墨型から検出した膠の動物原料に関する考察

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Title
墨型から検出した膠の動物原料に関する考察
Author(s)
六車, 美保
Citation
六車美保:人間文化研究科年報(奈良女子大学大学院人間文化研究
科), 第30号, pp. 17-23
Issue Date
2015-03-31
Description
URL
http://hdl.handle.net/10935/3964
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http://nwudir.lib.nara-w.ac.jp/dspace
墨型から検出した膠の動物原料に関する考察
六 車 美 保*
はじめに
墨は煤と膠を主原料とし、少量の香料を加えて造られる。自然科学的手法を用いた墨に関する
研究は、煤に関するものが多い1。膠に関する研究は、保存修復の立場からの粘度等に関する研
究は進んでいるが2、膠を動物原料の視点から、通史的に研究されているものは少ない。筆者は
これまで質量分析法を用いて墨型に付着した墨から膠を検出し、その膠の原料となった動物種は
スイギュウである可能性が高いことを示した3。
墨に用いられた膠の原料動物を明らかにすることにより、従来文献史料や伝承に頼らざるを得
なかった製墨法の一端や、当時の生産や流通体制などを知ることができる。そのためには、時代
毎に、墨に供された膠の原料動物が、どのように生産・流通し、そして使われていたのかを把握
することが急務である。本稿では、そして検出した膠の動物原料について、当時の製墨に関する
歴史的背景を含めて考察していきたい。
1.製墨に用いられる膠について
日本では610年に、高句麗の僧曇徴によって製墨法が伝わり、それと同時に膠の製法が伝えら
れたと考えられている。膠は、接着用、薬用と用途が幅広く、古代から現代に至るまで、用途に
よって適した動物種について研究した資料も存在する。しかし、日本において、墨に使われる膠
の動物種については、江戸時代中期の製墨家であり、奈良の老舗墨屋である古梅園六代当主であ
る松井元泰(1689-1743)の出現を待たなければならない。 松井元泰は、幕府に許可を願い出て長崎に赴き、来舶清人に対して墨に関する問答を行った記
録が残っている4。問答の中で元泰は「膠は墨製の専要にして、精粗利害の差別にかゝる。」と述
べているように、製墨にとって膠は重要なものであったことがうかがえる。また、牛膠、犀皮膠、
鹿角膠、魚胞膠、鮫皮膠のうち、どれを墨造りに用いるのか、と問うと、
「膠は至極清く明にして、
濁り無之、黄牛膠を用ひ候。
(中略)膠の吟味第一にて候。」との解答を来舶清人から得ている5。
日本に於いても清国に於いても、墨に用いる膠の原料となる動物種の選択について、関心の高さ
がうかがえる唯一の資料であるといえる。
2.墨型とその年代について
墨は古代中国で発明され、現代のような固形墨は後漢時代に発明されている6。その墨を成形
するときに用いる道具が墨型である。固形の墨は、墨型と呼ばれる木型を用いて成形される(図
* 比較文化学専攻 文化史論講座 博士後期課程
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1)。墨型は、胴・ちきり・上蓋・下蓋で一組になり、蓋や胴の部分には、文字や文様などが彫
られることが多い。意匠には、工夫がなされ、文字や絵などが彫られる。墨に用いた原料や年号
を彫る場合もある。
図1 墨型(三枚型) 松井19837
図2 墨型
奈良女子大学異分野融
合プロジェクト(研究機
関: 平 成21 ~ 25年、 研
究 代 表: 宮 路 淳 子 ) は
100点の墨型資料を所蔵
し、蓋の部分に「全購販
連」と陰刻された墨型を
2点含む(図2)。まず、
「全購販連」を手掛かり
に墨型が使用された時代
を考察したい。
「全購販連」とは、現
在の農協の前身である
「全国購買販売組織」の
略称である。1940年、産
業組合の中央事業団体で
あった全購連、全販連、
日柑連の三連合の解散と
合併によって誕生したの
図3 全購販連の存続時期9 (下線は筆者加筆)
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が、「全国購買販売組織」
である8。しかしながら、全国購買販売組織は長くは続かず、昭和18年には「全国農業経済会」
と名称が変更される。よって、
「全購販連」の名称が用いられたのは昭和16 年から18 年の約2 年
間であることから(図3)
、使用時期は昭和16 年から18 年にほぼ限定できる。次に、膠の動物
原料について考えてみたい。
3.膠の動物原料について
前述のように、「全購販連」と陰刻された墨型に付着していた墨から検出された膠の動物種は
スイギュウである可能性が極めて高い10。スイギュウは、熱帯・亜熱帯地方のウシ科の哺乳類で
あり、生息域はアジア・アフリカ・ヨーロッパと広い。日本では沖縄を除く地域以外では生息し
ていない(図3)
。つまり、日本では輸入する以外にスイギュウ由来の膠を作る方法はないので
ある。では、膠原料となるスイギュウはどの地域からもたらされたものであろうか。
臼井氏によって紹介されている「輸入及び内地産原料配給表(昭和16年―17年)」11には、ウシ・
ウマ・スイギュウ・ブタが、膠原料の品種としてあがっているその資料の中で膠原料は、「シヤム・
マニラ産原料トシテ水牛ヨリ生ズルモノ」と書かれてある。シャムは現在のタイ、マニラはフィ
リピンの首都であることから、検出したスイギュウはアジアスイギュウである可能性が極めて高
いと言えよう。
図2 アジア地域におけるスイギュウの生息範囲12
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4.考察
全購販連の墨型が製作・使用されていたと考えられる昭和16年から昭和18年にかけて、日本は
どのような社会状況下にあったのであろうか。昭和12年に始まった日中戦争をうけて、軍需産業
以外のものは縮小されることになり、製墨業も例外なくその影響を受けた13。昭和15年11月に日
本筆墨硯生産聯盟が結成、同年10月に大政翼賛会が発会し、戦時経済の運営にあたり、低物価主
義がとられることになった。製墨業に関するものとしては、書道用品の価格の規制と公定価格が
設定されるようになる。昭和16年に開催された日本筆墨硯生産聯盟第一回定時総会では規約の改
正を行い、製品の公定を発表するとともに、原材料の公定に関する資料を集め始めるようになる。
これらの一連の動きを受けて、その墨の原材料である膠を供給する側も、販売価格の適正化や
原料価格の統制を受ける。そして、戦局の悪化に伴い、原料の調達が困難になっていく様子が資
料から伺える14。墨造りにおいて膠の動物種の選択は重要な課題であったが、第二次世界大戦中
には、膠の原料動物にこだわるどころか、膠の調達さえ厳しい状況下にあった。
「全購販連」の
墨型の膠から検出したスイギュウは、そのような社会状況下にあったことも映し出していると言
える。
おわりに
本稿では、昭和初期に使用されたと考えられる墨型から検出したスイギュウ膠は、スイギュウ
の中でもアジアスイギュウである可能性が高いことを示した。日本には大量の水牛の皮を入手で
きるような水牛の生息地は存在しない。よって、全購販連の墨型から検出した膠は、先述した東
南アジア地域から原料を輸入して製造された膠である可能性が高いと考えられる。
今後は、時代毎に膠の原料となった動物種について考察していくことで動物利用について考え
ていきたい。
本稿は2013年に日本文化財科学会で発表した「近代墨型資料より検出した膠の動物種の特定とそ
の歴史的意義」の内容に加筆修正したものである。
謝辞
本稿をなすにあたり、研究に用いた墨型は、
「文化財に含まれる膠の自然科学的分析による古代
文化史および技術史の解明(代表:宮路淳子)
」
『異分野融合による方法的革新を目指した人文・
社会科学研究推進事業平成21年度~平成25年度』所蔵資料を使用させていただきました。また、
墨型に用いられた膠の動物種の同定をして下さった大阪大学の河原一樹先生、奈良女子大学卒業
生の的場美帆氏、
前野梓氏に有益なご助言ご指導をいただきました。末筆ながら感謝いたします。
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註
1)主な研究として、宮坂和雄『墨と色材の知識』木耳社, 1972年/ 仙石正『新・墨談』内田
老鶴圃新社, 1971年 などが挙げられる。
2)楠 京子、加藤 寛、川野邊 渉、早川 典子「修復材料としての膠の物性について文化財保存修
復学会誌 : 古文化財之科学 (51), 1-13, 2006年 文化財保存修復学会 など
3)六車美保、河原一樹、松尾良樹、宮路淳子「近代墨型資料より検出した膠の動物種の特定とそ
の歴史的意義」
『日本文化財科学会第30回大会要旨集』p126-p127,2013年
4)松尾良樹・的場美帆「
『唐人墨製問答之記録』―「古梅園造墨資料」翻刻と解題(2)―」,
古代学第4号、奈良女子大学古代学学術研究センター,2012年
5)前掲註4参照。
6)北京出版社『中国文房四寶全集1墨』図版p2,2007年
7)松井重憲『The 墨』日貿出版社,1983年
8)全国販売農業協同組合連合会『全販連20年史』大日本印刷株式会社,1970年
9)全国農業協同組合1985『全販連史 完結編』p464 より抜粋
10)前掲註3参照。
11) 臼井寿光「戦時統制下の和膠業(2)―組合統制・企業合同・原料と価格の公定―」『部落
解放研究78 号』1991年の中で紹介されている「全国和膠工業組合連合会 昭和16年『和膠工業
の概要』
「和膠適正価格申請附属書類 其ノ壱及弐」」によると、シヤム・マニラから膠原料を輸
入しており、その原料動物としては水牛が多いと書かれている。
原料ノ輸入先及種類別数量
膠原料ハ皮革工業又ハ畜産副成工業ノ存スル所ニハ必ズ其ノ副産物トシテ産出サレ、質ニ依リ皮
屑・床・
獣筋ト名付ケラル
一 支那ニ於テハ中支ヲ第一トシ、南支・北支地方ニ散在スル皮革工場ヨリ産スルモノヲ各主要
地ニ集荷 セラレ積出サル (以下略)
支那産
四〇〇,
〇〇〇貫(斤二五〇〇,
〇〇〇斤/屯 一,五〇〇屯)
二 シヤム・マニラ産原料トシテ水牛ヨリ生ズルモノ多ク支那 ニ比シテ遙カニ品質ハ勝レルモ、
数量ノ点ニ於テ支那産ノ約五分ノ一程度デアル
シヤム・マニラ産 一〇〇,
〇〇〇貫(斤六二五,
〇〇〇斤/屯 三七五屯)
三 印度地方ヨリ輸入スル「ボンシニユウ」
(所謂獣筋)ハ世界ノ代表的畜産副成工業ヨリ産ス
ル重要ナル一資源ナルモ・・・(以下略)
印度産牛骨筋(和膠ニ消費スルモノ)
七六,
〇〇〇貫目(斤四七五,
〇〇〇斤/屯 二八五屯)
(下線部は筆者加筆)
12)北隆館『日本動物図鑑』1956年/玉川大学出版部『玉川百科大辞典』9,1959年/平凡社『動
物大百科』4,1986年/平凡社『世界大百科事典』16,2007年/小原秀雄『レッド・データ・ア
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ニマルズ―インド、インドシナ―』
,2000年 を参考に作図
13) 奈良製墨協同組合 『奈良製墨文化史』
,2000年 p150-p179
14)臼井寿光「戦時統制下の和膠業(2)―組合統制・企業合同・原料と価格の公定―」『部落
解放研究78 号』1991年
引用文献
・安孫子義弘「にかわとゼラチンー産業史と科学技術ー」日本にかわ・ゼラチン工業組合,1987
年
・奈良製墨協同組合 『奈良製墨文化史』
,2000年
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Study of Animal Species Utilized in Animal Glue
Remaining in Wooden Molds Used to Make Ink Sticks
MUGURUMA Miho
This study aims at clarifying the types of animals used for manufacturing glue.
Ink sticks derive from soot, animal glue, and a bit of essence. Although studies of the
physical properties of animal glue are progressing, those of the raw material are not.
In this research I focus on the wooden molds used to make ink sticks. The wooden
molds included in this study were only used from 1941 to 1943, and I detected the use of
buffalo glue employing the process of mass spectrometry. While buffalo are not native to Japan,
they have been living in Southeast Asia. Therefore, the raw materials used for the animal glue
remained in the wooden molds and were likely produced in Southeast Asia during that time.
Many people believe that the raw animal material used for glue for ink sticks is
bovine. However, that is not always the case, and we must consider imports from outside of
Japan.
Keywords : ink stick, animal glue, Asia, wooden molds used to make ink sticks
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