第2章 ガネーシャ

第2章
ガネーシャ神
ガネーシャ 神
イントロダクション
次に引用するスワミ・チンマヤーナンダの言葉は、ガネーシャ神を説明し、さらにその意義をそ
えています。
シヴァ神の第一子は、どんなときでもシヴァ神に仕え従至高の導師(ヴィナーヤカ)、ガナの導き手(ガナ
パティ)、またはあらゆる障害を取りのぞく神(ヴィグネーシュワラ)として描写されます。どの御名も、ガ
ネーシャがあらゆる状況をもつかさどる者であり、たとえ神であろうと道をさえぎることのできないことをは
っきり示しています。あらゆる障害を超える神であることから、ヒンドゥー教ではこの神格に祈りを捧げずに
儀式をしたり、何かをはじめることはありません。ガネーシャ神の恩寵により、目に見える障害、見えない障
害、いずれにも行く手をさえぎられることはない、そう信じられています。
ガネーシャ神はラクシュミー、サラスワティーという、富の神、知識の神両者と結婚したとされるため、霊
性の知識(ヴィディヤ)の主であると同時に、俗世の功績(アヴィディヤ)の勝者でもあります。
シュリー・ガナパティは「完成された英知の者」、完全に覚醒したヴェーダンタ哲学を象徴します。…(略)
…
ヴェーダンタ哲学を学ぶ者にとって「英知の道」は本質的に知性的なものであり、その理論を理解し解釈
するだけの優れた知性が必要です。実際、ヴェーダンタ哲学の真理は、導き手の教えに耳を傾けることを通し
てのみ理解されうるものであるため、スラヴァナ(傾聴)は学びはじめる者が身につけるべきまず最初の段階
です。ですから、シュリー・ガナパティは集中して知性的に導き手に耳を傾けつづけることを表し、大きな耳
をしているのです。
ウパニシャッドの真理に「傾聴」したのち、ヴェーダンタ哲学の徒は聴いたことについて自分なりに「思索
(マナナ)」しなければなりません。そのためには、この大宇宙の生きとし生けるものすべてを抱きかかえら
れるような豊かな慈しみを内側に見いだし、その慈愛に満たされたきめ細かい知性を必要とします。
ヴィジョンに多様な世界の全体像を抱きとるには、知性にそれほどの深みと広がりが必要です。全宇宙をヴ
ィジョンに抱くのみならず、さらには永遠にして不変であり遍在する意識、神聖なる魂と、その衣装である移
り変わり滅びゆくものごととを見分けられる鋭敏な識別力(ヴィヴェーカ)をも必要とします。学ぶ者が知性
を意識的に養い、完成にむけて大きく近づけることのできたとき、識別できるようになります。
額から伸びる象神の鼻には特別な能力があり、人々が達成したこと、科学や工学による発明、すべてをうち
砕きます。たちまち木を根こそぎにすることもできれば、地面に落ちた一本のピンを拾いあげることもできる
ような「道具」です。…(略)…この象の鼻のように、知性の発達により完成された識別能力は、数々の外界
の問題を解決するために発揮されると同時に、幾重もの層をなす個人の精妙な内面世界でも効果的に用いられ
るべき能力です。
識別の力は、見分けるべき2つの要素があるとき働きます。その2つの要素が象神の牙の表すものであり、
2つの牙の間から鼻が伸びています。私たちは一生の間、善と悪、正と誤、二元性の間で識別し、独自の判断
と結論を下さなければなりません。…(略)…折れた片方の牙は、真のヴェーダンタ哲学の徒とは、相対する
二つのものを超越していることを示します。
この完成された者は、いわば人生のできごとすべて、幸運も不運もみな静かに飲みくだすことのできる大き
なお腹をしています。…(略)…
シュリー・ヴィナーヤカが描かれるとき、そこにはいつもネズミがいます。…(略)…
小さな歯をした小
動物ですが、穀物倉のたった一匹のネズミが、少しずつかじり食べつづけることで大きな損害を与えます。ひ
とりひとりの内にも、山のような利益でさえも食いつくす「ネズミ」がいます。欲望という名のネズミです。
この完成された者は、得たい、所有したい、味わいつくしたいという衝動、自らを破滅に追いやる欲望という
ものの力を、完全に制し意志に従わせることができるのです。さらには世に祝福を授ける役割を演じるとき、
そのネズミを乗りものにします―――つまり世の中で活動するときの乗りものが、世のために働きたいという
欲望なのです。
ガネーシャ神には4本の腕があります。縄、斧、米菓子(モダカ)、蓮、牙を握る姿がよく見られます。こ
の斧で多様なこの世にたいする帰依者の執着を断ちきり、そこから生じる悲しみの数々を終結させ、縄を用い
てより真理の近くへとひきよせ、最終的に至上のゴールに結びつけるのです。手にした米菓子(モダカ)は、
帰依者のサーダナに与える喜ばしい報酬を表します。そしてもう一方の手で帰依者を祝福し、至高者を求める
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霊性の道であらゆる障害から守ります。
(スワミ・チンマヤーナンダ著
◇
R.S.ナザン編纂
◇
◇
『ヒンドゥー教の象徴性』
171-177p)
◇
ガネーシャ神の御姿のさらなる特徴、たとえば牙、ネズミ、書物や数珠、象の頭、白い衣、灰色
の体、グラム粉の菓子、大きなお腹などの意義は、この章のサティア・サイ・ババの言葉によって
説明されます。
またひとりひとりの内にあるガネーシャ原理の側面として、霊性修行(サーダナ)の役割や、神
の恩寵とグルの恩寵、人生における障害や覚醒を求める道での障害を取りはらうガネーシャ、そし
てガヤトリー・マントラなどについても言及されています。
1.ヴィナーヤカとガナパティ―――ガネーシャ神の2つの側面
ガネーシャ神は心と知性が最高に調和した状態の象徴であり、そこからあらゆる行いや儀式をはじめる前、
どの神よりも先に礼拝されます。つまり、心と知性にガネーシャの美徳と資質のすべてをそなえ、どんな行い
や礼拝をするにも、まずこの2つを十分にコントロールし調和させていなければならないことを示しています。
ガネーシャは知性の主です。御姿そのものが正しい知性の働きすべての象徴です。
(ジョイ・トーマス著『サティア・サイ・ババのメッセージ:人生は夢
◇
◇
◇
叶えなさい』132p)
◇
ヴィナーヤカ、ガネーシャ、ガナパティ、ヴィグネーシュワラ―――すべて象神を表します。若者からも老
人からも人気を集め、あらゆる儀式、サムスカーラ、ヤッギャ、ヤジナをはじめる前、あらゆる誓い、断食、
巡礼をはじめる前に、まず最初に礼拝する神です。ガネーシャ神は人の肉体の内にも外にもある聖なる力、ガ
ナの主であり、たとえどんなに大きく重いものであろうとあらゆるヴィグナ(障害)をとりしきりうち砕く神
です。これらのことは、ガナパティがヴィディヤ(学識)、ブッディ(知識)といった知識の神であるという
事実から自然に派生しました。
ガナパティはタントラ(儀式にまつわる学問)の中で崇められ、またあらゆるヴェーダのマントラにも崇め
られる神です。
(サティア・サイ・スピークス11
◇
◇
◇
210p)
◇
ヴィナーヤカはどのようにしてシッディ(至高の能力)を手に入れたのでしょうか。両親が二人の息子――
―ガネーシャとスッブラマニヤ―――のためにコンテストを開きました。二人のうち先に宇宙をひとめぐりし
たほうに、果物を賞品にして恩恵を授けようと言いました。弟のスッブラマニヤは飼っていたクジャクに乗り、
すぐさま宇宙一周に出かけました。一周し終え両親のもとに近づこうとしたスッブラマニヤを見て、その間ず
っと静かに座っていたヴィナーヤカは立ちあがり、両親のまわりを一周するとまたもとのところに座りました。
パールヴァティ(創造のシンボル)は、数々の困難を乗りこえ宇宙を一周したスッブラマニヤこそ勝者だと言
いました。パラメーシュワラ(シヴァ神)は、自分たちのまわりをまわったことにどういう意味があったのか
をヴィグネーシュワラに尋ねました。するとこう答えました。「この宇宙すべてがあなた方二人の顕れ、万物
がシヴァ-シャクティの顕現です。目に見える現象界をひとまわりするのは幻想に惑わされた行いです。お二
人のまわりを一周することこそ真に宇宙をひとめぐりすることといえましょう」これを聞いてパールヴァティ
は言いました。「この果物はあなたのものです」そうしてガネーシャは神のひきいるあまたのもの(ガナ)の
主になりました。イシュワラ(シヴァ神)はヴィナーヤカの最上級の知性に深く感銘を受けて言いました。「私
を礼拝しようとするものは必ずまずおまえに祈りを捧げるだろう」ヴィナーヤカはそれほどまでに恩恵を授け
られました。なぜでしょう。主であり遍在する神への信仰があったからです。あらゆる人が進むべき正しき道
とは、神への信仰心を育て、信仰にもとづいた一生を歩むことです。
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(サナタナ・サラティ
◇
◇
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1991年
9月号
276p)
◇
ヴィナーヤカはあらゆる学問(ヴィディヤ)の主です。学問とは書物から得られるような知識のことでしょ
うか。いいえ、学問(ヴィディヤ)という言葉には、この宇宙に付随するものごとからの学びすべてが含まれ
ます。歩く、しゃべる、笑う、座る、食べる、ぶらつく、考える―――すべての行いが学びに結びつきます。
ヴィナーヤカはあらゆる学問の師です。今日では学びが情報を記憶することになっています。しかしこの世に
は自然界にまつわる知識だけでなく、科学、芸術、その他の技術など、実に様々な知識があります。
ヴィナーヤカはあらゆる知識の師です。学びは知性(ブッディ)に関連します。たんなる学識のことではあ
りません。書物に親しむことが知性的なのではありません。ひとりひとりの人生そのものが、たえまない学び
のプロセスなのです。あらゆる問いかけが学びになります。しかし本来、何が移り変わるもので何が不変なの
かを問わなければなりません。それこそが真の知識といえるものです。
(サナタナ・サラティ
◇
◇
◇
1995年
10月号
255p)
◇
ヴィナーヤカは生命の神です。人は利己心を取りはらい、至高のセルフへの愛を育てることを学ばなければ
なりません。これがヴィナーヤカに秘められた真理です。ヴィナーヤカをたんに象の頭をしてネズミに乗った
神だと思っていてはいけません。
(サナタナ・サラティ
◇
◇
◇
1995年
10月号
259p)
◇
今日のこの日、私たちはガネーシャ・ジャヤンティ、ヴィグネーシュワラの誕生日をお祝いしています。ヴ
ィグネーシュワラとは誰でしょう。この神格の偉大さとは何でしょう。世に教えたこととは何でしょう。あな
た方はジャヤンティをお祝いしても、その背後にあるタトワ=原理を理解する努力は何もしません。この神格
が自ら示した至高の教えとは大宇宙との一体性です。商品を勝ちとるために宇宙を一周するよう両親から求め
られたとき、ただ両親であるシヴァ神とパールヴァティのまわりを一周し、二人のまわりをまわることが宇宙
を一周することなのだと言いました。なぜなら、シヴァ神とパールヴァティが大宇宙の象徴だからです。
(サナタナ・サラティ
◇
◇
◇
1993年
11月号
296p)
◇
ガナパティとはガナ(神聖なるものたち)の主という意味です。また知性、識別する力の師という意味もあ
ります。偉大な知性と知識をそなえるからです。そのような知識は純粋で神聖な心から生じます。そしてこの
知識は英知(ヴィグナーナ)へといたります。ブッディ(知性)とシッディ(英知つまり覚醒)をつかさどる
ことから、ブッディ、シッディの主として語られます。またブッディ、シッディがヴィナーヤカの妻だといわ
れています。
(サナタナ・サラティ
◇
◇
◇
1991年
10月号
275p)
◇
ヴィグネーシュワラはガナたちの至高の主として、ガナパティと呼ばれます。ガナとは知覚器官(ジュナー
ネンドリヤ)と行動器官(カルメンドリヤ)を意味します。心がそれら10の器官をつかさどります。心をと
りまとめる神格は、インドリヤ(器官)の主であることからインドラと呼ばれます。この心を支配するのが知
性(ブッディ)です。
ガナとよばれるものが人の肉体の部分であることは次のことからきています。個人(ヴャクティ)は創造(ス
リシュティ)の一部です。そのためこの大宇宙を照らし出す神性というものも人に内在します。*ヴィガト
ーヤカ
ナ
ヴィナーヤカ(ヴィナーヤカを支配するものは存在しない)。つまりヴィナーヤカは完全に自立し独
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立した神であるということです。より上位の神がいません。この世では誰であれ、どの道をきわめたものであ
れ、必ず上に位置するものがあるものです。しかしヴィナーヤカには上位の主がいないのです。(*Vigatho na
yaka Vinayaka)
バーラタの国においては太古の昔からヴィナーヤカが信仰されてきました。リグ・ヴェーダ、ナラヤノパニ
シャッド、タイトリヤ・ウパニシャッドにヴィナーヤカについて述べられた部分があります。それらがガヤト
リー・マントラの一部になりました。
タットプルシャヤ
ヴァクラトゥンダヤ
タンノ
ダンティ
ヴィドマヘー
(Tatpurushaya Vidomahe)
ディーマヒー
(Vakrathundaya dheemahi)
プラチョーダヤート
(Thanno Danthi Prachodayath)
ヴィナーヤカの神性がガヤトリー・マントラの中でもたたえられていることが、このマントラから分かります。
ガナパティはあまねくいきわたる神の力を象徴しているといえます。今日人々の間でガナパティはパールヴァ
ティの息子といわれています。パールヴァティはプラクリティ(自然)を表します。人は自然の子どもです。
ですから誰もがヴィナーヤカなのです。万物は自然(プラクリティ)から生じ、自然の側面それぞれを表しま
す。神々にまつわる祝祭が行われてきたのは、こういった神聖なる真理を示すためなのです。
(サナタナ・サラティ
◇
◇
◇
1995年
10月号
253-254p)
◇
目に見える外界のものはみなドリシャ(見られたもの)です。太陽も月も星も、この大宇宙の構成要素であ
る五元素も、みなドリシャです。またあなた方は他のものを見るように、自分の肉体も見ています。ですから
肉体もドリシャです。では「見るもの」とは一体なんでしょう。ドラシュタです。肉体は見られる対象であり、
あなたが見るものです。ある人々はスーニャ、つまり空もしくは無というものについて語ります。目で見るこ
とができないのに、どうやってスーニャについて語ることができるのでしょうか。見るもの、見られるものに
まつわる知識は、今日私たちがこうして降臨を祝しているガナパティからの偉大なるメッセージです。「ガ」
はブッディつまり知性を、「ナ」はヴィグナーナつまり英知を、「パティ」はつかさどる者を意味します。ガ
ナパティは知識、知性、英知の神といえるでしょう。またガナパティという言葉には、天界の存在であるガナ
の導き手という意味もあります。ヴィナーヤカとも呼ばれ、その名はより上位の主がいないことを示していま
す。至高の主なのです。ガナパティは心のあらゆる状態を超越しています。心を制したものは何ものにも支配
されません。
(サナタナ・サラティ
◇
◇
◇
1994年
10月号
263p)
◇
学生たちはガナパティ崇拝を好みます。ブッディ(知性)とシッディ(大志を実現する力)を授けてくださ
いと祈ります。ガナパティという御名のガはグナまたは美徳を、ナはヴィジュナーナ(英知)を意味します。
ガとナが結びついて、ヴィジュナーナ(物質的知識)とパラジュナーナ(霊性の英知)両方を得ます。ヴィジ
ュナーナとパラジュナーナが組み合わされた結果サジュナーナ(至高の知性)が生じ、それが真の人間の特徴
的しるしです。アジュナーナは無知のしるしです。ガナパティはヴィジュナーナ(俗世の知識)、パラジュナ
ーナ(霊性の英知)の主です。そこから、ガナパティに祈りを捧げるとき、帰依者はヴィジュナーナ、パラジ
ュナーナ、サジュナーナを授けてくださいと求めます。
(サナタナ・サラティ
1992年
9月号
◇
224p)
◇
◇
◇
ガネーシャを見ならうなら、食べた食物の量でなく、ヴィナーヤカとしての側面を見ならいなさい。ヴィナ
ーヤカというなみはずれた導き手になるためには、長い間無私の愛情に満ちた奉仕を、熱心に情熱的に続けな
ければなりません。奉仕はリーダーシップを学ぶ最適の学校です。その学校で、ほんの少しの嫌悪も怒りも根
気のなさも、根こそぎ取りのぞいてしまわなければなりません。傲慢さや偏見が、貧しい人や病んだ人に仕え
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る気持ちのじゃまをしようとするでしょう。しかし自ら選んだ正しい道を進むのに、決して信仰を捨ててはい
けません。自らが一人のサダカ(霊性の探求者)であること、そしてセヴァ(奉仕)があえて立ちむかうべき
最善にして最短の霊性の道であることを、いつも心にとめておきなさい。
(サティア・サイ・スピークス13
◇
◇
◇
111p)
◇
知性が花開くのは人が純粋になったときです。霊性のゴール(シッディ)にたどりつくのはこの知性が花開
いたときです。ヴィナーヤカは知性(ブッディ)と霊的覚醒(シッディ)を支配します。シッディとは英知を
理解するという意味です。数々の経典にシッディとブッディがヴィナーヤカの妻で、クシャマとアーナンダが
二人の息子と記されています。シッディ、ブッディは、ガナパティの魅了する力の象徴です。
ガナパティを祝うお祭りは、人々が心を純粋にする機会です。人はたいてい自分のもつ欠点を他人の中に見
いだします。自分と同じ欠点を人のものにして、自分からは目をそらしているのです。これは実によくない癖
です。自分にある欠点を、人の中ではなく自分の中に認めてこそ進歩します。人の良いところを見、自分の欠
点を見つめなさい。そのような人が前進します。人は自らの欠点を無視し他人の欠点を大げさにとらえること
で、人間性をだいなしにしています。
(サナタナ・サラティ
1992年
9月号
222p)
2.ビグネーシュワラ―――障害を取りのぞき富を支える者
ヴィナーヤカ、もしくはヴィグネーシュワラ、ガナパティと呼ばれる神を崇拝することで、この世での行い
と、それを最後までやり通すのに必要な勇気と自信が授けられます。象は森で一番大きな動物です。大変頭が
よく絶大な記憶力をもっています。深い森の中を歩きまわり、他の動物の道をつくります。象の頭をもったこ
の神は、知性と記憶力、また悪意や悪徳を制する力を授け、道を切り開いてくれる神です。儀式、式典、事業
をはじめるとき、まずこの神を礼拝するのは実にしかるべきことといえましょう。
(サティア・サイ・スピークス13
◇
◇
◇
136-137p)
◇
ヴィナーヤカは別名ヴィグネーシュワラです。イシュワラ(シヴァ神)とは考えられる富すべて―――豊か
さ、知恵、健康、恩寵、愛など―――を授かった者のことです。ヴィグネーシュワラとはこれらの富をさらに
増進する神で、その富を享受するのに障害となるものをきれいに取りのぞきます。礼拝するあらゆる人にすべ
ての富を授けてくれます。ヴィナーヤカはプラタマ・ヴァンダナ(最初に礼拝される神)といわれます。人は
みな富と繁栄を求めており、まず最初にヴィグネーシュワラに祈りを捧げます。
しかしヴィナーヤカ原理とは、帰依者であるなしにかかわらずすべての人にとっての唯一の真理を意味しま
す。ヴィナーヤカとは自らを完全に制する者の意です。上位の主がいません。誰をも頼りにしないのです。
ヴィナーヤカはあらゆる悪の資質を取りはらい、善の資質を注ぎこみ、自らを瞑想する帰依者に平安を授け
ます。
(サナタナ・サラティ1991年
◇
◇
◇
10月号
275p)
◇
ヴィナーヤカは、心から祈りを捧げる帰依者の道からあらゆる障害を取りのぞくため、ヴィグネーシュワラ
とも呼ばれます。また学生たちは本に書いてあることがみな頭に入るよう、本をたずさえて礼拝します。
(サナタナ・サラティ 1994年
◇
◇
◇
10月号 265p)
◇
何をはじめるときにもまずヴィグネーシュワラが最初にくるのには特別な意義があります。深い森の中で象
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が歩きまわることで、他のものに道を切り開きます。それと同じで、ガネーシャに祈ることで私たちの進もう
としている道すじが切り開かれるのです。また象のとても大きな足で動きまわると、他のどんな動物の足跡も
踏み消されてしまいます。これにもまた象徴的な意味合いがあり、ガネーシャをたたえることにより道にふさ
がるあらゆる障害が取りのぞかれるのです。ガネーシャの恩恵により、人生という旅がよりスムーズに、より
幸せなものになります。
(サナタナ・サラティ
◇
◇
◇
1989年
10月号
263p)
◇
ヴィナーヤカはあらゆる悲しみ、困難、苦悩を追いはらいます。障害にしてみれば天敵なのです。ヴィナー
ヤカは道をふさぐどんな障害も許しません。障害を破壊する者であり、幸せと平安を(帰依者のもとに)運び
ます。それらの力(ブッディとシッディ)の主です。シッディ(成就)とは何でしょう。心が純粋になったと
き、平安の成就(シッディ)を迎えます。そうしてヴィナーヤカはブッディ(知性)とシッディ(覚醒)の主
になりました。そうです、誰もがみな心をコントロールするすべを身につけなければなりません。
(サナタナ・サラティ1995年
10月号
225p)
3.ガネーシャ、ヴィナーヤカ、ガナパティ
―――ブッディ(知性)と無執着をはぐくむ者
闇を照らす光―――たえまない煩悶、終わりの見えない模索、とほうもない苦悩、ないものまでつかもうと
するあがきからあなたを解放に導こうとする光に、人は気づこうとしていません。なぜでしょう。知性ではな
く心(マインド)が人を導いているからです。知性は識別し、探り、分析します。しかし心(マインド)は盲
目的に気まぐれや思いつきを追いつづけます。知性はその人に与えられた役割や責務を明らかにする助けにな
ります。気まぐれな心(マインド)にまるで奴隷のように縛りつけられ、人は休む間も平安を感じる間もなく、
ただあちらからこちらへととびまわります。バスにかけ乗り、仕事に映画に店にととびまわり、穏やかさや静
けさなど一瞬たりともありません。平安は霊的努力のつみかさねから得られます。想い、言葉、行いのひとつ
ひとつを霊性の段階にまで高めるということです。世の中を正していくのに必要なのは、新たな法や新たな集
団をつくることではなく、純粋な心をもった男性女性たちです。そういった人々こそがこの世界を泥沼からす
くいあげていくのです。
(サティア・サイ・スピークス15
◇
◇
◇
34p)
◇
つねに高い意識でいなさい。ボールに入れられた空気はボールの形になります。風船に入れられれば風船の
形―――丸いもの、長いもの、円、楕円―――になります。心は執着するものの形をとります。ちっぽけなも
のに固定すればちっぽけに、壮大なものに固定すれば壮大になります。カメラは焦点のあったものなら何でも
写します。シャッターを押す前に注意を払いなさい。執着を強めてしまう前に識別しなさい。妻や子ども、土
地や建物、銀行口座の残高に執着すれば嘆きがやってきます。普遍なるものに執着し、自ら愛と輝きになりな
さい。普遍なるものへの執着、その執着を偽りのないゆるがぬものにしなさい。
(サティア・サイ・スピークス5
◇
◇
◇
20p)
◇
心を知性(ガネーシャ)で点検しなさい。よこしまな想いは後悔に終わります。善い行いを決意し、歓びを
手にしなさい。欲望とそれを追い求める衝動を制すれば、必ずゆるぎない平安を得ることができます。もし手
綱(たずな)をゆるめ心に主導権を与えてしまったら、人は不正から不正へと引きずられてしまいます。自分
を敬う気持ちも失うでしょう。法も正義も、行動規範も社会的規律も無視するでしょう。人生はあちらからこ
ちらへ、あれからこれへと半狂乱にかけまわるだけになります。
無執着だけが幸せを授けます。ティヤガ(捨てさること)が真のヨガです。本来になうべき役を授かるまで
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に、人は3つの資質を捨てなければなりません。英知(ジュナーナ)をもみ消す怒り、行為(カルマ)を汚す
欲望、神への愛と人への愛を破壊する貪欲さです。この「捨てさること」によって、行いが賞賛にあたいする
ものであるかどうかが分かります。利己的であったり、エゴをふくらますものであるならそれは罪です。
(サティア・サイ・スピークス15
◇
◇
◇
29-30p)
◇
アートマ、それがあなたの真理であることを知りなさい。そしてそれが大宇宙の内なる力と同じであること
を知りなさい。知性を真理(ガネーシャ)に到達させなさい。自らを分析し、意識がいくつもの層―――肉体、
五感、神経、心、知性―――であることを見いだしなさい。そして最後の層、歓びという核心にたどりつきな
さい。真理にいたるには5つのさやを超えなければなりません。真理とはアートマです。
アートマはとぎすまされた知性と純粋な心(ガネーシャ)で理解することのできるものです。どうしたら心
を純粋にすることができますか。心の追いかける悪い食べもの、いうなれば物質的な快楽に飢えさせて、健全
な食べものである神意識を与えるのです。移りゆくものと不変であるものを識別するのに用いれば、知性も鋭
くなっていきます。想いを神に、御名に、御姿に集中させなさい。どんなときでも純粋で永遠なるものととも
にいることを知るでしょう。そしてそこから純粋で永遠なる歓びを手にすることができるのです。だからこそ、
私はナマスマラナやサーダナに重要性をおくのです。
(サティア・サイ・スピークス4
◇
◇
◇
296p)
◇
探求者に第一に必要なもの、それは無執着、ヴァイラーギヤの資質です。無執着とは、私たちを取り囲む物
質界の本質だけでなく、五感、心、知性の本質や特質を洞察した結果得られるものです。目覚めているとき、
夢見ているとき、深い眠りに落ちているときの体験は、その有効性に関して相対的であること、そしていずれ
の体験をも観照している「私=セルフ」がいることをじっくり考えてみなさい。
その観照者があなたです。永遠にして遍在である観照者のきらめきのひとつ、それが真のあなたです。それ
ほど壮大な遺産と壮大な意志とを授けられたあなたが、どうしてつまらない結果や長続きしない成功にむかっ
てしまうのですか?
あなたが確立しなければならない無執着(ガネーシャ)とは、こういったことを識別す
ることでもたらされます。気をつかいとても大切にしているダイヤモンドがたんなるガラス玉だったとしたら、
投げすてるのに何の説明もいりません。有益なことに従事し、報酬を得なさい。しかし狂ったように富を握ろ
うとしてはいけません。信用にもとづいてものを預かる財産管理人のようでありなさい。神の代理人として、
神の望む使われ方をするまでものを保管する管理人でいなさい。
(サティア・サイ・スピークス4
◇
◇
◇
298-299p)
◇
五感を働かせている心の中の衝動は、五感そのものより強いものです。たとえば、目はたんに見るための道
具ですが、「見ようとすること」それ自体に目に勝る力があります。同様に「聞こうとする力」はたんなる耳
に勝ります。感覚器官に勝るのが心、心に勝るのがブッディ(知性)つまり識別する力(ガネーシャ)です。
ブッディの上位にあるのが躍動する生命原理ジーヴァです。ジーヴァアートマ(個々の魂)の上にパラマート
マ(至高の魂)があります。個々の魂と神の魂の間には、人を魅了し幻惑するヴェール、マーヤー(幻惑の力)
があります。このヴェールが落ちたとき、個々のセルフと普遍なる全セルフがひとつになります。
覚醒を求めた心が五感からブッディ(ガネーシャ)にむかうと、アーナンダ(神の至福)が流れはじめ、ア
ートマ(神聖なる魂)があらわになり、ブッディが内なる探求を促します。感覚器官―――目、耳、鼻、舌、
肌―――が外界の対象にむかって開かれているのに対し、真のサーダナ(霊性修養)とは、実にその激流にさ
からい視野を内にむけることにあります。しかしいったん五感を内にむけたなら、覚醒というゴールはすぐそ
こだということはめったに理解されません。
(サティア・サイ・スピークス16
◇
◇
◇
◇
36
101-102p)
理性(ガネーシャ)は、宇宙の一体性、起源と行き着く先、アヌ(小宇宙)とブルハット(大宇宙)をつか
さどる法則を知ろうと探ります。そして背後で糸を操るスートラダーラ(人形師)を一目見ようと、決して下
ろされることのない幕の後ろをのぞき見します。
(サティア・サイ・スピークス1
◇
◇
◇
121p)
◇
ブッディ(知性)は論争や議論に夢中になります。いったん議論の誘惑に屈せば、その鎖からのがれ、誘惑
をぬぐいさり、その力が無効になってはじめて生じる至福を享受するまでに、長い時間を要します。つねに理
性には限界があることを心にとめておきなさいLogic(論理)はLogos(神の言葉)に道を明け渡し、Deduction
(推論)はDevotion(献身)に地位をゆずらなければなりません。ブッディが手助けできるのは、神にいたる道
のほんの少しの距離だけです。残りは直感力に照らされます。感情や激情は思索のプロセスまでをもゆがめ、
理性は飼い慣らされていない雄牛にされてしまいます。実によくあることですが、エゴは狂気を増長し正当化
します。自分だけの理屈で、つごうのよい、誤った道に導かれてしまうからです。しまいには勝手な結論にた
どりつくだけです。
何かを理解しようとするプロセスそれ自体に十分注意を払わなければなりません。そのプロセスが進んでい
る間でさえ、自ら敷いた道の上を歩いているだけになる危険がつきまといます。理性の力は首輪や鼻輪、ムチ
などを用い、体系だった訓練をすることで飼いならされていきます。つまりディヤーナ(瞑想)、シャンタム
(平穏)、クシャマ(忍耐)、サハナ(努力)などを指します。まず最初は狭くてまっすぐな道を理性に歩ま
せ、穏やかに語るよう訓練しなさい。理性が十分従うようになったときには、6つの誘惑―――欲望、怒り、
貪欲、幻想、傲慢、嫉妬―――が並ぶ道をも歩いていけるでしょう。
(サティア・サイ・スピークス1
◇
◇
◇
119p)
◇
識別力をつけ、不変なるものとそうでないもの、恩恵(ガネーシャ)とそうでないものを見分けなさい。グ
ルを選ぶときでさえ、ヴィヴェーカ(識別力)を用いなければなりません。雲ならどれもが雨を降らすわけで
はありません。真の導き手はその人柄だけで遠く離れた求道者さえ惹きよせます。何かを熱っぽく語る必要も
なく、その存在自体が感じとられ、まるで満開の蓮にむかう蜂のように求める者たちがかけつけます。
(サティア・サイ・スピークス1
◇
◇
◇
71p)
◇
人はそもそもヴィヴェーカ(識別力、ガネーシャ原理)をそなえた見分ける力のある動物です。たんに動物
に必要なものだけでは満足しません。何らかの空虚さ、満たされない思い、癒されない渇きを感じます。なぜ
なら人は「永遠」の子どもであり、死が終わりではない、終わりであってはいけない、と思うからです。この
ヴィヴェーカは頭から離れない疑問、「私はどこから来たのだろう、どこへ行こうとしているのだろう、この
旅はどこへ行き着くのだろう」という疑問の答えを見つけだすようかりたてます。ブッディ(知性)をとぎす
ませておきなさい。
ブッディは3つのグナの優劣に従って、3つのタイプに分けられます。サティヤム(真理)とアサティヤム
(虚偽)を混同し、アサティヤムをサティヤムとしてしまうタマス。あちらからこちらへと2つの間で迷い、
見分けることもできず振り子のように揺れつづけるラジャス。そして何がサティヤムで何がアサティヤムかを
知るサトワです。
今日世の中はタマス(鈍性)というよりはラジョブッディ(激性の知性)という病に苦しんでいます。人々
には暴力的な好意と嫌悪があり、熱狂的、偏向的になっています。虚偽や雑音、ショーやプロパガンダにひき
ずりまわされています。だからこそ識別力が必要なのです。ゴールにいたるにはサトワブッディ(浄性の知性)
が不可欠です。静かに真実を見いだし、何が起ころうともそこにぴったりよりそいつづけるでしょう。
(サティア・サイ・スピークス1
37
62p)
◇
◇
◇
◇
覚えておきなさい。愛(プレマ)の剣はヴィヴェーカ(英知)のさやにおさめなさい。インドリヤ(五感)
をヴィヴェーカ(識別心)とヴァイラーギヤ(無執着)で厳しく律しなさい。この2つの能力は人にだけ授け
られました。ヴィヴェーカはあなたの仕事、あなたの仲間をどう選んだらよいかを示してくれます。物質世界
と意識の世界の相対的な重要性を教えてくれます。高揚したとき、絶望したとき、手放すということを知らせ
てくれます。空を舞う鳥には2つの翼があります。世俗が移ろいゆくことと、真の至福は不変であることを示
しているのです。この2つはあなたの一生を、霊的なサーダナとたえまない神の栄華の臆念へとむかわせます。
(サティア・サイ・スピークス1
◇
◇
◇
260p)
◇
帰依への道のもっとも大きな障害はアハムカーラ(利己主義)とママカーラ(私のものという所有意識)で
す。時代をこえて人格につきまとってきたものであり、日一日とその触手はより深いところにまで達してきま
した。これは識別すること、神にゆだねること、その2つの洗剤によってのみ落とすことができます。バクテ
ィ(献身)がこの積年の汚れを洗い流す水です。ジャパム(御名の念唱)、ディヤーナ(瞑想)、ヨガ(神と
の合一)という石鹸は、より早くより効果的に汚れを落とす助けになります。ゆっくり確実に進む者は必ず勝
利します。たとえ遅いとけなされても、もっとも安全な旅は徒歩の旅です。より速い手段に頼る旅は災難に結
びつきます。手段が速いものであればあるほど災難に出合う確率も高くなります。お腹がすいた分だけ食べる
べきであって、それ以上は病につながります。サーダナ(霊性の努力)は一歩一歩進みなさい。次の一歩を踏
みだす前に、今ある一歩を確実に踏みこえなさい。
(サティア・サイ・スピークス1
◇
◇
◇
19p)
◇
今日の世の中は、一般の人も指導者も低次の欲望と原動力に気をとられ、深い苦悩に陥っています。それら
が使うのは、とるにたらない能力とつまらない衝動のみです。これを私は「過小評価」と呼びます。本来神性
である人間が動物のレベルで暮らしているのです。人間のレベルの人さえほとんどいません。
家庭、地域、街、地方をプラシャンティ・ニラヤム(平安の宿るところ)に変えていくかわりに、怒りや憎
しみや貪欲という乱暴な感情の争いあう場にしています。五感(粗末な情報と案内を提供するもの)を召使い
ではなく主(あるじ)にし、見せかけの美しさやつかの間の音楽、肌触りのよいもの、快い刺激を与える味の
奴隷になっています。エネルギーのすべて活力のすべてを、これら低次のものが望むまま、つまらぬ満足感を
得ることについやしています。
もしも心が五感を制すれば、永続する歓びを手にすることができるでしょう。五感を主(あるじ)にしてい
ては泥の中にひきずりこまれるだけです。これこそもっとも悲劇的な「過小評価」の結末です。ヴィヴェーカ
の権威をおとしめ、五感の発するサイレンに栄誉を与えるような行いひとつひとつが人間の価値を下げていま
す。知性が主(あるじ)、師(ガネーシャ)でなければなりません。五感が何かを欲したら、知性によって識
別し問いかけなさい
「これは内におわす私の神性にそった行いだろうか」そうすることで過小評価から離れ
ていることができます。
(サティア・サイ・スピークス6
◇
◇
◇
218-219p)
◇
人間には、自らを肉体、五感、心、知性から切りはなす能力が授けられました。人はこういう表現を使いま
す。私の目、私の耳、私の足、私の心、私の理由、などなど。意識の奥深くでは、そういったものと別の存在
であること、そういったものを使い、所有している主であることを知っているのです。肉体が自分ではないと
思う動物はいません。肉体こそが自分だからです。肉体という入れものの居住者であることを知らないのです。
人は筋道立てて考える力を静かに働かせるだけで、肉体という入れものがうわべだけの一時的なものにすぎな
いことが理解できます。これがヴィッチャークシャナ(分析)を通じて得られるヴァイラーギヤ(無執着)で
あり、またヴィヴェーカ(識別力、ガネーシャ)のもたらすものです。
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いったん肉体とそれにともなうものへの過剰な執着から自由になれば、喜び悲しみ、善悪、快不快などから
も解放されます。平穏、ゆるぎない強さ、乱れることない調和を確実に築きあげることができるでしょう。世
界が歓び、愛、至福という神に満たされた、ひとつの家族であることを知るでしょう。目に見えるこの世界の
すべてそのものが自分であること、この世の多種多様さのすべてが神の意思、神の想像力の顕れであることを
知るでしょう。こうしてあるひとりの個の存在が大宇宙の果てにまで拡大すること、それが人に与えられた最
高の飛翔であり、賢者聖者が長年にわたり祈りと修行生活を続けて求めた至高のアーナンダ(至福)です。
(サティア・サイ・スピークス7
◇
◇
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217p)
◇
人は一歩一歩無執着を実践しなければなりません。そうでなければ貪欲さ、欲深さが人のよりよい性質(ガ
ネーシャ)をおびやかしてしまいます。よりよい性質とは神性のことです。「人」とは名であり姿にすぎず、
その実体は神だからです。これを理解するには、不変のものと移り変わるもの、永遠なるものと一時的なもの
とを識別する力(ガネーシャ)を手に入れ培わなければなりません。「*サーダナ・チャトゥシュタヤ、ニッテ
ィヤニッティヤ
ヴィヴェーカ」―――この大宇宙はたえまなく変化と変更を余儀なくされるものであり、ブ
ラフマーのみが不変であると知ること。「**イハ
アムトラ・パラ・ボーガ・ヴァイラーギヤ」―――それが
はかなく嘆きに満ちたものであることを知ったなら、天上の快楽のみならず地上の快楽にも執着せずにいるこ
と。「***サーマ
ダマディ・シャトカ
サンパッティ」―――望ましい6つの資質を手に入れなさい。五感や
五感の求める刺激にたいし、外側からも内側からもコントロールすること。悲しみや苦しみにくれ、喜びや勝
利に酔いしれていても、ゆるがぬ心でいること。「ウパラティ」―――後になって束縛をもたらすような行為
からいっさい手を引いていること。「シュラッダ」―――師や読み進めている経典に対する堅い信頼。「サマ
ダナム」―――他の思考の波にじゃまされることなく、たえまなく根源ブラフマーを瞑想すること。(*Sadhan
a-Chatshtaya: Nithyanithya Viveka, **Iha amuthraphara-bhoga-vairagya, ***Sama damadi-shatka sampathi )
ミルクは牛の全身から作り出されるものであっても、4つの乳からしか得られません。それと同じで、霊性
の知識を得るには、4つの乳であるサーダナを(日常という場で)絞らなければなりません。
(サティア・サイ・スピークス5
◇
◇
◇
196-197p)
◇
人には2つの特別な贈りものが授けられました。ヴィヴェーカ(理解力)とヴィグナーナ(分析力、統合力)
です。この2つの贈りものをあなたの真の姿を見いだすために使いなさい。それはすべての人の真の姿、すべ
てのものの真の姿でもあります。あらゆる国家がこの大地に支えられ養われています。みなにぬくもりを与え
ているのは同じひとつの太陽です。すべての肉体が同じ神性原理を宿しています。すべてが同じ内なる導き手
に導かれているのです。
(サティア・サイ・スピークス8
◇
◇
◇
114-115p)
◇
人にはブッディ(知性、ガネーシャ)が授けられています。何かをはじめるとき、何を守るのが有益で、何
が害悪となるのかを判断するためです。ガンディーは憎しみに満ちた土地を歩きながらこう祈りました。「*
サブコー
サンマティ
ド
バガヴァン(神よ
すべての人に善なる心を授けたまえ)」知性はいつも鋭く、
明晰に、まっすぐにしておきなさい。(*Sabko sanmathi dho bhagavan)
知性が人を導く方向には4つあります。(1)「スワルタ
シュカ
ブッディ」これはエゴの性質に満ちた
もので、妻や子どもさえも気にとめず、自分の望むことをまっさきに満たそうとします。そして(2)「スワ
ルタ
パラルタ
シュカ
ブッディ」これは他の幸福についても考慮しようとするものです。鳥はヒナにエサ
を与え、大変な苦労をして育てあげます。さらには(3)「パラルタ
ブッディ」これをそなえる人は自らの
求める幸せを他のためにも求めます。他を救うためには困難をものともしない気がまえがあり、彼らの想いは
他に幸せを与えます。そして最後が(4)「アディヤト
ブッディ(霊的知性)」これは人を献身と奉仕の道
に導きます。それのみが霊的成長に結びつくからです。…(略)…
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アディヤトの知性は万物が「ひとつ」であることを認識するものであり、そのためある人が何かを想うとそ
の人もまったく同じことを想ったことになります。ここに集う膨大な数の人々は、たった一本の神という糸に
よってつながれた多彩ないろどりの花輪のように、アディヤトの知性になることができます。多様さの背後に
ある唯一なるものを見つめなさい。ブラフマスートラ―――ひとつひとつの花を通す糸―――を見つめなさい。
(サティア・サイ・スピークス13
45-46p)
4.ガネーシャの姿、持ちもの意味
一本の
エーカ・
ダンタ)
一本
の 牙 の 者 ( エーカ
・ ダンタ
)
ヴィナーヤカが聖者ヴィヤーサの語るマハーバーラタを口述筆記したとき、ヴィヤーサは何を語ろうとも書
き記す手を止めてはいけないという条件を定めました。一方ヴィナーヤカも、決して口述を止めることなく休
まずに語りつづけなければならないという条件をヴィヤーサに申しわたしました。書きつづけるうち筆が折れ
てしまいました。ヴィナーヤカはためらうことなく自らの牙を折って筆にしました。そうして「エーカ・ダン
タ=一本の牙の者」と呼ばれるようになったのです。ここにヴィナーヤカが人類の繁栄のために示した輝かし
い自己犠牲が表現されています。ヴェーダで自己犠牲のみが不死の道にたどりつくとされているゆえんです。
(サナタナ・サラティ
◇
◇
◇
1994年
10月号
7p)
◇
象にはふつう2本の牙があります。心もつねに2つの間で答えを出そうとします。善と悪、優れたものとた
んに便利なもの、手にある仕事と頭を悩ます心配、目の前の現実とそれを払う魅惑的な妄想など。しかし何か
をなしとげるには心を一点に集中させなければなりません。象の頭のガネーシャ神はそれで1本の牙なのです。
ガネーシャ神は「エーカ・ダンタ=一本の牙の者」と呼ばれます。心を一点に集中させなければならないこと
を人々に思い起こさせるためです。
(ジョイ・トーマス著『サティア・サイ・ババのメッセージ:人生は夢
叶えなさい』133p)
ネズミの
ネズミ の ムーシカ―――
ムーシカ ―――ガネーシャ
――― ガネーシャ神
ガネーシャ 神 の 乗 りもの
一部の無知な人々は、大きな動物の姿をしたこの神格についてあれこれとりざたし、どうしてそれほど大き
な体で小さなネズミに乗れたのかと疑います。ムーシカとはその無知の暗闇を象徴し、一方ガネーシャが無知
の闇を取りはらう輝く英知を象徴しているのです。
(サナタナ・サラティ
◇
◇
◇
1994年
10月号
5p)
◇
ヴィナーヤカの乗りものはネズミです。このネズミにはどんな意味が秘められているのでしょうか。ネズミ
は嗅覚を体現するものと考えられます。世俗的なもの(ヴァサナ)への執着を象徴しているのです。ネズミを
捕まえたいなら、強い匂いの食べものをワナにしかけるとよいことが知られています。またネズミは夜の暗闇
の象徴です。暗がりの中でも目がきくからです。ヴィナーヤカの乗りものとしてのネズミは、人を暗がりから
光のもとへ導くものの意味です。ですからヴィナーヤカ原理とは、人の中にある悪い資質、悪い行い、悪い想
いをきれいに取りはらい、善い資質、善いふるまい、善い行いをたたきこむ者を意味するのです。
(サナタナ・サラティ
◇
◇
◇
1991年
10月号
275p)
◇
ガネーシャの乗りものはたった一匹のネズミです。ネズミはヤシの葉の書物(知性の象徴)をボロボロにし
て喜びます。ネズミは、知性の力を劣悪で悪質な批判でそこない破壊してしまう無知を象徴しています。ガネ
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ーシャは知性と英知の主であり、無知の象徴ネズミを世で働くときの乗りものにします。このように知性や英
知を崇拝する者は、その知性を運ぶのにまさにその知性による批判や批評を用いなければならないことがある
のかもしれません。
(ジョイ・トーマス著『サティア・サイ・ババのメッセージ:人生は夢
叶えなさい』
132-133p)
◇
◇
◇
◇
ネズミはガネーシャの乗りものです。ネズミは頭がよく活発な生きものです。ひとつのシンボルとして、行
いをするときには賢く勤勉であるよう私たちに教えています。
(サナタナ・サラティ
◇
◇
◇
1989年
10月号
263p)
◇
ヴィナーヤカが象の頭をもち、ネズミを乗りものにしているのはどうしてでしょう。ネズミはムーシカ(サ
ンスクリット語)と呼ばれます。夜を象徴し暗闇を意味します。暗闇の象徴なのです。ヴィナーヤカが暗闇を
支配する力をもつため、ムーシカの乗り手として描かれるのです。ヴィナーヤカは暗闇を取りはらい、世に光
をかかげます。
ネズミ(ムーシカ)は嗅覚の象徴でもあります。匂い(ヴァサナ)をたどって動きまわります。ヴィナーヤ
カはヴァサナをつかさどる者、つまり欲望と無知の主なのです。
(出典不明)
象頭神ガネーシャ
象頭神
ガネーシャ
ガネーシャ神は象の頭をしています。象はもともと移り気、かたくな、権力を好む動物です。しかし訓練す
ることで、その力強さは人が自然(*ネイチャー)のもたらす障害を乗りこえていく助けになります。同様に、
人の心も移り気でかたくな、支配的ですが、訓練を積むことで人の性質(*ネイチャー)を乗りこえていくたい
へん大きな助けになります。象は鼻、耳、舌、目をよく動かします。人の心もたえず五感の快楽を求めます。
ですからプラーナ集に、心は象のようだと記されているのです。知性はそのような心の動きの先頭に立つもの
です。そこからガネーシャという知性の主が象の頭で描かれます。(*印同音異義語
(ジョイ・トーマス著『サティア・サイ・ババのメッセージ:人生は夢
◇
◇
◇
訳者注)
叶えなさい』132p)
◇
ガネーシャ神が象の頭をしていることにはどんな意味が秘められているのでしょうか。象はその鋭い知性に
ついて語られます。ガネーシャ神の象の頭は、とぎすまされた知性と最高級の識別力を象徴しているのです。
その知性の純粋さからブッディ(知性)を授ける者と呼ばれます。帰依者の祈りにこたえることからは、シッ
ディ・ヴィナーヤカ(求めるものを授ける者)と呼ばれます。
(サナタナ・サラティ
◇
◇
◇
1989年
10月号
263p)
◇
ヴィグネーシュワラは象の知性(ガジャ・テリヴィ)を授けられた者とされています。象はその無類の知性
で知られます。また主人に対する絶対的な忠誠心でも知られます。主人を救うためなら自らの命をも犠牲にし
ます。これらのことを直接証明するのがサイ・ギータ(サイババの象)です。ふだんから何百もの車が前の道
を行きかいます。サイ・ギータはまったく気にかけません。しかしスワミの車が通りかかると直感的に気づく
のです。なじみの叫び声をあげ、車にむかってかけだします。なんというスワミへの愛でしょう。象にも信仰
心があるというなら、それは決して大げさな表現ではありません。
(サナタナ・サラティ
41
1991年
10月号
276p)
◇
◇
◇
◇
象はおそらくもっとも知性的な哺乳動物であり、サトワ(調和、純粋)の性質を示す菜食動物です。ガナパ
ティは象の頭をしています。霊性のみならず、世俗的な達成の道においても障害をうち砕くことのできる知性
を象徴しているのです。
(サティア・サイ・スピークス11
◇
◇
◇
211p)
◇
ガネーシャの象の頭が象徴的に意味することを正しく理解しなければなりません。象には深遠な知性がありま
す。たとえば昨日、サイ・ギータ(バガヴァンの象)はスワミの車が近づいてくる音を聞き分け走ってきまし
た。たくさんの車がスワミの車に続いていたにもかかわらず、サイ・ギータは車の音を鋭く聞き分け、決して
間違えませんでした。これがガジャ・テリヴィ(象の知性)と呼ばれるものです。鋭い頭脳の者が象の知性を
持つといわれるゆえんです。それはメダー・シャクティです。さらに象はその大きな耳でほんの小さな音さえ
聞くことができます。鋭く聴きいることが大切な霊性のサーダナにおいて、「スラヴァナム=神の栄華に聴き
いること」はまず最初に求められる段階です。耳を傾けたあとには頭の中で反芻し、それを実践に移さなけれ
ばなりません(このプロセスをスラヴァナム、マナナ、ニッディディヤーサナといいます)。象は賞賛(ドゥ
ーシャナ)も非難(ブーシャナ)も同じように受け止めます。善いことを静かに記憶する一方で、悪いことを
きいたときには体を揺すり、好ましくないものをふり落としてしまいます。
(サナタナ・サラティ
1994年
10月号
265p)
ヤシの
書物と
ヤシ
の 葉 の 書物
と 数珠
ガネーシャは一方の手にヤシの葉の書物、一方の手にジャパマラ(数珠)を持った姿で描かれることがよく
あります。書物は知性と英知を表します。数珠は心に決めた御姿に意識を集中し、その御名をくりかえし唱え
ることを示しています。
(ジョイ・トーマス著『サティア・サイ・ババのメッセージ:人生は夢
叶えなさい』133p)
ガネーシャ神
ガネーシャ神 の 大 きなお腹
きなお腹
ガネーシャが象の頭と大きなお腹をしているからといって、ぶかっこうな神とみなしてはいけません。ヴィ
ナーヤカはその身に大宇宙を抱える神なのです。無限の力をそなえた神格です。
(サナタナ・サラティ
1989年
10月号
264p)
灰色の
シャシヴァルナム
ルナム)、
)、白
シュクラムバラダラム)、
灰色
の 体 ( シャシヴァ
ルナム
)、
白 い 衣 ( シュクラムバラダラム
)、
慈悲深い
顔立ち
プラサナヴァンダナム)
慈悲深
い 顔立
ち ( プラサナヴァンダナム
)
ヴィグネーシュワラは白い衣を着た姿で描かれます。体は灰色です。4本の腕をもち、ほがらかな顔立ちを
しています。白い衣は心の清らかさを象徴します。ヴィグネーシュワラを崇拝し、あなた自身も清らかさを手
にする努力をしなければなりません。ヴィナーヤカはいつも誠実で穏やかです。その恩寵に頼り、一生の内に
上り下りがあろうとも、この神のように穏やかでいられるよう努めなさい。
(サナタナ・サラティ
◇
◇
◇
1998年
10月号
264p)
◇
ガネーシャは神の栄華に浸っています。それがシャシヴァルナムの意味です。またチャトゥール・ブージャ
(4本の腕)と形容されます。これは目に見える2本の腕に加え、見えない2本の腕があることを意味し、神
として2つの仕事に用いられます―――(1)帰依者に祝福を与えること(2)帰依者を厄災から守ること。
最後はプラサナヴァンダナム(慈悲深い顔立ち)という表現です。この慈悲深さは内面の穏やかさ、幸福、調
和、内なる恵みと慈しみ、力強く独立した意識を物語ります。
42
ガナパティに祈りを捧げるとき、よく用いられるある有名な詩があります。この神の様々な特質を述べるも
のです。まず「シュクラムバラダラム(白い衣を着た者)」。これは純粋さを象徴します。アムバラ(shkl・am
bara・daram)には空という意味もあり、心のアーカーシャを示すからです。ガナパティは普遍的な愛と慈しみの
清らかな神です。2つめの特質は「ヴィシュナム」という形容です。「ヴィシュヌ」とは、いついかなるとき
もあらゆるところにおわす、という意味です。次に用いられるのが「シャシヴァルナム=灰、ヴィブーティの
肌の色」という表現です。霊的栄華、霊性の功績・到達・潜在能力の威光で光り輝いているということです。
このことはギータの中で「ヴィブーティ」とも呼ばれます。クリシュナ神がこう述べていることによります。
「神の威力、神の栄華、神の威光(ヴィブーティ)を見たとき、それが私のものであると知りなさい」
(サティア・サイ・スピークス
16
211p)
モダカ)
捧 げ 物 ( モダカ
)
ガネーシャ神に捧げられる供物にも重要な意味があります。*グラム粉、**ジャッガリー、コショウを合わせ
たものを、米の粉のペーストでくるみ、油を使わずに蒸しあげます。アーユルヴェーダの見地からも、健康的
でおいしい食べものとされています。現代医学でもこの蒸されたイドリー(米菓子)が大変消化によく、術後
の患者の食事に勧められることから、その重要性が認められています。ジャッガリーには体内のガスをコント
ロールする作用があり、目のトラブルを緩和し、胃の不調を防ぎます。(*ヒヨコ豆の粉
液からとる粗黒砂糖
**ココナツヤシの樹
訳者注)
太古の昔このお祭りを祝ったときには、清らかな心で霊性の探求をする際の前提条件として、健康に強調が
おかれていました。ダルマ(正しさ)、アルタ(富)、カーマ(欲望)、モクシャ(解脱)という一生の4つ
のゴールに到達するには、健康な肉体が基本です。正しい手段で富を得、解脱への切望を抱くには、丈夫で健
康な肉体が不可欠です。
(サナタナ・サラティ
◇
◇
◇
1994年
10月号
264-265p)
◇
ガネーシャ祭りでは、クドゥムルやウンドラルなどのプラサダムが神に捧げられます。神に捧げるにはどん
な食べものがふさわしいのでしょう。油を使わず蒸して調理したもの、米の粉、豆、ゴマを使った食べものが
ガネーシャに捧げられます。油も火も使わずに調理します。それには次のような意味があります。バードラパ
ーダの月、農民はゴマを収穫します。ゴマには医学的に肺と目に良い成分が含まれます。ゴマと豆が蒸される
とその成分が消化されやすくなるのです。またこのような食べものを神に捧げるのには2つの目的があります。
おいしいことと体によいこと(喜びを与え健康を増進する)です。昔の人々が様々なお祭りをお祝いしてきた
のにはそれぞれ理由があるのです。
(サナタナ・サラティ
1992年
9月号
222p)
ランボーダラ
ガネーシャ神はランボーダラとも呼ばれ、それは「富を守る者(ラクシュミー・スワルーパ)」の意です。
ここでいうラクシュミーとは、ラクシュミーの8つの側面のうちダーナムラクシュミーと呼ばれるダーナム(金
銭)の神だけでなく、あらゆる富や繁栄を表す神を意味します。また「富」とはスカ(歓び)とアーナンダ(至
福)のことです。歓びや至福なくして他の何を得ることに意味があるでしょう。
(サナタナ・サラティ
1994年
10月号
264P)
5.ガネーシャ神
―――心の霊性修養(サーダナ)を通じ覚醒にいたる道で障害を取りのぞく者
A.
五感と
コントロールと
五感
と 心 の コントロール
と 浄化
五感のコントロールがなければ、人は目隠しのない馬、首輪のない牛も同然です。サーダナ(霊性修行)を
43
したところで、時間とエネルギーの浪費にすぎません。人の人たる特徴とは、識別力、無執着、すべてを見わ
たす知性(ガネーシャ)が授けられたということです。真理を見いだし、そこに定まり、ゆるがぬ平安を得る
ことができるのです。
(サティア・サイ・スピークス5
◇
◇
◇
90p)
◇
心(マインド)は悪党です。欲望についた別の呼び名です。心という布地は欲望でできています。縦糸も横
糸も、欲望、それしかありません。欲望が去れば心(マインド)は消えさります。布地からすべての糸を引き
抜けば布地はなくなります。欲望を引き抜きなさい。心(マインド)が消え、あなたは自由です。
(サティア・サイ・スピークス6
◇
◇
◇
158p)
◇
心(マインド)が人(ガネーシャ)の君主に、五感が大臣になっています。召使いの奴隷のようなもので、
そこに平安はありません。自らの内に神性を顕し広げようと志すサダカ(霊性の徒)なら、五感を支配しなさ
い。それが最初のステップです。次のステップが心(マインド)を征服し追いだすことです。3つめがヴァサ
ナ(衝動)を根こそぎにし、4つめがジュナーナ(霊的英知)を手にすることです。五感が枝、心(マインド)
が幹、衝動が根です。アートマ(神性)の真理を認識するには、これらすべてにうち勝ち滅ぼさなければなり
ません。
(サティア・サイ・スピークス16
◇
◇
◇
64-65p)
◇
インドの聖者たちは、感情を浄め信仰を堅固にする助けとして、様々な儀式、祭事、祝祭、規律や行動規範、
しきたりを定めてきました。今日はそれらのうちの重要なもののひとつ―――食物に関する規律―――につい
てお話ししましょう。簡素で純粋、清潔なもの―――聖者たちのいうサトウィック・フードを食べなさい。衝
動や感情をあおったり、気持ちを高ぶらせたり、平安な心を動転させたり、健康をそこねることのない食べも
のです。また神に捧げる食べものは、人を傷つけるかすかな邪悪な波動もないものです。お腹がすいて食べる
ものも、同様に良質なものにしなさい。食べものは感情や想いに微妙な影響を与えるものであすから、たえず
注意をはらわなければなりません。
(サティア・サイ・スピークス10
◇
◇
◇
37-38p)
◇
ディヤーナ(瞑想)とは、心(マインド)を内面的な分析と統合にむける訓練です。ディヤーナの最終目的
は、あらゆる「私」がもっとも純粋な形で統合されひとつになることです。その「ひとつ」とは、ギータの中
で8つの性質を持つと記されています。カヴィ(過去・現在・未来を知ること)、プラナム(起源が時間を超
越していること)、アヌシャシタラム(行動規範がもうけられること)、アノラネーヤ(微少よりさらに小さ
いこと)、サルヴァーシャ・ダータ(すべての根幹であること)、アチンティヤルーパ(説明しつくせぬ姿形)、
アディティヤ・ヴァルナ(まばゆいばかりの輝き)、タマサ・パラスタット(暗闇を超越していること)、こ
の8つです。これが根気強くディヤーナをつづけることでなしとげるべき課題です。
またディヤーナは五感のコントロールとともに行わなければなりません。五感が天へと続く門をふさいでい
ます。五感のどれをも自由にさせてはいけません。
(サティア・サイ・スピークス16
◇
◇
◇
81p)
◇
ディヤーナは理想から理想へとぐらついたりゆれたりするものであってはいけません。たんなる機械的で教
科書通りの決まりきったものや、時間通りにきっちり左右の鼻孔を交換する呼吸法、無意味に鼻先を見つめて
44
いるだけのものにしてしまってはいけません。ディヤーナは五感、神経の流れ、想像力の翼を厳密に律してい
くためのものです。ディヤーナが、「6つの敵」という名の頂をもつ巨大な山脈の一角の「平安の谷」と呼ば
れる理由はここにあります。「6つの敵」とは欲望、怒り、貪欲、執着、傲慢、嫉妬です。山脈を越え平野に
たどりつきなさい。真理が見えるよう、目から流れる大きな滝を取りはらいなさい。マーヤーとは滝のもたら
す無知の霧の別名です。セルフの深みに没入しようとする心を苦しめます。
(サティア・サイ・スピークス10
◇
◇
◇
79p)
◇
サントーシャ(幸福)とシャンティ(平安)を得るには、純粋で汚れのない心、エゴやエゴの子どもたち―
――欲望、貪欲、嫉妬、怒り、憎しみなど―――に汚れていない心を育てなければなりません。そのためには、
サット・サンガ(善い仲間)を求め、サット・カルマ(善い行い)をし、サット・アロチャラ(善い想い)だ
けを心に抱き、サット・グラナマ(善い書物)を読みなさい(障害を取りのぞくガネーシャ神の特徴)。
何千もの善いものを見、何千もの善い言葉を聞き、何千もの善い本を読んだとしても、少なくともそのうち
のひとつでも実践にうつさなければ、心の鏡についた汚れを落とすことはできません。神がそこに姿を映すこ
とができないのです。
(サティア・サイ・スピークス10
◇
◇
◇
172p)
◇
マナス(心)をおろそかにし野放しにしていれば、「タマス=鈍性、幻惑」に支配されてしまうでしょう。
一部の人々は心の動きのひとつひとつを観察し、間違った動きや悪い考えが浮かんだら全部書き出すことをす
すめています。違います、これは危険をはらむやり方です。勝手気ままな心に気をとられてはいけません。何
をしてはいけないかではなく、何をするべきなのかを大切にしなさい。間違いを数えあげればまた同じ過ちを
くり返します。正しく歩むことを決意しなさい。よろけることもつまづくこともありません。
(サティア・サイ・スピークス2
◇
◇
◇
183p)
◇
心の強さ、想いの純粋さ(ガネーシャの特質)が進歩を左右します。心の状態と、想いから生じた行い、こ
の2つが束縛か自由か、幸運か不運か、前進か後退かを決定します。心が人の意図、決断、したいこと、した
くないことを決めています。このサンカルパが五感の原動力であり、それをあらわにする行動をはじめます。
井戸に小石を落とせば、波紋がどんどん広がり表面全体におよびます。それと同じで、ある想いが心に起これ
ばそこから生じた波が全身を包みこみ、様々な行動をおこさせようとします。
想いが純粋なら(ガネーシャの資質)行いも純粋です。不純であれば行いも不純になります。十分に注意を
しなさい。心に何かの想いが浮かんだら、それが行いに価するのか、その価値のないものかすぐさま確かめな
さい。知性を動員して確かめなさい。
心に浮かんだ想いには偉大な潜在能力、エネルギーがあります。死を迎えた後でさえ、できごとを起こした
り、善いこと悪いことをもたらします。どういうことでしょう。その想いが何度も何度も人の姿をとり、さら
なるいくつもの生を送る原因なのです!
有益なことを意志し抱きつづけなさい。その決意は剣になり、雑草
を切りきざみます(ガネーシャ)。その結果、善い想い、善い計画、善い行い、善い方針がのびのび育ってい
くのです。
(サティア・サイ・スピークス15
◇
◇
◇
196p)
◇
マナス(心)、ブッディ(知性)、チッタ(想い)を飢えさせ栄養不足にしてはいけません。ありとあらゆ
る汚れた食べものを追い求めてしまうでしょう。適切な食べものを与えれば、それらは機能的に働き、内在す
るアートマを照らし出し、アートマがすべてであることを見いだす助けになります。時が満ちるその瞬間まで、
すべてが混乱するかもしれません。心配はいりません。…(略)…神の恩寵はあらゆる障害をうち砕き(ガネ
45
ーシャ)、サーダナの果実を授けます。いったん恩寵を手にすれば、その恩寵によりあらゆる願いが叶えられ
ます。
(サティア・サイ・スピークス2
◇
◇
◇
189p)
◇
心を猿のようだと一方的に責めてはいけません。解放も束縛も手にすることのできるすばらしい道具になる
からです。どちらを取るかはあやつり方しだい(ガネーシャ)です。心は実に細かくあなたの指揮を遂行しま
す。あなたが望めば、気高き道の先に続く覚醒の扉へとまっすぐあなたを導きます。歩くたびに汚物にはまる
袋小路をさまようことにもなるのです。
(サティア・サイ・スピークス2
◇
◇
◇
224p)
◇
感情や衝動のコントロールは、知性を浄める霊性の鍛錬、「ヨガ」の定義に含まれる教えです。真理を覆う
無知の厚い霧をつき破るには、美徳をいしずえにして知性を築きあげなければなりません。献身のためにカル
マ(行為)がなされ、あらゆる命に欠かせぬものとしてウパサナ(礼拝)がなされるとき、知性は霧を追いは
らうまでに浄められ、真理があらわにされます。カルマが神への捧げものとしてなされるとき、行為者を害す
る効力はなくなります。
(サティア・サイ・スピークス7
◇
◇
◇
82p)
◇
ジャパ(神の御名を心から唱えること)、タパス(苦行)、プージャ(儀式による崇拝)、ヴラタム(誓い
を守る行)―――これらはみな五感を律し従わせます。神が映し出されるよう心を浄めます。目に見える砂糖
を手でつかんで水の中に溶かせば、二度と見ることもつかむこともできなくなるように、遍在する神を五感や
知性で理解することはできません。チッタシュッディ(心を浄めること)によってのみ、神を知ることができ
ます。舌だけが水に溶けた砂糖を味わえるのと同じことです。…(略)…一体心は何をしていますか?
な心の動きがどれだけ害をおよぼしていますか?
どうしたら心をつくりかえていくことができますか?
様々
そ
れらを理解し、心の支配から自らを解放しなければなりません。同時に心を支配する(ガネーシャ)ための努
力をもしつづけなければなりません。そのとき一生が価値あるものになります。そうでなければ一生は途方も
ない浪費です。
(サティア・サイ・スピークス7
B.
156-157p)
覚醒への
への障害
障害を
りのぞく霊性修行
覚醒
への
障害
を 取 りのぞく
霊性修行
霊性の鍛錬は実に重要です。炭を燃える炭の上に置いただけでは十分ではありません。その炭もまた燃えだ
すよう勢いよくあおがなければなりません。プッタパルティにいるからといって十分ではありません。私から
のサンカルパ(答え)を勝ちとるためのサーダナを行いなさい。前世でなされた行いからくる重荷はなぜたや
すく落とすことができないのか、疑問に思うかもしれません。いいえ、ひともりの綿(わた)が火花によって
燃えつきるように、打ちこわすことのできるものです。「*ジュナーナグニ
ダグダー
カルマナム―――ジュ
ナーナ(英知)の火花はたちまちカルマ(行い)の結果を消滅させる」これは晴れた日に街道を走るバスの後
ろにまいあがる土ぼこりのようなものです。砂利道や石の敷かれた道に入れば少なくなりますが、それでもま
だ上がります。タールで舗装された道に入ればなくなります。土の道はカルマ(行い)の道、石の道はウパサ
ナ(崇拝)の道、土ぼこりのないタールの道はジュナーナ(英知)の道です。力を発揮し努力を重ねることで、
過去の行いによる重荷はへらすことができるのです(ガネーシャ)。(*Jnanagni dagdha karmanam)
あなた方はコーヒーが飲みやすい温度にさめるまで手をあわせて待ちはしないでしょう。もう一つカップを
もらい、一方のカップからもう一方のカップへとくりかえしコーヒーを移しかえる、違いますか?
神の恩寵
という飲み物を飲むときにも、これと同じ欲する気持ち、懸命なサーダナを霊性の面で示さなければなりませ
ん。キリストはサーダナの重要性を示し、霊性の鍛錬から得られる平安を世に示したからこそ偉大だったので
46
す。
(サティア・サイ・スピークス5
◇
◇
◇
93p)
◇
ヴィナーヤカは人々にきわめて重大な教えを授けています。偶像をすえるプージャは数日間続けなければな
りません。自らの師、ナーヤカになる努力(ガネーシャ)をしなければなりません。献身には9つの段階があ
ります。スラヴァナム(耳を傾ける)、キールタナム(神の賛歌を歌う)、ヴィシュヌスマラナム(神を想い
御名を唱える)、パーダ・セヴァナム(御足に仕える)、ヴァンダナム(神に従う)、アルチャナム(崇拝す
る)、ダシヤム(主人に仕える召使いのように神に仕える)、サキヤム(神に親しむ)、アートマニヴェダナ
ム(肉体、心、魂を神にゆだねる)。その間のすべてが成就するよう、象は最初と最後のもの、スラヴァナム
とアートマニヴェダナムを象徴します。
(サナタナ・サラティ
◇
◇
◇
1994年
10月号
266p)
◇
人々は神を崇拝する様々な方法を発展させてきました。実に多様な儀式、お祝い、お祭り、賛歌、断食、制
約、巡礼があります。しかし神の恩寵を最大限にひきだす最善の崇拝とは、神の指揮に従うことです。たんに
へつらうのはみじめな献身です。神を遠く離れたところにおいて、全知全能、遍在であると崇めたところで神
を喜ばせることはできません。親密さ、身近さを培い、神と家族になりなさい。神に従い、忠実、謙虚、純粋
になり、神をその手に勝ちとりなさい。
(サティア・サイ・スピークス10
◇
◇
◇
42p)
◇
まばゆく光り輝く太陽は、光で姿をあらわにします。同様に、神の恩寵(ガネーシャ)があってこそ、神の
ヴィジョンが得られます。神を体験するのに何の能力も知性も学位もいりません。まるで雲が太陽を隠すよう
に、エゴや執着、憎しみという雲が神を見いだす妨げになっています。祈りとサーダナは、この雲を追い散ら
す手段です。サーダナ(霊性修行)は神にいたる王道です。
(サティア・サイ・スピークス
◇
◇
◇
出典箇所不明)
◇
永遠不滅のきらめきを必ず見いだす確かな方法があります。たとえ難しく見えたとしても、目の前の一歩は
次の一歩を容易にし、鍛錬によって整えられた心は、人の源も創造の源も神であることを一瞬にして見いだし
ます。成就にいたる道に近道はありません。これまで積みあげてきた障害すべてを断ち切り(ガネーシャ)、
旅する光になりなさい。欲望、貪欲、怒り、悪意、うぬぼれ、ねたみ、憎しみ、飼い慣らされたこれらの資質
をすべて捨てさりなさい。サイババの講話を聞いて、これでいくつ聞いたのか数えるだけでは十分ではありま
せん。目の前には何千もの人がいます。しかしこの数に意味はありません。私が強調することのうち、たった
一つでも実践する人が数に入れられるのです。
(サティア・サイ・スピークス4
◇
◇
◇
295-296p)
◇
バーラタ(インド)の人々にとって、神を崇拝するのに花を捧げプージャ(儀式による崇拝)を行い、神に
敬意を示すのがふつうのやり方です。しかしより神聖な方法があります。善良で清らかな心、善い行いによっ
て崇拝するという独特な献身のしかたです。これはパラ・バクティと呼ばれてきました。いつもプージャと花
で神を崇拝することにより、サダカ(霊性の徒)は場所を変えずにすみます。これはある意味良いことですが、
ずっと同じ場所にいることで、より高い段階に上がりそこねてしまうのは好ましいことではありません。善い
資質、善い行い、善い想い、善い仲間を通じて神を崇拝する、それがよりすばらしい崇拝です。スルティ(経
47
典)にはこの形の崇拝が「善良なる資質による崇拝」と記述されています。神を喜ばせるには、どんな善い資
質を捧げたらよいのでしょう。
神に捧げる第一の花がアヒムサ、非暴力です。第二の花がダマ(五感のコントロール)です。第三の花がダ
ーヤ(生きとし生けるものへの慈しみ)、第四の花がクシャマ(忍耐)、第五の花がシャンティ(平安)、第
六の花がタパス(苦行)、第七の花がディヤーナ(瞑想)、第八の花がサティア(真理)です。ここにはこれ
ら8つの花(ガネーシャ)を通じて崇拝することで神の恩寵が注がれる、という意味がこめられています。
(サティア・サイ・スピークス15
◇
◇
◇
47-48p)
◇
あなた方はプッタパルティにやってきては、写真を手に入れ、家に持ち帰り、毎日または毎週木曜日に礼拝
するようになります。しかしそれはたんなるサットカルマ(善い行い)にすぎません。それだけで十分ではあ
りません。同時にサットグナ、美徳、善い習慣、善い心構え、善い資質や善い人格を養いなさい。そうでなけ
れば一生はプラスとマイナスの連続、一方が一方を相殺
・
・
し、合計ゼロになるだけです。「タット・トワム・アシ=汝は それなり」というとき、あ
なたであるとされるものの資質を手に入れなければなりません。「それ」も「これ」も同じであるなら、「そ
れ」をうやまい「これ」をけなすのも、「それ」をけなして「これ」をうやまうのもまったく同じことです。
(サティア・サイ・スピークス5
C.
69p)
技術、
能力、
意志、
勇気、
信念、
不屈の
精神、
技術
、 能力
、 意志
、 勇気
、 信念
、 不屈
の 精神
、 英知
ここで望まれるのは、ウトサハ(努力)、ダイリヤ(勇気)、そしてヴィシュワサ(信仰)です。努力とは、
その道の達人から学んだことを規則正しく実践することです。勇気とは、向上するに価する価値を自らに見い
だすことです。決して自分を罪のために罪の中に生まれた罪人にしてはいけません。そのように自分を責める
のは、神の子アムリタプトラにふさわしくありません。
あなた方ひとりひとりの内に、あなた方を動かしているまぎれもない神の魂があります。神の意思、神の計
画、神の法に従い、神の仕事を遂行するためにここにいるあなた方が、どうして罪人になどなれるでしょう。
神を探り神にいたるため、神はたくさんの能力をあなた方に授けました。死刑の判決を受け、うち捨てられた
無力な存在ではありません。求めるがままに豊かな遺産を受け継いだアーナンダスワルーパ(至福の化身)な
のです。あなた方が求めていないだけです。神が与えた使命を信じ、喜んで着実にそれをはたしなさい。
(サティア・サイ・スピークス1
◇
◇
◇
162p)
◇
一生という限られた年月の貴重な一瞬一瞬を、むなしい気晴らしのためにつまらぬおしゃべりで浪費してい
る人々を私は好きではありません。怖じ気づいてためらうばかりでいるのも好きではありません。動きなさい。
力のかぎり心のすべてをこめて行動しなさい。授けられた技術、能力、勇気、自信を最大限に活用しなさい。
神が祝福します。あるラーマバクタ(ラーマの帰依者)のことを聞いたことがあるでしょう。壊れてひっくり
返った荷車のそばで不運を嘆いて座りこみ、荷車をもとに戻してくれとラーマの名を呼びました。しかしラー
マは現れず、倒れた荷車も壊れた車輪もそのままです。男は信仰そのものを非難しはじめ、ラーマを「海のよ
うな慈悲深さ」と称した聖者の言葉を疑いだしました。そのときラーマが姿を顕し男にこう言いました。「愚
か者よ、私はあなたに知恵も力も授けました。それを使いなさい。目の前におかれたことに精進しなさい。最
善をつくしてもなお足りないとき、そのとき私を呼びなさい。あなたの努力がより確かなものになるよう、私
はいつでも恩寵を授ける準備を整えているのだから」
(サティア・サイ・スピークス2
◇
◇
◇
145p)
◇
神への信仰は決してゆるがぬものにしなさい。どんな状況にあろうとも神の指示にそむいてはいけません。
どんな礼拝を捧げようと、どんなに深く瞑想しようと、神の指揮にそむけばまったく無意味な献身です。神の
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意図や目的には私欲のかけらもありません。神聖なる神の指揮にそむくのは、その人に狭い心と利己的な動機
があるからです。神にそむくほんの小さな行いが、やがては危険なまでに大きくなります。
空に浮かぶ雲が、風によって集められたり追い散らされたりするように、時の経過というものは、仲間との
出会いや別れ、喜び悲しみを人のもとにもたらします。時は神の御姿です。浪費してはいけません。このよう
な神聖な真理を理解するため、ガネーシャ・チャトゥールティのようなお祭りが祝われます。
(サナタナ・サラティ
◇
◇
◇
1991年
10月号
276p)
◇
つねに光を求めなさい。自信と熱意に満ちていなさい。絶望に屈してはいけません。絶望は何も産み出しま
せん。知性をくもらせ疑いにひきずりこみ、ますます問題を難しくするばかりです。熱意を持ってサーダナ(霊
性修養)を続けなさい。身の入らぬふらついた足どりでは何の成果も得られません。水を流して泥を落とすの
と同じことです。流れに勢いがなければ泥は落ちません。泥がきれいに落ちるよう、勢いよく大量の水であた
りを洗い流さなければなりません。
私はほんの最初の段階をお話ししました。サダカ(霊性の徒)にとってもっとも大切なことであり、あなた
方みながサダカ、もしくはサダカとなる人々だからです。「モクシャはスクシュマにあり」―――つまり「解
脱は緻密な手段によってなしとげられる」人にはあなたがして欲しいと思うようにしてあげなさい。すぎたこ
とを思い悩むのはよしなさい。嘆きがあなたを打ちのめすとき、過去に起こった同じようなできごとを思い出
し、さらに嘆きを追加してはいけません。むしろ嘆きが扉を叩くことなく、幸せだったときのことを思い出し
なさい。そこから慰めと強さをひき出し、荒れ狂う悲しみの波から自らを引きあげなさい。
(サティア・サイ・スピークス1
◇
◇
◇
71p)
◇
神によってつき動かされた意志の力は、あなたを前進させる積極的な力です。これをサンカルパ・バーラと
いいます。集中すること、ジャパを行うことで、意志の力を養いなさい。心をその意志の指示に服従させなさ
い。あなた方は気まぐれな心に導かれ、いともたやすく道をはずれてしまいます。ですから私は「WATCH(見
つめなさい)!」と言うのです。WはWord(言葉)を見つめること、AはAction(行い)を見つめること、Tは
Thought(想い)を見つめること、CはCharacter(人格)を見つめること、HはHeart(心)を見つめることです。
「WATCH(見つめる)」という言葉が、一瞬一瞬この5つを見つめることを思い出させるようになったなら、
あなたは幸せでいられるでしょう。
(サティア・サイ・スピークス7
◇
◇
◇
184p)
◇
多くの人が、識別や無執着というものを時々かいま見ています。しかしあっという間にその呼び声を忘れ、
無視し、極端になったりいいわけしてはそこから目をそらします。一歩進んで一歩戻る―――そんな旅では遠
くに行けません。たとえサーダナをはじめても着実さに欠けています。しっかり握っていないため、手から床
に転がる糸玉のように何度でも転がり落ちてしまうのです。どんなことにもいえるように、着実な努力のみが
成功をもたらします。すぐに心をコントロールできるでしょうか。いいえ、気まぐれな心を服従させるのはた
いへん難しいことです。心にはたくさんの側面があり、実にかたくなだからです。
神の反映、神の落とす影であるプラクリティ(性質)を理解することができずに、どうして神そのものを理
解できるというのでしょう。着実に不屈の努力を重ねてこそ心を従わせることができ、心を従わせてこそ神を
体験することができます。そのためにはあなたがあなたの教師にならなければなりません。あなたの内にすで
に吹きこまれた英知のきらめきで、あなた自身を訓練しなさい。全力でのぞめば、さらなる前進を助ける神の
恩寵が得られるでしょう。霊性の第一歩は言葉を清らかにすることです。怒りを取りのぞき、優しく語りなさ
い。学位や業績をおごってはいけません。謙虚になり、熱心に働き、言葉を大切にしなさい。沈黙を実践しな
さい。つまらぬ口論や、役に立たない考え、争いごとからあなたを守ってくれるでしょう。
(サティア・サイ・スピークス2
49
24p)
◇
◇
◇
◇
勇敢であることは、精神面のみならず肉体にも健康と力強さを与える強壮剤です。疑い、ためらい、恐れを
捨てなさい。それらが心に根づくチャンスを決して与えてはいけません。内に授けられた神の力を用いれば、
人はどんなことでもなしとげられます。マーダヴァ(神)にさえなれるのです。
(サティア・サイ・スピークス1
◇
◇
◇
80p)
◇
恐れや疑いを捨てるには、舌の上、心の中でいつも神の御名を唱えていなさい。神の御名を唱えるときには、
果てしない神の御姿、限りない神の栄華を想いなさい。神に執着していなさい。はかないものへの執着が崩れ
落ちていくでしょう。少なくとも、それらをほんの相対的な現実にすぎないものとして適切に見られるように
なるでしょう。ちっぽけなエゴに大きな価値を認めれば、あらゆる悩みが生じます。それがすべての苦しみの
原因です。
(サティア・サイ・スピークス1
D.
81p)
己 を 知 ること
たった五分の問いかけで、あなたが肉体、五感、心、知性、名や姿でなく、アートマそのもの、この多種多
様な姿で顕れたのと全く同じアートマであると確信することでしょう。一度この真理をかいま見たならしっか
り握っていなさい。逃がしてはいけません。永遠にあなたのものにしておきなさい。
(サティア・サイ・スピークス1
◇
◇
◇
25p)
◇
自らの人格を調べあげ、そこにはびこる欠点を見いだす努力をしなさい。他人を分析して他人の欠点を見つ
けようとしてはいけません。霊性の前進をそこねかねない欠点をあらわにするには、こうして自分を調べるこ
とがまさに不可欠です。人はほこりや汚れが目立たぬよう濃い色の服を買い求めます。汚れがはっきり分かる
白い服は好みません。しかし汚れを暗闇に隠しておいてはいけません。汚れた性質を恥じ、速やかに洗い清め
る努力をしなさい。
(サティア・サイ・スピークス6
◇
◇
◇
37p)
◇
心(マインド)は自己の探求がはじまればすぐに消えはじめます。縦糸と横糸からなる布のようなものだか
らです。一本一本が欲望、願望、執着です。それらを取りのぞけば布は消えてしまいます。幻想が綿(めん)、
欲望が糸、心が布地です。ヴァイラーギヤ(無執着)によって、縦糸も横糸も引き抜くことができます。サダ
カ(霊性の徒)はヴィヴェーカ(英知)とヴァイラーギヤ(無執着)を警備員として雇いなさい。そうするこ
とで俗世を無傷で歩んでいけます。
(サティア・サイ・スピークス6
E.
180p)
純粋な
カルマ)
―――覚醒
覚醒のための
のための心
純粋
な 行 い ( カルマ
) ―――
覚醒
のための
心 の 純化
カルマによってもたらされた結果は、カルマを通じてのみぬぐいさることができます。とげは別のとげでな
ければ取れないのと同じことです。今苦しんでいる過去の悪いカルマの痛みを癒すには、善いカルマを行いな
さい。最善にしてもっともやさしいカルマとは、神の御名を唱えることです。たえず唱えつづけなさい。悪い
性質、邪悪な思いを遠ざけます。あなたの周囲に愛を輝かせるでしょう。
いにしえの聖者たちは、カルマをヴィカルマ(意図的になされたもの)とアカルマ(結果を得ようという意
図なしになされたもの)とに分けました。後者に従えば苦しむことはありません。富や名誉、名声、評判を得
ようとすれば苦しみに終わります。内なる平安、内なる歓びを手に入れなさい。手に入れようとせずに行うこ
50
とで、手にすることのできるものです。行いはそれ自体が報酬であるべきです。結果を神にゆだねるには、む
しろ内なる神の働きかけに従って行わなくてはなりません。つねにこの心構えで実践しなさい。あなたの内に
もまわりにも、大いなる平安が流れ出すのを感じるでしょう。
(サティア・サイ・スピークス5
◇
◇
◇
97p)
◇
サーダナは欠かすことのできないものです。カルマの結果はカルマにしか取りのぞくことができないからで
す。とげは別のとげでなければ取りのぞけないのと同じことです。ナイフでもハンマーでも、たとえ剣でさえ
も取りのぞくことはできません。
かのシャンカラチャルヤも、この世が実在しないものだという認識を、ムット(僧院)の設立、本の執筆、
論議への参加という、実在しない世界での活動を通じて広めました。
カルマをすっかりやめてしまうことはできません。ただ、それがプレマに満たされ世界の幸福を促すもので
あるよう、心をつくすことならできるのです。
(サティア・サイ・スピークス
◇
◇
◇
出典箇所不明)
◇
カルマの法則は希望の手を差し出します。カルマがあるということは結果があるということだからです。し
かしカルマの結果を追い求め、これ以上自らを縛りつけてはいけません。カルマは神の御足に捧げなさい。カ
ルマで神をたたえなさい。神の栄華をより輝かせなさい。努力の末の成功、失敗には無頓着でいなさい。その
とき死はもはやあなたを縛る縄ではなくなります。投獄するものでなく解放するものになるのです。
(サティア・サイ・スピークス10
◇
◇
◇
11p)
◇
あなたには自分の愛が狭いか広いか、献身が浅いか深いかを自ら判断することができるはずです。達成した
ことに満足していますか?
自分自身に問いなさい。識別力を用いて評価を下しなさい。動機が純粋であるこ
とが、平安を保証する最善のものです。ぐらついた良心はまとわりついて悩みの種になるばかりです。正しい
行いは決して悪影響をもたらさず、眠りや健康をそこねることもありません。
心に正しさがあるならば
人格に愛があるならば
家庭に調和があるならば
国に秩序があるならば
人格に愛が生まれます
家庭に調和が生まれます
国に秩序が生まれます
世界に平和が訪れます
正しくありなさい。カースト、教条、肌の色、礼拝様式、地位や裕福さをもとに、人を差別してはいけませ
ん。誰をもさげすんではいけません。あらゆる人を真のあなたと同じ神であるとみなしなさい。
(サティア・サイ・スピークス10
5p)
6.神として、師(グル)として―――障害を取りのぞくガネーシャの恩寵
神の恩寵はふりそそぐ雨、さしこむ太陽のようなものです。それを得るにはあるサーダナ(霊性修行)が必
要です。雨水を受けとめる水さしを上にむけておくサーダナ、太陽の光がさしこむように心の扉を開け放つサ
ーダナです。ラジオ放送の音楽のように、恩寵はあたりに満ち満ちています。しかしそれを聴いて愉しむには、
あなたという受信機のスイッチを入れて周波数を合わせなければなりません。恩寵を求めて祈りなさい。そし
て少なくともこのわずかなサーダナを実践しなさい。恩寵はあらゆるものを正します。アートマサクシャトカ
ーラ(覚醒)に導くことがその最たるものですが、同時に他の恩寵も授けます。世俗的に満ちたりた幸せ、冷
静で勇敢な気質を、ゆるぎないシャンティ(平安)の内に築きあげるのです。
51
神への信仰がなければ恩寵の偉大さを知ることはできません。ラーマやクリシュナを捨ててしまえば、必要
なときにあなたのそばにいることはできません。サイババを慕わなければ彼から恩寵を授かることはできませ
ん。皮肉、疑い、批判やあら探しをはじめれば、より深刻な無知と混乱に陥り、汚れた思いが心を悪臭で覆い
ます。どうしてそこに清らかさが宿るでしょうか。
(サティア・サイ・スピークス8
◇
◇
◇
70-71p)
◇
あなたを導き、案内することのできるグル、すでに道を踏破しその道の上りや下りを知るグルが必要です。
ランプと油と火芯があるなら、そこに火をつける誰かが必要です。線の集まりが板に描かれたなら、それがG、
O、Dの文字だと知る人が、ジー、オー、ディーだと教えなければなりません。それで十分ではありません。
その文字には音があり「ジー・オー・ディー」でなく「ゴッド(神)」と読むこと、「ゴッド(神)」という
その言葉が、雨のしずくを地上に落とし、蓮の花弁を開かせ、蝶を空に遊ばせ、太陽を昇らせるものとして、
またこれまでもこれからも、力のすべて、英知のすべて、愛のすべて、奇跡のすべてでありつづけるものとし
て、この宇宙に遍在する神の原理を形で表したものだと伝えなければならないのです。
自然とその法則、物質とその性質・力・影響について教える人たちは、解放でなく束縛を教えています。こ
れでは至福でなく重荷です。歓びと悲しみの波立つ海を渡るのに石の船を与えているのです。浮かぶことはあ
りません。まちがいなく沈んでしまいます。この海を渡るのに必要なのは、バクティ、神の恩寵への信頼、神
の意思への服従という船です。あらゆる重荷をふり捨て、光になりなさい。一歩進んでひと波越え、次の一歩
でまた次を越え、そうして海を渡っていけます。神があなたを連れて行くのです。何も悩むことなどありませ
ん。すべてが神の行うことなら誰が何を気にするというのですか。
(サティア・サイ・スピークス10
◇
◇
◇
86-87p)
◇
エゴを降伏させなさい。一瞬一瞬、すべての行いを神に捧げなさい。神は必ず人々を苦しみと悪から解放す
ると保証しました。神がどこにいるかを尋ねると、人は空や離れたところを指さします。神が姿をあらわにし
ない理由はここにあります。神はあなたの内に、あなたとともに、後ろに前に、いつもあなたとあることを知
りなさい。あらゆるところに神を見、感じることができるのです。そしてまた、神とは純粋なハートからわき
おこる祈りには必ずこたえようとする、完全なる慈悲であることを知りなさい。
この遍在する神について教えるのが真のグルです。御足に財布を置くのとひきかえに救済を約束する者では
ありません。そのような強欲とエゴでいっぱいの俗物についていってはいけません。神があなたの心を照らし、
知性を呼びさまし、あなたのグルになるよう祈りなさい。神はあなたの心の祭壇から、必ずあなたを正しく導
きます。今日、グルの多くが作物よりも囲いに重点をおいています。そのためそもそもサーダナを守るために
定められた規制や規則を、逆にサーダナをそこなうほどに強調するのです。時代遅れな制約や抑制ばかりを狂
ったように主張し、規則の目的そのものは忘れさられていく一方です。運命やカルマの結果をことさら強調す
るばかりで、それをしのぐ神の恩寵の威力を語り人々を慰めることはありません。
人の手足を縛る鉄のカルマの法則があるのなら、どうしてスルティやスミティ(経典)は、求める人々の熱
心な努力や苦行をたたえるのでしょう。努力や苦行によってカルマの悪影響を変質させ、自ら積みあげた運命
からすくいあげることができるからです。死の日を取り消されたマルカンデーヤの逸話はその好例です。マル
カンデーヤはタパス(帰依)により、神の恩寵をひきだし勝利を得ました。アヴァターたちの地上での行いに
は、恩寵がカルマの蓄積に勝ることを示す数えきれないできごとが記されています。
神が授けるものは何であれ、あなたのため、あなたを解放するためのものです。崩壊や束縛のためではあり
ません。邪悪なことをする神は決して神ではありません。神には好意も嫌悪もありません。あらゆる性質、資
質を超えています。神はグナティータ(グナを超越する者)なのです。それなら神が憎しみや復讐心を抱くこ
となどあるでしょうか。神は愛です。神は慈悲です。神は善、英知、力です。神はあなたがのぞんだものを与
えます(何かを望むときには注意しなさい)(ガネーシャ)。真の意味でためになることを願えるようになり
なさい。願いの叶う木に出かけていって、望んだタオルを手に大喜びで帰ってくるのではいけないのです。
(サティア・サイ・スピークス4
52
300-301p)
◇
◇
◇
◇
師はあなたの知性をとぎすまし、視野を広げ、識別力を授け、高いレベルの意識とさらなる広大な愛の地平
にたどりつくよう手助けします(ガネーシャ)。ですからグルにも感謝を捧げなければなりません。母親はあ
なたを父親のもとに導きます。父親はグルのもとに導きます。グルは神のもとへと導きます。今日、子どもを
父親に導く母親はたくさんいます。子どもをグルのもとに送る父親もたくさんいます。しかし教え子を神に導
くグルはほとんどいません。両親は健康に力強く肉体を育てあげ、グルは肉体の内におわす内なる存在に気づ
かせます。
(サティア・サイ・スピークス16
◇
◇
◇
60-61p)
◇
覚えておきなさい。神性はすべての人の内に地下水のように流れています。神はサルヴァブータ・アンター
ルアートマ(万物に宿りしもの)、サルヴァヴィヤピ(遍在するもの)です。神はすべての生きものの内に宿
るアートマ(魂)です。他の誰の内にもいるように、あなたの内にもおわします。お金持ちの中によりたくさ
んいるのでも、大きな生きものにはより大きな姿でいるのでもありません。神の輝きはあらゆる人の心の奥を
照らします。太陽の光はすべてのものに等しくふりそそぎ、神の恩寵もすべてに等しくそそがれます。あなた
を温める神の恩寵の光を、壁を築いてはばんでいるのはあなた自身に他なりません。無知、愚かさ、誤解から、
神を責めてはいけません。水脈を掘りあてると地下水が勢いよく吹きあがるように、たえまなくラム、ラム、
ラムと唱えることで神の源泉に到達しなさい。いずれ大量に吹き出して、つきせぬ歓びがもたらされることで
しょう。
(サティア・サイ・スピークス1
◇
◇
◇
108-109p)
◇
神は求めるものすべてを与えるカルパタル(願いを叶える聖なる木)のようなものです。しかし自らその木
に近づいて、欲しいものを願わなければなりません。無神論者とはこの木に近づかない人であり、有神論者と
は近づいた人のこと、そこが両者の違いです。この木は何の区別もせずにあらゆる人の願いを叶えます。神は
神を認めなくても崇めなくても、罰を与えたり報復したりしません。神を喜ばせる唯一特別な礼拝の形もあり
ません。…(略)…
恐れることなく神に近づく権利、財産の取り分を求める権利を手に入れなさい。神の近くに行ったとき、賛
美の気持ちが起こらぬほどに解き放たれていなければなりません。賛美は距離感と恐れの証(あかし)です。
カーリダーサの逸話を聞いたことがあるでしょう。彼は「私が去ったなら(as soon as I go)」すぐにでも解脱
を手にするといいました。つまりエゴが消えさえすれば自らの本質、ブラーフマン(不朽なるアートマ)とし
て光り輝きだすと言ったのです。「I(私)」の字を横線で消せば十字架になります。覚えていなさい、十字
架にかけられるべきはエゴなのです。そのとき妨げられることなく神が姿を顕わすのです。
(サティア・サイ・スピークス1
◇
◇
◇
55-56p)
◇
道は苦難に満ちています。苦難はあなたの前進を妨げるのではなく助けになります。おいしげった藪(やぶ)
をはらうはさみの働きをします。旅の行く手の上りや下りは誰にも避けることができません。意識をゴールに
定めなさい。それが幸せと平安を手にする方法です。神の恩寵は、障害が何であれ、あなたを助けるものに変
えていきます(ガネーシャ)。障害を助けとみなすよう、自らの心を教育しなさい。縛りつけるのも解き放つ
のも心次第です。ここにあるこのハンカチは、何かと尋ねられれば確かにハンカチそのものです。しかし真実
はたんなる糸の集まりです。縦糸、横糸、すべて引き抜いたら何が残りますか?
なぜ欲望を増加させ、心に
とらえられているのですか。
(サティア・サイ・スピークス6
◇
◇
◇
◇
53
226p)
神とは誰もが財産の分与を要求できるあらゆる人の父親です。しかしそれを得るには、ある年齢に達し、あ
る知性と識別力の基準に達していなければなりません。神は心の弱い者、愚かな者を財産を与えるに適した人
物とはみなしません。神の財産とは恩寵、プレマ(愛)です。識別力と帰依心があるなら、当然の権利として
その分与を要求することができます(ガネーシャ)。
バクティ(献身)をたずさえここに置き、ひきかえに霊性の力を得ていきなさい。その取引がさかんになれ
ばなるほど私の歓びも大きくなります。あなたがその身に抱えるもの、喜び、悲しみ、心配、不安を置きに来
て、私の歓び、私の平安、私の勇気、私の強さを得ていきなさい。私の目には帰依者に初級も上級もありませ
ん。母親は病気がちな子どもの世話により多くの時間を割きます。年長の子どもにはただ自分で自分の世話を
するよう望み、幼子には母親自ら口もとまで食べものを運びます。大きくなった子どもを愛していないという
ことではありません。目に見える注意を払わないからといって、私のプレマのおよばぬところにいると思うの
はやめなさい。
(サティア・サイ・スピークス1
◇
◇
◇
15p)
◇
神はひとりひとりを神のもとにひきよせます。この親和力は両者にある性質です。両者は本来同じものだか
らです。磁石と鉄のようなものです。しかし鉄が泥にまみれて汚れていては、磁石にもひきよせることができ
ません。さえぎるものを取りのぞきなさい。それがあなたのするべきことです。真のあなたを磨きだせば、神
はあなたを胸にひきよせます。試練や苦難はあなたを磨く道具です。だからこそクーンティはクリシュナにこ
う祈りました。「どうぞいつも嘆きをお与えください、決してあなたを忘れぬように」試練や苦難はナマスマ
ラナ(神の臆念)という薬の効きめを高めるため、医師の与える食事その他の処方のようなものです。
(サティア・サイ・スピークス1
◇
◇
◇
6p)
◇
いにしえの教えによれば、人はたんに連携して働く四肢や感覚器官のよせ集めではありません。人とは、何
度もの生で得た記憶や手法によってとぎすませてきた知性を用い、それらすべてを治めるものです。知性それ
自体は能力にかぎりのある道具です。達成することの不可能な目標がたくさんあります。それらの目標は、天
から恩寵と力がふりそそいでこそ達成されうるものです。神の力にエゴが完全に降伏したとき、その力がふり
そそぎあなたを満たします。
(サティア・サイ・スピークス6
◇
◇
◇
41p)
◇
望みを達成しようとするなら、神の手に握られた道具にすぎない他の誰かにへつらうよりも、神に近づくの
が賢明です。神は独自のやり方で、沈黙の内にあなたの心を変質させ、サーダナと実り多き霊的巡礼の旅へと
むかわせます。神はわが子を道に迷わせジャングルの中で苦しませてはおきません。神に近づき助けと導きを
求めるとき、あなたは自らを救う第一歩を踏みだしたのです。そうして神の意思を自らの意志として受け入れ、
シャンティ(完全なる平安)を手に入れるのです。
(サティア・サイ・スピークス13
◇
◇
◇
96p)
◇
他の何よりも、習慣を正し、欲望へらし、より高い資質を磨きあげなさい。その一歩がさらなる一歩を容易
にします。それが優れた霊性の旅路です。一歩ごとに力と確信が増し、受けとる神の恩寵もより大きく、より
強力になっていきます。
(サティア・サイ・スピークス5
◇
◇
◇
◇
54
197p)
賢明な識別力がなければ、技術や能力を有効に活用することはできません。たとえば、火や電気もどのよう
に扱えばよいのか、必要を満たす道具としてどのように用いることができるのかを知らなければなりません。
人の五感も火と同様、つねに警戒をおこたらずコントロールしていなければなりません。
心が純粋で五感が統制されていないかぎりどんな礼拝も成就しません。ガネーシャは障害を乗りこえるのを
助ける神ですが、すばらしい努力が悪い影響を与えるものにじゃまされていると、障害を産み出す神になって
しまいます。ガネーシャは誠実なサダカ(霊性の徒)には道を切り開いてくれるでしょう。善いことの成就を
願うときにはプラサナヴァダナム(慈悲深い御姿)であっても、邪悪な望みのために助けを求めればそうでは
なくなります。ガネーシャ神はプラナヴァ・スワルーパ、オームの体現であり、幸運の証(あかし)そのもの
です。
(サティア・サイ・スピークス11
◇
◇
◇
212p)
◇
7.ガヤトリー・マントラ―――覚醒への障害を取りのぞくガネーシャ神
オーム
ブール
タット
サヴィトゥール
バルゴ
ディーヴァッシャ
ディーヨ
ヨーナ
ブワ
スワハー
(Om bhoorbhuvaha swaha)
ワレニヤム
(Thath savithur varenyam)
ディーマヒー
(Bhargo devasha dheemahi)
プラチョーダヤートゥ
(Dhiyo yonaha prachodayath)
ガヤトリー・マントラ(知性を照らすヴェーダの祈り)は、もっとも古い経典ヴェーダ(神聖なる英知)に
記された普遍的な祈りです。その祈りは「サヴィタ=万物の生ずる源」と名づけられた、遍在しすべてを超越
する神にむけられています。ガヤトリー・マントラは3つの部分からなりたつと考えられます。(1)賛美(2)
瞑想(3)祈りです。まず神がたたえられ、次に崇敬の念で瞑想され、最後に人の識別力、知性を目覚めさせ
強固なものにして下さい、と祈ります。
ガヤトリーはヴェーダサラ―――「ヴェーダの神髄」―――とされています。「ヴェーダ」とは知識のこと
で、この祈りは知性をつかさどる能力を育みとぎすませます。事実4つのヴェーダに記された4つのマハーバ
キヤ、「4つの真理」がこのガヤトリーマントラには含まれているのです。
(サティア・サイ・スピークス13
◇
◇
◇
224p)
◇
知性は両刃の剣です。鎖を断ち切りあなたを解き放ちもすれば、致命傷を負わせ死にいたらしめもします。
だからこそ探求者たちの唱えるガヤトリー(唱えるものを救う)と呼ばれるこの偉大なマントラは、神に知性
をおさめてください、そしてそれを個人と社会の幸福のために授けてくださいと祈りを捧げるのです。
(サティア・サイ・スピークス7
◇
◇
◇
82p)
◇
聖者ヴィシュワミトラは、ガヤトリー・マントラを上質の薬として霊性の探求者たちに与えました。この聖
者は称賛にあたいします。この「薬」は、ブッディを目覚めさせ人を他の動物よりはるかに高い位置にひきあ
げる、人に特有の資質、ヴィヴェーカ(英知)、ヴィッチャークシャナ(識別力)、ヴァイラーギヤ(無執着)
を授けるからです。…(略)…人は神性です。人の内にはハートに宿る神がいます。それなのに手足を縛られ、
みじめで、限られ、弱く、心乱されています。なぜでしょう。自らの真の姿を知らないからです。自分が弱く
てかぎられ縛られた存在であると思いこみ、想像力の源であるはずのその心にきつく制限されているからです。
どうしたら解放されるのでしょう。どのようにこのブラーマ(幻想)を乗りこえることができるのでしょう。
電車を追いこすには、車に乗ってスピードを上げるか飛行機に乗らなければなりません。電車より遅い乗りも
のでは役に立ちません。幻想を乗りこえるには、神の中に自らを確立しなければなりません。マーナヴァシャ
55
クティ(人の力)による幻想は、ダイヴァシャクティ(神の威力)を得ることでのみ超えることができます。
ガヤトリー・マントラはこのダイヴァシャクティの獲得を促します。
(サティア・サイ・スピークス5
◇
◇
◇
46p)
◇
決してガヤトリー・マントラを捨ててはいけません。他のマントラを忘れたり気にとめなくなったとしても、
少なくとも一日数回ガヤトリーを唱えなさい。そうすることで、旅の間、仕事の間、家にいるとき、どこにい
ようとあなたを害悪から守ります。西洋でこのマントラの発する波動が調べられ、ヴェーダに定められた正し
い発音で唱えると、まわりの空気が目に見えて輝きだすことが発見されています。このマントラが唱えられる
とき、神の輝きブラフマプラカーシャがあなたにふりそそぎ、知性を輝かせ道を照らすのです。ガヤトリーは
アンナプールナ、母なる神であり、万物に命を与える維持の力です。おろそかにしてはいけません。
(サティア・サイ・スピークス13
226p)
まとめ
象頭の神ガネーシャ(ガナパティ、ヴィナーヤカ、ヴィグネーシュワラ)は、神の力の様々な側
面や、至高の神にも人の内にもあるシッディの象徴です。
ガネーシャは、理解力、識別力、直感を通じ、自らの神性に気づき不変のものを獲得することが
できるよう純化された知性そのものです。純粋な心、知性、アートマ(魂)はひとつに溶けあい、
完成された者とは障害をつかさどる神ヴィグネーシュワラそのものであることを明らかにします。
ガネーシャは人を自らの肉体、五感、心、感情の主(あるじ)にし、真理、平安、正義、神の愛
へと導き、最終的に魂を解き放ち永遠のものにします。
ガネーシャ神の示す力は、神の意思と一致する強力な意志、生来の神性にもとづく確信、障害を
乗りこえ命のゴール(解放)にたどりつこうとする勇敢さと忍耐、障害をうち砕く内なる技術、能
力、英知の顕れです。
霊性修行(献身の歌を歌うこと、神の御名やマントラの念唱、瞑想、自らの本質を知ること、神
に捧げられる純粋な行いの数々)や、心や感情を浄め五感のコントロールを促す鍛錬は、神への覚
醒にいたる道から障害を取りのぞく、ガネーシャ原理を示すものとみなすことができるでしょう。
障害を取りのぞく神の恩寵、グルの恩寵(どちらも同じもの)は、ガネーシャ神によって象徴的
に示された神の重要な側面です。
ガネーシャ神は人の内にも外にもつねにおわす神を示しています。障害を取りのぞき、命のゴー
ルにいたる手助けとして神の力をひき出すには、信仰を抱き霊性修行をすること、人に必要なのは
それだけなのです。
56