も 一横須賀文化財シリーズ第 4 集− 横須賀の碑(ぃしぶみ)を訪ねて 前 編 横須賀市教育委員会 く じ あいさつ はじめに も く じ 磴道石段の美……………………………………………………1・2 神社の鳥居と寺院の中門………………………………………3・4 巨大な記念碑……………………………………………………5・6 鳥 居………………………………………………………7・8 燈 龍………………………………………………………9・10 石 狗………………………………………………………11・12 石 狐………………………………………………………13・14 漱水盤(手洗鉢)………………………………………………15・16 石 廟………………………………………………………17・18 力石・子産石……………………………………………………19・20 道標(道しるべ)………………………………………………21・22 安針塚道標………………………………………………………23・24 芭蕉句碑…………………………………………………………25・26 横須賀市域初期の石塔…………………………………………27・28 中世期の五輪塔…………………………………………………29・30 一石五輪塔・長足五輪塔………………………………………31・32 五重層塔・長身塔婆……………………………………………33・34 宝篋印塔…………………………………………………………35・36 近世型宝篋印塔…………………………………………………37・38 宝 塔…………………………………………………………39・40 板 碑…………………………………………………………41・42 やぐらと石塔……………………………………………………43・44 阿弥陀如来の石像………………………………………………45・46 鬼より強い子育地蔵尊の慈悲…………………………………47・48 子育地蔵・岩舟地蔵……………………………………………49・50 両面地蔵…………………………………………………………51・52 地蔵尊像さまざま………………………………………………53・54 不動明王像……………………………………………………55・56 弁天窟・弁才天像……………………………………………57・58 千手観音像・閻魔(えんま)大王像………………………59・60 牛頭天王碑・牛頭観音供養塔………………………………61・62 馬頭観音塔 ………………………………………… ………63・64 横須賀市域初期の庚申塔と庚申講…………………………65・66 庚申供養塔……………………………………………………67・68 百 庚 申 ………………………………;…………………69・70 天台宗系庚申供養塔・真言宗系庚申供養塔………………71・72 浄土宗系庚申供養塔・日蓮宗系庚申供養塔………………73・74 猿田彦大神の信仰……………………………………………75・76 猿田彦大神像塔と帝釈天王像庚申塔………………………77・78 青面金剛像2態………………………………………………79・80 三猿像と青面金剛像の本体…………………………………81・82 道祖神塔………………………………………………………83・84 甲 子 塔……………………………………………………85・86 聖徳太子供養塔………………………………………………87・88 勧進僧の建塔供養……………………………………………89・90 順礼供養塔……………………………………………………91・92 山嶽信仰と石造物……………………………………………93・94 墓碑・供養塔の形のうつりかわり…………………………95・98 美化された墓碑・供養塔……………………………………99・100 笠塔婆の推移………………………………………………101・102 向井氏の墓碑………………………………………………103・104 中根東里一家の墓碑………………………………………105・106 幕末の海防武士の墓………………………………………107・108 海難者供養塔………………………………………………109・110 筆 子 塚…………………………………………………111・112 飯盛女の墓・不断の献華…………………………………113・114 みず子の墓…………………………………………………115・116 蛇神石・六角大亀の塚……………………………………117・118 三界萬霊供養塔・無縁仏霊供養塔………………………119・120 は じ め に やく 三浦半島は湘南の東南を扼、関東地方においてもっとも天恵的な気 候風土をもっている。北から南に向かって突出するヒラメ型の半島のほ ぼ中央を丘陵が縦走し、その東西両側は大小幾多の谷戸があたかも人体 の肋骨のように分出して海岸に向かって扇状に展開する。中央の丘陵台 地は常時闊葉樹の緑におおわれ、まさしく山紫水明の評に値いする自然 環境の佳地である。 こうぼう 横須賀市はその半島の中央に位置し、広袤99.47km2 の市域は半島の大 半を占める。戸口 13,648 世帯、427,690 人とあげられている。 しかしそ じょじょう うち の民生の本源は如 上 の自然環境の裡にはぐくまれて発現し、集落社会を 形成したものであり、その生活社会のなかに横須賀市域文化ないし三浦 半島文化が創生されたと推察される。しかもその三浦半島文化たるや、 はじめ海辺から上陸したものらしく夏島、田戸、茅山等の縄文早期の史 前文化を産み、歴史時代に入ってはさらに陸路によって中央(畿内)文 化を移入して長沢、久里浜、池田等に古墳文化を築きあげ、さらに公郷 に仏教東漸の拠点をも築きあげた。しかしそれらの多くは特別地域の点 としての文化であり、あるいは特権階級を中心にして形成された社会を 創った文化であって、その文化圏の底辺を一般庶民の身辺にまで進展さ せるようになったのは、概ね鎌倉時代以降のことであり、三浦氏はあた かもその時代の社会統率者、三浦半島住民の先達として登場したのであ る。三浦半島史が三浦一族の興亡史をもってはじまるかの観があるのは そのような事実に由来する。しかし従来の三浦半島史をひもといた限り では、概ね三浦一族の興亡、及び三浦半島支配の跡づけであって、三浦 じょうしょう 氏が民政、また三浦氏によって 醸 生 され助長された文化面についての論 こうぼう 如上:前に述べたこと。広袤:面積。東漸:次第に東に移り進むさま。 じょうしょう 醸 生 :ゆっくりと生まれ育つ様子 おも 説はいまだ多く語られていないようである。憶うに、この時代の三浦 半島文化は、現存する文化遺産から観る限りでは、概ね陸路による鎌 倉拠りの傾向が濃い。それは地理的な関係および三浦氏の行動が鎌倉 拠りであったことの当然の結果と理解されるが、他面、海路に拠る湘 西、また武蔵系文化の導入もすくなくなかったようである。ことに石 造文化において顕著なものがある。しかしそれは現存する遺物につい て観られるところでは、画一的であり、現物直移入型であって、いま だ三浦半島的な様相は認められない、置き物的な石造文化の存在であ る。それは、移出元であった湘西、武蔵地域に於て量産的な態勢の裡 に造り出された現物移入によってもたらされた当然の現象であろう。 その主たる原因は、その当時、三浦半島にはいまだ石工にとぼしく、 また石造物を造成する適当な材石の発見がなかったことにあろう。 三浦半島に半島の特色をもった石造物が顕現し出したのは鎌倉時 代末から南北朝時代ころと推察される。ごく限られた地域に認められ る凝灰岩や堆積岩製の擬五輪塔の類がそれである。しかもそれは「や ぐら」の玄室内に見出されるものが多いことから、鎌倉文化の風潮を うけて出現しはじめたこの地方「やぐら」の発達によって助長された ものとも考え られる。しかしその現存する数量は一石五輪塔をふくめて極く少数で ある。それはその当時は仏教信仰の浸透の度合が稀薄であり、したが って石塔類の需要が限られた階層の人衆間に於てのものであったこ とを物語っている。 三浦半島全体として造塔信仰が一般化したのは近世になってから である。近世初頭ころは、前代の建造思想をうけ継いだ傾向で、精霊・ 亡者のための追善供養、また仏教信者自らのための逆修供養という限 定された目的のための建塔であったが、徳川政権時代の出現という新 時代の風潮をうけて、民衆層の信仰面においても新らしい信仰があら われはじめ、 それと同時に、仏教僧侶の教導をうけて庶民層の間に新らしい信仰が 出現して、建塔供養の儀礼が流行した。その筆頭は庚申信仰であり、 庚申講中による庚申供養塔の建立であり、念仏結衆による念仏供養塔 の建立等がある。而してそれら諸多の供養塔は、その建立者がいずれ も一般庶民であり、社会民衆の結衆であるために、建立趣旨は彼等自 らの信仰の表現であって、それに相応して、その表現及び塔の型式と もに、あまり既定の方式にとらわれないものを卒直に容易に自ら欲す るところを自在に顕現しようと志向しているところにある。 それを造型した石工は、多く当該地域に即した石工であったらしい ので、先例や他形を模倣しながら、地域石工としての自己の持ち味、 腕前を発揮し、工夫を凝らしているところに特徴がある。 しかもその一基一基が手づくりの作品である。 先人の或る者は、このような時代的、社会的な石造物について、中 世期及びそれ以前のものを石造美術として撰定・評価しながら、近世 以後の石造物については写真趣味者や好事家の手にゆだねようとす る傾向がある。 そのいずれも、各自の好むところであろうけれども、私は、中世・ 近世を通じて、それを石造美術品として観賞的にながめようとはした くない。その一基一基を石造文化財として、それを建立した人びとの 建立趣旨に還って凝視するようっとめている。 その過去において、私が横須賀の地に歩をはこんだのは昭和 16 年 であった。 その目的は清雲寺の文永八年銘板碑を調査することにあった。 けれども現在では横須賀市ないし三浦半島の史的研究が進展して、 生活・伝説・風物・物語り等々様ざまな角度から究められ著述されて いるが、その当時は三浦半島全般について記された書物はすくなく、 辛うじて新編相模国風土記稿を通して想像していた横須賀の土地を はじめて踏んだのであった。 「十月五日八幡君のメイ文に導かれて、半日大矢部に遊ぶ。 鼓人橋を渡り清流に沿った満昌寺に詣で、後方台地にある三浦義明 の墓前に額づき、郭内にある板碑を見る。高さ約五尺、下部幅一尺三 寸、形式よく整い、均斉のとれた立派なものだ。 ゆうこん げ 薬研彫に雄渾に刻み込まれた観音種子は実に見事で、世尊偈の具一 切切徳慈眼視衆生福聚海無量是故応頂礼の五言四句の文字も良い。八 幡氏の言われる如く鎌倉未期のものたる事疑いない。 下山。本堂脇に置いてあった薬王廃寺の板碑二基をする。 元応二年庚申二月日の同年銘、高さこそ二寸程の差異はあるが、先 考先批同時供養の双碑であろう。享保十七年小田原住山田次郎左衛門 いちべつ 家次の鋳造に係る梵鐘を一瞥して山門を出る。清雲寺は満昌寺と河を 隔てて向いの丘の上にある。浄域の登り口左側に寛政元年建立の唐仏 滝見観世音菩薩の石標がある。 大富山の篇額が本堂に懸っているがいたって簡素だ。庫裡に刺を通 じて三浦一党の墓に詣でる。鎌倉から室町時代にかけての五輪塔が墓 域の内外に十基近く立っている。何れも完全なものではないが、郭内 の三基は秀でている。問題の板碑は郭外右側に石寵の中に納まってい る。上部欠損して全形は窺われないが、種子は弥陀に相違ない。その 下に銘文が刻まれてあるが、眼に触れた途端に、これはいけないと直 感した」 。これが「三浦盛信供養板碑は偽銘なり」と題して、横須賀 市域の石造文化財に触れた最初の書き出しである。これが導因になっ たのであろう、昭和 45 年横須賀市文化財専門審議会委員を委嘱され、 史跡・石造文化財の分野を担当して今日におよんでいる。昭和 51 年 度から着手された横須賀全市域にわたる文化財総合調査では石造文 化財を割り当てられ、九ヶ年かかって9地域の調査を終った。その間 における結果は横須賀市文化財総合調査報告書の石造建造物編とし て逐年発表して、目下その半ばにある。調査した総数は五千基以上で あろう。夏は暑さと蚊、冬は寒さとたたかった幾十日かがあったが、 結果としては、私自身にとっては、石造物を通して中・近世の横須賀 史を学び、 ゆうこん 雄渾:文字のゆったりとした、おおきな文字。 手拓:拓本をとること。 横須賀びとの思想、生きた生活文化に触れる機会を与えられたことに なった。 中世期の石造物は、総じてある意味での特権階級者が権勢をもって 庶民から収奪したと評される財と力に応じて、異域で量産されたもの を移入建立したものと観られるが、近世期の石造物は庶民の一人ひと りが、自己の労苦の生活の裡に蓄いた資財をもってした建立物であり、 またそれを造り出した石工は、一基毎に生活を賭けたタガネをもって 造顕した手づくりの石造物である。 そのあらわれであろう、幾百基あろうとも、一基ごとに異った面を もっていることに気付いたのである。近世の石造物、ことに社会性を もった石造物をもって地域住民の意識の表現であり、地域文化の象徴 であると評したのはその意味である。 この書冊はささやかな編著であるが、私は上述のような観点に立っ てえらび出したつもりである。 決して一部の学究が提唱するような石造美術として観賞に値いする ものではなく、また奇をてらう目的で選び出したものではな い。掲出した写真もまたその現物に接して美を観じ、奇また妙を観取 るかは、その人(にん)によって異なるものがあろうけれども、表現 の美醜にとらわれることなしに、そのどれもが横須賀びとの真摯な生 活文化の遺産として観察くださることを希うものである。この書を編 むにあたり、写真撮影は主として藤井慶治氏が担当され、併せて安永 栄次氏の協力を得たこと及び写真撮影にあたり、関係社寺のご厚意を 仰いだ旨を記して感謝の意を表したい。 昭和 62 年3月 横須賀市文化財専門審議会委員 服 部 清 道 とうどう 磴道石段の美 横須賀地域の神社・仏閣には、その参道または前庭に長峻な磴道をも った例が多い。これは三浦半島の特色として、市域の総面積の大部分は 丘陵・山岳をなし、そのため、集落は僅かに残された周縁や谷戸の平坦 面に僅かに居を構え、したがって神社や仏閣はその奥地に構えなければ ならないという半ば宿命的な土地利用の所産である。 写真(1)は武4丁目の一騎塚である。なかば孤立した小丘で、上面は広 えき じん さ約百歩。一隅に疫神を祀る。全面うっそうとし常緑樹におおわれて昼 なお薄暮。前方側壁に庚申塔数基が旧位置にならび建ち、武山前不動尊 かいびゃく き や り とう 像と富士開 闢 輿樗地蔵尊を杷る小窟がそれとならび、表参道の小磴をい いたず っそうひき立たせている。その小磴は粗野ながら、徒 らに人工美を添え 一騎塚の磴道 武 ることなく、自然に溶け込んだ段級の美観がある。 写真(2)は深田龍本寺の裏参道である。その磴道は左に右に七曲りする きょきん こと 120 段余りである。この道は昭和 10 年、地域有志が発起して醵金 5、000 余円を以て竣工したもので、その荘観は県内に誇る信仰の道であ る。いま県内には様ざまな建造石物が年ごとに壮大化しつつあるけれど も、磴道美においては決してひけをとるものではない。 写真(3)は佐原御霊神社の磴道である。階段数は他社にぬきんでる程で はないが、切り通し様な左右両壁の石積みは現代的な城郭の磴道を夢想 させるものがある。 総じて石造物の真の美は単純・素朴なところに求められるものである かも知れない。 龍本寺の裏参道 佐原御領神社の磴道 神社の鳥居と寺院の中門 げじん 寺院の規構は、古くは山門からが境内になっていた。本堂内の外陣に 相当する。直進して中門がある。ここからが本堂の内陣に相当する。正 面に金堂、そのうしろに講堂、周辺に鐘楼その他諸堂が並び建つ一画を 中間から左右に起こった廻廊あるいは土塁でかこむ。この中画は本堂の 内陣にあたるもっとも大事な場所なので、中間には二天王を安置して守 けんさく おうじゅきょう 護させる構えをとっている。二天王は『不空羂索白在王咒 経 』に「壇の 東門外に二天王を置きその門を守護す。左辺にはまさに持国天王を作る べし、右辺にはまさに増長天を作るべし」と説かれるが、寺院によっ て日天、月天、また梵天と帝釈天を配するなど一定しなかったが、今日 では二天王を安置した例はすくなく、単に中門だけが建っているのが多 神社の鳥居 西叶神社 西浦賀 い。中門を主門と称しているのはこの故である。 これに対して神社にもかつて二天門があったが、今日では稀な例とし て残している程度である。しかもそれは神社本来のすがたではなく、神 こんこう 仏混淆時代に仏寺の影響をうけて出現した構えらしい。神社は先ず境内 入口に鳥居が建つ。これから内部が神域であるとの表示である。拝殿が 丘上に位置する神社は、階段はここから起こり、それがつきたところに 二天門があった。二天門には、古くは仏寺と同様な二天像を配したが、 現在では左大臣・右大臣像が置かれ、その構えもほとんどの神社で廃し ており、したがって鳥居からただちに拝殿に面するという構相である。 現在寺院の多くは置き石または石磴を登り切った所に中門があり、そ れをくぐると本堂に対面し、神社では石磴登り口に鳥居が建ち、それを くぐり、石磴を登りきると正面に拝殿があるという構えが一般的にな っている。 寺院の中門 良長院 鶴ヶ丘 巨大な記念碑 横須賀市域には記念碑が多い。そのなかから横須賀の近世黎明史を語 り、また、横須賀魂の象徴とも考えられる巨碑がある。ペリー上陸記念 碑、弟橘比売命記念碑、咸臨丸出港の碑である。 ペリー上陸記念碑は明治 34 年(1901)7 月建立。北米合衆国水師提督 伯理上陸記念碑と伊藤博文が揮毫し、碑身高 345cm、前面幅 252cm の稲井 石の巨体が地上高 118cm の基礎上に立つ。近代目本国の黎明をもたらし た黒船来航を伝えるにふさわしい石造建造物である。 弟橘比売命記念碑は走水神域のほぼ中央に建つ。碑身は高さ 329.3 cm 厚さ 25.5cm の巨大な根府川石で、これを支える基礎石は地上高 118 cm、 前面幅3mの巨岩である。明治 42 年(1909)建立。 「さねさしさがむの ① 浦賀園(愛宕山)咸臨丸出港の碑 西浦賀 をぬにもゆるひの ほなかにたちてとひしきみはも」の歌は昌子内親王 しゅせき:筆跡 手 蹟 である。日本書紀に伝えるこの一首は三浦半島の古代史の初頭をか 海軍大将:すけ ゆき 外務大臣:かおる ざるものである。建碑発起人は東郷平八郎・伊 藤 祐亨・井 上 馨 ・ 陸軍大将:まれ すけ 乃 木 希典ら7名である。 咸臨丸出港の碑は西浦賀浦賀園のほぼ中央に位置する。地上高 144cm、 咸 臨 丸 提 督 : よしたけ 前面幅 250cm の艦船型の巨岩石で、背面に軍艦奉行木村摂津守喜毅、教 授方頭取勝麟太郎ら乗組員 96 人の氏名を記録し、昭和 35 年に建立されて いる。 この3基はいずれもその巨大さは抜群で、またこれを山上に運びあげ て建立した土木技術は驚くべきものがあるが、それを敢えて成功させた 当時の軍港横須賀の偉大な政治力が如実に示されている感がある。 水師:海軍 ③ ④ ペリー上陸記念碑 久里浜 昭和 41 年写 ② 弟橘比売命記念碑 走水神社 稲井石(仙台石):江戸時代からだが、特に明治になって全国的使われる 鳥 居 神社に鳥居は欠かせない建造物になっているが、石造鳥居は地震など 天災には倒壊しやすく、そのため、横須賀市域では古い建立銘を具備し たものはすくない。 けいす 鳥居はまた中国風に華表、雞栖と書かれ、神域の関門である。その起 源について二説がある。その名称、形式が印度のト−ラン(toran)、中 はいろう るいじゅうしょう 国の牌楼と似ているところからそれに擬する説、倭名 類 聚 鈔 の椙(トカ ミ)は今の門雞栖でその音声が同じであるとの説を立て、他の一説は、 日本古代に住宅をめぐる垣に門を設ける風俗があり、神社は古代住宅に 起源するとの考えから神社出入の門としたのだというのである。雞栖は え なんじ 詩経や准南子などに見えて、鳥が止まるに適した横木のことであるが、 その昔トリイは印度のドーランが仏教渡来にともなって輸入されたとも 明神型鳥居 寛政 12 年(1800)荒崎熊野神社 考えられる。 にんしょう ぼ さ つ 鳥居を石造にしたのは、鎌倉時代初めに忍 性 菩薩が難波の四天王寺西 げんこうしゃくしょ 門を石に改造したことを元亨釈書が伝えている。古い日本の鳥居は種類 が多いが、伊勢神宮鳥居に発する神明鳥居、春日神社型の春日鳥居、石 清水八幡型の八幡鳥居、京都両賀茂神社型の明神鳥居、巌島神社大鳥居 型の両部鳥居(四脚鳥居)その他があるが、鳥居の主要部は笠木と柱で、 貫、島木、わら座などは後から加えられた飾りである。 横須賀市内神社の石造鳥居は多数あるが、大部分は明治以後の建立で 逸見の鹿島神社鳥居(明治 43 年)などがその時代を代表している。江戸 時代の建立としては、荒崎熊野神社の大鳥居寛政 12 年(1800)に代表さ れている観があり、阿部倉諏訪神社文化4年(1807) 、走水神社に天保 11 年(1840)の残欠がある程度である。熊野神社鳥居は明神型で、地上 総高 270cm、柱間幅 292cm。 え なんじ 神明型鳥居 皇太神宮 津久井 春日型鳥居 住吉神社 久里浜 華表:中国の神社にある石柱。 准南子:中国、漢の書物。 はいろう 牌楼:又は、ぱいろう。中国風の門。忍性:鎌倉時代の僧侶 燈 寵 献燈供養は、かっては神仏の広前に修せられたが、近代になって神前 に行われた例が多い。横須賀市域でも仏前の献燈はほとんど無い。平安 時代の半ばころ、平安貴族間に流行した百万燈供養などと称した儀礼が 簡略されたかたちで、神仏前に石造また金銅・鉄造の燈龍を献納建立す る風俗が起こったらしい。はじめ奈良・平安の市域を中心に流行したが 次第に地方に波及して、中世の建立銘を持ったものが数多く現存する。 しかし東国へ波及したのは西国よりもかなりおくれており、現存する例 もすくなく、ことに相州地域では、鎌倉瑞泉寺に文明 17 年銘の竿石があ り、藤沢村岡宮前御霊社に中世末期に擬定される一基が現存する程度で ある。 長浦常光寺の燈寵 西叶神社の燈寵 天保4年(1833)西浦賀 横須賀市域に現存するものは、多く神社広前に一対として造立され、 その全部が江戸期になってからである。そのなかでもっとも顕著な献燈 えいそん は、享和3年(1803)4 月、三浦氏の裔孫源前次が大矢部地区の満昌寺、 薬王寺、清雲寺、岩戸満願寺など先霊の宝前に一対ずつ建立したことで ある。長浦常光寺の一基は花岡岩製、様式は春日型で総高 148 cm、基礎 以上宝珠まで完存、南北朝時代若しくは室町時代初頭の型式と擬定され るが、その手法・石質ともに西国風である。 長井鈴木氏庭内のキリシタン燈龍と称される一基は、この地域では三 浦市の一基とともに異様な存在である。花岡岩製、火袋、笠部を欠き、 総高 79cm。三河辺からの移入品であろう。 西浦賀の西叶神社の石段上り口左右に青銅製燈龍がある。燈身は総高 258cm、様式は春日型の類型で、天保4年(1833)江戸鋳物師太田磯次郎 作、新地町福本、江戸屋、亀屋、鶴屋、玉泉屋の奉納。世話人は和泉屋 紋三郎、定吉とあり、青銅製献燈中の逸品である。 伝キリシタン燈籠 満昌寺廟所の燈籠 長井鈴木邸(江戸) 享和3年(1803) 石 狗 石狗。神殿の前衛として奉納された「からしし」石像である。このこ とは近世以後、半ば定例ともなっているようで、横須賀市域でもその例 が多い。しかも明治以後の奉納が際だって多い。 わが国には仏教の伝来にともなって、はやく四天王信仰が伝わった。 聖徳太子が難波に荒陵寺(後の四天王寺)を建立したと伝えられ、奈良時 代には国分僧寺を四天王護国之寺と称したのもその思想の表現である。 仏教の聖地の四方四門を守護する、これが四天王信仰の発現であるが、 やがて二王尊とする金剛力士に南門を守護させることになった。神苑、 神殿前の石狗は、仏刹の二王尊思想の変形である。 神殿における石狗の信仰が何時に発生したかは明確でないが、中国で 春日神社神輿庫前の石狗 (年銘欠) 三春町 は宋代、ことに南宋(1127∼1279)代に牡丹とともに唐獅子図様が流行 した。常陸鹿島神宮には宋国伝来の陶像2躯が国宝美術になっている。 そうした影響があろう、日本でも陶狗像を安置した例がある。 いま横須賀市域では鎮守社と称される神前には、ほとんど例外なしに 石狗が奉納されている。奉納主は氏子のほか個人の奉納も多く、そのな かには戦勝また凱旋記念と銘するものがある。石狗はまた仏寺における 四天王または二王信仰思想につながるものかも知れない。石狗の形相は 類形的ながら、時代により、地域によって表現を異にする。深田台龍本 寺内清正公石狗は、文久元年(1861)沿岸警衛の任にあった肥後藩士62 人の連名があって、幕末資料として重要である。また三春町春日神社神 輿庫前の石狗は体長 47cm、像高 38cm の小像ながら、素朴な表現は他狗 には観られないものがある。 仏刹:寺院、仏閣。 清正公石狗 文久元年(1861)深田台 龍本寺 石 狐 白狐は稲荷神の化身といいならされて、豊宇気毘売神を祀る稲荷祠は 「伊勢屋・稲荷に犬のくそ」とうたわれるまでに、江戸町人の間に信仰 され、したしまれていたので、その前衛的存在としての石狐の献納も、 定めし多数あったであろうが、調査してみると、陶製の小物はあって も、拝すに値いする石狐は案外にすくない。横須賀市内を尋ね歩いても 汐入の子の神社摂社(明治 38 年奉納) 、東浦賀の船守稲荷社(明治 10 年 奉納)、大滝町豊川稲荷(明治 37 年・昭和 34 年奉納)の石狐が眼にとま る程度であった。 子ノ神社摂社の石狐像は3重壇上に据えられ、総高 184cm、像高 48cm、 左右2躯のうち左雌狐は脚前に子狐を置く。 第三基礎前面に「奉納」、 豊川稲荷の石狐 大滝町 右狐第一壇右側面に「岡春吉」 、左狐第一壇左側面に「明治三十八稔九 月吉日岡晴吉」と彫銘がある。 大滝町豊川稲荷の石狐は拝殿床下に置かれる一対像が良い。基壇無く 基台上像高 65cm、総高 73cm。無銘であるが、江戸時代末の作であろう。 右前脚と尾を損しているのが惜しまれる。拝殿前の石狐は昭和の新作で ある。二重基壇共に総高 194 cm、基壇背銘に昭和 34 年 4 月奉納者銘があ る。 東浦賀船守稲荷祠の石狐は、鴨居屋喜三、二見喜七の奉納。石工西岡 中町深三の近代作である。他の一対も昭和 18 年浦賀高橋トミ外5名の信 者による奉納であるが、ともに損傷がひどく、その存在を記録するにと どめる。 子ノ神社の石狐 明治 38 年 汐入 豊川稲荷の旧石狐 大滝町 そう すい 漱 水 かん 盥(手 洗 鉢) 神社・仏閣にはきまったように漱水盥の備えがある。神また仏前に額 ずく前に身口を浄めるためである。もとは神道の禊(みそぎ)に発した こんこう ものが、神仏混淆の歴史の流れのなかに何時しか仏教に感化した習俗と 考えられる。漱水盥の形は多く枕状で、底部を花頭型に内刳りし、浄水 よこ く け い ① 弘誓寺の漱水盥 長井 寛文 13 年(1673) をたたえる池は多く横矩形の内刳りである。その形で横須賀最古のもの には長井弘誓寺の寛文 13 年(1673)銘がある。前側面に立蓮華を半肉彫 りした手法は珍らしい。また横須賀市内の漱水盥は、自然石のままを活 用したり、また池の形を器物や魚形に成形したものが流行した。ことに 長浦地区に多い。長浦の長浦神社漱水盥は大型の鰹(体長 102cm)を彫っ てある。嘉永7年(1854)大黒屋清蔵・長七の奉納で、石工は豆州加納 ひょうけい 村新四郎とある。隣接の吾妻神社のものはやや横長の自然形石に瓢 形 (長さ 126cm)を彫り込み、勝浦恵宝丸と磯村弁天丸とが長浦氏子吉良 兵衛らの協力を得て嘉永7年に(1854)奉納している。 ② 長浦神社の漱水盥 長浦 嘉永7年(1854) また、鴨居御霊神社には嘉永5年(1852)川越藩長崎氏奉納の漱水盥 がある。これは横長の河原石を原形のまま利用したもので、池は扇状に 刳ってある。同社境内に力石2個があるが、これも川越藩士の奉納と思 われる。川越藩は幕命によって幕末の三浦半島海岸防衛にあたったが、 長崎氏はその一人であったであろう。武運長久を祈願して奉納したと推 察される。この地域の寺々に川越藩士、会津藩士の墓が多い事実と併せ 考えるべき資料である。 ③ 御霊神社の漱水盥 鴨居 嘉永5年(1852) 石 せきびょう 廟 せき し 石 廟 はまた石祠とも俗称されている。石廟は主神社の末社また摂桐と して神社正殿の傍らに建立される。したがって、その建立者は関東地方 では氏子中の名によるものが多いが、講社・講中による奉納、名主など の個人信仰のものもあり、それとは別に自邸内に祀る場合もある。 おく がい 石廟は概して基礎・廟身・屋蓋の三部の組立てが石工の工法となって いたらしい。基礎は概ね方形で、時にはその基礎固めとして基台を据え た例もある。廟身は正方形よりも長方形が多い。前面に扉を付け、その 小窓から廟内を拝されるように工夫されてある。屋蓋は切妻造と入母屋 造とで、前屋根に破風や向拝を付けたものもあって、石廟はその時代の 入母屋型石廟 諏訪神社、皇太神宮、須賀神社、走水神社境内 神社建築の模型とも考えられる存在である。 しかし石廟を資料としてとらえるための不便は、その神名、また建立 の年時、建立者名をあきらかにしないものが多いことである。そのため に、折角石廟建立の写真はあっても、その建立者、ひいては集落におけ る信仰の実情を正確にとらえるための資料としては取りあげがたいもの がある。 走水神社奥の院の石廟三祠は、同型同大の切妻型で、構相は一般例よ りは大形である。直接の建立銘は無く、左諏訪神社、中央皇大神宮、右 須賀神社と社名記がある。 緑が丘諏訪大神社境内の伊勢皇大神宮石廟は四つ棟造で、小型ながら 整った石廟である。前階段が付き、高床式である。 のう ま ん じ 石 廟 鴨居能満寺参道添いの石廟は、天保2年(1831) 群 4 月、脇方地区の筆 せつ し 御霊神社の摂祠 佐原 子中が学業上達を祈願奉建した天神廟と推定される。 西浦賀永島邸の後山に祀られる石廟には「明和二乙酉歳」(1765)と彫 四つ棟型の石廟 伊勢皇大神宮 緑ヶ丘諏訪神社 銘がある。切妻型で、総高・基礎ともに 52cm をはかる。 力石・子産石 力石 ちからいし。神社の境内などに置かれた石で、おもに卵形の河 原石である。上面に重量と人名が彫られたものが多い。その石塊を持ち あげた者の記録である。 力石は、もと石に神霊がたかるという思想(丸石信仰)から、その石 を両手で差し上げることによって、神の霊感を知るという石占からおこ っているとされる。それがたび重ねられている間に、本源思想がうしな ① 深浦神社の力石四十五貫 浦郷 われて、後には重量のある石を差しあげるのを競うことの石に転化され た。この競技は時には祭礼時に、また若人の力ためし、力くらべのため の石として常時おこなわれた。そして力量あって差上げた者があれば、 石の重量と人名とを彫りつける慣習があった。 現今では、わずかに神社祭礼の行事としてそれに似た風習が伝えられ るにすぎないが、力石そのものは、なかば信仰所の遺産として残存して いる。それによると、重量 4、50 貫のものも珍らしくないとのことであ るo いま横須賀市域の例で「四十五〆目」が最重量記録である。 ② 東叶神社の力石 浦賀 子産石は秋谷海岸の特産で、新編相模国風土記稿に「此地海浜の岩よ り石を産す。大小あり、子産石と云」とあって、「こたね」の無い者はこ れをいただいて抱きかかえでいれば子宝が授かるききめがあるとして珍 重された。写真の子産石は、秋谷 3290 番地新倉氏の前庭に安置されて、 直径 96cm の最大のものである。 写真(1) 力石 浦郷深浦神社 四十五貫目 石井三治 写真(3) 秋谷の子産石 直径 96cm ③秋谷の子産石 道標(道しるべ) 道標こそは日本人の善意をもっとも単的にあらわした文化遺産といえ るだろう。かつて奥州の王者をほこった藤原秀衡は白河関から平泉中尊 寺金色堂との間に阿弥陀仏像を彫んだ道標を建てた、それを時の人は一町 仏と伝え称したといわれる。また高野山参道には、鎌倉時代、武士たち によって一町ごとに長足五輪塔が建立され、町石塔婆とよばれるが、 これは信仰登山者の心のいこいを兼ねた善意のあらわれである。江戸時 代、庚申供養塔など路傍の石造物には道しるべを示した例が多いが、そ れとは別に、単独な道標も建てられて、主要街道や名所、順礼札所道な どに多く見られる。 横須賀市域の道標石では長井 2577 番地先の正徳元年(1711)がまず眼 あらいくわんをんみち道標 正徳元年(1711) 長井 2577 の辻 たけやま不動道標 安政2年(1855) 野比・大作 につく。地上高 72cm の尖頭角柱型で、正面に「南無大悲観音菩薩為二世 かのと う 安楽也 正徳元 辛 卯天七月十七日 施主教順」とあって、右側面に「右 ハ長井村へ道」左側面に「左ハあらいくわんをんみち」とある。荒井観 音は三浦半島 31 番礼所としてひろく知られた。観音堂入口には別に天和 元年(1681)佐島村福本寛六が建立の道標がある。 武周辺地域には武山観音道標が多い。大概の形式は角柱形の基台の上 に不動尊像を安置している。野比字大作の辻にあるものは総高1m余、 「武山不動尊」 「安政2年(1855)」「此方たけやま道」とある。 ペリー上陸記念碑道標は久里浜5丁目路傍にある。尖頭角柱型、地上 高 106cm、明治 41 年(1908)造立。 「COMMODORE PERRY'S MONU- MENT」として左手先き指図がある。 汐入・港町道標。平頭角柱型、前面と左側面に「是ヨリ汐入町」「是 ヨリ港町」とある。明治初期の建立である。 ペルリ上陸記念碑道標 明治 41 年 久里浜5丁目路傍 汐入・港町道標 明治初年 汐入 安針塚道標 ウィリアム・アダムス。イギリス人、日本称名三浦按針。その墓は逸 見塚山公園頂上にある。按針はオランダ船リーフデ号船員で、その他の 船員とともに豊後に漂着し、日本滞留を認められ、やがて江戸幕府の外 交顧問格として通商関係にあたらされたが、元和6年(1620) 5 月 16 日 まい ばか 長崎県平戸で病没したという。その詣り墓ともみられるものが塚山にあ るのは、逸見の地は浦賀港に近く、また江戸との海上航路に至便なこと を考慮してここに居留させたという由来にもとづく。按針の墓碑は近世 型宝篋印塔で、地上総高 113cm、塔身銘は「元和六年四月十四日、寿量 満院現瑞居士」と判読された。それとならぶ同型の宝篋印塔は、塔身に 「華王院妙満比丘尼位、寛永十一甲戌七月十六日」と判読される。け だし夫人の墓碑であろう。 「ウィリアム・アダムス夫婦墳墓在於塚山絶頂」 「明治 43 年5月神奈 す ウィリアム・アダムスの墓碑 明治8年(1875)ブラック撮影 安針塚山道標(.2) 大正 10 年(1921)逸見入口 安針塚山道標(1) 大正 10 年(1921)横須賀駅入口 安針塚山道標(3) 大正 10 年(1921)公園入口 ふ こうへい あいはかりて 川県知事周布公平」の道標の背銘に、さらに「明治三十八年有志者胥 謀 欲修理墳墓、茲工竣因建此標石」と修復銘を伝えている。墓碑所に到る に三道があり、それぞれ道標が立っている安山岩質の平頭角柱型で地上 高さ約 60cm、前側面幅 15cm、前面に指手図して「WILLIAM ADAMS' TOMB IM. 」左側面に「大正十年二月十五日」と建立年時を陰刻し、 右辺に道程を彫る。道標(1)は現横須賀駅舎入口左前方にあって「安針塚 山へ約十五町」(2)は逸見口に在って「安針塚山へ約十一町」(3)は公園入 口にあるもの「安針塚山へ約五町」と示されている。 この按針塚墓は 1875 (明治8年)ジョン・レディ・ブラックがその編 著「THE FAR EAST」のなかで海外に広く紹介され、にわかに著名に なった横須賀石造文化財である。 芭 蕉 句 碑 しょうふう 芭蕉句碑は、市内にあるものとして4基知られている。いずれも蕉 風 けいぼ を敬慕するその地域の俳人たちが建立したもので、建立者の志向によっ て材石、形態ともにさまざまである。 そのなかで荒井観音堂境内のものが最も古く、三浦観音第 31 番札所地 あ ま こ え であることもあって早く知られた。高さ 130cm、句は「海士の屋は小海 び 老にまじるいとどかな 芭蕉」とあり、寛政5年(1793)呉雪・芝休・ 越山・攸雁・素秋・神昼・及石の協力である。 建立者の筆頭呉雪は鈴木氏、この地方では俳人として知られ、文政7 年(1824) 63 歳で没した。呉雪の家系は今も同地に健在である。いま在 地の前庭の一隅に芭蕉句碑がある。用材は火成岩、無雑作な長方形で、 総高 85cm、キリシタン灯龍の脚部と並べ建てられてある。 長井の芭蕉句碑 寛政5年(1793)観音堂 東叶神社の芭蕉句碑 天保 14 年(1843)東浦賀 かな 「草色々おのおの花の手から哉 はせを」とあり、筆蹟は呉雪とみら れている。 東浦賀東叶神社境内の句碑は偏平がかった自然石で、地上高 115 cm、 天保 14 年(1843)福井貞斉の建立に関る。 に きにょきと 「丹よ起 々 と帆ばし良寒き入江哉」とある。貞斉は陸前桃生郡鹿入村 出身といわれ、明治3年(1870)70 歳で没した。 岩戸満願寺の句碑は、後山三浦氏霊堂の登り口に建つ。基礎上の高さ まず 150cm、表面に「先たのむ椎の木もあり夏木立 はせを」とあり、慶応2 たくきゅう 年(1866) 3 月建立。建立者は山崎露暁・山崎乙園・石渡琢 皀 である。 4基ともどもに地域性と建立者の好みに応じて句が選ばれている。こ れらが導因となって、やがて汐入長源寺の長林・田浦長善寺の明仙・西 叶神社の桃里・東浦賀乗誓寺貞妙尼等の句碑建立にはずみをつけ、また 鈴木邸の芭蕉句碑 満願寺の芭蕉句碑 長井・荒崎 慶応2年(1866) 地域俳壇も息吹き続けることにもなったわけである。 いとど:こおろぎ 七人の弟子:呉雪、芝休、越山、頭雁、神昼、及石、素萩 岩戸 横須賀市域初期の石塔 五輪塔というのは、もと地・水・火・風・空輪とよばれる五形五個の 石を密教の教理にしたがって、順次積み重ねて出来た塔形に名づけた名 称で、形の上では三重塔、五重塔など重積塔の一種である。五輪本来の 形は方(四角)・円・三角・半月形・月輪(卵)形で、この五形は宇宙 のあらゆる形の原形を成すものであるとの原理に立っている。他方、仏 教には地・水・火・風・空を五大と称し、宇宙万物の元素であるとの哲 学がある。この五輪と五大とを融合具象化したもの、これが五輪塔であ るとするのが日本密教の哲学的解釈である。これをもって日本密教は五 輪塔を法身大日如来、また大日如来三摩耶形(さんまやぎょう)とする 理論を組みたてた。三摩耶形は諸仏菩薩の本願を物具で具体的に標示し た物器で、地蔵菩薩は錫杖、不動明王は剣、薬師如来は薬壷をもって表 現するというものである。日本密教で五輪塔を大事視し、その功徳を高 く評価する信仰はそこに根ざしている。また、わが国で流行した卒塔婆 伝巴御前の墓 年銘欠 旧佐原 832 のなかで、五輪塔は変形されることなく、またその塔身に五輪種子・五 大文字以外に銘文を刻みつけるなどの所作をはばかった基本的な思想は そこにあったのである。 日本の五輪塔は、わが国特殊の発達形式らしい。その塔形は平安時代 末期ころに真言密教によって発現したが、真言僧興教大師が出て『五輪 九字明秘密釈』を著わしてその功徳を説いてから、にわかに普及し出し たようである。現存する五輪石塔では大分県中尾の嘉応2年(1170)銘 のものが最も古いとされている。 神奈川県下では箱根山の永仁3年(1295)銘をもつものを最古と仮定 している。横須賀市内では、まず初めに凝灰岩製のものが出現したと説 かれてきた。しかし佐原や岩戸に伝えられる巴御前の墓とか、森崎妙覚 寺墓地や大矢部薬王寺の三浦党遺跡に見られるように、未だ五輪塔とし ての一定の塔形がそなわらず、方形や円形の石を積み重ねたという態で あって、それをもって三浦半島地域の五輪塔の原初形とするのは無理で 伝巴御前の墓 妙覚寺墓地の石碑 年銘欠 年銘 旧岩戸 214 地先 欠 森崎 ある。謂うならば、鎌倉時代初頭には、いまだ五輪用材には地域産のも のを利用し加工する、石塔を製作する石工が居なかったと考えられる。 中世期の五輪塔 東国の旧跡を訪ねると、半ばきまっているかのように、寺院境内の片 こ し みち つじ 隅や集落の古祠に路辻に、石塔の断片がころがっている。いずれも中世 期の形式をそなえた五輪塔や宝篋印塔の残骸である。 五輪塔も宝篋印塔も、ともに4個ないし5個の石塊の組合わせである ために、僅かの地動でも崩壊しやすく、ことに五輪小塔は、完全に原態 のままを保持しているものは稀である。しかも、五輪塔はその本質から 建立銘をほどこすことがはばかられたために、歴史家によって資料とし 佐島五輪塔 永享9年・永享8年・応永4年 てほとんど活用されることがないままに、放置されてあるのが実状であ 佐島 る。数十基の集積塔、数十個体が無縁塔として積みかさねられた例もす くなくない。 横須賀市域でいえば、鴨居脇方、佐島観音鼻、平作チョウ塚などはそ 脇方五輪塔 無年銘 鴨居・脇方 の顕著な例である。いずれも道路開発のためにヤグラが崩されて、窟中 に奉納されてあったものが適当な置き場を得られずにある惨状である。 およそこの種の石造物が原形を崩され、かつ無銘であっては、現在の歴 史考古学では措置の仕用なく、路傍の石塊に等しい観方以外にない。 鴨居脇方塔は、同所のやぐら群が歩道工事で崩壊した際に掘り出され たものであるが、幸いにも杉山ヤグラに安置されてあった一基だけが整 形だったので保存されている。五輪四面に五輪種子4態が彫られ、造立 銘は無いが鎌倉時代末期に擬定される形式である。また、五輪塔にまじ って応安2年(1369)・永和2年(1376)と判読される有銘板碑が出土 している。佐島塔は同所の観音鼻ヤグラから出土したものである。 写真右から順次応永4年(1397)・永享8年(1436)・永享9年(1437)の 銘があり、ことに永享8年塔は「釈明心房」と浄土真宗系の法名があっ て、集積塔ながら貴重な資料である。 金谷大明寺塔中には慶長第 13 年(1608)銘のものがあり、中世最末期 塔として、それなりの価値をもっている。 大明寺 五輪塔 慶長13年(1608)金谷 清雲寺 五輪塔 無年銘 大矢部 一石五輪塔・長足五輪塔 一石五輪塔は地輪から風・空輪まで一石で造り出したもの。長足五輪 塔は地輪だけ長く造りあげた変形五輪塔である。 一石五輪塔は横須賀市域では、五輪塔発現の初めころと、近世初めこ ろに多く見られる。 五輪塔が造り出された当初のものは、現存する例がすくないので確実 にはいえないが、材石はおもに凝灰岩性の地域産を使用し、形態的には かならずしも正確な五輪ではなく、四輪また三輪のものが多い。それは 建立の施主も、製作にあたる石工も、いまだ五輪塔の整形を知らず、ま た五輪の真義をわきまえなかったからであろう。森崎妙覚寺墓地で見た 二基は、四輪造りで、そのうち三輪は方形で、他の円形の一輪は笠形に 加工されていた。これはこの当時、風空輪を一石に仕上げる工法があっ たので、単にその外形を模倣した表現であったろう。そして前面幅と側 き 妙覚寺の一石五輪塔 年銘欠 森崎 満宗寺の長足五輪塔 慶安 2 年(1649)・寛永 12 年 (1635) 太田和 自得寺の長足五輪塔 寛永2年(1625)追浜 浄蓮寺の長足観音 寛永 12 年(1635) 三春町 く 面幅とが数 cm もちがっているのは、材石の切出し規矩によるのであろう か。他の一基も四輪仕立であった。この一基は地水輪は角形に、上の二 輪は笠形と空輪だけの仕立であった。しかしこの一基は前面と側面幅は ひとしかった。総じて市内に残存する凝灰岩製の一石五輪塔は、丈量を 異にするほかは、この二例にあい似た加工である。 長足五輪塔も一石造りが多い。材石は良質の火成岩を使用し、全高1 m前後。初めこの形式は五輪塔身に造立銘文を彫りつけるのを避けるた めに、地輪を伸ばす格好に仕立て、その上部を地輪形に画して残し、そ の下方に造立銘を彫りつけたが、近世初頭に起こった長足五輪塔は、長 足面一杯を造立銘彫りつけに利用している。ここにしめした浄蓮寺塔は 五輪に妙法蓮華経の五字を彫りつけた寛永 12 年(1635)の建立。自得寺 塔は寛永2年(1625)建立で、五輪に「維海妙清霊」と彫る。満宗寺の 二基はともに各輪に4態の五輪種子を彫りつけているが、地輪と水輪の 間に建立銘を彫り添える目的で、ことさらに長足をさしはさんだ格好で ある。いずれも時代性の反映であろう。 五重層塔・長身塔婆 重層塔・五重層塔は衣笠地区金谷大明寺の内庭にある。重層塔は花圈 岩製で基礎反花とも高 18cm、前面幅 27.3cm、塔身高 14cm、前面幅 19.2 cm。五重層塔は総高 123 cm、各層軒前面幅 23cm、20.3cm、21m、18.5cm 12.7cm。相輪は伏鉢以上宝珠まで総高 29cm。そのうち重層軒幅が不整な のは他から移動して積重ねの工程中に2、3層の順位を誤ったのだと考 えられる。その他は各部ともに異動はない。建立銘を欠くが、反花の様 態、各層の軒の形式などを総体的にみて室町後期ころの形式と推察され た。 長身塔は久比里宗円寺の墓域に在る。火成岩製、尖頭角柱型で、 地上高 208 m、前面幅下部 33cm、上部 26cm、側面下部幅 3c5m、上部 29 cm で、ほぼ四角柱である。基礎部に請花を陽刻し、その上方に名号以下 の建立趣旨銘を彫りつけている。 この塔の碑面の刻銘は手がこんでいる。最上の種子。ηは梵字摩多 12 字中の第3字 の略で、やはりi(ィ)と発音し、経文の始めに書 くと説かれるが、梵字そのものは六地蔵中の金剛願地蔵、また宝性地 蔵、破勝地蔵の種子に当てられるが、この供養塔ではそのような意味は ない。その下に「南無阿弥陀仏 奉造山王廿一社、為現当二世也 講人 数廿九人乃至法界平等利益 干 延宝元葵丑天十月廿四日 敬白」とあ る。銘文の意味は「碑を立て、六字の名号をかかげて山王廿一社を奉祠 した。それは、この供養塔を建立する講中廿九人の現在・未来二世の安 楽と併わせて全世界の人びとが平等にその功徳に浴することができると の念願からである。」というのである。或る人はこの石塔婆を以て一種の 庚申塔と解し、しかもその講中は、比叡山に奉祀する山王廿一社をもっ て庚申待の本尊と奉祀していた講中であるとしているけれども、この銘 五重層塔 大明寺 衣笠 山王廿一社供養等 延宝元年(1673) 久比里宗円寺 文中にはそうした信仰表現はない。 宝 篋 印 塔 横須賀市内には宝篋印塔はすくない。何故だろうか。もっとも、東国 における仏教文化財の本源地とも考えられる鎌倉でも、その数は、五輪 塔の数にくらべて1%にも達しないほどの少数なのである。したがって 横須賀の宝篋印塔文化は、鎌倉のその文化の余波とも考えられるから当 然であるかも知れない。残欠また断片となっているものを考慮してもそ の数はすくない。全体として、やや完全形は 10 指にも達しない。すなわ ち仏教信奉者の間に受容されなかったのである。その理由としては、形 態が華麗であるだけに建立費がかさんだこと、信仰範囲が狭かったこ と、この二点が考えられる。 もと宝篋印塔は中国の呉越王銭弘淑が顕徳2年(955)かつてインド・ 伝三浦廟所の宝篋印塔 満昌寺 大矢部 マガタ国阿育法が八万四千塔を造って全国に配して仏教流布の端緒にし たとの故事にならい、この小塔を鋳造して諸国に配流したと伝えて、日 こ 本にも伝蔵されている。然しそれは小形で、宝随印陀羅尼を籠めるため の造形であった。多量の小塔を同時供養したという点では、平安時代中 期ごろに、宮廷貴族の間で盛行した万塔供養にも影響したであろうけれ ども、大型石造宝篋印塔の源流とはならなかった。日本の石造宝篋印塔 うんこう とは同形異質である。わが国の先学者は、中国山西省の雲崗洞窟の彫刻 に宝篋印塔様のものが見られるところから、それに本源をもとめようと うんこう したが、それと並行して、雲崗洞窟内の宝篋印塔様彫刻の本源をさぐる までには考えがおよばなかった。 日本の石造宝篋印塔は現存遺品の銘文から観ると、京都市修学院の宝 治2年(1248)塔が最も古く、神奈川県内では箱根山の多田満仲墓と称 される永仁4年(1296)塔が最古である。 横須賀に残存する宝篋印塔のなかでやや完全にちかいものとしては大 森崎吉田谷戸の宝箇印塔と笠石のホゾ 矢部満昌寺の伝三浦義明廟所にあり、銘文では田浦長善寺の応永十二年 (1405)、大矢部清雲寺の永享六年(1434)がある。また森崎吉田谷戸に は相輪のホゾが四角形の異例があることにも注意したい。 近世型宝篋印塔 近世初頭から江戸時代中期初めころの間に流行した一種の宝篋印塔で ある。およそ日本の石造宝篋印塔は一種の重積塔で、その構造は下から 基礎・塔身・笠・相輪と積み重ねるが、近世型が中世期のものともっと もちがった特徴は、相輪部が極端に伸びあがったところにある。しかも 年暦を経るにしたがっていっそう伸びが進展している。このような様式 が発生したことについては、いまだ解明されていないが、時期的には、 中世期型式のものは慶長・寛永期(1596-1643)を下限としてほとんど 絶えている。その時期に近世型が発現したことはたしかである。また近 世型宝篋印塔の発展状態を分布図上から観察すると、東国では関東南部 において隆盛している。神奈川県下では湘南地帯において顕著な傾向が 福本寺塔 慶長6年(1601) 佐島 伝福寺塔 寛永2年(1625) 久里浜 見られ、そのなかでも三浦半島から房総地方に濃厚な傾向が観られる。 横須賀市域の近世型宝篋印塔は相当数現存するが、そのなかで佐島福 本寺の慶長6年(1601)塔などが上限に位置している。総高 235 cm、反 花付の基壇・基礎をふまえて、相輪もいまだ極端な伸びはない。基礎前 面に「帰真浄誉高信位 慶長六年辛丑暦九月七日」とある。 ついで久里浜伝福寺の寛永2年(1625)塔は形式的には福本寺の流れ を忠実にうけているが、異なった点としては基礎から相輪までに地水火 風空と五大文字を配したことであろう。総高約 180cm。基礎に「干時寛 永二乙丑年九月十三日」と銘がある。 西浦賀常福寺の気仙屋墓地の明和6年(1769)塔は極端に変様してい る。恐らくこの型式最後のものであろう。地上総高 230cm 余。建立銘は 「明和六己丑天九月如意珠日」とある。 東福寺塔 寛文8年(1668) 長浦 常福寺塔 明和6年(1769) 西浦賀 宝 塔 宝塔。石造物として表現された目本の宝塔は、総態としては重積塔の 一種である。宝篋印塔との顕著な相違点は、笠部に隅突起が無いこと、 塔身が円形で前面に扉型がついていることである。 りょう じゅせん 宝塔が出現した由来は法華経見宝塔品に、釈迦如来が 霊 鷲山で法華経 を説いた時、その会座に地中から宝塔が忽然と湧き出し、塔中から多宝 如来が大音声を発して釈迦如来を讃嘆し、釈迦如来の説法が真実である ことを証明すると誓願して、釈迦を塔中に請じて併座した旨を説いたと ころに発している。法華経は日本にいち早く採り入れられた仏典で、す ほっけ ぎしょ でに7世紀初頭に聖徳太子は法華義疏を著わし、奈良時代には法華滅 こくぶん に じ 罪の寺として国分尼寺が建てられ、奈良時代前期には大和長谷寺の銅板 法華説相図のなかに宝塔が三重塔の形で現わされている。然し現在見ら 金谷大明寺の中世期石塔群 (廓内左側中央に宝塔3基、奥方に小形宝塔1基があり) れるような形の宝塔が出現したのは平安時代後期になってからである。 滋賀県大津長安寺宝塔は名高いが、平安時代後期のものと擬定され、東 国では栃木県東根の元久元年(1204)銘の牛塔が最古のものである。神 奈川県下に宝塔が出現したのは鎌倉時代になってからで、その中期ころ から室町時代にかけて多く造られている。 横須賀市域の宝塔は、現存する建立銘に見る限りでは、初め法華塔と して建てられている。しかも室町時代後半期に入ってからである。平作 チョウ塚(逆修塔供養)同妙蔵寺墓地(文明4年・寛永6年)金谷大明 寺(正長2年・大永7年・宝徳2年)追浜法福寺塔など、主として日蓮 宗寺院に多く残っている。 長井長徳寺には、江戸時代明和7年(1770)に建てられた江戸時代宝 塔がある。 ※逆修(ぎゃくしゅう):生前にあらかじめ死後の菩提(ぼだい)を祈って 大明寺の宝塔 宝徳2年(1450)金谷 長徳寺の宝塔 明和7年(1770)長井 仏事を修することです。生きているうちに四十九日の仏事を営めば、死後 に行うより7倍の功徳(くどく)があるといわれ、平安中期の貴族社会に始 まり、やがて民間に広く行われました。
© Copyright 2024 ExpyDoc