木村雅信 芸術をめぐる13の断章 - 札幌大谷大学・札幌大谷大学短期

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芸術をめぐる13の断章
木村雅信
1.百済王宮
札幌雪祭りに雪像を見る目的で出かけたのは初めてのことである。ずいぶん以前には本州からの来客を案内し
たことが一度だけある。今回の目当ては 百済王宮 だった。じつに丁寧な作業がうかがえる雪像だった。韓国か
ら送られて来た設計図に基づくという。だがそれは想像通りだった。つまり中国の様式で,現在,ソウル市内に
復元されている宮殿の姿とよく似ていた。
百済は4世紀前半以来,漢城,
州,扶余(プヨ)と三遷した。戦乱打ち続く三国時代のことである。王宮は所
在したとしても,その形はまったく記録されていない。戦火で消失している。どの国でもそうであろう。時代は
下って,豊臣秀吉の侵略の時,加藤清正の軍は朝鮮全土を灰にしたといわれている。何も残っていないのだ。百
済王宮も,歴
的学術的後盾を持たぬ想像の産物のように思われる。中国の(唐の)様式であったかどうかも判ら
ない。百済地方の人々の愛国心のようなものの発露にすぎぬ
物が,今あののどかな古都扶余の一画に
設され
ているとは想像しにくい。
札幌の冬季オリンピックの時,特別な芸術の催しを私は目にしなかった。市は雪祭りの雪像を芸術とみなす発
言をした。もちろん雪像は芸術品ではない。あれは大きい玩具である。世間でも報道でも芸術という言葉が濫用
されている。芸術がないからである。わからないことをわかろうとしないのだ。もし芸術を
えようとするなら,
もうそれは思想性の始まりである。学生たちには少し興味があるように見受けられる。だが言葉で説明されたこ
とを覚えるのでなく,見て感じることを育て続けなくてはならない。それほど今の社会では感性という領域が粗
末にされている。享受することだけの人々の間では
造は起こらない。精神の自由を
える若者の中から芸術家
は生まれる。
2.カッチーニのアヴェマリア など
カッチーニは 16世紀の作曲家。彼らによって,一つのメロディーとリュートなどの伴奏による歌が生まれた。
モノディーと呼ばれるスタイルである。その時代には4小節で割りきれるようなメロディーの形はなかったし,
長調・短調もはっきりしていなかった。ハーモニーの力も強くなかった。何よりも小さなフレーズの高さをスラ
イドさせる進行(反復進行という)もなかった。以上の要素を取り揃えている カッチーニのアヴェマリア なるも
のは,20世紀の軽音楽の作曲家が出版社ショットに取り入って
れ込ませたものにすぎない。平板で感傷的なだ
けで,ソルフェージュの練習用ならともかく,音楽性のなさすぎるものが,音楽会を真に成功させることはない。
友人が天満敦子の CD を送ってくれた。 望郷のバラード が入っていたからそこだけ聴いた。はじめて耳にした
が,つまらない作品だった。以前題名を目にした時に直感した通り。出自の怪しい音楽である。
/ヴァイオリニス
ト達は真の名作を選ばなくなったようだ。別のヴァイオリニストが札幌で, カッチーニのアヴェマリア と アル
ビノーニのアダージョ を取り上げた。後者も学生時
に耳にした時から,アルビノーニ原曲とは信じなかった。
昔好きだったクリスチャン・バッハの ヴィオラ・コンチェルト も,編者アンリ・カサドシュの完全な
作かも
しれないと思う。これらの偽作は,一様に生命感のもの足りなさを感じさせる。この程度の きれいごと に惑わ
される人が多いのだ。欲望のターゲットが低いというより,生き方の質が細いのだ。
声楽家でも カッチーニのアヴェマリア や 千の風になって を歌う人たちは,音楽の良しあしを判断する力が
ないのである。このように音楽や美術の世界はニセ者と本物が共生する世界である。
3.ゴルトベルク変奏曲の受難
みすず書房といえば,
わが国で最も見識のある出版社だった。
私がお世話になった編集長が勇退してから変わっ
てしまったようだ。 バッハ ゴルトベルク変奏曲 世界・音楽・メディア (2006)なる新書版について苦言を呈し
たい。まず事実の不正確さ。第 52頁だけで次の如し。
バッハの インヴェンション と シンフォニア を各 12曲と記しているが, 各 15曲 である。次の行に イギリ
★次頁にもノンブル枠あり★
ス組曲 と フランス組曲 について,各6曲セットなのにどちらも5曲にしてしまっている。それで調配列の工夫
を見ようなどとは話にならない。その次には,ト長調はイ長調の2度上だ,とあるが 2度下 が正しい。1頁だ
けでこんな調子では,執筆者たちがバッハも楽譜の読み方も知らないことになる。数字やカタカナの誤植も多い。
半可通の雑な対話振りは不快である。それに余計な情報がじつに
れている。そもそもこの本の性格は,その帯
によく表われている。
いわく 歴
も文脈も押さえて,でも音楽そのものへ,Da Capo /第一級の研究者・専門家が講師。ライヴ感
覚の言葉による書下ろし。高
生が読んでわかりやすい。3回の授業で入門から深い世界へ 。ハッタリというよ
り全部 虚言 である。品性のかけらもない宣伝コピーだ。
扉の裏に記されている編集委員なる下受けの如き6名は何者だろう。人に伝わらぬ品物を作っといて心は痛ま
ないのだろうか。
/著者・小沼純一は,私の評価する物書きだった。 ミニマル・ミュージック (青土社),さらに
パリのプーランク (春秋社)など真に傑出した仕事がある。小沼氏と,みすず書房への信頼は地に落ちたと私は
える。 まだ不安定でもあるバロック時代に,しこしこ作曲していたバッハの音楽の居心地の悪さ とは何のこ
とやら。この後記には署名がない。
4.
ヘンデルのアリア
オンブラ・マイ・フ は,ヘンデルの 40余にのぼるオペラの 38作目 セルセ の幕開け第1曲である。このオ
ペラは不成功であった。けれどもこのアリアは,今日 メサイア と並ぶ人気を持っている。メロディの作法が柔
軟な継続性を感じさせる。全体に音階の断片で出来ていると思う。
泣かせたまえ ……このアリアはロンドンで最初に上演されたオペラ リナルド の中の1曲である。2週間で
作曲されたという リナルド は,彼の生前最も上演回数に恵まれた成功作だった。後にヘンデルは自
自身気に
入っているアリアが3曲あると言い,それは3つとも リナルド の中にある。そのうちさらに最上のアリアは,
繊細な対位法を織り成す カーラ・スポーザ である。このように初期の作品からして格調高い旋律を生みだす力
は驚異であり,天才といって良い。
泣かせたまえ は真正なサラバンドである。
じつはこの旋律はヘンデルの最初のオペラ アルミーラ の中で ア
ジア人の踊り というバレエ曲としてすでに現れていた。弓矢を手にした粗野な踊りで,シンバルや小太鼓や刺激
的な管楽器を伴っていたらしい。サラバンドは古くは活発なテンポであったといわれている。(近代でもグラナド
スに速いテンポのサラバンドがある)。
大層驚くべきことに,ヘンデルの旋律作法を巧みさも雅趣もないと見ていた人物がいた。親友であるマッテゾ
ンに,ヘンデルは アルミーラ 作曲に絶えず助言を求めていたという。マッテゾンによれば 彼を捉えている悩み
は,理論優先の作風をいかに隠すかであった という。ヘンデル 19歳,マッテゾン 23歳であった。ヘンデルが修
練を重ねて完成に至ったその力量にもまた感じ入ってしまう。ソルボンヌで音楽
を講じていたロマン・ロラン
の ヘンデル (1910)とC・ホグウッドの ヘンデル (1984),その中でこの事を知ることができた。
5.
第九シンフォニーの意義
30年以上昔の札幌で 999の第九 と題する演奏会があった。
出演者が 999人集まったのかどうかは判らないが,
オーボエが 10人以上いたそうだ。美しい響きなどは無いものねだりということだ。同じ頃,ピアノの先生方が 10
数人,楽器も8台くらいあっただろうか,連弾のステージを見たけれども何の美点もなかった。つまらぬことに
労力をかける土地だと思った。当時,音楽批評などなかなかなかった。
学生時代,長谷川良夫教授が 第九 の第3楽章だけ3度も繰り返し聴かせてくれて,その 東洋的な時間観 を
嘆賞された。シラーの 歓喜の歌 の原型は 自由への
歌 であった。当時のオーストリアは警察国家であって 自
由 という言葉は禁句であったという。 第九 の初演の時,そのほかの楽曲もあった筈だが,一体リハーサルは充
されたのだろうか。当時,リハーサルが充
なされたという記録はない。近年,作曲者の身辺で写譜を手伝う
女性という設定の映画を見た。良い作品だった。女性であったか否かはともかく,写譜業者は必要だった。(私の
学生時代にはゼロックスもパソコンもなかった)。大曲を初演する苦心はうかがえる。今日,気軽に取り上げなが
芸術をめぐる 13の断章
ら陣容も揃っていない演奏会は和気あいあいを装った学芸会のような印象を残す。まるでベートーヴェンが何も
言わなかったみたいだ。
/私が 第九 を好きになったのは最近のことである。
スコアを見て私が注目したのは,終楽章後半に入って,ベートーヴェンがほとんど無調に近いような音列を記
しているところだ。ハーモニーを放棄してユニゾンになっている。(モーツァルトの ドン・ジョヴァンニ に無調
の音列の前例はあるけれども)。晩年のベートーヴェンのすさまじい気力,体力には圧倒される。さらに音楽で真
に強い感情を打ち出したのはベートーヴェンが最初であることを思う。
6.作曲法の始めに
ハーモニーは西欧の古典音楽の文法を理解するためにある。この理論をマスターしたところで作曲ができるよ
うにはならない。日常習慣としてメロディを書きつけることだ。断片でよい。通し番号を付けておく。声に出し
て歌えるメロディを主とする。色々な拍子で書いてみる。テンポ,デュナーミク,アーティキュレーション,フ
レージング,そして音色(楽器)を記す。4小節構造にはこだわらない。流れていく運動性を大切にする。そうし
て字余りか,寸足らずか,過不足ないか診断してもらって,自
でメロディの良否を判断する力を養う。どんな
フレーズにも 歌 の所在を見つけること。このように私はメロディから出発する。良いメロディを書ける人はじ
つに少ない。型にはまったもので終るのなら作曲は安易すぎる。自
の中の新しい響きや新しいリズムと新しい
形式を捉えようとするのは,まず個人の独自なセンスであるし,つねに新鮮な出会いを求める生き方,高められ
た熱意の問題である。
今年は順番を変えてみた。まずドレミファだけでメロディを書いてみる。クラスの半数の学生がよいメロディ
を書ける。それを5度のカノンに書いてみせる。ソラシドに移されたフレーズの 入り の位置を見つけ出すのは
少し時間を要する。けれども2つの4音(テトラコルド)をつなげて音階が生じることがわかった。その短いカノ
ン集を2声で合唱してみる。響きの良さに学生たちはすっかり驚き喜んでしまう。私の経験上,5度のカノンは
自動的に成立する可能性がもっともある。興味はつなぎとめられた。次は自
でカノン書くことだ。だが次には
叙情的な和音に数多く触れさせたい。学生たちに作曲の妙味,音楽の魅力に直面させたいのである。細かなシラ
バスは芸術教育の敵である。知識でなく音楽的感性を育てることが根本である。
7.天才か努力か
芸術をなしとげるのは天才と努力とどちらなんでしょう。最近のこと,ある婦人に問われた。
天才は確かにいるけれども,天才という言葉は適当ではない。天
とかあるいは素質といった段階の方がいい
だろう。努力というのも修練,鍛錬,あるいは精進という言葉がある。二項択一の解答はしにくい。
/音楽の素質
というのは第一に感性である。それは敏感でなくてはならず,音と音楽を区別しないことだ。音を評定するセン
ス,その上に音楽のイメージ,豊かな想像力というものがある。
/自
がどんなに感性またはセンスを持っている
としても,人に伝えるためには技術が要る。技術は音楽内容を運ぶためにあるものだ。また演奏家は練習するこ
とで音楽を見つけるともいえる。反対に,仮に技術は充
備わっているとしても,人に伝える,あるいは人と共
有する音楽内容を持たなければ悲劇である。感性と技術は両方がなくてはならない。
けれども技術に偏していると思えるのが大学の音楽教育である。どんなにミスがない演奏でもつまらないこと
がある。それはマンネリズムに類する。音楽が生きていないのだ。生活のリズムがないのだ。つまらないものを
つまらないと断じられないというのは,良いものも判断できていないのだ。良い音楽がわかることが音楽学
の
学習の目標であるべきだ。
ゆえに感性を育て続けなくてはならない。
/その人の音楽が芸術となるのは人間性と思
想性を有している時だ。生活と精神の質の問題だ。
私は頑張るという言葉を好かない。芸術は頑張って出来るとは思わない。そもそも頑張らなくても出来る人が
いるのだ。人はありのままでいいのだ。頑張らないで出来たところが実力というものだ。そこに自
の短所が見
えたらそこを補修する。競争意識だけあおっても芸術性は伸びない。
木村雅信
8.
メッセージ
スケッチ展も通算 11回となる。カフェ北都館ギャラリーで3年目。店主に求められて展示にそえるメッセージ
なるものを即席に記した。
2009年は,本当に沢山の人に出会いました。ほとんど美術に関わりのある人で,多くの刺激を得ることが
できました。絵画の様々な表現を試してみたくなりました。次年度はあらためて水彩を加えたいと思いま
す。
/札幌市内の自
の未だ知らない 園を訪ねました。札幌が好きになっていくのでした。尻別岳を描きに
真狩村に通いました。
作の基礎は 見ること 。人生も日常も,驚き・発見の連続です。
/私は画家の苦労・
苦悩を知らず,何を描いても絵になると思っています。色の選びも筆の運びも,
根本は 即興性 で,音楽と同
じです。形を成すとき,その一枚はすべてあるがままなのです。自己主張の余地はありません。さりげなく,
のびやかな心持ちを大事にしたいのです。空ゆく雲のように変化するいのちを見つめる生活を,もう少しゆ
るしてもらいたいと思います。
会場で,会期中一夕,フルートの大島さゆりさんと協演した。モーツァルト,バッハ,宮城道雄の 春の海 ,
わけてもグルックの 精霊の踊り ほか。こうしたサロンコンサートもこの春は回を重ねた。
康のこともあって市内の未見の空間を歩こうと決意している。平岸の天神山。貴重な河畔林の残る精進川の
川筋をたどる。また旭山
た。また自宅に接している
園から広く市街を臨む空の解放感。そこでは三方の山越しに佳いアングルが把えられ
園も樹木に恵まれていて,ことに早朝の光線の鮮やかさには心が躍る。私は良い気
の時にのみ薄墨の筆ペンを走らせる。歌うような線のよろこび。手本は,雲と山と樹木である。
9.
中井正一の美学入門
著わされたのが 60年前にもなるこの評論を,北都館でお会いできた著者の長女の方から恵贈頂いたことで,私
は苦手な美学の世界に触れることになった。自
が美学を軽んじてきたのは,美学は
作に先行しないという思
いがあったからだ。
/ 自然の美 に欠けているものを補う 芸術の美 は判る。
未知の概念であった 技術の美 の一
つとして スポーツの美 があった。これを試しにレポートの設問に入れてみると,学生は汗とか涙にしてしまっ
て失敗だった。もっと理性的な事なのだが。
もっとも理解できたこと。それは,美とは未知の自
らないということ。そしてあるべき自由な自
,予期せぬ自
,新しい自
にめぐりあうことにほかな
の中に解き放たれたこころもちを感ずるのである。(柳宗悦・河井
寛次郎の言うことと一致している)。その 今ここ の感情は 時間 の中に解体されている。このようなこころもち
は,ハイデッガーのいう純粋に 生きた時間 である。私は芸術とは,かかる時間に 生 を実感させる働きである
と
える。
中井正一は映画による芸術の発展に夢を寄せている。関連して,歴
の一回性をリアルに捉えて再現できる機
械の生む芸術は,人々に個人主義の終結を宣することとなるかもしれない,と結んでいる。映画など集団で作る
芸術である。しかし私は,個人主義が従来の芸術の中心軸であったと思っていない。中井のいう 技術の美 はた
しかに心を動かすものがある。科学のもたらす美というべきか。巨
とか機体とか。けれども好きなのではない。
中井は機械の専横に人間性が今日いかに損傷されているかを知らない。
/中井正一は国立国会図書館副館長の任
にあった。情報の中心としての図書館を予言したのは中井である。※ 美学入門 (河出市民文庫・1951) 中井正一
評論集 (岩波文庫・1995)
10.
矢内原伊作の芸術論
近代日本の芸術思想 はほぼ半世紀以前のものである。私がこれを早くに知っていたら,どんなに勇気づけら
れたことだろう。芸術を芸術たらしめるもの,それは 思想性 であると言う。
芸術自体の価値を追求してきた近代芸術は,人間存在に関する思想の表現となる。芸術が言葉で現わせないも
のを表明するとき,そこに含まれる人を動かす力強いもの,それが芸術の思想であるという。感覚を通して人間
性を豊かにし,精神をより深いものにする。それは芸術の思想の力である。感覚と思想が結び合って芸術となる。
芸術をめぐる 13の断章
この芸術の思想に触れることのない文章は,芸術の周辺について語っているにすぎない。……以上のところが中
核と思われる論旨である。
日本は芸術家は多いが芸術はない。芸術がなければ芸術論は生まれない。つまり思想的普遍性を有していない,
とこのようにいう矢内原は,音楽についても同様にみている。作曲も演奏も芸術的主張に基づいて行なわれたこ
とはほとんどないから,日本の音楽は 芸術 ではなく 芸 であったと厳しい。
/芸術は,社会のなかにある非人間
的なものに対する批判として表われるものでもある。
私は
造精神と批判精神は同一と
えてきた。
/機械文明の
今日では,人間の人格,個人の自発性,感情の豊かさ,内面の深さ,精神の高さを否定する傾向にある,と矢内
原はいう。それは 50年経ても変わらない。私はこのことに危機を抱くことが芸術を消滅させない道であると
え
る。 芸術が真実とか人間性とか内面性を失うとき,それは技術,商品,装飾,娯楽である 。それに趣味を加え,
過去の模造をそえよう。つまり新しくないものだ。また鑑賞者享受者に普遍的人間性があれば芸術にエネルギー
が生じる。さもなければ涯しない低俗の道が続くばかりだろう。
11.青木新門詩集 雪道
大学の仏教講演会に青木新門さんが来られた。はじめてお会いした時, 先生の詩集を作曲してもいいですか
と伺うと,新門さんは即座に あゝ,言葉のおかしなところはどうぞ直してください と言われた。私は 柿の実
と 雪が降ると をまず作曲して,初演の CD を詩人にお送りした。詩句を直すことなどなかった。詩集 雪道 (桂
書房・2001)は 納棺夫日記 と同じモチーフを結晶化している。テーマは 後生の一大事 である。浄土も待ってい
るということを私は感ずる。詩篇の中には詩としてとくに高められた作品があって, ゴッホの眼
光
眼が光になれば
眼に見えない
みんな美しい ……音楽の及ぶところではない。作曲を追加するにはかなりの時間を要す
る。
人は宗教を見失った時,癒しを求める 。青木新門さんはこう記しておられた(難波別院 南御堂 2月号,2010
年)。私はこの宣言の一行の力強さを喜こんだ。それは次のように続く。…… そんな現代人に見事にフィットし
たのが おくりびと であり 千の風になって であった
千の風 については,日本語のアクセントを無視した粗末な旋律だと私は指摘してきた。しかしその歌をまだ
知らない時に,目にふれたその詩を女声合唱用に作曲している。完全に正しいアクセントで。その詩にはどこに
も仏の教えがないということを昨年は法話に書いた( 花すみれ 大谷婦人会・11月号)。詩にも真とは似て非なる
ものがあるのだから,人を惑わすエセ宗教味に手を貸すような付曲や発表はいかがなものかと思われる。新門氏
の論説は堅固で,そして小説家の文章である。 信なくば何事もいたずら事にすぎない ,と私の体を揺すぶる。
たとえ聞く者がない今日現代であっても真を説く。それが教育者にも芸術家にも肝腎のことといえよう。
12.イメージ
信州
代の皆神山を訪ねたことがある。戦時中,この山の地下に皇居が造られた時,天皇は動座されなかった
が,戦争末期,
団と中野学
代のことを
えてみてはどうか と発言され,軍部は支度にかかった。警衛のために登戸の師
の部隊が予定された。天皇が移られれば,関東 100万の人民が安全を求めて
代を目指すだろうと
いうのである。そこで人民を迎え撃つために碓井峠が想定され,銃では間に合わぬということで化学兵器が
え
られた。だが,すぐ終戦となる。
以上の内容は文書が存在する,と長野駅でお会いした地元の研究者が話してくれた。その虐殺は起こらなかっ
た。けれども,私には碓井峠の夕陽に照らされて歩み疲れた人々の姿が見える。壮年青年男子はいない。おおか
た年寄り,女性に子供。ガスを吸って倒れ伏す群像が目に見える。私は油彩に描きたいと思う。けれども技術を
持たないのだから実現しないだろう。
代の帰りに軽井沢に降りてみた。タクシー乗り場で,旧道の碓井峠,と告げても一台も応じてくれない。 浅
間の煙も何にも見えないよ 。濃霧が発生しているのだ。浅間の煙をイメージする。
沖縄の南風原(ハエバル)で,米軍の上陸を前にした軍が,収容している重傷兵士2千名を青酸カリで死なせる
ということがあった。
あれは絵になるイメージを浮かべられない。
/昨年は越後の親鸞聖人七不思議なる地を巡っ
木村雅信
たが,全部迷信の如きもので,まったく真宗ではなく誠に残念なことだった。某寺の前のバスの回転場に傷つい
た子ガラスがいて,小学生たちがつついたりしていた。初めての飛行に墜落したところをバスが接触したらしい。
上空を親ガラスが旋回している。私は寺の土塀の下に運んだ。単身の旅だったら病院に直行するところだ。黄色
い土塀の下にうな垂れているカラス。この明らかなイメージは多
描けるだろう。
13.
城南宮と平曲
2007年9月,京都市芸大・日本伝統音楽研究センターの
語る声と音
開講座を聴講した。 今よみがえる平家(平曲)
物
。幸い私は 採譜本/平曲 を持っていた。これは帯広の古書の春陽堂で見つけたものだ。
/文学で
いう 平家物語 であるが,正しく 平家 といえば,それは琵琶の伴奏で語る 音楽 である。今は平曲とも呼ばれ
る。平曲は後鳥羽天皇の元で,舞楽の名手(文才があった),練達の楽人,天台声明の権威,この三者の工夫で
られた。声明の旋律が基礎になって,言わば声明と謡曲の間を行くように思われる静かな語りである。平曲は真
実平氏へのレクイエムとして作曲されたのである。
琵琶法師によって伝えられて来た平曲は室町時代に最も栄え,
とくに徳川家の式楽として尊重されていた。また武家のたしなみ,知識人の趣味として愛好された。
/ 採譜本/
平曲 の著者・藤井制心(1901-72)は,昭和のはじめ,京都の仏教讃歌の合唱運動に功績があった人で,現在の相
愛大学の前身の音楽科
設に尽力した。平曲の採譜には 16年を費やした。平曲の曲名は 200というが,その伝承
されている8曲の採譜を完結させて亡くなった。伝えられているその厳密な作業振りには感動させられる。藤井
制心は平曲を素材に新しい音楽作品を
の訓練に
ることを呼びかけている。採譜本の平曲の旋律を,私はソルフェージュ
うことを提唱したい。
/文化というものが,いかに伝えそびれて来ているものであるかと思う。今日の
音楽に至っては,後代に残るものはほとんど無いだろう。続く時代の
造を刺激するものがないとすれば,限り
ない不毛の荒野が広がるのではないか。
/この講座の講師・藤井知昭氏は藤井制心の御子息である。この
開講座
を案内してくれた東洋音楽学会の存在に感謝したい。
京都駅前のバスターミナルで 城南宮 という文字を見て,その地名の 音 に心ひかれていた。簡素な観光マッ
プには記されていないが,方除けの,つまり旅行安全の大社である。平安遷都の際,王城守護の社として
さ
れ,とくに熊野詣の起点であった。かつて都の南方は伏見あたり広大な巨椋池があり,風光に恵まれた鳥羽の地
は水運も栄えていた。平安末期,白河上皇は壮大な城南離宮(鳥羽離宮)を造営,院政の拠点となり,ここで王朝
文化が開花した。代々の天皇はほとんど音楽の名手だったようだ。 天皇文業
覧 (若草書房・2004-5)を開いて
それがうかがえる。平曲は城南離宮で作られたと私は想像している。さて城南宮は,後鳥羽上皇が 承久の乱 を
起こし,後世では慶応4年正月, 鳥羽伏見の戦い が始まった所,歴
学会の帰りに城南宮を再訪した。五つの
の舞台であった。
園には, 源氏物語 に現われた百余種の草木をもれなく集めている
ということだが,ミニ立札が多くて煩しい。九月の花のない時期であったが,池の岸の盛りを過ぎた萩の色に風
情があった。それにも増して強く心に迫ったのは池の中に枯れて立っている蓮の葉である。その脇には侍者然と
してコウホネが三角の鏝(こて)を揃えている。水に反転するその姿を捉えようと筆を動かしてみたが難しい。そ
の絶妙の構図に私は 詩 を了解した。
新しい作品の構想が浮かんだ。和洋楽器合奏の,その名も 城南宮 である。平曲の琵琶のモチーフを素材にす
るが,琵琶をマンドセロに,笛をフルートに換えた方がよいかもしれない。
関西では宿はとにかく神戸と決めている。西明石行きの窓から,赤味を帯びた夕雲の北へ向かう数頭の馬の形
を目にして,蕪村の句, 鳥羽殿へ五六騎いそぐ野
芸術をめぐる 13の断章
(のわき)かな を思い出した。