ
り、これは下中条(行田市)地先の利根川に巨大な木造樋管を設
けて取水した。
井澤弥惣兵衛為永墓碑
以来元圦、増圦の二口で取水していたが明治 39 年(1906)、
:さいたま市
一口の煉瓦造りに改造し、昭和 13 年、34 年に一部改造したが、
昭和 43 年(1968)利根大堰からの取水開始に伴って元圦は廃止するに至ったが、当時は木造
樋管から取水した用水を途中星川を利用して流下させ、綾瀬川の上をかけ樋で渡ってから
東縁と西縁に分けている。
見沼代用水は延長 60km という大水路であるが、弥惣兵衛は享保 10 年(1725)に工事
を計画し、12 年 9 月から 13 年 2 月までの 6 ヶ月間で完成させた。
井澤弥惣兵衛為永は、見沼開発の際に水路沿岸要所に弁財天社をお迎えし、灯明料を寄進
して水路の平安と豊作を祈願したと伝えられている。
現在、見沼土地改良区では水路沿線の 3 つの見沼弁財天社と関係しており、この見沼弁財
見沼弁財天:菖蒲町上大崎
見沼元圦改築之碑:行田市下中条
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天(別名を星川弁財天)は星川と見沼代用水路の兼用区間の終点である十六間堰のほとり
(南埼玉郡菖蒲町上大崎)にある。この場所は、見沼代用水路と星川が別れる場所で見沼代用
水路にとって用排水調節の要となる場所である。
3 つの弁財天は享保 16 年(1731)頃の創設で水利組合当時より社殿を度々改修しており、
最近では昭和 53 年に見沼土地改良区で改修した。
4)六堰用水
熊谷から吹上、行田、妻沼あたりは、荒川の派川を利用した用水路や湧水溜井から取水
する小規模な水田耕作が行われていたが、荒川の扇状地のため洪水の際には扇状地一面に
洪水が流れ、また旱害にも襲われやすかった。
このため、慶長七年(1602 年)伊那備前守忠次は、大里郡明戸に堰を築き、奈良、玉井、
大麻生の用水路を整備し、右岸にも御正、万吉の用水路を整備した。その後、元和元年(1615
年)これ等五堰の下流の大里郡広瀬村に成田堰を増設して扇状地の耕地安定化と新田開発
を行った。これ等を六堰と称している。受益村落は 114 カ村に及んだ。
しかしながら、川岸の侵食や土砂の堆積による機能損傷や上流堰と下流堰の取水条件の
格差などにより水論が絶えず、堰をめぐっての問題は昭和 15 年に六つ堰を合口した大里合
口用水堰が出来るまで続いた。最近、この堰は荒川上流ダム群との水利調整に合わせた改
築工事が完成した。
5)野火止用水
野火止用水は、水の少ない野火止台地開拓者の大切
な飲料水や生活用水として、承応四年(1665 年)に、
川越藩主の松平伊豆守信綱が安松金右衛門に命じ、玉
川上水から分水するため、開削した用水路である。分
水の割合は玉川上水 7 割、野火止用水 3 割といわれ
た。現在の小平市から開削して新河岸川に至る全長
24kmに及ぶ水路である。
この用水開削に前後して、川越藩では野火止の耕地
を計画的に区画して農民に入植させ、野火止、西堀、
菅沢、北野の新田開発を行い、さらに周辺の 16 ケ村
をはじめ、松平家一門や家臣まで開発に参加させた。
その後、寛文二年(1662 年)、新河岸川に懸樋をか
け対岸の宗岡村に引き、また、館村や宮戸新田の水田
耕作にも使用されてきた。しかしながら戦後の生活様
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野火止用水:新座市
式の変化と都市化により生活雑排水が用水路へ排水されてきたこともあり、昭和 39 年の旱
魃による東京の水不足を契機に野火止用水の分水が中止された。
(3)舟運事業
1)見沼通船堀
天下統一後、江戸と大坂の 2 大経済圏が成立し
た。これ等の都市と周辺地域との物流が盛んにな
り、関東では利根川・荒川、またこれ等の支川と
江戸との物流の重要性から多くの河岸が作られ、
近年まで利用されていた。
見沼代用水路を舟運にも利用するため、井
澤弥惣兵衛は、享保 16 年(1731)、八丁堤に沿って
水位の違う芝川と東西代用水路とを結ぶ見沼通船
堀を開削した。代用水路と芝川との水位差が 3m
ほどあったため、2 箇所に閘門を設け、水位を調節
して船を上下させる方法をとった。この方式で有
名なものにパナマ運河があるが、見沼通船堀はこ
の運河より実に 150 年も前につくられていたので
ある。
見沼通船堀:さいたま市
見沼通船堀については明治7年(1874)に見沼通
船会社が設立されたが、大正末期には衰微し、昭和
16 年(1941)、わが国最古の閘門式運河が 200 年に
わたる歴史を閉じた。
享保 12 年(1727)から見沼代用水の建設に取り
組み、見沼を水田化させるという大掛かりな事業
や、わが国最古の閘門式運河として著名である見
沼通船堀を手がけた紀州出身の井澤弥惣兵衛為永
は、元文 3 年(1738)に 75 歳で没し、江戸麹町の心
法寺に葬られている。
見沼通船堀の近くに水神社がある。水神社は、
見沼通船堀が開通した翌年の創建と伝えられてい
る。見沼通船堀の開通により、江戸と見沼代用水路
縁辺の村々との物資輸送が可能になったことから
荷 物の積み下ろしをする河岸場は、芝川と東西両
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水神社:さいたま市
水路沿いに 59 ヶ所あった。八丁の河岸場もその 1 つであり、この付近には河川輸送に携わる
人達が住んでいた。水神社は、そのような仕事につく人達が水難防止を祈願して祠ったもの
である。
2)新河岸川の舟運
新河岸川の舟運は、川越の大火で焼失した仙
波東照宮再建の際、その資材を江戸から運ぶた
め、内川(荒川の外川に対して当時称せられた)
を利用して、寺尾村五反田まで運んだのが始ま
りという。
この舟運が本格的に始まったのは、川越城主
松平信綱の時代で、当初は領主の年貢米・御用
薪・炭等を江戸に運ぶのが目的であり、これら
を扱う問屋は領主からの御用商人であった。最
仙波河岸跡:川越市
初は、城下より一里ほどの砂村地先に河岸場を
整備して新河岸とした。その後、上新河岸と下新河岸に分かれた。さらに、牛子、寺尾、
扇河岸、古市場が開設されて川越城の外港的役割を果たした。
その後、武蔵野新田開発(川越、狭山の一部)、三冨新田開発(三芳、所沢の一部)、武
蔵野開発など地域の開発が進み、これ等、農村地域を対象とする商品物流を対象とした回
漕と仲買を兼ねた多くの問屋が出現し、同時に多くの河岸場が出来た。
しかしながら、その後の東武鉄道の開通や新河岸川の改修工事の竣工によって舟運は廃
止された。現在、当時の河岸場が完全に残っている所は無いが、福岡河岸には 3 軒の舟問
屋の建築物の一部が残っている。その中の福田屋は母屋、台所、離れ、文蔵庫が残ってお
り、これ等が修理、復元されている。これ以外の河岸場は河川改修の支障となったため撤
去され、今ではその跡を後世に残すための記念碑で示されたり、仙波河岸のように公園化
されているものもある。
(4)洪水防御の方式
1)利根川
さて、現在の県内における利根川水系、荒川水系の体系は、この時代にほぼ定まったので
あるが、ここで当時の洪水防御はどのような方式であったかをみてみる。
まず、利根川であるが、前橋方面から流下してきた利根川に対し、熊谷、館林の線上に至る
までの上流部は、比較的旧勾配であり、多くの霞堤が築造されて大出水時には限られた区域
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内で氾濫させていた。
また、行田北部の酒巻においては、狭窄部を設け、
これより上流に向かってラッパ状に堤防を築き、
狭窄部でしぼられた洪水をその上流で氾濫させた。
特に右岸堤は強大で 中条堤と称せられ、その先端
は 荒川扇状地まで延びており、下流へは栗橋まで
連続していた。
中条堤は中世から明治時代末まで埼玉平野を洪
水から守る役割をしていた。利根川の上流で発生
した洪水は江原堤で一部が越流し、中条堤へ向か
う。洪水は越流しながらも勢いを失うことなく左
岸 の文禄堤に沿いながら突き進み、狭窄部で行き
場を阻まれる。行き場を失った洪水は中条堤沿川
に流れ出し、滞留を始める。こうして大きな漏斗と
して遊水機能を発揮し下流の洪水が制限される仕
中条堤:行田市北河原
組みになっていた。
中条堤は明治 43 年の洪水により 4 箇所にわたって破堤し、この修復をめぐって強化復旧
を要求する下流側と慣行的維持及び連続堤を要求する上流側との間に争議が起こり、埼玉
県議会も大混乱となった。この結果、利根川は堤防で洪水を防ぐ連続堤防体系が確立されて
いった。
現在、洪水を防ぐ為にダムや調節地が作られて
いるが、中条堤もこれらと同じ重要な治水施設で
あった。異常洪水は、中条堤を溢流、決壊すると各
所 に数段の洪水防御堤が存在していて、ブロック
毎にその氾濫洪水をくい止める方策がとられてい
た。地区内の洪水防御堤は、平原部は流向を斜に対
応させて、上流側は台地あるいは自然堤防に、下流
側は水路にそって河川に合流するように霞堤式に
取り付けられていた。これらの防御堤の上流地帯
は常襲水害地となり、生産力は低位な状態におか
れている。そして、広い水田を持つ生産力のある地
区は、何らかの防御堤が形づくられて、上流からの
まともな洪水をかぶらないように仕組まれていた。
台地あるいは自然堤防を利用して設けられた囲
堤防内の地域は、それぞれまとまった団地となり、
幕府の天領地あるいは諸侯の領地としてそれぞれ
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稲 荷 神 社 の 石 祠 :上 里 町
の名を冠した「領」の名称を有し、治水、利水には共同体をもって対応していた。当時、中川流
域だけでも 37 の「領」が存在し、防御堤の高さに対し、絶えず争いごとがあったという。
その後も河川の整備は進められたが、寛永年代(1624)の洪水は、往年、烏川が現利根川合流
点より約4km 下流(現本庄市下仁手地区)で合流していたのを変流させ、上里町八町河原で
利根川に合流するようになった。そして、八町河原の石祠に「寛永4年、上州那波郡八町河原
持」とみえるように、それ以前は上里町八町河原、本庄市杉山・都島・久々宇といった地域の
南側を流れていたのが、同年代の洪水で北に流路が変わり、上里町の忍保、八町河原の北側
で利根川に注ぐようになったものである。
2)荒川
荒川の瀬替えによって現在の綾瀬川、元荒川流域は広大な穀倉地帯と舟運による商業圏
が作られた。一方旧来の入間川の流域に、新たに久下から上流の荒川流域が付け加えられ
たため、当然この流域に新たな浸水区域が発生した。これは瀬替え以降、明治から昭和に
わたる大改修まで洪水の常襲地帯の宿命を負う事となった。
久下地先から下流で荒川の本流となった大里郡南部、吉見領、川島領は、大里郡から流
れる和田吉野川、比企丘陵からの市ノ川、外秩父東斜面の洪水を一手に集める入間川など
支川の合流にも新たな支障が生じた。
吉見領では瀬替え直後には「吉見領大囲堤」が作られていたが、南東部は低いため、荒
川の出水に加え和田吉野川や堤内の自流で湛水する。このため、上流からの浸水を調整す
るのに大囲堤の中を「横手堤」「大工町堤」等の横提で区切った。川島領はすでに、脆弱だ
が領全体を囲む大囲堤は出来ていたが、備前守忠次が手を加えさらに川越城主松平伊豆守
信綱が大増築して「川島領大囲堤」が完成した。これ以外にも左岸側では大宮台地が切れ
る辺りから土屋古堤、足立郡の「三領大囲堤」が作られ各村々が囲まれた。
しかしながら、徳川幕府にとっては江戸を洪水から守る大きな目的のため、荒川本流で
は中流部の熊谷あたりから川口付近まで洪水を遊水させ、その下流の赤羽と川口に狭窄部
を作り、さらに、現在の台東区では右岸の日本堤、左岸の隅田堤によりロート状に断面を
狭め、洪水流量を調整して江戸を守った。このために県内には広大な河川敷が設けられた。
支川合流では、市ノ川の吉見領荒子と川島領松永の間には狭窄部が設けられた。これに
よって市ノ川の洪水を調節して荒川に合流させ、また荒川の洪水の逆流を防ぐ効果を持た
せた。洪水時には大囲堤同士、またその中同士、狭窄部の上下流、右岸・左岸で堤防の高
さ、修理などについては明治に至るまで争いが続いた。
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(5)主要な洪水
埼玉県に関わる水害の文献記録は天安 2 年秋
(858)年まで遡り、多くの記録があるが、石碑
等による資料は我々の調査では近世以降の物しか
見つからなかった。これは長い水害の歴史の中で
度重なる堤防修復と改修で川岸等に置かれた石碑
が移転を繰り返す中で消失したものと考える。し
かしながら荒れ狂う激流を鎮め破堤箇所を締め切
るための人柱、また橋梁が流されないための人柱
の伝説は各地に多くある。
荒川右岸の大里町津田新田上分には「お行人さ
ま」と呼ばれる石塔がある。昔堤防が決壊寸前の
時、常青と言う行者が濁流に身を投げ決壊を防い
だと言われている。この石塔は天保七年(1836)
3 月造之世話人村中と記され、また寛永 19 年
お 行 人 さ ま :熊谷市大里津田新田
(1642) 5 月 15 日とあり、この日に常青が入水した日と推察される。荒れ狂う自然の前で命
を捧げた人柱伝説は事実で、村人の感謝の気持ちが偲ばれる。
1)寛保の洪水
数ある出水の中でも寛保 2 年(1742)7月の出
水は甚大な被害を与えた。同年7月に入ると雨の
日が続き、利根川、荒川は増水して濁流が渦を巻
いて流れ、8月1日になって遂に堤防は各所で決
壊し、関東平野は未曾有の大洪水に見舞われた。
荒川と利根川の洪水が合流して江戸市中は数十
日にわたって水浸しになったと言われている。そ
の被害について民家はもちろん、武家屋敷も損壊
し浅草の水深は七尺、亀戸は十二~十三尺といわ
れた。
埼玉県内では、荒川の波久礼の峡谷が上流から
の流失物(家屋、流木等)でせき止められたため
上流地域の水位は 60 尺(19,8m)と言う想像を絶
する高さに及んだ、この時の洪水位を記録した磨
崖標が長瀞町野上下郷の山麓にある。
磨 崖 標 :長 瀞 町 野 上 下 郷
24
川越市久下戸の名主奥貫友山の「大水記」によると 50 人、30 人と死人が連なって流れ、
子供を抱いた者、猫を抱いた子供そして多くの馬等も流れ来たとされている。また、北川
原村の利根川堤防が 200 間に渡り押し切られたのをはじめ、
荒川等も各所に切れ所が出来、
埼玉県の低地帯は広範囲に水没する大被害にとなった。
寛保 2 年 10 月 6 日、幕府はこれら河川を復旧するため 10 家の大名に手伝い普請を命じ
た。この時、各大名は細かく担当河川と普請箇所等を指示されたという。
①利根川
萩藩(岩国藩共)の持場は上利根川の南を担当するが、利根川だけでなく備前用水路や羽
生・騎西領等の諸河川、合わせて 22 里にわたる河川を担当する。
利根川は
(1)横沢郡横瀬村より上州新田郡前小屋村までの 6 里
(2)幡羅郡江原村より同郡俵瀬村までの 5 里
そして、内郷の河川の浚いを含む普請として、幡羅郡四方寺村より埼玉郡間口村までの 11 里
であった。
表 1-1 寛保 2 年関東川々普請手伝
手伝大名
普請箇所及里数
毛利宗広(萩)
上利根川南
但内郷共
池田継政(岡山)
烏川 3 里・神流川
御手伝高(両)
川長合 22 里
但内郷共
4里
34,000
34,970
上利根川北 15 里・渡良瀬川 8 里
細川宗孝(熊本)
江戸川 15 里・古利根川 8 里・中川 4 里
69,940
庄内古川 6 里・横川 1 里・綾瀬川 9 里
藤堂高豊(津)
栗橋関所周り 8 里・権現堂川 3 里
45,110
赤堀川 6 里・鬼怒川思川 13 里
阿部正福(福山)
下利根川 16 里
13,000
仙石政辰(出石)
小貝川 19 里
16,600
間部詮方(鯖江)
新利根川 12 里
6,110
伊東祐之(飫肥)
荒川 12 里
9,100
稲葉泰通(臼杵)
荒川 21 里
6,000
京極高矩(丸亀)
荒川 芝川共 1 里・星川 7 里・元荒川 11 里
5,200
計
川長合 224 里
230,030
御普請手伝いの基本的事項は、寛保 2 年 11 月勘定奉行から通知が出ており、この度の普請
は「御救普請」、従って本人足は被災の地元から雇い、それだけでなく地元の老人女子供まで
雇うこと、人足の出し方は、幕府代官が見積もって既に村方に指示してあるので、それに従
って人数を改め、賃銭を渡すこと。普請の仕立方は幕府普請役が行うので、助役の大名方は
25
口出しをしてはならず、ただ普請箇所を見回りすることなどで、普請の実権をもっているの
は幕府普請役で、手伝大名は単に人足賃金を支払い、諸色を管理し、見回りをすることであ
った。
萩藩の現地状況はというと、普請の惣奉行は家老の毛利筑後を任命、多くの家臣が現地入
りをする。元小屋は川俣関所近くに設置するが、これは諸役人の会所、 敷地 3,500 坪の大規
模なものである。
会所出張所は、横瀬村・高島村・下江原村・北河原村・本川俣村・上大越村・阿佐間村・和戸村
の 8 箇所で、民家を借り受けて設置する。また材料置場等も設置した。寛保 2 年 11 月 29 日
に普請を開始し、利根川堤防・仁手堰用水路を優先させ、内郷の騎西領堀浚は後日にまわし
た。ちなみに、仁手堰用水は寛保 3 年 2 月 19 日に工事終了した。
表 1-2 寛保 2 年手計村・血洗島村・阿賀野村の出人足と支払賃銭
月
日
普請箇所村名
本人足数 支払賃銭
飢人男女子供数 支払賃銭
11 月 10 日 手計村
307 人
25,580 文
1,465 程人
34,053 文
11 月 11 日 手計村・血洗島村
333
27,748
2,678
63,580
11 月 12 日 手計村・血洗島村・阿賀野村
350
29,164
11 月 13 日 同 上
346
28,832
2,272 程
45,500
111,324
6,415 程
143,133
計
1,336
御救普請という建前もあり、「飢人男女子供数」が人数・支払い人も多くなっている。本人
足は 80 文が決まりなので 1 人平均はそれに近いものになっているが、飢人男女子供の支払
賃銭は平均 22 文余となっている。わずかな金額であるが、水害後の村方にとっては文字通
り「御救」になったと思われる。
素人である村民や飢人足を多く集めて工事になったのかという疑問が出てくるが、普請
役等の専門家の指導があるとはいえ、現場の仕事には手馴れた巧者が必要で、萩藩でも杭打
ちなど技術を要する仕事には、特別手馴れた人を雇っていた。それらの人々の賃銭を幕府役
人に問い合わせているので、実際には地元の技術集団が普請にあたっていたと思われる。実
際の普請には地元の巧者の集団が大きな役割を果たしていた。
寛保 3 年正月 11 日、勘定奉行より普請方法での新たな申渡しの通知があった。
それは各工事の丁場割をして、特定の村に請負わせる、丁場割の難しい技術を要する工事は、
村々から仕馴れた人足を選んで行う、村役人などの世話役には 1 日 150 文の賃銭を払うとい
うものであった。手伝の大名方は、丁場の人足高に応じて賃銭を渡すことに、普請役の指揮
下で直接工事を行う方法から村請負に、また地元の普請技術者集団を難工事に使う方法に
切替えられた。
寛保 3 年 3 月 31日、普請が終了し、幕府の見分も受け派遣された家臣も江戸に引揚げるこ
とになったが、担当した同藩の役人方は、未曾有の難工事を無事成し遂げたことを記念して、
26
何か現地に遺したいという意見があり、鷲宮神社
へ 石燈籠を寄進した。石燈籠には担当役人名や普
請の規模、動員された人足数の大要などが刻み込
まれており、この燈籠が昭和 3 年 3 月 31日に「寛
保治水碑」として県指定史跡となった。
鷲宮神社の拝殿前にある燈籠型の記念碑、高さ
2.6mの石燈籠には「刀祢上流以南修治告成碑」と
記してあり、長文の文字が刻まれている。これは江
戸時代の寛保 2 年(1742)8 月に大雨が続き、利根川
が氾濫して大洪水となり、江戸市中は数十日間、水
浸しになってしまった時、幕府の命令により、利根
川の本流と支流の堤防修築を実施し、完成したこ
とを神前に報告した記念碑である。
工事は西国の毛利氏をはじめ、細川・藤堂・阿部・
仙石・間部・京極などの大名が当たり、特に毛利藩
が受け持った羽生領・騎西領は困難を極め、寛保 2
寛保の治水碑:鷲宮町・鷲宮神社
年 11 月 29 日から翌 3 年 3 月 28 日までに述べ 157
万人余りの人夫をつぎ込んで完成したという。文章は江戸中期の代表的儒学者で詩文も書
いた服部南郭の撰文である。
堤防の修復箇所は 100 余り、これに動員された人足は 11 万人、川渡普請人足が 30 万人、こ
のほか圦樋や道路・橋梁などの修築箇所は大小合わせて 700 余り、動員された人足数は 100
余万人、そして、この普請に従事した家臣は奉行衆
13 人、所属の士 146 人、私従 810 人、卒隷(足軽な
ど)750 人、都合 1,707 人に及ぶものであった。
②荒川
前掲「大水記」では、
『下久下戸ハ上より凡て二、
三尺もひくし、飯塚ハ千手院、新田ハ観音寺、或
ハ明神の社地へ逃れ助し也。後来の為に予、氷川
明神の石燈籠の足へ水の深サを記置也。われら参
り見申候所、家二三軒流れ来候、其後ニハ軒の上
に乗りて流レ行を見候と語る者ありし、目をいた
ましめ心を驚すばかり也。』と記されており、洪水
の惨憺たる状況が浮かぶ。この洪水の避難所であ
った氷川神社の石燈籠にその時の水位が記されて
いるのが確認されている。
寛保の洪水記録灯籠:川越市・氷川神社
27
しかしながら、現存する位置は境内地盤高と
同じ位置にあり「大水記」を再調査の結果、も
とは境内に在る富士講塚の上に置かれていたも
のが現在の位置に移されたようである。他の記
録と照合した洪水位の高さを記した「寛保 2 年
大洪水水位の記念碑」が、この灯籠が置かれて
いたと推定される富士講塚に設置されている。
川越領での被害は破堤 96 か所、流失 79
寛保 2 年大洪水、水位:川越市・氷川神社
戸、潰家 274 戸、死者 24 人(大水記)大里
郡玉井村では死者 27 人等の記録がある。
幕府は荒川関係にも御手伝普請を命じ前掲西国筋 10 大名の内、日向飫肥藩、豊後臼杵藩、
讃岐丸亀藩に担当させて破提箇所、用排施設、橋梁の復旧と被災者を救うため、老若男女
も動員して賃金が支給された。
<寛保の水害手伝い普請図大絵馬>
寛保2年(1742)8 月の洪水は、利根川・荒川
の堤防を各所で決壊させ近世最大の被害をもたら
した。このため水害に係わる記録文書は多く存在
しているが、記念物として有る物は、利根川水系
では鷲宮町の鷲宮神社に在る「寛保の治水碑」、そ
して荒川水系では長瀞町野上上下郷の「寛保洪水
位磨崖標」が知られている。
今回の調査で、川越市が平成 15 年 3 月 24 日付
寛保の水害お手伝い普請図大絵馬が
で、川越市渋井にある観音堂の「寛保の水害手伝
納められている渋井観音堂:川越市
普請図大絵馬」を市指定有形民俗文化財に指定し
ていることを知った。災害の復旧を幕府主導のもとに行った手伝普請、これを描いた具体
的な絵画資料は今まで発見されておらず、河川工事の歴史資料として資料的価値が高いと
思われる。
この絵馬は長年観音堂内に掲げられ、堂内で焚かれた護摩により煤けて真っ黒であった。
これを地元で洗い出したところ絵柄らしき物があり、これを川越市が赤外線写真を撮り、
更にトレースしたところ図の様な絵が判明したものである。この絵馬の大きさは、縦 99,3
cm・横 126,1cmの家型をしており、5 枚の薄板を横に並べた上に直接描いてある。図柄
は水害後の復旧工事と村人を救済する役人の様子で総勢 53 人の人物が描かれている。
この甚大な被害の復旧工事に当って幕府は毛利藩ほか9藩に手伝い普請を命じて荒川筋
では臼杵藩・飫肥藩・丸亀藩の 3 藩が担当させられた記録が有る。これによると臼杵藩は
荒川右岸の比企郡一本木村(川島町)から新座郡新倉村 7 里、ほか越辺川・都幾川・入間
28
図 1-3 寛保の水害手伝い普請図大絵馬(川越市文化財保護課資料)
川も含まれ普請担当は 27 里を割り当てられた。
絵馬の中に、
「御用」の文字がある旗があることから公用の作業で、奉納が寛保3年1月
15 日の記述から洪水の翌年であり、これ等の記録文書、絵馬の内容から寛保の水害復旧工
事の手伝い普請の絵馬であることがわかった。
奉納した目的は、次の様に考えられる。
①
工事の無事を、神仏に祈願。
②
工事に係わる人々の苦労に感謝。
③
「村中納之」と記されていることから、工事に村中が参加していること。
④
以上の①~③を後世に伝える記念。
具体的な絵馬の内容であるが、画面の大半を占めているのは工事に携わる村人であり、
役人も描かれている。画面右上、草屋根の4人は帯刀しており臼杵藩の役人で、大福帳・
煙草盆がみえる。煙草盆の右下の役人が小屋の下で正座している2人に賃金などを支払っ
ている様子がみえ、この後ろには緍で銭を連ねた金が山積されている(さし「緍」銭穴に
通す細い縄)
。この2人を含めて7~8人の座っている人物は村の指導者達であろう。
右下隅の片膝ついてキセルで煙草を吸っている人物は作業の元締めと思われる。この左
上の帯刀した者、中央の旗より一寸間を置いた右の帯刀した人物、そして小屋の柱の左隣
の帯刀した3人は藩の監督員。この 3 人目の左で、顔は右後方、左手を上に上げて案内を
29
している人物。此のすぐ左の案内を受けている人物は藩又は幕府の要人であろうか。
使用されている道具は鋤簾思われ、土の掻き起こしや掘り起こしの作業をして、運搬に
はモッコを天秤で担ぎ運んでいる。また画面の右下のもろ肌脱いだ2人が、カケヤでくい
打ちの作業をしている。
画面左上で、髪を束ね帯を胸元で前に結んだ3人、袂が長く裾も長い着物の人、この 4
人は女性を象徴的に描かいている。左側で中程の天秤を担いでキセルで煙草を吸っている
のは老人かもしれない。左下の5人の中で2人は相対的に小さく描かれており中でも右側
の人物は前髪が有るようで子供と思われる。これ等のことから村中の老若男女が総出で復
旧工事に当っている様子が良くわかる。
画面下には波打つ流れと杭が描かれ全体的に見て河川工事の様子が見て取れる。しかし
具体的な工法・工種が描かれていないのはちょっと残念である。御目出度い松と雲が左上
半分にあり、松と雲の間に奉納・宝前と読めるのは、神仏の御前と言う慣用句であり、工
事の完成・喜び・感謝・記念を後世に伝えようとする絵馬と判断できる。
この水害の時、久下戸村の奥貫友山は自分の倉を開けて米・粟を提供した。しかしこれ
だけは足りず四方より買い集めて村人の救済に当った。また渋井村の高橋半右衛門もその
救済に力を貸したことから、2人は川越藩から表彰を受けている。絵馬や名主の働きから、
水害に当って村中全員が、また近隣の村々も運命共同体として助け合う様子や人々の気持
ちが伝わってくる。
この絵馬の解説や図の使用に当っては、さいたま川の博物館大久根氏・川越市文化財保
護課田中氏の貴重なご指導を受けた。絵の一部の解説には会員の想像も加えた。
2)天明、浅間山大爆発
天明 3 年(1783)7 月、浅間山が大爆発をした。同年 6 月の末頃から、小さな爆発が始まり、
近辺へ灰を飛ばしていたが、7 月 5 日の午後 10 時頃からまるで大地震のように鳴動し、麓の
方はもちろん、上州(群馬県)高崎の方までたいへんな小石や砂を降らせ、翌 6 日の朝までに
20cm ほどの火山灰が積もった。この日は朝から晴天だったが、午後 6 時頃にまた灰が降り始
め、7 日は 1 日中まるで闇夜のように真っ暗になってしまったので、昼日中でも家ごとに灯り
をつけ、外へ出る時には提灯を灯した。7 日は夜通し灰が降り、8 日は昼前から雨が降りはじ
めたが、火山灰と入り混じって泥の雨と化し、またまた引き続いての爆発で溶岩が吹き飛ば
され、ことに高崎や松井田あたりではそれをもろに受けて、家は崩れたり倒れたり、田畑の
作物は石と泥の下に埋まってしまい、青いものは何一つ見えないというありさまだった。
山麓の鎌原村(群馬県吾妻郡嬬恋村)は溶岩の下になって、一瞬のうちに全滅してしまい、
村民 477 人が死亡した。利根川筋の村々では、20,000 余人の死者を出したといわれ、利根川
本流、新利根川、中利根川、中川及び江戸の隅田川にまで、首や手足のない人間や馬の死体が、
無数に流されてきたという。
30
埼玉県内でも浅間山大爆発により利根川が洪水
を起こし、その余波で県内の諸河川が氾濫した。そ
して、諸河川の一つである現加須市の青毛堀では、
架かる石橋が流された。当時、この橋を供養する碑
が青毛堀脇に建てられ、今も残っている。また、こ
の爆発で備前渠が利根川の取水口を塞がれてしま
ったことから、新たに上流で取水口を設けたこと
は前述の通りである。大爆発から 3 年後の天明 6
年(1786)7 月 17 日には、関東一円に大暴風雨があ
り、利根川、荒川は氾濫して各所で堤防が決壊し、
特に県東部地域の栗橋、岩槻、羽生、草加地区は大
海と化した。
伝説によると、享和 2 年(1802)6 月、権現堂川
が氾濫し、奔流益々加わり堅固なる堤塘も危険刻々
石橋供養塔(降砂洪水の碑):加須市花崎
と迫り、地元の人々が土手の修復に手をこまねいて
いたところ、そこを通りかかった順礼母娘が「人柱を建てねば水は治まらない、我等人柱と
なって萬民を救わん」と自ら渦巻く流れに身を投げると、忽ち水の流れは静かになり、修復
を終えることができたという。爾来此処を順禮曲輪と称する。この順礼母娘を供養するため
に昭和 11 年に建てられた石碑で、明治時代の日本画家結城素明による母娘順礼像が刻まれ
ている。
男沼樋門改修之樋:妻沼町尾沼
順禮供養之碑:幸手市内国府間
31
現妻沼町の男沼地区は、備前渠雉子之尾に囲まれた沖積沃野が拓けるも天明の浅間噴火
による変瀬以来照れば旱ばつ、雨降れば氾濫する湛水地域であることから一時は集団移村
ということも真剣に討議された。しかし、文政 2 年(1819)頃、長勝寺住職 13 世の堪能和尚
の案により、利根川に落とす樋門を造った以来、水害は減少して生活は安定するに至った
が、明治 23 年(1890)8 月の大洪水で男沼樋門は無残にも破壊されてしまった。
時の村長は県に請願して補助金の交付を受け、男沼一村でこの樋門を修理した。さらに
大正 6 年には利根川堤防の改修と合せて樋門の改修も行い、同年 5 月に竣工、その後も樋門
が壊れるたびに改良するとともに、現在は排水機場も整備され、男沼地区は肥沃な美田とな
った。
3)天保の洪水
天保 4 年(1833)8 月 1 日にも各河川が氾濫し、大洪水となって農作物は全滅し飢饉のため
米価は高騰して、9 月に入ると米騒動が起こり、幸手の米屋が多数破壊されている。
県北の群馬県境を流れる神流川は冬春期は概して枯渇状態にあるが、夏秋に一度豪長雨に
遭遇すると、急流砂礫をついて疾風迅雷石火電光を思わしむる激流と化し、猪突すれば必ず
潰すの超特異性を持っており、来る災禍は惨酷目を覆はしむるものがあった。
4)弘化の洪水
幕末の弘化 3 年(1846)6、7 月両度に来襲した洪水は、
当 矢田堤塘を決潰し、烏川の逆流を交えて賀美村北部
の低地帯を一瞬に して奔流となし神保原、旭、本庄、仁
手、藤田からその下流全域を泥海と化し、人命、土地、家
屋 の流失は勿論、暴虐将に唖然たらざるを得ない大惨
禍を蒙らしめたのであった。
賀美村当時の資料に徴すれば、毘沙吐天神 2 部落の全
流失は凄惨筆舌に絶え、勝場、金久保、忍保、下之堂、本
庄、田中、傍示堂等村落一部の流失は枚挙するに暇無く、
当時災害地一帯の悲況正に思う可しであった。
そこで、万延元申年 8 月、下流 1 宿 21 ヶ村にて欠潰個
所堤上に石祠を建て水魔鎮護のため九頭龍神社を勧請
祭祀し、矢田水防自負請組合を結成し、協同防禦を協定
したのである。爾 来 数 度 の 洪 水 に は 矢 田 組 合 の 献 身
的応援にて危機寸前にて重大事を無からしめた。
然 る に 輓 近 護 岸 頽 廃 に 加 え 、水 流 が 往 年 の 欠潰口
32
矢田堤塘之碑:上里町勅使河原
附近に激突する態勢に変貌、あたかも強猫窮鼠を噛まんとする瞬時の形相を彷彿し、思うて
も慄然たる観がある。
此に於て挙村一致下流町村の強靭なる協力と神流川治水同盟会に同調百策陳情
遂 に 建 設 省 の 認 定 と な り 、直 轄 に て 650m の 護 岸 工 事 の 堤 塘 補 強 の 施 工 に 至 り 昨
11 月 始 工 今 4 月 を 以 て 完 了 し た の で あ っ た 。顧 れ ば 脅 威 と 不 安 に 晒 さ れ つ つ あ っ
た下流数十の町村は今や愁眉を開き安じて各々の生業に精進し得るに至ったので
あ っ た 。茲 に 工 事 完 成 を 記 念 し 往 古 以 来 の 水 災 を 偲 び 往 年 決 潰 の 惨 禍 と 先 人 苦 闘
の 跡 を 追 懐 し 併 せ て 後 世 の 師 と な さ ん 事 を 画 し 下 流 町 村 と 相 計 り 九頭龍神社鎮座台
をしつらえ灯を献じ、碑表を建設したのであった。
5)安政の洪水
安政六年(1859)7 月 23 日から 25 日にかけては武
蔵国一帯に大暴風雨が襲来し、利根川、神流川、荒川
が大氾濫し寛保の洪水につぐ洪水と言われている。し
かしながらその規模は明らかではないが被害状況の記
録は残っている。
荒川上流部の大滝村では 10 人、秩父で 1 人の死者が
いる、このときの水位は皆野町の民家の石垣の根石に
安政の洪水記録根石:皆野町
「安政六未年七月二十五日大水これまで付」と刻まれ
ている。
大里郡、熊谷宿、でも数十名の死者と多くの住居が
流された。忍領では利根川の洪水被害と合わせて流失
家屋 5 戸、全壊 192 戸、半壊 206 戸、死者 67 人と言
う有様である。吉見領では浸水家屋は 1263 戸に及び、
川島領でも湛水すること七日、水深 7 尺、床上浸水 480
戸、床下浸水 105 戸であった。これ以外にも新河岸川
鳥羽井沼の切所(落堀)
:川島町
筋の南古谷、宗岡も破堤により冠水、潰家屋の被害が
あった。
以上のことから中流部は江戸時代を通じて洪水の常
襲地帯で、現在各地にのこる落堀は(川島町の鳥羽井
沼等)決壊箇所の名残である。荒川全体を見つめた具
体的な改修は明治 43 年の洪水被害を経験した後に着手
された。
大芦橋の切所(落堀)
:熊谷市大里
33